新浄瑠璃 百鬼丸~手塚治虫『どろろ』より~
劇団扉座
座・高円寺1(東京都)
2019/05/11 (土) ~ 2019/05/19 (日)公演終了
満足度★★★★
3月末のひとみ座70周年公演「どろろ」とはどうしても比べてしまう。もっとも自分的にはヒット率の低い扉座を今回は「どろろ」だから足を運んだ。ひとみ座の原作の魅力を見事に舞台上に迸らせた人形劇舞台がやはり完璧すぎた。「どろろ」を扉座が初めて舞台化した2004年の舞台を観たならまた違った感想もあったかも知れぬが。
人形劇との表現形態の違いが、漫画(アニメ)作品の翻案に際しての制約に繋がっていそうだが、好みで言うと「どろろ」の世界の基調は、あの秀逸なアニメ版主題歌(どろろの歌)に尽き、ひとみ座による原作理解は、ラストに総員顔出しでこれを歌った事に表れている。
この作品とこの歌を生み出した戦後の熱い時代は、マス・ストーリーからこぼれ落ちた個のささやかな主張に視線を向ける時代に座を渡すが、2010年代の今日は「権力者も一人の人間」といった個の視点が如何にも陳腐で、むしろさび付いたマスの正論を立て直す時だとすれば、「どろろ」はどう読みたいか。
49のパーツを魔物に奪われた百鬼丸を生んだ張本人・景光の権力欲は、その正当化の論=「乱世を終らせる為」も虚しく今度は民を縛り民から搾り取る権力維持再生産(平和をもたらすためでなく自らの権力のための権力行使)に走る。幾多の先人の轍を踏む景光に対し、やがてマス(=農民ら)が鍬を手に立ち上がっていくラストは、ドラマ構造としても百鬼丸という存在の由来に直結する素直で自然なありようだ。
扉座のそれは、浄瑠璃の型を導入し、太棹三味線に義太夫の謡いが流れる愁嘆の場面が部分的に挿入される。これがあまりうまく行っているように見えないのは、例えば心中物ならば惹かれ合う男女と世のしきたり(大人の事情?ロミジュリ的な)との葛藤というテーマは人間の本性に即し普遍的であり得る、つまり「抗い難さ」がある。愁嘆に相応しいのは抗い難さだ。「どろろ」の登場人物は抗い難さを嘆く姿など見せない。百鬼丸が自棄になってもそこに留まらせぬためにこそどろろは彼に付きまとっていると言っても良い。或いは仇討ち物ならば忠義よりは復讐心、情に全身を委ねるカタルシスが想起されるが、この類型にもそぐわない。
「どろろ」は魔物の類が登場するという360度どこから見てもフィクションな話。権力欲にかられた男が(既にその時点で魔物の存在に幻惑されていたとも)生まれ来る自分の子の体の部分を魔物に与える約束を結ぶ。そして生まれた百鬼丸は手足目鼻耳舌内臓などなど49箇所のパーツを奪われており、父景光の手で殺されようとするが命ある子を生かそうと母の手引きでたらいに入れて川に流される。彼を拾った医師は彼がまだ生きており、心の声を発する事に気付き、手当を与え義足その他を作り、心の声を通じて会話し人並みに暮らせるよう育て上げる。そしてある日、魔物に奪われた体を取り戻せという何者かの声を聴いて旅立つのだ。そして出会うのがどろろというコソ泥。孤児の彼は百鬼丸が危機に及んで使う武器(腕にはめ込まれている刀)に惹かれ、付いていく。そして魔物たちに出会い、戦い、体を取り戻していく。この二人の関係がドラマとして大変魅力的で、どろろは百鬼丸の「刀欲しさ」に付いていく、と説明するがその実は怖い物見たさではないか、いやもっと、人間的に惹かれているのではないか、そして突き詰めれば幼い頃両親に非業の死を遂げられた過去と、響き合うものを感じているのではないか・・決定的なのはどろろが女の子である事。この関係に多義的な、しかし何か必然を認めさせる所が手塚治虫という芸術家の凄みでこの作品の人気の源に思われる。
これを扉座は、「どろろ」を一つの古典として据え、浄瑠璃の型に収めようとした。そして変形を施し、どろろを男のおっさんに変え、百鬼丸を心の声の存在と、身体を(ある程度)取り戻した状態の二体に分離し、心の声には若い女優を当てた。一言で言えば、まだまだ味わう余地のある原作を古典化するのは早い、というより勿体ない。
あさどらさん
十七戦地
座・高円寺2(東京都)
2019/05/16 (木) ~ 2019/05/17 (金)公演終了
満足度★★★★
開演直前に入場したが自由席で前3分の1の真ん中という特等席。
質素の極限のような前回公演とのギャップの激しさにまず笑った、というのも変だが、実は前回が「伏線」であったのかと訝るほどの変わりよう。そして座高円寺2が悪くない劇場だと初めて感じた舞台だった。装置の端正さ・明るさが印象的で手抜きを感じさせない。
柳井氏の本によくある独特なリアル逸脱(書き込まれてなさ?)の波に小突かれながら進む船が、朝ドラ印のマスト(あるあるな展開や、音楽)で乗り切って行くなか、これは朝ドラへの「揶揄」なのかリスペクトなのか、見定めようと見る時間は長い。だが追いかけた問いへの答えを与えられる事はなく、ただいつしかドラマが生むカタルシスに同期しているという奇妙な感覚があった。
部分的な詰めの甘さ(特に笑わせるポイント)を感じるも最後には辻褄を合わせる柳井作品の味が、中サイズの舞台でうまく出せていた。
お気に召すまま
ヌトミック
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了
満足度★★★★
同時開催公演の【B】「Aokid presentsシェイクスピア(?)」を観劇、もとい、参加した。料金低めのイベント企画でなく「公演」である。休憩を挟んで2時間弱という割とガッツリな内容は前半パフォーマンス、後半ワークショップ。Aokidの手の内の広さが印象的で、冒頭の場内見学、Aokidの歌、ダンス、ドラマトゥルク朴氏の「お気に召すまま」短縮解説に合わせた振り、キャストとのトークで前半で休憩に入り、後半は参加型プログラムであった。
翻訳や変換の力は閉塞を打開する力でもあり、物事を一対一対応の意味に閉じ込める(リスク回避優先で組み立てられた論理に多い)風潮?に辟易する気分に、Aokidの陽気さはちょっとした救いの手であった。
お気に召すまま
ヌトミック
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了
満足度★★★
ヌトミックの長尺パフォーマンスは今年初めの「これは演劇ではない」企画に出品された「ネバーマインド」以来2作目。
音楽要素の強い遊び心が自分にはツボではないかと思っていたが、今回は音楽アピールがやや後退。戯曲を手玉に取るスタンスから戯曲本位へ変化し(作り手の主観としては特に変化はないのだろうが)、ヌトミックなりの「演劇」製作の形跡を認めた。
といっても、ふわふわとして捕らえ所の無さは「劇的」への屈折、ドラマ解体欲求を思わせるが(昆虫に興味を惹かれた子供がそれを解剖してみる的な罪の無さ)。
音楽が持つ強さとは明快さ・潔さにあり、場面を瞬時に規定する力があるが、言わば場面を批評し相対化する小気味良さや新鮮さばかりでは、物語は立ち行かない。あるいは同じシェイクスピアでもマクベスなら、批評で埋め尽くした舞台も可能か知れぬが...。
そこで何らかの線を引いたようなのだが、音楽的抽象性の強さは音楽を用いてこそ。「形」を作るという創造領域に、手ぶらで挑んだような抽象性。
長く演劇を鑑賞していると、舞台を作り手にとっての一プロセスと見てしまう所があるが、今作は正に方法論の模索過程に見えた。
自分が上げた期待値に比しての星評価。
改訂版「埒もなく汚れなく」
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2019/05/09 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了
満足度★★★★★
初演と同じ芝居とは思えない。舞台の明度、風景、台本の構成、演技、どれも熟成され洗練され、深まり、冒頭から引き込まれて最後まで一人の劇作家というか、自身と向き合い何かを追い求めた一人の人間を、その同伴者を、彼に連なった者達の存在を感じ味わう2時間10分だった。「あの『山の声』を書いた人の話」を超越して、たまさか演劇をやる事になった人間の魂(と名づけるなら)の足跡、大竹野正典なる人物の人体に宿った魂のあり方の軌跡が描かれている。作品として焦点化される『山の声』は、遺作ながら彼の人生の通過点としてしっかり捉えられて説得力がある。固有名詞から普遍へ、深化した同作に拍手である。
「お前何で芝居やってんねん」のくだりで漸く初演を「観た」感覚を思い出した。
「日本国憲法」を上演する
die pratze
d-倉庫(東京都)
2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了
満足度★★★★
中野坂上デーモンズの憂鬱と、IDIOT SAVANT theater companyはどちらも「激しい」舞台。もちろん「劇」とは激しさを伴うものだが。
毎回恒例のトークでは前者の主宰松森モヘー氏は今回の台本76頁と言って驚かれていたが(平均十数枚だろうと他の二人)、舞台はボルテージ高く、高速の絶叫声(一人の台詞は短い)が数珠繋ぎにまくし立てられていく。
後者は鍛え抜かれた肉体が圧倒する毎度の舞台で悲壮感と身体負荷によって絞り出される台詞の熱量は健在だったが、今までになく多量の言葉(書き下した何編かの詩)を独白するシンプルな舞台だった。
今回のシリーズは3組観劇でき、それぞれ健闘ぶりが見える成果で観劇としては満足だが、テーマそのものの課題は重くのし掛かる。
きく
エンニュイ
SCOOL(東京都)
2019/05/08 (水) ~ 2019/05/12 (日)公演終了
満足度★★★★
ビル5階の狭小空間SCOOLで役者9名のモノローグとくっ喋りとムーブやゲームを見た。向い合せに高低2タイプのパイプ椅子が間隔を置いて2列並び、空いた側の壁には一列椅子が並ぶが後者が実は俳優がずらり座っている。一人がおもむろに口を開くと開演。ちょうどキャンプファイアで自分の事を語り合うようなモードで、他者の話を「きく」行為・態度についての検証材料が展開する。この「告白」モードでの語りには、人のプライバシーを覗くちょっとしたわくわく感があり、それへのリアクション、薀蓄や話題の転換などネタ的には面白く見られるが、作り手が選択した仮説へと収斂して行くものがなく、云わば検証材料陳列になっている。
これらがまるで即興のような臨場感で表現されるのは興味深い。パンフに書かれているとおり製作過程で俳優個々が持ち込んだ素材が活用されているのだろう、俳優らは彼ら自身として存在し、与えられた役を演じているようには見えない。台詞の流れは最終的には即興でなく決定稿となったと思われるが、「作りこまれた」ように見えないのは作品というよりワークインプログレスの発表に近い。作り手は作品として提示したに違いないが内容はそういうものに思えた。
俳優が演じやすい俳優個人としてありながら、つまり出し物としての作為性が比較的薄いものでありながら、狭小空間の利点と考えてか客に介入する(舞台をはみ出る)部分が時折ある。しかしこれが不遜な印象を与えなくもない。作為的に堅固に作られたものの上で「遊ぶ」のは(戻るべき場所があるので)有りだが、あやふやな土台の上で客に介入すると自信の無さの裏返し(本人的には積極的介入?)にみえてしまう。
出し物として面白い場面、秀逸な局面は多々あったが、作品にまとめ切れなかった印象が残る。
尾を咥えたり愚者の口
電動夏子安置システム
駅前劇場(東京都)
2019/05/07 (火) ~ 2019/05/12 (日)公演終了
満足度★★★★
劇団名は言はずもがな劇タイトルも独自思考が滲む劇団(個人の感想)を初観劇。
予想に反して役者力あり、エンタメ性あり、もっとも解読困難な混み入ったストーリー、だが娯楽重視らしく「物語」は役者の飛躍からステロへ着地する演技と雰囲気をヒントに、流れに乗って観られる。
作劇は、相互に微妙な接点のある5、6組の対話(ほぼ2人一組)がリレーしながら快速で走行、数組の逸話がどう繋がるのか判らずもどかしいまま、しかも二つの異なる次元(時代)を跨ぎながら場面としては隣接して展開し、その事態の観察者であり渦中から脱しようとする者(主人公的グループ)が、今見ている場がどの次元の話なのかが判らないらしいという事が観客に判るまでの滞空時間も結構長い。事態は冒頭より何やらドラマティックに、面白おかしく展開するが、事態の推移は見守るしかなく、思わせ振りでクリアな演技で役者らがこの滞空時間を甲斐甲斐しく繋ぐ訳である。
ミステリーな物語の裂け目から世相への皮肉が覗き、馬鹿馬鹿しい騒ぎの末絡まりに絡まった糸が解けると、元来利害相容れない者らが(図らずして)困難を共に克服して大団円を迎えるという、「構造」だけは王道、テイストはかなりの程度亜種な人情喜劇。
第7回公演 『飛鳥山』
ほりぶん
北とぴあ ペガサスホール(東京都)
2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了
満足度★★★★
牛久沼のうなぎの壮絶な奪い合いを3編に亘って見せた、横に広いだけの体育室のようなペガサスホールが、普通の劇場のように階段式座席が組まれ、袖もあってなんと立派な(?)舞台装置も組まれたステージ。客演黒田大輔も加わり「どんなスゴイ話なんだ」と熱気の高まる中、始まった劇は、川上友里子の語りでのっけに膝折れを食らわされ脱力(笑い)。そしてほりぶんならではの感情過多(笑い)、膝折れ(笑い)、また感情過多(笑い)を繰り返し、それらが過剰演技(笑い)で繋がれ、腹筋が疲れる。そして最後は絶叫の域へ。
この笑いはなんなんだと毎回思う。王道の笑いではなく時代性との緊密な距離感で発生しているように感じる。
「本気」である事を冷笑、もしくはそれと距離を置く時代は既に長く、一方本気でありたい願望は皆しもある。渦中にある人生に憧れ事後的に本気を求め旅する自分探しの時代、「本気」と「私」との微妙なありようを特徴とする現代、「本気である」表現を過剰な演技で行なうほりぶんの芝居が笑えるベースがここにあるに違いない。それにしても展開の読めない怒濤のような1時間ちょいが終わってみると幻のようである。
「日本国憲法」を上演する
die pratze
d-倉庫(東京都)
2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了
満足度★★★★
AMMOとノアノオモチャバコの回を観劇。毎年各団体のステージ数は通常2、3回だが今年は1ステージのみ(特別出演)が1団体、他は2ステが2組、4ステが2組の変則形。今回観たのは4ステージある組の初回。
まずAMMOはここ2年程気になっていて未見だった劇団だが、現実にある自民党の改憲案を扱った直球の議論劇(近未来の要素あり)。若い実力の片鱗が見えた。ノア..は数年前「胎内」をシアターミラクル(確か)で観て以来だが、古典戯曲などの脱構築的舞台が領分かと思ったら、意表をついてコメディ仕立ての家族劇であった。早川紗代が婆役で舞台を掻き回し(邪魔をし)、なぜこの女優が居るのに普段お笑いをやらないのかと首を傾げる八面六臂の出しゃばりっ振り。
1時間でやれる事には限りがある、とは他ならぬ両劇団にこそ言え、凝縮された内容でお得感あり。
シナモン
KARAS
シアターX(東京都)
2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了
満足度★★★★★
舞踊公演というものを初めて観たのが恐らく10年位前、勅使川原三郎で「○○凱旋」なる文句に弱い素人丸出しで興味本位で観劇した。普通に海外でやってる人だから今思えば凱旋じたい特別でもなかったが、とにかくその公演ではまことによく寝た。明度が絶妙に睡眠に誘うのは今も変わらない。
数年前の「青い目の男」に続いてブルーノ・シュルツの文学作品が題材だというので、あの感動をもう一度と出掛けた。この人の才能は踊る肉体もさる事ながら照明、音響(選曲・コラージュ)と一体化した世界にあり、今作は一きわ斬新な照明効果、そして音との不思議な絡みによって、言葉に触発された世界が今生まれたかのように浮かんでいた。静と動、明と暗が一瞬にして変化し(この一瞬と緩慢との間のグラデーションがまた自在)、後を引かない。踊り=演技?は高潔・純粋で、艶かしい。勅使川原は小刻みに震えたり吃音的動作という変則的動き、佐藤利穂子はこれまで見て来た記憶と合わせ、彼女独自の言語を持っている事を発見。「動いていること」が生命レベル(否物質レベル)では常態である事の示唆を私はどこか受け止めていて、彼らが激しく動いていても「している」でなく「ある」が見えてくる感覚を味わう。実際はかなりの運動量なのだろうけれど。
背中から四十分
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2019/05/01 (水) ~ 2019/05/06 (月)公演終了
満足度★★★★★
渡辺源四郎商店主催の公演で再演モノを観るのは、もしや初めてでは。。
ナベ源が誇る女優・三上晴香を久々に拝めた。キャラクター頼みの面もあるか、と今まで見ていた所があるが、今回の演技は女優としての幅を(私に)実証した。また、知名度があれば好感度第一位説有力な?レギュラー・山上由美子、残る二役が実力派の客演と、満を持しての感もあるナベ源公演。出ずっぱりの中年男役に、札幌座所属とあるが実力者らしい斎藤歩、旅館の女将に青年団・天明(みょう)留理子。彼女が出てくるだけで期待させ、笑おうと構える我々に期待通り振舞ってくれる。
そして斎藤と三上の絡みがメインになるが、戯曲、役者とも見事であった。
「日本国憲法」を上演する
die pratze
d-倉庫(東京都)
2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了
満足度★★★★
初回は満席で予約が取れず、雨の中会場を訪れ、幸い当日券で観る事ができた。
「戯曲でない」憲法を題材に何がやれるのか?不安ながらに見始めたが、さほど違和感が無かったのは、思えば「戯曲」での企画で各集団それぞれ、圧縮の手際や翻案・表現手法もバラバラ、原形をとどめなかったり換骨奪胎された舞台を過去に観ていたからだろう。(来年はテキストからも離れるらしい)
今回全組合せは観られないが、まず第1グループのスタートに立ち会えてラッキー(観客が皆同じ条件で観劇)。出演団体は毎回舞踊・身体表現系と芝居系、凡そ半々の陣容だが、1グループはくっきり身体思考が舞踊系、加藤と八谷が演劇系。それぞれに感想があるがいずれネタバレにて。
俺が代
かもめマシーン
早稲田小劇場どらま館(東京都)
2019/04/27 (土) ~ 2019/04/30 (火)公演終了
満足度★★★★
数日前に公演を知り、これは見ておくべ。と久々に早稲田どらま館を訪れる機会を得た。「日本国憲法を読む」を含む独り芝居との前情報、構えは出来ていたが、舞台造形と演じ手のパフォーマンス、テキスト、総合して想像を超えた濃さ・面白さ。
会場には演劇界の異端児A氏や俳優T氏の姿も見え、実は人脈厚い意外と年嵩の演出者?と思い浮かべたが、終演後に姿を現した萩原氏は若かった。
奇しくもd倉庫での現代劇作家シリーズ「日本国憲法」初日をその夜観たのと比較して本作がかなり「踏み込んだ」憲法評価に立っている事が印象づけられる。
表現の細部はともかく、今このように語る事が真っ当である、と感じる。自分が時代をみる見方がそこに反映されている。という事は観客一人ひとりこのパフォーマンスの受け止め方も感じ方も様々に違いない。
状況がより厳しくなり、「それ」について語らない事が「それ」を容認するという意味で背徳的である、という事態にまで至った時、つまり芸術領域に政治が浸食してきた時(できればそんな時代は来ない事を望むが)、その時どれほどの芸術家の沈黙を見てしまう事になるのか・・そんな事を覚悟しつつ、期待もしつつ、今日も芝居を観る。
GE14 マレーシア選挙
山下残
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/04/26 (金) ~ 2019/04/29 (月)公演終了
満足度★★★★★
観劇は過去一度だけであるが十分にインパクト有り、舞踊というカテゴリーを文句を言わせない着想で拡張し続け、ついに舞踊でさえなくとも観客に飲ませてしまう山下残が今回何を見せるのか。なぜマレーシア選挙か。超気になって出掛けた。
素材は一年前政権交替を起こした選挙で、映像もドキュメント、出演者まで当人という特殊な出し物だ。ファーミ・ファジールの出で通訳に付くのが青年団の松田弘子でこれが「出来る」故のオファーなのか俳優としてのチョイスか判らない(恐らく出来るんだろうが「実は全然喋れなくて」とかヒネリも有りな雰囲気)。
ドキュメント素材をパフォーマンスとして見せる形態に演出家・実演家「山下残」の名前が光るが、マレーシアの国政選挙への着目にも(縁もあったにせよ)山下残の影が見える。選挙運動の紹介だけをやっておりその事で舞台は完結しているのだが、我らが無名候補ファジール(アーティストでもある)の選挙活動の帰芻に関心が高まるだけでなく批評性を帯びて身に迫ってくる。彼の当選と、マレーシアの建国以来初の政権交代の実現の中に何があったのか、読み取る材料はそのプロセス。観客はその経過に身をおいて歴史的事態へ突き進む高揚に浸り、迎えた結末に揺さぶられている。
我が国の選挙、即ち政治状況の体たらくが過るが、人が何かに気付き動き始めるきっかけというのは意外な場所に眠っていてその日を待っているのかも知れない。
斬新かつ確かな仕事。
BATIK100会
BATIK(黒田育世)
急な坂スタジオ(神奈川県)
2019/04/24 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了
満足度★★★★
初の劇団を観るべく初の劇場(萬劇場)へ当日券狙いで向かう予定が、時間がなく断念。そうだBATIKを観ようと目的地を変え、急な坂スタジオを訪れた。初BATIK。
会場は名前の通り急坂を暫く登った所にある。鮮やかな褐色系の外観(煉瓦の塀)が目印。内部はゆったりしたロビー、観客というより利用客を迎える雰囲気。廊下を伝って奥の会場まで、途中にも稽古場らしい部屋の扉があり、劇場というより合宿所のよう。
公演会場とされた部屋はそれなりに広いが、劇場仕様ではなく天井も低い。照明は床に置いた幾つかで間に合わせていた。長方形の短辺側に三列段差の椅子席が二十数くらい。開演時刻の20時には席が埋まり、約1時間の上演が始まった。
「BATIK100会」の第1回(会)は息長い企画のスタートとしてまずまず面白い内容だった。4人のソロダンスで1時間。1曲目以外は松本じろ(g、vo)の生演奏をバックに踊る。一曲目はSTスポット「地上波」第四波で見た政岡由衣子が、練られた振付の曲を20分。2・3曲目が合わせて20分弱。4曲目が即興性ある(実際は判らないが)演奏と踊りで20分間飛ばしまくり、燃焼し尽くした体で上演は終わった。
名前だけ承知していた黒田育世振付の踊りにやっと相見え、100回の何度かは覗いてみようという気になっている。登り坂はきついが・・。
『のぞまれずさずかれずあるもの』 東京2012/宮城1973
TOKYOハンバーグ
サンモールスタジオ(東京都)
2019/04/11 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
内容では東京2012に、俳優では宮城1973に食指。一作のみ観劇可で悩ましかったが無理やり順位をつけ、東京2012を拝見した。新作の方はまた再演のチャンスも...と期待する事にする(その際も是非福寿奈央氏に)。
事件を私は殆ど覚えていない。初演の2012年、被災地宮城だから作者はこの題材を選んだのだろうと想像する。血の繋がらない家族の物語だが、家族内の関係が適役の俳優によって浮かび上がる幸福に浸った。開演まもなく、前列の客が携帯着信バイブ音に「どうしよう」と慌てながら決して切ろうとしないのにイライラむかむか、1分近く舞台上は幾分激しく動くていたが台詞情報が頭に入らず。にも関わらず人物の関係性は損なわれず肌に入って来たのは、役者がその人物として存在していた証だ。言葉の謎掛け・謎解きで注意を引っ張るタイプの芝居でなく素直に人物を描いて行くTOKYOハンバーグの真骨頂に救われ、空白時間とならずに済んだ(その女性には終演後苦言しておいた)。
それぞれがそれぞれらしく生き、悩み、「家族」の紐帯の中から力を得て前へ進んで行く涙ぐましくもいじましいドラマ。言わば「血縁」以上に情に結ばれた、理想的な家族像がそこにある。「人と違う」不遇が育んだ連帯意識なのか、血縁でない以上「関係」を必然化する事が暗黙に目指された結果なのか・・。そうした説明は芝居には一切ないが、台詞の中に様々な思いが沸々と渦巻く様が想像され、存在の輪郭がリアルに迫ってきた。
ただ・・震災直後の日本で、打ちのめされた心を癒す彼らの心遣いを描きたかった書き手の思いを想像しながら、今は、残酷な結末もあり得ると想像する余地を与えない綺麗にまとめたラストには、少し物足りなさも残った。
最後に置かれる結語には、人の善意や優しさが当てにならない事もある「未知数」な未来を警鐘する要素を持ってもいい、そんな気がした。この事件の当事者である医師や、子をもらい受けた夫婦は善意の人であり良いことをした、果たしてそうなのか・・突き放される事で観客は、結論を自らの思考によって選択する、その決断に委ねる余地がほしかった。十中八九、客は善意の選択をしようが、そうする事で己にその選択には責任が伴うことになる。激しい雨の夜、病院の待合室で他人の赤ん坊の誕生を待つ夫婦のシルエットが、冒頭とラストに出てくる。ラストの扱いは多様に有り得て、迷う気がするが、上の感想を反映するとすれば私はシンプルに、二人が命を待ち続ける姿を残して暗転、がいい。安易と言われるかも知れないが。。
『ニーナ会議-かもめより–』
演劇ユニットnoyR
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2019/04/17 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了
満足度★★★★
2016年観たのとだいぶ違うと思ったら、演目が違っていた(そもそも役者数が倍)。私が観たのは「かもめ」で、ニーナは勿論「かもめ」に登場するニーナであるが、タイトルに「会議」とある通り、ニーナが会議をする。「かもめ」の翻案というよりスピンオフな作品と言えようか。大変ユニークな台本で、樋口ミユはやはり台詞を書く人なのだ、と改めて認識。
若葉町wharf(ウォーフ)には出入り口が二つあり、同じスペースでも大きく2パターンの使い方があると気づく。印象がまるで違って面白い。今回は黄金町駅に近い方が入口となり、長辺側に対面式の席が並ぶ。入って奥にステージに当たる台がありテーブルと三つの椅子、楽屋っぽい歓談の場。そこから手前側に台が延長して長く突き出し、テーブルと真逆の突き当たりに一脚の椅子。この遠い両端の間で芝居が展開する。登場人物については詳述を省くがトレープレフとトリゴーリンは登場。主人公ニーナの一人称の目が、二人の存在を認める、その対象として男性の身体が駆り出されている。
チェーホフ作「かもめ」の物語が、ニーナの視線を通して再構成される。トレープレフ目線ではニーナは彼に残酷な仕打ちをし、最後まで身勝手にも見える女性だが、この舞台で作者はニーナの中にある女性ならではの葛藤を普遍的な情景として描出した。
原作を知らずにどの程度楽しめるかは判らないが、ニーナ(女性、と言い換えたい)が、己の人生が問う問いに真剣に対峙していく姿は感動的である。女性のアンサンブルは流麗で目に美しい。
さようなら
オパンポン創造社
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2019/04/18 (木) ~ 2019/04/21 (日)公演終了
満足度★★★★
最もパッとしない男役が主宰で、他は全員客演とは終演後知った。調べたら一人作・演出・出演ユニット。今回の「最後の上演」への思い入れは強かったらしい。
今回で封印する理由は判らないが、確かに15年選手にしては本作は若者目線のドラマ。軽快なテンポとキャラ立て優先の演出も、脚本の良さで無理を感じさせない。小ギャグの好みはそれぞれだろうが、吉本文化圏の大阪らしく本人と役が渾然一体のキャラで押し出す役者根性は私には彼我の差と映じた。
話の舞台は淡路島。しがない工場の従業員たちの、変わらない日常と、事件、その顛末を描く。最後まで「何を作っている工場か」に触れないのに、不思議と宙に浮いた話に感じさせないのは人物造形の勝利か。
中卒以来十八年勤務するベテランと、彼に毎日飲みに誘われ付いていく九年目の後輩、カラオケの合いの手も職人技のスナックのママ。飲みを断り続ける二人は、風俗にはまる中国人従業員と、進路に悩む事務の女性。朝のラジオ体操にだけ姿を見せる社長。
そんなある日、一度も飲まなかった二人が「飲みに連れて行ってくれ」と先輩に申し出る。ルーティン反復の日々に初めて波風が立つ。
テーマは食い尽くされた感のある「変わらない事の良さ」と「変化への渇望」との葛藤。地方で燻る事への倦み、自分との折り合い。上演する場所が東京か地方かでも随分切実さが違うのではないか、と想像しながら観ていた。本作は舞台が淡路島で、女性事務員が憧れるのは東京と、うまい設定である。地方都市住人が抱える憧憬する側の疼きと、される側の余裕、関西の観客は「疼き」をより理解するのではないか。もっともこれは土地に関係なく個人が持つ二つの感情でもあり、文明とその中心地が形成された古代から存在する、普遍的なテーマなのだろう。
疾風のメ
くちびるの会
吉祥寺シアター(東京都)
2019/04/17 (水) ~ 2019/04/22 (月)公演終了
満足度★★★★
今はない雑遊で数年前に観たきりでご無沙汰だったくちびるの会。アルゴリズムな感じで俳優が動きながら、その中に情念の火がふと点ったような、そんな朧げな記憶で、未完成ながら独自の演劇的言語を持っている印象だった。少し寝かせて(ワインではないが)観に行くつもりが随分経って久々の観劇。
役者陣が充実しているな。と観終わった後サイトで確認すると、くちびるの会は2014年から活動のプロデュースユニット。俳優には今回出演の野口オリジナル、佐藤修作、橘花凜、鈴真紀史、丸山港都、加藤ひろたか、そして丸山厚人。他に傳川光瑠、宍泥美、一回切りだが小沢道成など。今回初出演が東谷英人、藤尾勘太郎。無敵と言える陣容だ(他は黒田光、聖香)。
作・演出山本タカの志向は過去一作と今作のみでは判らないが、2000年以降の若者が潜っているだろうペシミズムが作品の前面ではないが通奏低音に鳴っている。俳優各人の持ち味の生きる人物を登場させ、終盤近くまで軽快に飛ばしていた。が、作家山本氏としてはどうか知らないが、もう一歩書ききれなかったように思う。何かが惜しく、悔やまれた。