空想科学II
うさぎストライプ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了
満足度★★★★
開演前から板付いてるベッドの二人。一人の頭には・・‼だがもう一人はそれに頓着なし。既視感を覚えて記憶のページを捲ったが、うさぎストライプ観劇じたい1、2本。「デジタル」の光景は仄かに残るが、粗筋をみるとほぼ同じらしい「空想科学」(2014)、どうやらアトリエ春風舎で観ていたようだが、記憶にない。脳天斧以外、本編通して何も思い出さなかった。
うさぎストライプの舞台は力みがなくふわふわとしている。強く主張もしなければ訴えもせず、伝える事にさえ遠慮がちに見える。断定を避け、出る杭にならぬよう振る舞う現代人の習い性が舞台にも反映、だったらやらなきゃいいくらいな印象。
しかし、人物とエピソードを増やした今作は、しっかり印象に残ったようである。
こういう系の芝居を見慣れて来たせいかどうか、判らないが、自分と全く無関係な話ではなく感じられたという事だろう。勿論相変わらずふわふわしているが、それなりに精一杯、人生讃歌を届けるべくやっておられる、と。
このユニットの特徴である歌や踊りが、ドラマ性を高める相乗効果を生まず、不要な婉曲表現で希釈している感もあるが、師匠平田オリザ風の歌の用い方を私が好まないだけの話かも。今回はある楽曲に乗って得体の知れぬ諸々たちがベッドの周りを踊り巡るシーンがツボに当たった。そしてタカハシを演じた男のキャラ。
狂和家族
劇団女体盛り
SPACE EDGE(東京都)
2018/11/30 (金) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
初観劇の団体。チラシに惹かれて観た。
spaceEDGEは小さい。(この会場の別仕様だったか同敷地内の別のスペースかでもっとゆったり観た記憶はあるが。)
先日までトラムで上演していたらまのだ「青いプロペラ」の初演もここの同じ仕様で狭く、舞台を作り込んで(生楽器スペースも仕込んで)中々見せる舞台に仕上げていた。今回の女体盛り公演もその記憶に重なる所が。・・こういう場所でも芝居は出来るという。
折込みには桜美林鐘下クラス(と言うのか)上演の案内あり、ラッキー(徳望館、遠い..)。後でみればこの団体も桜美林卒業生のユニット。しかもまだ卒後二年。半ば予想したとは言え受付人員、客層とも二十代の若さ。ただし落ち着いている(会場のせいか)。また客席には5、60台の姿、身内か、演劇関係者か・・と会場をみながら想像を廻らしていると、無駄なくそつない前説のあと壁のスイッチで室内灯が消され、本編が始まった。
全編が非日常な状況に占められていたが、若い割りには制御されたドラマという構築物がそこにあった。
歯車
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2018/11/24 (土) ~ 2018/12/15 (土)公演終了
満足度★★★★
SPAC今期の三作はどれも観るぞ。との願いは二作目まで叶った。
三つの中でも「歯車」が最も正体不明、戯曲でもなく、著名な作品でもない。未知数度が高いため観劇前にネットの青空文庫でざっと半分ばかり目を通した。
「歯車」は芥川龍之介晩年の、というより殆ど遺作であり、「死」の影が随所に出没する。語り手が語り手自身を「僕」の一人称で綴るこの文章では、確かなストーリーとしては湘南の実家から披露宴のある東京のある場所への移動くらいのもの。文章の殆どはその過程での「僕」の心象風景か幻影か、実際目にした事物からの連想や投影されたものの描写である。
多田淳之介演出が強く出た舞台であるのは予想通りであったが、二時間弱と長めの舞台、ストーリーの薄い題材がどういう出し物に結実したか・・説明し難いが全体の印象と合わせてネタバレに。
北村明子 Cross Transit project 「土の脈」
北村明子
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/10/12 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了
満足度★★★★
だいぶ日が経ってしまったが・・。
某演劇プロデュース会社の女社長の名と同じ名で覚えていた舞踊家。国際交流・制作をこのかん精力的に行なっているという。今回はインドのある地方の「歌い語り」の芸能(その第一人者を招待)、その地方に伝わる武術と結びついた舞踊(カポエラのような?)も舞台に登場していた。北村女史はこの地方に実際に訪れ、触発されて今回の企画に至ったとか。製作の重要な一端を担う音楽の人も当地を訪ね・・・初めてだけに事前情報は仕込んで観劇に赴いたのだが。
『眼球綺譚/再生』
idenshi195
新宿眼科画廊(東京都)
2018/11/16 (金) ~ 2018/11/27 (火)公演終了
満足度★★★★
「朔」を鑑賞。リーディングという。幾らか著名な読み手を揃えたせいか、入場料はやや高め。何か趣向が凝らされているに違いないと期待値高めで席に座ったが、動き無し、言葉のみ。厳しいものがあった。
体調も悪かったが、元々遅読で何度も文節を行き来する自分にとって、言語情報だけを脳内変換して作品の世界を構築するには補助線(身体を動員した演技)が不足。
睡魔と闘い必死で食らいついたがかなりの語数を逃した。最後のオチは聞けたから、そこから本編の構成を推測した次第。巻き戻しが出来ればなァ。。
出演者4名に役割をうまく振り分け、構成にこだわってスマートな印象はあった。主宰の高橋郁子氏がどの程度「リーディング用の脚色」を施したかは判らないが、パンフをよく見ると各出演者に役名がしっかり振ってある。最早思い出せないが、ネタバレ的な配役表記に一定の脚色意図があったらしい事が窺え、もう一度見たくなった。が・・・この回が千秋楽であった。
満州戦線
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2018/07/11 (水) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
思い出し投稿:
恐らくは疲労で途中舞台でなく夢をみた。到底眠りを誘うような要素は無く、メリハリのあるスピーディな演出だったが、人物関係の把握ができない滞留時間が暫くあった事(台詞では名は呼ばれ説明が施されているが説明された人間関係の風情がみえず混迷)、もう一つはこの韓国人作家による満州在住の(現吉林省あたりだろうか)朝鮮人の話が、どの視点で描かれているのか、シライケイタがどのような潤色で臨んだのか(前回は朝鮮人を全て日本人に置き換えて上演したと聞いていた)、見えて来なかった事による。
「前回」とは同作家による戯曲の上演で同じくシライケイタ氏の演出であった(観なかったが知人から面白かったと聞いた)。
そんな訳でコメントを控えていたが、日の丸に命を捧げた朝鮮人の話を日本人が芝居として上演する行為が孕むナイーブな問題が、まず第一に意識されない上演は、たとえそれが完成された戯曲であっても、意味的には不明瞭になる。そういう舞台に私には見えていて、その感触は払拭されずに終わった。見当違いな印象である可能性もあり、それを検証する材料が無いが(戯曲も日本語に印字されたものは無いらしい)、記憶にとどめて置こう。
ダンス30s!!! シアターコレクション
モモンガ・コンプレックス プロジェクト大山 MOKK
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/02/01 (木) ~ 2018/02/18 (日)公演終了
思い出し投稿:
MOKK「f」岩渕貞太版を鑑賞。女性の踊り手のバージョンと出来れば二つを見て考察したかったがその機会は当面なさそうだ。
舞踏系のゆっくりとした動き。リノを全面に敷き、あるのは簡易ベッド(ストレッチャーのような)のみ。四箇所(確か)で天井から液がポタリ・・・・・・・ポタリ・・・・・・・。若干の粘着性があって床に落ちても滴が飛ばず広がらない。薄暗がり、僅かな照明のため陰影がくっきりと。演者はモノクロに染まった場内を、移動式の鑑賞形態に戸惑いつつ眺めている観客の影の間を、ゆっくり移動する。白いワイシャツは濡れ、長髪も濡れ、時に観客に関わりながら、進み、ベッドに横たわると、無言で客の何名かに頼んで何かをしてもらったりする(肌に触れるとか何かで、その後腹部が激しく起伏し、何かが産み落とされる、という顛末だった気がする)。しまった体、長髪は性的アピールがあり、手を取られた女性はキュンと来た事だろうな、等と想像したりする。「美しい身体の鑑賞」以外の目的をこのパフォーマンスに見いだせず過ぎった思念であったが、今なお判らない。ポタリ、ポタリが撥ねないのは特許もので、何かに使えないものか・・と考えたまでに終わった。申し訳ない。
キャンプ荼毘
ひとりぼっちのみんな
STスポット(神奈川県)
2018/11/21 (水) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
先日の「だ」組に続き「び」組が観られた。リピートは滅多にしないが、料金手頃アクセス良し、何よりこの独特な出し物が別チームではどうなっているのか、気になった。
成る程。違いは随所にある。役者の得意技や持ち味、集団が作る色でどうやら細かく演出を、時には台詞も変えている。まず冒頭の「キャンプ荼毘」のテーマ曲に合わせたムーブ(比較的激しい動きのアンサンブル)から振りが異なり、「だ」組以上に切れ味がよく、「だ」のオープニングは思わずにんまりしたが、「び」には思わず見入った。
一方芝居に入ると、「だ」はある程度キャラが立ち、流暢で声量バランスも適切。場の雰囲気は「だ」がよく出して情趣があったが、「び」では台詞は折り重るがキャラ立ちがして来ず「人物」が判別でき始めるのはだいぶ後だった。
同時進行で台詞(歌)が重なる箇所での、声量の塩梅も違う。序盤で主人公がナレーション的に呟く台詞と、彼女にディスられている女子数名の会話が重なるが、「だ」組では女子数名の会話の方が聞こえ、「び」は逆。中盤の(カラオケの)唄と飲みながらの会話が重なる箇所では、「だ」はカラオケの歌をバックに、歌の合間で酔った女子の会話が聞こえてぐっと親近感が増すが、「び」では歌の声が完全に会話をかき消していた。歌はそれぞれ異なる曲目で、感情を注ぎこんで熱唱する。
戯曲の前半は人物らの関係図や心情が入りづらい分、役者の個性が場面の作りを左右する面が大であったが、後半は両チームの違いはほぼ無く、テキスト+動き(パフォーマンス)の持つ力で劇を終幕へと一気に運んだ。言葉だけで押し切らず、静寂と、嘘のない身体を通過して伝えて来る何かがある。
そこまで言わんでモリエール
笑の内閣
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/11/21 (水) ~ 2018/11/25 (日)公演終了
満足度★★★★
毎回観れてる訳でないが、初めて観た「ツレがウヨに..」以来のいい塩梅な笑の内閣芝居だった。社会的なテーマ(という縛り?)を離れ、「演劇」そのもの(俳優・作家事情~劇団運営、舞台芸術論)をテーマに据えても笑の内閣らしい暴露芝居の趣は健在。なおかつ、モリエールの死後作家が彼の伝記執筆のため存命のシラーや元劇団役者バロンを取材するという正攻法で歴史上実在したモリエール(とその劇団)に迫り、二時間弱の脚本に描き出した点に、書き手の力量がまず印象付けられた(ご都合主義で史実を曲げた箇所については最後に登場した高間が指弾されるくだりもある)。
分かりやすい結末に辿り着いたと思うとそれが覆される、が二度三度。歴史上の人物だけに結論を出しにくかった事もあろうが、この形じたいは批評精神のありかを示す「議論する演劇」のモデル。今後も探求されて行かれん事を。
キャンプ荼毘
ひとりぼっちのみんな
STスポット(神奈川県)
2018/11/21 (水) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
事前情報ゼロ(というか見てもとか知らない)、初めてのユニットで当然ながら初めての体験。新鮮だったのはSTスポットらしい身体パフォーマンス?(皆がそれなりに動ける)、若さ?(19歳の役をやってたのは19歳)、リアル高速女子会話を女性8人のキャスト2チームとも同様に再現できる結構実力派の役者布陣?・・
ひとりぼっちのみんなの正体はよく判らないままだが、劇団のような唾の飛び交うアンサンブルである。元女子高演劇部員が数年後に集う設定の、女子高演劇部が作りそうな恋バナに終始した演劇が、語り口を変えながらリフレインされる彼女ら一人一人と「先生(演劇部顧問)」との〈関係〉が大人になった自分らに影を落としている事の赤裸々な告白へと、トーンを変えずシフトしていく。
葬儀(法事?)の場面を除き、同じシーンに戻る事なく、シーンの並びが変化に富んで、演出的に練り切れずの場面もあっただろうが相当に秀逸に仕上がった所もあり、粗削りで「若い」ながらある才能に触れた感触は残った。
元同級生同士では自然な事ながら話題は彼女らの共通項=演劇部の世界から出ず、物語が狭い円環の内側にとどまる歯痒さを覚えるが、作り手はこの視野から俯瞰の位置に立つ事を拒み、ひたすら女子たちを描く。「先生」=自分の過去と、現在とに折り合いを付けていく様を見ながら、思わず方向の定まらない二十代のヒリヒリした感触を思い出した。
自虐露悪経由の人生応援歌、と名付けてみた。
ラズベリーシャウト
荒馬の旅
WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)
2018/11/22 (木) ~ 2018/11/25 (日)公演終了
満足度★★★★
2009年に旗揚げした団体で、第5弾の今回初めて「戯曲の上演」をやるという。え?では今まで何を。。これまで身体にこだわったパフォーマンスをやって来たようだ、舞踊ではなく演劇であるらしい。
役者は黒テント女優二名(滝本女史は同じ若葉町wharfでの「4.48サイコシス」が未だ生々しく)、ロデオ☆座の澤口渉、匿名劇壇所属俳優他といった取合せで、樋口ミユ作・演出と来れば何が出てくるやらだが、未知数なりに高い期待に、応えてきた。
樋口ミユのテキストは硬質で、ある架空の状況を真しやかに描写して叙情的。演出の趣向、俳優の仕事も穿っている。
ご機嫌さんと拍手で迎えたが、淋しかったのは拍手の数。場内をみればあまりに少ない客席。これは勿体無いというレベルでない。元々小さなスペースだが、この創造的営為の結晶が一定数の目に触れない事の文化的損失を考えないでは居られない。
鱗の宿
演劇集団非常口
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/11/15 (木) ~ 2018/11/18 (日)公演終了
満足度★★★★
鹿児島で長く活動する劇団が初めて地元を離れて上演するという。こまばアゴラでしばしば遭遇する地方劇団の舞台である。
しかし鹿児島とは遠い。方言はもっときついと聞いていたが理解可能な程度の方言になっていたのは書き手の意識か、それとも今はさほどきつい方言でもなくなっているのだろうか。
素朴なストレートプレイであったが、時折刃先のように光る言葉があった。「今のは何?」と、思い出そうとしても芝居は前へ進み、記憶にとどめられなかったが。。
台本は少し前に売切れていたが、後日郵送で注文を受け付けるとの事で迷わず手を挙げた。楽しみである。
狂人教育 - 人形と俳優との偶発的邂逅劇 -
演劇実験室◎万有引力
ザ・スズナリ(東京都)
2018/11/09 (金) ~ 2018/11/18 (日)公演終了
満足度★★★★
このサイズの劇場で万有引力を観るのは初めて。万有引力は「上」も使う。スズナリは縦に長い箱なんだと気づかされた。箱を埋め尽くしてなお足りない蠢きが出どころを求めて熱を帯びている。やはり身体能力が高い役者揃いなだけに動いて当たり前、動いてナンボとばかりである。
10年以上前に観た同作品の流山児事務所版とは、比べようがない。恐らくあちらの方はかなり演出・趣向が入っていた(逐一場面を覚えていないが)。今回は比較的戯曲に忠実な上演として眺めていたが、やはりこの作品が私は好きである。
万有引力版では、家族の構成員以外(人形遣い)はアンサンブル的位置づけであり、人形遣いが人形らしいしぐさを見せたりする。この世界全体が人形によって構成される世界だ、という比喩とも。
操られる側である人形の(疑似)家族は、現実世界の家族が仮託されている。ただし家族の成員が「私」(最も若い次女)によって紹介された所によれば、かなりサイコな人物たちであるが。この「家族」というコミュニティを場として進行する物語は、家に出入りするドクトルが残した「この家にきちがいが一人いる」という言葉の波紋である。物語の後半、事態は急展開して行くのだが、人間の本質はこれ、と言わんばかりにシンプルな、一つの寓話となっている。
万有引力版はビートの利いた音楽・歌が多用され、アクセントとなっていた。
世界最前線の演劇2 第三世代 [ドイツ/イスラエル]
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場・NINAGAWA STUDIO(大稽古場)(埼玉県)
2018/11/08 (木) ~ 2018/11/18 (日)公演終了
満足度★★★★
彩の国さいたま芸術劇場を初訪問。雰囲気、形状とも想像したのと違ってアート(かつローカル、マイナー)、公共というイメージの反対で、もっと四角い箱を想像していた。それはどうやら私の中の蜷川幸雄のイメージでもあったようで、今回ここを訪れた事で「蜷川」の印象が実は随分変わってしまった。
ネクストシアターについてもそのシステムをよく知らないが、今回は俳優11名(内1名は青年座から客演)、若者らしいノリで今回の題材が求める要素(各自が帰属する民族とその国際的立場の矜持、また互いに対して抱く感情)を表現するには力不足の感は否めなかったが、オーソドックスに素直に、年齢(この場合は精神年齢と言うべきか)なりの直球勝負がネクストシアターの持ち味と思われた。
この戯曲、と言ってもドイツで実施されたプロジェクトの参加者(ドイツ人、イスラエル人、パレスチナ人)当人の証言を元に、当人が演じるものとして編まれたのだそうだが、2012年上野ストアハウスで上演されたリーディング公演と同じ作品だとは直前に知り、手練れの役者らによる台本を離してのリーディング上演(もはやリーディングでない)を思い出した。2日間程度の稽古で台詞を入れてしまうのも驚きだが、演出の中津留氏(今回と同じ)が、「台本は邪魔だ」と判断し、役者もその要望に応えたという、その熱気が沸き立つ舞台だった。殆どアドリブのように(実際セリフは厳密でなかったかも)リアルに敏捷に立ち回る印象が強かったそれに対して、今回は元の戯曲に忠実に作られ、設定も原版通り、ドイツ、イスラエル、パレスチナの俳優がドイツ人の前で上演する構図がそのまま残されている。
観客=ドイツ人との設定で、「我々ドイツ人が○○で良いのですか?」と観客に働きかけたり。目まくるしく局面が変る舞台は、翻訳劇が陥りがちな「遠さ」を感じさせず、臨場感漲る時間が作られた。
遺産
劇団チョコレートケーキ
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2018/11/07 (水) ~ 2018/11/15 (木)公演終了
満足度★★★★
先の「楽園」でのプレ企画(公演)の、本編に当たる2時間強の力作。
桟敷童子・原口健太郎出演ならそれだけのものが(戯曲に)あるに違いない、と期待させるだけエライ役者だが、そこを頼みに観劇を決めたが当たりであった。
劇チョコの本格芝居を一年振りに観た。
黄金バット~幻想教師出現~
劇団唐組
雑司ヶ谷鬼子母神(東京都)
2018/10/27 (土) ~ 2018/11/04 (日)公演終了
半分癖になりつつある唐組テント芝居。あの安っぽいというか乱雑な装置や、場末な雰囲気に、惹かれている自分がいるとでも? だが気まぐれに出かけて良かった。ここ何年かで観た数本の中で随一。かつてあった時代の熱気を呼び戻そうなどという企ては、多分ナンセンスの部類だと思う。だが時代にではなく、それを求める一人に、またある状況に応えるために演じ続けているという事なのか・・そんな事を思った。正直言えば今までは物珍しさに覗いていただけだった。
千秋楽。後方操作ブース脇に座った御大唐十郎の存在に誰も気づかぬ振りか、知らずか。鮨詰めにされた桟敷の人口密度も楽日で最大だったろう。舞台からは何やら知れない迸るものがあった。
今回も唐の文体炸裂であるのは当然として、後半見えてくる風景にはいつも以上に胸を掴むものがあった。主人公は元教師で、死なせた生徒を思うゆえにその後教師を辞め数奇な、というか珍奇な道を辿り、経めぐって今、民間学校「風鈴学級」を立ち上げようと再び「生徒ら」と相見える場面。唐十郎の芝居で初めて涙腺が緩んだ。唐本人はどう見ているだろう、と後ろを振り返ったが陰になって見えなかった。だが美しい場面は一挙に反転、「待ってくれ」と追う青年。女は、皆がふり返るのを「見た」。女(藤井)と青年(福本)、正体不明の男(久保井)のトリオが「黄金バット」の存在可能性を共有する無二の仲間で、危機が迫れば誰かが助けに現われるというのも勧善懲悪の少年漫画「黄金バット」的で判りやすいが、これが現代的なテーマと融合し、最終幕での屋台崩しは祈りの形を刻印して満場の拍手であった。
『ソウル市民』『ソウル市民1919』
青年団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/10/14 (日) ~ 2018/11/11 (日)公演終了
満足度★★★★
「ソウル市民」「ソウル市民1919」の順で連日の観劇。二作とも、ソウル(京城)で文房具を商う篠原家の居間が舞台で、韓国併合前年の1909年のある一日の「日常」、そして十年後の三一独立運動の1919年3月1日当日の(さざ波程しか立たぬ)「日常」を描く。
青年団にとって「ソウル市民」は1989年の作、所謂現代口語演劇を世に出した記念碑的作品との事で、「1919」は約十年後の2000年だが、姉妹編の趣。10年という歳月がもたらした篠原家の変化より、「変わらなさ」が強調されているのに対応し、芝居の作りのほうも相似形となっている(舞台装置、人物構成、配役も)。
以前戯曲をどこかで読んだかした時の印象は何だかスカスカで何もなく、生身の役者が演じたら変わるのかな・・そんな印象だったが、確かに俳優が演じるとそれだけで面白い。のではあるが、やはりスカな印象は残った。
それは平田オリザ作品に共通するある雰囲気(実はあまり好みでない)もあるが、この作品固有の理由もあった。後者について少し言えば、植民地時代の朝鮮半島という舞台で、日本人が現代日本の感覚で存在し、台詞もある程度現代的である、というのはパロディとして成立するが、このテーマを扱うなら当然にあるべき植民地化の主体と客体との間の緊張関係が、この芝居に登場する朝鮮人との関係にはなく、といって日本人側がその関係に無自覚なのだ、という事実では回収しきれず、朝鮮人を演じるのも日本人感覚で良い、という手法が果たして妥当なのか、疑問が湧く。というか感覚的に違和感が否めず、手抜きに見えてしまう。
現代を設定したドラマにおける現代口語の効果と、この芝居での現代口語の効果は異なる事を示しており、この芝居が打たれた時のインパクトは実はこの時代設定と言語とのギャップにもあったのではないか、などと想像する。そうなると現代口語演劇なる代物は違ったものに見えてくる。
The Dark City
温泉ドラゴン
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2018/10/15 (月) ~ 2018/10/21 (日)公演終了
満足度★★★★
来年3月で40年の歴史に幕を閉じる芝居小屋での上演とあって駆け付けた。雛壇式のオーソドックスな客席は初めてか、久々で新鮮。八面六臂のシライケイタ氏の人脈か、俳優・劇評家多数来場。今回出演しない阪本篤も会場整理に出て、客席が収まった頃、4人が舞台上に並び、開幕を宣した(5分押し)。
敗戦直後の1948年に埼玉県本庄町で起きた住民+朝日新聞記者と暴力団の「闘い」の軌跡を通して、民主主義、ジャーナリズムとは何か(何であるべきか)を問うた舞台。
交錯するのは、事件の舞台、朝日記者らの逗留の場所となった老舗旅館が廃業し、取り壊しを迎えようとする「現在」。取り壊しの知らせを聞いた次女(清水直子)が20年ぶりに長女(みやなおこ)、弟(いわいのふ健)、老いた父(大久保鷹)が住む実家へ戻って来る、という場面が冒頭である。物書き(劇作家か脚本家か)で都内に住む次女と、実家のある地方に住む家族との確執など、「現在」のドラマは展開するが、中心は、事件の時点では旅館の長男であった父。彼を媒介して過去が蘇り、民主主義のためにペンと住民の団結で勝ち取った精神を眩しく振り返るという構図である。シライケイタ氏の脚本では、過去を照らす「現在」のドラマは完結したとは言えないが、「過去」を現在のように立ち上げる手法は演出と相まって成果があった。
大久保鷹がストレートプレイな場面で役者としての真価を発揮するのを非常に興味深くみた。
ニューヘアスタイルイズグッド
壁ノ花団
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2018/11/02 (金) ~ 2018/11/04 (日)公演終了
満足度★★★★
受付の人に「再演か新作か」を訊ねると、確か「新作」と言った。実際は再演だった。
初めて味わう新感覚。「不思議ちゃん」と人格で名指したくなる芝居だ。
私が観た回は演劇人の客が相当数来場と見受けたが、その注目の芝居は型破りな文法で、作者なりの苦悶はあったのだろうがそれが見えず、客に媚びる瞬間は1秒もなく、気高く、妙な終わり方をしていたが言葉を言い切る快さが残った。達者な俳優にも助けられ、テキストの不思議ちゃんな風合いを醸していた。
初見の劇団だが嬉しい出会いである。
ああ、それなのに、それなのに
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2018/10/12 (金) ~ 2018/10/21 (日)公演終了
満足度★★★★
別役実の新作公演。別役の痛快なる面白さを知った別役実フェス(3~4年前になるか)での名取事務所「壊れた風景」(真鍋卓嗣演出・下北沢小劇場B1)と演目以外同じだ。一年にわたったフェスで二本の新作が上演、その後は・・あったっけ? 病に臥しながら一劇作家が生涯に書く戯曲数の記録を、未だ更新し続けているんである。
日本版「不条理劇」作家と言われながら、別役実の作品は、奇妙な言動や展開に対する謎解きが後半にあったり、比較的「普通」なやり取りの結果としてたまたま奇妙な事になって行くというケースが多い。不注意や無関心、逆に強い思い入れなど、個々の個的事情が絶妙に組み合わさる事で奇妙な状況へと進む、言わばコントの要素がある。その不注意や無関心等の中に「それがためにかくなる事態になれり」を示唆する要素も当然ある訳だが、作家ご当人は作品に「狙い」(教訓?)が見えるのはよろしくないと考えておられるフシもある。
長い模索の辿り着いた先だろうか、それとも老境の為せる技だろうか・・今作は展開の飛躍の度合いが桁違いで、作者は散乱したそれらを終り近くで回収しようとした様子も窺えるが、回収し切れず、ピカソのようで遺跡の壁画のような、抽象画がそこに置かれた。
仄かに、人物連関図の「外部」(不知の領域)が肥大していくイメージがあり、予測できない外部からの関わりにどうやら翻弄されている人物らは、その事で視野が狭まり疲弊している事には気づかない様子・・今の日本の疲弊と政治的無気力が体現する一つのイメージと見える感触があった。「意味」から見放された世界(ディストピアと言って良いように思う)へと向かう予感でもある。
しかしこれを担う役者の働きは大きく、らしくない?顔芝居を見せていた森尾舞がこの「奇妙な世界」に貢献していた。