冒した者
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2017/09/06 (水) ~ 2017/09/22 (金)公演終了
満足度★★★★
文学座アトリエを久々に訪問。上村聡史演出のも暫くぶりだ。
周囲が地割れででも削られたような、勾配のきつい開帳場がドンと置かれ、客席はアトリエの空間の二辺を使った斜め三方向から舞台に対峙する。私は下手の端に座って、真横から見る格好。開帳場を下手奥へ回り込んだ足元には、焼け焦げた炊事用具や何かがリアルに置かれてある。その先が劇場の出入口だから、観客は時代を遡らせる見事なオブジェを目にして会場に入る事になる。
開演後はその通路からの出入りがあり、開帳場の上部=上階から張り出した廊下で狭くなった隙き間から這っての出入りもある。
開帳場の中央には巨大な鉄球がぶつかったか中華鍋のような球面のへこみがあり、最初の場面ではこの穴を囲んで住人が久々の贅沢な夕食をとる。人が足を滑らせて転ぶ、足を踏み入れる事で相手に心理的に近づく、などの活用があったが、およそ邸内の床には見えない(床そのものがあり得ない位傾いてるし)奇怪な穴は、被弾の跡にも見え、舞台全体が焼け焦げた色で統一されている。開帳場の正面奥の上は(戯曲では三階建てとあるので)三階の廊下で人はあまり通らない。が装飾の格子が邸宅の内部を表し、存在感がある。その右手即ち壁の突き当たりで直角に曲がって一段下がった通路、その下に奥(玄関か?)へ通じる通路があり、確か上手側の客席脇も出入ルートになり、自由度が高いのが良い。
戦後間もない頃。三世帯が同居する屋敷に、彼が師事する男(この芝居では観察者を担う)を訪ねて若者が現れたことで、人々はざわつき始める。世代的にはアプレ(戦後派)に属し、彼に気づいて響きあうのが同じ世代になる盲目の娘。何が彼らをざわつかせるのか・・。アプレ、と言ってみてふと思い出すのは三島由紀夫、狂った果実・・。戦前までの日本人を支えていた価値体系が崩壊し、ある人々の中に虚無が棲み付く。虚無たる対象は見えず、見えるのは虚無という鏡に映る自分たち自身であった、のだろう。彼らは元来抱えていた本質的な不安定要因におののき始め、狂気を帯びていく。
それを劇的に描き出した三好十郎の筆力、演出と俳優の格闘が、撓みない3時間55分の舞台に結実した。
時代は古いが、全く古さを感じさせなかった。
百鬼オペラ 羅生門
ホリプロ
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2017/09/08 (金) ~ 2017/09/25 (月)公演終了
満足度★★★★
作家として数年間注目してきた親近感もあって立見席情報に飛びつき、少々強引に予定を組んで観劇。柄本佑を除く俳優と演出をチェックせぬまま当日劇場へ。満島ひかるは次第に分かったが演出家の名は元より知らず、田口浩正や銀粉蝶には気付かず。
「百鬼」の語のイメージに当てた視覚的効果の際立つ舞台美術がまず目に飛び込んでくる。生演奏・生効果音、そして衣裳、舞踊はエキセントリックで暗い物語と親和性が感じられた。
採用していた芥川の小説は、冒頭と最後に「羅生門」、途中「蜘蛛の糸」のさわり、「鼻」「藪の中」は全編語りきる。中心に位置するのは魅惑的な「藪の中」だが、もう一つの物語、これは恐らく長田の創作で、旅をする男(柄本佑)と、旅の途中に会っていた女(満島ひかる)を巡るお話は遅まきの謎解きとして最後に展開する。芝居は最初に登場する男(旅人)の目線で眺めるという構造。
オペラとしては、歌は惜しい所がある。ヒネりの利いた歌、単純に良い歌もあるが、ここぞという場面での歌は歌詞が文学的で、明快な語句が印象づけられる耳に入りやすい歌になっていないのが残念。(誰もが阿久悠にはなれないけれど。・・しかし歌ごとの詞・曲担当が高額なパンフにも載っておらず、不審が湧いたが、どうやら作詞は長田ではなく、歌も披露する青葉市子(シンガーソングライター然と登場)が曲と詞をセットで書いた風で、彼女とコンビらしい中村大史も作編曲として名を連ねている)。
・・この感想が一つの典型で、「判りづらさ(やすさ)」への意識をもう少し持ちたかった、というのが全体に対する感想としてある。
DOUBLE TOMORROW
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2017/09/08 (金) ~ 2017/09/17 (日)公演終了
満足度★★★★
「円」の芝居を過去2回だけ観ていて、少々残念な思いをしていたが、今回の挑戦。どういう脈絡でなされたのか、不明となれば、舞台を観てみるしかない。
ダンスと、演劇と、表現の軸足が異なる二つの領域にまたがる舞台作品であり、抽象性が高い・・というのは予測の範囲だったが、全体としてどういう出し物であったか・・抽象的な作品だけに直感的な言語でまとめるなら、こうだ。
パンフにはドラマトゥルク・長島確による制作過程の記述の他に、俳優自身のチョイスした言葉(「信頼」など)が並んでいて、不安が過ぎった。作る主体の「個」としての言葉はあっても、舞台そのものを括るコンセプト、メッセージ、言葉が無いのでは?、という不安だ。
ある面で、不安は当り、他方、場面の生み出すアイデアの豊富さには感心した。ただし、長い。冗長な時間が後半に訪れ、アイデアを大胆に削ることを惜しんだ結果に思われた。もっとも削るための基準があればの話だが。
何から始めて何を突き止めたのか。・・私は元来ワークショップの効用を称揚する人間だが、その限界を感じる所もある。今回の作品がもし「演劇集団円」の俳優同士で行なったワークの中で発見した事々の「発表」だとすると、「演劇集団円」すなわち自らについて赤裸々に語るというのが、作品を貫く線になり得ただろう。特殊だが一つの発信になり得ると思う。しかし今回の舞台での主体は(登場人物に名を与えるならその名は、)不特定の個人の集まりであり、顔はあって無いようなもの。人間一般を代弁する、という表現であれば、もっとシビアな側面が欲しい、と思った。
途中、演劇の領域、正面を向いての「語り」があるが、一般的な単語の羅列を、熱を込めて発するという表現が、「動き」を主とする抽象表現とそぐわなかった。具体的な事象を踏まえて、一般的な概念を示す語を発するという場合なら、「事実」と「概念」が引き合うのは自然だが、抽象的な表現の中に、重ねて「概念語」が混じっても、殆ど意味の無い時間となる。その気まずさは、他の場面にもあった気がする。
本格的な「ダンス」に挑戦し、披露したのは最後の最後、その途中で唐突に照明が落ち、幕となるが、ワークインプログレスのニュアンスなら、「何に向かって」のワークであるのかがやはり分かりたい。まあ、勝手に「円の進化」に向けたワークだと解釈し、実現する見通しは薄いと思える「この次」を期待するスタンスで、見守ることにする。(ひょっとしたら本物の進化の途上であるのかも・・それが実証された時は相当なインパクトだ。)
『巨獣の定理』
かはづ書屋
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2017/09/06 (水) ~ 2017/09/11 (月)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/09/06 (水)
浜尾四郎、という作家の存在を知っただけでも甲斐あったというもの。「新青年」編集長・横溝正史の誘いで探偵小説を執筆し、江戸川乱歩らとも同時期に活躍するが、40歳で夭逝したという。その代表作の一つ『殺人鬼』が今回の舞台のベース。前時代の資産家の女中部屋で、同時進行で発生する殺人事件の推理劇が展開する。即ち、確信犯的?娯楽路線で、始めは「乱歩」の世界かと思わす「時代」の空気感が蟲惑的で、好みである。
イマジネーション・レコード
Nibroll
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/08/29 (火) ~ 2017/09/03 (日)公演終了
満足度★★★★
nibrollは矢内原美邦を含む異ジャンルのアーティストが集うユニット。ミクニ・ヤナイハラ・プロジェクトは矢内原主宰の「演劇」をやるプロデュースユニットで岸田戯曲賞をとったのはこちら。
・・なのだが素人には二つの区別は曖昧で、よくよく思い出せば、ミクニの方は機関銃のように台詞を吐き出し合う形態だが、nibrollの今作、出演者らが絶えず動き、走り、喋りもする「舞踊」系パフォーマンスも、表現形態の差ほどには、本質的な違いはないように感じたりする。
姿形の美より、行為の質から組み立てられた一連のシーンは、これを踊っている若者たちへ「innocentであれ」と願いを込める演出=師匠の影が浮かぶような、従順な弟子の姿が印象的なパフォーマンスだ。
中央に相撲の土俵位だろうか、照明によって円形にくり抜かれた部分があり、全体の照らし方を場面により塩梅し、計8人だったか、その円を出入りしたり通過したり、最初の衣裳は一枚ずつ脱がれて行き、不可逆な時間を刻む。声を掛け合ったり、グループに分かれて歩を進めたり、孤立でなく共同して何かに取り組んでいる様がある。これに何をイメージしたか・・逼迫した事態に手をこまねいている余裕はなく、とにかく何かしなければならない・・頭を働かせよ、動け、そこに人が居る、手を組め、前に進ませよ・・。人の皮を一枚剥げば、孤立ではなく、この「実態」がある、との説か・・?分子が絶えず振動している様?眼球も人の心理も同じく動き回り、とどまる事がない・・事実の描写か願望か。
何かを感じたがはっきりコレ、というものに着床せず、ふわりとした感触のままを持ち帰った。
幸福な動物
温泉ドラゴン
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/08/23 (水) ~ 2017/09/03 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/28 (月)
「君は即ち春を吸ひこんだのだ」観劇(シライケイタ出演)、その少し前に劇作家協会新人戯曲賞受賞で、名を知っていた原田ゆう。「君は即ち・・」はもう一歩という印象だったが、一度観たきりで見逃している温泉ドラゴンの分業体制公演(作と演出が別)を観たさに出かけた。
架空の国、時代の設定でテーマは戦争。戦火は及ばない地方ではあるが、政治は否応なく入り込む。
藤井由紀(唐組)の客演も気になる所、ホームとはまるで印象のかけ離れた役柄で、スッピン(多分)で通した潔さとも相俟って記憶に刻印される視覚体験だった。
架空の国や時代を設定した芝居は、リアルで通せば破綻が起きやすく「笑」に逃げたくなるところ、(気になる部分は多々あったが)ストレート勝負でぶつける演出が、やはり正しいと思える締めくくりになっていた。
時折流れるラジオ番組(放送室の風景も再現)、反政府運動、違法な手段で難民を亡命させる商売に手を染める女、劇中で夫を失う女・・。リアルなフィクションである演劇の図面引きに、作家が注いだ汗の跡が見えるような気がして、拳を握った。
金色夜叉『ゴールデンデビルVSフランケンシュタイン』
劇団ドガドガプラス
浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)
2017/08/18 (金) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/27 (日)
金色夜叉と、フランケンシュタイン、無理やりな取り合わせは無理やりにせよ同舞台で存在できたようであるが、ゴールデンビルが判らなかった。
今回も賑々しく歌、踊り、様々な穴(出入り口)からの登退場と「見得(切り)」の演技に明け暮れた浅草の夜であった。
本としての「未完成感」(尻切れトンボ感?)は残るが、それがさほど気にならないというのは何だろう。B級だと蔑みつつB級な快楽を求めて足を運ぶ自分が居るわけである。
そんな中、役者はしっかりとジツリキを蓄えているようであり、他人事ながら(いや実際そんな感覚)有能な俳優諸氏が「卒業」などせず、荒唐無稽なドガドガワールドにある面で厚みを与え、熟成させて行くなら、それは是非観てみたいものだ。
15 Minutes Made Anniversary
Mrs.fictions
吉祥寺シアター(東京都)
2017/08/23 (水) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/25 (金) 14:00
二度目の15minutesはやはりラインナップに惹かれてつい・・というやつで。だが冒頭二つを見逃し、それでもお得感有り、であった。何やら評判の良い梅棒、乱筆手抜きチラシをよく目にする地蔵中毒、その名を知って早20年未だ未見のキャラメル箱。15分に圧縮されたパッションでの初お目見えは幸福体験である。
懐かしの歌謡に乗せたダンスとマイムでストーリーを語る梅棒は、バイト先の憧れのパティシエに勇気を出してラブレターを書くもタイミングを逸するたびにマイナス志向に陥る女の子を、影で(否、公然と)応援する学ランの応援団たち。恋敵や自棄のリバウンドを乗り越えて恋が成就するべく立ち回る彼らと女の子の「昇ったり堕ちたり」がリズミカルに(音楽に乗っているのだから当然だが)展開する。粋な振る舞いや展開を見せた時に客席から上がる歓声も、見ものだが内輪乗りでなく初見の者でも拍手をしたくなる、うまい作りである。題材と設定と、曲のチョイスが良いが、狙った感がなく「応援団」そのままに爽快な風が吹く。この日の終わりの会(ポストトーク)も梅棒主宰とメンバー2人、トークもノリ良し。
地蔵中毒は脱力系(観る方が脱力する)シュールでエロ禁破りでオチのみ理解不能という大変非効率な仕上がり、敢えて狙っているかという、形容しがたい出し物で、意外に癖にならないとも限らない、独特な空気である。
キャラメルボックスは二人芝居、子供を残して旅行(確か宇宙旅行)に出た夫婦が衝撃音の後15分で宇宙船が爆発するシチュエーションで、息子に残す遺言をスマホの動画で撮り合っている。そのうち夫婦の相手に対する本音(教育方針の違い、その他)が吐露されたり波乱もあるが、息子には本心を伝えたい、という一点で互いに対する愛の確認作業になり変わり、最期を迎えるという「うまい」短編の上演。
見逃した柿喰う客と吉祥寺シアター演劇部(高校生中心)も惜しまれたが、上記3つに加え毎回15minuitesでは良品を(主宰劇団だけに)出すMrs.fictionsの「見せる」短編の計4作、十二分に堪能した。特にラストのMrs.・・の父役の岡本篤(劇団チョコレートケーキ)の独特の味が効いていた。お涙頂戴の逆の線を貫徹し、哀愁が見えそうで見えない、というより想像するしかない背中を客に見せている。客はドライで居ても良く、泣いても良い、・・客それぞれに委ねる柔軟な佇まいに愛があり、内心拍手である。
チック
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2017/08/13 (日) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/25 (金) 19:00
ドイツの人気作品の移入という。演出は雷ストレンジャーズの小山ゆうな。主役の少年二人は演劇界の今を時めく時生(柄本)、名前から七光な篠山輝信。ヒロイン役土井ケイト。その他(少年の父母など)あめくみちこ、大鷹明良。
チック(柄本)はロシアから転校してきた異端児で、クラスのいじめられっ子マイク(篠山)の目を通して見たチックが描かれ、物語はマイクを語り部として進む。そして物語は、マイクが意識していたクラスの女の子から誕生会パーティの誘いが二人にだけ届かず、チックが誘った車の旅(当然違法)にマイクが同行した事から始まる。旅は二人に不思議で貴重な体験を重ねさせるが、それはチックやマイクを取り巻く学校での境遇(社会での境遇の縮図でもある)や、マイクに居場所を与えない家庭との対比で、実に新鮮で、淡々と描かれる事実の連なりがやがて、人も羨む勇気ある冒険に見合う豊かな収穫となり、マイクが手にしただろう事が分かる。ドラマ上それがはっきりと観る者に分かるようなアイデアがこめられているが、原作を書いた作家の眼差しを、恐らくは観客は知ることになるのであり、二人がやがて日常に戻り、闘う事となる場面で力になるだろうこの体験の本質が何であるか、についても、今や観客の知るところとなっている。
・・これを何と名づけるか。例えば「愛」と呼ぶとするなら、この物語の「大人たち」の姿を探すのに手間はかからない。自分の周囲、人物ばかりでなく疑念と監視を奨励する社会そのものに、これの欠如、排除を見出すことができる。何をもって「闘う」のか・・無力に思える自分たちの実情を思うとき、彼らの姿が脳裏に印象的に浮かび上がってくる。
ワーニャ伯父さん
シス・カンパニー
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2017/08/27 (日) ~ 2017/09/26 (火)公演終了
満足度★★★★
ケラ演出チェーホフ、舞台上の設え(美術)は「まとまり感」と奥行きがあって良い感じ。冒頭舞台ツラでの芝居と、奥を仕切るのはゆったりと天井から吊るされたレースのカーテン、それがふわりと開いて中央の楕円の大テーブルが見える。ロシアの田舎だけに土地だけは広く家屋の間取りもゆったりな、質素ながらに瀟洒な屋内は、宮沢りえを筆頭に登場人物の風格とタメをはってバランスが取れている。
従って、見た感じは良いのだが、宮沢りえ演じる夫人の「田舎暮らしの退屈」はいまいち表現できていない。退屈しなくていいんじゃない?くらいに見える。この都会志向は、近代がもたらした社会構造の問題(チェーホフの四大戯曲にはどれもこの問題が根底にある)に触れる部分で、抜かせないはず。
また、ケラ演出の特徴として、時折(こたびは時折である)そこここに笑わせ所がある。逐一は覚えていないが、ラストの別れの日、夫人が籠の中の小鳥に同意を求めるしぐさが地味にやられていて、本気で笑わせにかかっているのかいないのか、微妙な空気が「ケラ舞台・・」と感じさせる片鱗。
他は割とオーソドックス、かつ、分かり易く作られていたと思う。
『+51 アビアシオン, サンボルハ』
重力/Note
WAKABACHO WHARF(〒231-0056 神奈川県横浜市中区若葉町3-47-1(神奈川県)
2017/08/31 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了
満足度★★★★
重力/Note・・チラシで名は知っていた程度で、目当ては神里雄大作の演目。昨年STスポットでの再演(岡崎藝術座版)をニアミスで逃していたので、ふいに知った公演情報にラッキーと呟き、噂の若葉町WHARFへ足を運んだ。
岡崎藝術座は過去2作を目にして、「評判」の所以がつかめずピンと来なかった。昨年の「イスラ!イスラ!イスラ!」(STスポット)は、長い一人語りを5人がリレーで続ける饒舌なテキストで、語る内容のディテイル掘り下げ具合や何かに、「応用編」的ニュアンスを嗅いだので、基礎編は「アビアシオン」だろうと踏んだというのもある。数年前観たのは抽象度の高い舞台で寡黙、コンテンツも薄いところ、ある実力派俳優の風情(居るだけで様になり何やら意味深に見える)に頼ってどうにか持った作品、正直そういう感想を持ったのだが、作演出の一貫したテーマへの一つのアプローチ、とも思われた。だがその場合はテーマを知らなければ到底解読困難、普遍性に欠けると言わざるを得ないわけで、ただアートの世界にはままありそうにも思え、「アート志向」の強いF/Tトーキョー出品作の一つにも過去名を連ねていたのを思い出して納得したような事だった。
その系統の作品からすると、「アビアシオン」といい「イスラ」といい俳優が身体を動かす間も無いほどの多量のテキストが、作者の創作意欲の大部分を占め、事実今回の舞台も、ダイアローグは皆無、一人称の「私」が喋り続ける言葉を三名の俳優が分担し、何らかの「動き」を付すことで「これはリーディングではない」と、峻別には辛うじて成功していたものの、対話でないテキストを喋る身体の「動き」は、通常の演劇での「内容に即した動き」にはなりえない。
演出はリーディング(テキストを発語する)行為とは別の行為を俳優の身体に要求していたわけだが、テキストの叙述にとっては妨害にもなりかねない前半が形作られ、後半には情景描写のテキストに寄り添った「内容に即した動き」が成り立つ部分があり、音響と動きによって「終わり」が示され、ある種の「演劇を見た」後味は残した。
一人称の語り(登場人物一人が自分の台詞を吐き続ける)は、「地の文」のみが続く小説などのリーディングに近い。従ってこの作品の力は、テキストそのものにある。フィクションではなく作者が実際に見聞きした旅行見聞記に属するこの作品の強みは「実際に見聞きした」事物と、己自身との距離感の絶妙な表現にあり、引き込むものがある。
ただ、この一人称は、本来同化しえない他者のリアルを想像させる媒体にとどまる。文学の領域に思われた。
このテキストに独特な演出をほどこした重力/Noteは、テキストと距離をおきたいのか、親和的なのか、いずれにしてもテキストをよりよく観客に届けるのに成功したのかしなかったのか、様々な試みは見られたが、この芝居の「見方」を提示するべき序盤から前半、「演出」にこだわり過ぎて逆に退屈、というか言葉が入りづらい。演出のし甲斐は無いかも知れないが、客とこのテキストに出会わせることが、このテキストを選んだ使命であって、客が知らないテキストを知らない内に解体してしまっては意味がない・・という基本的な認識に照らせば、演出権限の発動を我慢し、まず最初に丁寧な「提示」、役者という身体に馴染ませることも含めたその時間を用意しなくちゃあかんのでは・・というのが素朴な感想。試行錯誤の結果今回の形になったのだとは思うが。
小竹物語
ホエイ
アトリエ春風舎(東京都)
2017/08/24 (木) ~ 2017/09/04 (月)公演終了
満足度★★★★
ホエイの作品も「珈琲法要」は再演で観たし、割と網羅しているかも・・?という自負は評価にあまり関係ないが(毎回題材もテイストも違うし)、河村竜也と作品提供する山田百次のユニットが二人の実験場でありつつも芝居のクオリティの平均値が漸増していることを感じる。
「怪談」「くすぶるアイドル」「狭い業界」の鄙びた情景が目だった綻びなく見える中に、特に見なくて良い人間模様が目に入って来てしまう・・という気詰まり感を愉しむ(笑う)観劇の時間であった。
霊や「死」が意外に隣合せであるという事実が、オチになるというより身も蓋もなく露呈し、ガイコツ踊りが笑えるのと同じギャップで笑える。
菊池佳南の人物・素材としての安定感は好もしく、プライベートな修羅場が公然と展開する終盤では目に涙、心情は十分表現され伝わるにもかかわらず、深刻にならない天性の佇まいがあって、舞台を大いに助けている。各人、「怪談」番組の出演者としての登場とあって、個性的。また仕事を終えた後に借りた部屋の備品を原状復帰する作業はアトリエ春風舎の現場感で、「裏側」がリアルにみえるのが良い。
シアンガーデン
少年王者舘
ザ・スズナリ(東京都)
2017/08/18 (金) ~ 2017/08/22 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/21 (月) 19:30
現代の正統的なアングラ、と評したペーターゲスナーの言葉を思い起こす、(ここで言うアングラは恐らく状況劇場のそれに近い。)意表をつく、だけでなく普段気づかぬ本質的な何かに触れる、言葉遊びと奇想天外な劇的展開が、哀切のトーンの中に幻影のようにめまぐるしく、懐かしく生起し、やがて消え去る。
この劇団を初観劇とみえる若者が「すっげぇ面白かった」と、一人ならず感想をもらしていたのが妙に嬉しかった。
二輪草
metro
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2017/08/09 (水) ~ 2017/08/13 (日)公演終了
満足度★★★★
濃密な70分であり、月船さららの女優としての意気込みを感じさせる一人称語りの舞台、ではあった。
江戸川乱歩の猟奇的文学の世界は、地の文の語りによって伝わってくるし、古めかしい部屋、年のいった雇われ人の風情、畸形の造形もリアルに迫っている。
それだけに、演技的に迫り切れない部分がくっきりと見えてしまう憾みはあった。
「不幸」という言葉と、それを発する本人の自覚とのギャップが、おそらく哀れみを催させるポイントであっただろうが、どうだったか。「人と違う」ことへの気づきの「途上」のぼんやり感は表現されていたが、その悲しみ、恐らくもっと物事を知ればより絶望へと近づくであろう、心情の「まだその先がある」予感が見えていたかどうか。基本的に容姿に恵まれた者が未体験とならざるを得ない「心情」の表現に、肉薄しようとした足掻きは見えたが、抜けきれてなさも残っていたのは否めない。
転がる石に苔むさず
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2017/08/01 (火) ~ 2017/08/08 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/08/04 (金) 19:30
公演期間にこのページはUPされていなかったので遅れて投稿。
オイスターズでしか見ない平塚直隆ナンセンス芝居、俳優座がやるというのだからやっぱり観ておこうと足を運んだ。
俳優座には老練俳優という笑いの武器があった・・企画段階で狙いがあったか知らないが、異色の舞台になったことは確かだ。私の観た回では老俳優の筆頭、90代の中村たつが体調不良で降板、かなりイメージの異なる代役(予め準備されていたという)の方が「(干支は)たつ!」と名前にかけた台詞を台本に忠実に言ったのも寂しく、だいぶイメージが変わったのではないかと思う。
ナンセンスを掘り起こす平塚戯曲だが、「良い話」にまとまることがある。絶妙なところに収めるのが作家の腕の見せ所だとすれば、今回は良い話のラインへの「蹴散らし」がどうだったか。中村たつという女優の風貌しか知らないが天然の破壊力が絶妙なバランスをこしらえたとしたら、やはり代役ではつらい、という事になるだろう。
だがこの手の芝居=奇妙芝居とでも呼んでみる=が益々上演される演劇界でありたい。
解散
江古田のガールズ
サンモールスタジオ(東京都)
2017/08/12 (土) ~ 2017/08/20 (日)公演終了
満足度★★★★
初、江古田girls イン・サンモール。意外やまともに演劇である、という印象。勝手な予想と違ったというだけの事だが・・。
荒唐無稽さや笑いへの貪欲も、劇団員(今回は二名が中心的役で登場)のエンジン全開で自在な立ち回りが幻灯機の光源のような按配に周囲を照り映して、ある「信じられる」世界が構築され、周囲の俳優も皆、「演技」的に(主に笑いに向けて)全力で表現に勤しんでいた。表現アスリートといったところ。
俳優の技術レベルが予想外であったことと、若さ、輝き(年寄り臭いが・・)を引き出しそれをフル活用した躍動的ステージは成功と言えよう。
このステージが、江古田のガールズのスタンダードであるかどうか、そこは判らないが・・共通していそうなのは、細かな粉末のようにまぶされたチョイ毒ありの<笑>のネタで、またいつか味わってみたいと思わせた。テンション高し!
ナイゲン(2017年版)
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2017/08/11 (金) ~ 2017/08/21 (月)公演終了
満足度★★★★
評判を呼んでいるだけの事はあり、再演が重ねられたからこそ観られた「会議もの」劇の感想。
我々が直面しがちな「選択における葛藤」が、ナイゲンという会議で制限時間を使い切る迂回の仕方でフルに展開。高校生の設定ならでは、と言える子供っぽい反応な部分も含めて、「あり得る」展開のその結末は・・。
一言で言えば、結末よりは「ちゃんと会議してる」事に溜飲が下がる。皆がクラスを代表している事情もあって、エゴ、いい加減な論理、無節操、付和雷同なんでもござれだが、それでも「この結末だから」でなく、やはり「結論を出すために頑張っている」プロセスに注目させられ、「一件落着」を望みつつも、私などは会議やってるよ高校生が・・と、会議礼賛派であるこの芝居には手放しに一票である。
ルート64
ハツビロコウ
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2017/08/05 (土) ~ 2017/08/11 (金)公演終了
満足度★★★★★
「ドグラマグラ」をハツビロコウの前公演と勘違い(同じ役者もいたし)、意外なペースに驚いたが前回は三菱重工爆破事件のあれだった(タイトル失念)。それはともかく今回は配役四人という人数が絶妙に感じられる(て事は俳優が役を演じ切っている証)濃密な舞台。集団的な犯罪に手を染めた者たち、前回のに通じるが、劣らぬ緊迫感、と同時に異なる切り口を見せ、殺人組織になり果てた件の教団の事件にスポットを当てた。初演から月日が経つが古さを全く感じないのも驚き(上演台本への改稿のためだろうか)。
プレイヤー
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2017/08/04 (金) ~ 2017/08/27 (日)公演終了
満足度★★★★
イキウメ初期作品を改作、私はオリジナルを知らないが宣伝文句によればプレイヤーとは即ち身体を失った者(=死者)の言葉を再生する者(いたこ的な)であり、改作版ではオリジナルの劇が劇中劇になっているという。
前川知大=イキウメのテイストはもちろん充満しているが、ある部分で長塚色(といっても三作品ばかりしか知らないが)が顔を出す。
超常現象の介在により、「科学」の仮面をかぶった「常識」の向こう側を予感させる時、イキウメの場合は不安と希望が混在した中、不可知領域に粛然としながらも「希望」にもなり得る可能性が救いとなるが、長塚圭史の人間観は暗い。プレイヤーという人間の新たな可能性が示されても、だから何だという感覚、それによって人間はどう存在し続けているのか、という眼差しが容易には変らない。だがその眼差しをすり抜けて事態が先行する可能性、そう考え得る余地は残される。
脚本としては主要人物の最後の行動は言行不一致に結果し、動機が分からないがドラマとしては引き締まる、という流れを優先していたかに見えるチョイスは、前川氏はやりそうになく、暗いが情緒的な劇世界に傾く長塚氏のチョイスというのは外れだろうか。
この芝居、ある地方作家の遺作であり未完成の戯曲を舞台化する稽古場が舞台。稽古風景と、劇中劇の展開がやがて交錯して劇だか現実だかが不分明となる。これはむろん意図的で、宣伝文句にも謳っている様相な訳だが、甚だ心地よい。もっとも目的は心地よくするためでなく、最終的なオチの迂遠な伏線であったという風にも言えるのだろうが、思いつく結語なのにかかわらず、意外に納得させられる終幕だった。
このお話が人間の体温の流れるドラマであった事を証しし、得体の知れなさも残るという、不安と希望の混在という本来の(人間にとって望ましい?)地点に帰着した。
ハイバイ、もよおす
ハイバイ
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/07/29 (土) ~ 2017/08/12 (土)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/07/30 (日) 18:00
ハイバイ番外公演というよりはみ出し公演、というか在庫一掃セール。あるいはまた「もう一度ちゃんとやりたい」公演?
(私の記憶が正しければ)どれも新年工場見学会で披露された作品をKAAT用に仕立て直したもので、程よく作り込まれ、程よく力加減が抜けている。「もよおす」とはつい生理的にモヨオして生み出された作品集かと思えば、大スタジオに組まれたのがお祭りか縁日に境内に仮設されたような裸舞台で、どうやら夏らしくモヨオシをやるのらしい。
お馴染みの岩井氏の前説では「飴のチリチリ」は気にしない。途中携帯での撮影を奨励する場面があるので「機内モード」で結構。三演目の合間に岩井氏のMC入りというそんなユルい催しであったが、それでもこうやって正規に上演されてしまうと次回の工場見学会は・・と少し心配気にもなる公演であった。
アトリエヘリコプターでの「出し物披露会」でやったのと同じ笑いがこの劇場でも起きるのは作品のクォリティの証明でもあるだろうが、あの会で「こんだけ真剣に馬鹿やるか」とは、「立派な劇場」ではなりづらかったナ・・そんな感想は、半ば「秘め事」のように胸の中にしまっていた記憶が公式に開陳されたことの淋しさの反映か? よく判らないが、恐らく今なお「しまっておきたい」作品体験である事を、今回の上演で確認したという、自らの心理を解説すればそんな具合であったように思う。