『北国の春』『サド侯爵夫人(第二幕)』
SCOT
吉祥寺シアター(東京都)
2017/12/15 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
荒れ野
穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/12/14 (木) ~ 2017/12/22 (金)公演終了
満足度★★★★
space雑遊もはずれが殆ど無い劇場の一つ(個人の感想です)。公演そのものが上質(利用劇団も上質)という事もあろうが、劇場の作りも恐らく無関係でない。芝居の世界と現実世界の境界を意識させない、舞台の熱量が客席にダイレクトに伝わる・・。理由は判らないがスズナリも雑遊も、「黒」(闇)が蠱惑的だ。
桑原裕子作演出@アルカンパニー『荒れ野』には期待しこそすれ不安など過ぎりもせず。三浦大輔作演出@アルカンパニーも雑遊で緊迫の舞台だったが、そのハードル?をものとせず桑原女史の筆が乗った様子が浮かぶような気持ちの良い舞台だった。冒頭、鼻歌から熱唱に至る「あなたならどうする」。音楽畑の中尾諭介の耳をくすぐる美声で幕を開ける。掴みはOK。深夜の大規模火災から逃れて、知人の女性のマンションの一室にやってきた三人家族(父母と学生の娘)。ところが一人暮らしの彼女の部屋には一組の親子が我が物顔に出入りしていた。
一軒家を建てた家族は、マンションのテラスから火災の方向を見ながらも、この距離は「家(家族)」の現在と歴史を、客観視することを可能にする。設定のうまさ。謎の親子の正体が物語の傍流とすれば、本流は避難してきた家族、特に夫婦関係と、学生の頃からの知人である独身を貫く女性(部屋の主)との関係。家が無事かどうかを見届ける事を諦めた後、深夜となった後半、話は現在から過去へ、本腰を入れて突入。ビビッドな話題を推し進めようとするのは妻。学生時代から夫は部屋の主の女性に思いを寄せていて、今もそうだ、それが証拠に・・。増子倭文江が、妻役を実に実に好演(「ボビーフィッシャーはパサデナに…」を彷彿)。
桑原女史の<おばさん愛>が涙に霞む、一夜の物語である。
管理人
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2017/11/26 (日) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
トラムは小劇場と言われるが、本多と同様決して狭くない。天井も高い。その舞台いっぱいに奥行きとタッパのあるアパートの一室がズドンと、イイ具合にリアルに作りこまれ、のっけから目がさめる。記号としては窓のある奥の壁、そこから手前に広がる舞台式遠近法(右端の席だったが横の壁がギリ見えた)。唯一の出入口(ドア)が下手手前。右手前と左手奥にベッド。これらをランドマークに見ようと身構える。が、程なく「人物」にひきこまれた。
男3人の芝居。アパートの所有者、及び住人である若い兄弟(溝端&忍成)、そこへ連れられて来た中年(老年?)下層労働者(温水)。場面は暗転を挟み、時系列で進むが、観客は「初めてこの部屋にやってきた」労働者の視点で、謎めいた兄弟を眺める事になる。失職したばかりの労働者にとって、招き入れられた場所=アパートは重要なアイテム。このアパートと兄弟を巡る事情が少しずつ明らかになる経過と、労働者がふいに手にした恩恵を増幅させようと(まるで僅かな稼ぎを一攫千金とギャンブルに投げ出すノリ)奇行に走る哀れ。考えの無い行動が引き起こして行く結末は、不信仰なキリストの弟子らを思い出させた。私らの日常の中でも生起しては過ぎて行く何とはない光景を、ピンターは人生の本質を照らすものとして(あるいは、であるかのように)、絶妙な筆でサスペンスフルに描き出している。
ピンター作品初見は数年前の新国立『温室』、深津演出は美術が抽象的、演技も機械的で残念ながら「戯曲」を読んだ面白さを超えなかったが、今回の森新太郎演出は(演目は違うが)美術も衣裳も、演技もリアルベースで見せた(通常の)劇。リアルな人間像から立ち上る奇異さ、不気味さが、観る者にとっては快感。終演後に拍手したくなるのは役者が体を張って表現したものを受け取った、という実感からだろう。
著名俳優の競演には逆に心配もよぎったが予想外の(失礼ながら)出来。
袴垂れはどこだ
劇団俳小
シアターX(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
♪はかまだれーはーど、こ、だ(音程はラララララーシーラ、ミ、ミ。※ミは下のミ)。メロディーだけは頭に残った。
最近不要に睡魔が襲い、この日も中盤の割と喧騒な場面を見落とした。・・ので、その限りの感想だが。
シライケイタ演出の宣伝効果はかなりあったのだろうが、舞台についてどうだったかは語る材料が少ない。
冒頭「袴垂れ」の噂をする人々の、それを待ち望むようなやり取りがあり、場面も草っ原だから、ゴドーをモチーフにした作品だと最初に決め込んでしまった。もっともゴドーはメシア(キリスト)再臨のイメージで、袴垂れは義賊=人間だから態様は異なるのだが、「ただ待つ民」の像は重なる。ただ、今作の民はその先を行くのだという。つまり自らが義賊とならんとする。
それを望ましい展開として描かないのは、同じ福田善之作「真田風雲録」と同様、日本の「政治の時代」(戦後から60年代)に書かれた戯曲であり、「運動」のありように関わる問題を浮き彫りにした作品である事からして、当然なのだろう。
江戸を舞台に現代的問題を描き出す意図は序盤から見える。時代考証の跡は台詞に特にみられず、「袴垂れ」を待つ民らの風情は日本の農村のそれよりは潅木の点在するメキシコかどこかの砂漠を思わせる(黒澤監督の時代劇のようにジメッとせずカラッとした風土)。フィクションであり、何のためのそれかを早々に弁えて観るのが正解だったが、リアリズムで捉えた正解を探る内に恐らくは睡魔にみまわれたようで。
とりあえず本を読んでみよう。
浮かれるペリクァン
劇団黒テント
d-倉庫(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★
団員の顔を逐一記憶している数少ない劇団の一つ。音楽において魅力を発揮するという他に、半世紀を迎えんとするこの劇団の現在の特徴を言い当てられないが、「歌」モードにいつでも移行可能な「演技」との距離感がそれと言えば言えるだろうか。(故斎藤晴彦、服部吉次、世代下って内沢雅彦あたりが醸す飄々とした佇まいが、私の中の「テントらしさ」ではある。)演技態としてはさほど統一感もなく、主役級が一人二人いて引っ張って行くという感じでもない。劇団というコミュニティのあり方に思想的裏づけがあり、先ずはそれ有りきな所から染み出てくる風味、なのであろうか。こういう濃い集団にしか醸し出せない芝居の空気感が、恐らくここにもあると思うのだが、言葉でこれと言い表せない。
団員総出(幾人かは見えなかったが)による一風変わった音楽劇を「オークルチャボット」以来二年ぶりに堪能した。スポコンやくざ芝居から今回は企業社会の諷刺劇、映像作品のようなカット割りの点描が折り重なって後半は演劇的展開になっていく。
うらみを言えば、・・質感が違うシーンが組み合わされた感あり。また、意味ありげな「間」に役者の意図がはっきりと感じられず、笑いたくても笑いに至らず惜しい箇所も。そして最後、宮崎恵二演じる「元研究者」が現われ、常識的範疇の価値観から巨大なシニシズムに陥って皆をカオスへと引きずり込んでいく~的な場面があったが、一つのクライマックスでもある狂騒曲がもっと嬉々としてやられるには、既成観念をしっかり揺さぶり、呪縛されていた事の無意味さを知る「喜び」を浮き彫りにしたかった。
さて荻野清子の音楽。私の中の秀逸な荻野楽曲は、今回も随所で黒テント劇を彩っていた。最後の曲は「メザスヒカリノ」に通じるちょっととぼけた人間たちの明日への讃歌だが、曲としては分かりづらかった。
男女逆転版・痴人の愛
ブス会*
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★
上映会にて「お母さんが一緒」を楽しく鑑賞(私には「男たらし」に肩を並べる面白さ)。翌日「痴人の愛」観劇。パンフの挨拶に、ペヤンヌと安藤両名の間に激しく演出面の意見の相違があったと読める文言がある。若いつばめを囲い、養護者時々恋人(?)という、一見優位とみえる女が、結局は恋い慕う側の弱みで「いかないで‼」としがみつく事になるラスト、なりふり構わぬ女の執着は男の劣情を刺激したか、互いに縺れ合い(漸くにして?)結ばれる。そして騎乗位になった女が首を絞めて男が果てると、死者の上には子種を得た女の満面の無気味な笑みが・・ナレーションで進む文学調な舞台だが、基本線は隠微でどろどろとした人間の欲望の行方をたどって行く「暴露モノ」で、ブス会らしいダークな素材だ。
だが安藤玉恵の演技はペヤンヌのいつもの(三浦大輔にも通じる)ディテイルをつく演技よりは、軽喜劇に寄ってサービス精神旺盛さを発揮していた。行動線は明示されており、これ以上中年女の爛れようを役の細部にまで反映させるのでなく、その行為や様子のおかしさを自虐的にカリカチュアする演技を安藤は選択した。このへんが「対立」のあった所ではないかと、勝手に想像しているが、結果的には安藤の伸びやかな演技が全体を按配してまとまった舞台になっていたのは確か。同じポツドール出身の両名でも安藤はその匂いをさせない役者で、そんな印象に合致する舞台だった。とは言えやはりブス会の世界は演劇界の独自の領域を占めている。
江戸のマハラジャ
劇団扉座
座・高円寺1(東京都)
2017/11/29 (水) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に扉座。やっぱし勢いは良い。つか作品(郵便屋さん何とか)をやった昨年は、座長横内謙介の(つかへの)思い入れか、「今これをやる」事の説明に無頓着だったか今様に脚色した部分の原作との齟齬だったか、記憶が朧ろだが、乗れなさがあった。
・・そんな具合であったが、今回はなぜか江戸のインド人の話。マハラジャと聞けば何と言ってもあのラストの大団円の出演者総出の踊りである。期待して出向いたが、のっけから群舞が披露され、まず拍子抜け。江戸の下町にインド人がなぜ???の疑問には、徐々に答えていく。何とも鷹揚な作りと言えば作りである。
最終的に、日本に辿り着いた異国人を優しく温かく受け入れた江戸っ子の心意気が滲む人情噺の体ではあるのだが、日本語ペラペラだし、インド人を捕縛しようとやってきた役人を追い返すのに長屋の連中が茶色い染料を全身に塗りたくって目くらましする、とか。えじゃないかではないが侍を追いやる群衆の踊りでもって「民衆の勝利!」的な展開にさせている。
色んな無理が「人情噺」の構図にハマる事で赦されるパターンをなぞっているのだが、不満は何より舞踊であった。ハナから踊っちゃ盛り上がらんでしょ、という。溜めて溜めて、最後に皆の思いが一つになり、力が合わさって「人生への勝利」を謳歌する・・マハラジャやるならそれでしょ・・という。有り余るほどのご都合主義も、「インド人」を一括りに描く居心地の悪さも敢えて問わず。踊りの使い方とクオリティ(見せ方)にのみ不服が残った。
missing link
岩渕貞太 身体地図
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/01 (金) ~ 2017/12/05 (火)公演終了
満足度★★★★
前知識ゼロで観る。舞踏だ。前衛というのはカテゴリーに収まらないものを言うはずだが、「前衛舞踊」という分野に属する、という具合にカテゴライズしたくなる。まずはそういう入り方。身体の動きや姿形の美しさを「加速」機能として観る者を揺さぶる舞踊と異なり、舞踏は別の言語を模索する、その模索の様子を見せられるような気がする。「どうやらずっとこれで行くらしい」と悟ってから、漸く「意味」を思考し始めた。感じるのでなく、考えねばならぬらしい。・・が、既に感じてはいる。ただし「感じている」自分を楽しむという、舞踊の快楽ではなく、その感じたものの収め所について、候補がありすぎて思考を阻む。それが苦痛となる。missing linkという題名の意味をせめてチェックしておけば、全く見方は変わる。予め答えをもらい、その答え合わせをするのが鑑賞の時間となるわけだ。答えなくして荒れ野に放り出された後、答えを知った上で反芻しようにも、疲れ切ってその気分にならなかった。
イケメンで美麗系の舞踊で行けたかも知れないのに、なぜ室伏鴻なのか・・と、その疑問の方が終始脳内を巡った。
リーディングフェスタ2017 戯曲に乾杯!
日本劇作家協会
座・高円寺2(東京都)
2017/12/16 (土) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
数年来楽しみにしているイベントだ。(毎回は行けてないが。)
劇作家の登竜門としては随一の、と言える劇作家協会新人戯曲賞の最終候補作数点を、著名劇作家たちが公開で審査をする。進行は若手劇作家瀬戸山美咲、審査員は川村毅、渡辺えり、土田英生、永井愛、マキノノゾミ、坂手洋二、佃典彦という錚々たる顔ぶれ。
これが面白いのは意見が割れる所だ。そして、何が読み手を捉えたのかが流石言葉を紡ぐ仕事のプロで、非常にうまくその観点を言葉で説明する。時に誤読が解かれたり、新たな観点が示されたり。その発言の数々が面白く、どの作品が選ばれるかもさる事ながら、一つの重要な決定を行なうに足る充実したやり取りを、台本もなく展開する様に感服させられる、この時間が何にも代え難い至福の時である。(殆ど個人的な感慨だがお赦しを・・今は亡き小松幹生氏の名進行は忘れ難い。)
さて、今年は最後まで割れた。第1ラウンドは進行役が各戯曲の概略説明し、その戯曲について意見を出し合う。5作品目までやって一人二票の投票を行なった所で休憩。
今回は例年に比べても優劣つけがたい作品が揃ったという5作の得票は1~4票の幅(0が無い!)、得票1票のみの作品を落として3つに絞り、改めて一人一票の投票で2,2、3と割れた。
作品プレゼン、討議の末、最終的な投票でも各自が推した作品に変更はなく、複数受賞の可能性もちらと言及されたものの今回は厳正に最多得票作品が、選ばれた。
(最優秀戯曲賞は『うかうかと終焉』に決定。お疲れ様でした!)
三月の5日間 リクリエーション
チェルフィッチュ
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/12/01 (金) ~ 2017/12/20 (水)公演終了
満足度★★★★
初演の映像を見る限りでは、この芝居の題材であるイラク戦争の翌年(2004年)、割とホットな時期に書かれ上演されたことによる「タイムリー性」の躍動が、狭い空間である事もあって舞台に横溢していた(客席と床続きの舞台で「デモ」との地続き感も出ていた)。同時に風景の切り取り方のユニークさ、台詞のユーモアにある一定の普遍性を思うところがあったが、大きな改稿が無かった今回の再演舞台でその事が確認できた。
一方、変わった部分も当然ある。若いキャストは、癖のあるキャラの立った初演のキャストよりは淡白で、初々しく、瑞々しさと物足りなさと両面がある。会場が立派なKAAT大スタジオであるのも、大きな違いだ。初演の狭いスペースに比べ臨場感が大きく遠のき、「作品」としての形が追求された感じがどうしても付きまとう。台詞とリンクしない奇態な動きも初演ほど出ていない。にもかかわらず面白く観られたのは、テキストの強さと、若者たちの「突出」と「自然さ」のうまいバランスにあったのだろうと思う。
断罪
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
「新劇系」に書き下ろした中津留作品、以前民藝に書いた舞台は、中津留節の生臭さが新劇系演技によって緩和され、良い具合にリアルでメッセージ(作者の意図)の伝わりやすい舞台になっていた。
今回も同様のことが言える。
難点も多々あるが、主人公に課せられた正論をごり押しに叫びまくる役が、中盤までの「浮いた」(役の人物的にも俳優の演技的にも)存在から、最後には、そうする以外に手がない業界の惨状をそれよって表現していたのだ、と周囲に納得させることになる。つまり、あの男のようにガナり、叫び、語りかける事によって辛うじて、無残な現状の「無残さ」に見合う。その事に気付けよ、という作者の直の声が、役者を通して叫ばれている。確かに、その通りだ、と私は思う。
ただ、この芝居にもユートピアが描かれる。叫ぶ男のアクションに対して、「怯む」という受けの芝居で周囲の社員が男を立てる。観客から見ればそれによって男は救われる。また一方のヒロインの正義を貫こうとする女性社員の「涙」も見事で的確、貢献は多大であった。
「芸能事務所」という場に日本の情報統制を巡る問題の縮図を描こうとする作者の執念は、勝つか負けるか、殆ど勝負に出ている感がある。同様の主題を扱った芝居が今年は「ザ・空気」(永井愛)、「白い花を隠す」(石原燃)と続いたが、今作は中津留流でこれに果敢に迫った印象だ。
強引さはあるが、現状肯定したい人間の習性の前で、荒んだ現状を「荒んでいる」と言い切る困難に挑戦する姿勢には素直に感じ入る。現実の背景が、メタ・メッセージとしてこの芝居を成立させていた。という事は、現実をそう見ない観客には、届かないという事になるが。
変身
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2017/11/18 (土) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★★
久々のSPACへの贅沢な旅。『変身』は原作からして気になる演目で、戯曲というより舞台構成に関心。数年前森山未来主演で上演されたのも(未見だが)舞踊を中心に作られたというし。朝目が覚めたら毒虫に変わっていた始まりから、家族に見放され死に至るという単線的な物語を舞台化するとは、ストーリー説明でない要素、物語全体をどういう心理的情景の中に描くか、どういうスタイルで描くか、非言語表現を駆使して構成するという「創作」がなされるという事だ。
小野寺修二の身体言語をSPAC俳優は舞踊家と遜色なく使いこなしている。もっとも小野寺の動きはダンサーでない俳優にも可能なもので、秀逸なのはコンビネーション。だから時間的な正確さがむしろ要求されるだろう。
それにしても小野寺の持つ引き出しの多さと言い、阿部海太郎の音楽の緻密な絡み具合と言い、唸らされる。個人的には音楽がツボであった。
動作の緩急、場面の変遷、喧騒と静寂・・パフォーマンス全体が一つの音楽だと言っても良い。人間の恐ろしさ、興味深さ、哀しさが、視覚的快楽であるパフォーマンスの間隙から滲み出てくる。
ラストのニュアンスは私の原作への思いとは違ったが、いずれにせよ優れた「芸術作品」、という語を使って憚らない。
ちゅらと修羅
風琴工房
ザ・スズナリ(東京都)
2017/12/07 (木) ~ 2017/12/13 (水)公演終了
満足度★★★★★
最終公演にかける気合の表われか、どストレートに沖縄の今に言及する芝居になった。言いたい事、知っておかねばならない事、書き殴った印象さえある。ただし現実は今時点日本の南西の地にあり、事実をぼやかす脚色は許されない。高江ヘリパット、辺野古基地建設反対行動の現場は現実だ。闘争の現場に本土の人間が駆けつけているのも現実で、その事情を反映した登場人物が配置され、主人公は本土から今日やってきた若い青年だ。「彼と沖縄の人たちとの出会い」を縦糸に、「現在の沖縄の状況の推移」を横糸にドラマが紡がれる。坂手洋二の戯曲を思い出させるのは、「沖縄の闘争に言及している」からで、それだけの事が特色になる位、日本ではこの問題を自由に語る場がない。触れてはならぬ項目の一つだ。なぜならそこに権力の強い意志を感じるからだ。下手すれば抹殺されかねない。
作演出の詩森はこの舞台にも風琴らしい演出を施している。登場人物紹介コーナーが戦隊物のメンバー紹介に使われそうなBGMの中、戯曲が実際この運動の立役者的な人物を配している事で紹介も声高に。それでいいのか?(人選が)と懸念ももたげるが、それで良いのだ、という戯曲上の答えが後にわかる。
もう一つの「仕掛け」は、主人公とのみ対話をし、主人公に選ばせて沖縄のエポックメイクな事件へタイムトリップをさせる、時空を超越した「人間でない者」の存在だ。
タイムトリップの場面は実質2つだが、これは沖縄の歴史を俯瞰させる役割にとどまらず、もう一つの重要な命題が隠されている。各時代に登場する人物が皆、「現在」の場面で登場したのと同じ衣裳をまとって登場するのだが、トリップ先の風景は最初と変わらず衣裳さえ変わらないので、主人公も観客も、「あなた、××さんでしょう」(つまり「時代変わってないっしょ」と突っ込みたくなるのだが、ちゃんと聴いていると、その時代の状況でなければ出てこない台詞を喋っている。次の旅の時も同じ。そして次の時、「結局同じ人たちなんでしょ」と思わず「人間でない存在」に向って言った後、気付くのである。沖縄の状況は戦前戦後もずっと変わっておらず、人々が演じてきた役割も同じなのだ・・という、不変の構造を主人公は知ることになるのだ。
終盤、主人公は既に、自分がある宿命にあること、つまり「人間でない者」の指し示す所へ行くしかないことに気付いているが、「次に行く場所は100年後の沖縄だ」と言われ、その意味する所を吟味しつつそれを受け入れる。そして現実世界、次世代を担う本土から里帰りした学生の女の子との会話の中、「100年後の沖縄が見れるとしたら、見てみたい?」と訊いてみる。彼女は「見たくない」と答え、その理由を語る・・もし基地がなくなってたとしたら、自分は今その時のために頑張るんだし、悲しい現実があったとしてもそれが今の自分を変えることはない。私が居る場所は今ここなのだもの(殆ど意訳)。
青年はこれから100年後へと旅立とうとしている。戻れるかどうか判らない。だが恐らく100年後を「今」と感じた瞬間、彼はその沖縄の時間から生きようとするのだろう、とぼんやり想像した。同時に、ここから百年後へ旅立とうとしているのは、今の私たちなのである、という含意も無論ある。二重三重の含みを持たせた戯曲を書くこの作家は、着想の時点で快哉を叫ぶのだろうか。苦悶の末そこに辿り着くのか。それとも、たまたまそうなっただけなのか。
昨年に続き、年末の風琴工房秀作を出すの巻であった。
ジ・アース
十七戦地
ギャラリーLE DECO(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★
ギャラリーLE DECOを初めて訪れた。同じく狭小スペースのspaceEDGEは複数回訪れているが、画像からしてもっと小洒落た空間、また3フロアあって、地理的に近いのにステータス的に随分上、という印象を勝手に持っていた。
が、今回訪れたその場所、5Fがそうなのか、単なるギャラリーである。照明設備はなし(あり物使用)、イスは数は少ないのに平坦な分、二列目でも見づらい。
その条件の中での上演、観劇である。
題材(というか作品)は三つあり、それらは変則的に繋げて一つの作品として上演されたという事だ。
私はその事が判らず、別作品を接続しているなら脈絡が見えなくて当然だが、脈絡があるはずなのに見えてこない・・その事が(この所の体調のせいもあるが)睡魔に繋がった。いつまで待っても「次の作品」にならない。実は3つの作品を別ステージで上演するのだったか? という考えが頭を巡ったり。場面(作品)が変わるたびに目を開くが、繋がりが見えてこない(当然だが)。
「最初の作品はよく判らない作品なのだな」と、次に期待しようと決め込んだというのもある。大いなる誤解であった。
要は、3つの作品を転換のたびに頭を切り替えて「観る」観劇の仕方を、知っておくか早々に気付く必要があったわけだ。
今思えば「着替える」時間が作品転換の合図だったが、照明が使えない事による芝居のルール伝達の不十分は、何らか埋め合わせをすべきでなかったか。
今後観ようとする方には、その事に注意をされたし。
そんな事で、作品の内容について評する事ができないが、共通するのは二人の役者による会話劇だという事。現代を反映したどんな会話が交わされたのだろう・・少しでも耳にとどめたかった。
相談者たち
城山羊の会
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2017/11/30 (木) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
この劇団を初めて観た池袋での舞台を思い出した。(最低な舞台・・とどこかで書いた感想の原因を思い出した。)
三鷹での前回は同じく吹越満出演で、リアルを踏み外す要素があってもうまく作られた濃密な芝居だった。それと比較すると、演技陣の仕事には感心しきりだが、作劇が苦労の途上に感じられ、隙間が多い。観劇後に穴を埋めていく事は可能だが・・面白いが惜しいという感想。
ホテル・ミラクル5
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2017/12/01 (金) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
なるほど・・ラブホの室内という舞台設定が既にして登場人物らの関係の濃密さを約束し、ノーマルな恋人同士以外の設定をひねり出した作家の工夫をしても関係の薄い設定にはならない(全くの他人が居合わせてしまう設定もなくはない=中川安奈と大竹まことが出た映画がそんなだった=が、一見うまそうな設定は正当化に苦慮し、喜劇調を免れない)。・・と考えると、設定が閃けば、話は半分決まったようなもの(なぜなら恋人でない同士が同室する必然性じたいにストーリーは埋め込まれている)。どんな設定かが勝負である(作家の心の声)。
さて、リング上には四作家の命を帯びた俳優らが、演出のコーチをくぐって、いざ出場。
一人で全作を演出というのも、一つの着目点。統一感より多様さが印象だが、各作品の個性を生かしながら全体としてのまとまりも重要。
4作中3作は音楽不使用で、時間と共に進行するドラマ。残る1作は時系列を軽やかに跳ぶタイプで、直裁的エロシーンには奇天烈な音楽が鳴った。
河西氏以外の作家の舞台は観ていたが、開演に駆け込んで程なくフェイドアウトした目ではパンフの字が読めず、上演順序を知らないまま終演まで観劇する。後で作者を照合し、意外な作風、予想範囲の作風・・嬉しい発見もあった。
この種の企画(「15 minutes made」など)は複数の作り手を並べて観られるのが魅力。取り合わせや順序も恐らく重要だろうが、今回初めて目にした「5」も一定のクオリティを見せていた。
最終的には「本音」が語られる場所が舞台である事が、作り手としてはこのシリーズの魅力であろうし、作り手側から染み出す躍動も舞台の魅力に寄与している。
グレーのこと
ONEOR8
浅草九劇(東京都)
2017/11/29 (水) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
パンフを見ると羽田美智子とある。あれあの?と思うや羽田美智子似の女優(否当人)が冒頭から登場し、これはどういう成り立ちの劇団だったか、と一瞬目を泳がせた(多分)。そうだった、前回(世界は嘘でできている)も私は見ており、「タレントが出演する舞台」への難癖を書いた事を思い出した。
しかし、今回はアウェイ感も気遣い感も全く感じられず、舞台に集中できた。
ドラマ的には「不幸」を乗り越えて行こうのドンマイ話に着地するが、そこに至るまでの時間、ナゾをナゾとしておきながら明かす部分は明かして笑いを成立させ、ペンディング期間延長の苛々を感じさせない。着地点への「待ち時間」を楽しく過ごせるサービス行き渡った電車の旅である。
クライマックス(謎解かれた過去の事実)の情景は悪くなく、これは羽田女史を起用の狙いが判るところ。
ただ、一人親の子育ての行き詰まりは判るとして、ぼんやり火を眺めてしまった理由が、息子から「今後親を頼らない」と宣言されたその事実であるのか・・というあたりでリアルな想像が及ばない。色々と矛盾を感じるところだ。
「ベルナルダ・アルバの家」
無名塾
無名塾 仲代劇堂(東京都)
2017/11/23 (木) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
満足度★★★★
初めて降り立った東急線用賀駅から、住宅街の中に構えられた「劇堂」へ辿り着き、潜り込んだ。初めてというのは何にせよわくわくする。不安もある。ゆったりとした玄関ロビーから住宅内のような部屋を通って入れば、立派な劇場、否劇堂である。
叩き上げの仲代達也はエリートの加藤剛とは出来が違う・・と私の居た中学校の教師(演劇部顧問や地域の演劇鑑賞会もやっていた)が言っていたが、成人になってからは「過剰な演技が臭い」と言う声も聞いた。
そんな昔の事をふと思い出したのは開演直後。今回演出も手がけた小間使い役がいかにも「型」で表現しようとする演技を繰り出す。関係性が判らず困惑する。仲代の塾はそうなんだ・・と見ていたところが次第に「言葉」が物語を伝え始めた。冒頭の違和感いつしか解消のパターン。ある種の劇世界のルールをざっくりと見せる、という手法であったかと思う所も(好意的解釈・・後付けかも知れんが)。
次に思い出したのは、同じガルシア・ロルカ作『血の婚礼』。どちらも「家」が舞台だ。家というコミュニティと他者(略奪者・侵略者)を巡る物語と見ることが出来る。
どこからそう確証したのか明言できないが、やり取りを聞く内に、これが近代的な法支配の埒外の時空であると感じる。貨幣は頻用されず土地と作物、交換価値のあるものとの交換によって暮らしが営まれており、ある場合には若い女性も交換、また略奪の対象となる。
ベルナルダ・アルバ(未亡人)の家の年頃の娘たちは、一人の男を巡って利害対立状態にあり、許婚であるはずの娘、思い募りながら諦めた娘、そして陰で男と逢っていた娘、この構図が薄明かりの中にぼんやりと輪郭が浮かび上がるように、次第に見えて来る。そして明白になったと思いきやドラマは一気呵成にラストを迎える。家の中は身内、外は敵だ。娘は「内」になろうとする男と密通する事で男と共に「敵」となり、ただし態度を明白にしたのは事実が露呈した瞬間であり、今まさに男が娘を連れ去ろうと迎えに来ようとする時。そして悲劇の結末を迎える。『血の婚礼』(新国立劇場研修所公演)の時ふと嗅いだ気がした「血」の匂いがした。原初的で赤裸々で、実はその黒々とした人の群れの中に自分も埋もれ、そんな存在である人間を、審判しようとする観客は恐らく居まい。静かに慈しみ、愛おしむ事しか出来ない。・・劇堂での、女だけの芝居は、この結末に辿り着かせてくれた。
墓掘り人と無駄骨
MCR
ザ・スズナリ(東京都)
2017/11/08 (水) ~ 2017/11/13 (月)公演終了
満足度★★★★
想像のつかない劇団名の実像を垣間見ようと、タイトルにも惹かれて観劇。吐かれる言葉にはもっと凝縮、あと少しばかり推測の範囲の先を行くチョイスが欲しかったが、この多弁はドラマをある感動に押し上げるのに必要な量でもあったのかな・・そんな感触もある。はっきり言ってストーリーは追えなかった。終盤までは重ならない二つのドラマが、最後に繋がるのがオチで、人間の感動の類型の一つ「統合」に該当する。
ただ、メインの筋と従属する筋とがあり、メイン筋での主たる問題が、従属筋との統合を果たした時点で、どうなったのか(宙に浮いたのでは)が今ひとつ判らなかった。
幾つもの趣向が凝らされていたが、それらが劇団の特徴なのかどうか。途中注意深く観られない時間が生じ、掴みそこねた。
冬雷
下鴨車窓
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/11/08 (水) ~ 2017/11/12 (日)公演終了
満足度★★★★
アゴラ劇場でお馴染みになった感もあるユニット。関西方面の純文学系演劇(軽率な呼び方ではあるが)の書き手として独特な味をみせる。
最初見えている、親族や知己が集うある種理解可能な光景の背後に、あるいは水面下に、生じているドラマを想像させ、想像させたまま答えは半分明かし残りは明かさずに終わる。後半にねじ込まれた伏線が回収されるのが終盤だからそれはやむを得ないかも知れないが。
焦点が過去なのか現在なのか・・、勿論「未来を見通す」べき現在が、過去から離陸しようとする「時」はそこはかとなくあるが、人はそうたやすく変わるとは限らない。その変わらない代表選手は、舞台となる小さな町の議員に立候補すると吹聴する変人。(元?)唐組俳優・気田睦が演じ、ドラマに不穏な要素を与えていた。