tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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風の吹く夢

風の吹く夢

THE SHAMPOO HAT

ザ・スズナリ(東京都)

2014/09/10 (水) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

ROADMOVIE 半径数キロただの半日の。
TheShampoohat知ってまだ2年。現代日本に棲息するヒト科の生態を何編か見せてもらった。話の筋やオチそのものより人物の佇まい、醸し出す濃厚な出汁のような臭いが何とも。アレを嗅ぎがくて足が向く。今作も建設現場に出入りする人工(にんく)達の突いてる感じは堪らなかった(一時期鳶土方の現場に出入りした頃を懐かしく)。さほど濃い関連のないエピソードが並ぶが、この完成具合にバラつきが若干。もう一本濃い線というか、芝居全体を括れる(言葉に抽出できる)何か、捻り出し切って欲しかったっす。

コンタクト

コンタクト

水素74%

アトリエ春風舎(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/23 (火)公演終了

満足度★★★★

水素74路線
数えると同劇団を4本も見て来た勘定になるが、路線と質を維持しながらコンスタントに公演を打っている。意外にも。というのは、まず劇団名が不思議君でwebのデザインもパンフやチラシに書かれる作者のコメントも全面拙さに満ちてる。素人でごめんなさい、と。で、作品とした場合の完成度を言えば毎回、詰めの所で素人っぽさを出す。終盤に向けて自転車のペダルを力んで踏み込むとチェーンがかつん!と外れてつんのめる。惜しいね、という具合。
でも基本は現代口語演劇で、人物の立ち方、呼吸感、雰囲気、ちょっとした間合い等、つまり非言語表現部分が饒舌に色々と語ってくれる所の面白さが軸だから、結末がどうなろうとあまり関係ない、と言えなくもない。ケーススタディ的に再現された人間の模様をじとッと観察する時間として成立するタイプの芝居。飛躍の度合いを「そりゃないだろう」「もっと行けるんじゃない」と批評しながらも見続けられる事がその証左だ。
今回は、途中、どう展開しても可能だがどうなるのか、帰趨を見るポイントが幾つかあった。未来男の「父」が結局誰なのかは、最後に判る事になっているが、結局誰だっけ?・・ま、それはどちらでも良い(それじたいにメッセージはない)。作者が明かすように人間と人間の接触についてのあれこれが、面白く見れたので私はそれで十分、多くは望まないという感じである。これで良いのか、とも思わない。ただし、表現の精度についての探求は今後もたゆまずやっていってほしい。

ネタバレBOX

一つ二つ、説明不足感が残った。ホテルから出てきた眼鏡男と独身女のカップルが、もう一つの出口から出てきた本命女と年食った男のカップルと出くわす場面。あれではもう一つのカップルも事を済ませて出てきたように見える。中央ののれんがホテルを示し、上手のは無かったが、舞台の都合上だろう位にスルーし、芝居は2カップルとも事を成就して、互いにはにかむ、的なシーンに思えた。これは狙いか? 後で勘違いが解けるという。いやいや、謎にするほどのネタではなく、この事実関係は即理解できたほうが良い。
非常の階段

非常の階段

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

アマヤドリ的。
アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。

ネタバレBOX

その具体箇所は、終盤に展開する独白ベースの2つのシーン。「自分が無い」事に悩み、それを解決しようとして何も変わっていない事に気づいた青年「ナイト」の絶望の独白。この芝居はある犯罪集団を中心に展開するのだが、そのメンバーの一人であるナイトは少年時代からハチャメチャをやってきた(行動の欠落感を免除された)はずの来歴の持ち主なのだが、実は、と独白する。彼は周囲に合わせて生きているに過ぎず、そんな自分が嫌で、気を遣わずに済む連中とつるむようになったのに、やっぱり人を中心に考える自分、「評価」「承認」を望んでいる自分がおり、その欲求は満たされる事がない。いつも周りを気にして過ごしてきた人間には「思い出」というものがない。本当の自分を生きていれば、悲しかったり楽しかったり、そんな思い出の一つや二つ持ってるはずだが自分にはそれがない・・そんな状態から抜けられない無間地獄の闇を見た彼は、自殺する。
この独白は私自身の二十代の頃の心の叫びを殆どなぞっていた。そういう自分からすると「自殺」に至った本当の原因は、彼の語った言葉の中にはなく、別種の要因が働いていると思うがそれはともかく、この告白には現代を生きる人間の一側面が表現されていると感じる。
もう一つの場面は、彼の自殺(救急搬送で現在は重体)を受けて、犯罪集団が元世話になった詐欺師の元締との間にかつて体の関係を持った女性(ナイトの実家同然の親戚の家庭の長女)が、ただ遊ばれただけだったのね、で終ったはずの彼の元にある決意を胸に乗り込んで行く。
詳述はせぬが、元締の存在、犯罪集団の存在は、この芝居では既定の事実として置かれ、後に「解説者」によって社会における資産の不均衡状態の是正に大型詐欺犯罪は貢献している、として肯定的意見が述べられたりする。格差を放置しているという意味で「悪」である社会システムから必然的に若年貧困層が生み落とされ、必然的に「金儲け」のための詐欺犯罪(ビジネス)が生まれるとの見方は、ある面私たちの実感に即している。
が一方で「人を騙す」行為が一人の人間の中で正当化される過程で、様々なものを振り落として行くだろう事が、詐欺師の元締の「全て満たされた」かのうような環境で無気力化した姿に仄めかされる。その一局面がたまたま出会って一夜をともにし、捨てられた長女が未練がましく彼に取り入ろうとして交わされる、虚しく痛々しいやり取りだったりする。
で、このやり取りを伏線として、終盤のその場面で彼女は恋愛素人?らしく、ナイトも以前一緒に働いていた同士だったボスの前に再び、敗北者の恥を打ち捨てて身をさらす。「ナイトに会っに行ってほしい」。億劫そうに渋る若き詐欺師に、彼女が食い下がる。このやり取りは見物である。再現したい欲求は抑える事にする。
「悪」と「自由」の自由の語義は多様であるしどの意味合いだとしても結構である。言葉に集約させて行く作業、言葉が機能する土壌を再び掘り起こす作業は貴重だと思うが、抽象度の高い言葉や論理に収斂させる事がゴールである演劇はつまらない。論理や言葉にならないものが演劇という手段で豊かに表現される、それが私にとって演劇が贅沢な体験であるための条件だ。その端緒にしたい観劇だった。という所で長い感想を閉じます。長文失礼。
羽衣House

羽衣House

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2014/09/12 (金) ~ 2014/09/21 (日)公演終了

満足度★★★★

言及することの価値
途中入場(無念)。だが即効引き込まれて最後まで持って行かれた。
原発事故を巡るあれこれは「生活」の問題として今も進行形であり、その事に多少なりとも考えを寄せる自分なればこそ、であったかも知れぬが、芝居は全く硬くない。タッチはどちらかと言えばコメディである。軽快さ、というより日常性と言ったほうが適切か。
話の舞台は放射能から避難する子どもたちを受け入れる保養施設(民間の、人々のカンパで運営されてるらしい)。ここの女性所長以下、スタッフ、ボランティア、利用者(子供たち)の親族、地元の支援者らしき人等による、恋愛沙汰有り、笑い有りのドラマ。だが、日常感たっぷりに語られる会話の端々に遠慮なく挿入される、放射能汚染をめぐってのあれこれ。それに向き合って生きざるを得ない場所で、もがき立ち上がろうとする人間の弱さ美しさ醜さ清々しさが2時間という時間に詰め込まれていた。(※全体の1/3強を観そびれたので「詰め込まれて」という印象表現は当ってないかも知れないが)
とにかくこのネガティブな題材を、問題性をきっちり言及しつつ爽やかなラストに仕上げ、しかも話を終えて一件落着でもなく課題はしっかり刻み込んで幕を閉じる事ができたのを、私は奇跡の賜物ように眺めた。
最後に希望と言えるものを浅薄さに堕さずに語らせるには、そこへ至るプロセスでごまかしの無い事実・現実が描かれなければならない。
現実を共有されない事こそ震災以来の社会の罪(広い意味でのネグレクト)であり、この芝居は「言及すること」により今渦中にある人達への声かけとなっている。その言葉となり得る言葉を作者は探り、紡ぎ出した、この事を真摯に評価したい。
(見逃した分を引いて4点)

グランギニョル未来

グランギニョル未来

グランギニョル未来2014

ヨコハマ創造都市センター(YCC)(神奈川県)

2014/08/29 (金) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★

21世紀の鎮魂儀礼
コラボ的作品を最近好んで観始めた事もあって(半ば実験である「異種配合」は当たり外れも多いが)、今回の観劇、当日券の列に1時間並んだ甲斐はあった。予備知識無し、休憩含め2時間のあいだ五感を刺激され通しであった。横浜創造都市センター(元BankART。石造建造物)が会場である時点で「実験的」パフォーマンスが何となく予想されたが、内容は想像の範囲をはるかに凌ぎ、言葉にならない何ものかを強烈に叩き付けられた感覚を引きずって会場を後にした。
超越された感もさる事ながら、登場する役者の取り合わせの妙、場面の緩急、生で鳴らされる音楽、音響も印象的だった(作られた感=温かさを感じさせるものがあり、決して突き放すばかりでない、の意)。
特に聴覚の刺激。台詞の発語もまた、音としてあった。
冒頭近くで、ジェット機の轟音が振動とともに暗転の場内を埋め尽くす。今作品の題材とされる「日航ジャンボ機墜落事件」に連想を繋げる、状況の再現。直接には関連のないシーンが、暗転も挟みつつ波のように寄せたり引いたり、感覚をくすぐる。これらを包む音楽、また静寂。
私の座った席からは、この鋭角状に細長い建物の尖端に当たる、正面の二重に据えられた扉の嵌め込み硝子を通じて行き来する車のライトが相当量かすめ、目をくらませる。だが不思議に外界との隔絶感は大きく、逆に秘儀に参加しているかの感興が増幅するのだ。
人物らは歌のような物を言ったり、叫んだりする。外国訛りで日本語を口にする外国籍らしい二人、覚えたての日本語を喋る四歳くらいの女の子、小学生の女の子、中学生の男の子。「日本語の操り手」として未習熟な彼らの口を介する事により言葉が純化され、蒸留された水滴のように落ちる。一方、大人の飴屋は吃音者のように、山川は吼える事しか知らない傷だらけの狼のように、言葉を吐き落とす。
観客が徐々に導かれて行くのは、現実に訪れる「死」の瞬間・場所である。その時間その状況が、私達の身にも訪れ得ること、否、今私達はその「死へ向かう時間」を生きているということ。
「グランギニョル」を意訳して言い換えるとすれば、「死の予感」を喚起することとなろうか。不条理な死(死はそれじたい不条理)を真顔で嘆いたところで、それは避けがたいもの、個人が自身の内部で折合いを付けるしかない類のものだ。多くの演劇は、その殺伐とした「死」に、つまり「生」に、彩りや意味を与えんとして人と社会、人と人との関係を描く。ところがグランギニョルが描き出そうとするのは、生を当面長らえるための「死」の脚色ではなく、脚色を撤去した無意味で不条理な「死」すなわち「生」の姿だ。
対峙する相手は人間(や社会)ではなくもはや運命、神、あるいは真理(法則?)である。この作品が(日航機事故を扱ったにもかかわらず)「非日本的」な匂いを発する理由はそこにあるかも知れない。
もっともあの突然で無差別な「死」、現場に居合わせてしまった人々のありさま、また同様に死に直面する存在としての人間を「嘆いてみせる」行為とは、「死」を思い出させる儀式に他ならず、能をあげるまでもなく鎮魂はその抹香臭さを疎まれながら連綿と、生者のために儀式として執り行われてきた。勝手な解釈だがグランギニョル未来は祭儀なるものを現在に捉え返し、息を吹き込む試みを試みた、のでもあるか。「真の闇を知り、真の光を見る」ために・・ ただ、闇を見据えるには私たちの精神は脆い。物語性の補助があってどうにか、チラ見できる程度で。意味の解体とセットである所の不条理な死のストーリーは日常の精神回復機能の前で風化していく。(9/6修正)(10/5気まぐれに若干修正)

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