秘密の花園
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了
満足度★★★★
テントでも狭い小屋でもなく芸劇で唐十郎をやる。蜷川はコクーンでやったし駅前劇場で所狭しとやった木野花演出のもあった。小屋っぽい場所でやるのは正統、大劇場でたっぷりやるのも趣向、だが芸劇イーストでどうやって・・
作品は82年本多劇場杮落としで初演、少し前の唐組テント上演がバッタ本の中でキラッと光った印象だったが、既成の枠に囚われない福原演出は、適役寺島しのぶを謎の女に配して、恐らく最大限頑張っていた。こうして見ると難しい芝居の世界だと思う。演出も演技も、唐十郎本人、あるいは唐の脳味噌を感覚的に飲み込んだ身体なら自然とやるのだろうそれを、折り目正しい現代俳優に精一杯寄り添わせ、再構成した手触り。忙しなくモード変転する台詞(照明変化と共に)、姿形が似る二人の女の彼女はどちらなのか次第に不分明になっていく過程、そこに絡む奇妙な人たちの奇行・・難物に挑み、現代的な処理もされ笑いを取っていた。
近松心中物語
シス・カンパニー
新国立劇場 中劇場(東京都)
2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団☆新感線を自ら観ることはないと思っていたが、かの秋元松代の戯曲をいのうえひでのりが演出というので物見高く観劇と決めた。
「伝説」のように言われる蜷川幸雄演出舞台を私は知らないが、壮観な装置と流れるような転換(それも場面の一つであるかのよう)は蜷川「身毒丸」を彷彿とさせる。
が、新国立中劇場を使いこなす松井るみの美術(蜷川演出では朝倉摂)と演出いのうえのタッグの成果も認められた。
美しい「形」や「様式」には、それが形や様式に過ぎないと分かっても浸ってみたくなるものがある。休憩を挟んだ後半、心中の道行きを辿ることになる二組の男女の一対一の会話や、逼迫した状況を演出する追っ手の登場などでズームが人物に寄り、舞台が立体に見えてくる。
前半には「買う」道楽と無縁の忠兵衛が女郎・梅川と遭遇し、互いに一目ぼれしあう場面があったはずだが見逃している。もう一組の男女、与兵衛とおカメ(だったか)を知らず、与兵衛と忠兵衛を同一視したりで筋が飲み込めず前半を終えたが、後半で理解できた。
新国立中劇場は2年以上ご無沙汰、にもかかわらず床の黒や奥行きの特徴に「ああ」と懐かしさがよぎった。
空間を存分に生かした美術は、とりわけ終盤、目に飛び込む刺激だけでご飯が進むが如し。もとい、芝居が極上の料理の如くになり。
「心中」が日本人の深層に訴えるものでありエンタテインメントたり得ることを再認識。「心中」を鏡にして浮かぶ江戸の庶民の姿(悲哀を帯びながらも現世の春をしたたかに謳歌する)こそが、物語の主役として浮上する、という構図が今回の演出にもあり、これを見事に図案化してみせた確かな仕事があった。
モナカ
Co.山田うん
スパイラルホール(東京都)
2018/01/05 (金) ~ 2018/01/08 (月)公演終了
満足度★★★★★
久々にダンス公演に興奮した。言葉のない舞踊は、補完要素としての「音楽」と密接に関係し、影響される(同じ事をいつだったか書いたが)。
エッジの効いた「音」に拮抗せんと身体まるごと総動員で挑みかかる姿は、スポーツに似て理屈抜きに観る者を揺さぶる。別役実曰く、観客が演じ手の身体の動き(静止していても呼吸し生存する意味でその時間のあいだ演者は「動いている」。)に引き込まれ、観客の身体が演者のそれに(今で言う所の)同期する事を(「共感」ではなく)「共振」「共鳴」と言う。今回、ほとんどがアンサンブルであり群舞であったが、時折ソロ・パートがあり、その時かの「共振」状態にふと陥る。目の前の体の動きに見入り、共時体験しようとしてふとそうなるのだが、あまりに高度で華麗な動きは観る者の「予測」を超えて行き、共振作用があるトランス状態をもたらす。
プロローグとエピローグに挟まれた三部という全体の構成で、始まりはスピーディな群舞、様々な色彩の舞いが展開し、最後には冒頭に似たスピーディな音楽に戻り、「汗」をかき切って終演となる。
ローザス「ドラミング」を思い出させる群舞は、交錯する基本スキップか走りの移動。グループが作られたり、離合集散し、異なる振りのパーツが同時進行で進み、滞留時間が微妙にずれたり、「決して繰り返さないが何らかの規則がありそうに見える」分子運動状の動きが延々と続いて、浜辺の波のように単調だが見飽きない。
これらの動きは何を表すのか・・というより、私は何を感じたのか、だが、意識下で感知する何かを今は言葉にできない。
強烈なイメージは終盤に凝縮されている。
超絶なソロ・ダンスを見せる女性はカンパニーの中心ダンサーだろうか、筋肉の摩擦による熱で狂乱の度が増し、先程から音楽が空気の分子運動も活発化させていて、にも関わらず、大詰めの光景・・腰で体を支える倒れた人間が何体も転がり、倒れた者の片手を握って引っぱろうとする者が次々と付いて生まれたコンビは、「最大限動いている」様相をみせているのに速度は限りなくゼロに近いという異様な現象から、破滅的に重くなった人体が今出現したかのような錯覚に陥る・・・そんな(風にみえる)現象の視覚的イメージはただもう強烈だ。何だこれは一体・・?
この終局に至って山田うんの舞踊の言語の多様さはローザス(「ドラミング」の)と比べるべきものでなかった。「言語」の解読はできないが・・
開演当初は踊り手個々の動作に目が行ったが、最後は演出(作り手)の頭の中を覗き見るようだった。
ハイサイせば
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了
満足度★★★★★
アゴラ劇場は満席。沖縄の団体とのコラボは要注目、というのも、畑澤聖悟氏は一貫して地元青森にこだわり、作品を生み続けてきた。そこへ「沖縄」である。気にならない方が不思議である。
しかし、沖縄と青森の(特に方言が中心の)あるある話をこんな形で紹介されるとは・・。ネタ一つ一つ思い出すと、まだニヤけてしまう。だが・・
二地域のリアル現地人がいる実在感は、(物語の舞台である)戦争末期の現実と2018年の今の現実を、(役者自身が意図するまでもなく)裏打ちする。
裏切りと分断を強いる力にもかかわらず、目を見合ってしっかり出会おうとする、その意思を伝えようとする青森のおばちゃんと、どうにかこうにかそれに応じた(同郷の沖縄人を)裏切った者。それまでの時間が「現実」に属する時間だとすれば(それがためにコミカルに描いてもいる)、そこから先のおばちゃんの行動は「現実」の彼岸を見ようとする祈りになる。「民」同士が、お上の目の届く場所で許される形ではなく、損得でもなく、出会い直そうとするのがその場面だ。
方言作戦の奇妙な予行練習から、作戦「遂行」(英国大使館に電話する)の緊迫の時間を経て、そこから解かれた和やかな時間、おばちゃんに伝言を頼んできた沖縄の男を実は炙り出すための作戦であった事が明らかになる。絵に描いたようなノンポリ差別主義の相撲取り(青森人)が、戻って来た軍人に「何か頼んでましたよ」とチクる。途端に場の空気が凍りつき、おばちゃんが苦しいながらに嘘の証言をすると、もう一人の沖縄の男がそばで聞いたままを報告し、相手を売ったのだ。
「沖縄に返してくれるんですよね」と軍人に言い、「(捕えた男の)命は取らない約束でしたね」とも言うが、虚しく響く。
他の者が去った後である。それに続いて去ろうとする男におばちゃんがこう尋ねる。「なんであんな事言ったの」、責める口調でなく、真っ白な疑問を投げることが最大の責め苦となる。別の言い方をすると、「あなたはそんな人じゃないのに」が枕にある。三上晴佳のおばちゃん力の本領だ。・・心が崩れていく男に、「手紙を送ります」と言うおばちゃん。浦添に戻ってもどこに住む事になるか・・、「浦添の比嘉さん宛に送ります」、とおばちゃん。住民の4割が比嘉です、と男。「浦添の比嘉さん全員に手紙を送ります」、とおばちゃん。両頬を涙で濡らして頷く男。
「戦争」の国民的記憶と言えるものがあり、しかし「戦争」は異なる様相を持ち得る21世紀の今、古い印象を与えかねない。渡辺源四郎商店はそこをうまく扱っている。
高校演劇サミット2017
高校演劇サミット
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/28 (木) ~ 2017/12/30 (土)公演終了
満足度★★★★
いわき総合、新座柳瀬の二校を観劇。全国上位を集めた訳ではないが、高校演劇侮る勿れ、と実感(先日見た畑澤聖悟の顔が・・) 被災地福島いわきからは、被災の事実がどういう「過去」となっているか、非常に興味深いものがあった。十代の彼らは震災時小学校の中高学年。「今」、テレビ報道が関東のそれと同じ内容なら、震災は遠い過去。そういう空気がまずある。その空気感を敢えて表現する場面が劇中にもある。だがそれは世間の「空気」を読んでのことなのか、実際かの地でもそうなのか・・。溌剌としてエネルギッシュな総勢20数名の彼らの顔には影一つ見えなかった。そしてまた思う。元気すぎないか・・。
好対照の新座柳瀬は8名の男女によるフランス軽演劇風の喜劇。どう見ても原作ありに見えたが、上演台本は(恐らく)顧問の名と、オリジナルの題名のみ書かれていて、「ありそう」とは言え新作なら見事な構成。生徒たちも喜劇的な跳躍を演技に見せていて、会場は(ややフライング気味だったが)笑いが絶えなかった。最後に並んだ当人たちの顔には、やや戸惑いが。
最後の駒場も見て、ホクホクの一日と行きたかったが、十分嬉しい休日になった。
扉のむこうのコト
東京エスカルゴ。
シアター711(東京都)
2017/12/20 (水) ~ 2017/12/26 (火)公演終了
満足度★★★★
以前一度くらい名を聞いた程度で、異例の初観劇。独自色がありそうで身構えてると、意外に普通、というか真っ当に稽古して頑張って芝居やってる感のある、それもコメディ。劇団俳優は三名も?居て、ナグリ持って建て込みもやってそうな。
ただし劇団的な一体感はさほどなく、プロデュース公演(仲良し系?)の乗り。特徴と言えばオーバーアクション気味な演技を繰り出す劇団役者、「それほどイケてないけど本人ヤリたがってるんだから」と周囲を看過させるキャラを持ち、映像畑でも拾ってもらえそう、的なあたり。役者顔見世興行とは言わないが、確信犯的ご都合主義なコメディ。
・・要はよくある若者のドタバタ芝居のカテゴリーで、吐かれる台詞の中身は殆どなし(作者自身も切に訴えたい言葉は殆どないだろう。目的は役者を輝かせる事なのだから)、だが演劇公演の舞台裏の話でもあり、リアルな感覚はベースにあり、それが細部で説得力を発揮している。主役のベテラン女優のデフォルメされた「大物」ぶりも、(通常ならあり得ない)失敗続きの舞台を一人背負って「行くわよ!」とマネージャーに言い置いて舞台へと去る「感動」の後姿の演出も、笑ってしまう代物だが、一本辛うじて線が残っているのは、役者たちの本気度。とりわけ、真面目な役だがズッコケを「やらされてる」感を残しつつラストまで持ち越せた女優二名が、恐らくは芝居の「感動」部門の下支えになっており、男優はその上で優雅に遊んでいる(それはそれで重要な役割だが)という構図ではなかったろうか。
記憶は朧ろだが「独自色」は、あった。処置に困る奇妙な「間」。笑いへのチャレンジングな姿勢はウェルカム、願わくはウェルメイドでない破壊的な笑いを。
「標〜shirube〜」
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/12/12 (火) ~ 2017/12/25 (月)公演終了
満足度★★★★★
楽日前のステージを観劇。公演期間終盤に足を運んだのは初桟敷の「海獣」以来だろうか。開演前から役者(会場案内に出張る)の熱が伝わってくる。それは芝居の中で情念の渦となり回転する独楽のようにぶつかって火花を散らしていた。
「体夢」以降、私は桟敷童子の「模索」の時と(勝手に)認識しているが、「蝉の詩」そして今作と、何にも囚われない桟敷童子らしさが追求され磨かれた舞台が現前したように思った。
お話は戦争末期、不遇の女たち(夫を戦争にとられた)七人が海に近い場所に集落を作り、幸福(夫)を海の向こうから呼び起こすための儀式を行うべく、古文書にある通り「人柱」となる者を探している所、自殺の名所でもあるその場所を脱走兵3人が訪れ、行き場を失って死のうとするがそこに立てられた看板の奇妙な文字「条件により相談にのります」に疑問が湧き、そうする内に七人衆に取り囲まれ、彼女らの不幸な身の上を聞いて「一度死のうとした身」、儀式に必要な生け贄となる事を約する(一人は消極的)。このあたりの展開、「自死」する羽目になった自らの境遇とまだ若くエネルギッシュな様子とのギャップも手伝い、笑える場面にもなっているが、その後、彼女らを良く思わない村人たち、また(海に落ちたのを見棄たので死んだと思っていた)彼らの上官、七人衆それぞれの事情も絡んで螺旋状にドラマが展開し、思いもつかない進み方をする。通常ドラマの葛藤は対立する二つの要素の相克に収斂されるところ、今作では登場人物が新たな要素を持ち込み、焦点そのものが遷移して行く。
役者としては、今回は客演に朴ろ美(漢字がない)と円の男優、朴は元娼婦の女リーダー役を(鬼龍院花子の夏目雅子ばりに)気を張って演じていたが「力み」を周到に桟敷女優らが中和、最後にはその力みも違和感なく人物らしく見え、総じた所の劇団の俳優の底力と、書き手の更なる成熟をみてホクホクと帰路についた。
君のそれはなんだ
オイスターズ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/22 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
満足度★★★★
年末の忙しない頭で臨んだ毎度オイスターズの妙ょー芝居、少々追いつけず途中睡魔に。
夜のタクシー営業、人通り少ない山あいの道に大きなカバンを片手に提げた女性、次に現れたのがやはりカバンを提げた男性、それから・・。我らが運転手は彼らが怪しいとギャァギャァ騒いでいる、その奇妙。人物らの会話の奇妙。
そして最後の登場人物が「この事態」の謎解きを担い、タクシー運転手(別の)として介入。冒頭からの設問であった「果たして彼らは幽霊か」(もしや騒いでる男本人が幽霊か)の答えが予期しない姿で解明され、信じてもらえなかった不本意が劇として溜飲を下げる「形」は、笑えもし、哀感も滲ませる。
不条理なのに「イイ話っぽさ」が匂う平塚戯曲のこれは成功例ではないか。
余剰を削いで、以前よりシンプルになったテキスト(と感じさせる演技?)も良い余韻を残した。
新年工場見学会2018
五反田団
アトリエヘリコプター(東京都)
2018/01/02 (火) ~ 2018/01/05 (金)公演終了
満足度★★★★
年末が近づいて「あ、そうだ」と調べたら早々と完売に。当日会場に赴いて観た。
前半の五反田団は劇中劇の鴻上尚史風が劇全体を侵食していく感じの作り。後半ハイバイは別役+城山羊の会風(当日パンフ通り)。岩井氏は必ず何か新しいものを「こんなの出来ました」と見せる。獅子舞が今年はモダンダンスとの融合、何やら奇妙なストーリー性もあって、伝統と言いながら意外に新鮮。プーチンズ改めザ・プ~も久々に。秀逸は恒例のポリスキル。黒田の「怒り」演技は毎回マックスで、それを笑うような芸だが、今回は自然に湧き上がる怒りをみた気がしたのは・・映画「恋人たち」(黒田氏出演)が頭をよぎった。
三人姉妹
桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>
PRUNUS HALL(桜美林大学内)(神奈川県)
2017/12/17 (日) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
満足度★★★★
OPAL桜美林・鐘下組学生による高ボルテージ芝居は「汚れつちまつた悲しみに」以来二度目。訪れた甲斐あり、「ボルテージ優位」ゆえの演技のばらつきや、拙さを全く意に介さない緊迫の二時間。三人姉妹まで鐘下流に組み敷いたかと、唖然とした。
ペール・ギュント
世田谷パブリックシアター+兵庫県立芸術文化センター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/12/06 (水) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
満足度★★★★
初めてライブビューイングなるシステムで、冒頭は欠けたが何とか「観劇」にこぎ着けた。40~50人位の「観客」のうち、98%が女性(恐らくたいはんが主婦)。2%が私。映画館の画面ではアップもあって見やすく迫力もあるが、撮られた画(たとえ生でも)と判る映像では1枚壁を隔てた感じを否めず、熱量は伝わらない。終演しても拍手は起きない(多分外国なら起きる。根拠はないが)。逆に定点で撮影し、遠慮がちにパンやズームを使う程度なら、違ったか・・これも判らないが、「制約」の中で観ている共感が醸成されたかも・・だがそれだとチケット代に不服が漏れそう、そもそもDVD化を兼ねての撮影だろうし、云々とあれこれ考えた。
終演後の挨拶で日韓合作という文句を主役の浦(あれなんだったっけ)氏が連呼していたが、手練れの韓国人俳優たちも存在感を示す。日本語でも喋るが時折韓国語で喋り、そこであの韓流コメディ特有の甘えっぽく「文句を言う」抑揚が耳に入った時、韓流流行りの全盛期とは違って聴こえるのを感知。
韓流モードで聞けば笑えただろうが、笑いに繋げる表現、そのモードを作る難しさや、表現の彼我の違いを超える事、などについてふと考えた。米国式のらしい(振りの多い)表現というものもあるが、果して押し並べてそうなのか、万国共通普遍の表現とは、とか。。
考える余地が生まれるというのも、ライブビューイングならでは?などと「考え」たり。
韓国人演出家のとにかくも才気を感じさせる箇所が随所にあり、個人的には辻田暁の舞いがかくも秀逸に舞台上に嵌め込まれていて嬉しく、両国ともに魅力ある俳優の見せ場があり、ペール・ギュントの旅というフォームを借りた大々的見世物小屋の様相。
ペールの旅は最後に望ましい場所へ導かれる旅ではない。近代演劇の祖イプセンの異色の作品だが、どことなくの作者自身の人生を老境にあって見つめた作品に感じられて来る(何歳に書いたかは知らない)。人間の生き方を厳しく問うイプセンはそこにはなく、「お前は何者であった(あり続けた)のか」と問われて答えられない老いたペールを、否定も肯定もせず、優しく結末へと誘っていた。
アカメ
wonder×works
座・高円寺1(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
当日夜の戯曲賞公開審査の審査対象となる作品を直前に観劇という格好。審査会でも「先程舞台を観たが...」と前置きして感想を述べる審査員もいたが、審査会での言い得たコメントが自分の感想を上書きした可能性もありつつ少しく述べれば、
マキノノゾミ氏の寸評に同意したのは説明台詞を端折る作者の「書き癖」。端折り過ぎてよく解らないまま通過した箇所が幾つかあったり。一方、比較的淡々としたやり取りが(人里離れた酷寒の山間のレストランに似つかわしく)続くかと思いきや、ちょっとドラマティックな展開に持って行こうとする後半の箇所で、「別に盛り上げなくていいかなあ」と、思う自分が居てしまった。冬山で、動き過ぎるかな、と。(年を取ったせいか。。)
人物らの逗留の目的は、鹿狩り。が、ディアハンターたちの狩りの「現場」はここで当然だが語られるのみ。だが騒がしい混乱の最後、正面の窓の向こうに鹿が姿を現す。この造形は素晴らしかった、
前世でも来世でも君は僕のことが嫌
キュイ
アトリエ春風舎(東京都)
2017/12/14 (木) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
満足度★★★★
仕掛けられた爆弾で死ぬ、がピリオドの幾種かのシーンが重ねられる。フリダシに戻って「またかよ」とこぼす〈主人公〉?が振舞いを変えてみたりしても結局無駄、というオチがつくバスジャックのシーンが相対的に多いが、自分が乗っ取るバスに爆弾を仕掛ける行動には解かれるべき疑問があるのに多くを説明しない事、などから、これは様々な連想を喚起する仕掛けとしての演劇、具象のようで抽象である絵画、として観てしまった。
テンポはよく、何かすっきり感もあるので背後関係の整合性は考えられているのだろう、位が関の山。
死、すなわち命の扱いが演劇の中でゲーム感覚に軽くなっていくプロセスを、突き抜けた先の感覚麻痺が狙いだとすれば、その意図は買いである。
何度も訪れる爆死をさほど嫌悪感なく受け入れられたのだったが、やはり、というか、リアリズムに軸足を置かない芝居=抽象世界は記憶に残りにくい(個人の感想だが)。抽象世界にはその世界に雄弁な方途、視覚的聴覚的な刺激の創出が、通常以上の意味を持つのではないか、などと考える。その意味で今回の舞台、言葉だけの「一人歩き」を免れた点が評価されようが、この挑戦にはもっと上があるような。。
『北国の春』『サド侯爵夫人(第二幕)』
SCOT
吉祥寺シアター(東京都)
2017/12/15 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了
荒れ野
穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2017/12/14 (木) ~ 2017/12/22 (金)公演終了
満足度★★★★
space雑遊もはずれが殆ど無い劇場の一つ(個人の感想です)。公演そのものが上質(利用劇団も上質)という事もあろうが、劇場の作りも恐らく無関係でない。芝居の世界と現実世界の境界を意識させない、舞台の熱量が客席にダイレクトに伝わる・・。理由は判らないがスズナリも雑遊も、「黒」(闇)が蠱惑的だ。
桑原裕子作演出@アルカンパニー『荒れ野』には期待しこそすれ不安など過ぎりもせず。三浦大輔作演出@アルカンパニーも雑遊で緊迫の舞台だったが、そのハードル?をものとせず桑原女史の筆が乗った様子が浮かぶような気持ちの良い舞台だった。冒頭、鼻歌から熱唱に至る「あなたならどうする」。音楽畑の中尾諭介の耳をくすぐる美声で幕を開ける。掴みはOK。深夜の大規模火災から逃れて、知人の女性のマンションの一室にやってきた三人家族(父母と学生の娘)。ところが一人暮らしの彼女の部屋には一組の親子が我が物顔に出入りしていた。
一軒家を建てた家族は、マンションのテラスから火災の方向を見ながらも、この距離は「家(家族)」の現在と歴史を、客観視することを可能にする。設定のうまさ。謎の親子の正体が物語の傍流とすれば、本流は避難してきた家族、特に夫婦関係と、学生の頃からの知人である独身を貫く女性(部屋の主)との関係。家が無事かどうかを見届ける事を諦めた後、深夜となった後半、話は現在から過去へ、本腰を入れて突入。ビビッドな話題を推し進めようとするのは妻。学生時代から夫は部屋の主の女性に思いを寄せていて、今もそうだ、それが証拠に・・。増子倭文江が、妻役を実に実に好演(「ボビーフィッシャーはパサデナに…」を彷彿)。
桑原女史の<おばさん愛>が涙に霞む、一夜の物語である。
管理人
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2017/11/26 (日) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
トラムは小劇場と言われるが、本多と同様決して狭くない。天井も高い。その舞台いっぱいに奥行きとタッパのあるアパートの一室がズドンと、イイ具合にリアルに作りこまれ、のっけから目がさめる。記号としては窓のある奥の壁、そこから手前に広がる舞台式遠近法(右端の席だったが横の壁がギリ見えた)。唯一の出入口(ドア)が下手手前。右手前と左手奥にベッド。これらをランドマークに見ようと身構える。が、程なく「人物」にひきこまれた。
男3人の芝居。アパートの所有者、及び住人である若い兄弟(溝端&忍成)、そこへ連れられて来た中年(老年?)下層労働者(温水)。場面は暗転を挟み、時系列で進むが、観客は「初めてこの部屋にやってきた」労働者の視点で、謎めいた兄弟を眺める事になる。失職したばかりの労働者にとって、招き入れられた場所=アパートは重要なアイテム。このアパートと兄弟を巡る事情が少しずつ明らかになる経過と、労働者がふいに手にした恩恵を増幅させようと(まるで僅かな稼ぎを一攫千金とギャンブルに投げ出すノリ)奇行に走る哀れ。考えの無い行動が引き起こして行く結末は、不信仰なキリストの弟子らを思い出させた。私らの日常の中でも生起しては過ぎて行く何とはない光景を、ピンターは人生の本質を照らすものとして(あるいは、であるかのように)、絶妙な筆でサスペンスフルに描き出している。
ピンター作品初見は数年前の新国立『温室』、深津演出は美術が抽象的、演技も機械的で残念ながら「戯曲」を読んだ面白さを超えなかったが、今回の森新太郎演出は(演目は違うが)美術も衣裳も、演技もリアルベースで見せた(通常の)劇。リアルな人間像から立ち上る奇異さ、不気味さが、観る者にとっては快感。終演後に拍手したくなるのは役者が体を張って表現したものを受け取った、という実感からだろう。
著名俳優の競演には逆に心配もよぎったが予想外の(失礼ながら)出来。
袴垂れはどこだ
劇団俳小
シアターX(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★
♪はかまだれーはーど、こ、だ(音程はラララララーシーラ、ミ、ミ。※ミは下のミ)。メロディーだけは頭に残った。
最近不要に睡魔が襲い、この日も中盤の割と喧騒な場面を見落とした。・・ので、その限りの感想だが。
シライケイタ演出の宣伝効果はかなりあったのだろうが、舞台についてどうだったかは語る材料が少ない。
冒頭「袴垂れ」の噂をする人々の、それを待ち望むようなやり取りがあり、場面も草っ原だから、ゴドーをモチーフにした作品だと最初に決め込んでしまった。もっともゴドーはメシア(キリスト)再臨のイメージで、袴垂れは義賊=人間だから態様は異なるのだが、「ただ待つ民」の像は重なる。ただ、今作の民はその先を行くのだという。つまり自らが義賊とならんとする。
それを望ましい展開として描かないのは、同じ福田善之作「真田風雲録」と同様、日本の「政治の時代」(戦後から60年代)に書かれた戯曲であり、「運動」のありように関わる問題を浮き彫りにした作品である事からして、当然なのだろう。
江戸を舞台に現代的問題を描き出す意図は序盤から見える。時代考証の跡は台詞に特にみられず、「袴垂れ」を待つ民らの風情は日本の農村のそれよりは潅木の点在するメキシコかどこかの砂漠を思わせる(黒澤監督の時代劇のようにジメッとせずカラッとした風土)。フィクションであり、何のためのそれかを早々に弁えて観るのが正解だったが、リアリズムで捉えた正解を探る内に恐らくは睡魔にみまわれたようで。
とりあえず本を読んでみよう。
浮かれるペリクァン
劇団黒テント
d-倉庫(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★
団員の顔を逐一記憶している数少ない劇団の一つ。音楽において魅力を発揮するという他に、半世紀を迎えんとするこの劇団の現在の特徴を言い当てられないが、「歌」モードにいつでも移行可能な「演技」との距離感がそれと言えば言えるだろうか。(故斎藤晴彦、服部吉次、世代下って内沢雅彦あたりが醸す飄々とした佇まいが、私の中の「テントらしさ」ではある。)演技態としてはさほど統一感もなく、主役級が一人二人いて引っ張って行くという感じでもない。劇団というコミュニティのあり方に思想的裏づけがあり、先ずはそれ有りきな所から染み出てくる風味、なのであろうか。こういう濃い集団にしか醸し出せない芝居の空気感が、恐らくここにもあると思うのだが、言葉でこれと言い表せない。
団員総出(幾人かは見えなかったが)による一風変わった音楽劇を「オークルチャボット」以来二年ぶりに堪能した。スポコンやくざ芝居から今回は企業社会の諷刺劇、映像作品のようなカット割りの点描が折り重なって後半は演劇的展開になっていく。
うらみを言えば、・・質感が違うシーンが組み合わされた感あり。また、意味ありげな「間」に役者の意図がはっきりと感じられず、笑いたくても笑いに至らず惜しい箇所も。そして最後、宮崎恵二演じる「元研究者」が現われ、常識的範疇の価値観から巨大なシニシズムに陥って皆をカオスへと引きずり込んでいく~的な場面があったが、一つのクライマックスでもある狂騒曲がもっと嬉々としてやられるには、既成観念をしっかり揺さぶり、呪縛されていた事の無意味さを知る「喜び」を浮き彫りにしたかった。
さて荻野清子の音楽。私の中の秀逸な荻野楽曲は、今回も随所で黒テント劇を彩っていた。最後の曲は「メザスヒカリノ」に通じるちょっととぼけた人間たちの明日への讃歌だが、曲としては分かりづらかった。
男女逆転版・痴人の愛
ブス会*
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/12/08 (金) ~ 2017/12/19 (火)公演終了
満足度★★★★
上映会にて「お母さんが一緒」を楽しく鑑賞(私には「男たらし」に肩を並べる面白さ)。翌日「痴人の愛」観劇。パンフの挨拶に、ペヤンヌと安藤両名の間に激しく演出面の意見の相違があったと読める文言がある。若いつばめを囲い、養護者時々恋人(?)という、一見優位とみえる女が、結局は恋い慕う側の弱みで「いかないで‼」としがみつく事になるラスト、なりふり構わぬ女の執着は男の劣情を刺激したか、互いに縺れ合い(漸くにして?)結ばれる。そして騎乗位になった女が首を絞めて男が果てると、死者の上には子種を得た女の満面の無気味な笑みが・・ナレーションで進む文学調な舞台だが、基本線は隠微でどろどろとした人間の欲望の行方をたどって行く「暴露モノ」で、ブス会らしいダークな素材だ。
だが安藤玉恵の演技はペヤンヌのいつもの(三浦大輔にも通じる)ディテイルをつく演技よりは、軽喜劇に寄ってサービス精神旺盛さを発揮していた。行動線は明示されており、これ以上中年女の爛れようを役の細部にまで反映させるのでなく、その行為や様子のおかしさを自虐的にカリカチュアする演技を安藤は選択した。このへんが「対立」のあった所ではないかと、勝手に想像しているが、結果的には安藤の伸びやかな演技が全体を按配してまとまった舞台になっていたのは確か。同じポツドール出身の両名でも安藤はその匂いをさせない役者で、そんな印象に合致する舞台だった。とは言えやはりブス会の世界は演劇界の独自の領域を占めている。
江戸のマハラジャ
劇団扉座
座・高円寺1(東京都)
2017/11/29 (水) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に扉座。やっぱし勢いは良い。つか作品(郵便屋さん何とか)をやった昨年は、座長横内謙介の(つかへの)思い入れか、「今これをやる」事の説明に無頓着だったか今様に脚色した部分の原作との齟齬だったか、記憶が朧ろだが、乗れなさがあった。
・・そんな具合であったが、今回はなぜか江戸のインド人の話。マハラジャと聞けば何と言ってもあのラストの大団円の出演者総出の踊りである。期待して出向いたが、のっけから群舞が披露され、まず拍子抜け。江戸の下町にインド人がなぜ???の疑問には、徐々に答えていく。何とも鷹揚な作りと言えば作りである。
最終的に、日本に辿り着いた異国人を優しく温かく受け入れた江戸っ子の心意気が滲む人情噺の体ではあるのだが、日本語ペラペラだし、インド人を捕縛しようとやってきた役人を追い返すのに長屋の連中が茶色い染料を全身に塗りたくって目くらましする、とか。えじゃないかではないが侍を追いやる群衆の踊りでもって「民衆の勝利!」的な展開にさせている。
色んな無理が「人情噺」の構図にハマる事で赦されるパターンをなぞっているのだが、不満は何より舞踊であった。ハナから踊っちゃ盛り上がらんでしょ、という。溜めて溜めて、最後に皆の思いが一つになり、力が合わさって「人生への勝利」を謳歌する・・マハラジャやるならそれでしょ・・という。有り余るほどのご都合主義も、「インド人」を一括りに描く居心地の悪さも敢えて問わず。踊りの使い方とクオリティ(見せ方)にのみ不服が残った。