私は2才 公演情報 KARAS「私は2才」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    音楽、身体、自然を思考する舞踊家
    10ヶ月振り・2度目のカラスアパラタス。「満2才」と言えばまだ始動したばかりと言えるが、この場を得た事で勅使河原三郎、佐藤利穂子とKARASダンサーズの「UPDATE」シリーズをこまめに公演する事が可能になり、観客にとっては半ば稽古過程を覗きに行く感覚でこの場所を訪れる事ができるようになった。でもって、年間100を超える上演なら、2年は遠い道のりに思える。もっとも毎日踊っているだろう二人にとっては、目の前に客がいるか居ないかの差に過ぎないかも知れないが。
     踊りはマンボと、バッハ。喋ると初々しくて、御大の三歩後ろを歩いてそうな佐藤は、舞い出すと自立した一個の生命体で、動きのヴァリエーションでは敵わない勅使河原三郎がマンボのイントロから登場し、交互に踊る。最後はマンボを二人で踊った。
     何度も書いたが踊りは同系の動きのヴァリエーションなので、つけられている変化に気づきにくく、また照明がかなり抑えられている事と、そのため手先(黒服からそこだけ白く出ている)の速い動きが線の残像となって眩惑する事から、睡魔との闘いも大変だ。 だが身体言語とでも言うべき「一連の動き」が伝えようとして来る文脈と、これ読み取ろうとする観客との水面下の対話は、いかにも高尚なコミュニケーションである。
     終演後、儀式のようなカーテンコールを手際よくこなした後に10分程のお喋りがあった。そこで強調されていたこと・・「音楽」へのリスペクト。また、音楽がその中に擁している「自然」。身体も自然の一部であり、音楽との呼応がある。人工的なものの中でしか生きれなくなった人間にとっての自然、また舞踊の生まれる海としての音楽、それらを身体を通して見つめて行く歩みを続けて行く決意を「2才」になったアパラタスで二人は語っていた。
     演劇と一線を画する抽象性の高い舞踊は、抽象であるままに思考し続ける身体の芸術だ。大衆受けして家が建つようなジャンルでもなく、何をやってもいいという制限の無さは、どう踊るのか、あるいはなぜこう踊るのか、についての自問を求めるのだろうか。その思考はきっと社会的存在としての身体への洞察にも至るだろう。 このストイックな思考の行方を、時々、見守りたい。

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    2015/08/09 02:02

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