「日本国憲法」を上演する 公演情報 die pratze「「日本国憲法」を上演する」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    初回は満席で予約が取れず、雨の中会場を訪れ、幸い当日券で観る事ができた。
    「戯曲でない」憲法を題材に何がやれるのか?不安ながらに見始めたが、さほど違和感が無かったのは、思えば「戯曲」での企画で各集団それぞれ、圧縮の手際や翻案・表現手法もバラバラ、原形をとどめなかったり換骨奪胎された舞台を過去に観ていたからだろう。(来年はテキストからも離れるらしい)
    今回全組合せは観られないが、まず第1グループのスタートに立ち会えてラッキー(観客が皆同じ条件で観劇)。出演団体は毎回舞踊・身体表現系と芝居系、凡そ半々の陣容だが、1グループはくっきり身体思考が舞踊系、加藤と八谷が演劇系。それぞれに感想があるがいずれネタバレにて。

    ネタバレBOX

    身体思考「九条小町」は台詞無し、象徴表現を読み解く観劇。初日の一番手だったが、空間を味方につけ、即興要素がありそうで意外とカッチリ作られた出し物だった。
    演者が登場して布を束ねた長い帯を真四角に敷き詰め、各人が所定の位置に付くまでの動作を見せる。やがて客電が落ちると和服の女中っぽいのが摺り足で現れ、一嘗めして去った後、白髪の老婆が登場し目を閉じて震えながら悲しい出来事を語るように動き、物語の始まりの体。ふと目に懐かしさを覚えて当日パンフを見れば、老婆はグループの主宰の男性舞踊家であった。その往年のパートナーも振付・出演で参加。踊りはスローの舞踏系の所作からロボットダンス、ジュリアナ東京を連想させる華やかな踊りと多彩で、一つ一つはオーソドックスな踊りだが目を飽きさせない。
    ただしストーリーの解読には苦労する。全体に悲劇調なのは、舞踏の動き=能=無念の死・・の影が覆っているからか。細部の解釈は難しいが、擬人化された9条(戦争放棄)が生きていた往時を偲び、供養する夢幻能と捉え、未来の視点からの平和憲法への鎮魂劇と解した。
    舞台上(正面奥2階部分も使う)には踊り手だけでなく、刀を手に浪人風にただ佇む老齢の人、能の謡い方風の声を出す人、など、多様なパフォーマーが所を得て存在するが、既視感あり。老婆役が昔客演していたのを観たパフォーマンス、舞踏の芥正彦の公演(首くくり栲象もいた)、元SCOT笛田宇一郎、音楽畑ではあるが渋さ知らズ・・。何処となく箱庭な異種統合の様式の発祥は何だろう。

    対照的な加藤航平と八谷しほ「VOTE!」は、若い俳優たちによる学園ドラマ。バカっぽい高校生を振り切り気味の誇張演技で演じるテンションで憲法論議をやらかすという発想で、演者が楽しそうに演じるのを見るのは楽しく、比較的まともな会話のできる主役JKと準主役JKの周りを、クラスの中心的男子、ナルシス長身男子、純粋熱血男子(ホレ易い)に、超泣き虫JK、助っ人に連れてこられたスピリチュアルなダンサーが囲む構図。
    本作の仕掛けは、高校3年生の最後の文化祭で発表する芝居を「ロミオとジュリエット」ではなく日本国憲法についての劇とせよ、とのお達しが来た、というもの。伝えに来た教師が唯一の大人である。作・演出本人がアフタートークで、脚本は3回没にして4本目を上演した、との苦労を吐露していたが、書き手として困ったのはこの題材では「主張をしたくなってしまう」事だという。役者の意見も入れて書き直した結果、憲法の事を全く知らない、考えた事もないノンポリである18歳の高校生に議論させる形となった。
    この設定は、ちょうどこの企画に挑戦する事になった一グループの状況に重なる。もっとも企画に参加する選択は自ら行なったのであり、高校生らは「受け身」の出発である。この「受け身」で始まる困難、つまり巻き込まれ型ドラマの弱点は、どんな筋道を採ろうと「よく頑張ったね」に着地できるが、「俺は誰の世話にもなってない」と言い張れる若者だけに許される着地。もっとも国民投票の権利を手にする生徒らも「よく頑張った」では済まなくなる、という話の筋からして成立しづらく、本作はこの甘さをうまく回避している。
    秀逸は憲法の中身に全く触れずにディベート(自民党新憲法草案か現憲法かという格好)を暫くの間成立させる前半。賛成派は「賛成」という言葉のポジティブな印象をアピールし、ゆるキャラも導入、一方反対派は悲劇の主人公を登場させ同情による票を得ようという戦術。ここで冒頭、二人の女子高生が共通の想い人に接近するため「自分がジュリエットをやる」とけん制し合った伏線を活用、純粋熱血男子のマナブ君のハートを準主役(行きがかり反対派)がゲット、となる。主役(行きがかり賛成派)は絶望と怒りにかられる・・。
    危ういのは、バカな高校生らの憲法論議とは言え、新憲法草案という現実に存在しているトンデモな代物が扱われ、何も知らない彼らが賛成だの反対だの言い合っている事。この現実感覚を(草案の本質を知る人にとっては)拭い切るのは難しい。やがて高校生らも「憲法の中身について何も考えられてない」事に気づき、やってきた教師にここは素直に教えを請うのだが、教師が開陳する憲法構造の理解に危うさが漂う。
    芝居としてはバカな生徒=大衆が行き着く混沌を皮肉を込めて描く側面があるが、判りにくいのは、憲法論議の文脈上では教師も「愚かな大衆」の一人に見えるが、芝居の文脈でみると神の視点で生徒を揺さぶる立派な教育者に見えてしまっている点だ。
    しかし作者は生徒らに最後には受け身である事をやめ、「ロミオとジュリエット」に戻って行く道を辿らせる。「○○の本当にやりたい事をやりな。それなら応援する」と泣き虫が主役JKに言い、本当の憲法論議(自由と権利についての)がそこにある事を観客に仄めかす。そしてお定まりの恋バナでの大団円、「中身」への言及は薄いが憲法エンタメとして一応の完成をみた。

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    2019/05/01 02:08

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