満足度★★★★
3月末のひとみ座70周年公演「どろろ」とはどうしても比べてしまう。もっとも自分的にはヒット率の低い扉座を今回は「どろろ」だから足を運んだ。ひとみ座の原作の魅力を見事に舞台上に迸らせた人形劇舞台がやはり完璧すぎた。「どろろ」を扉座が初めて舞台化した2004年の舞台を観たならまた違った感想もあったかも知れぬが。
人形劇との表現形態の違いが、漫画(アニメ)作品の翻案に際しての制約に繋がっていそうだが、好みで言うと「どろろ」の世界の基調は、あの秀逸なアニメ版主題歌(どろろの歌)に尽き、ひとみ座による原作理解は、ラストに総員顔出しでこれを歌った事に表れている。
この作品とこの歌を生み出した戦後の熱い時代は、マス・ストーリーからこぼれ落ちた個のささやかな主張に視線を向ける時代に座を渡すが、2010年代の今日は「権力者も一人の人間」といった個の視点が如何にも陳腐で、むしろさび付いたマスの正論を立て直す時だとすれば、「どろろ」はどう読みたいか。
49のパーツを魔物に奪われた百鬼丸を生んだ張本人・景光の権力欲は、その正当化の論=「乱世を終らせる為」も虚しく今度は民を縛り民から搾り取る権力維持再生産(平和をもたらすためでなく自らの権力のための権力行使)に走る。幾多の先人の轍を踏む景光に対し、やがてマス(=農民ら)が鍬を手に立ち上がっていくラストは、ドラマ構造としても百鬼丸という存在の由来に直結する素直で自然なありようだ。
扉座のそれは、浄瑠璃の型を導入し、太棹三味線に義太夫の謡いが流れる愁嘆の場面が部分的に挿入される。これがあまりうまく行っているように見えないのは、例えば心中物ならば惹かれ合う男女と世のしきたり(大人の事情?ロミジュリ的な)との葛藤というテーマは人間の本性に即し普遍的であり得る、つまり「抗い難さ」がある。愁嘆に相応しいのは抗い難さだ。「どろろ」の登場人物は抗い難さを嘆く姿など見せない。百鬼丸が自棄になってもそこに留まらせぬためにこそどろろは彼に付きまとっていると言っても良い。或いは仇討ち物ならば忠義よりは復讐心、情に全身を委ねるカタルシスが想起されるが、この類型にもそぐわない。
「どろろ」は魔物の類が登場するという360度どこから見てもフィクションな話。権力欲にかられた男が(既にその時点で魔物の存在に幻惑されていたとも)生まれ来る自分の子の体の部分を魔物に与える約束を結ぶ。そして生まれた百鬼丸は手足目鼻耳舌内臓などなど49箇所のパーツを奪われており、父景光の手で殺されようとするが命ある子を生かそうと母の手引きでたらいに入れて川に流される。彼を拾った医師は彼がまだ生きており、心の声を発する事に気付き、手当を与え義足その他を作り、心の声を通じて会話し人並みに暮らせるよう育て上げる。そしてある日、魔物に奪われた体を取り戻せという何者かの声を聴いて旅立つのだ。そして出会うのがどろろというコソ泥。孤児の彼は百鬼丸が危機に及んで使う武器(腕にはめ込まれている刀)に惹かれ、付いていく。そして魔物たちに出会い、戦い、体を取り戻していく。この二人の関係がドラマとして大変魅力的で、どろろは百鬼丸の「刀欲しさ」に付いていく、と説明するがその実は怖い物見たさではないか、いやもっと、人間的に惹かれているのではないか、そして突き詰めれば幼い頃両親に非業の死を遂げられた過去と、響き合うものを感じているのではないか・・決定的なのはどろろが女の子である事。この関係に多義的な、しかし何か必然を認めさせる所が手塚治虫という芸術家の凄みでこの作品の人気の源に思われる。
これを扉座は、「どろろ」を一つの古典として据え、浄瑠璃の型に収めようとした。そして変形を施し、どろろを男のおっさんに変え、百鬼丸を心の声の存在と、身体を(ある程度)取り戻した状態の二体に分離し、心の声には若い女優を当てた。一言で言えば、まだまだ味わう余地のある原作を古典化するのは早い、というより勿体ない。