たんげ五ぜんの観てきた!クチコミ一覧

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ブルーシート

ブルーシート

フェスティバル/トーキョー実行委員会

豊島区 旧第十中学校 グラウンド(東京都)

2015/11/14 (土) ~ 2015/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

存在の重み
偶然性を取り込んだり、誘発する演出が素晴らしかった。
そして何より、いわき総合高等学校の卒業生・学生の存在が素晴らしかった。

ネタバレBOX

ラストでひとりの生徒が「逃げて」と叫び続ける場面がある。
全力で叫ぶ声は回数を重ねるごとに徐々にかすれていく。
その声のかすれの中に、とても切実なものを感じた。
彼ら・彼女らの存在を。
(過度な動きを強いることで、そこからはみ出す出演者の身体がその存在感を更に重くしていたとも言えるだろう。そういう演出はこのシーン以外にも、色々あた。)

隣の学校からの声が聞こえてきたり、鳥が校庭の周りを飛んだり、奥の道を通る車や人の姿が見えたり、時間の変化と共に太陽の光が変化し、肌に感じる体感温度も変わったりなど、その環境が作品に様々な色彩を与えていた。
と同時に、その環境によって、これがお芝居でありながら、現実そのものでもあるということも常に意識させられた(異化効果)。
虚構と現実が二重になったものとして舞台を観つづけたということ。

また、何度も繰り返される(うろ覚えで申し訳ないが)
「それは人間のようで人間でない。それ以前のもの。」
「人は見たものを覚えることができる。そして、見たものを忘れることができる。」
というような言葉の意味が、作品が進む中で、その印象が変わって感じられていったのも素晴らしかった。

最後の場面で、すべての芝居の意味がひとつに集約されつつ、同時に物語の外に向かって拡散していったのも素晴らしかった。
泥花

泥花

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2015/11/05 (木) ~ 2015/11/12 (木)公演終了

満足度★★★★

安定感
安定感

ネタバレBOX

間違いない芝居ではあるけれど、
どうしても感傷的で良い話というのが私の好みではないので、
星4にしました。悪しからず。
真夏の夜の夢

真夏の夜の夢

フェスティバル/トーキョー実行委員会

にしすがも創造舎 【閉館】(東京都)

2015/10/31 (土) ~ 2015/11/03 (火)公演終了

満足度★★★

スペクタクル
ユーモアのあるエンターテイメント・スペクタクル。
生演奏の音楽がとてもよかった。

オバケの太陽

オバケの太陽

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2015/10/23 (金) ~ 2015/10/30 (金)公演終了

満足度★★★★★

芝居らしい芝居
正攻法の芝居として素晴らしかった。

ヒネクレ屋の自分としては、、、という部分もない訳ではないのだけれど、、、

主演の池下重大さんと大手忍さんが本当に素晴らしかった。
特に、池下さんのあの微妙な繊細さは、演技力からくるものなのか、それとも人柄からくるものなのか。人生の憂いを背負った大人の男の中に、少年の繊細さを持ち続けている佇まいが本当に素晴らしかった。

ネタバレBOX

絶望的で苦しい現実の中でも希望をもって生きて行こうという物語。
正直に言えば、私はこのタイプの作品は苦手である
(と言っても、泣いてしまうのだけれど)。

そうは言っても、これだけの質の作品だと認めざるを得ない。
それに、この作品は震災直後に作られたものだということで、
その状況では希望を語るということが重要だったのだろうとも思う。

いや、わからない。
初演時に、この作品を観ていたら、その希望に強く共感したのか、
それとも幻想としての希望などいらないと今以上に反発したのだろうか。

いずれしても、いま現在の私は、
この作品を、状況の中の表現としてではなく、
額縁に入った「作品」として受け取り、観たということ。
Needles and Opium 針とアヘン〜マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影〜

Needles and Opium 針とアヘン〜マイルス・デイヴィスとジャン・コクトーの幻影〜

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2015/10/09 (金) ~ 2015/10/12 (月)公演終了

満足度★★★★★

空間と映像の魔術師!
映像と空間を使った演出が見事。
概念を変革することがアヴァンギャルドだとしたら、これはアヴァンギャルドではない。アヴゃンギャルド的な手法を総合的にひとつの技術としてまとめるあげる手腕が凄いのだ。
そして、できあがった作品の完成度に驚く。

だから、演出家の資質としえては(この作品を観る限りでは)、正統的な(正攻法の)演出家といえる。にも拘わらず、極めて斬新で、彼にしか至れない独創的な世界に至っている。

個人的には観客としての満足度より、表現者として得るもの(勉強になるもの)がたくさんあった。

とにかく上手い!空間と映像の魔術師!

少女仮面2015

少女仮面2015

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2015/09/30 (水) ~ 2015/10/07 (水)公演終了

満足度★★★★★

李麗仙!
 主演は状況劇場での初演時(1971年)も春日野八千代を演じた李麗仙!
(作品の初演は1969年、早稲田小劇場。主演、白石加代子)
(1975年には佐藤信演出/結城座の公演もある)

 作品のテーマである「肉体」と「観念」の問題は、初演時には<役者における「肉体」と「観念」>という問題としての意味合いが強かったが、今作では李麗仙が歳をとったことによって、年齢による肉体の変化という問題がそこにいや応なく加わる(前景化する)。メタシアター的というべきか、ドキュメンタリー的というべきか。
 その李さんの存在感が凄い。正直に言えば、当時のエネルギーはおそらくないのだろう。若い梁山泊の役者たちとは声の大きさからまず違う。だが、いやだからこそ、そこに「肉体」そのものを見てしまう。もはやこれは「特権的肉体」ではないのか、それともこれこそが「特権的肉体」なのか。
 解釈はどうとても付けられる。ただ言えるのは、これは普通の意味での演劇の強度ではないということ。もっと凄いものだ。人の生そのものの強度とでもいうような。

そぞろの民

そぞろの民

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2015/09/11 (金) ~ 2015/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

時流への抵抗
現代社会にある政治的諸問題を舞台にぶちまけて、ごった煮にしたような作品。それで幕の内弁当で終わらない腕力が凄い。

手放しで評価できない部分もあるけれど(詳しくはネタバレに)、
表現者として「問わなければいけないこと」を問うている姿勢に感服。

ネタバレBOX

そもそも観客を想定する表現において「作品は作者から自立できるのか」という前提問題がある。つまり、作品は作者が観客に発する問いかけなのか、それとも作者からは自立した世界の提示なのかという問題。別の言い方をすれば、作品は作者に支配されるものかどうか。

私個人は、作品は作者から切り離された自立した世界像の提示でありながら、その全体が同時に作者の問いになっている状態が望ましいと思っている。またその問いは決してメッセージであってはいけない。それではツマラナイとも思っている。

この『そぞろの民』は、その辺りがどっちつかずだという印象。
だが全否定できない部分もある。具体的に見ていく。

まず気になったのは、現代の政治の問題点を登場人物に解説的に語らせている点。説明的で劇作術としてはうまいとは言えないけれど、複雑な政治問題を前提状況さえ知らない観客に提示するにはこういう方法をとるしかなかったのかもしれない。それに、良かれ悪しかれ、学者とその息子や関係者たちというインテリたちが中心の物語のため、固い話もギリギリで不自然とまでは言えない形にはなっている。ただ学者の父の教え子が今日のジャーナリズムの状況に無知すぎるのは、劇を語りやすくするためにそいう設定にしたのではないかと思えてならなかった。

そのようにどうしても作者がこの作品を支配しているという印象はぬぐえない。すると、逆に、作者の認識または描写が甘い点が、妙に目立ってしまう。作者があまり意識されない作品ならば「そういう認識の登場人物なんだ」で済ませられるところが、登場人物の言葉は作者の言葉だと思えてしまうために、「その認識または描写は甘いでしょ」と作者に対して反発をもってしまう。

具体的に私が気になったのは、韓国や中国の立場の描写。「日本は韓国や中国に賠償金も払い、謝罪も続けているのに、許してもらえない。その理由は教育の問題もあるが、被害を受けた傷がいつまでも癒えないからではないか。」というようなやり取りが長兄と三男の恋人との間でなされるが、それだけで終わってしまう。そもそも日本は両国に「賠償金」という形では賠償をしていない。経済援助や技術援助の形をとった賠償。(勿論、そこには韓国側も中国側も経済的メリットを優先した背景があり、日本側も謝罪という形をとらずに問題を解消したかったことや日本企業のメリットも考慮した結果、両者の思惑が釣りあっての合意ということだが。)謝罪についても表面的なものが多く、村山談話など心からの謝罪もあったものの、少なくとも現政権などは謝罪の気持ちはない。そのような背景を「賠償金も払って、謝っているのに、、、」でまとめられてしまうと、どうも居心地が悪い。これが自立した作品世界で展開しているのならば、日本人一般はそう思っている人が事実多いのだから、そういう認識の登場人物なのねで済まされるのだが。

もう一点はラストのオチ。これは否定的に私が語ってきた部分が突き抜けて良い効果になっていた、と私には思えた。

自分の意見を他人にぶつけながら、ある部分では暴力的であり、もう一方ではうまく世渡りをしている長兄(武器を売る企業に勤める)。自分の意見を曲げずに会社を辞めた(自分が開発したレーザーが武器に転用されることに反対して)三男。次男は、新聞社に勤めながらも協調性を一番の是として生きている。
三人の父は、沖縄出身の学者。老年で施設に入っていたが、そこを抜け出して家に帰り自殺した。その自殺の原因を探るため、三兄弟はそれぞれへのそれまでの不満も含めて気持ちをぶつけ合う。最終的には、父がノートに書いた紙きれが出てきて(施設の人がこんなことを書くべきではないと、父から破り取ったもの)、最大の理由かと思われるものが示される。実際にそれが父の自殺の原因かは断定できないが、それを読んだ次男は絶望する。もっとも父に尽してきたと自身でも思い、周りからもそう思われていた次男が頻繁に見舞いにくることが、何より父には負担だったというのだ。次男の良さだと本人も周りも思っていた協調性をこそ、父は快く思っていなかった。ここには父の学者としての思想が重ねられている。協調性をこそ是とし、常に日和見的であろうとする日本人の在り方への批判が。

同時にこれは作者の日本への批評でもある。更に、父の本音を知り、今まで信じていた価値観が崩壊した次男の姿を、戦争を信じて突き進みながらすべての価値観がひっくり返ってしまった敗戦時の日本国民の状況とも重ねている。

ここまでならば、作品を使って作者が暗にメッセージを発しているということで終わる。

作品では、更に、この次男は父と同じ場所でその夜自殺する。もはや作品を使って暗にメッセージを発しているというレベルではない。もっと露骨な作者の叫び。このまま行ったらみずから自分を殺すことになるぞというような。

不思議なのは、メッセージを超えて作者の悲痛な叫びのようになったラストシーンこそが、もっともメッセージ的ではない演劇性をも有していたということ。この点はうまく説明できない。役者の力が大きいのだと思う。

オールラストの次男の妻と長男の眼がとても印象に残っている。

役者さんは皆よかったが、特に長男役の髙橋洋介さんの威厳たっぷりの演技がよかった。

蛇足1:物語内で自殺して死んだはずの次男:星野卓誠さんが、カーテンコールで出てきて挨拶している姿はとても不思議な感じがした。

蛇足2:沖縄という問題が重ねられているのも良かったが、その中で、学者の父の教え子が沖縄問題を語った後に、叔父が「沖縄のことを本土の人間に語ってほしくなかった」ということを問う部分がとても印象に残っている。それは、一方で琉球人が虐げられ続けてきた時間の重みを感じられる反面、そこに生じてしまう排他性も同時に感じられたからだ。この言葉の意味の両義性がとても凄いと思った。
エトランゼ

エトランゼ

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2015/08/19 (水) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

躍動する空間
間違いない脚本・演出。
そして役者の演技。

桟敷童子の公演(並びに東憲司作品)はハズシが無い。

今作では劇空間を創出する装置に驚きました。
役者の演技もよかった。

ただし、今まで私が観てきたものでは、作品が問いかけてくるものが、
今現在の社会状況、もしくはそこで生きる私の生の深い部分に強烈な印象を残してきたましたが、そうい意味では、この作品と現代社会、または私の生の実存との接点が見出せませんでした。
 それは私の感受性・知性が不足しているためか、作品によるものかはわかりません。そもそも私が「意味という病」に憑りつかれているだけかもしれませんが。

ネタバレBOX

武塚千春役の池下重大さんが元ヤクザには全く見えないんだけれども、そんな前提を越えてなんだかとても良かった。
アイロハシュ―太陽の息子

アイロハシュ―太陽の息子

名取事務所

シアターX(東京都)

2015/07/24 (金) ~ 2015/07/26 (日)公演終了

満足度★★★★

正攻法
先住民族サーミの芸術家ニルス・アスラク・ヴェルケアペーについての物語。

正攻法の芝居。

役者さんたちの力ある演技が素晴らしかった。

百花繚乱 日本ドラム絵巻

百花繚乱 日本ドラム絵巻

DRUM TAO

天王洲 銀河劇場(東京都)

2015/07/16 (木) ~ 2015/07/26 (日)公演終了

・・・
わからなかった。

「贋作幕末太陽傳」

「贋作幕末太陽傳」

椿組

花園神社(東京都)

2015/07/10 (金) ~ 2015/07/21 (火)公演終了

満足度★★★★★

ひとつの伝統芸能
 私はかつての前衛劇団が、ひとつの様式に収斂し伝統芸能化することに対して批判的であるが、椿組に関してはむしろその点こそが好ましいと思う。
 それは二つの理由による。ひとつは椿組の作風の背景に、河原乞食や村芝居の伝統、祭などの民衆に内在するエネルギーの噴出のようなものを感じるからだ。様式化され高尚なもののようになってしまった伝統芸能ではなく、民衆の中から必然性をもって生まれた芸能の歴史を背負っているように思う。
 もうひとつは椿組特有の演出技術が、形骸化はしておらず、その方法にも有機的必然性が感じられるからだ。群集劇の手法は無名の民への視線であり、脇役は主人公を盛り上げるだけの存在ではなく、脇役も自立した個である。それが群集劇という同時多発性によって、近代劇の物語構造を相対化している。それは主人公中心主義、物語中心主義という演劇表現への批評であると同時に、力を求める(崇める)社会に蔓延する考え方への批評にもなり得ている。

ネタバレBOX

 ラストは、舞台上に客席が作られ、その客席から役者たちが本物の客席側を見るというもの。これは二重の意味として提示されている。ひとつは、それまでの物語の続きとして「映画を観ている観客」という場面として。もうひとつは、「役者が観客を見ている」というメタ演劇として。ここで同時に屋台崩しも行われ、それまで行われてきた劇空間の虚構性が暴かれる。それによって、観客は舞台という嘘を見るのではなく、自身の実人生、その物語を生きなければならないということを自覚させられる。
 これを後者のメタ演劇としてのみ捉えると、ありがちな「前衛の常套句」のようにも思えるのだが、前者の虚構世界が持続しているようにも見えることによって、虚構と現実が混在したものとして残る。カタルシスと反カタルシスが同時に押し寄せてくる。芝居の内容が「映画における虚構と現実」というテーマをいったりきたりしていたために、それまで積み上げてきた芝居によって、屋台崩しをしても虚構が崩れきらない。むしろ、現実こそが虚構を内包しているというようにさえ受けとることができる。

 芝居の最中、私の少し前の席で、芸能界の人間らしき人(役者とマネージャーだろうか)が、途中から席に着き、芝居の途中で出たり入ったりを繰り返していた。気が散るのも嫌ならば、芝居を観る者としての不誠実さも嫌だった。出ている役者への義理か何かで来ていたのだろう。自己顕示欲の塊とそれを利用して金儲けという人が芸能界にたくさんいるのは自明のこととして認知しているが、椿組の芝居にもそういう人が観に来るのだということにも驚いた。これは愚痴を書いているのではなく、この客席で行われていた一連の出来事が、不思議と舞台で提示されている内容と響き合っていたと(個人的体験なのだが)思った。

 群衆の1人なのに何かとても気になったのは、横山莉枝子さん。注目されない部分でも丁寧に演じていたということなのか、存在感があるということなのか、、、ちょっとわからないけれど。
二都物語

二都物語

新宿梁山泊

花園神社(東京都)

2015/06/20 (土) ~ 2015/06/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

記憶
 1972年3月、戒厳令下の韓国ソウルにて、詩人金芝河の協力を得て上演された状況劇場の伝説の作品。
 先日観た『透明人間』もそうだが、唐さんの戯曲の奥深さを痛感。
とって付けたような歴史への批評というものではなく、
もっと身体とその痛みに根差した歴史の記憶を内包している。
朝鮮半島と日本、その間にある海峡の記憶。

 初演にも参加された大久保鷹さんは強烈。
 申大樹さんと島本和人さんの演技も印象に残っている。

 ここのところ日韓関係がギクシャクしている(お互いの好感度が下がっている)。それに、日本の政府は右傾化し、戦争ができる国になろうとしている。そんな状況でこの作品を上演する意義はとても大きい。

ネタバレBOX

戯曲が内包している問題について書こうと資料を読んでいたら、
山口猛氏の『同時代人としての唐十郎』(『紅テント青春録』も)にこの作品ができる背景とその解釈が仔細に書かれていた。

私が感じていたものはほとんどは山口氏が既に指摘している。
また、そこに大久保鷹論も書いてあって、これも正鵠を射ていると思う。

改めて書きませんが、興味がある方はそちらを読んでみてください。
絵のない絵本

絵のない絵本

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(埼玉県)

2015/06/04 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

とても良かった
普段、演劇やダンスを見て良いとか悪いとか思う基準と違う部分で、とても良かった。短くうまく言葉にできない。ネタバレに詳しく書いています。
とにかく良かった。

ネタバレBOX

 そもそもダンスと言ってもかなり演劇に近い。二つの意味で。ひとつは、言葉は使わないにしても、イメージによる物語性があるということ(アンデルセンの本が元ネタだというのもあり)。もうひとつは、踊り手個々の身体性云々というよりも、集団で創り上げる空間演出に重きが置かれているということ。それは光の使い方なども含めて。
 そうやって、ある意味では演劇を見るように観ていくと、徐々に踊り手に意識が向かう。ただ、それが踊り自体の良し悪しというのとはちょっと次元が違う感覚なのだ。複数の踊り手が同じ振付で踊っているのだが、いや同じ振付だからこそ、全員の調和よりもそれぞれの踊り手の個性が際立ってくる。踊りの根っこの微妙な違いや身体的特徴(背の高低や体格の違いなど)も大きく作用して。どの人が上手いとか下手とかそういう次元ではなく、それぞれがそれぞれに魅力的に見えた。これはそういう個性的な踊り手を集めてそうなったのか、白神氏の演出によるものか、わららない。いずれにしても、それぞれがとても個性的なのだ。バラバラの個性が同じ舞台で、時に同じ振付で共存している。社会の写し画というか、あるべき人と人との共生の姿を見た。個性とは見せつけるように他者との差異を押し出すことではなく、衒うことなく調和しようとする中でも自然と顕れてきてしまうものなのだと思った。その点に圧倒された。そう思うと、アンデルセンの『絵のない絵本』は、お月様が見た世界各地の人びとの一夜の物語を集めたもの。一夜一夜にそれぞれの生が輝く。演出意図か偶然か、『絵のない絵本』のそれぞれの物語は、踊り手たちの存在と対応しているように見えた。色んな特徴・特性を持った人々が、優劣ではなく、その個性によってそれぞれの生を輝かせていると。これほどまでに題材とできあがった舞台がシンクロしている作品はそうない。
 どこまでが白神氏の意図なのかはわからない。私が過剰にそう受け止めているだけかもしれない。そうは言っても、衣裳も全員が似たトーンの服でありながら、よく見ると、一人一人まったく違う服なのだ。そういう細部も含めて、私が感じたようなディレクションが、意識か無意識かはおくとしても、働いた結果の舞台のような気がする。舞台美術も照明も良かった。
裏ねじ

裏ねじ

トルニージョ(フラメンコ)

スタジオトルニージョ(東京都)

2015/05/28 (木) ~ 2015/05/28 (木)公演終了

満足度★★★★★

踊りとは何か、、、
踊りとは何か、即興とは何か、ということを深く考えさせられた。
詳しくはネタバレに。
素晴らしかった。

ネタバレBOX

<以下、私の極めて主観的な感想です。
 解釈を必要としない作品に解釈を持ち込むのは、
 作品の意味を狭め、時に作品を愚弄することにもなりかねないですが、
 忘備録として書きます。>

ひとりの女とひとりの男。
時にすれ違い、時に交わる。
人と人との愛の関係性を2人の踊り手が見事に演じていく。
感情の豊かな女。あまり感情を表に出さない男。
この2人の個性の違いは、踊りのスタイルの問題ではない。
(ちなみに、ジャン・サスポータス氏は元ピナ・バウシュ舞踏団にいた人、森田志保氏はフラメンコ舞踊の人。)
女は感情豊かと言っても、それを情熱的な踊りとして表現する訳ではない。つねに抑制が効いている。この抑制の効いている点が、二人の踊りの共通点のようでもあった。その沈黙の豊かなこと。静かな部分や一見踊ってなどいないような部分でさえも、常に踊りの中にいる。では女の感情の豊かさとは何か。それは相手に向ける眼差しや所作などだ。それに対して男は常に無表情。その微細なやり取りが本当に素晴らしかった。その抑制が、二人が交わるところで解放され、激しい踊りとなる。それが出会いの喜びを全身で表現しているようでもあり、一人で思い上がって歓喜しているだけようでもある(相手は座っているため)。常に光に対して影が、影に対して光が見えるのがよかった。最終的には四人が交わる部分で、真の融合のようなものもあり、人の一生をふたりの男女を通して走馬燈のように見ているような感覚があった。森田志保氏の踊りでは、そんな描写は一切していないにもかかわらず、日常の家事をやっているような姿さえ、その踊りにダブって見えた(これは私の幻想だ)。もはやこれは「踊り」というカテゴリーではないのではないか。ジャン・サスポータス氏も立っているだけで、ある悲哀を帯びている。
二人の踊りは存在そのものの提示のようだった。それは踊りのようでいながら音楽のようでもある。4人で音楽を奏でていたのではないか。それは4人で踊りを踊っていたと言い換えてもいい。

即興と音楽/ダンスのことを考える。即興とは人間がそれぞれに自立した時間を生きているのかどうかということが重要なのだと思う。それは自分の殻に閉じこもり自分だけの時間を生きるのではなく、または他者や環境(流れ)にすべてを委ねて自分を無くすことでもなく、確固とした自分を持ちながら、他者と対話をしていくことなのだろう。
驚くべきことに、この4人の表現者は、スタイルの違いを越え、ジャンルの違いを越えて、そのような対話を成り立たせていた。
その点が共通していた。即興とはそういうものなのだな。

オールラストでは、女がウェディングドレスを着るような場面があった。これは結婚の暗示だろうか。それを見ながら、私は齢を重ねた2人の姿を想っていた。
本当に素晴らしかった。
スワン・ダイブ

スワン・ダイブ

カムカムミニキーナ

本多劇場(東京都)

2015/05/16 (土) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★

・・・
表面上は笑いありきのようでありながら、深いテーマが語られていて、カムカムミニキーナを初見の私にとっては、良い意味で予想を裏切られました。

ただ、どうしても私はこの作品世界に入りこめなかった。
理由はわかりません。

透明人間

透明人間

劇団唐組

花園神社(東京都)

2015/05/09 (土) ~ 2015/06/14 (日)公演終了

満足度★★★★

良かった
2006年の再演を観ていますが、その時と違った印象を作品から受けた。たぶん、時代背景が変わったことによって、私が作品から感受するものが変わったという部分が大きいように思う。その点も、とても興味深かった。

稲荷卓央さんが良かった。

ネタバレBOX

「90年代唐十郎の最高傑作」とチラシにもある通り、何度も再演されている作品。
詳細は→ http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=24127&id=9171315
私は2006年に観て衝撃を受けた。
今まで私が観た唐組の芝居で一番感銘を受けたのがこの作品だと思う。

今回観て、前回観た時とだいぶ違った印象を持った。
それは役者や演技、演出が違うという部分も勿論あるが、
その点以上に、公演される時代背景によって、作品の問いかけるものが違って見えるという部分。
そもそも唐十郎氏の戯曲は、いかようにもその作品の意味を解釈できる。物語の起承転結は明確ではなく、イメージが変幻自在に移ろいゆく。演出に於いても、作品の意味を伝達するというよりも、物語や言葉を食い破る役者の身体(特権的肉体)の提示に力点が置かれている(その点は久保井研さんの演出になっても変わらない)。
だから、私が感じた部分が意図的に強調されている訳ではない。社会状況に関心のない人ならば、私が感じた部分には少しも意識が行かなかった可能性もある。そういう観客は、私とは別の部分の問題を、自分の興味に応じて感じ・考えながら作品を見るのであって、それはそれで良いと思う。それだけ開かれた作品だということ。
私が今回の上演で一番感じたのは、この作品が中国での日本の戦争の歴史を引きずっているということ。と言っても、その解釈はうまく言葉にできない。繰り返しテーマとして出てきながらも、それがどういう意味持っているのか、何を問いかけているのかは明示されないからだ。おそらく、唐十郎氏自身でも、明確に言語化できるものでもないのかもしれない。完全な無意識だけで、これだけの戯曲がまとまる訳もなく、ある程度は意識的に描き込まれたテーマでもあるのだとも思うが、そこから先は無意識の領域。それは観客の領域に開かれる。作者の無意識は、観客の無意識と混じり合い、日本の、中国の、人間の歴史・記憶へと連結する。
観客である私は、自分がこの作品で感じたものの意味を、これからの生活の中で考えていくしかない。うまく言葉にできない。
うまく思考がまとまったら、また書くかもしれません。
中途半端な感想で、すみません。
いずれにせよ、何かを問いかけられる作品というのは素晴らしい。
満月の人よ

満月の人よ

トム・プロジェクト

あうるすぽっと(東京都)

2015/04/21 (火) ~ 2015/04/26 (日)公演終了

満足度★★★★

素直に笑った
役者さんそれぞれの演技力と、
4人の駆け引きによって生まれる空間が素晴らしかった。
特に間の取り方が絶妙で、終始笑わせてもらった。

梅津和時プチ大仕事 番外編

梅津和時プチ大仕事 番外編

KARAS

新宿PIT INN(東京都)

2015/04/12 (日) ~ 2015/04/12 (日)公演終了

満足度★★★★

人間の姿
極めて主観的な感想だが、勅使河原氏が人間の姿そのものに見えた。

ネタバレBOX

私はダンスについては詳しくない。そのため、いつも以上に主観的な感想になる(主観以外の感想なんて、あらゆる表現にない訳だが)。

梅津氏と山下氏の演奏の素晴らしさは言わずもがな。
梅津氏は音そのものが凄いと感じた。
山下氏は演奏が凄いと感じた、特にゆっくりした部分。
それは「瞬間」と「持続」との違い。
その二つの強度が絶妙に交わりながら私の胸に迫る。
その両者に、どう勅使河原氏が対峙するのかという点が見ものだった。
大きな流れとしては二人の演奏に勅使河原氏が合わせて踊っているように見えた。それはそれで鮮やかな瞬発力だとは思ったが、私個人はその点にはそれほど惹かれなかった。むしろ、時折顔を覗かせる、その音楽に乗らない、流されない、踊らされない身体が屹立する瞬間。それがとても魅力的だった。どこまで勅使河原氏が自覚的にやっているのかは不明。
それを意味に落とし込んで解釈することは芸術を愚弄する行為だとわかった上で、それでも今日は解釈したくなる。
統一地方選(前期)の日だし。
音楽は人を踊らせる。そして人は自らが踊っているのか、踊らされているのかわからなくなる。音楽に合わせて踊ることは協調であり、それは幸福な瞬間でもある。だがそれは見方を変えれば、同調でもある。踊らされずに踊ること。協調しながらも自立した旋律を奏でること。それは可能か。
梅津氏と山下氏の演奏は完璧に自立しながら協調していた。素晴らしいバランスとも言えるし、反面その点が上手く行きすぎで物足りないと思う自分もいる(私は未完成のものの方が好きなので)。その点、勅使河原氏は完全に協調している訳でも、流れに抗っている訳でもない。時に協調し、時に流され、時に目覚め自立する。とても人間らしいと思った。
いずれにせよ、これは「解釈」という愚劣な行為。
本来は踊りを踊りとして、音楽を音楽として受け取ればそれでいい。
それでも勅使河原氏の踊りが人間の姿そのもののように思えてならなかった。
追憶のアリラン【ご来場ありがとうございました!】

追憶のアリラン【ご来場ありがとうございました!】

劇団チョコレートケーキ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2015/04/09 (木) ~ 2015/04/19 (日)公演終了

満足度★★★★

優しく厳しい問いかけ
現在の社会状況に対して、素晴らしい問いを発している。

ネタバレBOX

今の政権は過去の日本の植民地支配を正当化しようとしている。
また、世相レベルでも、一時の韓流ブームが嘘のように、韓国への好感度が下がってきている。北朝鮮へのバッシングは以前から常態化している。
そのような社会状況の中で、この作品の問いかける意義は大きい。

なによりも、歴史に無関心な人、またはなんとなく偏見を持っているような人に届くように慎重に作られている。
その姿勢が本当に素晴らしい。

このようなテーマで作品を作ると、どうしても右か左のイデオロギーに偏ってしまいがちだ。それでは問いかけているようでいて、その実、観客を選び排除しているに過ぎない。そのメッセージに共感できる者は喝采し、共感できないものは軽蔑する。観る前と観た後で何も変わらない。何も届かず、何も問うことはできない。だが、この作品は違う。左・右・無関心などの立場に関係なく届く作品になっている。

ただし、個人的には少し配慮しすぎなように思えた。歴史をよく知らない、または無関心である層への配慮に加え、韓国人や北朝鮮人、在日コリアンへの配慮が加わり、とても丸くなってしまっているように思えた。間違わない、誤解を与えないとの配慮。それも言葉ひとつひとつに至る配慮。そのために、差別の根本にある醜悪なものの濃度は減り、予想を裏切るようなもの、はみ出すようなものも見受けられなかった。つまり突き刺さるようなものがなかったのだ。個人的には観終わって「よかった」と思うよりも、「胸糞悪いけど、概念を揺り動かされた」と思うような作品が見たいと思っているタイプのため、尚更そう思うのかもしれない。

とは言っても、構造の内部で身動きがとれなくなる人間の描写は素晴らしかった。戦争という極限的状況ではなくとも、私たちの日常的な生活の中でも同様の力学は常に働いている。様々な環境や条件の中でキレイゴトや信念を通すことができないということは、どんな人間でも多かれ少なかれ日々経験していることだ。そのように自分の実人生と重ねて作品を観ることができたことで、当時の人々の苦悩に少しは近づけた気がした。そう思えたということは、この作品が戦争という表面テーマを超えた普遍性を有したものだという証拠だろう。

いずれにしても、このような作品をこの社会状況に問うていることが本当に素晴らしいと思う。
ワンダーランド

ワンダーランド

Straw&Berry

王子小劇場(東京都)

2015/02/04 (水) ~ 2015/02/11 (水)公演終了

満足度★★★★

妙技
構成の妙に驚いた。

ネタバレBOX

二組のある男女とその友人たちにまつわる話。
並行して二つの物語が展開する。
登場人物たちの名は同名だが異なった漢字表記。

二つの物語は似た展開なのだが、微妙な違いがある。
まるでパラレルワールドのような。

淡々と物語は進行する。
劇的な展開のない物語なのかと気を抜いていると、後半でひっくり返される。
このひっくり返しが実に見事。

物語内で、主人公の男は駆け出しの小説家で、雑誌に小説を発表している。その小説の題名が『ワンダーランド』。この芝居のタイトルと同じ。
その発表された雑誌を劇中で友人が読む。友人は最後まで順で読み進めるのが大変なので先にエピローグを読むことにする。最終章よりも前にエピローグを。その伏線があり、この劇自体も、エピローグが先に語られる。それは、登場人物の出てこない。情報だけのもの。一方は留守電に残された母?の言葉で、もう一方はテレビから流れてくる報道。
それまでの展開から、グダグダな方が悲劇へと至り、うまく行っている方がハッピーエンドとなったのだろうと予想する。
で、最終章がラストに来て、すべての謎解き。グダグダな方はずっと何かに苛まれ続けている。その痛みがどこから来ているのかは具体的には明かされないものの、過去に殺人事件を犯していたというような情報がちょっとだけ出される。その過去に苛まれ続けているのか、それともあらゆる事象に絶望いたからこそ事件を犯し、今もその中にいるのかはわからない。いずれにしても、苦しみ続けている。そして自殺をしようとするも、死ねない。そんな男を女は全てわかった上で優しく包み込む。そして男は女に結婚し、子供を作ろうという。(彼女と付き合ってからもインポテンツで立たなかったのだ。それは、安易に解釈すれば、子孫という未来に対する希望が失われているということのメタファーかもしれない。それが未来を志向できるようになったという。)一方、うまく行っているように見えた男は、女を殺めてしまう。こちらも結婚の約束をしていたのに。
共に理由は語られない。だらか想像するしかない。
この二組の関係は、一方が光で、一方が影。ポジとネガの関係のようにも映る。つまり、一見光の中にいるように見える側の闇が実は深く、闇の中にいる側にも光がある。または、光の中では闇は見えづらく、闇の中でこそ光の輝きが理解できるのだと。
まぁ、そんな解釈は作品の意味を矮小化しているだけかもしれない。
多様な解釈や想像を観客に想起させる仕掛けとして、劇的な結末に至る過程をすべて空白にしたところが、何よりも素晴らしい。
それも物語構成の順序を入れ替えることで、その空白を創り出していると共に、二つの物語はお互いの中で出てくる小説『ワンダーランド』を演じている劇中劇であるかのようにも見せている。その点も秀逸だった。どちらがどちらの劇中劇とも規定できないメビウスの輪のような仕掛け。凄い。

河西裕介氏の物語構成の妙に驚いた。

おまけ演劇も安定の高クオリティ。

<※2015.2.28 追記>
未読のため気づかなかったが、
村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』もパラレルに進行する物語のようだ。「ワンダーランド」はそこにもかかっているのだろう。

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