
爛れ、至る。
elePHANTMoon
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/05/21 (木) ~ 2015/05/31 (日)公演終了
満足度★★★★
どこへ「至る。」のか?
至高の場所、それは死と紙一重・・なんていうイメージはどこからもらったものだろう。バタイユとか、サドとか。それに近いイメージをもらった映画は、古くは「エルトポ」、うんと下って「ブラックダリア」(同名の事件について劇中の会話に出てくる)、「ポエトリー、セックス」、生命の価値の相対化される恐怖「ファニーゲーム」「ノーカントリー」等枚挙に暇はないが、映画の技術でどうにか描かれてきたこの「美」と「快楽」と「死」の交錯・並立する世界を、演劇のしかも直裁な(リアルな)表現を通して描いた、希有な舞台・・と言う事はできるかも知れない。「女王様」への隷従に陶酔して行く男たちの「願望」に、少し、共感できたような気がした。 「先」がみえない苦しさより、死や闇であってもはっきりとそこにある「それ」へ、向かう欲求なのかも知れない。 この芝居は「その先」を意識する観客の理性をあらかじめはぎ取り、「至高(?)の現在」にどっぷりと浸からせる。

再生
快快
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2015/05/21 (木) ~ 2015/05/30 (土)公演終了
満足度★★★★★
この者「タダ」者ではない
主宰の北川女史、演出の岩井氏に「原案」多田淳之介の名が同じ大きさで並ぶ。その件につき、納得し、噛みしめた一時間半。「再生」とはその意味だったか・・魅力的な実験を繰り出して見せる多田氏の<上演>は、その実験的形態そのものに思想・問いかけがある。そしてこれをやる事そのものが、知的に笑える。そして考えさせられる。
その事は抜かせない。が、もう一つの興味の的は、形態を持つべき「中身」が、どう作られたか(岩井氏はどう作ったか)。・・あの「動き」は外から貼り付けられるのか、内部から引き出すものか判らないが、見る者の感覚を「穿つ」ものがある。
「違い」が意図されたものか、そうでないのかも判らないが、舞台を追う目が否応無くそこに向かうのは確か。最初は訝しく、次第に確信を持ってみる。その上で、これは何なのだと考える。男3人女4人の汗に万雷の拍手が起きるが、誰もいなくなった舞台に「問い」が残る。
刺激に満ちた時間を頂いた。感謝。

聖地 X
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2015/05/10 (日) ~ 2015/05/31 (日)公演終了
満足度★★★★
ポップなイキウメ
<瓜二つの誰それ>による混乱は『十二夜』『間違いの喜劇』の昔から喜劇の常道だが、イキウメの今回の舞台は<もう一人の誰それ>を怪奇な出来事として、真顔で登場人物に認識させ、追求させる。しかしそれでも会場に笑いが沸いたのは、古来の笑いの図式が正しく当て嵌まっていたからだろう。こんなに「笑っていい」イキウメは初めてだった。
話はといえば、よくよく考えれば実は本当の答えは判らないのだが、世間的落伍者の物好きに好奇心という名の武器を存分に発揮させ、仮説を立てて検証し、最終的解決へと向かわせる一つのサスペンスストーリーになっている。話としては一応の決着を見る。ただ決着じたいに「演劇的収まり」以上の意味はなく、ただうっすらと、超常現象とか不可解な出来事とか、現実にも起こり得るという、そういう未知な世界に今も我々が生きている事の「不安」と「希望」がないまぜに漂う余韻が、やはりイキウメの持ち味だ。
・・・と、いい気分でまとめたくはなるのだが、最後に残るグロテスクな問題がこの劇にはある。これについては「一応の解決」を見る流れで観客を納得させているが、この「グロい」存在の問いかけが、忘れた頃に「続編」としておぞましく姿を現わしそうで・・・楽しみである。(いやもしかしたら既に書いてるかも知れないが)

バルタン
studio salt
神奈川県立青少年センター(神奈川県)
2015/05/14 (木) ~ 2015/05/17 (日)公演終了
満足度★★★
素朴に、ひたひたと。
神奈川で地道に活動し、時々耳にする劇団。脚本•椎名泉水という武器を持つ。数えてみるとstudio salt観劇は今回で3度目。多くを語らず、言い切らない脚本、という印象が共通である。ただし題材は多様で、標的の題材から物語を紡ぎ出す、独自の劇作法があるのかな・・と想像させる。
会場はJR桜木町駅から徒歩10分、神奈川の演劇の拠点の一つである青少年センター(急坂の紅葉坂を登った所)の多目的ホール。横に広くステージを取り、客席も横長に設置する事が多い。でもって、黒尽くめでなく「劇場」より「部屋」の雰囲気を残す、そういうよくあるスペースだが、今回、会場に入ってまず舞台の使い方のうまさに気づく。古い学校机が一面、ランダムに(多方向に)並び、その幾つかに照明が当たっている。奥の壁の左右の端に備え付けのドアがあり、その二つだけが人物の出はけの場所だ。
開幕、漆黒の暗転のなか音もせぬ迅速な板付き。おのおのの机に座る数名の男らの会話。抜き差しならぬ状況が語られ、噂の「抜き差しならぬ相手」がやがて登場する。夏制服を来た女子高生(とみえる)二人だ。あっけらかんとしたトーンとは裏腹の、冷酷。「状況」についての事細かな説明はしないが、時代が近未来であり、端からみれば異常な事態を、維持し使命を遂行しようとする二人の間の、あるいは自身の内面との葛藤、そして受動的にそこに置かれた男達の、外的状況を巡っての葛藤、両面が描き出されている。
BGM無し(あっても悪くないと思ったが、選曲には悩むかも)。淡々と時が経過する静寂の中から、ひたひたと、じわじわと何かが突き上がって来る「兆し」が、見えた。
芝居の「濃度」×時間の短さ、により星三つ。

ロはロボットのロ
オペラシアターこんにゃく座
あうるすぽっと(東京都)
2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
15年来の至福
確か2001年、当時知っている劇団は僅か。でも鄭義信の名は記憶に刻まれていて、それでこんにゃく座のこの舞台を観た。子ども連れが多い会場が、開幕から終幕まで、咳一つなかった。演劇と音楽の「愉楽」に圧倒された時間が、本当はどんなものだったのか、15年を経た今、確かめたかった。思い出した。本物だった。幸せのつぶつぶがちらちら舞い散った。

オールライト
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2015/05/13 (水) ~ 2015/05/20 (水)公演終了
満足度★★★★
若手プラス1(お婆)
“社会派”なミナモザ・瀬戸山美咲が青年劇場に書き下ろしたのは、青年劇場らしい日常感の流れる一風変わったドラマ。開幕から八合目あたりまでが大変良い。女子高生二人は夢の「遠さ」と「無さ」に悩み、二人が巻き込まれる渦を構成する大人達(他人)は、現代の諸相を具現した人物らで、その中心たるお婆が、最後まで謎めく。二人の父親は彼ら他人とは対極にあって影響し、二人を引き合う一方の綱を握る。大団円となる終盤の引っぱりの長さが気になったが、充実の二時間芝居だ。

『いないかもしれない 静ver.』『いないかもしれない 動ver.』
うさぎストライプ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/05/03 (日) ~ 2015/05/12 (火)公演終了
満足度★★★★
2バージョン、その心は。
観賞日を変えて動ver.→静ver.順で観た。<動>は前に見たうさぎストライプ風、<静>は青年団風。主人公(小瀧万梨子)を除く同窓生と店の客が、別キャストであるばかりでなく、台詞も少し異なり、話としても別バージョンになっている。<静>をスタンダードとして観るのが判りやすい気がした。現在(若く見積もって20代前半)と、小学校高学年(回顧)という二つの時の間に、中学高校とあったはずの濃厚な時代が省かれているので、リアルに想像すると難しい面も出てくるが、生きてく上で人が「過去」とどう付き合うかがテーマになっているのには違いない。<動>を先に観たので、話を追うのに力を使い、<静>は「答え合わせ」もしくは双方の違いを確認する作業になった。<静>では飽くまで、主人公が中心にあって、謎の女の存在が彼女にどう関係するのかを注視して行くが、<動>を先に観ると、「見せ方」に凝っている分、主人公と他の人物が並列に置かれているように見えてしまった。多分、意図は主人公の話、だったはず。それには戯曲上の(誤解を招く)書かれ方もあったと思う。
「謎」が序盤に出てきて「謎解き」を欲する緊張が最後まで芝居を引っ張るが、浮かんで来るのは小瀧演じる女性の「現在のありよう」、という事になる。いじめられていた過去があっても(言うたら小学校時代の事やろ、とは突っ込まない事にして)、今は充実した「普通の」生活を送っている風に見える。その彼女の内面に何があるのか・・特殊な何かではなく、私たちの中にもあるだろう心理規制を想起させる。「だから何だ」と一蹴しても良いが、何か大事なことがそこにあるんじゃないか(謎の女の口からその事がいかがわしい形で語られるが)と、立ち止まって考えさせるものがあった。俳優の存在感が大きい。
2ver合わせて星四つ。

もっと超越した所へ。
月刊「根本宗子」
ザ・スズナリ(東京都)
2015/05/09 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了
満足度★★★★
初「ねも」
観劇のチャンスを得て、これまで触れずに居た「根本宗子」初観劇。ちゃんと話が書けている。芝居が作られている。真っ当な演劇集団と認識。スズナリの良さ・・ここは何でも出現させるのだな、と感心した一つの舞台になった。女性目線での男性描写が秀逸、これは演劇を使った「男性いじめ」に終わるかと思いきや妥協の産物とはいえ大団円。男女カップルの生態をサンプル化するが台詞じたいは生々しく、その「すれ違い」が説明的でない自然な話し言葉で描き出される。具体的な趣向はネタバレにて明かさぬが、その趣向を優先してのリアルは難易度高し。これをこなす役者は皆うまく、台詞連射して一度も噛まず。「作り事」っぽい展開(だとは後で分るが)にもかかわらず役のリアリティを貫徹、にして、エンタメ成立。客の反応が程よく、本当に楽しんでるのが判る反応というのは、良いものだな。
演劇としてのコンテンツの裏付けは、やはり男女のリアルなやり取り(特に破局へ向かうプロセス)のディテイルで、テンポよく進んでもそこをないがしろにしていない所。
二度三度足を運べば、楽しめるポイントは違って来るかも知れないが・・。

華やかな散歩
川崎郷土・市民劇上演実行委員会
川崎市多摩市民館(神奈川県)
2015/05/08 (金) ~ 2015/05/24 (日)公演終了
川崎多摩市民館で市民劇をみた。
昭和前期の作詞家・佐藤惣之助を描く2時間45分の舞台(途中休憩込み)。川崎の郷土史劇第5弾という事だが、詩人・作詞家の物語というより、真っ当に生きようとした一庶民の話という印象が残った。
治安維持法〜日中戦争の時代に、揺れ動いた惣之助がやがて迷いを脱して行く姿は、「異常な」の中で取り得る「正常な」態度・あり方の例証という風にみえる。一方に「時局」の要請に応える事こそ尊い使命だと任じる「情報部」の青年、一方には時代の犠牲となって行く人々、その狭間で苦しむ惣之助が、最終的には大衆・民衆に向かう事で真っ当さを保持し得た、という事になっている。歴史的トピックを不自然に入れ込んだような部分もあるが、惣之助の人生を通して貫くもの(一人の人間)を浮かび上がらせる事には成功していたと思う。
難点は、台詞の硬さ(脚本)、それゆえか、演技が一辺倒、というか心情の種類が一辺倒で、人間の複雑な心理描写はおよそ省かれている印象が強い(要は皆が善人)。俳優らは下手な訳ではないが、多摩市民館ホールの後部座席にも届かせるには、声量と発音との兼ね合いで微細なニュアンスを犠牲にせざるを得ない、という事であったかも知れぬ。
演技や台詞の引っかかり、上演時間が長いという事もあるが、それでも芝居としては通っており、共感できる台詞も散りばめられている(図らずも涙?)。描く視角が一定であるリアリズムのタッチで、「民」の視線が貫かれた劇。
舞台美術は上下二部屋にわたる簡潔でリアルな日本家屋の内部を表現し、部屋の上段を想念・抽象の世界として用いていた。
照明は美しく、舞台に与える効果の大きさを実感させた。

裸電球に一番近い夏
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2015/05/09 (土) ~ 2015/05/10 (日)公演終了
満足度★★★★
サザンシアターで高校生が気張ったってよ
劇団チョコ・古川健が高校時代に書いた戯曲を「軽い手直し」程度で提供し、藤井ごうの演出で実現した、高校生だけの舞台。青年劇場40周年の企画というから、今回一度きりの公演になるのだろう。9〜10日各1計2ステージ。出演者は全員都内高校生で「補強」は一切なし。大半が大人(年齢幅もある)の役で、男子が3名と少ないため男役の一部(それも重要な役)を女子が演じ、しかもサザンシアターの広い舞台という厳しい条件で、拙さが気にならなかったと言えば偽証になる。だが終幕には温かい拍手が会場を包み込んだ。
戦争末期の移動演劇隊の話を、若い彼らが演じたという、世代間交流の風景にも見えたが、古川氏の「若さ」(拙さと瑞々しさ)溢れる脚本の真剣な筆遣いが、演じた高校生たちの立ち姿と重なり合って胸が熱くなる。
高校生を「使う」なら、今時の風俗(言葉使いや流行など)を挿入し、笑いと活力を誘発する演者の「自然体」という武器を使うのが常套だと思う。が、そんなものを到底受け付けない戦争末期の話である(脚本に笑いが仕込まれていない訳ではないが、「素」になる笑いでなく脳天気キャラを発揮して周囲を笑わせる場面なので演技力を要する・・こういう場面は高校生の力量というものを如実に知らしめる)。
脚本は本当に高校時に書いたのか?と驚く代物。史実を取り上げて書くスタイルが現在のチョコレートと通じるが、史実を押さえつつ最後に予期せぬ展開が用意される。展開のさせ方(台詞の置き方)の拙さを(本人談の通り)感じさせるものの、それを上回る熱い思いが言葉の端々から伝わって来る、そういう台詞だ。
いずれにしてもこの企画のお陰で、貴重な「復刻」公演を目にすることが出来た。企画者と出演者、関係者皆皆様に、感謝。

J=P・サルトル「出口なし」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2015/04/28 (火) ~ 2015/05/12 (火)公演終了
満足度★★★★
4つめ(大人少年/chon-muop)、私としては第一位。
未読の戯曲『出口なし』がいやまして輪郭をみせてきた(読んだが早いのですがね) 舞踊系の「大人少年」と演劇系の「chon-muop」(チョンモップ)はどちらも「表現上の要点」を端的に伝えて来る快さがあった。無駄を削ぎ落とした感じは、対象と距離を保てる明晰さの表われか。
今回とくに触れたいのは「chon-muop」。地獄に堕ちた三人のみが登場し、ストレートに台詞劇を展開した舞台である。始めは言葉少なに、動きで表現するが、徐々に台詞が出て、中盤からはのべつ会話が続く。台詞は現代日本の話し言葉で、恐らくあちこち書き変えられている。この戯曲のキーワード「地獄とは、他人の事だ」が、言葉としてだけでなく役者の身体から伝えてきたと感じたのは、8本中このグループのみだ。演者がその場所を無間地獄と感じている事が判るよう、作られている。そのように構成した台本でもあったと思うが、俳優らの演じ分けが明瞭でなければこの「地獄の関係性」は真実らしく見えてこない。キャラを相当程度絞り込んでいるが、特殊なケースに見えるかと言うと、そうでない。普遍性に届く。三役者が台詞を出し通しで終幕になだれ込むが、60分を5分程オーバー。台本としてきっちり伝え切った「端折らなさ」に、私個人は戯曲の理解(従ってリスペクトも)を最も感じたグループだった。

海峡の7姉妹〜青函連絡船物語〜
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2015/05/03 (日) ~ 2015/05/06 (水)公演終了
満足度★★★★
消えゆくものへの‥
「渡辺源四郎商店」今春の東京遠征に引っ提げてきたのは、地元青森の市民参加企画で作業を積み上げた青函連絡船八甲田丸のメモリアル劇だ。ローカルな話題がどの程度受け入れ可能な芝居になってるのか注目したが、見事だった。7姉妹とは青函連絡船に関わった人、ではなく船を擬人化した7人のことだ。冒頭とラストを除いた劇の大部分がこの擬人化された船のファミリードラマとなっており、妬み反目で姉妹喧嘩もすれば家族会議があったり。そして節目に別れが訪れる。それがやたらと悲しい。人との別れも悲しいが、廃線鉄道や衰退する産業に何か胸に迫る淋しさを覚えるのに等しく、造船技術の粋を結集して「物流の大動脈」と持てはやされた時代を経て、やがて消えて行った連絡船の物語は、変わりゆくもの、消えゆくものへの郷愁が凝縮されている。人間存在の有限性から、それは来ているのだろうか・・かぶり物をしたり終始コミカルであるのに突き上げて来るこの感動の波は何だ・・と困った。
擬人化と言えば「原子力ロボむつ」の心の呟きが思い出される。「船」たちの未来・・7隻7様の生々しい「その後」が紹介される。史実それじたいが強烈に何かを語って来る。
ところで、「引き際」の美というものもこの劇では描かれている。「彼女」らがやがて消え行く事は周知であり、それでもドラマが成立するのは家族という設定、そして「去り」の美しさが描かれているからで、「去り」が美しいのは彼女らの「使命」とそれへの「誇り」が疑えないものとして描かれているからだ。
引き際の「醜さ」をあられもなく見せている、かの原子力産業への複雑な思いも、作者にはあっただろうか・・。

幕が上がる
パルコ・プロデュース
Zeppブルーシアター六本木(東京都)
2015/05/01 (金) ~ 2015/05/24 (日)公演終了
満足度★★★★
輝く星のような。。
チケットが取れたので、映画版を見るのは控えた。平田オリザ原作脚本というのもそうだが、未知なる<ももクロ>、一味違うアイドルだと真顔で論じる評論家や劇評家がいたりで、気にしていたから舞台化を必ず行こう、行きたいと思っていた。メンバーが5人である事も知らない私は、妙に5人だけ目立つ演出が「序列」の反映かと憶測するような体たらくで、どこかで見たと思った役者は青年団だったり、後で判明して納得したような案配である。劇中、体調不良で出て来ない部員が後から鳴り物入りで拍手を浴びる人気メンバーか、と思えばそんな風でも無かったり。前知識を持たなさ過ぎってのもどうかという話だが、全くのサラで見た新鮮さは替え難い。
高校演劇部の話。取り組んでいるのは『銀河鉄道の夜』。被災地の事。ネタとしてはベタなものばかりだが、ネタに依存せず「現代口語」の日常性(の中の笑い)を舞台上に展開させた脚本、そして「真情あふるる」銀河鉄道の台詞を輝かせる事のできる、ももクロ始め若いメンバー達の透明感が、何より替え難い武器となっていた。舞台美術も良い。ももクロのメンバーに「歌」を披露させる脚本上の仕掛けも憎い。女性だけなのに男性不在の不自然さがない。性別を超越した佇まい、恋だけじゃない青春・・。
主要メンバーの一部は映像向きの演技で、声量、明瞭さに欠く部分もある。だが今回初めてという舞台の取り組みには、観客と相見えて変化していく振れ幅が大いに期待される(私もそれゆえ後半日程を希望したが2日目しか取れず、残念)。演劇の動的な躍動、瞬間を生きる感覚を発見し、客席にフィードバックして行ってほしい。

ナカゴー特別劇場vol.14『堀船の友人/牛泥棒』
ナカゴー
ムーブ町屋(4階)ハイビジョンルーム(東京都)
2015/05/01 (金) ~ 2015/05/05 (火)公演終了
満足度★★★★
フェラ・クティに見劣りしないラディカル
開場時間にフェラクティの「ゾンビ」が流れ、転換にも・・。ぶっ飛んでる。ゲロゲロ。‥少し短めの前半、少し長めの後半。辻褄や心理的統合を超越した狂気の前半と、感情表出に一癖二癖の相互作用が異常をもたらす(その中に真情も覗く)後半と。俳優はダブっておらず全身全霊で全力投球。これがナカゴーの真骨頂ということか。
全員がこぞって異常化せず、一人の逸脱・暴走を「受ける側」がしっかり反応し身の置き所を選択してその場に居る様子が見える。破綻していない。だから笑えるのだろう。俳優の「仕事」に敬意を表す。

『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
ロズギル上演委員会
OFF OFFシアター(東京都)
2015/05/04 (月) ~ 2015/05/31 (日)公演終了
満足度★★★★
トム・ストッパードの代表的戯曲
やっと観れた。しかも上質な舞台で出会えた事は嬉しい。幸運だ。諸々ノーチェックで演出は鵜山氏と後で気づく・・頷ける。演出の趣向の数々。俳優の立ち方の良さ。OFFOFFシアターの小さな空間に、演劇的遊戯の世界が広がった。ほぼ二人芝居。『ゴドー』を思わせる「終わりなき現在」が続くようでいて(またそんな日々こそ似合いの二人だったものが)、運命は二人を無慈悲に飲み込んで行く・・。母体となる『ハムレット』の<本編>で展開する(既知の)場面は、同じ俳優が演じた映像として挿入され、二人にも絡む。生身の二人の間に流れる時間と、『ハムレット』<本編>の時間、両次元のズレが明瞭になる。不条理劇に思えた戯曲がこうなるのか・・感慨。出続けの二人に、拍手鳴り止まず。共感。

J=P・サルトル「出口なし」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2015/04/28 (火) ~ 2015/05/12 (火)公演終了
満足度★★★
サルトル十人十色
10団体、5組が2〜3ステージ行なう企画。既知の団体は一つ。名前のみ知る2団体(楽園王、IDIOT SAVANT)。後は全く知らないが、今年が第5回というので、一定の成果を示してきた証だろうと、観に行く事にした。全部は観れてないが3回足を運んで、d倉庫は毎回満席。毎回同じ客層ではなく、それぞれの団体目当ての客の割合が高いようだ。『出口なし』とは地獄で出会った三人が過去を抱えながら現在(三人の関係性)に苦悩する話のようだが、パンフに書かれた簡単な筋書きを頼りに、各団体の解釈による1時間のステージを観賞する。興味深い企画だ。1時間という制約は戯曲をそのままやらせず、作り手独自の切り口を要求する。6団体(一部しか見れなかったものもあるが)見て来て漸く『出口なし』という戯曲の世界が見えて来た、という感覚がある。各パフォーマンスは、舞踊ないし身体パフォーマンス系と、演劇系が半々で一組に両方が入るように組み合わされているようだ。課題そのものが難しいのだろうとは思うが、不足感の残る出し物にはなる。完成度を求めず、それぞれの持ち味を楽しむ、それには一つ観るのでは足らないだろう。一つの完成度の高いものも中にはある。いずれ、戯曲を踏まえようとすればするほどパフォーマンスとして判りにくくなり、戯曲からの飛躍が過ぎると元が判らなくなる、という矛盾の中での葛藤の代物を目にしていると思えば、嗜虐的な愉しみもなくはない。
1st.楽園王とIDIOT SAVANT。前者は、戯曲を知らない私には「話の構造」を判りやすく大掴みに伝える意図が感じられ、好感が持てた。後者は抽象的、というより断片的にしか戯曲との接点が見えず、踊りは美しい動きであるより「そこにある秩序を壊す」的な動きを多用し、構成も含めて意味がよく見えない。サルトルとボーヴォワールが登場した最初の場面は期待させたがサルトル(役の人)が前面に出過ぎ、作品でなくサルトルでまとめてお茶を濁した感が強し。
2nd.石本華子+Rosa..とaji。前者はだいぶ遅れて観賞、後者は好感触だったが内容を大分忘れて思い出せない(アフタートークの印象しか..)。ただ石本の踊りは端麗でうまく、本人から客席への語りや映像中にある「質問」がテキストに発するもので『出口なし』からの飛躍度は高いが一まとまりのメッセージを込めた出し物として成立してた感じはあった。
3rd.shelfと初期型。後者は同企画の常連らしく、「毎回こんな感じ」と本人談。前者は開演前から独自の衣裳を着込んだ4人(登場人物は3人+ボーイで4人)が横一列に立ち、若干白塗り。開始後、初演年、訳者名、ト書きから読み始め、客との対面の導入が良いと感じたが、以後はリーディングが続く。大幅カットしたはずの戯曲をずっと読み進めるので、多分演技上、発語上の判らなさが生じていた(眠気の理由はそれだと言うのは不当か?)。削ぎ落とす演出、と本人談。だが何らかの技巧的演出による「説明」は必要だったのでは。後者は地獄の三人の役+二人(ボーイ役か舞台回し的な役を担う)が、次々と場面を作って行く。質問コーナーで互いの事を聞いたり(「死因」「どうして地獄に来たのか」等と書かれた紙が出る)、一人一人のそれぞれへの思いをゼスチュアで表現したり、歌ったり(イネス役)、踊ったり(ガルサン役、エステル役)、二人が抱えた鉄棒で逆上がりや前転をやったりと目まぐるしい。しかしそれらは現代からサルトル、また三人の人物を覗き見ようとする観客の欲求に応える形になっていてこれも好感が持てた。
残る4団体も楽しみだが、全て見れるかどうか・・

ゼブラ
ONEOR8
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/04/21 (火) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★★★
初ONEOR8を雑遊で。
「雑遊はハズさない」とは成る程その通り、と思い当たり、当日券に並んで初観劇した。劇団<B面>公演とのこと。何度も再演した演目を、団員による企画で上演。それも尤もでうまく出来た本だった。それ以上に俳優が良く、役にハマってえも言われぬ。四人姉妹の現在と過去。既婚の娘二人の旦那、娘に思いを寄せる頭の足りない近所の男、間もなく結婚する娘の婚約者、葬儀社の男たち(兄弟でやって来る設定がうまい。笑える会話が満載)。描き分けられた人物の「らしさ」が悉く的を射ているので「うん」と納得させられる。いつしか全て納得したがってる自分がいる。客の思いを乗せ、そこは逆に裏切ってほしいがそれはなく、一応の幸福結末、そこが不満と言えば不満だが、そのための二時間ではないぞよ、という所は押さえて、最後はきちんと、ダサく終る。笑えた数だけ虚しくなる事のない、衒わずまっすぐに綴られた家族とそれに繋がる人々の物語。であった。

ゆうれいを踏んだ
突劇金魚
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/04/25 (土) ~ 2015/04/29 (水)公演終了
満足度★★★★
2回+αの突劇。一本通るもの有り
昨年の「漏れて100年」(同じこまばアゴラ)で興味が湧き、DVD「富豪タイフーン」を購入して観た。そして今回、当り前だが一本通じる何かがあって、それが自分に無いものなので、見えない水底を探るようなふわっとした気分である。一見突飛なキワモノな設定と人物が、小細工を弄しない舞台上で、目の前に生きてそこに居るという奇妙な感覚が、面白い。役者の存在が大きい。手づくり感溢れる?装置や道具も昨年観たのに共通するが、それしきで壊れない世界がある。最初にみえてなかったものが後から付け加わって来るが、後づけ(平田オリザの言う後出しジャンケン)の語り方ではない(後付け型の好例は拙文)。
別の言い方で言えば、戯曲の<謎かけ>の仕方が特徴的だ。謎は多いが「この疑問を解きたい」という欲求がさほど喚起されない。謎(変数)を解くための方程式が謎の数に及ばないので、解に至らない(変数がxy二つなら方程式も二つ必要)。謎は謎のまま行くのだな、と序盤で悟る。もっとも、説明が少なすぎれば観客の関心は薄まる。この話は確実にどこかへ向かっていると感じるに足る程度のヒントは残しつつ、その方向を限定しない書き方、タッチである。だから前のめりな観劇態度にならないのだが、それでも見続けてしまう。謎の代表選手は登場人物らで、主人公も例外でない。他の怪人らは元より、主人公にさえ感情移入しづらい事は、話の行方への関心を減らしているがそれはデメリットでなく、持ち味である。
登場するキワモノな人々は、マジョリティを横目で見ながら自分らの生き場所を探しているマイノリティ。そういう人達に遭遇するべく運命づけられたかような主人公の「不条理」でもあるが、諸々省略しながらも「出会い」の描き方は本質を穿っている。彼らのキワモノさを高めているのは振る舞いであるが、行為の本質は本音の吐露だ(対話が重ねられる毎に本質が顕われる見事な台詞だ)。振る舞いの奇異さゆえに感情移入を丁重に拒むが、実は身につまされるものがある。

禁断の裸体 -Toda Nudez Será Castigada-
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2015/04/04 (土) ~ 2015/04/25 (土)公演終了
満足度★★★★
不具合もありつつ‥緻密さを醸す演出
ブラジル戯曲だが三浦大輔氏が書きそうな戯曲でもあり、無理仕事の感は全く無し(同じく他者作品を演出した『ストリッパー物語』は観ていないのでそれとの比較にあらず)。ただ、性に対する禁忌の強いカトリック圏の文化に根ざして書かれた話は「キリスト教」に近い場所に居る自分にとっても理解しづらい部分があった。この部分が「不具合」にも関わる。
異文化への想像力を動員させられる作品ではあったが、美術に十字架を多用した演出はその意味で効果的におもわれた。装置もよく出来ており、乾燥した固い土か岩を削って作ったような(南米にありそうな)白茶けた造形物が小高い丘のように中央に立つ。下手には袖側へ湾曲した長い階段、中央からもう一つの階段が中段あたりのエリアに至り、そこから更に下手側に昇れば最上段のエリア(先の階段の上)がある。上手は建造物を支える数本の柱が見え、奥は暗い。両階段上の各エリアと舞台前面の広いエリアの三つが、シーンごとに道具を変えて場所を表現する。前面エリアでは、下手斜め奥から別荘の部屋が、(暗転中で判らないが多分)上手から小さな部屋のセットが運び込まれ、中段・上段の小エリアでは短い挿入エピソードに多用され、上中下と階段を組み合わせたバリエーションが多彩で、場面のリアルさにこだわる三浦氏ならではの凝った装置となっていた。
さて、俳優と演技については内容に触れるのでネタバレにて。

ラッパー・イン・ザ・ダーク
東葛スポーツ
3331 Arts Chiyoda(東京都)
2015/04/16 (木) ~ 2015/04/21 (火)公演終了
満足度★★★★
ラップ率高し。タイトルがそうだし。
3回目だか4回目だかの観賞。スポーツとはスポーツ紙、要は時事的な話題やゴシップを扱うもので、スポーツにこだわった芝居をやる団体(当初そう思ったが)ではなかった。題材を映像から引っ張って来て様々な話題を繋げたり俳優にパフォーマンスさせたりラップさせたりする。女優はサングラスを掛ける。絶えず映像が流れている。役者がこれにアテレコしたりする。ラップもする。台詞に合わせて気の利いた映像がチョイスされたりする。前々回観た時の題材は上岡龍太郎「EXテレビ」。これ確かリアルタイムで見た。煙草を吹かしながら偉そうな奴だと思ったのをありありと思い出した。この時はかなり長い喋りを主宰の金山氏がやっていた。
今回の題材はラースフォントリアー監督『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。悲惨さの中の高潔さを歌い上げた作品。映像では他に中原俊監督『櫻の園』も扱っていた。どちらも世界観のある作品で、知る人には効果大。知らない人にも「これは‥」と見入ってしまうシーンを選び、語りやアテレコが重なると、「オフザケ」してても映像の力で不思議にメッセージが伝わって来たりする。
ラップには字幕が出る。タイトルに打っただけあって、ラップが大半を占めた。日常では繋がらなない事柄を繋げ、脳のシナプスはフル稼働する。この切り口が鋭い。今回主に動く5名の女子の存在感が多大。最初にマイクを持って毒舌を吐く、知る人ぞ知る佐々木幸子は以前別の舞台で4女優がガナリを上げる中、ガナっても耳に心地良い声が印象的であった。その風貌に滲む狂気と若干エロ(叱られるか)のキャラが今回も炸裂し、ラップの声はやはり気持ちよく、遊園地再生の牛尾との半ばレギュラーの2人の掛け合いが鋭い滑舌合戦と化して見物であった。ラップは字幕を見ずに言う。頭に入れてある。他の女優も個性が滲み出て5人の組合せは絶品と言えた。終盤で台詞や口跡が怪しくなる所もあったが、これだけやるのでもちょっとした感動である。
冒頭の毒舌は今回口コミで急増したらしい観客に当てた皮肉で、「だって、どうなの?ってレベルでしょ演劇として」と自嘲。それはその通り、と言ってしまったほうが良いかも知れない。演劇としては「亜流」、映像に頼り過ぎ、など意見はあるに違いない。が、映像とコトバをコラージュし構成した「作品」は心地良く、ゴシップ・ネタは数多く、今回は例えば曾野綾子が「差別と区別は違う」とのたまった映像をピックアップしたり、よく判らないものも含めて脳内刺激薬物がふんだんだ。個人的には『櫻の園』やハードロック(ツェッペリンとかディープパープル)に関する言及が何故かラップに織り込まれたり、懐かしさが巡る心地良さも。
で、結局全体これは何なんだ? については当分説明できそうにない。演劇である事は確かだ。スポーツ紙の無い時代、新聞代わりに芝居を公演していた時代もあったのだから。大手マスコミのニュース番組は今後ますます大本営発表機関と化す事だろう。演劇が持つメディアの機能は侮れない。