一度しか 公演情報 ほりぶん「一度しか」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    この所定着している、出演シーン一言解説付き自己紹介を初めて見たのは、神保町花月プロデュース「予言者たち」だったか、もっと前だったか。。以後の「かたとき」、今回と3度以上見ているがこの自己紹介も磨きがかかり、今となってはこれはナイスなアイデアで毎回やる価値有りだ。
    ほりぶん、ナカゴーは大いに笑えるが、やはり回を重ねて楽しみ方を会得した方が良い、と思う(というか、何処となく癖になった今、自分は会得したのだな、と思う・・当初はそうではなかったので)。
    よくお笑い芸人が、目指す「笑い」の理想を、一度乗っかったら次、次と笑いが起き、会場が波打つ、等と言う。当初ナカゴーの笑いは、演劇の笑いではなくこの「お笑い」の笑いという気がしており、それが証拠にツボを突かれて波状攻撃で「笑わせられる」という側面が強かった。顎が疲れて、芝居が終るとハーと溜め息をついて帰路につく。もちろん作品は一様ではなく一緒くたに語れるものではないが。しかし生み出す笑いは独特である。
    (お笑いでなく)芝居では、ドラマの高揚が目指され、笑いはこれを相乗的に高めたり、息抜きを与えたり、「潤い」がある。他方、芝居がその高揚の部分でなく底辺・下地の部分で、シニカルな空気を欲する場合には、乾いた笑いが有効。風刺や皮肉といった笑いに近く、ニヒリズムの世界を提示してそこに人間的な何かを描き出そうとする芝居で、乾いた笑い(を通したドライな人間観・世界観)が注入される。今書きながら想起しているのは大人計画の「キレイ」だ。
    つい先日ぴあ演劇学校という催しで「松尾スズキ」の回を視聴し、大人計画の主宰の「お笑い観」を聴く機会があったが、ウェットな笑いとドライな笑いとあり、日本には前者が多いが、自分は後者の笑いが好きである、との事。例としてジョン・ベル―シ、モンティパイソンのジョン・クリーズ、俳優ではジム・キャリー。狂気を帯びた笑いの世界だそうだ(日本では、昔の喜劇人が凄かった、との弁)。
    ほりぶんは間違いなく後者の方であるが、それは登場する人物らのキャラと切り離せず、また演じ手である川上友里、墨井鯨子らの形象力とも切り離せない。
    三鷹市芸文のNEXT COLLECTIONに登場と知って意外に思ったが、「演劇」に枠を嵌めていない自由人は同センター・M氏の方か。
    演劇か笑いかの話を始めてしまったが、過去私が見たほりぶんは1アイデアで突き進むといった印象であったのが、「かたとき」(紀伊國屋ホール)と言い、今回のと言い、交わる線が増え、脚本書きの貫禄を自分的には感じていたりする。

    ネタバレBOX

    詮無い事ではあるが、笑いと言えば観客の「笑う」行為については、何度か奇妙な笑い癖に遭遇し、批判的に書いた。今回はその「常連」とは別人であるが、私の隣とその隣に座った男女の笑いに迷惑させられた。思い出すとイラっとするので反芻したくないが、少し笑い方を紹介すれば・・
    音としては少し高めから「ハハハ・・」と音節が続く笑い声であるが、その音程というのが、最初の「ハ」から二番目の「ハ」が二、三度高くなるヤツである。そのあとはその音が続き、最後の方でしぼむ。大体において「ハ」が6回以上はある。ひぐらしが丁度あの鳴き方だろうか・・。よくテレビのバラエティ番組で、出演者の言動の後に起きるスタッフの、あの「上から」笑いである。「自分は色々と物を知ってるし体験もしているが、こういうのは初めて(と言って良い)。意外なものに出くわして、ホラ、こんなに笑いがこみ上げている(俺を笑わせるなんて大したもんだ)。」そんな説明が付されて良い位の自己顕示な笑い。自己顕示の衝動だから、笑ってる(笑えてる)事に快感がある、それがために、本当の衝動による笑いと違って(セミが鳴き終えるまで止められないのと同じく)ハハハハと続けてしまうのだ。お陰でその後の台詞が聞き取れない。これを何回となく繰り返される。まず隣の女子は(よく顔は見なかったが)声からして十代か二十代と若い雰囲気、その向こうに中年男性、その向こうに同じ年恰好な「声」の女性、そちらの女性は本当におかしい時に3度ほど短く笑っていたが、雰囲気として二人が夫婦、手前が娘。この父と娘が、回数としては父が多かったが同形の笑いを何度もぶちかまして来るのだ。自分の声が台詞を妨害していても一向お構いなし、て事は、芝居の行方など気にしてなく、一点において生じたおかしな状況を「理解した」とアピールする笑いが、止まらないという感じなのである。アピールが勝り、あとの展開を見ようとする欲求は比較的小さいと理解できる。

    ・・と散々文句を書いたが、いや気持ちは痛い程判る。多くの人との共感を「噛み締める」だけでなくそれを「音」にして示したい衝動は、その根底に寂しさや悩みを抱えている事の証左でもある。父娘(勝手な想像による)は目の前に起きる事への理解を笑いとして発する事で、互いに「歩み寄ろう」としていたのかも知れぬ。
    ただ・・それは他人を脇へ置いた「自分」中心な行為なのである。これに対してはやはり、「台詞聞こえない」と勇気をもって告げるべきだったと思い始めている。折角楽しんでる観劇に水を差すことはできない、と忍耐したが、「理解したアピール」は笑いではなく、それはアピールしなくていい事であり、アピールポイントを掴まえて細かく点数稼ごうとしてくて良いものなのであり、そして何より台詞を聞き取りたい人間が隣にいること、を理解してもらうこと。それは大事な事であった。芝居は理解できたし面白かったので良いけれど。(これは日記かっ)

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    2022/10/19 00:35

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