夜を歩く
劇団肋骨蜜柑同好会
新宿眼科画廊(東京都)
2023/12/08 (金) ~ 2023/12/12 (火)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
映像にて拝見。久々に観た肋骨蜜柑の今作はフジタ氏作でないので比較評価する基準がないが、フジタ氏特有の難しいフレーズ、概念を橋渡しに用いる手法?は封印。新宿眼科画廊というスペースを活用した趣向とテキストが有機的として独自に立ち上がっていた感触。喧騒の都会の深夜が時限的に異次元となったのか、迷い込んだ者の実は錯覚か幻覚か、何組かの会話・エピソードが並行して群像劇風。奇妙でいて懐かしいような体験に誘われた。
映像鑑賞の一度目は得てして抜けが多。二度目の視聴をしようと思っていたらPCトラブル、期限が来てしまった。何かもっと発見がありそうだったんだが・・
境界
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2024/01/06 (土) ~ 2024/01/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ期に配信でみた一人芝居で知った劇団。劇団の歴史はそれなりのようだが出演陣は益田喜晴氏(喜頓と読みそうになる)がベテランの域である以外は4名とも若手(と見えてover thirtyかも)の男女。皆が劇団員風情であるが、にしては?中々の実力。短編は既存作品とオリジナルを織り交ぜた11編。「境界」とは格差、無理解の壁といった幅広い概念だが、冒頭の「笑顔」は教団信者の作り笑いで教会に引っ掛けたな、とふと彼らの手にあるビラを見ると「ものみの・・」おっといきなり実名??と窺っていると、徐に客席にそれを配り出す。見れば「ものみの櫓」、なんじゃこりゃであるが開けばおみくじであった。・・といった正月らしいのがこの公演の趣向、一つ一つが楽しめる短編集としたのもそうした事のようで最後はプチ獅子舞も登場した。チェーホフの短編や、思わずぐっと来る山本周五郎「壺」、トリは落語「井戸の茶碗」(要諦を押さえつつ最短化して上出来)。等織り交ぜながらオリジナルも気の利いたお話。中でもやや長尺の「消防民営化」(近未来)「国境」(現実)は現今の「問題あり」な風潮を抉って笑わせ、何気に秀作であった。
こういう風刺の効いた劇は例えばロシアだとか、どこか「後れた国」の融通の利かない役人や金欲性欲に弱い地主、地方領主はたまた王様など煮ても食えない権力を揶揄する話だと昔は思っていた。
今はわが国の話である。
長い正月
20歳の国
こまばアゴラ劇場(東京都)
2023/12/29 (金) ~ 2024/01/08 (月)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信にて鑑賞。音声に若干難ありだが、演技がしっかりしており、凡そのやり取りのニュアンスは分かる(キーになる台詞は何度か再生して確認するしかないが..)。20歳の国は恐らく8年前位になるか、一度観た切り。コロナ期に配信用に取られたフィルムは観た。
芝居が始まると奇妙な会話があり、その内「大正何年」という語が出てきて、リアリズムの時間が流れ始める。そして時折時空がふと飛んで世代が変わっている。100年の話という。逆算すれば1924年(大正13年)が起点。日本史的な事情が介入する隙もなく家族の内部の物語が進行する(一箇所、戦災孤児という言葉は出てくる)。人情劇に流れず、しかし情は溢れ出ている。外に出て行かずとも家族という自転(自然な営み)の中に劇的瞬間があり、全てを擁する世界がある。その発見。
『赤目』『長い墓標の列』
明後日の方向
座・高円寺1(東京都)
2024/01/11 (木) ~ 2024/01/18 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「長い墓標の列」。一年前にワークインプログレス(という名の公開稽古)を拝見して本公演が観られなかった作品。出演陣はどうやら新しいが、男女役入替えの趣向は変わらずで、一年越しで成果を拝見の趣きである。
役人物が独特の立ち上がり方をする。女性は男性を演じるに不十分な身体、逆も然り。人形=形代の様式を連想するが、演技態が統一されてもいない。ワークイン..ではこれに加えて女優が素の女性に戻ってキャピキャピ演じたり遊びを織り込んでこれは悪ノリでは、と否定的評価であったが、見て行く内に骨太な戯曲が立ち上がって来たのであった。
ネズミ狩り 2024
劇団チャリT企画
ザ・スズナリ(東京都)
2024/01/06 (土) ~ 2024/01/08 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
劇作家樽原氏の新境地!?と思ったら過去作品の再演。初演は2008年王子小劇場、再演2011年3月(楽日2日前に震災)アゴラ劇場。後者のチラシは鮮明に覚えていたが、何と13年前とは。。
今回はスズナリで短時日での上演との事で馳せ参じた所。チャリTの他作品とは一線を画する作り込み舞台(そば屋の店内)、抽象的な装置が一切ない。芝居も回想や他場面挿入がなく全て時系列に沿って展開する。笑い要素は若干入りつつも終始リアリズムでテーマ性もはっきり浮かび上がる。へーこんな戯曲を書いていたんだな、と敬服した。今回主役(女将役)を演じた女優が好演(割と近い過去二度程見た記憶)。青春事情舞台で二度見て覚えたおばさんキャラ笑わせ女優も配して、安定の舞台だ。元服役者の社会復帰の困難さ、世間の偏見、死刑制度の是非・・。
芝居では被害者目線で加害者に極刑を望む側と、加害者の人生に寄り添う側の対立が、姉妹(女将とその妹)のついに暴発した口喧嘩の中で顕現する。度々訪れる雑誌記者を手厳しく追い払う若手(だがベテラン)そば職人にも溜飲を下げる。悪く描き過ぎとも言えるが、SNSやネットでは姿を現わす偽善塗れの下衆人格に肉体を与えた役として、私にはリアルな「存在」に見えた。
事実愚かな世論が適切な被災地支援に積極的とは見えない政府を指弾せず、「言いつけに背いて」現地に入った議員を攻撃する誘導にまんまと乗せられる現実。こういう時いつも思い出すのが「未必の故意」で安部公房が描いた人間たち。利害の前には非合理を恥じないとある島に暮らす土着日本人の実態が日本人精神の「淵源」を抽出したようで興味深かったが、実は今の姿だった。。
いま思い出した。アワード投票が、昨日まで‼︎ ウーまたやってしまった。順位は決めていたのでこのネタバレ欄に紹介しておく。
日本演劇総理大臣賞
ロデオ★座★ヘヴン
駅前劇場(東京都)
2023/12/27 (水) ~ 2023/12/30 (土)公演終了
実演鑑賞
柳井作品には討論劇の系列があった、と思い出した。戦時期日本の「表現」にとって厳しい状況で、えんげきにまつわる二つのシーンが交互に描かれる。二つのいずれ分かるが、その一つがタイトルになってる賞の選考会議。「12人の怒れる・・」を下敷きに(もろパロって)進むエンタメ路線と、深刻な状況がうまく融合できていた。
日本演劇総理大臣賞
ロデオ★座★ヘヴン
駅前劇場(東京都)
2023/12/27 (水) ~ 2023/12/30 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
総理大臣名義の演劇賞というタイトルから勝手に演劇人の自虐、皮肉を読み取り、作者柳井氏の新境地?とシニカル系コメディを想像して「余話」を観に行った所が、もろシリアス劇。一体どんな本編が?と前振りにまんまと乗せられ足を運んだ。
とある劇団の芝居の稽古場面と、日本演劇総理大臣賞の選考会議の場面が交互に描かれる(最後にはその関連が分る)。
稽古場では演出家の病欠のため作家(澤口渉)が駆り出され、三人芝居の場面稽古を進めているが、「演出はこうは言わなかった」「じゃ俺に聞くな」等のやり取り。そこへ大きな咳払いをし口を挟んでくる者がある。刑事である。「色恋の気配は好ましくない」等と難癖をつけ、「検閲で引っ掛かる」「検閲で言われたら直す」「私が検閲官に申し入れても良いのだぞ」が作家と刑事の毎度のやり取りとなる。俳優の一人桑山(鶴町憲)は「聞く必要はない」と強気だが、劇団主宰で女優の雪子(百花亜希)は制止する。
一方選考会議は開始早々、「12人の怒れる・・」のフォーマットが現われる。選考会議の趣旨にそぐわぬ進行だが「12人」が下敷きだと分ると飲み込める、ただしパロディ、逆転劇という娯楽性に引っ張られるリスク。だが選考に残った二作品の内容が観客に推測でき、討議の帰趨(勝ち負け)より「内容」へ集中できる具合にはなっていた。
選考委員の約全員が推したのが「紙吹雪」、一人だけが「残り火」を推した。
「紙吹雪」を推した委員の面々とは、まず委員長である日本演劇界の重鎮・岸(榊陽介/当人至って真面目な性質)、彼を「先生」と持ち上げ高慢に振舞う若手評論家・諸星(伊藤俊輔/「12人」では最後まで容疑者を犯人と決めつけている役に相当)、女流劇作家小谷栢楊(ハクヨウ/島口綾/場違いな所に来たと及び腰で付和雷同)、今一人の女性劇作家・宮古(小口ふみか/堂々と自説を語り自立心が強い)、演劇雑誌発行人をする古橋(高野絹也/かつてプロレタリア演劇に傾倒した)。
一人「残り火」を推したのが、演出家・羽田(ハタ/音野暁)。評論家諸星は彼を詰って「残り火のどこが良いのだ」と迫るが、議事によりまずは「紙吹雪」を推す弁を聴く事となる。
この話の筋は聴いていると岸田國士作「紙風船」そのまま。だが最後は隣家の庭から紙風船でなく、紙吹雪が飛んで来て、夫婦の倦怠に嫌気がさした妻が家を出て行く、となる。
一方の「残り火」は、実は劇団が稽古をしているその作品だ。選考会議で「紙吹雪」の優れた点が挙げられて行く中、「残り火」にもそれがある事、さらに時代と切り結ぶ批評性において「残り火」が先んじているとの評価に辿り着くのだが、稽古シーンで芝居が掘り下げられて行く(そこに刑事が持ち込む難題も絡んでいる)プロセスと、選考会での議論がシンクロして行くのが終盤である。
劇団のシーンの進行の過程では、演劇人の一斉検挙といった事件もある。そして最も割かれる議論は、プロレタリア演劇への弾圧から「転向」した彼らが再び公権力に屈する屈辱に抗おうとする中、「制約を飲んででも優れた芝居を世に出すこと」が出来るのか、であり、その可能性を信じ、見出す姿勢へと劇団は変化を刻む。女座長は刑事と二人になった時、検閲に掛かるだろう箇所を事細かに指摘し続けてくれた労に感謝を述べるシーンがある。刑事の顔に表情が微かによぎる。劇の終盤で作家が召集令状を受け、三日後の出発だと団員に告げた時、この刑事が頭を垂れている(台詞はなく、見過ごされて不思議でない)。
作家は戦死し、「残り火」は土壇場で上演不許可となる。
選考会で「残り火」を推した演出家とは劇団での演出であり、時間的には選考会が暫く後の事、作家の弔い合戦であったと分る。選考会議では最後の一人(頑なな評論家)が私的事情(妻との離婚)を暴露され票を変える所で結論が出るが、同席した役人である嵯峨野は平然と「総理は「紙吹雪」を殊のほか気に入られている」と最初に言ったはずです」と、暗にそれに沿って会議を進めるべきであったと岸を難じ、相応しい議事を設えて提出するように、と言いおいて席を立つ。
日本演劇総理大臣賞、という賞が実際にあったのかも?と観ながら思ってしまったが、それは無いようである。
本作では選考会議が「評価」を為さねばならない作品が二つ登場するが、史実に基づかないフィクションにおいて難しいのはこういう所で、「選考に残る作品」は実際に戯曲の中には具体的な形で存在させる事ができない(劇作家の中である程度の想定はできるだろうが)。選考会議での議論の描出に厳密なリアリティを持たせる事はその意味で困難。作者が念頭におく「演劇作品の評価軸」を語る材料として辛うじて存在し得るにすぎない。従って、結論ありきの議論となり、穴は沢山ある。
が、その疵を凌駕するものがある。
「残り火」の主人公の女流歌人は、著名な歌人の有力な弟子(既に売れてもいる)でありながら袂を分かたざるを得ず、歌人の道を諦めて山奥にいる従兄の下に身を寄せていたが、その彼女の下に弟弟子に当たる青年が訪ねて来る。姉弟子の変わらぬ意志の前に身を引くしかない青年は、去り際に、自分が作った句の評価を求める。酷評を受けるが、ふと彼女はこう直せばいい、と直しを提案する。一つの印象的な句が出来上がる。恐らくは彼女を慕っていたのだろう弟弟子を見送る、姉弟子の中に、新たな生の活力が宿る。(そんな感じのラスト)
師匠に破門された身で句作を、それを世に問う道を諦めた彼女は、師匠に従わなかった事を以て意志を貫徹した自立の人であった、が、弟子は彼女に俳句を作ってほしいと懇願しに山奥を訪ね、彼女が頑なに閉じていた句作への扉を静かに開く。
選考会では、「紙吹雪」が持つ現代性、批評性、観客との対話といった評価軸が、「残り火」にもある読みへと導かれ、表現を巡る息苦しい世相の中におかれた演劇の現在に、「残り火」の女歌人は重ね合わせる事ができる、優れて現代的な作品、という理想的な結末に至るのだが、時代の大きな力の前では雑草の茎を折るようにあえなく潰される。架空の演劇賞選考会議であるが、仮にそうしたものがあったとして、そうした運命にあるだろう。2020年からのコロナ禍の下で味わった演劇製作者の無力感が、反映しているように私には思えたが、日本社会が芸術を不要不急とした事の疵は深い。コロナ下の中でも棲息できた芸術文化は勿論あるが、私という人間にとっては(芸術が不要不急ではない人間にとっては)大きなダメージだった。芸術文化「以外」の人間の営みの「尊さ」を思い出させる場面が、果してあったろうか。むしろ逆ではなかった。
時代が窮迫の状況を迎えたとしても、この芝居の演劇人たちのように劇作りにこだわり、芝居を作り続けようとする営みを、今の演劇人たちも続けようとするのか・・という問いを私は読み取る。同時に、彼らの営みを私たちは応援するのか、その勇気を持ち続けられるのか・・も問うている。
ジャズ大名【愛知公演中止】
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2023/12/09 (土) ~ 2023/12/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
当日あたふたと劇場へ急ぐのはいつもの事で。KAATホールでの観劇は片手に収まるが、同じ劇場と思えぬ程毎回風景が変わる(地点「光のない。」、SPAC「マハーバーラタ」は装置自体が特殊だが通常使用の「蜘蛛巣城」とも随分)。
席は一階後方エリアの半ば、ぐっと下手寄りの位置からステージを眺む。
例によってキャストチェック疎かに劇場入りし、ガンガンマイク使ってんなーでもギリ気にならない程度、若殿様が目立ってるから若手の人気俳優なんだろう、あの女性もどこかで聴いた声だ、など。後半になって藤井隆は判明。が他は最後まで不明のままだった。(知ってる俳優もさほどいなかったが。)
そんなこんなで「誰が出てる」関係なしの観劇にて、ノリの良い音楽三昧の舞台を楽しんだが、クライマックスはほぼライブ。そうなるよなー、という感想であるが、芝居の部分でも面白い所はある。流れ着いた黒人3人を取り合えず収容した牢に、家来共も足が向いてしまう。黒人らが楽器で奏でる音が蠱惑的でついもう一度味わいたくなるらしい。若殿が何げなく座を外してこっそり行ってみると既に大勢が居た、というオチが芝居の意外と序盤に来る。なら次は彼らがどんな風に「音」にハマって行くか、面白く描かれるんだろうな・・という期待には、まあ合格点の満足度。
ドラマは黒人らがそこに流れ着くまでの回想(それがジャズ誕生までの音楽史解説にもなっている)が大きく挟まり、伏流として藩を取り込もうと暗躍する女優による軍団とえじゃないかの面々(一般人から公募したような面々)が絡む。風雲急を告げる幕末の世相と、蠱惑的な音色にハマる者たちの対照。体が自然と動いてしまう音色には、庶民も(耳に蓋は出来んから)取り込まれる。当時武士のたしなむ音楽を庶民が聴く事はご法度であった、とナレーション的に説明され、若殿が「これからは庶民も聴いて良い事とする!」と宣言して場が湧くのだが、ここは「掟?そんなものあったかの。耳に蓋は出来んのだから聴いてよし、楽器も鳴らしてよし、何をナンセンスな事を言いおる」とサラッと流して次に進んでほしかった。既に事態は規範を外れた領域なのだから。というより、音楽によって内的な身分の垣根は無化されているのに、殿様が宣言しなきゃ許されないという感覚がまだ君たちの中にあったの?となる。
芝居の終盤は地下牢に集まった者たちの中で演奏がポテンシャルを上げ、音をかき鳴らし狂い踊るライブの時間となる。延々と続く演奏は気づけば幾晩にも及び、その間に地上では戦乱が通り過ぎて領地は荒れ野と化していた、というオチになる。
生演奏は舞台下手上段に組まれたエリアにて、8名程の楽隊がやる。中央上手寄り中段にはドラムス、上手にギター。楽器が弾けるキャストも居て、出番がある。
この演奏であるが、耳に覚えのある響きであったが今になって思い当たったのが渋さ知ラズ(バンド名)。管楽器の重層の上にソロ楽器のみならず、白塗り舞踏ダンサーたちが遊び、祝祭空間が出現する。ジャズ大名の演奏の狂乱は確かに重なるな・・。この三日三晩の演奏では照明、映像の大々的演出と、衣裳を変えた人の出入りによるバリエーションをこれでもかと見せてくる。今少し前の席にいたらトランス状態に引き摺り込まれたかも? しかし・・渋さ知ラズのノリは抵抗の香りがある。コンクリートにひびを入れる。それが何かはうまく言えないが、鉄の扉を開ける力技よりも、扉が変質してペシャっちゃうよな脱力の「力」、ここは音楽性の問題でもあろうが、その線も欲しかった気がする。地上との物理的な距離に守られてではなく、自らの音への没入によって俗世とは異次元の世界が生まれていた、そんなニュアンスを感じたかったかな・・と。中々抽象的な次元の話かも知れないが。。
だが音を楽しむ人たち、を信じる事はできた。好意的評価。
『雨降らす巫女の定置網漁』
抗原劇場
SCOOL(東京都)
2023/12/22 (金) ~ 2023/12/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
最初に風景が立ち上がるのが良い。語り出した女性の、言葉によって、人が使わなくなって寂れた「空港」が提示されると、そこに風が起きる。パリ・テキサスかバグダッドカフェの乾いた空気がふと香る、気がする。
四人の登場者が、モノローグでそれぞれ語る。最初の話者が言う。かつて日に何十機もが発着していたが、今は人の姿もまばらで、恐らくこの飛行が最後になるのかも、と仄めかし、人類が火星に移住してしまったか、人口が減ってしまったか、この「地球」を舞台ににぎにぎしく生を営んでいた人類は、舞台からほぼ退場したらしい。
他の話者が語った文脈は今思い出せないが、絶滅しかけた人類であってもそこに人が居れば生の営みがある。取るに足らないような小さなこだわりや感情、感覚が、どんな状況にあってもその人間が彼・彼女自身である事の不可分な要素である。その言葉を、彼らが紡いでいる、と見える。もちろん作者がそのような言葉を(凝縮された劇の言葉を)書いたわけであるが、批評的だ。日本がイケイケである事、日本人はスゲー存在である事、を前提にしなければ「その人」では居られなくなるとすれば、「彼自身」は何処にいるのか・・。
抗原劇場は二度目。過去一度観たパフォーマンスもどことなく見入ってしまう要素があったが、今作がより各テキストにまとまりがあり、各様の風景が見られた。
ゼンイとギゼンの間で 呼吸する世界。。
エンニュイ
エリア543(東京都)
2023/12/23 (土) ~ 2023/12/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
最初に観たリアルな「会話/議論=会議」(の劇?)、そして神奈川短編演劇祭での人の動線の軌跡(線図)と現代的発語の奇妙なミキシングの実験、配信で観た超リアルな居酒屋会話劇(葬儀を終えて死者にまつわる噂の真相や本音激白的な)と、「色々試してるユニットなんやなあ」の印象。
今回も初めて訪れる場所(SCOOLより狭い?)で雑多な舞台上にて、どんな具合に「いなされる」かと見始めれば、がっつり二時間超えのドラマのしっかりとある、構成された劇であった。照明も中々の変化をもたらす。
とは言え空間の右端に居座ったギタリストがエフェクターやプロジェクター、それらの付属機器にとどまらず小物をいじくったりそれを叩いたり音ともいえぬ音を立てたりしており、「音」だけでなく光に干渉したり、壁のあちこちに貼られたり吊るされたりしてる物の内近くにあるものをはがしたり外したり、法則性があるのかないのか不明な動きを常にしている。・・って所は実験の要素だろうか。
舞台ではできる役者たちがマジに演じている。
後で聴けば本作はこのユニットのデビュー作品で、台本として存在するものを元に作る(言わば普通の)演劇であった。
人が表面上繕っている己と、本音との間には、二種類のそれではなく薄さ厚さがあって故意と無意識のグラデーションもある・・そうした表現は中々(新劇俳優などには)難しく、微妙なニュアンスの表現と言えば最近では加藤拓也氏の舞台にそれを見るが、脚本がそれを要請するものである事は重要だし、より緻密な観察と想像力を求める要素があるだろう。
本作では人物らが本音と分かる激情が露出するが、それに至る人間感情の「微妙な線」を示唆する時間も、観客の目を釘付けていた。不思議に心地よかったり不快だったりするバランスと、混沌も含めて、細部に表現を届かせている事の演劇のレベルというのも変だが質的な価値、早い話が「よく言ってくれた」思いがじわりと湧いてくる。そして少なからず揺さぶられた。
世代的には四十歳という色んな意味での分岐点を迎えんとする世代の社会人感覚が基調。経済的自立と芸術の道との葛藤、効率重視社会とアートの関係、そのアートの営みも「表現したい」と「売れたい=知られたい」との間で引き裂かれる葛藤が常態である事など、主人公の属性もあってアートの側に常に暗雲が垂れ込める。が、単純な二項対立の生成と解消といった筋に本作は流れず、対立の軸が動く。理不尽なまでに動き、最終的に何が収まり所であるかも分からない。だが、作者の「最後に本音が出れば本当の解決が見える」(といった芝居は多い)なんて事にはならない、という「本音」は漏れ出ていた気がする。そこにも妙な説得力がある。
閻魔の王宮
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2023/12/20 (水) ~ 2023/12/27 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
劇場に着いて上演時間を確認。三時間。おっと。次の予定は断念し、今日はこれ一本と腹を決めて観劇に臨んだ。
大作となるのも分かる大テーマ。1980年代に起きた中国での薬害問題(事件)を、血液製剤を作る科学者たちと、貧困脱却のため売血が隆盛となった河南省の農民の両側から描く(両者の接点はある)。
中国?と訝る向きもあろうし自分もその一人だったが、この戯曲を書いた女性作家は名前に中国系が入り、米国に生まれてから生育期に台北、沖縄、北京と居所を転々としている。中国で起きた血液製剤を介してのHIV感染(日本でもあったが同じ構図)と闘った実在の女性研究者を題材にこの作品は書かれ、英国で2019年初演、日本での今公演が二回目だという。
人間が描かれている。前方の列で間近に観たせいもあるか、人物のかすかな表情の揺れも見えた。「エイズは西欧の病気だ」と言い放ち、「血液収集のスピードをこれまでの三倍で」との外国製薬企業が提示した条件を飲んで契約をした「兄」。他に先を越されたくなかった彼は、同じ研究者でもある弟のその妻(清水直子)に、新設する血液センターの所長に就くよう懇願する。最終的ここでの無理が、安全後回し・効率優先の処置・管理を招き、やがて薬害への道をたどっていく。
彼女の夫は平穏な家庭生活を望み、彼女は科学者としての正義を望む。冒頭の場面は仲の良い弟夫婦の宅に、兄が若い新人研究員(女性)を連れてくる楽しい場面。明るい前途を信じる彼らの間では、ユーモアの滲む会話が弾む。そこからボタンが一つ一つ、掛け違って行く過程が描かれていく。
彼らが住む都会の場面が舞台の平場で描かれると、今度は舞台上を横断する大きな台の上で、二役を担う俳優が、農民たちの生活場面を演じる。鉱山労働の期間を終えて兄弟が戻ってきた故郷では、貧困にあっても明るさを忘れない彼らの暮らしがあるが(その明るさの大きな要素として次世代への期待がある)、その暮らしにも少しずつ、影が落ちる。
抽象的な舞台(美術)と具体性の高い台詞劇の対照が緊張をもたらし、異化され通しなのだが、人物たちの真情が芝居を膨らませていく。
「告発」に向かう妻に「君が居なくなったら何にもならない」とあくまで引き留めようとする夫が、彼女の思いを理解し送り出す場面。だが結果的に彼女は当局に捕えられ、夫も捕まりスンでの所で命を残される。数ヶ月の実刑を被るのは兄。その妻となったかの若い研究者は、夫と共に地獄への道をひたすら進んで行く。
この件があって「もう自分にやれる事はない(やれる事は全てやった)」と観念した妻は、かつて献血(売血)の現場での事故に立ち会った農民の家族と出会い、エイズを発症した彼らの置かれた現実を知る。そして再び「告発」へと踏み出す。そして決定的な決別の時が来る。家族を愛しながらももっと大きなもののために踏み出す彼女の穏やかな表情、夫に対する失望を悔しさと共に吐き出され、何も言葉が出ない夫。パンフによれば、作者の父がこの題材を彼女に提供したと言う。父はかつてこの女性と同じ職場にいた事があり、彼女は救国の徒=ジャンヌダルクのように言われていたという。
貧困から抜け出すため(それは家族の誰か=子どもたちのためでもある)売血を選んだ家族(河南省では多くの人間がこれで収入を得る事となった)は、妻を亡くした長兄の一人娘を除き、皆売血をした。長兄も最初拒んでいたが、娘のために信念を曲げた。次兄夫婦とその息子、遠方の姉とその息子、祖父たちは、場面が変わるたびに体の各所に少しずつ、斑点を持ち始める。息子にもそれが出た。娘は大学に合格する。深い事情を知らない娘に、父親は絶望の中の希望に語り掛ける。お前はこれから沢山を学ばなければならん、だから帰って来るな、いいか前だけを見ろ、どこまでも自分の道を行け。
報われない死と対峙する者、一縷の望みを託す者、そして託された者、人の命が辿るシンプルな形が、真情が、胸を打つ。
Strange Island
Nakatsuru Boulevard Tokyo
サンモールスタジオ(東京都)
2023/12/13 (水) ~ 2023/12/20 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
本ユニットの芝居は立ち上げ公演を含めて2本、配信で観ていたがこの度初めて劇場にて体験。画面と音量を調節しながら視聴するのと違って、おートラッシュ並みに叫んでるぞと。え~そこでその台詞を叫ぶか~的中津留戯曲+演出特有のくだりが例に漏れずあったりも含めて、終始面白く観た。
ストレンジ・アイランドとは日本の事かな?と想像していたが、架空の都市が舞台。横文字(英米系)の名前で呼び合う。
貧乏人の住む裏町、金持ちの住む表町という設定は、格差社会を極限化した近未来か、歴史上又は現在どこかにある状況か、しかしいずれにせよ現実社会のメタファ。
格差を容認する社会の行き着く果てのルッキズムへの言及は、自然淘汰や命の選別問題を想起させる。「美」を愛でる心を肯定し、その返す刀が醜さを蔑み、その持ち主たる存在を「切り捨てて良い」理屈を暗に肯定する。
・・表町の人間は「美しい」婚姻相手を選ぶ力があり、結果表町全体の容姿レベルは上がる。人々は美を求めておりそれを追求する権利がある・・。
傍若無人な発言を繰り出すのが、後半頻出する市長(村上)。彼はローマ帝国の皇帝のような衣裳で歩く。
(「美は多様である」との言葉がこれに対置され得る。が、この問題、個人が個別具体の思考と体験を経て「解答」を手にするしかない類のものだ。)
芝居の前半は主に裏町を舞台に、来たる市長選で現職を引きずり下ろすために候補者を立て、格差放置の政策を改めさせようと画策する者たちのグループや、彼らとは距離を取る者、選挙前に金を配りに来る市長の手下に金額の交渉をしようと画策する者らが、居酒屋に出入りする。
そして立候補者である女性(姉)は闇商売に足を突っ込んだ妹を持ち、父が妾に産ませた子である彼女らの前に、父の家業を継いだ「本妻の娘」が現われ軋轢を露見させたり、市長派、反市長派の潜在的対立が緩やかなドラマの動きを見せる。
また色恋の話では、不動産業を継いだ表町の男が店を訪れ、表町と裏町の違いに全く無頓着であるらしい彼がいきなり材木屋の娘に「結婚を前提としたお付き合い」を申し入れたり、市長の手下で悪い商売に手を染めている青年も、幼なじみである同じ女性を下っていたりする(親同士が二人の結婚を約した経緯もあるが彼は結婚のために手を汚して金を稼ごうとしている)。だが相手は「悪い事をしている人は嫌い」と何度もやっただろうやり取りを繰り返す。といった伏線が織り込まれる。
エピソードを全て紹介する紙幅と余力はないが、この後幾年かが過ぎ、人物らの状況の変化がある。トラッシュ作品の名物でもあったこの二部構成は、まるで変わっちゃってる面白さが笑えもし、人間の浅はかさを炙り出しもする。
波乱に富んだそれぞれの人生の歩みの中で、壁に突き当たり、真実に気づいて行く群像劇的なドラマの帰趨が控えている。だがこのドラマには狡猾な悪役とその忠実な僕が存在する。
「変化」の幾つかは劇的で、多様だ。真摯に生と向き合う一人一人の内なる心を垣間見せる一方、打算と権力への固執を続ける者が、手段を選ばず、少なからぬ犠牲を生む。冷酷なドラマでもある。既に構造的なレベルとなった悪弊が、膿を出し切るプロセスとはこういうものだ、というサンプルのような逸話と見るも可能。当然、日本の現在が重なる。
萎れた花の弁明
城山羊の会
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2023/12/08 (金) ~ 2023/12/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
三鷹・星のホールで何度めかの城山羊の会。
ここの名物は演劇担当森元氏が冒頭のあいさつから少し芝居に噛む事。今回は舞台上に、劇場の道路に面した外観が出現している。森元氏の挨拶の後、岩谷氏が現われ、質問を投げる。そのやり取りから芝居が始まる。
今作はこの岩谷氏が何のためにそこにいるかの説明がないまま、ずっと居続けている。彼が主体性を発揮するのは全て「性欲」に対する知的関心とその発散への関心について。ただし彼は凡そ観察者であり、観察される対象として登場する「もっとも下半身のだらしない」男として岡部たかしが登場する。
出演陣の中で今回の関心は劇団普通の黒川女史であったが、新人マッサージ師として岩谷氏の前に現われ、その黒髪と風貌は中国人風で思わずマッサージと結びつけて連想してしまったが、実は信仰厚い日本人シングルマザー役。素にしか見えない(城山羊でのゲスト俳優の特徴?)。もう一人の注目はミルクホールのJ.K.goodmanであったが中国人役を適当中国語で好演。緩いグダグダな芝居を締めているのは、個々それぞれの中の欲望(それも下半身に近い方の)であり、人間としての振る舞いの背後に「欲望」が薄っすら見えるのが楽しい。
夜の初めの数分間
劇団牧羊犬
王子小劇場(東京都)
2023/12/13 (水) ~ 2023/12/19 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
話の出来の良さに驚き、「おやおや」と引き込まれた。この世界がある変化を遂げた事が芝居の序盤、(後で分る)写真家役によって説明される。これを聞き逃したらちょっと理解が難しくなったかも知れない(間に合って良かった)。
鏡に人の姿だけが映らなくなった世界。過去にも同様の設定でドラマを書こうとした人はいただろうしメタファーとして利用した芝居を観た気もする。だが、科学的にあり得ないこの設定が「ある」と端から観客を招き入れる芝居は初めて。意外に破綻が訪れず、架空の世界に巧みに引き込む。
人の姿は写真にも残らず、映像にも、鏡と同じ効果を持つ水面にも映らない。勢い映像メディアは衰退し、ラジオが人々にとって中心的なメディアとなる。人は自分の顔が判らなくなり、似顔絵を描く画家たちが重用され、鏡と呼ばれる彼らが人気の高い職業となる。といった具合。
今回の観劇のきっかけとなった井上薫女史は一世を風靡した女優役。前に観た芝居では名脇役であったが「売れっ子女優」なる役も、ある映画撮影現場にて新人女優の「声の出なさ」にカリカリして発声の指南と悪態につい没入するというコメディエンヌぶりを基調に存在感。
この冒頭シーンの後、世界の「変化」が訪れる。彼女は引退を余儀なくされる。
で、もう一人の目当ての女優、平体まひろ女史がその娘役。母はスパルタで自分を描く「鏡」に育て上げる。やがて成人し、若くしてカリスマ「鏡」となっている。肖像を描いてほしい芸能人は引きも切らぬが、母にとっては隠しておきたい存在でもあり、出自を隠している。このカリスマ的な絵描き役を平体が好演。肖像画を描くスピードも速い。相手が著名人だろうがモデルに指示を出すなど横柄なキャラが板に着いて気持ち良い。
物語の軸になってくるのは母娘の関係だ。娘は母の「鏡」として今も彼女の顔を描き続けている。ところがある時ラジオで主催されるミラーフェスティバル(的なタイトルの画家のコンペティション)のモデルにと、母にオファーが来る。かつてのマネージャーが回して来た仕事だが、娘はこれを断固辞めさせようとする。
既に見えている問題が最後に露呈するが、そこに至るまでの周辺のドラマの絡ませ方がうまい。
ただ終盤のコンペ(実はやらせ)場面では、「その趣向、誰も見てないんですけど」と突っ込ませたかったり、女優のヒモ(詩人志望)の面目躍如を見たかったり、その妹の目が見えない属性をもう一つ生かしたかったり・・要望がもたげたが、尺の事情もあるのだろう。主題はその後にある。
画家たちのキャンバスは木枠だけの無対象。客は想像するのみ。コンペの結果発表の際に起こるべくして起きた悶着を経て、娘が真実を語った後、「私が本当に描きたかったのはこれ」と、母に今描いた絵を渡す。女優が「現実」をどのように受け止めたのかは想像の域だが、その絵を見た母の目は悦びに満ちる。そこで作者の意図は汲み取れた。
ルッキズムの観点で「美」を語ろうとしたナカツルブールヴァールの芝居をちょうどその後に観て、結論的には同様の所に落ち着いていた。美には一つの尺度だけがあるのでなく多様である・・。
だがその芝居の中で悪役である「市長」に言わせた台詞・・人類は戦争をいつまでも止めないし、常に美しいものを見ていたい(醜い存在は無視したい)欲求も変わらない・・は、人間にとっての難問。人類が終りの瞬間を迎えるまで携えていく問題なのだろう。
外地の三人姉妹
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2023/11/29 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初演とほぼ同じキャスト(高橋ひろし→佐藤誓のみ)。舞台装置もああこうだったなと思い出す。下手手前にマイクが置かれ、たまにここで独白するが、何となくの感じだが使用頻度は減り、全体に深刻さがシニカルさに寄り(これは俳優の演技の自然な変化の範疇か?)、長男の嫁の憎らしさが減っていた。
連隊が移動しドラマが終局に向かう段で、孤独と先行きの見えなさをそれぞれ抱えた姉妹三人が体を寄せ合い、それでも生きて行くと言うあの場面、本作はここがラストにはならず、日本人らが出て行った後、残った朝鮮人の登場人物四人による無言の場面が置かれている。この場面との兼ね合いを考えたため、というのは深読みし過ぎかもだが、朧ろな記憶では、次女が恋に破れ泣いた後、初演では「断念と共に家庭生活に戻る」兆しがあったに思うが今回は夫を最後まで拒否する。また三女の新婚の夫との決闘の結果を彼女に告げるのは原作と異なり決闘相手(三女を男尊女卑的に恋慕していた)、しかしその前段にある「愛はなくともそれを合意の上で未来へ一歩踏み出す」瞬間が刻印されないため悲劇性が際立たない。等の些かの淡泊さを覚えたのだが、これは朝鮮人が閉じ括る最後の場面との兼ね合いだったのかも・・と思ったりもする(三人姉妹ドラマが燃焼し尽くしてしまうと最後が取って付けたようになってしまう)。
そのラスト、「解放」を祝い、新たな時代を刻む儀式は、初演より簡略になっていたが、その素朴さがぐっと迫るものになっていた(客席斜め前の年輩女性、他にも涙を拭う仕種が見られた)。
思えば劇中、登場頻度は少ないものの「外地の日本人」の人間模様を捉える朝鮮人の眼差しが、劇をシニカルにさせていた、このあたりが初演から幾許か変化の認められた理由かも(と言ってもごく微妙な変化ではあるが)。
だが「三人姉妹」の物語としてはもっと「燃焼したい」「しっとりしたい」思いが残った気がする。そう考えるとこの翻案戯曲の限界という事になるかも知れない。
だが植民地支配の構造の片鱗が、演出も含めてちりばめられており、批評的な一面が、瞬間が翻案作品としての悦びをもたらすのは確か。拍手。
胎内
7度
こまばアゴラ劇場(東京都)
2023/12/06 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
随分前にノアノオモチャバコによる同作品を観たのが最初で、楽隊の入る風変りな演出でも戯曲の内容は伝えていた。そして数年前OPAL桜美林鐘下クラスによる打ってつけとも言える「胎内」は緊迫感漲る濃い舞台であったが、若い俳優にはかなりの負荷と見受けた(大人びた役に必死で、背伸びしていた)。
さて三好十郎が描いた閉ざされた洞穴=密室での人物らの激白を味わいたく、勇んでこまばアゴラに赴いた。結論的には、期待した的を少し外された感。後で見ると先行した利賀演劇人コンクール、鳥の劇場公演では三人が出演とある。私はと言えば、今回の一人芝居バージョンでは女性役の村子目線でこの物語を語り通すのだろう、と勝手に想像していたのだが、開幕して開口一番は、花岡の唸るような台詞。そして村子、花岡、佐山(男2女1)三名共の台詞が吐くのである。
恐らくは、利賀での上演台本と今回のは同じ(またはベースにしている)もの、とすれば役の数だけ俳優を配さずとも上演が成り立つ判断であったのだろう。
ただ私の「あてはずれ」というのは、一人多役であった事より、元戯曲のどこをどう切り取るか、そのチョイスだ。
舞台となる時代は戦後復興の兆しが見え始めた頃。この密室で吐き出されるのは、世間が忘れ去ろうとしている戦争の残した疵跡(それは人心にとって一様でない)であり、それを経て今このようにあると気付かせる、ゆえに目を背けたい傷である。
戯曲は三人それぞれの来歴と人間性=個性を彫像を掘るように浮かび上がらせた先に、戦争や時代性、社会がなべて人間にもたらしたものを突きつける。それぞれの人物「らしさ」が、やはり重要なのだ。
一方、今回のバージョンでは「名言集」、生死にまつわる普遍性のある言葉を、詩劇のように構成したもののように見えた。普遍よりは個別具体の匂いを感じたい・・というのが私が観ながら感じていた事だった。彼らの掛け替えのない醜さ弱さ、それゆえの愛おしさを媒介にして、人間存在の普遍を「感じる」舞台を、と。
ただ、台詞の背後に想像の翼を広げ、私の描く「胎内」の世界を感知する余地もあったのかも知れず、自分にその体力がなかっただけなのかも知れぬ(実際舞台上の緊迫の演技に身体が付いて行けてなかった感じもある)。
時折女優の発する声質に感じ入る瞬間は覚えている。心身とも準備を周到に(体調を整え深呼吸をして)観るべき舞台であったかも。
青い鳥
サイマル演劇団
サブテレニアン(東京都)
2023/11/30 (木) ~ 2023/12/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々のサブテレニアン、そしてサイマル演劇団。60分程の作品だがアフタートークでの新野守広氏の読み解きは随分参考になった。「難しい」「一般受けしない」との定評を自覚しつつ「自分がやりたいこと」を追求する、という姿勢について(そうだろうとは想像できても)言葉のやり取りの中で聞けた事は何やら報われたようで嬉しかった。この所常連の葉月結子女史を本作でも拝めたが、彼女の存在もこの間の劇団でのクリエーションに欠かせないものになっているようである。「青い鳥」の物語をベースに様々なテキストをコラージュし、大きな絵を作っている。詳述は後の機会として、他の主要テキストはヴァルター・ベンヤミンともう一つ(作者・題名は失念、ある特徴的な歩き方をする女性との時空を超えた出会いを描写したもの)。恐らくベンヤミンの部分であったか、音楽と共に現代の心象風景が立ち上がる劇的瞬間があった。
モモンバのくくり罠
iaku
シアタートラム(東京都)
2023/11/24 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
トラムという事もあり、力の入ったiaku公演が観られるかなと足を運んだ。
作劇というのは難しいものだな、と思う。さすがに横山拓也、うまい、けれど自給自足の生活スタイルを目指している正にその山間の棲み処を舞台としながら、この生活スタイルが対話の中でのアイテム、記号以上に機能させ切れない感じがあって、ネタに終わってるのが勿体ない。(作者はその枠を超えようと罠にかかった鹿を冒頭に、猪をラストに登場させたり、試みてはいるのだがこれが笑いに収まってしまう。)
小屋に住む女性役に枝元萌。近所の兄貴役に緒方晋、この二人が出るので観に行ったような所もあってその期待は十分報いられたが、ドラマとしてはどうであったか。
女性は夫と別居しており(山奥での生活などとうてい出来ないので、出資・援助だけされている)、娘はある近年までここで育ったが高校に上ると同時に父の元に移り、都会生活をしている。それが、二人この山奥にやって来る。それを追うように夫の出した店を任された若い女性(橋爪未萌里)が現われる。たまたま実地体験のためにやって来て鹿の解体を体験した青年と、その手引きをした緒方晋が、この修羅場の見届け人となり深刻話を程よく軟化させる。
人物関係図は過去のエピソードにより立体化して行くのだが、枝元萌が目指した自給自足生活に関しては、抜き差しならぬ生活、「食うため」に日々の時間全てを使わねばならぬ位であるはずであり、そもそも父娘が「歩いて登って」来れる場所にあるというのもどうか、という所である。まあそれは於くとして・・枝元女性の現境遇については劇中で「夫の援助があってやれて来た、あなたも(夫の援助を受けて店を任された)私と同じ」であるとか、「誤って撃った銃で足を怪我させた男「緒方)の援助に甘えてやって行けている」だのといった台詞でディスられる。
これに対して枝元はこの生活が自分には「最もやりたい事」「自分に合った生活だった」と自認し、議論としては「多様性の中で一つの選択肢として許されるべき」というかなり引いた立ち位置に立たされる。それと言うのも、この山で育った娘が都会に出た今、全く自分が「普通でなかった」事を思い知らされており、その事への恨み節をある所から延々と聴かされる時間がある。この時間は娘が(宗教二世に重なる)特殊な境遇にあった事で「何にぶち当たっているか」を観客も想像して行く時間ではあるのだが、とにかく長い。そして話は「そりゃそうだろう」という落ち着きどころに落ち着く。
娘は最後に、実はここに来るのを楽しみにしていた事とその理由を白状する。それは都会で口にするものは「食えたものじゃない」。だから取れ立ての獲物を焼いた肉、採れ立ての山菜で煮込んだ鍋を食べたかった、と言う。
「鹿はもう食っちまった」(だってこういうのが嫌いなんだろうから跡形も残さないようにした)と悪びれるが、「じゃ猪を取りに行こう」と緒方。青年にも付いて来いと命令し、「何で俺が」と困った顔で大団円の空気。
母の元で育った娘が、その「舌」を持ったという事の中に何らかの(自給自足生活を送った事の)意味を仄めかそうとした作者であるが、日本の自給率を今なお返上し続ける外資導入政策を傍目に見ながら、枝元が目指したこの生活は単に「自分に合ってた」「趣味」の領域と矮小化して終わるのか。
特段「意義がある」と吹聴してほしい訳ではないが、ある視点を持てば「こんな生活は荒唐無稽」と思ってしまう私たちの感覚の中に現代の、日本の脆さが実は反映しているのではないか、と思わずにいない。枝元的生き方を卑下させ過ぎである点に、横山氏ほどの書き手が、と不満を持ってしまった。
会話の妙、面白さを味わう時間を「料金分」もらったのは確かであるが。。 と言うと何だか酷評であるが、穿った会話は多々あり、とりわけ橋爪女史絡みの会話は秀逸(関西弁演技もバッチシ)。
「慈善家-フィランスロピスト」「屠殺人 ブッチャー」
名取事務所
「劇」小劇場(東京都)
2023/11/17 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
名取事務所のチラシは毎度定番のデザインとなり、自分はと言えば公演に足を運ぶ頻度も増えた。今回の二本立ても期待大で両作品拝見した。
「慈善家」は新作、「ブッチャー」は再々演(今回初の生田みゆき演出、これも期待大であった)だがどちらも初と思っていたら「ブッチャー」は再演を観ていた(初演を「見逃した!」思いが強く観た事を忘れていた。開演して気づいた)。
いずれも秀作。空間は一つで複数場面の兼用はなく、時間は時系列で進む。局所を描写したドラマから世界で起きている出来事(負の連鎖)を想起させる。「ブッチャー」は架空の国が設定されており、少なくとも大戦後の時代タームである事は分るが、残党狩りという事ではナチスを想像させるし、国内で起きた民族間対立という事ではルワンダ紛争、捕虜・囚人への非人道的処遇という点ではアブグレイブ刑務所を始め世界中にあった(ある)だろう専制下での政治犯の処遇を連想させる。伏せられた事実が一つ一つ明らかになるミステリー要素、深夜の警察署(?)内という密室サスペンス要素など戯曲が持つ面白さと同時に、それを高々と越えて来る圧倒的なメッセージ性(とそれを証明するための様々な身体的いたぶり)に息が詰まりそうになる。(終演後高山氏に寄って来た知人らしい女子学生(位の年齢)が「(すごい)面白かった」と漏らしていた。)
「慈善家」は大資本を牛耳る者、そのステークホルダーと、当事者を登場させて生き馬の目を抜く現場のリアルを描きながら、「金による支配」のテーマを伝える。理念の希求と財政基盤の葛藤、支配欲求からの上昇志向、それらを巡る本音と建前とプライドと正義へのこだわりが錯綜する。まずこちらを観て圧倒され、もう一方を観て(二度目の観劇だったが)更に打ちのめされた。
たわごと
穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2023/12/08 (金) ~ 2023/12/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
最初何が起きているか不明な時間が過ぎて行ったが終ってみれば桑原裕子らしい再生の物語。役者も活きている。地方劇場から発信と言うと可児市芸術劇場(毎年秀作を出している)、時折北九州芸術劇場が、「芸術監督(作り手)絡みでない」プロデュース舞台を送り出してくれる。今作の企画者である穂の国とよはし芸術劇場は桑原女史が芸術監督で、就任以前からの縁があったよう。「たわごと」は今回上京し、お目にかかる事ができた。
しっとりと時が刻まれる瞬間が時折訪れる。リアルの時間、それを揺さぶるミラクルの時間。演劇という時間に浸る快感がある。