tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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或る、ノライヌ

或る、ノライヌ

KAKUTA

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/09/25 (土) ~ 2021/10/05 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

劇場で観劇し、配信も観たのは確か初めて。eplus streamingだったが音声、画像ともに実演のクオリティに見劣りせずがっつりと「観劇」できた。
複数のエピソードとそれにマッチしたディテイル、また戯曲上のアイデアが詰まった劇。宿命的に受動的である人間が、新たな風景の中から能動性の欠片を探すのに「旅」は相応しく、車窓の景色のように移り変わる場面に二時間四十五分はあっと言う間に過ぎる。かつお、という名の犬の目線が効果的だが、飼い主を渡り歩くかつおと、彼が町や旅先で遭遇する「人生の師匠」ジョージの姿は寄る辺ない人間存在を象徴してもいる。
幾つもの印象的な台詞、おいしい場面、心から愛おしく感じられる人物たち。
出演者全てが劇団員という、KAKUTAなる集団の成り立ちも独特である。

ネタバレBOX

韓国語を喧しく喋るアジュモニの居る新大久保にある元探偵事務所に住む女・國子(桑原裕子)、失踪した彼女の相手(不倫)・正哉が置いて行った飼い犬かつお(谷恭輔)、探偵事務所時代國子に恩義があり、犬の世話を引き受ける男・小波(細村雄志)、建設会社で内部告発をして干された國子の兄・湊人(若狭勝也)。方や北海道の斜里町からそれぞれ上京してある時出会った幼馴染の男女・誉(森崎健康)と聖美(多田香織)、誉が職場で当てがわれた寮の同部屋に住む女性とその同性交際相手のカップル・智恵子(四浦麻希)とマアル(高野由紀子)。新大久保の町から、芝居前半の半ば、かつおと國子、引き籠りのはずの兄湊人が、小波の車で北海道を目指して旅立つ。芝居の三分の二は道中記となり、(個人の回想以外は)時系列に話は進んで行く。
旅のきっかけは小波が探偵として、正哉の正妻・沙梨(酒井晴江)の経営するエステに潜入して得た情報。札幌のとある病院の入院患者を見舞い、携帯を忘れたらしいという。國子は正哉の影を追うが、誉もじつは聖美の影を追って北海道へ向かっていて、誉と國子は札幌の病院で、遭遇する。

震災から3年後の設定である。道中、被災の跡のまだ生々しい海辺で、同じく北海道へワゴンで移動中の美帆(異儀田夏葉)と出会う。彼女とは北海道の病院でのすったもんだの後に再会し、旅慣れたトラック運転手である彼女の案内する民泊や、実は彼女の今回の旅の目的であった「妹のお迎え」と称する自給自足集団からの奪還作戦と、先の読めない賑やかな旅となる。車中「知床旅情」の歌で盛り上がる光景が、ロードムービーの気分を高めて情感がある。
美帆の行きつけの民泊では歯に衣着せぬ婆と、次男夫婦、長男の嫁がいるが、夫を亡くして失声症となった(でも明るい)嫁と、國子の兄・湊人との出会いがある。
車の旅に同行したかつお(飛行機にしなかったのは犬は貨物扱いにされるからとイヌ愛の深い小波が反対した)は、被災地の海、そして北海道で、先輩の犬ジョージ(成清正紀)と出会う。人間界から一定の距離をとった犬の世界での二人(二匹?)の存在は、リアルの犬らしさと人間のメタファー要素を併せ持ち、絶妙な描写である。北海道で彼の声を耳にしたかつおは國子の持つリードを振り切って駆け出す。そこにじっと立つ傷を負ったジョージの姿が胸に来る。誇り高く生きた彼は、車に引かれたらしい負傷した体で必死で立ちながらも、「ママ」(彼に立派な首輪をつけた)の幻影に近づこうと歩く。夕闇迫る中、不安に駆られ吠えるかつおを國子は見つけ、抱きしめる。そして遠くから、ジョージと思しい「負傷した犬」を見つけたと叫ぶ小波の声が遠くから聞こえる。弱味をみせず胸を張って立つ「美学」は現実の前に容易く剥がれ、孤独の内にあったろう彼の姿を犬を愛する小波の視線が捉えた事に、心からの安堵が広がる。
正哉(登場しない)と聖美を追った誉と國子の二人は、ようやく目的地に辿り着く。國子の訪ね人が札幌で見舞った病人とは聖美の唯一の肉親である祖母であり、國子らが到着した前日に亡くなっていた。そしてこの日は実家で一日中近所の弔問客を受け入れる日、数名の喪服姿が挨拶をして去っていく。
二人は探す相手が居る家屋の前に佇み、見えない屋内へ想像の視線を注ぎながら、それぞれの思いを吐露する。会話を交わす中で二人は励まし鼓舞し合うが、ある結論を受け入れ、泣き、笑い合う。
人と人が偶然、ある形で関係し、何らかの繋がりを持つ事という、余剰(欲望)を削ぎ落した最後に残るシンプルなありようが、冷たい現実だからこそ暖かく見える逆説。
海底歩行者

海底歩行者

ぐうたららばい

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/10/14 (木) ~ 2021/10/18 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年上演予定の公演。糸井演出の、同じくアゴラで観た一人芝居(出演深井順子)を念頭に見始めたが(俳優名から女優二人と勝手に想像していたため道中記のようなものだろうと)、出演は男女。水槽の中を行く二尾のマイム描写(水中音)から、糸井氏お得意の照れ臭いカップル描写へ(しっとり時間を刻むようなほのぼの切ないギター楽曲)。両場面がシンボリック表現のタッチで折り重なって行くが、何故「海底歩行者」か、に合点するのは芝居(95分)の中盤。予兆としては芝居の割と早い段階にさり気なく、透明な水に小さく一滴垂らしたインクが希釈しても微かに残るように二人の物語に影を落とすが、平和な生活のさざ波にとどまると思いきや・・。
これまで実力を秘めていそうに感じた程度だった伊東佐保の演じ力全開なる様を見て感服。丁寧に作られた、やはりコロナ期に改めてその手触りも愛おしくなる作品。

そして、死んでくれ

そして、死んでくれ

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2021/10/13 (水) ~ 2021/10/17 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

地元だけに劇場で観劇したかったが予約できず配信を視聴。(映像は良いが音声はやはり難があり、劇場で観たかったと後悔。)
数年前に観た同じ作・演出者の舞台はいまいち納得に届かなかったが、今回は二・二六事件が題材というので「おや」と思い鑑賞。結論的にはドラマの趣旨に同意でき、演劇表現として(まずは戯曲、そして役者達の演技)明確に出ていた。以前の作に近い「鬱々」な世界ではあるものの、史実を題材にとり、パロディに走らず事件の文脈を描き出そうとした事により、試された作者の筆はある成果を得たという印象である。(あくまで過去の一作との比較でだが。)
その一つは政治家、役職にある者の保身、狡猾さ、片やこの日本において理念が高々と語られ、それが遂げられる事の「可能性の薄さ」「絶望」。この気分は現在の日本にオーバーラップする。
実際の二・二六事件は理念と「血」(若さ)の先走りで、殆ど右往左往に近い実情だったという読み解きもある(小室直樹による)が、「今」求められるもの、という視点ではこの二・二六の顛末の描写はオーソドックスに見えながら「お涙頂戴」に頼らず、きっちりと敗北を描いた。
この気分は50年前決起し割腹自殺した三島由紀夫の「時代への気分」と恐らく同種と想像する。それほど日本は病んでいる、という認識からはコミュニズムもナショナリズムも単なる名称、その内実に比して些末な差異に思えて来る。

がん患者だもの、みつを

がん患者だもの、みつを

うずめ劇場

シアター風姿花伝(東京都)

2021/10/06 (水) ~ 2021/10/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

かれこれ十数年以上前に名前を耳にし、その数年後やっと目にした北九州に拠点を置く話題の<劇団>うずめ劇場に対する思い入れと、劇団外の活動もあるゲスナー氏演出又はプロデュースによる舞台に対する芸術的関心とは、近似的だが異なり、舞台に対しても二つが混在する。
この度はうずめ劇場公演である。数年前観た内田春菊作・ゲスナー演出舞台は他プロデュースで秀逸であったが、今回も春菊風味の苦甘さ滲む私好みの世界。
もっとも今作の特徴的な部分は、表現として「逸脱」気味な部分でもあり、その一つは主役の一人を演じたうずめ団員・後藤まなみの逸脱性、そして今一つは(毎回チャレンジングな)ゲスナー氏が時折垣間見せるそれである。
端的に言えば前者はド当たりな演技と危うい演技の波があり、がんを患う事になった揺れる中年女性の「普段の人付き合い」の場面では饒舌であるのに対し、裏側(本音=弱み)が思わず開陳される局面での変わらなさ(声の張り)が勿体ない。後者は時間的に僅かだから乗り切ってはしまうが・・気になる人は居そうである。
一方ゲスナー氏のそれは、以前「喜劇だらけ」で一般人(演劇初体験者)を登場させた記憶が蘇るが今回は作品テーマに所縁の(その筋では知られた)人たちが出演し、芝居的には心許ない、危うい場面を作る。台詞が一言もない(のに存在感だけはある)女性出演者が舞台後半の一場面ズラリと存在を現わすのである。この不思議で不気味な趣きが、演劇作品的にはシュールで珍味の類。「がん」というテーマのみで作品を括るなどと言う野暮はやらなかろうゲスナー氏の、「味覚」の振り幅を味わう体験と言っても良いか。(拙さとアピール度は紙一重。出演したある無発語の女性の特徴的な風貌が今も脳に焼き付いている。)
そんなこんなで本編の面白さには触れないが、ツボな場面満載、楽しい時間であった。コロナ期に生まれた劇、というカテゴリーが後に出来るとすれば、命に関わる劇は全てそれに含まれるだろう。つまりは殆ど全てのドラマは、コロナ禍によって輝きを得ることとなった、訳であるが、本作では「がん」を扱うのに「命の尊さ」といった直截なメッセージや感傷はまずもって寄せ付けないのが核であり、魅力。(要は春菊風味である。)

盲年【東京公演】

盲年【東京公演】

幻灯劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/09/30 (木) ~ 2021/10/04 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一週間記憶を寝かせたら、「風景」はクリアに焼き付いてるがストーリーがぼんやり。思い出してみると・・劇は謎解き式の進行だが一観客的には最後にもつれた糸が解けてスッキリ、とは行き切れず。ただ盲の息子と父、母という三者のストーリー自体は数行で説明できたように思う。これに絡まる人物らとの関係がややこしかった(メインストーリーを盛り立てる役どころなのか、もう一つの物語として存在感を持つべき役どころなのかがいまいちハッキリせず)。
だがアウトラインを部分的に書き込んで行くタッチの中に、情動を伴って「父」が存在感をもたげるあたりがこの作品の核で、演出、演技がドライにドローイングした石灰色のカンバスにうっすら「色」が浮かんでいる的な、画法が売りのようである。
若い俳優のキャラも生かしつつの当て書きに思える所があったが、キャラ頼みのリアリティの薄いキャラを演じる姿より、もっと重層的な(つまりは人間の)役を担う俳優の頑張りを観たい・・とは劇団の志向の否定か?

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

ヨコハマ・ヤタロウ~望郷篇~

theater 045 syndicate

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/09/30 (木) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

あ~面白かった。小さなスタジオで観た一作目は「伝説の男」と恐れられたヤタロウが砂塵から現れても、喋っても納得させる台詞と異色な風体の役者が「伝説」性を裏切らず、度肝を抜いた傑作だった(佃典彦脚本)。下北沢での再演もB1と狭い小屋だったが「望郷篇」ではKAAT大スタジオに。観劇体験としてはステージが遠いのはやや淋しいがパワー全開で見劣りなし。殺した相手の「人生を引き受ける」ため奔走し、13人が相手でも拳銃で!負けないヤタロウ(そんなもんいるか)、怪し気な新市長に「キレイな町」にされた近未来の横浜を舞台に幾つかのエピソードが錯綜して最後に合わさる。だがドラマの構成よりも、広い廃墟の銭湯(言わば底辺)から社会を牛耳ってほしいままにする階層を眼差す視線のベクトルに同期し、どす黒い世界イメージが「現代」を穿って現実とクロスする。私にはそれがこの舞台の魅力。アウトロー任侠西部劇カテゴリーのはち切れんばかりのノリにその通奏低音が響いている。(映画ブレードランナーはストーリーもさりながら画面を支配する世界観という通奏低音が快感。)

『砂の女』

『砂の女』

キューブ

シアタートラム(東京都)

2021/08/22 (日) ~ 2021/09/05 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

配信うれしや。当然、うずめ劇場と比べている。うずめ版は狭いせんがわ劇場仕様、こちらはケラにしては狭いつってもトラム、十分広い。だが両者の共通点の多さに最初は驚く(どっちか参考にしたのでは?と思った程)。まずあばら家、四角の台上にひと間あり、奥にスダレ、その裏が台所(うずめ版は狭い廊下程度、ケラ版はひと間と同じ広さがあり180度回転して裏側にある)、下手端に小さな土間。他の演出では、土を搬出するロープが中央から下りる、昼間戸外に出た瞬間に鳴り出す音(強い日差しが頭を殴るような金属=鐘に近い音)、砂かきをボイコットした結果受ける攻撃?(あばら家が砂によって受ける衝撃音)のガーン!という音。そして人物形象は原作イメージが確固とあるとは言え、自分で意図せずとも重なり合って来る感覚があった。
他にも男女の他の4名の俳優に男女以外の役をコロス的に配し、うずめ版では舞台のあちこちからゲリラ的に登場、ケラ版では付加された場面(他役者による)がゲリラ的に登場、など。素人の目が見るニワハンミョウとカミキリムシの違い程度の差だ。

ケラによる独自演出は、男女(仲村トオル、緒川たまき)以外の役者(オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲)が、例えば傀儡を操り、あるいは男の妻のいる東京の家の近所の交番で巡査や交番を訪れる人を演じ、時に男の前に突如現れて男を東京(回想)の場面に引きずり込むなど、書き加えられた部分。
あばらやの周囲には暗い色彩のシートが垂れ、砂の壁を表す。最初の夜、女が家の周りの砂をスコップで掬う「チャッ・・サッ・・チャッ・・サッ。」と動作に合わせてSEが鳴るのが時計の秒針の如くで、延々と続く時間を表して効果的。

ヒ me 呼

ヒ me 呼

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

久々に天野天街演出舞台を拝めると密かに期待したが・・所謂「天野作品」は演出は脚本と一体であったと思い当たる。
今作は単刀直入に言えば脚本に難がある。冒頭、古からの由来のある温泉(というより遺跡?)から一気に古代へ飛ぶ。仮想の古代王国で奇想天外かつ希有壮大な物語が展開するが、話の定着と飛躍のバランスがSFチックな話では難しい。天野節は散発的に織り込まれるが、原作は「設定」を正当化するストーリー説明に終始してどうにか結末にこぎつけた印象で、天野トリックを優位に効かす余地がない。「天野天街世界」に塗り込まれる事のない天野氏演出舞台を初めて観た。私的には残念な出来。

自由恋愛を「知らなかった」という設定に、やはり無理があったと思う。
火(ヒ)族、水(ミ)族、木(コ)族という三民族は、ジャンケンのように互いが接触するとどちらかを消滅させてしまう存在。だから共存していても「恋愛対象」とならなかった。というより互いに反目しつつもヒミコに従う事で共存していた。ところが女王ヒミコの下命または死により、王命ではなく部族同士のコミュニケーションで国を運営する必要が生じ、悶着がありつつも交流が生まれる。これが「一目惚れ」の機会を作る。
惹かれ合う二人(男女関係に限らず)が部族の違いを超えて繋がろうとする所の描写が面白いが、複数カップルで同じ意味合いの場面が描かれると、やや冗長。二人は接触するとビリっと来るが、最終的には「最初は怖くてもこうしていれば・・」と、皆が手を繋ぎ合い、分立を乗り越えて行くというクライマックスは神話的な描写で「自由恋愛発祥」が標される。

着想は面白く、「接触」こそ生命の源だ、というメッセージは現在を意識したものであるのは間違いない。
ただ、「まだ自由恋愛を発見していない」未開の状態から、「何だか惹かれてしまう」事の発見、そしてそれが常態化するまでのストーリーでは、ドラマに必要な葛藤や障害が希薄になる。単純化すればこの芝居は、三部族が生物学的に接触困難であった、という障害を、生物学的な変異に拠って克服した、というだけの事になり、カタルシスがない。細かなエピソードや歌・踊り、笑いで肉付けし、それが話の前進に貢献してもいるが伏線回収の構成として弱いのは否めない。

恋愛を縛るのはむしろ社会システムが構築され、しきたりや制度が作られて行く段階だ。統治者は統治に不都合な「自由」に制約を課して行く。支配層や一定の地位を有難がる人々にとっては、現状維持が至上命題であり、体制に揺らぎが生じるのは人民に「富」や「余暇」が生じて「知」を手にする時だ。領土を超えようとする人々と押さえ込もうとする領主の相克の光景がみられるのは、文明興隆の時代、産業革命以後~現代。為政者は常に人民に「知」を与えまいとする。現在の日本では現状維持層の広がりが目立つが、反知性主義に表れるように「知」を手放し、後は何を指針に生きるのか(朝のワイドショーの占いか)。。
このような時代に自分を見失わないために、素直に自分の「好き」を殺さず育てよ、とは正しいのであるが、ピンと来なかった理由には物語の起伏という事以上に、何かある気がするがまだぼんやりしている。「ああなりたい」人物像として、古代の人々が迫って来なかったから、だろうか。

終わり良ければ、という話もある。冒頭エピソード(現代)では中年男と若い女性のカップルが登場し、男が誘った秘湯に着いてみたが地元旅館の女将っぽい婆が「先ごろの地震で地下水脈が割れて枯れた」との説明で、女は男を見限る。残った男が温泉に建った碑に手を触れると古代に飛ぶ、という運びなのだが、さてラスト。同じ場面に戻り、古代に紛れ込んだ男が現代に戻った体。そこへ女が別の若い男と登場する。先まで自分と居たはずの女は男を覚えておらず、周囲の者も現カップルを承認している。狐につままれた中年男、という「現実は厳しい」オチである。これが捻りがない。冒頭の予感を裏切る展開か、何か中年男にもたらされる教訓(獲得物)がせめてあれば何だが、惨めな三枚目で放置される。作者が考えすぎて一周してしまったのか・・。例えば若い男女を結び合ってる動機が不純で、今見た「純粋な惹かれ合い」と遠くかけ離れてしまった現代をチクリとやって終わるとか、それだけでも感触は違ったかも。

ネタバレBOX

役所は市民の側か、為政者の側か。・・新型コロナに関しては東京都庁は「為政者」マインドで人民に対峙し、情報を制限した。検査、入院等に関する数値情報の、保健所を通さなかった数も重要なはずだが管轄が民間となったら手も出さず、「これが感染者数であり検査数である」と流し続けた。
ある場合には役所は市民を「コントロールすべき存在」と扱い、仕事として与えられた限りで、「市民の側」に立つ。だから、公務員が「市民の側に立つ」ためのルールを明文化しなければならない。
灯に佇む

灯に佇む

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2021/09/24 (金) ~ 2021/10/03 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

名取事務所公演の外れ率はかなり低い。別役作品、海外戯曲、韓国系戯曲と幾つか系統があるが、今回は日本人による新作(書き下しか)。内藤裕子作演出舞台は昨年、「やっと初めて」本拠地・演劇集団円のを観て感じ入った所であったが、本作にも当てられた。下北沢B1の前列からはほぼ同じ目線の高さで、手を伸ばせば届く場所にも役者がいて芝居の世界を作る。二代続く診療所が舞台。最小限の登場人物が効果的に各役割を担って簡素ながら饒舌で余白もありながらきっちり伏線はさらう、台詞と演技が心地よい時間であった。
一診療所という医療現場での出来事を描きながら、「何のための医療・医学か」の問いにまでテーマが及ぶ。「生きること」について考える事になる。そして制度が絶対ではない事も仄めかされる。この視点は現在の問題にも通じる。うまい。

オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラ『さよなら、ドン・キホーテ!』

オペラシアターこんにゃく座

吉祥寺シアター(東京都)

2021/09/18 (土) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

萩京子×鄭義信による4つめのレパートリー。「旅する芝居」だった過去三作とは打って変わって舞台は馬小屋の中。ドン・キホーテよろしく旅に出るには二頭の馬のロシナンテとサンチェは頼りなく、名づけ親である主人公の少年(性別は女の子)ベルはまだ小さい。ファンタジックな展開は訪れず、第二次大戦中のフランスの長閑な片田舎にも砲弾の音が聞こえ、レジスタンスの若者、ドイツ軍の制服姿もやって来る。逃れられない現実だが、本好きのベルは想像の翼を広げる。戦局が熾烈さを増し(仏を占領した独軍の敗勢)、老馬ロシナンテの供出の話を聞いたベルは本当の旅に出る事を決心するのだった。が、その夜ベルは運命的にある女の子と出会う。。
妻に逃げられた実直な父トーマス、わけあって学校に通わなくなったベルを連れに来る女性教師オードリー、片足が悪いが女あしらいのうまい馬小屋で働く青年ルイ、彼の元を時々密かに訪れる村出身の親友サイモン。そして着の身着のまま逃げ込むように駆け込んできた女の子サラ。人と出来事の来訪にドラマの風が吹き、旅が向こうからやって来る。
ストーリーに絡まるように、詩と旋律が別の色の糸を織り込む。歌による飛躍が凄い。言わば台詞の交換(旋律付の台詞もその範疇)で成るテキストの世界に、ポエムと楽曲が表現するコンテクスト(今のこの時代の、と言ってもいい)の世界がせり出してくる。ミュージカルの如く一つの楽曲の中で場面(相)が変化し、希望、夢、勇気、愛という直接的な言葉を高らかに切望するように歌い上げる一幕ラストには思わず拳を握りしめる。
類似の構成が二幕の最後にも訪れる。不遇と抑圧の底辺から僅かな一筋の光を見ようと立ち上がる人物たちを優しく鼓舞し、返す刀で諦めの中に安住する現在の私たちに檄をとばす。最終日に枯れた喉を絞ってベルが歌い、他が応答する長い歌曲がこれでもかと叩いて来た。
ハッピーエンドにしなかった(望みは残しているが)作者の意を汲んで作曲者が書いた楽曲、笑みを封じ前方を睨みつけて歌う歌が頭にガンガンと(ピアノも低音でガンガン鳴っていた)響いている。
このような上質な作品を観る時間と、心の余裕と、財力(私は無いが)を持つ者が、今必要なことのために何かを為すとすれば今持てるものを差し出すことだ、というアイロニーをどこか醒めた頭で考える自分がいる。
自分がこれを秀作として語りたい理由は、この作品が現状肯定したい者ではなく現状に喘ぐ者またはその存在に多少なりとも胸を痛める者(即ち現状を否定せざるを得ない者)に照準した作品であるから、という言い方になる。もっとも、小気味良さあり笑いありの鄭義信らしい舞台である事に変わりはない、とだけは一言付記。

ネタバレBOX

私が観た楽日は赤組。
青組には自分的にお馴染みの沖まどか(「ロはロボット」)、大石哲史(孤高の渋味)、梅村博美(ファルセットが美しい)、佐藤敏之(安定のコメディ路線、ちと癖あり)と居たが、自分的に未知数度が高い赤組を選んだ。お馴染みは岡原真弓、やや知りの高野うるお、武田茂くらい。共通の富山直人はお馴染み。そしてピアニストもその基準で馴染みでない方(大坪夕美)を選んだら楽日になった。
休日の11時開演など普段なら寝る確率70~80%だが全く寝ず(当然)、この後に観た芝居で快眠を貪ってしまった。
風の市

風の市

激団リジョロ

サンモールスタジオ(東京都)

2021/09/23 (木) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開演と同時にナチュラルな関西弁の激突。猪飼野が舞台の作品である事と合わせ関西発の劇団と推したが、プロフィールだけでは不明。「ハードコア」を謳い役者に徹底した負荷を強いるパフォーマンスが売りというから、関西弁の台詞も訓練の賜物?等とも想像してみたり。作=金哲義も出演しているが他劇団。こちらは関西だろうと推す。
在日家族の喧しい食卓の会話は激烈である。総連、民団の話も出てくる。役者の殆どは日本人だろうがこの「空気」の再現の度合には舌を巻いた。この題材の芝居にはコメディオンザボード「イカイノ物語」、趙博の「風の仲間たち」と思い出すとやはり関西である。日本アパッチ族を描いたシライケイタの「SCRAP」に感じてしまう不満は「在日らしさ」の足らなさだ。(その中間と言うと「役肉ドラゴン」、話の舞台も作者の出も関西だが地元臭はないのがこの作者の特徴。)
粗削りな部分も含め「よくやってる」集団。コロナなんぼのもの、と忘れさせる勢いに飲まれた。

ネタバレBOX

好みで言えば、関西産に多いが大団円がしつこい。ドラマは済州島からの密航者がある家族と暮らす事になり、騒動を巻き起こすが、やがてこの男・ソンジンの人間性、来歴が明らかになる。この存在は日本の日常感覚では違和感の塊だが、最終的には欠落部分を補完されたように感じる。観客は顔面を叩かれるような強風を浴びる事になる。
欲望に忠実な強引さは「血と骨」の父(俊平)のキャラを連想させるが、一つ「?」は彼の来訪を受ける家族は母を早く亡くし、7人兄弟姉妹が末期がんで入院中の父を時々見舞っているが、姉弟らはソンジンに対し、「チャグナボジ(小叔父)を見舞わない」事をなじる。彼らはソンジンを遠い親戚(いとこ)という認識で、居候するなら親戚の叔父を見舞うくらいやれ、と訴えているのだろうと見ていたが、結局はどうだったのか、解読しきれなかった。語り手にあたる末っ子は「焼肉ドラゴン」の末っ子に通じ、「家族の物語」を思わせ、大団円も「その後」を割と丁寧に描写する、そうであるならば、という要求でもあるが、むしろ私としてはそのあたりは捨象してよく(5人の姉が既婚か未婚かも判らず・・未婚と思しいがそれならその事に言及する台詞は一つ欲しい)、ソンジンという男がいた。その後、あれこれあって音信もない・・くらいで切り上げ、「存在」を印象的に残すのがまあ好みの問題だが、良かったかな、、と。
ファクトチェック

ファクトチェック

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2021/09/17 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

報道番組を「選べる」と感じることは稀だ。高給せしめてジャーナリスト名乗ってる事の贖罪のように「やってる感」出してそれっぽいコメントをするキャスターやコメンテーターたち。言い回しの語彙力の差はあっても、語る範囲は決まっており、それゆえ結果的に横並びになる。誰もが注目する新型コロナ関連の情報さえ、踏み込んではならない領域があり(何者かを守っており)、公益は二の次になっている。スクープ!という代物が記者の「ジャーナリスト魂」と取材活動の動機を担保している模様だが、いつも思うのは「速さ」を競った所で何だという話。質で勝負しろと思う。特に政局の新展開などいずれ知られる事だし政治家は自らを顕示したがる生き物なのだから、、。挙動を追う価値を感じないような政治家でも、首相や幹事長クラスならコンペで勝負できる、つまりルールは健在。運動会の徒競走で優勝して無邪気に喜ぶ小学生、スポーツと同じゲームに見える。真に価値のある情報をゲームに持ち込むと、出来レースの平和共存に不穏な影がよぎるのだろう。ジャーナリズムとは元来不穏な事実に触れるものだと思っていたが、「業界の平和」の方がそれに優先するらしい。

そんな体たらくのマスコミの病根が奈辺にあるかを明快に描いた劇。言いたい事をほぼ言ってもらった気分で、頬をぶたれる衝撃はなかったが、溜飲を下げた。平和共存の反対語は、戦々恐々。先進国ではあり得ない「許認可権」がテレビ放送に関しては所轄官庁に与えられ、政権批判を行なうと許認可に関わる。もしマスコミ業界に平和共存が道義的に可能だとすれば、政権との距離を互いに取り合い、政権が懐柔できないよう結託する事、では。。等と繰り言を言っても「仕方ない」のは変わらないからで、変われば「仕方なくなる」のも一方で事実だ。日本の現実はそれに程遠く、政治の介入に完璧に負けているが、「負けている」という自覚もないのだろう。一億総なんとか。戦前はまたやって来る。

ベンジャミンの教室

ベンジャミンの教室

電動夏子安置システム

あうるすぽっと(東京都)

2021/09/16 (木) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

見ようと狙っていたがかなわず、映像を有難く拝見した。数年振り二度目の電動夏子、作品性にも俳優にも既視感を覚えなかったが(記憶のかなた)、「侮れない面白さ」を感じた点が共通。
設定がユニークである。税務署の協力だか管掌だか、「税の大切さ」の教化・啓蒙活動を行なう協議会なるものがあり、小学校への税金教室の出張が主な活動。商工会議所的な組織でもあり参加資格は事業主である事。話の端緒は著名な若手起業家(健康食品)が今度参加するらしい、という話題。彼の講演映像を見て感想を言い合う雑談タイムが冒頭。全員が集まる前に女性同士の会話があり、思い出深い炊飯器の修理を頼まれた家電屋の女主人が依頼主の女性にブツを渡すのだが、家電屋は実は特許申請しない斬新発明をやっていて今日はその炊飯器を「炊飯器としての寿命は終えた」と別物に仕上げてくる。便利だが現実離れしている機能を持つこの代物を見事な伏線として序盤に奇妙な展開があり、作品世界の自由度はいや増して荒唐無稽さは後半に向かって拡大して行く。

「税」を語る舞台が据えられるが、サークル的な緩い義務感(使命感)による緩い繋がりの中で、個人事業主だから許される外目「人格破綻」かと思うキャラが炸裂、平然と「税金教室」の私物化(自己欲求の手段に)する者ども。小学生を前に一度ならず二度目も児童そっちのけでドラマが進行。各々勝手きままに行動するが、奇妙なかみ合いが生じて高揚する瞬間がある。というあたりはテイストは全く違うがアングラか元気な小劇場の要素がある。

だが、なぜ今「税」か。・・これに触れる会話は一瞬だが光る。「必要な事に税金は使われているのか。」
雑談の中でもさらっと、こんな具合。コロナ禍で支援が届かず自殺した事業主も知ってる・・しかし政府は支出を渋るため「日本は借金づけでお金がない」と喧伝している、親方の税務署に逆らうのもなんだが・・借金の殆どは国民だから財政破綻しないんじゃない?・・等。現在のマスコミを通して語られる事のないセンテンスが、言霊ではないが声になって耳から入るだけで私には光明だ。

物理学者たち

物理学者たち

ワタナベエンターテインメント

本多劇場(東京都)

2021/09/19 (日) ~ 2021/09/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

会場へ入るとロビーがどことなく簡素。「ご自由にお取り下さい」という無料リーフレットを探すと事務用長テーブルにB4紙2つ折りの当パンがまた質素(桟敷童子のみたく)。座席に近い入口から入ろうと裏手に回ると案内スタッフがおらず「コロナ対応で裏口は閉じたのか?」という状態(そうではなかった)。
芝居が始まると序盤に登場した草刈民代の台詞が時折覚束なく「おや?」と思う。そこでふと「今日はプレビューだから?」との考えが過ぎった。以前観たプロデュース公演のプレビューが(結果的に準備が十全でないというのでなく)わざわざ1ランク落とし、スタッフの客対応も素っ気なかったのを思い出した。今公演がそうだったわけではなく実際には「差」もないのかも知れないが、「引き算された分を足すとどうなる」等と脳内で考えを巡らした程に、特に前半は混迷し、乗れないものがあった。
幕間を挟んでから俄然巻き返して天晴であった芝居は確かにあったが何だったか・・さほど気落ちせず休憩時間を休み、迎えた後半は目が覚め、戯曲の「狙い」的な所がいくらか見えてきた。といっても変わり種な戯曲には違わぬ。ノゾエ氏演出舞台と言えば新国立の「ピーター&ザ・スターキャッチャー」(ラストで萎んだ感はあったが)が秀逸で腕は確かだと知れるが、書き手・演出家としての「傾向と対策」は未だ不明。それでも料理人・ノゾエ氏を引き当てた素材というのが何故か腑に落ちる作品。シュールさは前半の「死」の扱いと言いイヨネスコを連想させるが、要は叛逆、アナキズム、よりソフトに言えばはぐらかし、へそ曲がりな志向。

感じた難点は、配役。チラシの俳優陣を見て観劇を決めた客も多いだろうが、川上友里子を除く女優陣(瀬戸さおり、吉本菜穂子、草刈民代)のキャスティングは果たしてどうだったか・・。小柄で容姿端麗の瀬戸、声に特徴あり倒錯の域を表現できる吉本、すっくと立つ肢体こそ見たい草刈が、わざわざその長所を封印したような役柄である事により、元々異種な戯曲の「読み違え」「迷子」を誘引したようにも思う。
まあしかしそれより何より、事挙げすべきは戯曲という事になるのだろうが、今ひとつ物語を追えていない。終わってみれば事象じたいはシンプルではあるが事象を語る口調、含みは感受しきれない。
誤読の一つは、ステージを占める直方体の共有スペース(居間であり休憩室であり食堂のような)には左右の壁と正面の三方に三人の科学者を名乗る入院患者の居室のドアが付いているが、大きく立派なので居室には見えず(特に正面は廊下に通じるのだと終盤まで思っていた)、意図としては三名の科学者に集約される話である事が前半の段階では判りづらく、象徴的に扉をデーンと据えたのかも知れないが、では居室以外の場所へ通じる通路はと言えば壁が人一人通れる格子になっていて、どこからでも出入り出来る仕様になっている。三人以外の存在の性質を三人と区別するのにグッドなアイデアとも思うが、幻想ではなく実際に起きている事象であるので、例えば扉に名札でも貼っておけば「居室」だという事が最初に判る。芝居の見方=ルールは早々に告知するのが良く、適度な謎で引っ張り後で解く手法はここではそぐわなく思う。また、看護婦役、刑事の部下役、主役の一人メビウス(と名乗る患者)の息子ら役などを兼ねてコロス的なグループとした感じだが、メビウスの妻(川上)や刑事(坪倉)、あと確か看護婦長(草刈)が他を兼ねない配役である事の意味はあるか、なども。本作はこの「豪華な」出演陣に適した素材だったのかどうか。この発掘戯曲は無名でも剛腕な役者、ぶっ飛んだ役者を使って下剋上を挑むような素材ではないか。ただ、全体に漂うシュールな感じ(ノゾエ氏の色?)の中で、メビウスや三科学者が倫理と科学についての真っ当な議論を真顔でやってみせるなどシニカルで押せないものがある。水に浮いてしまう油の処理法は難しい。作者がミステリー作家であった事を考え合わせると、どんでん返しの後付けの政治論争で、政治論争の手段としてのミステリアスプレイではなさそうだ。とすると味付けの位置に当る論争は当時の世相の反映であり、もし今これをやるなら、「人類が踏み込んではいけない領域」とは生命科学だったりコロナ禍を引き起こした自然破壊だったりするのかも・・。(まあそれだとインパクトには欠くが)

娼婦 奈津子

娼婦 奈津子

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2021/09/11 (土) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

パギやんこと趙博が自作を梁山泊に持ち込む、の巻。第3か4弾になる。
弾き語りシンガーだけに歌と演奏入り舞台が特徴であるが、今作もこの系譜にして「演劇」作品として傑作と言える舞台であった。作者によるオリジナルは恐らくラストのみ、他は所謂「洋楽」(ほぼ70年代か)だがこれが優れた劇伴となっており、芝居本体に見どころがある。数年経っても脳裏に過ぎる観劇になりそうである。

ネタバレBOX

入場するとステージ奥にバンドセットが見える。少しわくわくする。・・と、妖艶な娼婦と若い常連客の絡み。男は女に首ったけらしいが質は悪い。オンリーになれと迫るもやんわり断られ、いきり立つ男。修羅場到来。おもむろにギターとドラムの一打、「BURN」が生でポテンシャル高く演奏される。
書きたいこと、言いたいこと仰山持ってる人なんやろな..。趙博氏がどこからこの話を立ち上げたのか判らないが、今という時はこの芝居を待ち望んでいた、なんて台詞を吐きたくなる心持。ラストソングの合唱は自作だろう、ストーリーを反映した歌詞「言いたい事を言い、生きたいように生きる」が、今の現実とシンクロする。もっとも「空気」はメッセージ色を忌避する。空気を吸う自分も言葉を耳にして一瞬怯む。が、そこへ至る90分の芝居にはそれを弾くだけの密度がある。
今回尊顔を拝めなかった金守珍のキレ味良い演出も効いただろうが、何より娼婦に行き着いた奈津子の人生を全人的に存在させた蜂谷眞未に圧倒される。物語世界が抒情とリアルを以て地上2階の床上に現われ、蜃気楼のように消えた。

配役では、気性の激しい彼女を静かに受け止める李弁護士(広島光)・・李(リー)という名がまた良い。特に在日だとかいった説明はないが、日本社会の仕組みの中で資格を取り片隅で自分の領分を守り生きて行く順応型在日でありながら、ただ名前は李を名乗る・・絶対に己を語りはしないが李とだけ名乗って生きて行く・・静かな物腰の中に芯の強さを湛える見事な設定で、好演。そして奈津子の実母(のぐち和美)、型の演技を繰り出す印象ではあるが「大好きなお母さん」と幼い奈津子が言い、ある時期から見向きもしなくなった母親と娘の風情がこれも見事なマッチング。裁判に彼女の精神鑑定を出した精神科医(島本和人)が悪役の一方を担い(いささか哀れ)、時々パギやんと漫才風やり取り。ベテランの域だ。
音楽(生演奏)の挿入箇所も選曲も穿っており、演奏には奈津子の義父役(ジャン・裕一)のベース、留置所行きダンサー(神谷沙奈美)のサイドギター、ドラマー役(諸治蘭)のドラム、島本のリードギターでガッツリ演奏する。諸治女史は指導を受けての演奏、やや走り気味だったが骨のあるドラムプレイ。ある意味クライマックスがロッドの「Sailing」、ヴォーカルは蜂谷眞未。
朧な処で、徐に。

朧な処で、徐に。

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2021/09/10 (金) ~ 2021/09/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

喩えは変かもだが...快適な小旅行、演劇という名のショートトラベルを堪能した。さすがに「劇作家」を軸に置いただけあって水を得た魚の如くだ。我が身に引き付けた話はどの書き手も(架空のクリエーターや実在の芸術家を描く等を通して)一度は描くものだろうと思うが、本作の滑らかな筆、飛躍の小気味良さは強く印象づけられる。
題材はディープだが、主人公の女性劇作が悶々と才能の「枯渇」に喘ぐ軌跡を本筋として、それに絡む形で、コロナ禍の中で置き去りにされたその領域へ意識的に踏み込んで行く彼女を観客は見つめる。暗い状況なのに舞台には明るさがある。絶望的光景の中でも決して落ちない。死者あるいは「いなくなった者」を思う時間が、衒いなく芝居の中に存在する。

悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~

燐光群

座・高円寺2(東京都)

2021/09/13 (月) ~ 2021/09/14 (火)公演終了

実演鑑賞

第一回を逃したので今回の追加上演を観に出かけた。後半寝てしまったのでデヴィッド・ヘアのコロナ体験記(70代にして感染)がどう着地したのか判らず終い。COVID19へのヘアの「考察」を私は聴きたかった。いつか翻訳台本が読めることを期待。

新型コロナをどう捉えるか、どう対するか、どう距離を保つか・・そういう類の議論が「緊急に」必要な状況であると私には思える。だが人に思索を促すコンテンツは地上波放送ではまず見られない。
コロナ時代がいつまで続くか知らないが、恒常的に有用かつある場合には必須である「検査」を可能な限り広範に実施できる体制さえ、1年半の間に構築できなかった政権の(即ちコロナに真摯に向き合わない=既得権益構造を変えない政党の)後継者問題、しかもポンコツ候補者ばかりを追いかけ、「他の可能性」を全く封じる報道がまるで誰かの命令一下でなされているかのように横一列で並んでいる。
医師や感染症専門家は「感染を広げない。そのためには出歩かない」と言う。地域医療の担い手が民間主体であり「経営」とリンクしながら為されて来た経緯を見れば、各医療機関の「自発性」に期待して社会的広がりの中での「対コロナ体制」ができるのを期待する(待っている)方がどうかしている。各機関の「経営」に目配りしつつ「全体に奉仕する」医療体制の構築をやれるのは政治しかない。
その議論を展開した番組を見たことがない。私には報道の様相が狂気、または低能の証に見えるが、背後に恣意性が働いているとすれば、それに唯々諾々と従う人と組織の異常さもさる事ながら、その「力」を構成する中毒性の偏執的要素が想定される。
映画「チャイナタウン」は水道の利権の欲にとらわれた老獪な男の前に正義が敗れる話だが、主人公の探偵ギディスがきな臭い事件を追って突き止めたその黒幕に、裏を掛かれて拳銃を突きつけられて言う「なぜ?」「金に困ってる訳でもないのに」すかさず老人が反論する「The future, Mr.Gidis, the future!」。「未来のため」という大義をしゃあしゃあと言ってのける男の姿に、世の権力が重なる。その本質は単なる「既に得たものを持ち続ける」事への執着、失わないために増やそうとする偏執、即ち中毒(意志ではなく病から来る症状)である。

「戦争協力」でかつて裁かれたマスコミのように、今現在のマスコミの体たらくも犯罪的であったと裁かれる日が訪れてほしいものだが、かつては敗戦によって曲りなりの改革がなされたが、今没落し行く国家がその非道さで国民を苦しめようと、誰も助けないだろう。自力でやるしかない。
米国という兄貴に頼む向きもありそうだが、人権外交で他国に介入するのがかの国の常套で、今の日本は敗戦によって既に米国の「介入」を成功させ、軍用地や制空権を与え、今やジャパン・ハンドラーに逆らう政治家は「いない」のではないか?(共産党くらいか) 今、日本は米国に搾り取られるプロセスにある。
日本は「取りに行く」国ではなく、今は敗勢に回った。安倍政権の間に通った重要法案は国の財産や社会資源を米国や企業に売るためのものだ。この視点を報じないマスコミも政権と共犯にある。
・・かく凡庸な想像力も、自分で考えるから働くが、マスメディアの不作為(考える材料としての情報を出さないこと)の前にただ受動的でいたなら、常に栄養を摂り続けなければ奪われる身体機能のように、奪われる事だろう。
演劇の与える影響力は数の上では少ないが、浮薄に流れる情報とは異なる確かな情報を手渡す強みがある。坂手氏と燐光群の仕事に敬意を表する。

ネタバレBOX

食事も控えたので眠るとは思わなかったが、座高円寺1の座席ならそうならなかったろう、2の座席はフカッと座り心地よく、坂手氏のさして心地よくないリーディングの間よくぞ快眠に誘ってくれた。(椅子に文句を言っても仕方ないが。。)
熱海殺人事件

熱海殺人事件

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/14 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

文学座版「熱海殺人事件」。諸々発見あり。
稲葉賀恵演出の才気が冴え渡る舞台、とは印象の一面で、冒頭から暫くは文学座もその範疇である新劇の役作り、物言いが気になってどうにも入って行けなかった。それでも成行きを追わせる緊迫があり、土台の無い所から楼閣を作り出して「あり得ない」取調室での台詞の応酬を一つの確固たる世界を信じさせるつかこうへい戯曲は、やはり役者に力技を要求するものであったが、文学座俳優の演技と稲葉演出共々に2021年初秋の文学座アトリエ版「熱海殺人事件」が生まれたのは確かのように思う。
「モジョミキボー」のコンビの片割れ石橋徹郎の木村伝兵衛役以下、計4名の俳優の持ち味が十二分に目に焼き付いた。
「熱海」には幾つものバージョンがあるようだが、ラストで伝兵衛が一人で長演説をやったのには驚いた。時代を感じさせるが、真摯に純粋さを求める心から発する言葉は作者の声そのものにも聞こえる。

戒厳令

戒厳令

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2021/09/03 (金) ~ 2021/09/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

作家・思想家カミュの戯曲作品。小説『ペスト』(1947)が仏国民に称賛をもって受け入れられた翌年、本作は著名俳優・演出で上演されるも、評判は振るわなかった由(wiki参照)。ただしその意味は約めて言えば「作品と時代の(ビビッドな)関係」が作用したものと推察され、初演から70年を経た現代、とりわけコロナ禍の日本では中々面白い舞台になった。

ネタバレBOX

本作には擬人化された<ペスト>とその秘書が登場するが、小説『ペスト』がそうであったのと同様、<ペスト>はナチス・ドイツの隠喩であった。ヴィシー政権(ナチスの傀儡)時代の記憶も生々しい初演当時、小説では優れたメタファーであった「ペスト」がナチスの制服まで着て舞台上に姿を現わし、これに抵抗する青年が一人彼らを恐れず「抹殺されない」存在となり長い弁舌を振るう場面などは、いささか図式にハマり過ぎていたのではないか。また<ペスト>が差し違えで青年の命を奪い自らは敗北を認め去って行くという、ナチスの敗退をなぞったラストも恐らく当時のパリの観客にとっては興醒めだった・・飽くまで想像だが。
(これに対し小説「ペスト」は中世のアルジェの町を襲ったペストの惨劇が描かれる。悲惨な現実に直面し、葛藤し闘う主人公を通して、読者は戦後のカオスの状況から事態を「理解」する足掛りを得たかったのではないか。)

昨年来日本で小説『ペスト』が注目を集めた理由は言うまでもなく新型コロナにより、従って注目点は(ナチスよりは)未知なる伝染病への恐怖だ。『戒厳令』に登場するキャラクター<ペスト>も、今の観客は新型コロナ・ウイルスの隠喩と受け止める。同じ言葉が1948年当時とは異なる意味を含み持つ。だが一方、当時ナチスという存在に人々が(カミュが)見ようとしたものを、我々も別の形として見ているとも言えるかも知れない。

作品の冒頭、地球に接近する彗星を見やる町の人々。彼ら各々が吐く言葉の中に不吉の予兆がある。やがて血を吐いて倒れて死ぬ者がそこここで現われ、人々を恐怖させる。町を統べる総督は「動揺する勿れ」を言い続けるが、ペストと名乗る者が秘書と現れると彼らに漂う「死」のオーラの前に跪き、町を明け渡す。その時から始まるのは町の幽閉、そして人を人間性から遠ざける非人間的管理だ。
舞台では「管理下」に置かれた町の者らがマスクに顔をうずめて沈黙する姿があるが、理不尽な管理・規制に置かれた人々への視線は、新型コロナ下での無根拠な(とは認識されない日本の現状はともかく)規制に翻弄される人々への眼差しに重なり、日本の現在地を示す。
気骨の判決

気骨の判決

オフィスワンダーランド・(一社)演劇集団ワンダーランド

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2021/09/08 (水) ~ 2021/09/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

オフィスW観劇は3回目だろうか。劇としての進行の独特さ、というか場面を構成する各演技がジグソーのパーツを当てたような独特な間合いが毎回不思議なのだが(はっきり言えばたどたどしい)、今回もそれは変わらぬながら、テキストの力を感じた。題材(原典)の良さもありそうだが、日高哲英氏の劇伴も心なし「気」が入ってる(?)と感じられ、不覚にも胸に来る瞬間があった。
パンフの竹内一郎氏の文章によると同作品は俳優座に書き下され(2013上演)、その後今回を含めて2度再演されたが、そのいずれも脚色ないし演出が変っているという。状況により力点の置かれ方が異なり、今回はテキストは前回とほぼ変わらぬが作りは全く違うと書かれている。その言葉だけではどこがどうとは判らないが、この舞台の感動は芝居が「今」という時間に干渉している証左。史実の人、吉田久判事役には、俳優座初演では演出を担った川口啓史氏。風貌、声ともに、ひたすら法に誠実に仕えた一徹者の「らしさ」を備えて舞台を締めていた。

ネタバレBOX

冒頭述べた不思議な感触というのは、役者それぞれは経験ある御仁らと窺えるのだが、人物を深めようとする形跡が見えずパターン演技に収まり、稽古数が少ないのか台詞をどうにかこなしている印象。優れた舞台には人が出会う空間固有のエーテルが醸成され、時間を掛けて作る演劇のそれは醍醐味であったりするが、それが無いのは相当短い稽古期間で作られているから、というのが最も腑に落ちる所。。・・とは言っても、テキストを判りやすく伝える手段としての演劇の機能は十分果たしている。演劇の一つの経脈にあるところの辻演劇(広宣手段としての)がこれに近いのかも知れぬ。「南の島に雪が降る」の粗末な芝居小屋での芝居でも、観客である兵士らの壮大な想像力が舞台を「作った」。

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