地底妖精
Q
早稲田小劇場どらま館(東京都)
2018/04/20 (金) ~ 2018/04/23 (月)公演終了
満足度★★★★
STスポットでの永山由里恵と武谷公雄の怪演が記憶に新しいQの新作(上演は二度目という)は早稲田どらま館で、同じく永山のほぼ一人芝居。無対称の存在(地底の生き物)とのパーティ(おならの出ない芋を勧めるのにほぼ終始)に始まり、延々と喋くり回るのは妖精とはこれ如何にである。客席にやたら視線で絡むかと思っているとついに舞台上に客を引っ張り上げ、一くさり遊んでみたり、突如夢の再現らしいゲロい映像が流れたり、終盤に漸く登場するもう一つの生物・・と、飽きが来る暇もない。妖精(自分をそう思っている人?)の暮らす世界は一体どこなのか、ピンクの芋と蔓は(サツマイモ色の塗り損ないでなければ)何を象徴するのか、モグラは彼女にとって何か・・といった疑問は湧くが、答えを探す必要性を感じさせない。彼女が抜き差しならぬ所へ進んでいく「感触」があり、人格の一貫性の表れと思われるこの感触はテキストが構築したものか、俳優の仕事か。型破りが標準である所のQの今回も美味しい舞台をみた。
テンペスト
劇団山の手事情社
大田区民プラザ(東京都)
2018/04/12 (木) ~ 2018/04/13 (金)公演終了
満足度★★★★
よく記憶を辿れば、(WS発表公演でない)山の手事情社の本公演を目にしたのは初めてだった。ただし今回の舞台の印象は「初めて」のものでなく、古典演目への切り込み方が予想よりやや晦渋であった。『テンペスト』について記憶にあるストーリーを引っ張り出し、なぞる事なしに、この舞台に随いて行く事はできなかった。原作を知っていることが観劇の条件であるのは、古典という下敷きに依拠しながら、その古典作品についての再読み込みを怠っているようで、あまり好きでないが、対するWS発表は新作である。この劇団が持っている演劇観、尺度、何を重視しているかを未だ知らず。
これから欧州へ渡りルーマニア・シビウ演劇祭とルクセンブルクで上演する。かの地では知られた演目だけに観られ方も随分違うのだろう。
彼我の演劇文化の違いを聴けば彼我の人間観・権利意識の違いなど諸々考えさせられる。(ミュージカルでない)海外からの風を日本にどう吹かせられるか・・一つのテーマになって良いと時折思うものの、日常の中にその場所が見えない。
マッチ売りの少女
劇団PPP45°
桐生市有鄰館(群馬県)
2018/04/07 (土) ~ 2018/04/08 (日)公演終了
満足度★★★★★
桐生市は十年程前に一度通過したのみ(桐生駅始発のわたらせ渓谷鐵道を往復した朧気な記憶)。旅気分で親八会の『マッチ売りの少女』を観に当地へ赴いた。新宿の細いビルの5階だか、階段で上った狭いスペースでかぶりつきで観たのが同会『父と暮らせば』朗読。これは各地をまだ巡演中とか。辻親八の相手役は渋谷はるか。汗水迸る熱演の彼女が今回も中心的役(娘)に座り、さらには桟敷童子・大手忍!(弟)、俳優座・清水直子(妻)、辻(夫)。演出藤井ごうによる本格的な舞台であった。
旧商家の蔵が集合した有鄰館の一角で、客席は40~50程度。観客数は30余名といった所だろうか。
別役実作品のシュールさが、笑い、そして居心地の悪さを通過して、ある哲学的な問いの前に強引に立たせられるミラクルは、辻演じる夫と渋谷演じる娘との「対決」を軸に、この対決が紆余曲折するための妻や弟の介入が絶妙に絡んで仕上がる。弟演じる大手のキャラの豹変、辻との夫唱婦随のコンビを奏でる清水演じる妻、かくも美味なる舞台にこの客数は寂しい限りだが、みれば皆良い顔をしている。この場に立ち会えた幸福を自分も噛み締めた。
自己紹介読本
城山羊の会
シアタートラム(東京都)
2018/04/17 (火) ~ 2018/04/22 (日)公演終了
満足度★★★★
初演を逃し、稀少な城山羊atトラムを鑑賞。再演をやるのも珍しいようだ。初演は下北沢の小劇場B1で席数も少なかった。見逃した人達からの熱い要望に応えた格好だろうか・・? シアターイースト(=300席前後)で十数ステージやる団体だから、B1(=100未満?)の十数ステージでこぼした客、トラム(=200前後)10ステージでも埋まる算段だ。
さて舞台。「なぜか居続ける」モンダイは、城山羊ではスタンダードと弁えるべきか。「用も無いのになぜ立ち去らない」「市職が昼間からなぜ暇?同僚と約束なんかして」「人の会話もぼんやり座って聞いてるし」(時間指定は無いが、日中であるのは明白)・・そんな突っ込み所はあるものの、面白さに走って芝居内部で決定的矛盾を来たすには至らず、不自然さをキャラに回収させ、一応は有り得る話に収まっていた。
エロ要素も皆無ではないが(いやしっかりあるが)奇抜な展開は抑え目でリアル路線に寄っていた。この劇団のを見慣れたせいか、面白い部分は面白く観、馬鹿馬鹿しいと心で呟きながらも身につまされる部分を寄り添いながら観ていた。
砦
トム・プロジェクト
シアターX(東京都)
2018/04/10 (火) ~ 2018/04/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
再演歓迎。告知をみた時から観るぞと決め、予定通り観劇できた。予想通り(と言うと低評価のようだがさにあらず)見応えあった。伊達に年輪重ねていない村井国雄と藤田弓子の夫婦に見入り、芝居に入り込んだ。若手三人(原田、滝沢、浅井)が複数役及び三位一体の語り部として「夫婦の芝居」部分を進め盛り立てるべく走り回るという構図は理にかなっていた。
ダム建設反対闘争と聞いて隔世の感がよぎるのは、お上の計画が間違っていたと結論付けたことのない国では、お上に楯突くことの罪、不実行で不利益を被る人への罪、無駄を行う事の罪、それらが立ち塞がって正論も掻き消されてしまう。その現代の空気の中にこの手の話を持ち込む場合の常套が幾つかあるやに思うが、この舞台は夫婦を描き、二人の間にはあったかも知れない「罪」には触れても、社会に対してはブレなかった生きた軌跡を、ブレずに描き切っていた。
物事の正解不正解を出すのは(頭の作業としては)簡単だがこの夫婦の十年以上にわたる闘い即ち二人の存在が、辛うじて短絡な結論に甘んじようとする我々をとどめ得た事を、胸に刻めと芝居は言っているようでもある。
「ハムレットマシーン」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2018/04/04 (水) ~ 2018/04/22 (日)公演終了
満足度★★★★
第一弾=サイマル演劇団、隣屋を観劇。
表現というものは自由である。それを味わえば良い、と言えばそれで良いのだろうが・・10団体の競演となると、題材について知らない事が不足に思われて来る。通常なら観ている内に原作?を知るという事になるのだろうが、今回の題材では、果たしてどうだろうか・・そんな事を思った。
今回全てを見られないが、一つでも多く観たいし、観たいと思わせる中毒性が企画そのものにある。
曖昧な犬
ミクニヤナイハラプロジェクト
吉祥寺シアター(東京都)
2018/03/22 (木) ~ 2018/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★
舞踊のほうでなく演劇舞台であるミクニヤナイハラを観るのは昨年の吉祥寺に続き二度目。nibrollは何度か観て既にお気に入りだが、こちらは実験的「演劇」である。以前NHKで放映された『青ノ鳥』、DVD『五人姉妹』を映像で観たが、このプロジェクトはかぶりつきで、息がかかる距離で観たい、と思った。今回は「台詞はまくしたてながら走る」ノリを離れ、比較的穏やかに発語していた。いずれにせよ台詞がミソなのに変わりなく、矢内原美邦が自身のテキストで勝負したパフォーマンスという事になる。舞台成果は、この時の自分の注意力では台詞を「追う」のが精一杯、パフォーマンス全体を見渡せず。昨年と今年、吉祥寺シアターの後方の席は「遠く」感じてしまった。一回り小さな劇場空間で狭い思いをしながら観てみたい。
ハムレットマシーン
OM-2
日暮里サニーホール(東京都)
2018/03/22 (木) ~ 2018/03/24 (土)公演終了
満足度★★★★
東独の演劇人として伝説的に轟くハイナー・ミュラーの代名詞的作品を、初めて目にする。絶えずよぎる「旧作品を今やることの限界」への懸念と、演劇史に刻まれた作品に触れることの期待を、ともに燻らせつつ座席に着いた。
OM-2は二度目になるが、いずれ抽象的な舞台になる事は覚悟の上で、「お茶を濁す」のでなく前傾で表現に向かう作品になっているかどうか・・境界を超えられるのかどうかを見ようとする自分がいた。
某評論家と同姓同名の中心的俳優が登場。と、いきなり金属バットでテレビや冷蔵庫を叩き始める。ステージでギターを壊すジミヘンやら鍵盤にナイフを突き立てるキースエマーソンが頭をよぎる。・・60~70年代の前衛表現は破壊にあり、(冷戦を淵源とする)構造は自分らを囲う目に見えない堅固な壁であって、「壊す」表現は「壁」の発見・再認識を促す運動的意義があった訳だった。
一般論を続ければ・・いま物を叩き壊す行為が、プロテストの行為として飲み込みづらいのは、今の時代は様々なものが本質のところで壊され、または壊れている。破壊の向こうに、何か(希望)があるとは考えにくい時代なのである。とすると破壊は「贅沢な遊戯」の類か、出口を失った自暴自棄のイメージしか浮上しない。
ただし、この公演のパフォーマンスは「一般論」からの把捉を許さない毅然とした何かがあった、ような気がする。そう思いたい? いや実際、目を離させず飽きさせず、興味の持続を可能にしたのは、役者の仕事に拠るところが大きい。そして演出・・円形に囲んだ客席のその後ろを自転車が走る。冒頭、中央に巨大な壁があって電話で会話する男女の片方は見えない。やがて巨大壁は吊り上げられ天井に張り付く。当日パンフにもあるタイトル付の数場面が、それぞれ異なる趣向で展開する。この構成からして詩の構成に似て断片的だが、それぞれ視覚・聴覚、また触覚を刺激する印象的な情景が作られ、場面に潜む美学的なメッセージを読み解こう(感じ取ろう)と味わうことになる。
『ハムレットマシーン』は今年の「現代劇作家シリーズ」(d倉庫)に取り上げられ(OM-2公演もその関連企画)、ハムレットマシーン特集年である。テキストは翻訳本で15頁程度。詩的で難解な、隠喩に満ちて皮肉の利いた、シェイクスピアのテキストや社会状況をいじり倒したような文章だ。どの役がどの台詞を言うように指定したいわゆる戯曲でもなく、H・ミュラーがこれを演劇として世に出して評価されたならば、(テキストとしては現代批評性において評価はされようが)上演の形態に特徴があったのではないか・・とは想像である。
ストーリーは編まれておらず、ベースとなる「ハムレット」以上のどんなストーリーを貴方は欲するのか?と反問されそうな勢いで従来の戯曲様式を平然と踏み倒し、ただただ言葉が連ねられる。これを読み解いてからでなければ判らない舞台、とは演出の敗北だろうが、高度に「現在的」な原文を、上演することとは上演する「現在」へ翻案するという事であり、演出家にとっての難物であると同時に挑戦しがいのある山であるのかも知れない。
「観る」自分は、何か言語で表せる「意味」に読み替えようとするが、文脈のみえない示唆的な場面を「意味」に読み換えることは(原作を結局読まなかったし)できなかった。感覚的な刺激の中からサブリミナル効果のような「意味」的なものを感覚的に感じ取っていて、眠っているのかも知れない。
ブラインド・タッチ
オフィスミヤモト
ザ・スズナリ(東京都)
2018/03/19 (月) ~ 2018/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
通し券があれば毎日観たい芝居だった。
その理由は置いて・・
二人芝居。観客にとっても、視線を散らす事のできない濃縮された時間だが、開幕から力みなく、いつしか誘われた。
燐光群の、というよりは、坂手戯曲の調子であったと、体言止めや「である・だ調」の頻出に改めて思うところなれど、会話で状況が立ち上がるストレートプレイのモデルのような作品である。刑務所の面会室のボード越しでなく生身の再会を十数年ぶりに果たした男女二人が、新たな二人の結婚生活を始める一軒家にやってきた、その瞬間からの恐らく何ヶ月間かの物語。関係の物語だ。
少し遠めの過去と、ある事に関する真相が、徐々に顕現してくる。まずは場を認識させ、近い過去を類推させ、二人の距離を推測させる、言わばベールが剝がれて行く過程がうまい。
男は「運動」の中で、ブラインドタッチというバンド(二人組み)の片割れとしてライブ活動をしていたが、騒乱事件(抗議する市民と機動隊との衝突)に巻き込まれ、騒乱を主導したとしてバンドのもう一人の男と共に有罪となり服役する。よりリーダー的存在とされて冤罪で服役する片割れを残して、彼は再審の結果16年目に釈放された。
男と知り合って間もなかった女は、二人を救出する運動に打ち込み、その過程で男と結婚した。女は男との関係について、また相手への配慮について、言葉にし得る限り言葉にし、二人の間の信頼関係が続くことを前提にあらゆる事を話題にする。それは男の社会復帰への道を伴走しようとする行為であり、男は女に応答するべく、言葉を紡いでいく。
その中心にあるらしいのは、音楽、ピアノであった。
女は新しく借りた部屋にピアノを置いている。運動の世界では著名なバンドであったブラインド・タッチの一人が解放された・・男の釈放は「運動界」ではそう認識される。だが沖縄の集会に招かれ、ジョイント演奏を乞われたと女に告げられた瞬間、彼は演奏を強く拒む。
理由はひどく納得できる衝撃的なものだった。即ちバンドを主導していたのは譜面が読める獄中の片割れであり、曲の主軸は彼が演奏し、男のほうは破壊的な音の介入をして掻き回す役であった。譜面も読めない。
この告白への女の反応がよい。少なからず動揺して一瞬視線が宙を泳ぎ、「事実」の確認のための質問を続けた後、女を支えていた何かが脆く崩れそうになる予感が走るが、女は彼との関係を続ける方途を探るのだ。
借りた一軒家の庭に、男は離れを作り始め、暗転のたびに基礎、柱、全体と出来上がっていく。ほぼ囲いができたある暗転の後、なぜか女がその部屋に閉じこもっている。「独居房」的に使った感想を言う。「あなたはよくこれで何年も耐えられたわね。」
場面は前後するが、話題は性的な事柄に及ぶ。つまりは、何でも話題にする女のある種の意志の表れだ。と、男はアレが「できない」事を女に詫びる。女は自分が悪いという。私の方が年上である事を言い、何かの団体の○○さんとはやれたのかと訊くと、男は強くは抗わず、認める。「一緒に住む意味とは」「結婚とは」「繋がる事について」・・。
女は自分が出て行く、と言う。男が自分のほうこそ、と。すると女は「この部屋の家賃もあなたの救出支援活動のカンパが財源。あなたに住む権利がある」と明快に答える。執着を断ち切った、突き放した語りの後ろに、女の内にある情熱を、観客は仄かに感じ取る。女は男へ介入し続ける。男の意固地な拒否をみて、怪我を装うために指に包帯を巻きはじめる。「これは二人の新婚旅行だね」と知人に言われた沖縄行きを断行する決意を示すと、男は渋々首をタテに振るのだった。
会話の前後関係まで覚えていないが、女は男のその「演奏」に対するこわばりまでも最後は溶解して行く。ある一言が確か、あった。が忘れた。いやそれは女が弾くピアノの音だったか。。
「離れ」の壁を引ん剥くと、そこにはもう一台のピアノがあった。女はそれを貯金をはたいて買った自分用のピアノだという。男には、男のために買った、部屋に置かれたピアノを「あなたはそのピアノを弾いて」と、あてがう。
無言の間。男は、ピアノへと近づき、手を伸ばしてみる。その意味するところを観客が回顧する間もなく、二人は「演奏」を始めるのだった。
詩×劇2018 つぶやきと叫び―礫による礫ふたたび―
遊戯空間
新宿文化センター(東京都)
2018/03/21 (水) ~ 2018/03/24 (土)公演終了
満足度★★★★
遊戯空間じたい久々のお目見えで、和合亮一と来ると生真面目なリーディング舞台では・・と若干警戒しつつ観はじめたが、何かをブチこまれた。
この演目の初演?は見ていないが、震災から7年の今、和合氏著『詩の礫』を読んだのも昨年古書を安く入手してであり、今の感覚から程遠い震災直後の「感覚」(身体的反応)から出た文章を、現在の東京でどう舞台化するのか・・。
要は震災直後は特殊な身体的・心理的状態を人にもたらす事を知る現在、つまりその反応を原発事故・津波の悲劇と結びつける事による詠嘆調を「古い」と感じてしまう現在、あの言葉はどう今に響かせられるのか、という警戒であった。
この舞台は、「震災直後」という時間に、役者それぞれが素手で、半ば強引に、向き合い寄り添う態度に徹すること、それを自らに課すことで、成立していたと思う。
文の構成、20人程の俳優への割り振り、シーン分割とそれぞれの演出的趣向は、徐々に徐々に、下腹に響いてきた。
放射能への無理解による福島人への差別が露出した光景。また津波の後老いた母を探しに家族が訪れ、髪飾り一つだけを見つけ、よかったよかった、よかったよかったと、喜んで帰って行ったという記述。やがて一人称による直接話法が頻出し、地の底から響かせるような語り、叫び、張り詰めたテンションと速度でまくしたてる。
重い空気が続けば少し引いた場所で小休止と行きたいのが人情だが、この舞台では(演出的工夫は別として)、被災地に生きる誰か、若しくは和合氏の言葉を、代りに「言う」以上、どのような事があろうと「引く」態度を微塵も見せてはならず、情念、狂気、何を寄る辺としようが「深刻さ」を保つ事が課せられている。そしてそれは「忘れようとしている」我々が変わらぬ事実に向き合うべきである事と、向き合い方=態度のありようを厳しく問うているように思えたのだった。
テキストは舞台の終盤近くまで、2011年から遠くは離れないが、突如2018年と表示され、「詩の礫 起承転転」。鬼が来た「どうたどうた どどどうた」どこに何をしにどんな姿して「鬼がきた」・・と、ラップ調で長い歌詞を、足踏みに乗せて言う。
台本は持たず喋り通し、動き通し、体を酷使したこの出し物は、東北という犠牲を顧みない日本の現実を反転させた、儀式のようにも思えた。
この公演のために集った面々は、出自も容姿のタイプも、声質もバラバラに見えたが、終わって並んだ彼らは、目的を強く同じうし使命を全うしたことにより、その目的において替えの利かない集団として見え、不思議な感情が湧き起こった。
叫ぶ詩人の会というのが昔あったな。
『椿姫』『分身』
カンパニーデラシネラ
世田谷パブリックシアター(東京都)
2018/03/16 (金) ~ 2018/03/21 (水)公演終了
満足度★★★★★
『椿姫』観劇。久々のデラシネラ。小野寺修二演出作品と言えば「あの大鴉」もそうだった。しかし形容詞としての「芸術!」を当てたくなったのは小野寺作品初見(4,5年前だったか)の衝撃以来で、それ以上。
微細なニュアンスに及ぶ動き、演技、アンサンブルは、「完璧」の単語を使うに相応しく、秒単位で「見る」注意を観客に起こさせる。「椿姫」のどこかで読んだか見たかしたか、しなかったかも忘れたが、見たかのように思える悲恋物語の構図が浮かび上がり、いつしかストーリーを追わせている。
台詞も吐く。役者出身の方は喋り上手でも踊り、ダンサー出身は踊りが主だが喋る場面もある。他流試合なのではあるがダンサーか俳優かの違い以上に個性の違いが際立ち、それぞれの見せ場を光らせている。マイム一本で行かず台詞が出始めたのは意外だったが、「形」にこだわらず物語描写に効果的だった。が何と言っても小野寺修二の舞台は「動き」が秀逸。緩急あり、めまぐるしく美しく目の離せない華麗な動きが、一つでない目的で構成され、次へと連なっていく様は圧巻。
衣裳は現代的で、崎山演じる「椿姫」は青のフォーマルジャケットにスカート、という感じ。言語しぐさも現代のそれで、彼女を熱愛する男(野坂)のその想いが最終的には「通じていた」ゆえの悲劇的結末に、複雑な心境を伴って感動を湧かせる物語構造は原作のそれだろう。「現実に擦れ切った感性」へのアンチはおそらくどの「現代(時代)」にも存在する。
「ウブさ・若さ」「勝利(恋敵に対する)からの慢心」といった野坂氏のノンバーバル表現による心情描写だけでなく、アンサンブル表現が絶妙に展開を予感させるヒントを与え、道を敷く効果も秀逸。なぜこの動きが、あのニュアンスを示唆するのか・・小野寺の発明?着想?は判り易さのせいか、そう評されない感があるが天才の域ではないか?と、思ったりする。
赤道の下のマクベス
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2018/03/06 (火) ~ 2018/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
鄭義信らしい作品であるのは勿論だが、戦後在日三部作に比べれば舞台設定からしてシリアス。戦犯収容所での「日常」と、その場所が必然にもたらす展開と。前者あっての後者である所の徹底した作りは鄭氏の信条でもあろうか。演技は喜劇色を帯びていて、一見過剰にみえるが、笑いが最終場面での泣き笑いを準備する。そうしながら国家の罪、戦争の罪、民族差別を掘り下げている。
隣の芝生も。
MONO
座・高円寺1(東京都)
2018/03/15 (木) ~ 2018/03/21 (水)公演終了
満足度★★★★
MONO舞台二度目(土田戯曲は3、4作目か)。前回のMONO舞台に(セットも)似てウェルメイドが目指されているが、勢いは前回があった気がした。今回は「設定」の問題で、ヤクザ稼業から足を洗った元組織(末端の小さな組)が稼ぎの道を「そろそろ探さなきゃ」といった呑気な構えや、そもそもヤクザ世界を描くに端からリアルを免除している。加えてヘナチョコ親分のヘナチョコな理由が後半になって判り、その理由がヤクザ素人がいきさつあってやるしかなくなった、的説明だったのに、若い頃は親父さんに世話になり、姐さんのために頑張ろうと思ったと、実はヤクザの自覚をもって長いらしい発言があったり、うむ、この矛盾(の種)がアンリアルの限度を脅かしていた。借りたビルの部屋の同じ階に開店したスタンプ屋と、この元ヤクザの事務所(探偵業を始めようとしているらしい)の人間ドラマが相互乗り入れして、大村わたる演じる「兄」の失踪が絡んで、謎多い彼を中心に話は進む。
惜しむらくは張られた伏線(謎)が説明され切れないところで芝居を終わらせていること。・・そういう切り方も無くはないとは思うけれど。。
きみはいくさに征ったけれど
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2018/03/13 (火) ~ 2018/03/18 (日)公演終了
満足度★★★★
竹内浩三を題材とした作品だが、現代の東京に暮らす青年(学校ではいじめに遭っている)が夏休みに死んだ父の郷里である伊勢(竹内浩三も然り)の祖母宅で過ごしたひと夏の物語、といったところ。竹内のキャラ付けが良く、青年との交流を一つの軸に、また祖母や地域の人たちとの交流をもう一つの軸にドラマを紡ぎ、さりげなく戦争と竹内浩三を織り込んでいく。現在を主に置きながら過去に触れる、そのバランスが絶妙だった。快活で笑いも取る竹内キャラが秀逸。TOKYOハンバーグ大西弘記作、関根信一演出で無駄を排した現代的な舞台となった。
毒おんな
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2018/03/02 (金) ~ 2018/03/14 (水)公演終了
満足度★★★★
椿組 atスズナリは二度目。前回見て「野外だけが椿組でない」と。
今回は劇作家としては未見の青木豪作品、また高橋正徳演出、もうひと押しは俳優・津村知与志。(彼の気持ちいい立ち回りを観たくて足を運んだ芝居は結構ある)
小泉今日子である。日程が固まってきたので予約しようとしたら既に全日程完売。小泉出演を忘れていた。
だが当日狙いで日程を取ったら、開演二時間前に抽選券配布、30分後「当日券」と「キャンセル待ち」の当選と順番発表、私は後者だったが、実はハズレではなく、最終的に強引にでも席に座らせる。「今まで観劇頂けなかった方はいません」とのスタッフの説明だった。
ガッツリと主役小泉の「芝居」を喰べた。著名である事(別の媒体を通して見慣れている)、小顔美形である事、理由は特定できないが「注目」させる(させ過ぎる)ものがあり、以前トラムで出演した舞台とは打って変わった「手の内」に収めた感のある箇所も多々ある役者姿であった。
毒婦=犯罪常習者の「たらしこむ」芝居は地でも行けそうな素材だが、地が前に出て技(演技)が引っ込むと、器量及ばずの他の役者とのバランスが気になってしまう。これは容姿に関する「その状態が罪」というやつ・・序盤にそれがあり不安がもたげたが、次第に「役」の役割へと注意を向ける事ができた。
毒婦=犯罪モノのスリルという面では、「殺人」が匂う彼女自身の台詞「(彼氏がいつの間にか)消えちゃうの」で客席から一瞬笑いが漏れるが、本来はゾッとさせる瞬間。笑いは深刻さを遠ざける防御という事か、、小泉女史自身の演技が呼び込んだ面も否めず。だがそんな事もありつつ、全貌が徐々に見えてくる案配よし。
戯曲のポイントは女の犯罪と生い立ちの関連だ。問題行動はその背景を想像させ、その「説明」が人間ドラマの側面を持たせる。女の回想場面は現在進行中の「現在」シーンの中に、女が見ている風景として現われる(時に現在シーンと錯綜、この処理がうまい)。時系列に進む芝居としてまとまっているが、短くはさまれる回想シーンでの、母、母の妹、父とのやり取りは鮮明な印象を残す。家族を養う仕事に疲弊した母が、流行らない整体師の夫と娘(現在の女)に食事を作るために一時的に出入りしていた妹との仲を疑い、たまたま肩を揉んでいた所を目撃して妄想と嫉妬にやられてしまう。妹(娘の叔母)が姉家族から身を引くタイミングを逸して通い続けていたある日、「その時」が訪れる。母が薬を混入して去ったその紅茶を、目の前で(叔母でなく)父が飲み、その後交通事故で亡くなるという事が起きる。この出来事が娘に与えた内的作用は想像する以外ない。女に対して同情的に描写していない所が良い。最後に女が露呈した凶暴性は殺人に関する知識を体得したそれで、ミステリー性(娯楽)の要件を満たし、収まりがついていた。彼女を受け入れる事になったホストに当たる北海道の牧場での人間関係のドラマも面白く客演福本伸一、津村が強く気持ちよくサポート。
廃墟
ハツビロコウ
シアターシャイン(東京都)
2018/03/13 (火) ~ 2018/03/21 (水)公演終了
満足度★★★★
ハツビロコウが初めて(?)鐘下辰男作品上演劇団の枠を出でて、三好十郎の重厚な議論劇に挑戦、なるほどと期待。私の結論を言えば、三好十郎のこの戯曲は、ハツビロコウの術は手に余った、であった。もっとも、それを言っちゃ古典戯曲の読み直しなどできない・・そんな声も聞えそうだ。焼け跡のまさに占領時代に書かれた戯曲を現代に「演劇的翻訳」するための何らかの策があったとすれば、それを具現するに技量が及ばなかったという事で、何が必要とされたのかが見据えられれば今後の挑戦にも光がさすだろう。そんな思いで辛口評を記す。
『廃墟』の近年の秀でた舞台は何と言っても2015年東演+文化座合同公演(もっとも他の「廃墟」は知らないが)で、小さな劇場の観客の目に堪える演技を、特に若手二人(対照的な兄弟二人)がやり切っていたのが記憶に新しい。
鵜山仁演出は、敗戦後の乾いた土と焼け朽ちた木、周囲を囲む植物的なもので舞台を覆い尽くし、「家」であると同時にそこが家屋の態を成さず「外」に通じる曖昧な空間(つまり囲いが無い、が外界とは一定の距離を保っている雰囲気)を作り、俳優をそこに置いた。これは生活を営む場の物理的な質感を出し、また思索の場にもなっていた。
敗戦後に残された道義の問題、責任の問題(1948年当時の情報で少なくとも作者の中で意識された問題)が示され、同時にこの問題が、2000年代の今も解決を見ていない事実が立ち上ってくる・・言わば戯曲の的確な読解と、現代への「翻訳」が為された舞台であった。
この2015年の「廃墟」がどうしてもモデルとなって立ちはだかり、見比べてしまう。
今回の舞台は、新劇サイドからの(正統的)アプローチでも、独自の方法論に基づく実験的アプローチというのでもなく、直感的に舞台を作って来たハツビロコウが、言わば自らを探る途上、新たな土俵で勝負した舞台、という風に言えそうだ。
だがハツビロコウ特有の、己を追い込んだ先に漏れ出るようなギザギザした発語が、この作品のテキストを通すとカバーしきれない部分が多かった。
シアターシャインの制約(左右の袖・壁に出入口が無く、奈落からの出入りしか使えないこと、舞台の奥行きが狭いこと)が、特に奥行きの狭さはマイナスして見えた。中央のテーブルの下が戦前あった地下防空壕に通じ、地盤が緩んだので修繕を行なっているから、これとは別の左右の床に空いた穴はこの“家”への象徴的な出入口かに見えたが、「天井裏」の設定に変えたのだとすれば、ここは「比較的自由に人が出入りできる家」というセミパブリック性を帯びた空間でなく、密室となってしまう。議論の口調は密室空間に親和性があり(ハツビロコウの得意技)、浮浪者の闖入は解釈不可能なまでに浮いてしまう。そうでなくやはり地上一階の床の上なのだと見れば、モードが密室であるのと齟齬がある。密室モードは、議論が起きればそれが人々の中心に置かれてしまう。何しろ他の関心事は台詞に書かれていないのだ。台詞が吐かれるところ、その言葉が舞台の、ひいては舞台上の人物全員にとっての関心事であり中心に据えられる、というのは家族のあり方にはそぐわない。鼻の頭を掻く者がいてもよいし、家族の営みを阻害する「議論」を行なっている事への疚しさが発語の端々に滲んでいたり、従って議論(というか口論)は舞台のどちらか片側でやっていればよく、でも厭でも耳に入るから家族皆に険悪の空気が伝染したりする。そのグラデーションの描写がこの舞台の条件では困難である事が、私には重要に思えた。父の本心吐露に至って家族はそれを中心にして存在する、という事がある・・こうして家族を描く、という側面が私はこの戯曲では非常に大事で、人物や集団の文脈を潜って出て来る言葉が、火花を散らすことで議論の言葉でなく「人物」が描かれることに帰着する・・この舞台が目指すべき地点はそういうことであったのではないかと思う。
まあオーソドックスではあるが、戯曲の台詞がそのように書かれている。その中からピックアップしたい議論、テーマがあったなら、それを軸にして改稿、翻案して上演するのが妥当だろうと思う。「廃墟2018」と題するだけの上演を貫くコンセプトが欲しかった、という事になるか。
おとうふコーヒー
劇団銅鑼
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/03/09 (金) ~ 2018/03/18 (日)公演終了
満足度★★★★
銅鑼は確か一度、3年以内に観ていた。野宿者支援グループの話で、ホームレス支援にまつわる若干緩めのエピソードを組み合わせたドラマだったが、味のある中心的役者の風情によって奥行きが深まり、ラストの強烈に明るい照明も劇的効果を上げ印象深い舞台になった。
社会性のある人間ドラマという括りでは、今回も同じ、老人ホーム(特養)が舞台の、死を間近に待つおばあさんと、何年振りかに訪ねて来た彼女の孫との交流を軸に進むドラマだ。
まだよく知らない青木豪氏演出への興味、詩森ろば脚本で「残花」が(戯曲を読んで)良かった事で、銅鑼との相性の良さにも期待して、足を運んだ。(詩森氏の新ユニットSerial Numberからの推薦メールも後押し。)
性的マイノリティという、ドラマの中心に据えても良い強い要素も傍流としながら、谷田川さほ演じる祖母の最期の「看取り」の日を中心に、まだ彼女の元気だった3、4年前の回想場面とを行き来し、現在の「台風の夜」での右往左往もシーンとして挟み込みながら、その嵐もやんだ嘘のような静寂を漸く迎えたとき、終幕(祖母にとっても、芝居にとっても)に向かって観客と演者とが一になる瞬間が、作れていた。
台詞量のない主役の人間味が、前回観たのに続いて、キーであった。
舞台は、入所者の終の棲家として類例のない試みを行なう岡山県の実在のホームが下敷きになっているという。スタッフや出入りの者らの個別エピソードも、そんな輪(和)の中に包まれ、自らは多くを説明しないお祖母さんの人格が、俳優自身の佇まいや表情でにじみ出ていた。
基本は喜劇タッチのストレートプレイという所で、若手(孫役と、トリマーの世界に幻滅した傷心女性)に、真摯に物事に向き合う役を負わせるハートウォーミングなドラマの範疇に収まるが、このフォームに収まろうとするのが「下心」な芝居とすれば、銅鑼の芝居は、役者自身がそのフォームから、役もろとも飛び出そうとする心の動きが・・見えたら本物だなァ・・そういう場面が幾つかあったなァ・・と、静かな感動に委ねてみて良いと思えた。
なお前説は谷田川女史が、スピーカーを通して(多分録音ではない)携帯電話の電源云々の挨拶を行なう。これが矢鱈フレンドリーで、完成された挨拶となっていた(岩井秀人に次ぐ和ませ技)。
父
雷ストレンジャーズ
サンモールスタジオ(東京都)
2018/03/07 (水) ~ 2018/03/11 (日)公演終了
満足度★★★★
まだ誕生間もない雷ストレンジャーズだが、過去演目から戯曲チョイスの傾向に気付く。欧州産の強い自我がなぞる人間の苦悩や滑稽を、普遍的言語にしきる強い作家的意志が立ち上る舞台。言語化されたそれは赤裸々な人間告発にもなっている。
今回で3度目になる雷観劇で、通して印象づけられるのが(戯曲チョイスに並び)俳優の演技、発声のある傾向。動作とともに発語させ、発語=行為である事を徹底させる「負荷」による役者の四苦八苦が、「噛み」や声量アンバランスにも表れたかと推察したが果たしてどうか。ある種の独特な統一感が魅力ではあるが、雷の本領とする所はこの先もっと見えてくるのではないかと、静かに期待している。
勧進帳
木ノ下歌舞伎
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了
満足度★★★★
杉原邦生演出版「黒塚」がキノカブ初体験の私は、「勧進帳」がその原型だったと発見。さりげなく現代の風俗・風物をしのばせた登場(即ち衣裳、言葉遣いなど)から、切なく歌い上げるラップ入りラブソングまで、趣向を盛り込みながらも「勧進帳」の読み直しを貫徹させる。その事によって逆に原作に忠実たらんとする誠実さが滲み出てくる。時代を現代に見たり義経の生きた当時に見たり自在に軸足を変える事のできる仕掛けは、主要人物以外が敵味方(義経側、頼朝側)双方の家来役を演じる形態や、弁慶役の外国人俳優が片言で関西弁を喋る面白みなど。それによって俳優は「媒介者」と位置づけられ、観客が能動的に想像力を使うべく誘導されていた。
感情の高まりがストレートに伝わり、ずっこけたりしながら物語に乗り、結末へと連れて行かれた。最近の私には珍しく睡魔が一瞬も訪れなかった(だから何だという話だが)。
罠
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2018/03/09 (金) ~ 2018/03/17 (土)公演終了
満足度★★★★
俳優座劇場プロデュースでは最初に観た「12人の怒れる‥」が素朴に良かったので、名作レパには期待してしまう所がある。
「罠」は作品じたい初見、脚本の良さの上に、舞台化の成果が審査されるというどうも演目らしい。観てみると、やはりネタバレに慎重なコメントは正しい感覚だと納得し、果たしてどう感想を書くかと考える。
しっかり作られた舞台だった。最後に全てが客の前に示されるので、これからご覧になる方は安心して最後まで見よ‥というのも妙であるが、その事から逆に考えると、この演目の課題は最後で矛盾を来さない程度に、何かを特定しない限度で、ある事態が進行しているようだと、(皆目霧の中ではなく)ある想定を可能にするように、演じられ作られていなければならない。「良い演目」とは言え、これは中々難しい。ヘタにやれば最後にやっと納得したがそれまでは三文芝居としか‥‥そんな感想をもらう代物になりかねない。
加藤忍演じる役も最初こそ収まり悪くみえたが、次第にらしく見える。皆がそれぞれ謎を湛え、今確信に満ちた動線を見せたのに謎が深まるという不思議。
コメディタッチではあるが、人物が覚える恐怖心に共振することもあり、そうした部分が舞台を見応えあるものにし、終演後もその感触は快楽として刻まれている。