ふじたんの観てきた!クチコミ一覧

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アニー

アニー

日本テレビ

新国立劇場 中劇場(東京都)

2015/04/25 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

とても楽しいアニーでした。
2015ミュージカル『アニー』観劇,四度め

アニー,それもトゥモロー組ばかり四回となる。今回は,とうとう一番前の席だったが,惜しいことに通路の左がわ三個の場所。それでも,その中では一番中央よりだったから良かった。

ルースターが,アニーを消してしまえばいい,というとき,実際にナイフを手品で消していたような気がした。あと,モリ―とケートは,タップのときに少しだけ参加していた。別の少女たちだと思い込んでいたが,それはまちがいだった。

過去の書き込みで,映画に比べてなんと間のぬけたものかと,家族一同でがっかりしたと舞台版アニーを酷評しているものがあった。しかしながら,映画は,ワンカットを何度も取り直せる。舞台で,これ以上アニーにセリフを増やしたら,それは大人の演劇になってしまう。子どもが,生の舞台でやるものとしてはベストだ。

座席の位置のせいもあるが,毎回視点が少しかわる。大型ミュージカルは,観る場所がたくさんあるので,端役の楽し気な仕草やら,ちょっとしたアクションが目に入って来る。同じミュージカルを何度も観るひとたちの気持ちが少しわかるようだ。

花買わないか,の少女(少年)の声はのびがあって良い。ダンスも上手だ。

ゆうなっちは,どの公演でも,声がときどきひっくりかえる。ハスキーボイスというものも魅力の一つだ。たくさんの場面で笑いをとっているのも特徴だ。やり過ぎということではない。これも含めて,ゆうなっちアニーの色だと思う。

そんな笑いを多くとった舞台が終わると,後部座席では,目を真っ赤にして泣いているお母さんがいた。アニーが親を見つけられなかった気の毒さに,感情移入したのだろうか。それとも,小学生にしては,ここまでセリフを完全に覚え人を感動させている事実に,びっくりしたのだろうか。

ルドベルの両翼

ルドベルの両翼

おぼんろ

BASEMENT MONSTAR王子(東京都)

2016/06/28 (火) ~ 2016/07/06 (水)公演終了

満足度★★★★★

二回見ました!
『ルドベルの両翼』観劇

おぼんろ劇団は,劇場はいつも,おんぼろだ。五人の役者は,ヘビーメタの化粧に隠されて素顔がわからない。

まず,「想像力」を鍛えたいとうったえる。目をつむって,物語はいつも童心にかえって,そこから開始する。今回は,良かった。とりわけ,「あんただれ!」「弁士です」までの,最初の30分間の流れが良かった。すっきりと,楽しくはいっていく。さらに,60分ごろ,若林めぐが,弁士的に台本を読むところまでで結構今回はもりあがった。

おぼんろは,2013年『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~』で頂点をきわめてしまった。というのも,『パダラマ・ジュグラマ』『ゴベリンドンの沼』も,作品の作り方が,ほとんど同一なのだが,唯一ちがっているのは,『ビョードロ』は,若林めぐ演じる「じょうきげん」の存在を,あいまいで,特殊で,ファジーなものにし,そのことによって,作品に「なぞ掛け」をしていることだ。

今回は,似たような部分や,場面,ことばの使い方があっても,ほかの作品とはちがって,新しく生まれ変わった楽しい寓話になっている。そこが,非常に好感が持てた。惜しいのは,最後で,全員が「つれ自殺」を行い,気が付くと生きていた・・・というところ。なにかものたりないが,全体としてはOK。

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

おぼんろ

d-倉庫(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

めざせ!シアター・コクーン
池袋d倉庫は,本当に,倉庫のようなものだった。この劇団のチラシが,あんまり魅力的だったので,足を伸ばした。「ビョードロ」とは,何だろう。この物語では,「ジョウキゲン」が場面の途中で生れる。この「ジョウキゲン」は,何かを感染させるものらしい。ビョードロの血によって,ワクチンが作られるという。それによって,「ジョウキゲン」は撃退できるのだ。空気感染するほどの影響力を持つにいたって,ガス・マスクのようなものが用意される。これを,ビョードロたちが使う。ガス・マスク使用中の,ビョードロたちは区別がつかない。片方のビョードロには父親がいたようだ。この父親は,頑固オヤジで,救いがない。終盤にはいって,あやまって,自分の息子を殺害してしまう。あわれ!

細菌兵器の存在を擬人化したものなのだろうか。そういう説明をしている例もある。しかし,具体的な説明は十分にはされない。「ビョードロ」「ジョウキゲン」と,頑固オヤジが,狭い倉庫内を,強烈なコスチュームと,スピード感で動き回っている。座布団も持参しているような人はいたが,それ以上に,どこから観たのがいいか疑問。ぼくたちの劇団は,出会い系の劇団なので,まずもって,隣の人とのトラブルを嫌います。まず,隣の人と十分に仲良くなってください。お互いに目と目をあわせて,ことばをかわしましょう。そうすれば,劇が進行して,ひざがぶつかり,足がからんでも,許しあえるでしょう。なるほど,観客は,役者と一心同体みたいなものってことかしら。

劇中の動画・カメラはOKです。ご自由に,ブログにアップしてくださいね。劇団おぼんろ第10回本公演 『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~ 』を一人でもいいから,多くの人に紹介してください。動員数が伸びて,いつか『シアター・コクーン』にいけたらなあ。そのために,みなさん応援してください。

なるほどなあ。そうか。がんばっているなあ。じゃ,ちょっと目立つかもしれないが,舞台を壊さない程度に,数枚写真を撮らせていただこう。応援しちゃおう。

ところが,後日,フラッシュをたいたばかがいた,という話になってしまった。げえー。だって,普通のカメラしかない場合,自動フラッシュなんですけど。まずかったすか!

たいへん非常識な行為で,あいた口がふさがらない。こういうばかは,二度と,この劇団を観にくるんじゃない!という手厳しい見解。たしかに,そういわれたら,がっかり。

でも,このコメント者も,少し変ですよね。高姿勢は,まあいいが,ありがちなミスをここぞとばかり鬼の首を取ったようにアゲアシ取りですね。ばかは,どっち,ばーか,というシーンを思い出しました。

象徴的な演劇は,現実逃避に陥るっていうから,演劇を観るときは,なるべく論理的にしっかりしたものを観ている。でも,ときには,感覚的で,感傷的で,美しい,詩的な作品にも引かれる。今回の『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~ 』は,その点で,たいへん満足している。また,観たいと思う。しかし,もう来るな!という常連がいるようなので,もう行きません。あとは,がんばって,シアター・コクーンをめざしてください。たいへんご迷惑かけたようで,心からお詫びします。ジョウキゲンのような心優しい存在に,何度も舞台に足を運ぶ人の中には,人のアゲアシばかり取る人もいるのでしょうか。

葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー

葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー

株式会社ステージドア

蒲郡市民会館(愛知県)

2014/08/11 (月) ~ 2014/08/11 (月)公演終了

満足度★★★★★

ミュージカル『葉っぱのフレディ』蒲郡公演を観劇。
ミュージカル『葉っぱのフレディ』蒲郡公演を観劇。

蒲郡に隣接する豊川は,私の出生地だ。蒲郡の市制記念行事は,病院関係者が,市長に直訴して実現したものらしい。台風が怪しくて,公演も吹っ飛んでしまうかもしれない,と不安もあって,現地にはお昼頃到着したら,偶然それらしい集団が歩いてきて,市民ホールに入っていった。ほどなく,発声練習も聴こえた。大ホールなので,有名な公演でも席が十分に埋まらないこともあるらしい。私は,イプセンを観にいって,四五人しかいなかった経験もあるので,スカスカの演劇もあっても驚かない。しかし,毎回好演しているルーク先生役の宝田さんには,いつも大ホールが満席であって欲しいという期待がある。それだけ,一生懸命なのだ。心配はされたが,二階席はともかく,一階は80-90%ほど。

さて,『葉っぱのフレディ』観劇は,東京公演の四回から一週間おいて,五回めとなった。回を重ね,観劇する席を変えると,いろいろと見える世界が違う。地方公演のホールであるからといって,特に舞台が見劣りするようなことはなかったと思う。お孫さんを連れての観劇か,結構おばあちゃんが目についた。彼女たちは,ひょっとすると,往年の銀幕スター「宝田明」を見に来ていたのかもしれない。

五回めともなると,気がついたのは,カミキリのモアに,葉っぱが襲撃されるまでが意外と長かったことだ。たぶん,挿入歌を一曲ずつじっくり聴き始めたのでそういう印象になったのだと思う。とても良い曲が多いと思う。歌詞もなんとなくイメージできる。『葉っぱのフレディ』の主役はもちろん「フレディ」であるが,とりわけ挿入歌を独唱しているのは,「フレディ」の周辺にいる,メアリーとか,クリス,あるいは,葉っぱのクレアだった。ルーク先生役の宝田さんもかなり目立っていると思う。

このあと,2014『葉っぱのフレディ』は,北上し,岩手県に飛ぶ。さらに,グランド・フィナーレは,神奈川県に戻り,芸術劇場で二公演が行われる。それが終了すると,葉っぱは解散するのであろう。そして,初春になると,オーデションの激戦を勝ち抜いて,2015年新メンバーの芽が出る。いずれにせよ,最後に,もう一度感動の名演技を期待したいものだ。子どもの演劇・ミュージカルも,たまには良いものだ。そればかりだと,なんだか自分の頭の中の,キャパシティが柔軟さを欠いていくような気もする。ひとつ子どものミュージカルを観たら,ひとつ大人の演劇を観るのがいいかもしれない。

秋になると,葉っぱたちはみんなきれいに色づいた。
同じ木にいるのに,どうして違った色になるのかな?
一人一人が,お日様へ違う向き方を体験したからだよ。

葉っぱの僕らがすみかを変えるときが来たんだ。
どんなものでも必ず死ぬんだよ。
怖くないのかな?

君は,春から夏,夏から秋になるとき怖かったかな。
季節が変わるのは,自然のなりゆきなのさ。
そう考えれば,いつかそのときが来ても怖がることはないのさ。

アニー

アニー

日本テレビ

新国立劇場 中劇場(東京都)

2015/04/25 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

2015ミュージカル『アニー』観劇,三度め
2015ミュージカル『アニー』観劇,三度め

回を重ねて,三週め,2015年アニーは三度め。毎回少しずつ前進しているような席だ。とくに,本日は,右端の二列め。最初,前回の方が良かったと感じた。しかし,オーケストラが一望できた。さらに,出演者はなぜか右端に良く場面を作る。その点で,非常に面白い場所からの観劇だった。

東京公演アニーは,ツゥモロー組で全15回あるようだ。そのうち,毎週土日に観ることで,四回は見られるだろう。しかし,そもそも同じ演劇を何度も観る!?

それでも,たとえば,サンディ&ポリス場面は毎回違った。最初は,ほとんど素通り。二回目は,ベスト・タイミング。三度目は,ちょっともたつく。しかし,実は,もたつくことは微妙に信憑性が増したようだった。でも,サンディが動かないと,舞台は進まない。ふと思ったのは,サンディには代役はいるのだろうか。

公演直前のNYシティーへの表敬訪問は,アニーに若干の疲れをもたらした。しかし,本日は,声も演技も理想的だった。

三回めともなると,さらに,場所が前に進み,とくに,子どもたちの熱演に夢中になった。二人小さなメンバーは,声も出てるし,元気だと思った。

さて,泣いても笑っても,あと一週間で2015年アニーは終わってしまう。そのあと,地方公演が続くのだ。

舞台劇「セロ弾きのゴーシュ」

舞台劇「セロ弾きのゴーシュ」

ゴーシュ・アクティング・パーティ G.A.P.

ミュージックスタジオ・フォルテ(東京都)

2013/08/31 (土) ~ 2013/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

いつも心にカレンちゃん。
素敵なねこでした。

また,作品がムダがなくひきしまっていました。

演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,とても調和の取れた演劇です。まず,全員が楽団の役で,トランペットなどを吹くさまを演じます。怖いのは,楽長です,でも,楽団員役の子どもたちは,泣き出したりしません。じっと,その指示を待っています。いざ,ゴーシュを応援しようと決まると,動物のマネをして,ゴーシュを励まそうとするのです。楽団員の物まねの動物なら,ゴーシュは見抜くにちがいないのですが,実際の動物は,とってもリアルなのです。たとえば,何度もドアを破ろうとして,血だらけになるかっこうなど。

狸もほのぼのとして良かったのですが,やっぱり,野鼠がすごい。言葉が,ていねいであり,実感がこもっている。子どもの演技とは思えないくらい,ぐっと来た。そこで,人形劇的に子ねずみがいる。しかし,その分身として,本物の子どもも子ねずみを演じている。たいへん工夫してあって,感動した。自分は,最初の,猫役が,なんとも愛くるしくて瞼に焼き付いてしまった。ゴーシュの後ろに回って,親しげに語る様子もとても面白かった。この演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,小時間なのだが,ミスがない,すきがない。

すると,猫は,肩をまるくして,目をすぼめてはいましたが,口の当たりでにやにやわらって云いました。
「先生,そうお怒りになっちゃ,おからだにさわります。それより,シューマンのトロイメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「トロイメライ,ロマンチック,シューマン作曲」
「先生もうたくさんです。後生ですから,やめてください。」
しまいには,猫は,まるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュを回りました。

マクベス

マクベス

東京二期会

東京文化会館 大ホール(東京都)

2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了

満足度★★★★★

ヴェルディ『マクベス』
オペラという場合,ミュージカルとか,オペレッタというものは入らない。オペラは,宮廷文化から,近代市民社会への移行期に発展した。絶対王政の威光を表現したものだったから,オペラは,浪費芸術でもあった。もしかして,バッハは,プロテスタントで倹約思想家だったから,オペラを書いていないのかもしれない。

最初,古代ギリシアの悲劇復興をめざして,気がついたら,単なるショーであり,物語性より,スペクタル性の強いものになる。パターン化され,体制芸術といえる。グルックは,オペラの脱ショー化をめざす改革をおこなった。いずれにせよ,フランス革命までは,イタリア・オペラこそが,正当なものだった。ヨーロッパ全土で,イタリア語によるイタリア・スタイルが上演された。フランス流は,バレエを使い,合唱を重視した。また,音楽よりも,文学性に重点があった。

バロック・オペラにおいては,作品よりも,場に比重があったかもしれない。貴賓席にいることは,大衆を見下ろすことであり,また,彼らの視線を浴びることでもあった。一番前で観るのは,むしろはしたないことだった。

オペラが時代を超越して,普遍的な芸術になるには,モーツァルトの存在が大きい。彼は,喜劇をオペラとして,人間性のある作品で人気を得た。人間業とは思えないカストラートは目立たなくなる。テーマも,男と女の哀しいすれちがいを描く。

オペラの本質は,御用芸術であって,時の支配者の好みでスタイルは変わっていく。オペラの観客層は,やがて,教養ある貴族でなく,一般大衆も取り込んでいく。ナポレオンが失脚すると,また次の時代に突入する。ロッシーニ『ウィリアム・テル』が有名。グランンド・オペラの魅力は,音楽と台本と舞台が一体となる総合演劇といえる。ビジュアル性を尊び,事前に台本など読まなくても楽しめるようになっていく。視覚効果を重視したといえる。この頃,オペラの大衆化を見越し,ヴェロンは上階のボックス席を廃止し,天井桟敷に改造した。

18世紀まで,オペラにおいて,イタリア様式が唯一の国際様式だった。やがて,政治体制の不安定な国々で,国民オペラが生まれる。誰もが,いつかどこかで聴いたことのある,遠い民族の歌声の記憶,といったものだ。異国オペラと呼ぶべきものもある。異国を舞台として,白人と現地の娘との悲恋なども多かった。スッコットランドを舞台としたヴェルディ『マクベス』1847も,異国オペラに含まれるかと思う。

浅薄なイタリア,フランスのオペラを追放し,総合芸術としてのオペラを確立したのは,ワグナーということになる。オペラは,貴族の遊びで,シャンパンのように消えてゆく性格をもっていた。しかし,これを,文化財と考えるようになっていく。定番の名作,すなわち,レパートリー・オペラという言葉も1845年頃から,イタリアで使われる。ワグナーによる,総合芸術としてのオペラという理念が浸透するにつれて,オペラ上演における演出家の地位ははね上がる。映画という強力なライバルの出現により,自らの存在理由に,オペラは苦悩する。

参考文献:オペラの運命(岡田暁生)中公新書

ジゼル

ジゼル

萌木の村

萌木の村特設野外劇場(山梨県)

2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了

満足度★★★★★

ロマンチック・バレエ『ジゼル』を見た。
まだ,演劇・ミュージカルを観ることになって,二年とか三年とかしかならない。いまでも,何が好きなのかよくわからない。特に好きなものを決めて,そればかり見るのが良いとも思わないので,最近は,バレエなども見る。

一か月ほど前,『不思議の国のアリス』を見た。これは,上野でフルオーケストラだったので,演出ほか素晴らしい体験ができた。清里で,自然の中で行うバレエが,どんなもんであるか,それが気になって『ジゼル』見ることになった。

いつの日か,クラシック・バレエもいいとは思うけど,『ジゼル』のようなロマンチック・バレエが今の私には結構魅力的だ。むしろ最初,こういうストーリーがバレエの中に織り込まれているものが好きだ。それでは,演劇の部分と,ダンスの部分が,明確に区別されたクラシック・バレエ,たとえば『白鳥の湖』のようなものは,どう優れているのか。そのことは,またいつの日か,楽しみにしたい。

清里『ジゼル』は,野外ステージで,広大な自然をバックに美しい演劇が見られた。昼間,練習風景も見ている。ほとんどがラフな格好をして,何度も指示されながら,懸命に練習しているのを見ると,自分の関係者のような気分になれる。その親近感のわいた集団が,夜間に幻想的なステージを次々に展開するのは,驚いた。ショー・アップされた『ジゼル』は,心にしみこんだ。

ロマンチック・バレエなので,ストーリーがしっかり理解できた。ジゼルは,心ならずも結婚の約束をした彼女がいる貴族と恋に落ちる。そのことでは,両方とも問題がある。でも,二人が深く愛しあっていた様子は,美しいバレエのテクニックで見事に表現されていく。二幕しかない『ジゼル』は,後半がさらに凄い。森の墓場で,アルブレヒトは,ジゼルを懐かしく思い出す。すると,その声に森の妖精となったジゼルの幻想が,よみがえる。

葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー

葉っぱのフレディ ―いのちの旅ー

株式会社ステージドア

THEATRE1010(東京都)

2014/08/01 (金) ~ 2014/08/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

葉っばのフレディ、開始
2014葉っばのフレディが、始まった。まず 、幕が開くとルーク先生が地球の生成をと く。物語の不思議さに、子どもたちは取り 込まれていく。すごい! なんか難しそう。

最初、おもしろい場面がさっそくやって来 た。平和な葉っばたちが、カミキリに襲撃 される。すると、なんと、蜘蛛が助けてく れる。

ここで、葉っばのフレディは、食べられち ゃても仕方ないのかな! どうして? だって、 地球って食物連鎖で出来ているんだから。

葉っばにも、秋が来る。ひとり、また、ひ とり風の精が吹き飛ばしてゆく。ダニエル 、あなたも消えちゃうんだね。

春が、来てまた葉っばは、通りすがりの老 人たちの夏の光をやわらげるために活動を 開始するのだ。

Nicky

Nicky

ミュージカル座

光が丘IMAホール(東京都)

2014/08/19 (火) ~ 2014/08/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。
『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。

『演劇論の変貌』という本の序で,毛利三弥氏は,われわれが日常的に楽しんでいる演劇について,大学ではどう研究されているか,説明している。

世界で最初の,演劇学科は,1923年に,ベルリン大学で設立された。このときまで研究者は,文学科の中にいて,ドラマ研究をしていた。演劇研究の中心は,テキストである「文学」ではなく,上演されたものでなくてはならない。

しかし,舞台表現は,完成と同時に消滅する。過去の舞台表現を再現することはできないのだ。演劇学科が出現する頃には,「演出家」の台頭というものがある。演出そのものの定義があいまいだが,それ以前にも,座長演出みたいなものはあったようだ。スタニスラフスキーなどは,役者兼演出だった。

文学テキストとしての戯曲が,読むだけでは想像できない舞台になる。そのとき,演劇は,文学の領域を飛び出してしまう。確かに,イプセンの戯曲を何度も読んでいるので気がつく。実際に目の前で上演されたものは,戯曲を読めばさらに理解が深まる。しかし,そうでない作品は,どこかぼやってとしている。

パフォーマンスということばは,大道芸みたいなものをイメージするだろうか。このパフォーマンス(performance)という言葉が,演劇・音楽・ダンスなどを総称して呼ぶうちに,いろいろな使い方がされ,キーワードに利用された。パフォーマティヴィティ(performativity)と抽象名詞化していく。

新しい演劇・ミュージカルの傾向には,いろいろな特徴がある。工業資本による娯楽性付加には,「お話」が重要で,保守的と思われるドラマ回帰が目立つ。(『ニッキー』みたいなものでしょうか?)。異文化接触上演intercultural performance(『ライオン・キング』が該当するかもしれません)。

先端テクノロジーに依存する舞台表現。これは,何を言っているのか。『ミス・サイゴン』で,ヘリコプターが飛ぶような仕掛けのことでしょうか。演劇よりダンス,あるいは,ダンステアターに,現代的前衛上演のあり方を求めている風潮。例えば,『葉っぱのフレディ』も『ココ・スマイル』もそうですね。一番すごかったのは,やっぱり,『ニッキー』でしょうか。

『演劇論の変貌』の一著者は,演劇の上演的側面をいかに美学的にとらえるかが,関心の中心となってしまう。ということは,論理的な問題,ストーリーは,二次的に観て良い,演劇・ミュージカルもあるということでしょうか。ただ,ストーリーも,大事なのだと私は思うのですが。

マクベス

マクベス

東京二期会

東京文化会館 大ホール(東京都)

2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了

満足度★★★★★

オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!
オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!

先日,オペラ『マクベス』を観た。感想は,というと,これは,難解な作品だ。たとえば,魔女が出て来て,「きれいは,汚い。汚いは,きれい。」などと,意味不明の呪文が出て来る。シェークスピアには,ハイレベルの技巧がある人で,子どものミュージカルの方が,気が楽ですね。でも,オペラ『マクベス』どうでした?わかりましたか,とかいわれちゃうと,気になりました。

で結局,この魔女のことばの意味は,なんでしょうか。埴輪雄高の説明によると,トルストイと,ドストエフスキーの視点を対比するとわかるという。彼の「表現者とは何か」という文章から推察する。

トルストイには,『復活』のような宗教的な作品が印象的で,『アンナ・カレーニナ』も良い作品だ。それらは,背景に,神の視点というか,全的視点がある。そういう「表現」があって,哲学・思想がある。それは,まっすぐな,子どものような視点でしょうか。

これに対して,ドストエフスキーは,『地下生活者の手記』というへそまがりな作品があって,そこでは,終始変なおじさんがぶつぶつ言っているわけです。こっちの作品は,複雑で,屈折したプリズムの世界であって,全的視点(まっすぐな)ではないというわけです。

この「地下室的視点」というのは,世の中には,正しいことが,すぐに,まちがいになったり,まちがいであったものが,正しいことでもあったりする。正しいとも間違いともいえず,次に進むことも多い。(これは,難しく言うと,ヘーゲルとか,マルクスを読むとき出て来る弁証法的な考え方,というのでしょうか。)

で,問題は,こういう考え方は,さかのぼると,シェークスピア『マクベス』で,魔女の呪文にちゃんと出て来たという。つまり,ヨーロッパの人は,『マクベス』を読み,気がつくと,哲学にめざめたことになりますね。(ちなみに,ブレヒト『サロメ』によれば,善が悪,悪が善という聖書からの引用もあった)

PS

原作とオペラのちがい

「Fair is foul, and foul is fair.」は,演劇『マクベス』では,抜群に有名ですが,オペラ『マクベス』になると,この魔女の呪文は,fairとfoulという形容詞が確認できるだけで,直接台詞にはなっていなかったようですね。

オペラ座の怪人

オペラ座の怪人

劇団四季

電通四季劇場[海](東京都)

2011/10/01 (土) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

劇団四季の中で特別な作品
『オペラ座の怪人』の原作は,1910年に出版されたガストン・ルルーによる怪奇小説。ミュージカル版の作曲は,アンドルー・ロイド=ウェーバーであり,ロンドンでの初演は,1986年10月。ということらしい・・・

さて,クリスティンは,オペラ座の地下に住む怪人に歌唱指導を受け,怪人のおかげで,見事にプリマドンナになれた。幼なじみのラウルと再会し,恋に落ちるが,これを怪人は認めない。たしかにクリスティンの才能に気づき,これを育てたのだから,怪人の気持ちもわからぬではない。巨大なシャンデリアが落ちて来たときは,本当に怖かった。怪人が,クリスティンたちをあきらめる幻想的なシーンは,たいへん印象的だったと思う。

劇団四季では,ほかに身よりのない『赤毛のアン』の境遇も心に残り,演劇界の記念碑である『青い鳥』も素晴らしかった。しかし,『オペラ座の怪人』は,劇団四季の中で群を抜いた作品だと思う。文学としても魅力的であり,音楽も完璧だと思う。

マクベス

マクベス

東京二期会

東京文化会館 大ホール(東京都)

2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了

満足度★★★★★

短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
マクベスは,サラリーマンかもしれない。ある日,自宅のアパートに戻ろうとする。と,近所の三美人ママから,イケメンだってほめられる。きっと,将来は,出世するわよ・・・とか,お世辞を言われる。このお追従に,のぼせあがったマクベスは,家にもどるのが待てず,その話を愛妻にメールする。妻は,そうよ。あんたは,まじめ過ぎるからだめなの,もっと汚い手でもなんでも使って,同僚を次々につぶしていけばいいのよ。そうすれば,社長だって,夢じゃないわよ。

というような話になって,二人は,三人の魔女の預言に振り回され,人生の歯車を狂わせていくのだ。マクベスは,もともと仕事の鬼でもあったので,何人かは,会社から追い出せた。まだ,残っている連中は,逆に,組織の上層部に訴えでて巻き返しをはかろうとする。負けてなるものか,買収でなんでもやってやれ。夫婦の結束は,こうして,素晴らしく深くなるのであったが,没落の日が突然やって来るのであった。

シェークスピア演劇では,結婚はあまり肯定的に描かれていない。これは,シェークスピア自身家庭生活に満足していなかったから,といわれる。18歳のときに,8歳ちがう姉さん女房をもち,すぐに女の子,さらに何人かの子どもを持ったとされている。しかし,その結婚生活は,ほとんど別居であったとされる。結婚後,俳優をへて,脚本を書き始め,ヘンリー六世などを書く。劇作家としては大成功するが,円満な家庭を演じることはなかったのか。

しあわせな結婚生活を,ほとんど書かない作家が,『マクベス』という作品で,仲の良い夫婦を初めて書いた。それは,王位簒奪を計画し,連続殺人にいたる,グロテスクな物語だった。真っ赤になった血の手袋が,オペラ『マクベス』の小道具では一番印象的だったと思う。音楽も素晴らしかった。また,いつの日か。

短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
絵に描かれた悪魔を怖がるのは,子どもの目です。血を流していたら,護衛たちの顔になすりつけてやればいい。なすりつけるのよ,護衛たちに罪を。

不思議の国のアリスより

不思議の国のアリスより

劇団パラノワール(旧Voyantroupe)

サンモールスタジオ(東京都)

2013/06/20 (木) ~ 2013/07/01 (月)公演終了

満足度★★★★★

『不思議の国のアリス』
『不思議の国のアリス』

児童文学の世界では,挿絵は,作品の重要な一部である。作家ルイス・キャロルと,画家ジョン・テニエルは,歴史的な出会いであった。さらに,1832年生まれのキャロルは,1852年生まれのアリス・リデルと運命的な出会いをしている。オックスフォード大学の寮に,リデル一家がやって来た。当時,次女のアリスは,三歳であった。キャロルの趣味は,写真だった。レンズを通して,キャロルとアリスは見つめあった。そして,キャロルは,アリスの心をつかんだ。キャロルとアリスの出会いから,約160年が過ぎた。

テニエルが描いた美少女,実際には栗色のショート・カットであったが,金髪の美少女になっている。テニエルは,パンチ誌に勤務しながら,生涯38冊の本の挿絵を描いた。29歳のとき結婚したが,二年後に愛妻に先立たれた。師であり友であるジョン・リーチは,『クリスマス・キャロル』(ディケンズ)の挿絵画家である。テニエル(1820-1914)は,『船長の降船』で,プロイセン宰相のビスマルクを描いている。普仏戦争に勝利し,1871年ドイツは統一された。1890年皇帝ヴィルヘルム二世によって,ビスマルクは辞職に追い込まれる。そのときの風景である。テニエルは,20歳のとき,事故で左目を失明している。キャロルとの共同作業は,二作。アリスの中に出て来る白ウサギ,それは,どこかで一度は見ているようなイメージがある。ヴィクトリア朝時代,テニエルの挿絵で,アリスに親しみを覚えた。懐かしい気持ちになれたのだ。

『アリス』に人気が出て,キャロルは,劇化したいと思うようになった。挿絵も,当初自分で手がけようとしていたので,自分で脚本は書きたい。舞台装置も決め,俳優を選び,音楽などの演出もしたかった。キャロル自身,芝居好きであった。未完成ながら,四幕ものを手がけたこともあった。舞台上でアリスを見たいというキャロルの夢は,容易に実現できなかった。ここで,劇作家・演出家,サヴィル・クラークは,『アリス』を劇化しようとキャロルに提案する。キャロルは,これを受入れ,共同で舞台版『アリス』を作る。これは,1886年に上演された。キャロル自身は,二度上演を目にした後,亡くなっている。この演劇は,18回上演された後,衰退する。演劇としての『アリス』には,どのような問題があったのだろうか。

クラークは,子どもだけで上演したかったが,キャロルは,演技力のある大人をその中に入れるべきであると考えた。9歳下の,マイナーな劇作家に,キャロルは多くの意見を言ったが,演劇において自分はしろうとであるとの自覚はあった。初年度は好評であったが,その後は下火になっていく。キャロルは,演劇においても,もう少し言うべきは言わないといけなかった。

プリンス・オブ・ウェールズ劇場の幕があがる。妖精たちは,アリスを不思議の国に呼び起こす。わきでイモムシがパイプを吸う。白ウサギが,舞台を横切る。声をかけた白ウサギに,アリスは無視される。アリスは,チェシャ猫と踊り,歌う。そこに,帽子屋と,三月ウサギと,ネムリネズミがテーブルを用意する。帽子屋は悪いやつ。帽子屋は気違いだ。そのとおりさ。そのとおり。トランプたちが,入場する。女王は,チェシャ猫を処刑せよと言う。ハートのジャックには,罪はない。当時,『アリス』は子どものファンタジーに思われていた。その後,あらゆる大人の心をときめかすナンセンスの傑作となっていく。

挿絵画家テニエルは,『アリス』の持つ魅力を倍増した。これに対し,劇作家サヴィル・クラークはあまり評価されていない。キャロルのアドバイスでは,二作を融合させるのは至難であった。サヴィル・クラークは,凡人だったので,これに失敗した。後に続く者たちは,二作を上手に融合させている。一貫したストーリーはない『アリス』では,むしろ大胆な発想ができる。むしろ奇抜な場面を楽しむべきなのだ。常に新しいものを求めることこそ,『アリス』なのだ。芝居は,常に刷新されるべきものだ。芝居そのものを残すのでなく,人々の記憶に残る作品を作りたい。『アリス』の舞台化に失敗したサヴィル・クラークは,52歳で亡くなっている。1898年,サヴィル・クラークの『アリス』は,ミュージカルではなく,オペラとなった。

チャールズ・ラトウィッジ・ドットソン(1832-1898)は,牧師の息子だった。兄弟は全部で11人いて,彼が長男であった。11歳のとき,ダーズベリから,クロフトに移住している。母親は,47歳で亡くなっている。1868年には,牧師である父親が急逝している。児童文学としては,『不思議の国のアリス』は,まさに不思議な物語である。兄弟もいないし,友達を見つけようともしない。感銘する大人も出て来ない。冒険により,成長する主人の姿も見えない。ただ,ただ,アリスは誇り高い。キャロルの作品は,どういう出発点から生まれたのだろうか。

アリスは,未知の国に一人で迷いこむ。私はだれなの?お前はだれ?大きさが変わることは,別人になることなのか,否か。アイデンティティとは何か。イモムシの変態,身体が少しくらい変わっても,別人にはならない。自分がだれかは,自分ではなく,相手が決めるもの。ここにいるものは,みんな狂っている。おまえもだ。自己のアイデンティティの決定権をほぼ完全に他人にゆだねる。我慢ならない不条理の世界に,アリスは投げ込まれる。ひとびとが疑いを持たない地位・身分なんて,脆いものなのだ。背景がちがえば,価値などないのだ。

キャロルは,成長するにつれて,リデル家と,アリスと切り離されていく。キャロルとリデル家は,もともと住む世界がちがったのだ。横柄で冷酷な女王,人がいいだけの愚鈍な王,彼らのキャラクターは,実在したのだ。アリスを愛するキャロルから,遠ざけた無粋な大人たち。『アリス』作品中に出て来るのは,おかしげな大人の影,理解されないキャロル自身が批判的に感じた価値観だ。しかし,気位の高さ,と使命感に燃えるアリスは美しい。アリスのアリスらしいところは,自分を信じる勇気ある子どもであることだ。

参考文献:出会いの国のアリス(楠本君恵)

ヴェローナの二紳士

ヴェローナの二紳士

ハイリンド

吉祥寺シアター(東京都)

2013/07/08 (月) ~ 2013/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★★

『ジゼル』と,不倫問題で共通している。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。

タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。

グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。

『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。


以下,ストーリーを追うと,

村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。

村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。

村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。

ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。

というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。

ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。

参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)

「広島に原爆を落とす日」

「広島に原爆を落とす日」

非シス人-Narcissist-

サンモールスタジオ(東京都)

2014/07/09 (水) ~ 2014/07/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

,『広島に原爆を落とす日』by非シス人(Narcissist)を観た。
サンモールで,『広島に原爆を落とす日』by非シス人(Narcissist)を観た。これは,題名どおり大変ショッキングな作品だった。広島のことは,遠い。沖縄と同じくらい,自分には,遠い問題,だと思っていた。

ただ,子どもの頃,父は,軍人で,呉にいた。そのために,原爆投下直後の広島市内の惨状を目撃している。そのことは,話として何度か聴かされた。しかし,被爆していないはずの父は,最初の子ども(私の兄)をガンでなくしている。私は,ひょっとすると,隔世遺伝とかの結果,妙な遺伝子が悪さをしたにちがい・・・と,思い始めている。

物語の仮説は,実に大胆だ。しかし,デマ・憶測に過ぎない事実も,こうもたくさん並べていくと,愕然とする。

つかによれば,アメリカがすべて仕組んだ芝居に,日本ははめられたのだ。日本は,いまでも,対中国のために,事実上基地が完全に残ってしまった。

日本に戦争を無理にさせて,結果として,実験中の原子爆弾を,使ってみたかったのだ。どうしても,あの時点で原爆は投下したかった。なぜなら,ヒートアップしてから,原爆・水爆を世界戦争で使用するようになったとき,地球は再生不能に陥る危険があった。だから,戦争終結が決まり,真珠湾攻撃の倍返しとして,広島・長崎が,スケープ・ゴートになる必要があった。これらが,本作品の大胆なる仮説である。

つか作品で,本作品は,異色である。もちろん,朝鮮人などの弱者に対するまなざしは変わらない。ところが,物語の重さは,格別であり,役者のセリフも鋭い。ものすごく分かりやすいと思った。迫って来る演技は,似たようなものかもしれない。しかし,やはり,衝撃的であり,よくできた構成だと思う。劇団も気迫があった。

こわれゆく部屋

こわれゆく部屋

水素74%

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/01/16 (金) ~ 2015/01/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

初回の参加ですが,良かったです!
駒場アゴラ劇場には一度いってみたかった。内容は,なんでも良かった。退屈するかと心配したが,そんなことは全くなかった。むしろ,どんどん入りこんでいった。今までにも,なんとなく同じ雰囲気の演劇がなかったわけではないはずだが,演劇のあり方,劇の表現,セリフの発し方などに非常に特徴があって,興味が増した。

内容は,まず,事情があって,家出していた妹が,彼氏をつれて姉のもとにもどる。姉は,姉で,彼氏ができていた。ぎこちない,二組のカップルのぶつかり合いが前半のテーマだ。ひとりが少し何かを語ると,思いのほかおもしろいキャラクターがわかって来る。テーブルを囲んで,喧嘩したり,仲直りする場面に,たまたま自分が居合わせたような錯覚に陥る仕組みがある。

後半の,大きなテーマは,ざっくりというと,介護士の隠された苦悩だ。経験を積むと,医療関係者は,ひとの病とか,死についても,無感覚になって,慣れていってしまう。たくさんの事例を扱うことによって,このあいだまで遊んであげた少女の死を知って,その日のカツ丼が食えるのは,あって良いことかどうかと・・・

スピード感はほとんどない。ぶつぶつ,テーブルを挟んで,なんとなくつきあっている男女が,じつはどんな感覚を持っているのか,少しわかって来る。結婚しているひとたちには,それぞれに,なるほどこんな夫婦もいるのか,とか思っているのだろう。とても良い演劇であった。おそらく,こういう演劇がだんだんと支持される時代なのかもしれないと考えた。

NEWSエンターテインメント12th★FESTIVAL

NEWSエンターテインメント12th★FESTIVAL

NEWSエンターテインメント

埼玉会館(埼玉県)

2013/05/05 (日) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

『なつきとおばけくぬ ぎ』
彩の国さいたま芸術劇場まで,行って来た。そ こで,NEWS自主公演を観た。第一部は,残念 ながら8番からだった。『なつきとおばけくぬ ぎ』は,とてもおもしろかった。

ヒロインの家には,近くに巨木があった。戦後 一度焼け焦げたこともあって,老木は痛みが激 しい。土地は既に不動産会社に買収された。や がて,老人介護の施設になるらしい。あの見苦 しい木が亡くなるのは,それはそれで時代なの だから良い。でも,街には,お化けのような老 木に愛着を持って,それを残そうとする連中が いた。いずれにせよ,あたしには関係もない。 つまらない人生を,なんとなく生きていく。わ たしは,それでいいんだ。

老木の秘めたパワーで,主人公は,母と祖母の 子ども時代にワープする。母の時代は,テレビ が全盛となり,ドリフターズ『全員集合』と か,タケチャンマンなどがはやっていた。その 世界は楽し気だったが,早く元の世界に戻りた い。あの老木に何か秘密があるようだ。次に ワープしたのは,終戦間近の時代で,どうやら おばあちゃんがそこで生きていた。とても恐ろ しい世界で,兵隊さんがやたらいばっていた。 食べ物だって,ひどい有様だ。毒ガスを作り, アメリカ人を殺すことが「正義」だと教えられ て,なつきは愕然とする。

なんとか過去から,戻ることができたなつきは 世界観が一変してしまった。あの戦時日本とい うのは何とクレージーな場所であったか。なつ きは,社会の教員となって,子供たちに真実を 伝えることにする。

この自主公演のレベルはとても高い。内容がい つもわかりやすい。そして感動的であるが, ユーモアもあってあきることがない。昨年のも のは,海外旅行に出かける一家が,お母さんの 不注意から長女に残酷な後遺症をもたらす。こ れが契機で,留守番をしていた妹も含め家族崩 壊に向かう。しかし,病院にいくと,メーテル リンク『青い鳥』さながらに,病気を抱えうつ うつと生きている子供たちもたくさんいたの だ。

セリフは,99%覚えている。大人の演劇でも, たくさんかむ人がいるが凄く練習していると感 じた。テレビなどで役があれば,いつでも出演 できるように待機要員みたいなこともできるひ とたちなのかもしれない。良い意味でも,悪い 意味でも,基本に忠実なのだろう。

イエドロ落語2016

イエドロ落語2016

OuBaiTo-Ri

小劇場 楽園(東京都)

2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★★

新感覚、落語!ジョウキゲン
全体的に、とてもよくまとまっていて、それでいて、古典落語のノウハウも盛りだくさん!楽しめる一時間半だった。

死神の存在は、深読みをすれば、人生の教訓とか、空しさも湧き出る。そこを、三人が絶妙の掛け合いで時間が流れていく。すごい!

リリオム

リリオム

ユマクトプロデュース

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

不思議な物語の世界があった。人生は、だれにとっても1年生のいくクラスは、存在しない。いつだって一番むずかしいことから学習させられる。それは、リルケのお話しにあった教訓だ。美しい演劇のなかに、しんみりとする展開だった。

ネタバレBOX

リルケ「マルテの手記」を読んだころは,ずっと子どもだった頃だ。そのとき,二つのことをずっと覚えている。ひとつは,見ることをぼくは学んでいるということ。これは,どうして,大人に向かうわれわれが,もう一度見ることを再認識すべきなのか。ものすごく,不思議であり,かつ新鮮だった。やっぱり,見るという行為を根源的に考えてみる必要があるということか。

もう一つは,マルテの母がおもしろいボヤキを口にしていたことだ。人生には,一年生のいくクラスはないんだわ。いつだって,一番むつかしいことから,学習させられる。だから,無防備な若いうちに,平穏にコマを進められたひとは良いが,そうでない子どもは,人生を傷つけ,壊してしまうだろう。それは,だれのせいだろう。いや,運が悪かっただけなのだ。

リリオムは,まだ,子どもだ。だけど,たったひとり自分を理解してくれる魂に出会う。ところが,悲劇はおこってしまった。まるで,ロミオとジュリエットの事件だ。かれは,自分の才能を唯一認めてくれた木馬のいる遊園地から追い出され,犯罪人に落ちていく。気が付けば,愛する妻を残して自殺へと追い込まれた。生まれて来る女の子の顔すら知らないで,天国にもいれてもらえそうもないのだ。なんちゅう悪いくじ!

『リリオム』は,とても美しいハンガリー戯曲。それを,ミュージカルにしてもヒットしたというのは,ストーリーに魅力があるからだ。おそらく,実際にあった話かもしれないし,比較的どこにでも,どこの国でもあるような話だ。それを,そのまま素直に,伝えているから,あまりおもしろものではない。そのために,趣向のなされた演劇になれたひとには,ポカンとして終わる。

でも,むしろそこに,この演劇の狙いもあり,効果がある。人生の,不条理なところまでも,そっくり自然に受け止めて,人生を考えたい。そんな意図が感じられた。珠玉の作品。アコーディオンの奏でる音楽と,悪に走るリリオムたち若者の放つ歌声がやけにあっていて,妙に耳に残る。楽し気であり,それがかえって,終末へのアクセントになっている。

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