『ゴベリンドン』上映会
おぼんろ
Untitled(東京都)
2015/11/13 (金) ~ 2015/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ゴベリンドン」上映会&トークショー
昨夜、上野のUntitledで行われた劇団おぼんろ「ゴベリンドン」上映会&トークショーに行って参りました。
おぼんろの舞台を観たのは、今年6月に吉祥寺シアターで上演されたこの舞台、「ゴベリンドン」が初めて。
あの日観た胸を鷲掴みにされた、哀しくて切なくて、温かくて美しい物語の世界、温度、皮膚感覚、色彩(いろ)、情景、音、全てが鮮やかに、耳に目に膚に胸に甦り、夜のように暗いゴベリンドンの沼のある森に、心と意識が迷い込む。
出演者さんたちの舞台の裏話や解説が面白く、会場は温かな笑いに包まれながらも、舞台を観て胸に迫り、涙が溢れた場面ではやはり、涙が溢れた。
改めて、いい舞台だなと思った。
おぼんろの紡ぐ物語が大好きだ。
今年観た中で一番好きな劇団であり、一番好きな舞台が「ゴベリンドン」。
舞台を観ている間中、ずっと言葉と物語の文章の欠片が、私の中に星のように降り続けていたことを思い出す。
この舞台がきっかけで、専門学校を卒業してから遠ざかってしまっていた物語を書きたくなった。
終演後、出演者の方たちとゆっくりお話しができたのもとても、嬉しく楽しかった。
この「ゴベリンドン」のDVD映像が撮影されたのが、私の観に行った回で、見覚えのある姿だと思ったら、自分の姿が映っていたのも嬉しいおまけ。
映像の質も高く、舞台の臨場感を感じる事が出来た。
楽しく、切なく、美しい時間を過ごせた夜でした。
文:麻美 雪
「近代能楽集」より『邯鄲』
もんもちプロジェクト
荻窪小劇場(東京都)
2015/10/30 (金) ~ 2015/11/03 (火)公演終了
満足度★★★★★
もんもちながら5.0:「邯鄲」
昨夜、笠川奈美さんの出演されているもんもちプロジェクト公演、もんもちながら5.0「邯鄲」を観て参りました。
「邯鄲」は、三島由紀夫の「近代能楽集」の中に収められている、一篇の短い戯曲ですが、三島由紀夫の原作の舞台を観るのは今回が初めてなので、観る前に三島由紀夫の近代能楽集の「邯鄲」を読んでから観に行きました。
読みながら、芥川龍之介の「杜子春」が頭に過り、確か「杜子春」は、中国の故事を下敷きに書かれていたんではと、高校の選択科目で取っていた現国の授業で読み解いた時の記憶が蘇り、「邯鄲の夢」という故事があったのを思い出した。
「邯鄲の夢」とは、 老人が中国の邯鄲という所の旅舎で休んでいたところ、みすぼらしい身なりの青年が、老人の所にやって来て、今の貧しく不遇な人生と状況を嘆いているうちに眠くなり、老人から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、眠る前に栗を蒸していたが、その栗さえもまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという話で、人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえでもある。
三島の戯曲は、その夢の中のシーンを独特の筆致で幻想的に描かれている。読みながら、頭の中に、まざまざと映像が立ち上がっていてのたけれど、もんもちの舞台が始まった途端に、その映像とピタリと重なる世界が目の前に表れて驚いた。
「近代能楽集」は、葵上や他にも有名な能楽を三島が書いたその時代現代語の言葉遣いで書かれているので、だいぶ砕けて書かれているような印象を受けたのだが、実際に、登場人物たちその者として舞台の上で佇み、台詞を唇から放った時、三島の言葉の美しさを感じた。
夢の中のシーンの、笠川奈美さん、細谷彩佳さんたちダンサーの人たちの踊りが、美しく妖しく幻想的な世界を舞台の上に広げて、「邯鄲の夢」の中に自分も吸い込まれてしまったような感覚へと陥って行く。
生きているのに、全てを悟りすませてしまったように、生きようとする覇気も熱もなく、ただ死んでいるように生きていた主人公が、夢の中で、自分の意思に反して命を費えさせようとする者に迫られた時、最後に「死にたくない!生きたいんだ!」と叫んだ時、死んでいるように生きていた主人公は、やっと夢から覚め、自分の人生の時計がやっと動き始めたのではないだろうか。
その、変化を越前屋由隆さんが、とても緻密で繊細に目の前に描き出していた。
「邯鄲」は、栄枯盛衰の夢を見たのではなく、その夢から覚め、現実を生きることを選び、自分の人生の時間を動かし始めることに気づかさせるための壮大な夢なのではないかと思った。
この世とあの世。現世と夢の世界。美と醜。欲と無欲。相反する2つの世界を描きつつ、実はそれは全て表裏一体、背中合わせ。清濁併せ飲むでないけれど、命ある限り、2つを完全に切り離すことは出来ない。
そこにあるのは、どちらに重心をかけ、表にして生きるのかということ。
欲にまみれ、人を踏みつけて生きるのか、その逆を生きるのか。どちらを選択するかは自分次第。
夢の世界で生きるのか、自分の選び取った現世で生きるのか。全てが手に入る夢の世界で、死んだように生きるのか、栄枯盛衰は夢に世界のことと知り、自分で選び取った人生を生き切って死ぬのか。
「邯鄲」は、美しい言葉と幻想的な夢の世界で誘い、突きつけられたような素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪
愛しのダンスマスター
タンバリンステージ
新宿村LIVE(東京都)
2015/10/21 (水) ~ 2015/10/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
「愛しのダンスマスター」
新宿は新宿LIVE村での舞台、松本稽古さん、大高雄一郎さん、石川正人さんの出演されているタンバリンステージ×LIVEDogプロデュース:「愛しのダンスマスター」。
この舞台は、心と体で感じる舞台。
年々有名大学への進学率が下がる一方の進学校、秀学館高校。勉学以外に関することを徹底的に排除し、昔通りの進学校にしようと躍起になる理事長。
クラス全員が大学に合格しなければ、芸能クラスを無くすと言われた学長が、芸能クラス存続のために臨時講師として迎えたのは、元予備校の超人気講師胡桃沢。その胡桃沢が取った秘策とは....。
懐かしい。かつての青春ドラマにあった、乗っ取りを企む悪役の理事長とそれに対決する熱血教師の青春ドラマの構図だけれど、この舞台では、冷静にして生徒への熱い思いを持っているのは学長で、担任は、頼りない若い女性教師。
理屈とかメッセージだとかそんな事は、考えずに、目の前で繰り広げられる、キラキラとして、はちゃめちゃで明るく、楽しく、痛快な青春を心と体で感じるのがいい。
この舞台、大高さんや長いブログのお付き合いのブロ友さらみさんの話に、よく出てくる舞台だったので、実はずっと観たいと思っていた舞台。
ダンスで綴る青春ドラマ。兎に角、出演されている役者さんたちのダンスがキレが良くて、格好いい❗
松本稽古さんの踊りは、舞台で何回も観ているのですが、この日も舞台の上でキラキラとしてキレがあって、本当に素敵で、こういう女子高生いるなぁという女子高生そのものでした。
大高雄一郎さんの蒲郡先生は、とにかく、可笑しい。舞台の始めでは、嫌な教師に見えて、最後はああ、そう言うことかと解ってスカッとする。
阿久津先生の澤田拓郎さんを観て、去年「天元突破グレラガン」に出てらたしかたじゃないかと思っていたら、やはり、ジュリーという役をされていた方で、そのキャラクターが、印象に残っている役者さんだったのですが、今回の阿久津先生も出てくる度に会場の笑いを誘う印象に残る先生。
石川正人さんは、去年の「天満月のネコ」「擬人カレシ」とこの「愛しのダンスマスター」全て、印象が違う。最初の冷たい笹井生徒会長からラストは違う印象へと緩やかに変化して行く姿を繊細に見せていて素敵でした。
「天満月のネコ」「擬人カレシ」に続いて、この日も舞台の締めの挨拶は石川さん。ご本人は、「上手く話せなくて」とおっしゃっていましたが、いつも誠実で温かく心の籠った素敵な挨拶をする方だなと思っているのですが、この日も、短い中にその事を感じる素敵な挨拶に、じわんと心が温かくなる。
笑いっぱなしで、キラキラした痛快なスクールコメディの理屈抜きに面白くて、楽しい舞台でした。
文:麻美 雪
ドラマ・ドクター
ティーファクトリー
吉祥寺シアター(東京都)
2015/10/23 (金) ~ 2015/11/02 (月)公演終了
満足度★★★★★
T-Factory:「ドラマ・ドクター」
2015.10.24 昼下がりの吉祥寺シアターの扉の中、T-Factory:「ドラマ・ドクター」 の幕が上がり広がるのは、どこかの国のどこかの町の穴蔵のような書斎。
書斎の真ん中に置かれた机に向かい、ペンを走らせるのは、ドラマ・ドクターと呼ばれる男。
男は、アスラムという男と一緒にいるようだ。そのドラマ・ドクターのもとに訪れたのは、人気劇作家のヘンリーとライバルのトニー。
伊藤克さん演じるプロデューサー、ヘルマン・プレミンジャーに、「どこにもない物語」の共同執筆を依頼されるが、そこに二人の学生時代の同期の女優サラも加えられ、物語と格闘する劇作家たちは、やがて現実と物語の境を失くして行く、その先にあるものとは?
「物語」は、提供する者と享受する者とがいて初めて成立する。
「物語」を綴っている間、作家によって確かに物語は動き、生きている。しかし、書き上げられた時点で、物語は止まる。
読者や視聴者が「物語」を、読み、見る事により、「物語」は、再び動き始め、息をし、生き始める。
人はなぜ物語を必要とし、書き手はなぜ、物語を書かずにはいられないのか?受け手にも書き手にも、一人一人の物語が存在する。
この春、10歳の頃からの願いであった、初めて依頼され対価を貰って物を書くという、仕事の一歩を踏み始めた私が、当時から今に至るまで、事あるごとに自分に問いかけてきた、「なぜ、書くのか」「何を書くのか、何を書きたいのか?」「書かずにいられないのはなぜなのか?」その問とこの舞台のテーマは重なる。
末原拓馬さんのヘンリーは、常に求められるものを書き、 ヒットさせることを求められ続け、すぐに内容は忘れられる物語を書き続けることに倦み、不安に似た恐れを内に隠し持ち目を逸らそうとする自分に気づいている人気劇作家としての自分と、その座から落ちないために、「どこにもない物語」を書こうとして、それが何なのか、自分が本当に書きたいものは何なのかが混沌として、見失う人気劇作家のもがきと葛藤と苦慮がその視線のひとつ、瞳の表情、指先の震え、声の色、言葉の一語一語に感じた。
作家には大きく2つのタイプがいる。自分のトラウマを「物語」に紡ぎ、昇華しようとする作家としない作家。
堀越涼さんのトニーは、トラウマを「物語」にする劇作家。ヘンリーのようにヒットはするが直ぐに内容を忘れられてしまうありきたりの物語ではなく、個性的で忘れられない物語は書くが、あまりに個性的で暗い話故に、受け入れら難い劇作家の焦りと葛藤、ヘンリーへの苛立ちと羨望を感じさせた。
岡田あがささんのサラは、自分の罪を許せない故に、その罪を人の事にして「物語」にすることで、告白し許されようとしたのかと問われれば、それだけではないような気がする。ただ、ヘンリーとトニーを中和し融合させるというか、繋ぐ役割としての存在なだろうか?
笠木誠さんのアスラムは、ドクターの分身なのか?ドクターとアスラムは、表裏一体なのか?
河原雅彦さんのドクターによって、ふたりに投げ掛けられる問いは、自らに課された問いではないのか?彼は、なぜドラマ・ドクターになったのか?その答えが明らかになる時、ドクターのいる穴蔵のような書斎の扉が外の世界へと壊されるのだとしたら?
「人はなぜ物語を必要とするのか?」それは、なぜ、彼らは「物語を書こうとするのか?書かずにはいられないのか?」という問と表裏一体ということなのではないのか。
真っ暗な長い長い道の先に、仄かな光が見えた時、それが答えの見えた時であり、答えが見えた時、光が見えるのではないだろうか。
その光を求めて、彼らは「物語」を書き続け、人は「物語」を必要とするのではないのだろうか。
文:麻美 雪
吐き気がするほどに
劇団時間制作
明石スタジオ(東京都)
2015/10/07 (水) ~ 2015/10/12 (月)公演終了
満足度★★★★★
劇団時間制作:「吐き気がするほどに」
先週の土曜日、高円寺・明石スタジオで、永井 李奈さんが出演されている劇団時間制作第8回公演:「吐き気がするほどに」を観て参りました。
「吐き気がするほどに」。このインパクトのあるタイトルからどんな舞台なのか?重くシリアスな舞台なんじゃと思う方もいると思いますが、内容はとてもシンプル。
一言で言うと、「今の時代の若者にとって夢とは」何だろう?夢と仕事のお話しです。
俳優養成学校で同期だった3人の売れたいと思っている俳優と女優が中心になって織り成されて行く舞台。
3人の中の河崎良侑さんの、何をしてでも売れようとする遼は、オーディションに受かったのをきっかけに、アイドル俳優として人気を博して行くが、そこから落ちたくない一心で、事務所の社長に誘われるまま、手を出してはいけないものに手を出してしまい、その事に後ろめたさを感じつつも、夢を叶えるために売れたいと思ったことが、いつし売れる事が目的になって、見失って行く自分の不甲斐なさに葛藤し、もがく姿が切ない。
渡辺ありささんの未来の、売れるため、チャンスを掴むためファンを裏切り、自分の心身を傷つける選択をした結果、その事で、葛藤と裏切ってしまった自分の弱さと後悔に押し潰され、夢を喪わざるを得なかった苦しさに胸が痛くなった。
倉富尚人さんの義隆の、唯一、芝居が好きという初心のまま、ファンを裏切るようなことも、誤った選択をすることもないけれど、オーディションに落ち続け、売れて行く二人を見ながら、先の見えない状態に焦りと悔しさを感じ葛藤し、悶えているのに、売れた二人からは逃げていると責められ夢と現実、先が見えない夢の行く末に、吐き気がするほどの不安を抱えていながらもなお、芝居が好きで堪らず、夢を諦めきれず、その吐き気を飲み下しても追い続けて行こうとする姿に堪えきれず、涙が溢れた。
宮本愛さんのさやかは、持つ夢が無いことに諦めと怒りと焦りと不安と悔しさを抱えている女子高生。今時の女子高生と括られてしまうことに嫌悪と悔しさを持っているのがピリピリと皮膚に伝わってくる。今の自分の思いを上手く言葉に興味が出来ないことを、何も知らない大人たちは、夢を持てだの、夢を探せだのとしたり顔で説教することに苛立ち、そう言う自分達はどうなんだという怒りと、そう言われる今の自分の状態に一番、不甲斐なくも悔しい、自身に対する腹立たしさをもて余し、心のなかにくすぶり続けるマグマを感じさせた。
松 和樹さんの亮太は、どんなことがあっても、未来を応援し続けようとし、誰よりも人を思いやり、人の気持ちが解ってそっと寄り添える人。
永井 李奈さんの亜紀は、二次元の男性にハマっているのがちょっと残念なバイト先の店長。でも、誰よりも3人の事を思い、時に厳しく、時に温かく励まし、さやかや元ニートで中々上手く接客出来ない彩子など、他の店では受け入れられなかっただろう人間たちを無条件で受け入れ、叱るべきは叱り、温かく包み込みながら、時に突っ込まれながら、見守る懐の広い店長亜紀でした。
生きて行く中で、誰もが経験し、感じ、考える、仕事とは?夢とは?夢と現実、挫折と葛藤、夢を持ったが故の残酷さと夢を持てない故の虚しさと息苦しさ。
一度諦め手放したものは戻ってこない。だからこそ、中々諦めきれずに、後戻りが出来なくなり、追い詰められて行く人たちを描いた舞台だけれど、このタイトルとは裏腹に、実に爽やかに、笑いどころもふんだんにありながら、しっかりと問いかけ考えさせ、最後はホロリと泣ける。
清濁あわせ飲み、込み上げて来る吐き気がするほどの不安を飲み下してもなお、夢を追い続け叶えようと進むことを選ぶことの強さに、勇気と元気を貰えた いい舞台でした。
文:麻美 雪
イエドロの落語 其の参
イエロー・ドロップス
八幡山 秘密の見世物小屋(東京都)
2015/10/09 (金) ~ 2015/10/11 (日)公演終了
満足度★★★★★
イエロー・ドロップス:「イエドロの落語 其の参」
会社帰りの金曜日の夜、観に行く人だけに知らされる道案内を頼りに、暗~い夜道を10分ほど歩き、夜目にふんわりと滲んだ提灯の灯る、八幡山の秘密の見世物小屋で、劇団おぼんろのさひがし ジュンペイさんとわかばやし めぐみさん、二人のユニットイエロー・ドロップスの「イエドロの落語 其の参」を観て参りました。
古典落語の「粗忽長屋」の他、幾つかの落語と今回物語コーディネイターとして、劇団おぼんろの末原拓馬さんが書き下ろした物語のような、落語のような物語を加えて、落語をお芝居仕立てで観せるという新しく斬新な落語。
スペースとしては小さな空間。其処は江戸の寄席のようで、その空間を、余す所なく使い、音と灯りと映像を縦横無尽に使い、しかもそれが芝居と見事に溶け合って、ひとつの世界を織り上げていた。
6月に初めて見た、おぼんろの「ゴベリンドン」(私の大好きな、これを観ておぼんろのファンになった舞台)の感じとは全く違うのカラッと明るく、止まることをしらぬはじけっぷりのめぐみさんとさひがしさんが紡ぐ、掛け合い漫才のような落語の世界。
飛び出す落語とも、立体落語とも言えるけれど、目の前にポンと噺の世界から登場人物が現れた瞬間、其処はもう、江戸の町だったり、品川の海だったり、神社の境内、江戸の貧乏長屋そのものの景色にかわる。
それは、お二人が今回の主役のお染と金蔵その者として、目の前に存在し、生きて、佇んでいるからに他ならない。
幾つもの落語と末原拓馬さんの落語のような物語をひとつの世界として、美しく流れるようにひとつの物語として織り成し紡いだのは、物語コーディネイトをされた末原拓馬さんの紡いだ物語の素晴らしさと、其をお染と金蔵として息づいていたお二人のが佇まい、素晴らしい映像とが溶け合って織り成されていたから。
兎に角、理屈なく飛びっきり面白い。笑って、笑って、最後にキュンとして、しみじみとして、ホロッと泣けて、お腹の底から笑って元気になれる「イエドロの落語 其の参」でした。
文:麻美 雪
モノクロ
劇団ロオル
シアターブラッツ(東京都)
2015/09/30 (水) ~ 2015/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
劇団ロオル:「モノクロ 【白】」
昨日の夜、新宿シアターブラッツで、佐藤歩さんの出演されている劇団ロオルの「モノクロ」を観て参りました。
「モノクロ」は、白と黒の2つのチームに分かれての公演。
今回観に行ったのは、白チームですが、黒チームには、橘菜穂さんが出演されています。今回どうしても都合がつかず黒チームを観に行けないのが唯一残念なのですが、今日が千秋楽のこの舞台、出演者は全て女性。男性の役者さんは登場しない。
武力によって平和を得た国。戦い勝利を収めた彼女たち3人の戦死を、国は「英雄」と呼び、国に無意識の内に思考をコントロールされた国民は、彼女たち3人の戦士を、「英雄さま」と奉った。
正義の名のもとに、平和となった今も政府の名により、戦い続ける彼女たち。生きるため、大切な者を守るため、己の意思や思いを抑え国の言うままに戦い続けなければならない彼女たちをも政府は国のために人身御供にするため、国民をコントロールして【英雄さま】を「罪人」だと信じこませたその先にあるものはなんだったのか?国にとって、国民にとって、そして彼女たちにとって、正義とは、幸せとは何であったのかを考えさせる舞台。
高橋茉由さんの千年は、家族とも思う二人を護るために、自ら政府の手先になり、命を下されるまま戦い続ける。彼女にとって正義とは、大切な者を護ること。それ故に、抱えるジレンマに葛藤し、それでも自ら選んだ自分の正義のために、心身ともにボロボロになろうとも、戦い続ける者の強さと強さゆえの脆さ、痛々しいまでの生き方を自らに科す千年の悲しみと怒りと痛みが胸に刺さって、涙が溢れる。
柴田茉莉さんの律は、千年と七生と戦士として戦いながらも、政府に対して反発も感じ、政府の名のもとに戦い続けることに一抹の疑問ももっている。彼女の正義とは、一体何だったのたろう。少なくても、自分にとって不都合だからと自分たち戦士に命じ、正義という名のもとに命を奪わせる事に疑問を持っていた律にとって、待ち受けている明日はどんな色だったのか。
佐藤歩さんの七生は、千年と律の中間、いや、二人の思考を持ち、一番冷静に状況を観て、国の思惑と自分の中にある正義のズレ、何が本当の正義なのかを一番見えていた存在ではなかったのか?
立場によって正義の定義は異なり、立場によって、ひとつの物事でも捉え方も感じ方も定義も変わる。
しかし、たったひとつはっきり言えるとしたら、正義のための戦争など、聖戦などと言うものは存在しないということ。正義とは、人の命を奪って成り立つものでも、手に入れるものでもない。血には血を、武力には武力の連鎖しか生まれないし、人の命の上に成り立つ正義も幸せもあり得ないということ。
正義と悪は背中合わせの紙一重。立場によって、見方ひとつで、白が黒に引っくり返るように、正義と悪は引っくり返る。昨日の善は今日の悪、昨日の悪は今日は善。戦争と革命も同じこと。背中合わせの紙一重。
何と戦うのか?誰と戦うのか?戦った先にあるものとは?正義とは何か?命とは?生きるとは?その先にあるもの、あるべきもの、一番大切なものは何?いろんな事を考え、心の動いた素晴らしい舞台でした。
小松原里美さんの三日月、楽して行きたい、だから有利な方に着くといいながら、最後に政府に向かって放った一言は胸がすく思いで、もしかしたら事の本質を一番客観的に見ていて、事の真実をわかっていた存在ではなかったかと思う。
そして、何よりも女性がかっこいい舞台。殺陣が本当に格好よくて、綺麗でした。久しぶりに観た、あゆさんの殺陣が格好よくて、惚れ惚れしました。
観られて良かったと心から思った素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪
月光条例 ~かぐや編~【全公演満員御礼!ありがとうございました!】
カプセル兵団
笹塚ファクトリー(東京都)
2015/09/27 (日) ~ 2015/10/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
「月光条例〜カグヤ編〜」
昨日のお昼に、笹塚ファクトリーでカプセル兵団の「月光条例〜カグヤ編〜」を観て参りました。
原作の漫画もアニメも知らなかったし、カプセル兵団の舞台も初めてだし、月光編も観ていなかったけれど、存分に楽しめた舞台でした。
パフォーマーとして出演されている、笠川奈美さんから連絡を頂いて、観に行った舞台だったのですが、前から奈美さんからこの舞台の面白さを聞いていたので、ずっと観たいと思っていた舞台でもありました。
何十年かに一度、青き光に当てられたおとぎ話の登場人物たちが、おかしくなるという、ムーントラックが再び起き始め、おとぎ話の長老会は、おとぎ話を守るため、「青き月光でねじれたおとぎ話は、猛き月光で正せねばならない」という「月光条例」を作った。
その「月光条例」を執行する執行者が岩崎月光と工藤伽耶である。
子供の頃に慣れ親しんだ、一寸法師やあかずきんちゃん、シンデレラ、フランダースの犬、桃太郎などなど、ムーントラックで最初は暴走していた洋の東西、古今東西のおとぎ話の主人公たちが、月光たちに「月光条例」を執行されて、もとに戻り命を懸けて、月光たちと共におとぎ話をこの世から無くそうとするオオイミ王と戦う物語。
懐かしいおとぎ話の登場人物たち。母に読み聞かせて貰ったり、何度も読み返してきたおとぎ話の登場人物たちが、目の前で動き、走り、戦い、生き生きと飛び回るのを見ていると、何とも言えない懐かしさと高揚感に胸躍り、血が沸き返る。
舞台装置は何もないのに、舞台背景が立ち上ぼり見えて来る不思議な感覚。
物凄いスピードで登場人物と物語が進んで行く。音と光と音楽。それだけでこの壮大で可笑しなスペクタクルを目の前に、魔法のようにボンと出現させるのは、出演されている全ての役者さんたちがその人物としてそこにいるからであり、切れのあるスピード感のある動きの凄さでもある。
描かれているのは、信じること。自分を信じ、仲間を信じ、その信じること、信じる仲間を守るために戦う。人は、自分の為ではなく、大切なもの、大事な者を守るために戦う時、とてつもない強と愛を知り、その手に掴む事が出来る。
オオイミ王とて、病弱の幼馴染みの妻を守るために、誤った方向に舵をとり、方向を見誤ってしまっただけなのではないだろうか。
人の数だけ正義がある。立場が違えば見方も違う、何をもって正義と言い、何をもって悪というのかわからなくなってくる。けれど、厳然としてひとつあると言えば、何をどう言い繕っても、自分のエゴのために人の命と未来を犠牲にしてはならないとうこと。
その二つを守るために、月光たちは戦う。
信じることで人は強くなり、信じられることで人は強さを発揮できる。自分の道は自分で選ぶ、選んだからには言い訳しない。それとて、「信じる」から出来ること。
笑いながらも、最後は月光の言葉が胸に強く響き、涙が溢れる。
滑らかな場面転換、息を着かせぬアクション、壮大なスペクタクルでありながら、最高におかしくて、しっかりと心に響く物語がある、今までに見たことのない舞台。
鶴見直斗さんと金澤洋之さんの殺陣のかっこよさ、笠川奈美さんの躍りの強くてしなやかさも素敵でした。
畑中ハルさんの一寸法師と永澤菜教さんのきびだんごが、ツボに入ってすきでした。
奈美さんにお誘い頂いて、観に行けて本当に良かったと思った、最高の舞台でした。
文:麻美 雪
真田十勇伝 2015(全日程完売御礼申し上げます!!)
劇団SHOW特急
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2015/09/24 (木) ~ 2015/09/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
「真田十勇伝2015」
昨日は、観劇三昧の一日。一本目の観劇は、お昼に大坂真璃子さんの出演されている池袋シアターグリーンBig Tree Theater で、劇団SHOW特急第7回公演「真田十勇伝2015」夏の陣(ダブルキャストで昼公演は夏の陣、夜公演は冬の陣)。
劇場が終演後にキャストと面会する場所が無い為、面会は出来なかったのですが、開演前、受付を済ませた直後、真璃子さんから「今日は、雪さんの為に踊ります」とキラキラした目でお声をかけて頂いて、とても嬉しい気持ちのまま観劇。
「影の軍団」や「猿飛佐助」などの時代劇やアニメを見て育った世代としては、霧隠才蔵や猿飛佐助、服部半蔵、真田幸村が一同に会するこの舞台は、それだけで既にワクワクするし、世代ではない人でも、男前揃いで、躍動感と切れのある殺陣、ストーリーの面白さに、真田十勇伝の世界の中にするりと入り込んで楽しむことが出来る舞台。
舞台を観て感じたキイワードは、「信じる」。親子、兄弟、仲間、主従、愛する者、自分の理想、自分の信念を信じること、信じ抜き、守り、戦い、散って行く命たち。
散った後に残されるものは、絶望でも悲しみでもなく、散って行った者たちの思いを信じ、胸に留め、散って行った命たちと共に生きて行こうとする強さと希望それを体現し感じさせてくれるのが、元山久恵さん</font>のお清。
先入観なしに、あるがままの相手を観て、信じ切り、信じる者と思いを守るために戦う、強さと深い優しさを持った二階堂隼人さんの真田幸村。
中盤まで、兄を思うがゆえに、自分の能力を隠し、頼りない息子を装っている幸村の本当の強さと能力をしっかりと見抜き、見守り、信じた幹山恭市さの真田昌幸の懐の深さ。
家康側についたとは言え、父と弟を思い命を助けようと説得を試み、葛藤す眞田規史さの真田信之。
先入観なしに、自分を信じた幸村を信じ命をかけて守り、裏切ることなく付き従う久保瑛則さんの霧隠才蔵。
胸に秘めたまま、お清の為に幸村を守り、戦いに赴く斉藤至大さんの望月六郎。
庄野有紀さんの猿飛佐助、高松周平さんの三好清海、谷恭輔さんの三好伊三、宮下浩行さの海野六郎、中村一平さの筧十三、黒澤俊一さんの由利鎌之介、工藤そのかさんの穴山小介、赤羽信之介さんの根津甚八、真田幸村を信じ、惚れて負けると解っている戦に付き従い、命をかける真田十勇士の胸の内にあったのは、ただひとつ「信じる」こと。
その対極にあるのは、息子秀頼を溺愛するあまり、秀頼を守るために良かれとしたことが、歴史を変え、息子の能力を発揮させることを妨げた、愚かではあるが哀しい母の誤った愛を体現する能條由宇さんの淀君。
自分の立場と考えに固執するあまり、全体を見極め的確に対処する判断を誤り、守るべき君主を危険に晒し、結果大事に至らせてしまう、何となくサラリーマンの世界の上司によくいる厄介な上司を体現したような<font 多田聡さんの大野修理。
魅力溢れる、個性豊かな人間たちが織り成す、笑いあり、涙あり、美しく切れのある艶やかな踊りあり、迫力と舞うような美しい殺陣あり、感動あり、切なさありの2時間20分のワクワク、ドキドキするエンターティメント人間活劇でした。
文:麻美 雪
私もカトリーヌ・ドヌーヴ
『私もカトリーヌ・ドヌーヴ』を上演する会
上野ストアハウス(東京都)
2015/09/16 (水) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
「私もカトリーヌ・ドヌーヴ」
先週の土曜日、上野ストアハウスに、AKATSUKIの菅原奈月さんが出演される、フランスの演出家ピエール・ノットの作・演出による舞台、「私もカトリーヌ・ドヌーヴ」を観に行って参りました。
ある日突然、「私はカトリーヌ・ドヌーヴ」と言い始めた長女ジュヌビエーヴとある出来事がきっかけで、部屋に引きこもり、家の地下室で居ない観客に向かい、キャバレーで母の歌っていたシャンソンを歌っていると思っている、リストカットを繰り返す次女マリー、無口だが部屋で拳銃を🔫ぶっぱなし、今は家を出て離れた場所で暮らす長男、自分達を棄てて出て行った夫と心に何らかの闇を抱えた子供たちに振り回され、心悩ましながらも、自分なりにそんな家族を愛してはいる母が繰り広げる家族の物語。
とまぁ、何とか整理してあらすじを記すとこうなるのだけれど、幕開けから、母以外の登場人物が全てが顔にも声にも一才表情を現さず、粛々と舞台が進んで行く。
序盤は、本当に難解に思える。この舞台は、何を言いたくて、何を言っているのか?あまりにシリアスで、わけが分からないのに、何故かどんどん引き込まれて観て行く内に、ヒリヒリした痛みや息苦しいようなそれぞれ心の闇を感じるのだけれど、母とジュヌヴィエーヴの会話に可笑しさが出て来て、じわじわと笑いの小波が起こり、面白くなってくる。
この、一見難解で戸惑いながらも引き込まれ、最後まで一気に見入ってしまう感覚は、20代の頃に観たジャンヌ・モローの映画「突然炎の如く」のそれととてもよく似ていた。
菅原奈月さんは、いつもAKATSUKIで観ている奈月さんとは全く違う、自分の体を切ることで、生きている事を確認しているようにも、ある種の罰を与えることで自分を許し赦されようとしているような、地下室をキャバレーと思い込み、見えない観客に向かい、シャンソンを歌っている時だけ、唯一生きている実感を感じられているのだろうマリーを、表情を消すことで、心の痛みや叫びの表情を感じさせた。
小林亜紀子さんのジュヌヴィエーヴは、ある日突然、「私はカトリーヌ・ドヌーヴ」と言い始める、ある種の狂喜の中に居るように見えて、そう思うことで自分を保とうとしている、壊れそうな自分を必死に持ちこたえようとしているようにも見えてくる。
それは、自分達を棄てた父に対してか、もしかすると母の愛を欲するひとつの母への甘えなのか、自分のアイデンティティーを探しあぐねての事なのか。ジュヌヴィエーヴの姿を見ながら、様々に考えた。
観世葉子さんの母は、唯一最初から娘たちや出て行った夫に対しての苛立ちや腹立ちを表情に出し、感情を顕にする存在。引きこもり自傷行為を繰り返すマリーと「私はカトリーヌ・ドヌーヴ」と言い始め、母を否定するかのような発言をするジュヌヴィエーヴに、戸惑い苛立ちながらも元の娘たちに戻って欲しいと渇望する母の孤独と母なりの愛情を観て行く内に感じさせる。
高橋和久さんの息子が、ある意味一番捉え処がない。なぜ、彼は家に居た時、家の中で拳銃を打ちまくったのか?父の血が自分の中に流れている事への拒絶なのか、虚無なのか?かと言って、妹たちや母に対しての愛情がなさそうというのでもない。
最後の母の放つ、夫を「愛してる」という言葉は、それぞれの心の痛みや闇を抱えている子供たちを「愛している」という宣言にも取れて、どこか仄かな希望の小さな灯を感じた。
自傷行為を繰り返すマリーは、実は演出家ピエール・ノットさんの実在の兄妹がモデルになっているそう。
だからこそ、全体にリアリティを感じ、序盤は戸惑いながらも、最後まで引き込まれて見てしまうのだろう。
普段、使わない感情や感覚、心の筋肉を使って観た後に、自分の中に何か蠢くものを感じた、素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪
【東京千秋楽!!】ブリッジしたのはカンガルー(※当日券若干枚!!)
8割世界【19日20日、愛媛公演!!】
【閉館】シアターねこ(愛媛県)
2015/09/19 (土) ~ 2015/09/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ブリッジしたのはカンガルー」
今日の観劇、1本目は八幡山ワーサルシアターで、わかばやし めぐみさんの出演される、8割世界の「ブリッジしたのはカンガルー」。
最初から最後まで笑いっぱなしで、最後にじんわり温かくなる舞台でした。この不思議なタイトルの意味も、「そういうことか」と最後にストンと腑に落ちる。
うだつの上がらない小説家の夫と、そんな夫が不甲斐なく家を出て、自分の事務所を持ってバリバリ働く妻。長らく別居中の夫婦。
ある日突然、「逆立ちしたのもカンガルー」という小説を書いて、文学賞を取った妙にリアルな夢を見たから、その為に妻に家に戻って、小説のアイデアを出せと勝手を言う夫。
宙ぶらりんのくされ縁に終止符を打つべく、小説が完成して賞を取ったら離婚することを条件に家に戻り、アイデアを捻り出そうとする妻。小説が完成した時、この夫婦の迎える結末は....。
というストーリーの舞台。
凪沢 渋次さんの自分の小説なのに、夢の中で妻の出したアイデアで書いた小説が文学賞を取ったから、家に戻って早くアイデアを出せとせっつき、全て人任せで自分は何もしない夫孝太郎は、半ばまでは妻のかなえと同じに、勝手な男だと苛立つのに、みている内に何だか憎めなくなって来る。
最後は、何だかかんだと理屈をつけても、結局妻に惚れていて、アイデアだとか賞だとかは単なる口実、ただの強がりで、戻って欲しいのがやっぱり本音かと微笑ましく思えて来る。
わかばやし めぐみさんの妻かなえは、小気味良くて、きれいで、さっぱりとしていて気持ちよく、かっこいい。孝太郎が、ライナスの毛布のようにヨレヨレとして、妙な心地好さがあるタオルだとしたら、めぐみさんのかなえは、上等で肌馴染みのよいコットン。
丁々発止の夫婦の舌戦が、テンポが良くて抱腹絶倒の面白さの内に、あっもなくてもいいもの、いてもいなくてもいい腐れ縁。でもなかったら、いなかったら寂しい、腐れ縁結婚の夫婦を通して、結婚て、愛って何だろう?
人は、何のために、なぜ結婚するのか、なぜ、愛するのか笑いながら考えさせられる。
夫婦の腐れ縁は、ライナスの毛布のようなもの。あるのが当たり前、無くしてみるとどれ程自分にとって替えのきかない大切で、肌馴染みが良くて、心地いいかけがえのないなものだと気づく。そんなものなんじゃないかと感じた舞台。
最初から最後まで笑い通しの可笑しくて、面白くて、最後にじんわり温かくなる、カラリと楽しい舞台でした。
文:麻美 雪
不孝者ラプソディー
翠座
パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)
2015/09/11 (金) ~ 2015/09/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
「不孝者ラプソディー」
今日は、会社の帰りに江戸川橋の絵空箱に、ebisu堂さんが出演される舞台、第四回公演:楽娯シリーズ第一弾「不孝者ラプソディー」を観に行って参りました。
ebisu堂さんとは、7月の萌恵さんの和らいぶで、お会いして少しお話しをした時に、この舞台のチラシを頂いたのがご縁で、今夜足を運んだのですが、もう、80分笑いっぱなしの楽しい舞台でした。
物心ついた時から、テレビで落語を見たり聴いたり、大人になってからは、何度か寄席に聞き行ったり、歌丸×小朝の二人会を聞きに行ったりする落語好きにとっては、飛び出す絵本ならぬ、飛び出す落語のこの舞台はもう、楽しくて、面白くて、最高でした。
落語を聴いていると、頭の中に映像が浮かび、登場人物たちが頭の中で立体になって動いていて、自分が江戸の町に紛れ込んで追体験している心持ちになるのですが、この舞台はそれが本当に実体となって、ポンと落語の登場人物たちが、目の前に飛び出して来て、落語「不孝者」の世界を繰り広げる。
「不孝者」は、寄席でも滅多に聴けない珍しい落語なんだとか。
江戸の大店の放蕩息子が、店の売掛金を取りに行ったその足で、柳橋の馴染みの店に行って、放蕩三昧している息子に意見をしようと、お供の着物でお供に成り済まし驚かせた後、息子にお灸を据え意見のひとつもしてやらねばと柳橋の店に行くのだがそこには...。という落語。
初めて聴く落語なのに、聴いたことがあるような、懐かしいようなのは何故かと思えば、落語には実によく橋にも棒にもかからない、放蕩息子というのがよく出て来るからだろう。
案内役の今夢(いまむ)さんの落語が途中からすーっとお芝居になり、お芝居からすーっと落語になりの繰り返しで、飛び出す落語の世界が目の前に広がって行く。
それはもう、落語好きにはぜいたくな面白さだし、落語を知らない人も心底楽しめること請け合い。
噺家独特の手の動きの色っぽさと言うのがあるのだが、今夢さんの猪口を持って飲む時の手の仕草、動きは正にその噺家の色っぽさがあった。
高山五月さんの清蔵は、6月に観た日本のラジオの「カナリヤ」の時とは、全然違う飄々ぬーぼーとした印象。 ebisu堂さんの幇間恵比八とがまの油売りは、もう、本当にお見事。確か、寄席でも一度観たこともあり、子どもの頃から、耳に馴染んだあの流れるような口上で、わくわくした。
それにしても、舞台に現れないのに、全ての役者さんたちが、一丸となって描いた居ないのに居るような放蕩息子の若旦那の存在感が凄い。
笑っている内に、仕事の疲れも吹っ飛んだ、正に楽娯の舞台でした。
舞台は、13日(日)までやっています。落語と芝居の融合、飛び出す落語に是非お運びを。
文:麻美 雪
幸福で残念な島
劇団SUNS 轟
ワーサルシアター(東京都)
2015/08/19 (水) ~ 2015/08/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
幸福で残念な島
昨日は、八幡山ワーサルシアターに、笠川奈美さんの出演される劇団SUNS 轟 vol.1:「幸福で残念な島」を観に行って来ました。
IT億万長者となった同級生青山が、自ら企画したクルーザーでの自身の誕生パーティ。
嵐に遭い、楽しいはずのクルージングは一変、命からがら青山と同級生7人がたどり着いたのは、独自の文化を持った先住民「トビトビ」がいる島。
島から自分達の居た場所に戻れるようになる間、トビトビたちと接する内に、それぞれが抱える問題と向き合う中で其々に答えを見つけて行く物語。
舞台を観て感じたのは、言葉と心。自分の言葉に向き合うことは、自分の心に向き合うこと。向き合わなければ、得られないもの。目をそらさず向き合って、見つめることで得られるということ。
人にとっては、それはトラウマかも知れない。
自分のトラウマ、悩み、痛みと向き合うことは、心から血を流す事だと思う。だか、気づいていながら見ない振りをすることは、更に自分を傷つけて行くことでもある。
目を背けている自分を自覚し、その事に自己嫌悪し、向き合わなければいけないと解っていつつも、目を背け続け、向き合わずにいることは、宿題を放置し先伸ばしにした結果、いよいよやらなければいけない段になって、重くのしかかり泣きを見ることになるのと似ている。
佐々木恭祐さんの張本は、傭兵として戦い、人を殺めたことで心に深い痛手と後悔、苦しみを負い、そこから逃れられない姿が胸に痛く迫ってきた。
北村優実さんのエリカの、どんなに傷ついていても、ずっと笑顔を張り付けいる生きて行かなくてはいけない世界で、傷つき自分の心から目を背け続けるのにも疲れ果ている姿は、他人事ではなく、同じような思いや気持ちでいる人は多いのではないかと感じた。
エリカの姿は、どんなに辛く、悲しく、孤独でも、「大丈夫」と笑って見せていた去年までの私の姿でもあった。だから、一番、胸に迫って来るものがあった。
城生越大弥さんのトビトビの皇子ワクワクは、強くて温かい懐の深さと誠実さを感じさせた。
駒橋誉子さんのワクワクの母、トビトビの女王アヌークは、慈愛そのものの存在としてそこに居た。
水野絵理奈さんのアイリスは、優しく柔らかい眼差しで、それぞれの心に抱える痛みと苦悩を見つめ、寄り添って解き放つ癒しのガイド。
最後に、笠川奈美さんのトビトビの島民、モモエリは、真っ直ぐで、純粋でひまわりのように、明るくて可愛くて、出て来るだけでホッとする太陽みたいで、本当に素敵だった。
「トビトビ」とは心。トビトビを飛ばすと言うのは、きっと、自分の心を暗く覆っている苦しみや痛み、悩みと向き合い、耳を傾け、見つめ、自分が本当になりたい姿、したいことを認め、思いを言葉にして解き放つこと。
言葉には魂がある。言霊。言葉に魂が宿るのなら、美しい魂を宿らせるのがいい。その為には、自分の中の醜いことも、悪しきものを認め、向き合い、囚われた思いから解き放たれ、放逐しなければならない。
そして、それはとても痛みを伴うものだが、向き合い解き放たれ先に在るもの、それは間違いなく「光」なのだろう。
人は、それぞれの中に、きっと、「光」を持っている。それに、気づけた人には幸福であり、目を背け続けることを選んでしまった人には、残念な島。
自分の言葉と向き合うことは、自分の心に向き合うこと。向き合わなければ、得られないもの。目をそらさず向き合って、見つめることで得られるということ。
そんな思いが胸を浸し、最後の数分間は、気づいたら泣き通しの素敵な舞台でした。
文:麻美 雪
世界が止まる時の音
劇団偽物科学
池袋GEKIBA(東京都)
2015/08/08 (土) ~ 2015/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
「世界が止まる時の音」
昨日、池袋GEKIBAで、松本稽古さんが出演される偽物科学の旗揚げ公演、「世界が止まる時の音」を観て参りました。
「それね、時間停止装置。」そう言って依頼人が残していったのは、1つの部品と見知らぬ言語で書かれた研究ノートと時計の形をした時間停止装置、謎が詰め込まれたアタッシュケース。
その装置を完成させるべく、集められ依頼人添木の邸に残されたのは、プログラマーと天才ハッカー、数学者と翻訳家、料理人と添木の命を受け、彼らの面倒と護衛を受け持つ達人と呼ばれる若い女性。
其々の分野の才能を発揮して1週間で完成した装置は、世界を滅ぼしてしまうほどにとんでもないものだった。
淡々と笑いを含みつつ進んで行く物語は、時間停止装置の完成であっけなく終わって行くように見えたけれど、そこからが、実はこの舞台の見せ場。
静かにゆっくりと人間ドラマが紡がれて行く。
よく、楽しい時間を過ごすした時、とても幸せな時、「このまま時が止まってしまえばいい」と私たちは言うけれど、もしも、本当に時が止まってしまったらどうなのだろう。
果たして、そのままの状態で、時が止まり、全ての物の動きが止まったまま、年も取らず、今から1mmも一歩たりとも動けないまま、生きる時間も人生も止まってしまったら本当に幸せなんだろうか?
時間も命も人生も有限だからこそ、美しくて、いとおしくて、輝いてみえるのではないだろうか。
ましてや、停止させた時間の長い順番から物が消え、地球もこの世界も消えてしまうとしたら。それでも、無限の時を望むのか?時が止まってほしいと思うのか?
自分達が作り上げた装置の重大な欠陥に気づいた時、装置を使って時間を止めなかったプログラマー(進藤恵太さん)と時間を止めてしまったハッカー(橋本沙保里さん)、翻訳家(小川真紀さん)、料理人(松本稽古さん)、 数学者(寺床圭介さん)。
時間を止めてしまった彼らは、地球が消えると同じに、この世界から消え、時間を止めなかった彼は、消えることなく生き残れる可能性がある。
自分達の持てる力を結集し、地球が消えない方法を見つけ、プログラマーに託した彼らは、どうなるのだろうか。
残す者と残される者の想い、そこに描かれる人間ドラマは、美しくて悲しい。
有限の時間、生きること、愛することすこと。それは、限りがあるからこそ美しく、貴重で尊く、いとおしくも悲しく、そして愛すべきものなのだと思う。そんな想いが胸に沸々と沸き上がってきた瞬間に、涙がぽろぽろと溢れて止める術がなくなった。
出演されていた、全ての役者さんが、その人としてすぐ目の前に息づき、存在していた素晴らしさ。
中でも、「美味しいお料理で、癒します。」ふんわりと明るく可愛い、松本稽古さんの初春智子は、この舞台を柔らかく温かく包み込み、出てくる度にほっとする存在でした。
昨日、初日を迎えた舞台、本日の17時の回が千穐楽です。短くも濃い時間の流れる素敵な舞台です。
文:麻美 雪
祝祭
Trigger Line
小劇場B1(東京都)
2015/07/18 (土) ~ 2015/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
トリガーラインVOI.12公演:「祝祭」
昨夜、下北沢小劇場でトリガーラインVOI.12公演:「祝祭」を観た。
昨日が初日の舞台。今月26日まで公演があるため、詳しい内容を書けないが、公開されている情報を記すと、「1996年12月17日にペルーの首都リマで起きたテロリストによる駐ペルー日本大使公邸襲撃及び占拠事件。翌1997年(平成九年)4月22日にペルー警察の突入によって事件が解決するまで、4ヶ月間以上かかった。在ペルー日本大使館公邸人質事件とも呼称される。」事件をモチーフにフィクションとノンフィクションを織り交ぜて紡ぐ舞台。
モチーフとなった、この事件が起きた時、私は31歳。強行突入のニュースを聞いて真っ先に思ったのは、日本人を含め70人ほどの人質がいるにも拘らずなぜ強行突入したのかと言うこと。強行突入をすることにより、罪も関係もない日本人も含んだ人質にも死者が出るかもしれない可能性があるのに強行突入をし、日本政府もそれに同意をしたのかと言うことだった。
その時、「正義」とは?命の重さとは?と言うことを改めて、考えたと共に、「国にとっての正義とは?国民の命の重さとは?」何なのだろうと憤りにも似た疑問と不信感をいだいた。
それを踏まえつつこの舞台を観ると虚実を織り交ぜた物語で、この舞台がすべて事実ではないが、事の本質は恐らくこの舞台の上に現出したものであると当時感じ、舞台を観ながら自身の体の奥底から湧き上がる感覚とを照らし合わせても確信した。
西岡野人さんの革命運動の指揮官ホセは、知性も教養も持ち合わせているにも拘らず、生まれた国の貧困と状況で、過激とも言える革命運動に傾倒してゆくが、知性と教養をもっていたが故に、人質に危害を加えることをせず、佐川和正さんの国家事案情報局局長で事件の交渉役カタオカや人質たちと話し、関わって行く中で変化するにつれ、観ている側にも、ホセの悲しみと苦しみと憤りにテロ行為自体は何があっても認めるものではないが、心情としては共感というか理解できるように変化してゆく。
佐川和正さんのカタオカは、立場はホセとは相反するのものであるが、同じ悲しみを体と心に内包している故に、交渉を通し話してゆくうちに、奇妙なしかし当然とも思える共感と共鳴、しかしそれに引きずられることなく、互いに命を失うことなく最善の結末を求める姿を感じ、生まれた国、生まれた状況が違っただけで、立場が逆になっていたかもしれないのではと思った。つまり、ホセとカタオカは合わせ鏡なのではないかと。
今西哲也さんのサンチェスは、革命メンバーの中で物語の中盤までは一番、頑なで、武力に訴えようとする直情型のテロリストのように見えるが、彼とて、食べ物より拳銃の数が多く、食べ物は入手出来ないが、拳銃は簡単に手にすることが出来てしまう国に生まれ、貧困にあえがなければ、そうはならなかったのではないだろうか。その頑なで、国だけでなく生きることにすら憤りを感じているサンチェスの頑なさを溶かしていったのは、久津佳奈さんの赤十字国際委員会の委員ソフィアの自分の命を顧みず、敵味方の別なく、人の命を尊重し尊守するために行動する姿であり、陣内義和さんの敵味方関係なく、美味しい料理を食べさせたい、料理で疲れた心と体を癒せればという誠実な温かさ。
そして、日本人の本来持っていた美徳と人質たちとの4か月間という長い時間を共有する中で自分を見つめ、相手を見つめ気づき、知った人が本来持っている誠実さや温かさは、きっと武器よりも武力よりも強く人の心を動かし変えるのだ。
「祝祭」とは祈りと祭り。「祝い」とは古くは、祈ること。「祭」とは、慰霊のため神仏や先祖をまつる行為であり、感謝と祈りである。
「祝祭」は「宿祭」であり、宿命は変えられないと言うが、抗うことは出来る。抗おうとする行動、行為を起こすことで何かは確実に変化し、それが「宿命」を変えることになるのではないか。
何のための正義、誰のための正義、国の正義とは?正義って何?人の命を犠牲にしてまで守るべき、行うべき正義とは何なのだろう?命の重さとはいったい?「祝祭」とは「宿祭」なのではないかそう感じ、考えた舞台だった。
文:麻美 雪
評決
ULPS
ワーサルシアター(東京都)
2015/06/17 (水) ~ 2015/06/21 (日)公演終了
UPLS :舞台「評決」
昨夜、八幡山ワーサルシアターに木村美佐さんが出演される、UPLS第9回公演「評決」を観に行って参りました。
「評決」は、アガサ・クリスティーの原作ですが、クリスティーには珍しくミステリーと言うよりは、ロンドンの郊外の古いフラットの一室で起こる、濃くて切なくて胸が痛くなるほど息詰まる人間ドラマです。
治る見込みのない難病にかかった妻を愛し、倦む事も諦める事もなく、献身的に支え続ける、中込俊太郎さん演じるヘンドリック教授。
一見すると、良い夫であるが、元を糺せば友人を助けるために自分が国を追われる結果となり、ロンドンに逃れて来た為に妻は病を得たのかも知れず、彼の自分の理想や信念へのこだわり故の優しさが、妻や妻のいとこであり、ヘンドリックを心密かに愛し続けているライザ、幼稚で身勝手な愛を振りかざして迫るヘレンを傷つけ、苦しく辛い思いをさせている事に気づかず、そのヘンドリックの人としての理想と誤った優しさのせいで、ライザが窮地に陥り、失いそうになってもまだ、自分のその理想と優しさが残酷な刃となっている事を認めようとしない態度に苛立ちを覚えるヘンドリック教授として目の前に佇んでいた。
ライザが自分から去って行こうとしているのを目の当たりにして、ライザがいかにかけがえのない存在か気づき、自分の理想と残酷な優しさが周りの女性たちを不幸にしたのかも知れないと認めはしたけれど、結局はヘンドリックが変わることはないような気もする含みを持たせたヘンドリックと言う人物として生々しく存在していた中込俊太郎さんが素晴らしかった。
木村美佐さんのライザは、この舞台の登場人物で実は、私が一番感情移入して観た女性。いとこであるヘンドリックの妻、アーニャを心から想い愛し、献身的に看病をしながらも、長い間決しておくびに出す事もなく、心深くヘンドリックへの愛を胸に秘めて、ヘンドリック夫妻を献身的に支える切なくて、強くて、脆くて、本当の意味で優しい女性。
一番冷静にヘンドリックやアーニャ、ヘレンの事を観ているが故に、やがて訪れる悲劇を予感して怯えてもいる。
ヘンドリックのような、男性を愛してしまった為に、傷つき、苦しみ、愛し続ける限り、その不毛な切なさと痛みと諦めから解放されることはないのに、なおヘンドリックを愛し続けるライザを見ながら、実は、十数年前の自分の姿を重ね合わせて、一番感情移入をしてしまった。
私の場合は、私と出会う前に泣きつかれ助けたにも拘らず、謝罪の言葉も連絡もなく行方をくらまし、その尻拭いの為に自分の生活を、ひいては人生を犠牲にしてもなお、責任を感じて尻拭いし続けている彼に、ライザと同じような気持ちを抱きつつ、ある日突然、彼が「君と歩いて行く事を考えたけれど、いつ終わるか知れないこの状況のままで、このまま君と付き合い続けて行くことは出来ない」という別れのメールを残して、私の人生から立ち去るまで、ライザのように時に彼の誤った優しさに苛立ち、それでも愛し、変わらない彼の理想に諦め、それでも私を必要とする限り傍にいようと思ったり、ライザの姿は当時の私の姿そのままだった。
きっと、今もライザのような女性たちは、世界中にいるのだと思う。そんなリアリティを持った生身の女性として目の前に佇んでいた木村美佐さんのライザは本当に素敵でした。
登場する全ての俳優さんが、俳優さんとしてではなく、登場人物その人、いえ、生身のその人物として、目の前に立ち現れ、それぞれの立場、それぞれの感情、それぞれの愛から吐き出される息が、見えない濃い空気となって立ち籠め、胸が詰まり、息を詰め、息を殺して見詰めた2時間ちょっと。
愛は人を愚かにする。でも、愚かだから人は誰かを愛するのであり、恋は落とすものではなく、落ちてしまうものであり、落ちてしまった先にどんな愛が待っているのかは、誰も知らない。
行き着く先が自分の望むものでなかった時、その愛からさっと降りてしまえるのが恋で、降りたくても降りられず、立ち去ろうとしても立ち去れず、立ち戻ってしまう、自分ですらどうしようもないのがきっと愛なのでしょう。
だとすれば、最後のライザの放った言葉は、愛であり、そしてやっぱり、愛はおろかで、だからこそ愛おしく、「評決」とは、人が誰かに下すものではなく、自分が自らに下す、「愛」と言うものへの「評決」なのではなかと思った舞台でした。
文:麻美 雪
ゴベリンドン
おぼんろ
吉祥寺シアター(東京都)
2015/05/21 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
「ゴベンドリン」
観に行って、良かった❗観なかったら、きっと一生後悔したと思う、今まで観た日本人の舞台では観たことなかった本当に素敵で不思議で素晴らしい舞台でした。
海外の舞台の日本公演だと、バレエのリンゼイ・ケンプ・カンパニーの「真夏の世の夢」だけが、おぼんろの「ゴベリンドン」と同じ馨りを持っていて、リンゼイ・ケンプやピーター・グリーナウェイの映画祭「プロスペローの本」が好きな人は、きっと好きになる世界です。
もちろん、私も、すっかりファンになり、惹き込まれました。
出演する役者5人全てが舞台の物語の語り部となり、物語の中で息づく住人でもある。
物語りは、末原拓馬さんの声に導かれ、真っ暗な劇場で、目を閉じ、イメージするところから始まる。
目を閉じ、声に導かれるまま、私の中に広がったのは、 、 真っ暗な森の中、 小さく開けた森の真ん中に佇み、 足の裏に感じる湿った天鵞絨のようなひんやりとした苔の感触と匂い、ふと天を仰げばぽっかりと丸く開けた 木々の枝の間から蒼白いプラチナ色の満月から真っ直ぐに射し込むきらきらとした月光の粒を全身に浴び、目を転じると銀色の上に水彩絵の具のような透明な紅、黄緑、仄かな紫がたらし込みのように滲み拡がり、重なった葉を繁らせた木々が揺れ、夜露に濡れた草いきれの匂い、甘く馨る花、微かに動くと、足の裏に感じる、長く確かに根を張るごつごつとした感触、美しく儚い微かな哀しみを孕んだような森の景色。
泣きたいぐらいの美しさに、顔を巡らせ気づく、幸せな森の奥に妖しく残酷で邪悪で、絶望的に悲しい危なく不思議な入り口が微かにぽっかりと口を開けているのを。
目を開けた瞬間、その森の中に私は迷い込んでいた。
そこで語られ、紡がれて行く物語りは、家族を通して突きつけられる「愛」「生」「死」「悲しみ」「弱さ」「絶望」「純粋」「幸福」言葉を連ね、書き連ねてもなお、何かがうねり、言い足りなく、何かを言い過ぎてしまうような、言葉に尽くしがたい自分の中に蒔かれ、育ち、蔓延る、泣き出したいほどの何か。
愚かでサディスティックな王の一言で、護るべき、大切な娘の為に死ねないと作ったこの世に唯一の美しく切ない銃。その為に娘が命を落とし、絶望と悲しみが化身となって、沼に住む「ゴベリンドン」が生まれ、そのゴベリンドンの存在によって、愛する母の命を救い、弟TAKUMAを護ろうと過ちを犯した兄TOSHIMORI が長い年月の果てに引き起こしてしまった、美しくも痛ましく切ない 悲劇、「ゴベリンドン」。
高橋倫平さんのゴベリンドンは、世界が本当に幸福であったなら、その姿を見ることはない存在として描かれ、愛する娘を護る為に誤ちを犯し、護ろうとした娘を亡くし、苦しみに悶え、慟哭し、のたうち回り、苦しみに苛まれてもまだ許されない絶望と悲しみのゴベリンドンとして其処に居て、痛ましさに胸が軋むように掻き毟られた。
さひがしジュンペイさんのサビーは、忌み嫌われ、誰ひとり受け入れ、気にかけて呉れる人が居なかったが為に歪み、恨み、妬み、憎む。忌み嫌われるのは、己にもその一端の責任、己の業、そうであったなら、この世を憎むことも無かったのではないのかと感じさせるザビーとして、其処に存在し、人は誰しもザビーの種を持っている事を突きつけ、考えさせる。
わかばやしめぐみさんのMEGUMIは、TAKUMAとTOSHIMORIの母の死の真実を知っていながら、二人のための幸福を思い、何のための平和かを知っているが故に、真実に口を閉ざしていた為にTOSHIMORIを図らずもゴベリンドンと同じ過ちを犯させてしまったことを知った時の悲痛な嘆きは胸を打つ。清んだ偽善としての存在。それは、誰しもが犯し得る過ちでもある。
藤井としもりさんのTOSHIMORIは、病気の母の命を救う為に、これから生まれるTAKUMAの17歳以降の命と引きかえに母を助けて欲しいとゴベリンドンに頼みはしたものの母は亡くなり、愛する弟TAKUMAを護る為に、サビーの歪んだ憎しみに操られ自らもまた、愛と言う過ちに、許されることのない永遠の絶望と孤独と異形の沼に堕ちて行く、その姿に胸を引き裂かれそうになる。
末原拓馬さんのTAKUMAは、純粋無垢な幼さを持つ、温かな光のようなとして目の前に佇んでいた。計算も駆け引きもない、生まれたばかりの赤ん坊そのままの、幼いまでの純粋さは、どんな異形、邪悪なものさえTAKUMAを悲しみや憎しみで犯すことは出来ない。美しい魂そのものようなTAKUMAに救われた思いがした。
観ている間ずっと、森の馨りを、月の光を、闇の暗さを、痛みと無垢を、風の音を感じ、五感の全てが刺激され、蠢き、体と頭の中を感情と感覚と思考がうねり、動き、突き抜け、駆け巡り、何かが弾けて、一粒の何かの金色の種が残ったような泣きたくなるほど、美しくて儚くて、妖しく残酷で純粋で不思議な、 随所に笑いも散りばめられた素晴らしい舞台。
おぼんろの描き出す世界は、私の好きな世界で、すっかり魅せられた。この日、この夜、 この舞台の空間に身を置けたことは何て、幸せなのだろうと思った。
文:麻美 雪
カナリヤ【追加公演決定!3日19時】
日本のラジオ
新宿眼科画廊(東京都)
2015/05/29 (金) ~ 2015/06/03 (水)公演終了
満足度★★★★★
日本のラジオ:「カナリヤ」
内容は、「このへやで、ずっと好きなことをすればいい。
ぼくと神さまが、きみを一生まもるから」
母の食事に毒を盛り、観察し続けていた少女、医療少年院を出た彼女を迎えたのは
宗教団体「ひかりのて」の幹部となっていた兄、毒と家族と信仰と、地下室の短いお話。」
観始めてすぐ、これは世間を今も騒がせ続けている、松本某のカルト教団を下敷きにして織り上げられた芝居だと気づく。
信仰も宗教も、それぞれ独立していると、最初の成り立った時の思想や信心は、カルトでも危険でも歪んでもいなかったであろうに、信仰と宗教が連み信仰宗教となり、組織が大きく膨れ上がると共に得てして暴走し、危険を孕み、歪み、カルトになって行く傾向にある。
それはいつか、誤った宗教感に陥っていることに気づかずに、自分と相容れないものを排除し、人の命さえ奪うことを躊躇しなくなる怖さをも孕んで行く。
この舞台を観ると、人は如何にしてカルト宗教に嵌まり、呑み込まれて行くのかが、ゾクゾクと膚に這い上る様に解る。
上演時間の前から、舞台の隅で折り紙を折り続ける、田中渚さんの林の妹アンは、心の底に病みを抱えていることを暗示し、芝居が進むに従い、情緒不安定で何も解っていないように見えて、実は一番冷静で的確に、本能でこの「ひかりのて」という信仰宗教団体の危険さ、狂気を解っているのではないかと思った。
奥村拓さんのアンの兄、リュウタは、穏やかな顔の下に、どんな病みを宿していたのだろう。なぜ、あのようなものを製造したのだろう。なぜ、何のために 。その問が今も頭の中をぐるぐる回る。
八木麻衣子さんの広瀬は、同級生であり、教団を共に立ち上げた教祖早川が、当初の思いからかけ離れ、暴走して行くことに愕然とし、やはり同級生であったリュウタも早川の指示で、自分の知らないところで暴走と狂気に巻き込まれて行く姿を見て、自分が信じてきた物に疑問と怖さを孕んだ不安を感じた広瀬として、目の前に佇んでいた。
蓮根わたるさんの井上ヒソカは、じわじわと、心に浸食してくる怖さと不気味さ、それでいながら、妻と共に出て行った娘の事を話す時とアンに対する時だけは、ふと柔らかで温かな笑みを見せる。
教団も教義も井上は、信心しているのではなく、林リュウタその人だけに対する何か、それは恩義なのか、リュウタ自身への言葉にするには難しいある種の心酔、否それとも違う、でも、確かにある思いから人の命を奪うと解ってる素材を調達する。
自分では抱えきれない、傷、トラウマ、痛み、何かを抱え込んでしまった時、そこにカルト宗教団体があり、一見穏やかな仮面をかぶり近づいて来た時、人はあっけなく、狂気だと気づかずに狂気の中へ取り込まれ、呑み込まれて行くのだろうか。あの、ヒットラーのナチスのように......。
全ての役者が役者ではなく、登場人物その人として、目の前に佇み、観ている側は、その場面と場景に迷い込み、佇み、その人の体の中に入り、内側から観ているような気持ちになった。
家族、血の繋がり、生きる、命、清濁、表と裏、何が正しくて、何が間違いなのか、いろんなもの、いろんな感情が、いろんな思いや思考や言葉が、観てからずっと、頭と体を駆け巡っている。
シリアスなアングラではあるけれど、ただ重いだけではなく、随所に笑いも散りばめながら、見終わった後に、ずしんと何かが体の中に響いて来る、短い舞台でありながら、見応えがある素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪
トウキョウの家族
Theatre劇団子
駅前劇場(東京都)
2015/05/20 (水) ~ 2015/05/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
「トウキョウの家族」
認知症の母を抱えて、伊豆大島で民宿を営む長女浜子、結婚して大阪に住む三女星子、父が亡くなる原因を作り、長女と感情を掛け違い反目し合い、家を出て音信不通の次女月子。
母がオレオレ詐欺にあったことから、大阪からは、三女星子夫婦が駆けつけ、長らく音信不通だった次女の月子が婚約者らしき男をつれて、ふらりと戻って来たことから、伊豆大島を舞台に繰り広げられる家族の物語。
三姉妹の姿の要素は、それぞれ自分の中にあり、自分と重なり、笑いながらも何度も涙が溢れた素晴らしい舞台。
杏泉しのぶさんの長女浜子の姿は、認知症で日に日に壊れて行く父を抱えて、一番辛かったちょうど一年前の自分の姿そのままで、身につまされ、浜子の叫びは当時私が胸の中で叫び続けた言葉そのもので、浜子の気持ちが手に取るように、皮膚感覚として解り、一番感情移入して観ていた。
兄がいても、常に父の事を頼むと言われるのも、しっかりしてるの、落ち着いているの、強いのと言われ、親戚や友達、先生に言われ続け、常にそう居ることを強いられて来て、「なぜ兄には言わずに、私ばかりに言うの。解放して。」そう思いつづけたのと同じ思いを浜子が吐露し叫ぶのを見た時、「これは私の姿だ、私の物語だ」と堪えきれずに、涙が後から後から頬を伝った。
浜子と同じ位の15歳の時に、心の支えの母が亡くなり、家事をしながら学校に行き、辛くても弱音も吐けず、自分の悲しみの中に閉じ籠り、自分の悲しみしか見えていない父や兄に甘えも頼る事も出来ず、私がしっかりしなければ、この家は暗くなると泣きたくて、叫びたい時も笑って、馬鹿を言っていた姿は、佐佐木萌英さんの長女と次女の軋轢の間で、常に無理しても笑っていようとし続けていた星子と重なった。
何も気づかない振りをして、反目し合う姉たちの間で母を気遣い、せめて自分が笑っていなければ、この家の空気が重くなってしまう、みんなが幸せになる為にと笑いながらも、疲れ逃げ出したい気持ちと闘っていた星子の姿は、15歳からずっと続いていた私の姿でもあった。
大島翠さんは、姉にも家族にも素直に、優しくなりたいのに出来ない、婚約者と偽って連れて来た入れげたホストにDVを受けているのを隠して強がって、助けてと言えない家族に対して不器用月子を描き出す。
その姿は、母が亡くなる一年ほど前から感情を掛け違い、言葉と態度によって傷つけられ続けて拗れた父との確執を如何ともし難く、認知症になって、気に入らないとぶったりけったりするようになった父に、優しく出来なかった、一年前の自分の姿と重なった。
誰の中にも三姉妹の姿と重なる部分があるのではないだろうか。それを目の当たりにして、観ることによって、いろんな感情が蠢き、泣き、そして何かが放たれたように、すっきりしていた。
大高雄一郎さんの月子にDVを働く葛山は、観ていて怖くなるほど、完全に葛山としてそこにいて、迫力があった。
斉藤範子さんの母絹恵は、どんなに呆けても、母としての思いや母性、子供への愛情がふっと戻る瞬間があることを見せてくれる。
それは、きっと男親と違い、臍の緒で杜月十日子供と繋がっているというその絆の強さをも感じさせる。
三姉妹の姿に自分の姿を重ね、三姉妹の姿を通して、「家族とは何か」を、笑って泣いて、深く胸に問われた最高の家族の物語でした。
文:麻美 雪
歌舞伎ミュージカル 雲にのった阿国
劇団鳥獣戯画
本多劇場(東京都)
2015/05/06 (水) ~ 2015/05/10 (日)公演終了
満足度★★★★★
「雲にのった阿国」
出雲阿国と言えば、ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始し、このかぶき踊りが変遷し、今の歌舞伎が出来上がったと言われている、安土桃山時代の女芸能者として知られている。
評判になった阿国歌舞伎をまねて作られた、 おもに京都六条三筋町の遊女が,張見世として四条河原に小屋を掛け興行したので遊女歌舞伎とも呼ばれた女歌舞伎は色っぽいものであり、風紀を乱すと言われ、後に女歌舞伎は禁止され、ならばと前髪姿の美少年だけで作ったのが若衆歌舞伎で、当時若衆と言うとどうしても、男色(陰間、男性同性愛者)を誘発するという事で、これも禁止、 そこから男色を想起させない野郎で行われる野郎歌舞伎が派生し、以来現在まで歌舞伎は、男だけで行われるようにはなった。
因みに、阿国と表記されるようになったのは、阿国が伝説化した17世紀後半以降で、歌舞伎の創始期として語る場合には、お国と表記しなければいけないらしい。しかし、ここでは、広く知られた阿国として敢えて表記する。
その大元の歌舞伎の創始者、出雲阿国が活躍した安土桃山時代は、江戸時代に含まれるので、舞台は江戸。幕末も江戸、江戸にはピストルもブーツも入って来ているし、文化も時代も今よりもグローバルでいろんなものが混沌と入り交じり、ある種何でもありの自由な空気が漂っていた時代というイメージもある。
その何でもありの自由な空気が、鳥獣戯画の舞台、「雲にのった阿国」には溢れていた。
それは、まるで江戸の芝居小屋に紛れ込んで観ているような、これぞエンターテイメントという、江戸のワンダーランド。
石山有里子さんの阿国は、去って行き、また戻って来る者をも受け入れ、天才と言われた阿国の踊りにかける命懸けの情熱と想い、その裏で抱える孤独、それでもなお消えることない踊りへの執着と熱情が胸に迫る。
松本稽古さんの、阿国ライバルお甲は、芯の真の所では、阿国に憧れ尊敬もしているが、阿国だけが持て囃され自分の踊りに自信があるだけに、自分の踊りが評価されず光が当たらない事への不満と怒り故に反発し、阿国を潰そうとするが、それは良く出来た姉に嫉妬し拗ねる妹のそれと似ていることを感じさせると同時に、表情や踊りに色気を感じた。
渡辺健太郎さんの捨丸冒頭の、おかめとひょっとこのお面を付け替えながら踊る時の躍りの所作と動きが美しく、色気があって見惚れた。
渋川チワワさんは、台詞も歌も本当にいい声で、演じた伊達錦之助が殊にかっこよかった。
あぜち守さんの秀次郎は、艶っぽく、袂を別った後も、阿国に惚れているが故に、阿国を潰そうとする捨丸に阿国を守るために、命を賭して対峙した時の姿が男前で素敵だった。
竹内くみこさんのお福は、出て来る度に、明るく楽しく場の空気を変え、和み、好きだなと思う。
Witty Lookのお二人のパフォーマンスは、本当にダイナミックで素晴らしく、会場からも感性とどよめきが起こっていた。
亀田雪人さんの大道芸人のパフォーマンスの身ごなしの軽やかさにため息を吐き、ハイジの声で知られる杉山佳寿子さんのパワフルで一見強欲にもみえるが、気っぷの良さと何処か憎めない堺屋かねと、ちねんまさふみさんの何役もこなす、軽妙洒脱さに笑い、あっという間に終わってしまった出雲阿国。
笑って、驚いて、ドキドキ、わくわくし、ホロリと泣ける、正に江戸の芝居小屋で観ているような最高のエンターテイメントに満ち溢れ、客席からは、嗚咽と歓声と拍手が沸き起こり、おひねりが飛び交う素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪