tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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空想科学II

空想科学II

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了

満足度★★★★

開演前から板付いてるベッドの二人。一人の頭には・・‼だがもう一人はそれに頓着なし。既視感を覚えて記憶のページを捲ったが、うさぎストライプ観劇じたい1、2本。「デジタル」の光景は仄かに残るが、粗筋をみるとほぼ同じらしい「空想科学」(2014)、どうやらアトリエ春風舎で観ていたようだが、記憶にない。脳天斧以外、本編通して何も思い出さなかった。
うさぎストライプの舞台は力みがなくふわふわとしている。強く主張もしなければ訴えもせず、伝える事にさえ遠慮がちに見える。断定を避け、出る杭にならぬよう振る舞う現代人の習い性が舞台にも反映、だったらやらなきゃいいくらいな印象。
しかし、人物とエピソードを増やした今作は、しっかり印象に残ったようである。
こういう系の芝居を見慣れて来たせいかどうか、判らないが、自分と全く無関係な話ではなく感じられたという事だろう。勿論相変わらずふわふわしているが、それなりに精一杯、人生讃歌を届けるべくやっておられる、と。
このユニットの特徴である歌や踊りが、ドラマ性を高める相乗効果を生まず、不要な婉曲表現で希釈している感もあるが、師匠平田オリザ風の歌の用い方を私が好まないだけの話かも。今回はある楽曲に乗って得体の知れぬ諸々たちがベッドの周りを踊り巡るシーンがツボに当たった。そしてタカハシを演じた男のキャラ。 

ネタバレBOX

眠りの(夢の)世界と現実世界それぞれの住人が居て、場面が交互に入れ替わる。双方を往き来する人がやがて夢の世界から抜けられなくなり、他方の住人がふと別の方に紛れ込んだりその逆があったり、出ているが背景に過ぎなかったりと、パズルの難解な問題を出されたような気分にもなるが、見た所パズルの方はさして重要でなく(「死」を体現する人物二名のみ押えればよし)、次の事が染み込んで来れば差当り観劇は軟着陸と言えようか。
死は唐突に無意味に訪れる。人の生涯の価値は何人も計れない。それが孤独死であっても。そして思う人の心に死者は住み続ける・・。 
狂和家族

狂和家族

劇団女体盛り

SPACE EDGE(東京都)

2018/11/30 (金) ~ 2018/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

初観劇の団体。チラシに惹かれて観た。
spaceEDGEは小さい。(この会場の別仕様だったか同敷地内の別のスペースかでもっとゆったり観た記憶はあるが。)
先日までトラムで上演していたらまのだ「青いプロペラ」の初演もここの同じ仕様で狭く、舞台を作り込んで(生楽器スペースも仕込んで)中々見せる舞台に仕上げていた。今回の女体盛り公演もその記憶に重なる所が。・・こういう場所でも芝居は出来るという。
折込みには桜美林鐘下クラス(と言うのか)上演の案内あり、ラッキー(徳望館、遠い..)。後でみればこの団体も桜美林卒業生のユニット。しかもまだ卒後二年。半ば予想したとは言え受付人員、客層とも二十代の若さ。ただし落ち着いている(会場のせいか)。また客席には5、60台の姿、身内か、演劇関係者か・・と会場をみながら想像を廻らしていると、無駄なくそつない前説のあと壁のスイッチで室内灯が消され、本編が始まった。
全編が非日常な状況に占められていたが、若い割りには制御されたドラマという構築物がそこにあった。

ネタバレBOX

「狂和」という妙な語感の造語が狙う所が、観終えた今では判り、狂った(歪んだ)ままに和する事のケーススタディと言えなくもない。実例は現今にもナチス時代ドイツにも認められるわけで。このドラマの極端な展開も「有り得なく無く」見える。
リアルを裏付けようと詳細に説明を施し始めたら中々厳しいだろうが、家族の陥らないとも限らない病理をざっくりとながら示していた。
極限な状況から幕を開ける家族の物語はそこに至るプロセスを回想シーンで謎解き、現在進行形の話も進展してある結末を迎える。
ハッピーエンドの訪れは冒頭から断たれているに等しいが、場当たり的にやり過ごしてきた家族の近視眼がやがて破綻を来す段階に至って、ようやくにして遅きに失する「気づき」を得る。再生へと活かされる事のない気づきではあるが。
観客の目には、最後まで歪みを認めない者、従って自分の非も認めないある人物に、諸悪の源を見出だす格好となるが、この人物と切り結べなかった他者=家族の思考の不徹底は看過できず、「何故ここまでコジらせてしまったのか」と思わずに居られないが、ダメダメな中でも最悪は、「気づき」にもかかわらず再生への欲求を湧かせず(真の気づきに非ず?)、死を選んだ事、の一事に尽きてしまう。つまりその前段まででドラマは十分に語られているわけだ。問題人物の背景が見えて来れば、別の選択肢が有り得たが、最後に「ケリをつけた」人間は問題人物の論理に乗ってしまい、ついに主体的行動を取れずに人生を終えてしまった、そういう悲劇にもみえる。
粗削りながら、5人という人物配置での面白い思考実験をみた。
歯車

歯車

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2018/11/24 (土) ~ 2018/12/15 (土)公演終了

満足度★★★★

SPAC今期の三作はどれも観るぞ。との願いは二作目まで叶った。
三つの中でも「歯車」が最も正体不明、戯曲でもなく、著名な作品でもない。未知数度が高いため観劇前にネットの青空文庫でざっと半分ばかり目を通した。
「歯車」は芥川龍之介晩年の、というより殆ど遺作であり、「死」の影が随所に出没する。語り手が語り手自身を「僕」の一人称で綴るこの文章では、確かなストーリーとしては湘南の実家から披露宴のある東京のある場所への移動くらいのもの。文章の殆どはその過程での「僕」の心象風景か幻影か、実際目にした事物からの連想や投影されたものの描写である。

多田淳之介演出が強く出た舞台であるのは予想通りであったが、二時間弱と長めの舞台、ストーリーの薄い題材がどういう出し物に結実したか・・説明し難いが全体の印象と合わせてネタバレに。

ネタバレBOX

舞台は意外に原作小説に忠実、つまり端折らず6章のエピソードを再現しようとしていたように思う。終盤のしつこさは「カルメギ」を思い起こさせる。他者の作品への態度だろうか。自身が作るコンセプトありきのアイデア満載の舞台は、ドラマというより知的な気づきや思考を喚起する刺激を繰り出す仕掛けに近い。宮城聰芸術監督のオファーを受けて思わず考え込んだとアフタートークで演出が語っていたが、他者の作品を演出する態度があったようである。
原作が仄めかすものをざっくり抉り取り、多田流のコンセプチュアルな舞台をオファー側は期待したのではなかったか・・と考えたり。もっとも原作は小説であり、一個の作品である。原作が持つ空気感を多田氏の持てる限りの手を尽くし、舞台化したものと見え、気合いは十分感じるのであるが、一抹の疑問は、演出家が小説から探りとったドラマ性は何だったのか、という点だ。(つづく)

2ヶ月後の追記。
既存台本を演出するように、小説である「歯車」のテキストをほぼきっちり追っている。これは私には最終手段に思えた。「テキストを追う」という形式を採れば誰も「『歯車』を上演した」事実について否定はできない。あとは単なるリーディングにならないためのメニューをどう配置するか、このあたりは多田氏の自任するところだろうが、テキストそのものへの批評をうまく回避している、と見えてしまう。
演劇には色んな形があって良いが、今作では、一つに絞る必要はないがドラマを浮上させてほしい気持ちは残る。ただし、終盤に見えた「ドラマチック」な演出は逆に不要だったかも知れない。作者芥川に重なる主人公が帰宅したとき、迎える妻が甲斐甲斐しく、作家である夫の(文学史上の)価値も間もなく死地へ赴く事も「知っている」体である。多田氏は恐らくあまり自覚的でないが、芥川龍之介という夭逝した作家の物語を彼のことをよく知っている妻の視線を借りて成立させた、一人の天才作家を顕彰する内容になってしまった。『歯車』を通して作者が表現しようとしたもの、または表現された作者自身を、語る事がミッションであったのに、一人の偉い作家の晩年の一コマとして「歯車」のテキストを当てはめ、「かく生きた作家がいた」と、ただそうまとめただけの舞台になった。どう生きたかは皆さん、勉強して調べて下さい。それだけになってしまった。興味深い場面の数々の「面白さ」は認めても、そこが抜けているとやはり欠落感が否めないのだ。
そしてそれを埋めるかのように、音楽が意味深に流れる。冒頭、結婚式に招待され東京行きの汽車に乗るくだりで木村カエラが流れる。「現代で言えばこういうことだよね」という置き換えに、殆ど意味が見出せない。別に、当時を偲ばせるものでよいではないか、と思えてしまう。爆音で流す音楽を使うのも多田氏演出の手法の一つだが、ドラマに乗っからない内に無理やり音楽で盛り上がりを強要されるのも苦痛だった。というか、そんなもので騙されないぞ、という気分になる。

「歯車」は最晩年の作品であり、芸術家が自分の才能の限界や人生という時間や死を意識する話である。多田氏の中にこれに共鳴する素養があったとみて発注した仕事だったのだろうが、多田氏はそこを見せなかった・・その結論をもって終えた観劇。
北村明子 Cross Transit project 「土の脈」

北村明子 Cross Transit project 「土の脈」

北村明子

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/10/12 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

だいぶ日が経ってしまったが・・。
某演劇プロデュース会社の女社長の名と同じ名で覚えていた舞踊家。国際交流・制作をこのかん精力的に行なっているという。今回はインドのある地方の「歌い語り」の芸能(その第一人者を招待)、その地方に伝わる武術と結びついた舞踊(カポエラのような?)も舞台に登場していた。北村女史はこの地方に実際に訪れ、触発されて今回の企画に至ったとか。製作の重要な一端を担う音楽の人も当地を訪ね・・・初めてだけに事前情報は仕込んで観劇に赴いたのだが。

ネタバレBOX

率直な印象・・・。
国際的な活動は「舞踊」(作品)にとっての手段ではなく、国際交流試合そのものが目的となっている(手段化し得ていない)、という様相が気になった所である。
「手段化し得ていない」とは、北村明子メソッド、ないしは目指すもの・探究テーマが確固としてあった上で、アジア諸国のアーティストとの共演がその「手段」として位置づけられる、という具合になっていない、という意味だ。
大変失礼な事を書いているやも知れぬが(製作の苦労は尋常でない事だろうが)、作品そのものの成り立ちが、先方の持ち込み(実際はこちらが共演を申し込んだ訳だが)を受容するのは良いが、それに乗っかってしまったような感触。つまり迎え撃つ側の主体が弱いのだ。
従って、何のための交流か・・・疑問が湧く。
北村女史は、現在は西洋から持ち込まれた舞踊が主流だが、もっと近いアジアが芸術・パフォーマンスの宝庫である事に気づき、今は目がそちらに向いている、といった趣旨をパンフか何かで述べていた。この発想の入り口はよく分かる気がする。
ただ、具体的に発見した「何か」・・・今回はインドのとある地方の伝統芸能であったが、これらがなぜ「選ばれたのか」・・・(そこまで厳密に根拠づけが無ければならないの?厳しくね?・・突っ込まれそうだが)、そこは事実気になったのだ。これは動機の問題というよりは、パフォーマンスに取り入れる技術の問題であるかも知れないが・・。

中盤以降、違った風景が見える。パフォーマーの半分を占める日本人の踊り手と、外国の踊り手のコンビによって展開されるコミュニケーション実験のような目まぐるしいやり取りは美味しいシーンの一つだ。これが幾つかあり、「国際交流」の舞台化として見せる芸になっており、秀逸であった。海外の踊り手もうまく踊る。だが、これらは付加された脇筋に見える。これをやるならこれを軸に構成すべきでなかったか。
幕開き、敷き詰められた砂の上に、ちょうど人一人の尻が乗る位の台座が点在し、踊り手は袖から一人また一人と出てくる。武術系の動きが激しく交差し、やがて台座の一つに腰を落とし、その場所から機敏に動作を開始して別の台座に着く、という場面に移る。そこでは姿勢を低く探るような動きで砂を手でサッと散らす動作が入る。・・この動きが冒頭暫く続くが、この抽象表現の意味合い、比喩、美的要素・・つまり狙いがはっきりしない。目に面白くないのだ。まず、敷き詰めた砂とは自然を象徴すると見えるが、これを踏んでいるだけで十分に接触がなされているのに、わざわざ手で触れ、砂を飛ばすのが余計なしぐさに見えてくる。また台座に座っている状態とは何なのか、何かを読み取ろうとするが分からない。「自分の場所」にこだわる狭量さの象徴か・・・だがそういう病的要素はこの出し物の対象からは外れているように思える、だとすれば「自分の場所」=国・民族?を意味し、そこから互いの事を探り合うイメージか、と考えたりしたが、今それをやる意味があるようにも思えず・・。
この長い冒頭の段階で、パフォーマンスの狙い所が示されない事が、まず消化不良である。
中盤以降、ようやくにして徐々に熱を帯びて来るが、音楽共々終盤に近づくにつれ、期待されたのが、舞台四隅に吊された白く光るレースの布である。先端の紐は天井へ向かい、レース布は円錐形を作って「時」を待っているかに見え始め、その「時」には、紐が上方へ引かれ、下方で布は広がり、風景が変貌する・・・テント芝居で言うところの屋台崩し(観客個々の様々な想像の受け皿となる劇的効果)を期待したわけであるが、予想に違わず、徐々に引き上げられていった。
・・のだが、ほんの少しで終わってしまった。KAATの高さから言ってもっと「劇的」変化を見せるまで、引き上げられただろうに、なぜその中途半端な高さで終わる・・・?何を遠慮したのだろうか、と。
まぁ技術的問題が何かあったに違いないと信じたいが。

終わってみれば、インドの芸能の出番が多く、全体を相当程度浸食した事で、逆に有り難みが・・という憾みもあり、「主体」が霞んでしまう憾みもあり、スカッとしないものが残った。
前情報ではかなり期待させた音楽も、私にはいまいち存在感を感じさせず、拍子抜けであった。
『眼球綺譚/再生』

『眼球綺譚/再生』

idenshi195

新宿眼科画廊(東京都)

2018/11/16 (金) ~ 2018/11/27 (火)公演終了

満足度★★★★

「朔」を鑑賞。リーディングという。幾らか著名な読み手を揃えたせいか、入場料はやや高め。何か趣向が凝らされているに違いないと期待値高めで席に座ったが、動き無し、言葉のみ。厳しいものがあった。
体調も悪かったが、元々遅読で何度も文節を行き来する自分にとって、言語情報だけを脳内変換して作品の世界を構築するには補助線(身体を動員した演技)が不足。
睡魔と闘い必死で食らいついたがかなりの語数を逃した。最後のオチは聞けたから、そこから本編の構成を推測した次第。巻き戻しが出来ればなァ。。

出演者4名に役割をうまく振り分け、構成にこだわってスマートな印象はあった。主宰の高橋郁子氏がどの程度「リーディング用の脚色」を施したかは判らないが、パンフをよく見ると各出演者に役名がしっかり振ってある。最早思い出せないが、ネタバレ的な配役表記に一定の脚色意図があったらしい事が窺え、もう一度見たくなった。が・・・この回が千秋楽であった。

満州戦線

満州戦線

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

思い出し投稿:
恐らくは疲労で途中舞台でなく夢をみた。到底眠りを誘うような要素は無く、メリハリのあるスピーディな演出だったが、人物関係の把握ができない滞留時間が暫くあった事(台詞では名は呼ばれ説明が施されているが説明された人間関係の風情がみえず混迷)、もう一つはこの韓国人作家による満州在住の(現吉林省あたりだろうか)朝鮮人の話が、どの視点で描かれているのか、シライケイタがどのような潤色で臨んだのか(前回は朝鮮人を全て日本人に置き換えて上演したと聞いていた)、見えて来なかった事による。
「前回」とは同作家による戯曲の上演で同じくシライケイタ氏の演出であった(観なかったが知人から面白かったと聞いた)。
そんな訳でコメントを控えていたが、日の丸に命を捧げた朝鮮人の話を日本人が芝居として上演する行為が孕むナイーブな問題が、まず第一に意識されない上演は、たとえそれが完成された戯曲であっても、意味的には不明瞭になる。そういう舞台に私には見えていて、その感触は払拭されずに終わった。見当違いな印象である可能性もあり、それを検証する材料が無いが(戯曲も日本語に印字されたものは無いらしい)、記憶にとどめて置こう。

ダンス30s!!! シアターコレクション

ダンス30s!!! シアターコレクション

モモンガ・コンプレックス プロジェクト大山 MOKK

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/02/01 (木) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

思い出し投稿:
MOKK「f」岩渕貞太版を鑑賞。女性の踊り手のバージョンと出来れば二つを見て考察したかったがその機会は当面なさそうだ。
舞踏系のゆっくりとした動き。リノを全面に敷き、あるのは簡易ベッド(ストレッチャーのような)のみ。四箇所(確か)で天井から液がポタリ・・・・・・・ポタリ・・・・・・・。若干の粘着性があって床に落ちても滴が飛ばず広がらない。薄暗がり、僅かな照明のため陰影がくっきりと。演者はモノクロに染まった場内を、移動式の鑑賞形態に戸惑いつつ眺めている観客の影の間を、ゆっくり移動する。白いワイシャツは濡れ、長髪も濡れ、時に観客に関わりながら、進み、ベッドに横たわると、無言で客の何名かに頼んで何かをしてもらったりする(肌に触れるとか何かで、その後腹部が激しく起伏し、何かが産み落とされる、という顛末だった気がする)。しまった体、長髪は性的アピールがあり、手を取られた女性はキュンと来た事だろうな、等と想像したりする。「美しい身体の鑑賞」以外の目的をこのパフォーマンスに見いだせず過ぎった思念であったが、今なお判らない。ポタリ、ポタリが撥ねないのは特許もので、何かに使えないものか・・と考えたまでに終わった。申し訳ない。

キャンプ荼毘

キャンプ荼毘

ひとりぼっちのみんな

STスポット(神奈川県)

2018/11/21 (水) ~ 2018/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

先日の「だ」組に続き「び」組が観られた。リピートは滅多にしないが、料金手頃アクセス良し、何よりこの独特な出し物が別チームではどうなっているのか、気になった。
成る程。違いは随所にある。役者の得意技や持ち味、集団が作る色でどうやら細かく演出を、時には台詞も変えている。まず冒頭の「キャンプ荼毘」のテーマ曲に合わせたムーブ(比較的激しい動きのアンサンブル)から振りが異なり、「だ」組以上に切れ味がよく、「だ」のオープニングは思わずにんまりしたが、「び」には思わず見入った。
一方芝居に入ると、「だ」はある程度キャラが立ち、流暢で声量バランスも適切。場の雰囲気は「だ」がよく出して情趣があったが、「び」では台詞は折り重るがキャラ立ちがして来ず「人物」が判別でき始めるのはだいぶ後だった。
同時進行で台詞(歌)が重なる箇所での、声量の塩梅も違う。序盤で主人公がナレーション的に呟く台詞と、彼女にディスられている女子数名の会話が重なるが、「だ」組では女子数名の会話の方が聞こえ、「び」は逆。中盤の(カラオケの)唄と飲みながらの会話が重なる箇所では、「だ」はカラオケの歌をバックに、歌の合間で酔った女子の会話が聞こえてぐっと親近感が増すが、「び」では歌の声が完全に会話をかき消していた。歌はそれぞれ異なる曲目で、感情を注ぎこんで熱唱する。
戯曲の前半は人物らの関係図や心情が入りづらい分、役者の個性が場面の作りを左右する面が大であったが、後半は両チームの違いはほぼ無く、テキスト+動き(パフォーマンス)の持つ力で劇を終幕へと一気に運んだ。言葉だけで押し切らず、静寂と、嘘のない身体を通過して伝えて来る何かがある。

ネタバレBOX

主人公は最初、周囲の人間を他者として観察する対立構図があるが、中盤から彼女も群像の一欠片と見えてくる。
演劇部時代の「先生」と部員全員が恋していたり関係を持っていた、という荒唐無稽も話の前提にしてしまえば深追いされず、「自分」語りの背景程度の味付けとしてどうにか飲み込める。
そして安定を手にする事の出来ない若い世代(主人公がその代表)の痛い自意識が、「自己肯定」の手掛かりを過去に探し求める局面にまで至る。
この芝居の人物たちは、特別な不幸を背負っている訳ではないが、現実に向かって足掻くそれぞれの生の風景は、定まらない存在の寄る辺なさ、心もとなさを基調にしていじましい。素裸にされた存在たちだからこそ、上を向いて今日を歩いて行く姿に胸が熱くなる。
そこまで言わんでモリエール

そこまで言わんでモリエール

笑の内閣

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/11/21 (水) ~ 2018/11/25 (日)公演終了

満足度★★★★

毎回観れてる訳でないが、初めて観た「ツレがウヨに..」以来のいい塩梅な笑の内閣芝居だった。社会的なテーマ(という縛り?)を離れ、「演劇」そのもの(俳優・作家事情~劇団運営、舞台芸術論)をテーマに据えても笑の内閣らしい暴露芝居の趣は健在。なおかつ、モリエールの死後作家が彼の伝記執筆のため存命のシラーや元劇団役者バロンを取材するという正攻法で歴史上実在したモリエール(とその劇団)に迫り、二時間弱の脚本に描き出した点に、書き手の力量がまず印象付けられた(ご都合主義で史実を曲げた箇所については最後に登場した高間が指弾されるくだりもある)。
分かりやすい結末に辿り着いたと思うとそれが覆される、が二度三度。歴史上の人物だけに結論を出しにくかった事もあろうが、この形じたいは批評精神のありかを示す「議論する演劇」のモデル。今後も探求されて行かれん事を。

キャンプ荼毘

キャンプ荼毘

ひとりぼっちのみんな

STスポット(神奈川県)

2018/11/21 (水) ~ 2018/12/02 (日)公演終了

満足度★★★★

事前情報ゼロ(というか見てもとか知らない)、初めてのユニットで当然ながら初めての体験。新鮮だったのはSTスポットらしい身体パフォーマンス?(皆がそれなりに動ける)、若さ?(19歳の役をやってたのは19歳)、リアル高速女子会話を女性8人のキャスト2チームとも同様に再現できる結構実力派の役者布陣?・・
ひとりぼっちのみんなの正体はよく判らないままだが、劇団のような唾の飛び交うアンサンブルである。元女子高演劇部員が数年後に集う設定の、女子高演劇部が作りそうな恋バナに終始した演劇が、語り口を変えながらリフレインされる彼女ら一人一人と「先生(演劇部顧問)」との〈関係〉が大人になった自分らに影を落としている事の赤裸々な告白へと、トーンを変えずシフトしていく。
葬儀(法事?)の場面を除き、同じシーンに戻る事なく、シーンの並びが変化に富んで、演出的に練り切れずの場面もあっただろうが相当に秀逸に仕上がった所もあり、粗削りで「若い」ながらある才能に触れた感触は残った。
元同級生同士では自然な事ながら話題は彼女らの共通項=演劇部の世界から出ず、物語が狭い円環の内側にとどまる歯痒さを覚えるが、作り手はこの視野から俯瞰の位置に立つ事を拒み、ひたすら女子たちを描く。「先生」=自分の過去と、現在とに折り合いを付けていく様を見ながら、思わず方向の定まらない二十代のヒリヒリした感触を思い出した。
自虐露悪経由の人生応援歌、と名付けてみた。

ラズベリーシャウト

ラズベリーシャウト

荒馬の旅

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2018/11/22 (木) ~ 2018/11/25 (日)公演終了

満足度★★★★

2009年に旗揚げした団体で、第5弾の今回初めて「戯曲の上演」をやるという。え?では今まで何を。。これまで身体にこだわったパフォーマンスをやって来たようだ、舞踊ではなく演劇であるらしい。
役者は黒テント女優二名(滝本女史は同じ若葉町wharfでの「4.48サイコシス」が未だ生々しく)、ロデオ☆座の澤口渉、匿名劇壇所属俳優他といった取合せで、樋口ミユ作・演出と来れば何が出てくるやらだが、未知数なりに高い期待に、応えてきた。
樋口ミユのテキストは硬質で、ある架空の状況を真しやかに描写して叙情的。演出の趣向、俳優の仕事も穿っている。
ご機嫌さんと拍手で迎えたが、淋しかったのは拍手の数。場内をみればあまりに少ない客席。これは勿体無いというレベルでない。元々小さなスペースだが、この創造的営為の結晶が一定数の目に触れない事の文化的損失を考えないでは居られない。

ネタバレBOX

未知数度の高い出し物に入場料3500円は躊躇するかも知れない。500円ばかし高めだったか。だが十分自負して良い内容だ(と私は感じたが)。 
鱗の宿

鱗の宿

演劇集団非常口

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/11/15 (木) ~ 2018/11/18 (日)公演終了

満足度★★★★

鹿児島で長く活動する劇団が初めて地元を離れて上演するという。こまばアゴラでしばしば遭遇する地方劇団の舞台である。
しかし鹿児島とは遠い。方言はもっときついと聞いていたが理解可能な程度の方言になっていたのは書き手の意識か、それとも今はさほどきつい方言でもなくなっているのだろうか。
素朴なストレートプレイであったが、時折刃先のように光る言葉があった。「今のは何?」と、思い出そうとしても芝居は前へ進み、記憶にとどめられなかったが。。
台本は少し前に売切れていたが、後日郵送で注文を受け付けるとの事で迷わず手を挙げた。楽しみである。

狂人教育 - 人形と俳優との偶発的邂逅劇 -

狂人教育 - 人形と俳優との偶発的邂逅劇 -

演劇実験室◎万有引力

ザ・スズナリ(東京都)

2018/11/09 (金) ~ 2018/11/18 (日)公演終了

満足度★★★★

このサイズの劇場で万有引力を観るのは初めて。万有引力は「上」も使う。スズナリは縦に長い箱なんだと気づかされた。箱を埋め尽くしてなお足りない蠢きが出どころを求めて熱を帯びている。やはり身体能力が高い役者揃いなだけに動いて当たり前、動いてナンボとばかりである。
10年以上前に観た同作品の流山児事務所版とは、比べようがない。恐らくあちらの方はかなり演出・趣向が入っていた(逐一場面を覚えていないが)。今回は比較的戯曲に忠実な上演として眺めていたが、やはりこの作品が私は好きである。
万有引力版では、家族の構成員以外(人形遣い)はアンサンブル的位置づけであり、人形遣いが人形らしいしぐさを見せたりする。この世界全体が人形によって構成される世界だ、という比喩とも。
操られる側である人形の(疑似)家族は、現実世界の家族が仮託されている。ただし家族の成員が「私」(最も若い次女)によって紹介された所によれば、かなりサイコな人物たちであるが。この「家族」というコミュニティを場として進行する物語は、家に出入りするドクトルが残した「この家にきちがいが一人いる」という言葉の波紋である。物語の後半、事態は急展開して行くのだが、人間の本質はこれ、と言わんばかりにシンプルな、一つの寓話となっている。
万有引力版はビートの利いた音楽・歌が多用され、アクセントとなっていた。

ネタバレBOX

「狂人教育」の語が示唆する所を読み砕いてみると、、
「一人いる」と言われた狂人にならないたために自らを「例外」としない振る舞い方へと自己統制していく事から、それに飽き足らなくなった段階で、「例外」をあぶり出す行為へと集団が方向づけられる。内なる敵を作り出す事もその一つだろう。以前映画で観た『悪霊』に、こんな場面があった。・・自らを先進的な集団すなわち革命の担い手と規定する者ら、ロシアの片田舎で西欧の最先端思想を居丈高に振りかざしながら、その集団の中で有利に振る舞おうとする者が、早速ある人間を焦点に定めて裏切り者と仄めかす。「狂人」と同様、「裏切り者」は「排除・処分さるべき存在」を指す一つの概念であり、これを人中に投げ入れる事で集団は排除機能を果たすべき集団となる。人は血の同盟に加担して行く事になる。
「狂人教育」での「排除・処分さるべき存在」は「きちがい」であり、この「排除」のお墨付きを与える概念が投げ入れられる事による効果を「教育」と呼ぶとするなら、今なお人はこうした概念に惑わされ続けている「世の中」の実相が浮かび上がる。
世界最前線の演劇2 第三世代  [ドイツ/イスラエル]

世界最前線の演劇2 第三世代 [ドイツ/イスラエル]

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場・NINAGAWA STUDIO(大稽古場)(埼玉県)

2018/11/08 (木) ~ 2018/11/18 (日)公演終了

満足度★★★★

彩の国さいたま芸術劇場を初訪問。雰囲気、形状とも想像したのと違ってアート(かつローカル、マイナー)、公共というイメージの反対で、もっと四角い箱を想像していた。それはどうやら私の中の蜷川幸雄のイメージでもあったようで、今回ここを訪れた事で「蜷川」の印象が実は随分変わってしまった。
ネクストシアターについてもそのシステムをよく知らないが、今回は俳優11名(内1名は青年座から客演)、若者らしいノリで今回の題材が求める要素(各自が帰属する民族とその国際的立場の矜持、また互いに対して抱く感情)を表現するには力不足の感は否めなかったが、オーソドックスに素直に、年齢(この場合は精神年齢と言うべきか)なりの直球勝負がネクストシアターの持ち味と思われた。
この戯曲、と言ってもドイツで実施されたプロジェクトの参加者(ドイツ人、イスラエル人、パレスチナ人)当人の証言を元に、当人が演じるものとして編まれたのだそうだが、2012年上野ストアハウスで上演されたリーディング公演と同じ作品だとは直前に知り、手練れの役者らによる台本を離してのリーディング上演(もはやリーディングでない)を思い出した。2日間程度の稽古で台詞を入れてしまうのも驚きだが、演出の中津留氏(今回と同じ)が、「台本は邪魔だ」と判断し、役者もその要望に応えたという、その熱気が沸き立つ舞台だった。殆どアドリブのように(実際セリフは厳密でなかったかも)リアルに敏捷に立ち回る印象が強かったそれに対して、今回は元の戯曲に忠実に作られ、設定も原版通り、ドイツ、イスラエル、パレスチナの俳優がドイツ人の前で上演する構図がそのまま残されている。
観客=ドイツ人との設定で、「我々ドイツ人が○○で良いのですか?」と観客に働きかけたり。目まくるしく局面が変る舞台は、翻訳劇が陥りがちな「遠さ」を感じさせず、臨場感漲る時間が作られた。

ネタバレBOX

考えてしまったのは、俳優総体としての若さ、即ち演技の未熟さは、遠いヨーロッパの「当事者」になりきれてなさに起因するようにみえた、そのあたりの事。
懸命に役に近づこうとぶつかる俳優の姿勢のみでは、埋めきれない微妙な差が残ったと感じた。熱演ではあったがもっと見たかった何か、それは何かと考えている所。
遺産

遺産

劇団チョコレートケーキ

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/11/07 (水) ~ 2018/11/15 (木)公演終了

満足度★★★★

先の「楽園」でのプレ企画(公演)の、本編に当たる2時間強の力作。
桟敷童子・原口健太郎出演ならそれだけのものが(戯曲に)あるに違いない、と期待させるだけエライ役者だが、そこを頼みに観劇を決めたが当たりであった。
劇チョコの本格芝居を一年振りに観た。

ネタバレBOX

731部隊の巨大施設のあった当時の満州・平房(ピンファン)と現代(ミドリ十字が告発された数年後の1990年頃)が話の舞台で、現代と過去を繋ぐ存在として岡本篤一人が演じる今井医師、731での「丸太」(人体実験の被験者)を一人の女性の捕虜(李丹)に象徴させ、今井医師の後輩である現代の若い医師(西尾友樹)を聞き手に立てて忌まわしい史実と対峙させていくという構成だ。
731で実際に行なわれたおぞましい実験のあからさまな再現は回避されている。が、会場である倉庫のひんやりした壁や床、抑えられた照明等で「その領域」に接近する雰囲気が醸される。
黄金バット~幻想教師出現~

黄金バット~幻想教師出現~

劇団唐組

雑司ヶ谷鬼子母神(東京都)

2018/10/27 (土) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

半分癖になりつつある唐組テント芝居。あの安っぽいというか乱雑な装置や、場末な雰囲気に、惹かれている自分がいるとでも? だが気まぐれに出かけて良かった。ここ何年かで観た数本の中で随一。かつてあった時代の熱気を呼び戻そうなどという企ては、多分ナンセンスの部類だと思う。だが時代にではなく、それを求める一人に、またある状況に応えるために演じ続けているという事なのか・・そんな事を思った。正直言えば今までは物珍しさに覗いていただけだった。
千秋楽。後方操作ブース脇に座った御大唐十郎の存在に誰も気づかぬ振りか、知らずか。鮨詰めにされた桟敷の人口密度も楽日で最大だったろう。舞台からは何やら知れない迸るものがあった。
今回も唐の文体炸裂であるのは当然として、後半見えてくる風景にはいつも以上に胸を掴むものがあった。主人公は元教師で、死なせた生徒を思うゆえにその後教師を辞め数奇な、というか珍奇な道を辿り、経めぐって今、民間学校「風鈴学級」を立ち上げようと再び「生徒ら」と相見える場面。唐十郎の芝居で初めて涙腺が緩んだ。唐本人はどう見ているだろう、と後ろを振り返ったが陰になって見えなかった。だが美しい場面は一挙に反転、「待ってくれ」と追う青年。女は、皆がふり返るのを「見た」。女(藤井)と青年(福本)、正体不明の男(久保井)のトリオが「黄金バット」の存在可能性を共有する無二の仲間で、危機が迫れば誰かが助けに現われるというのも勧善懲悪の少年漫画「黄金バット」的で判りやすいが、これが現代的なテーマと融合し、最終幕での屋台崩しは祈りの形を刻印して満場の拍手であった。

『ソウル市民』『ソウル市民1919』

『ソウル市民』『ソウル市民1919』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/10/14 (日) ~ 2018/11/11 (日)公演終了

満足度★★★★

「ソウル市民」「ソウル市民1919」の順で連日の観劇。二作とも、ソウル(京城)で文房具を商う篠原家の居間が舞台で、韓国併合前年の1909年のある一日の「日常」、そして十年後の三一独立運動の1919年3月1日当日の(さざ波程しか立たぬ)「日常」を描く。
青年団にとって「ソウル市民」は1989年の作、所謂現代口語演劇を世に出した記念碑的作品との事で、「1919」は約十年後の2000年だが、姉妹編の趣。10年という歳月がもたらした篠原家の変化より、「変わらなさ」が強調されているのに対応し、芝居の作りのほうも相似形となっている(舞台装置、人物構成、配役も)。
以前戯曲をどこかで読んだかした時の印象は何だかスカスカで何もなく、生身の役者が演じたら変わるのかな・・そんな印象だったが、確かに俳優が演じるとそれだけで面白い。のではあるが、やはりスカな印象は残った。
それは平田オリザ作品に共通するある雰囲気(実はあまり好みでない)もあるが、この作品固有の理由もあった。後者について少し言えば、植民地時代の朝鮮半島という舞台で、日本人が現代日本の感覚で存在し、台詞もある程度現代的である、というのはパロディとして成立するが、このテーマを扱うなら当然にあるべき植民地化の主体と客体との間の緊張関係が、この芝居に登場する朝鮮人との関係にはなく、といって日本人側がその関係に無自覚なのだ、という事実では回収しきれず、朝鮮人を演じるのも日本人感覚で良い、という手法が果たして妥当なのか、疑問が湧く。というか感覚的に違和感が否めず、手抜きに見えてしまう。
現代を設定したドラマにおける現代口語の効果と、この芝居での現代口語の効果は異なる事を示しており、この芝居が打たれた時のインパクトは実はこの時代設定と言語とのギャップにもあったのではないか、などと想像する。そうなると現代口語演劇なる代物は違ったものに見えてくる。

ネタバレBOX

現代口語演劇が与えた影響は測り知れない。「本家に及ばない」という言は、現代口語演劇の多士済々の後続たちには当たらない。現代口語には進化と言える必然の原理があって、応用が効いた訳だ。そして平田オリザ作品も今やその一バリエーションという事になる。
そこで私の個人的感想を言えば、平田作品、特に初期の(今作を典型とする)作品の雰囲気はあまり好みではない。
平田作品の最大の特徴は、状況設定が極めてドラマティックである事。社会的なテーマに演劇でコミットする態度が明確なのだが、果たしてこれでこのテーマを扱い切れたのか、という思いが残る場合がしばしばある。何等かのテーマが演劇には無くてはならない、と平田氏が考えているかどうかは判らないが(恐らく逆で知的興味の尽きないゆえに題材に困らないのだろうと思うが)、アングラは置くとして、知的領域で競合しそうな新劇の説教臭さに対するアンチテーゼを打ち出した印象を強く与える。そのインパクトは相当なものと想像するが(想像するしかないのだが)、斬新さを人々に与えるのはその時代その瞬間の状況における斬新さなのであって、平田氏の演劇は応用可能な原理としての側面と、アンチテーゼとして切りこんだ側面が同衾していて、今その時代の産物的側面が、不要に見えたり、時代が補っていたものが欠けたため物足りなく感じたりする、という事が程度はともかくあるように思う。再演ものを面白く観たのは「冒険王」くらい(あれは「新・冒険王」だったか・・とすれば新作だ)。一方、このかん出された新作「ニッポンサポートセンター」と「日本文学盛衰史」は面白く観た。感動さえした。
過去作品も楽しく観てはいるが、私には両者に大きな開きがあり、この差は何だろうと。変化しているのは時代の移り行きに無自覚な自分のほうだろうか、それとも・・。
The Dark City

The Dark City

温泉ドラゴン

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2018/10/15 (月) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

来年3月で40年の歴史に幕を閉じる芝居小屋での上演とあって駆け付けた。雛壇式のオーソドックスな客席は初めてか、久々で新鮮。八面六臂のシライケイタ氏の人脈か、俳優・劇評家多数来場。今回出演しない阪本篤も会場整理に出て、客席が収まった頃、4人が舞台上に並び、開幕を宣した(5分押し)。
敗戦直後の1948年に埼玉県本庄町で起きた住民+朝日新聞記者と暴力団の「闘い」の軌跡を通して、民主主義、ジャーナリズムとは何か(何であるべきか)を問うた舞台。
交錯するのは、事件の舞台、朝日記者らの逗留の場所となった老舗旅館が廃業し、取り壊しを迎えようとする「現在」。取り壊しの知らせを聞いた次女(清水直子)が20年ぶりに長女(みやなおこ)、弟(いわいのふ健)、老いた父(大久保鷹)が住む実家へ戻って来る、という場面が冒頭である。物書き(劇作家か脚本家か)で都内に住む次女と、実家のある地方に住む家族との確執など、「現在」のドラマは展開するが、中心は、事件の時点では旅館の長男であった父。彼を媒介して過去が蘇り、民主主義のためにペンと住民の団結で勝ち取った精神を眩しく振り返るという構図である。シライケイタ氏の脚本では、過去を照らす「現在」のドラマは完結したとは言えないが、「過去」を現在のように立ち上げる手法は演出と相まって成果があった。
大久保鷹がストレートプレイな場面で役者としての真価を発揮するのを非常に興味深くみた。

ネタバレBOX

「現在」で残念だったのは、姉と妹の確執の背景がぼやけてしまった瞬間だ。長年実家に寄りつかなかった妹の心の奥に燻っていたのは、姉の夫(筑波竜一)との恋愛で、つまり姉が男を奪った、寝取ったという記憶だ。それを機に家を出た。だがそれは誤解で、姉は妹が出ていってから初めて男を意識するようになったという時系列だ。妹は姉との関係を疑った。そこには決定的な場面(誤解を必然とする)があったはずで、本来ならその場面に具体的に言及して、事の真偽を確認しようとするはずが、そこはぼかして妹の思い違いとし、20年も何やってたんだろうね・・とまとめてしまった。ドラマの嘘はそれを上回るドラマの使命によって正当化される場合があるが、この場合はその事実に乗っかってその先へと展開する(といっても姉妹の和解という程度だが)ため、成立しない嘘となってしまった。もっとも主眼は本編=事件の顛末にあるので、そちらに観る側も重心を移した。
「妹が誤解した」と結論を出すのでなく、グレーゾーンのままに置くのも手ではなかったか・・などと考えたが、あの場面では笑いが欲しかったのかな。
ニューヘアスタイルイズグッド

ニューヘアスタイルイズグッド

壁ノ花団

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/11/02 (金) ~ 2018/11/04 (日)公演終了

満足度★★★★

受付の人に「再演か新作か」を訊ねると、確か「新作」と言った。実際は再演だった。
初めて味わう新感覚。「不思議ちゃん」と人格で名指したくなる芝居だ。
私が観た回は演劇人の客が相当数来場と見受けたが、その注目の芝居は型破りな文法で、作者なりの苦悶はあったのだろうがそれが見えず、客に媚びる瞬間は1秒もなく、気高く、妙な終わり方をしていたが言葉を言い切る快さが残った。達者な俳優にも助けられ、テキストの不思議ちゃんな風合いを醸していた。
初見の劇団だが嬉しい出会いである。

ネタバレBOX

ナレーション的モノローグと、ダイアローグで発せられる言葉にはゾクゾクするリズムがあり、想像をかき立てる。貴重な贈り物の覆いをはぐように「言ってる対象」が見えてくる様は見事で、その滞空時間も快感である。
独自なのは会話やナレーションによるピース(場面)が、時間軸上と空間上に配置されるやり方だ。ピースが接する緩衝地帯に作者の思考がありそうなのだが、読み取れそうなギリギリの際を進み、最後には読めない状態を観客に残したまま、背中を見せて去って行く。

「何もしてこなかった」・・そう半生を振り返る一人の男の想念を、ナレーションが代弁する(もしくは勝手に解釈して言う)のに始まって、過去のシーン、現在のシーンが編まれて行く。通常のストーリーテリング=過去から現在の因果・順序が説明されるのではなく、どのシーンもが人生を彩る断片で、順逆を気にせず時に過去に埋没しても現在の時間は進む・・そうしてゆらゆらと旅をするあり方・生き方もアリなんじゃないか・・。無口な主人公の「思考する姿」が残像となる。
映画『あん』の終盤で樹木希林演じるハンセン病で隔離された人生を送った婆さんが、こんな事を言う。木の声を聞いて生命を感じ、自分が生きている事を実感する。そうやって世界を見、聞くために私たちは生まれてきた・・。(木だって見てほしいわよ・・と、言ったような言わなかったような。)生きているただそれだけで良いのだ・・。主題から離れたか?
ああ、それなのに、それなのに

ああ、それなのに、それなのに

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2018/10/12 (金) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

別役実の新作公演。別役の痛快なる面白さを知った別役実フェス(3~4年前になるか)での名取事務所「壊れた風景」(真鍋卓嗣演出・下北沢小劇場B1)と演目以外同じだ。一年にわたったフェスで二本の新作が上演、その後は・・あったっけ? 病に臥しながら一劇作家が生涯に書く戯曲数の記録を、未だ更新し続けているんである。
日本版「不条理劇」作家と言われながら、別役実の作品は、奇妙な言動や展開に対する謎解きが後半にあったり、比較的「普通」なやり取りの結果としてたまたま奇妙な事になって行くというケースが多い。不注意や無関心、逆に強い思い入れなど、個々の個的事情が絶妙に組み合わさる事で奇妙な状況へと進む、言わばコントの要素がある。その不注意や無関心等の中に「それがためにかくなる事態になれり」を示唆する要素も当然ある訳だが、作家ご当人は作品に「狙い」(教訓?)が見えるのはよろしくないと考えておられるフシもある。
長い模索の辿り着いた先だろうか、それとも老境の為せる技だろうか・・今作は展開の飛躍の度合いが桁違いで、作者は散乱したそれらを終り近くで回収しようとした様子も窺えるが、回収し切れず、ピカソのようで遺跡の壁画のような、抽象画がそこに置かれた。
仄かに、人物連関図の「外部」(不知の領域)が肥大していくイメージがあり、予測できない外部からの関わりにどうやら翻弄されている人物らは、その事で視野が狭まり疲弊している事には気づかない様子・・今の日本の疲弊と政治的無気力が体現する一つのイメージと見える感触があった。「意味」から見放された世界(ディストピアと言って良いように思う)へと向かう予感でもある。

しかしこれを担う役者の働きは大きく、らしくない?顔芝居を見せていた森尾舞がこの「奇妙な世界」に貢献していた。

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