実演鑑賞
満足度★★★★
舞台美術は極めてシンプル。ホリゾントに衝立を設け場面によってその中央部分を開閉することができる。閉まっている時は、袖を形成することになる仕掛けだ。出捌けは袖両側とセンターの3か所。板中央に横長のテーブル。奥に椅子2脚、手前にベンチ。尺125分。こなれた演技だ。華4つ☆(追記8.2 )
ネタバレBOX
2人の役者が十二役を演じるのは脚本自体がそのように組み立てられた作品だからであり、役者の技量、早変りの際の手際など役者のテクニックを観客に見せるタイプの芝居がコンセプトだと感じたが、であれば主要な要素であるタップダンスシーンでは、キチンとタップを刻んで欲しかった。タップの基礎を何度スローモーに繰り返してもタップダンスの切れの良いリズミカルな高揚を観客は味わうことが出来ない。利賀村の演劇フェスにも参加しているらしいから実力派なのだろう。それはこなれた演技からも充分分かるが、であれば猶更キチンとタップダンスを見せて欲しかった。率直な感想である。
物語は銀行支店長を勤める父が偶々駅でカズオという男を拾い家へ連れてきた。カズオは息子の家庭教師となりいつしかその母と男と女の関係を持つようになった。母はカズオに入れ挙げて様々なブランド品を貢ぐようになり父が家庭の資産管理をもして居た為、母は貢物を買う金をサラ金から借りていた。その額総額300万円。この件に気付いた息子は狂言詐欺を思いつき、自分は誘拐されたことにして身代金を要求するが、上手く行かなかった。そこでモデルガンを買い込み、友人と父の務める銀行を襲う。無論強盗する為である。然し12歳のガキ2人の稚拙な犯行、忽ち取り押さえられてしまった。父は銀行を止めタップダンサーになった。その顛末が描かれたのが今作という訳である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
イヨネスコの「授業」は世界中で未だに再演され続けている不条理劇の傑作。今回ゆらじしゃくの演出を担ったのは劇団主宰者でもある高野さん。イヨネスコの脚本に内在しているフロイトの深層心理解析的視座からより、現在の我々の生活により密着した視座からの演出が為されている。(追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 最高レベルの朗読劇。脚本、演出、物語展開の機序、役者陣の実力、舞台美術、照明、音響も見事であり、各々が上手く噛み合って楽しめる。華5つ☆。尺は約90分。
ネタバレBOX
開演前には何と憂歌団の曲が流れていた。大好きなバンドなのでいきなり引き込まれる。それにしても何とセンスの良い曲たちであることか! 釜でしか生まれなかった本物のブルース。流石に音響も劇場用とあって細部の音までクリアに拾っており、自分の部屋で聴く安物の音響装置では味わえない音色だ。先ずこれにイカレタ!
明転するとこの鰻の根床のように細長い空間を、演者に京都ゆかりの方がいらした所為かとても上手に用いていることに感心させられた。舞台美術はホリゾントに衝立を設けて袖を拵え、上演中には溜まりとして用いつつ、出捌けに使われる。床几形式の椅子は格子になっておりベンチ式に用いたり、片側の足を床に立てて用いたり、予め設置してある木柱二本の各々と組み合わせて全く別の構造物を作り出したりと千変万化。天板の丸い椅子三脚も各々高低差があって朗読する演者が座ると声の位地が自ずと変わり微妙な声音の発生源の位地がずれて極めてポリフォニックに響く。劇場長辺側には行燈に見立てることのできる朧な照明が灯っているが作品に応じて総ての小道具のレイアウトは適宜変化する。
この際のセンス、場転のスピード等も見事だ。また噺の内容によって擬音効果を巧みに用い臨場感を盛り上げるのも、ハッシと叩いて噺を進める手際も見事、祭囃子で音響を用いる以外、殆どは演者自らが小道具を用いてこなす。用いられる器具は按摩の用いる女笛からチベット仏教の仏具、波音を発生させる道具等々多用であり、実に効果的に用いられる。
構成も巧みでかつては良く行われたという怪しげな者達の登場する百物語のような作品群から選ばれた短編数編及び劇仕立ての世話物長編二編。演者は何れも芸達者、声量も適宜で間の取り方が見事なので演じられる個々の作品総てに命が宿り極めてヴィヴィッドに迫ってくる。最高レベルの朗読作品群である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 迫真の一人芝居だ。力量のある役者にしかできない。追記した7.8 8時39分
ネタバレBOX
言うまでも無い。太宰治の作品である。演者は中瀬古 健氏、一人芝居だ。演出は望月六郎さん。観客席正面に設えられた板は高座仕立ての台。この奥に流し。上手が出捌けのドア。シーンによって台上に机の機能を果たす小道具が置かれ、講談の高座のように時折、机を叩きながら演じられるが、このシーン以外で机状小道具は床に置かれて邪魔にならない。下手側壁には台詞の一部であろうか? 何ごとか書きつけられた紙片が数枚貼られている。作品内容は極めて重い。というのも太宰がその作品を書き、発表した時期を振り返ってみると日本が絶えず戦争をしていた時代と敗戦後のごく僅かの時代、最も激しい混乱困難の時期である。今作は、キリストとユダの関係を描いた作品であるが、このユダの屈折は、戦時中に共産党シンパとして活動し関連雑誌を広く買い集めては人々に配布したりもしていた太宰が、言ってみればマルクスの基本的には人間理性を信用し、その上で未来に賭けた共産主義の理想に共鳴して特高の監視が常識であった時代に反体制の運動に関与し、後それを「裏切る」形になった自らの在り様に心底震え戦き悩殺されたであろう原体験を基に書かれた作品と解釈することが可能であると考える。太宰に関しては道化の意識などということが良く言われることは承知している。然し道化は道化でも「リア王」に登場する道化の台詞の刺さること、刺さること。この台詞が太宰のような弱そうで強靭な神経を苛んでいたとしたら? それこそが、今作の肝だとしたら? 華があり、一挙手一投足の隅々まで気の充溢した役者・中瀬古 健氏ならではの迫真の舞台である。
こう述べただけでは分かり難いと思う読者も居るであろう。補足しておこう。太宰が己の苦悩を重ねてユダを描いたのであるとすれば、それはどのようなレベルに於いてであろう? 自分は以下のように考えたのだ。それはアイデンティティーとアイデンティファイの間にある落差に蜷局を巻いている矛盾に在るのだと。即ち共産主義思想に賭けようとし、幻滅して離れた己の思想行為は己の内面に於いては納得し得る論理的帰結であったものの、世間的には非合法だったと考えられるマルクス主義関連雑誌等を購入して配布したりしていた訳だから、受け取った者が感化され非合法であったであろうマルクス主義的思想に染まっていったとすれば現実的に逮捕・拘禁・拷問を含めた自白強要等々の処分を受けることが容易に想像できる。その思想を選んだのは個々人であるにせよ、そのきっかけを作ってしまった事実は消せないから人々から恨みを買い、論理的必然としてアイデンティファイはし得ないということになる。このアイデンティティーそのものに纏わる二層構造の間の矛盾を賢明な太宰は極めて深く、而も良く判っていた。その塗炭の苦しみを中瀬古 健氏はその一挙手一投足を演じる際の強弱や間、キリストを演じる際のどこかしなやかで地底に於いてもほの明るさを見せるような雰囲気を纏って演じることで決してブラックではないユダ、而も同時に影のように拠り所の無い朧であるが故に果てしの無い苦悩という酷い苦悩に苛まれる者の底無しの深さをも体現して見せていたのである。
当然の事ながら今作には明確な回答等無い。掛かるが故にユダの訴えが有効性を
持ち得て居るのであり、文学として残り続けているのである。それが意味する処を現在日本で身体化したことの意味は大きい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
本日はsideAを拝見。面白い。ベシミル! (追記7.8 9時44分)
ネタバレBOX
さて、今作のテーマはidentityである。ではアイデンティティーとは何か? 即答できる人はそう多くあるまいから、一応自分が考えるその定義らしきものを記しておく。アイデンティティーとは即ち、或る個人が己の内的世界に於ける存在の意義を自己矛盾無く措定し得る状態である。と同時にニンゲンという存在は漢字で書くと人 間。これはヒトという生き物が他者との関り無しに生きて行けない生き物であり、生きてこれなかった生き物であるという人間個々の他者との関係を必須とした存在形態を現していると解釈することが出来る。換言すれば、先に述べた通り己自身の内部での矛盾無き統一が、その個人と関係する社会と矢張り矛盾なく統合され遅滞矛盾なく機能し合うことである。これが為される状態がアイデンティファイされた状態だと考える。従ってアイデンティティーという言葉が日本で用いられる場合、人間存在に不可分の社会的関係を含む二層構造の矛盾無き統合を含む概念と捉えるということだ。
板上レイアウトはsideBとほぼ同様、無論話の内容は異なる。時期設定は近未来。社会はエリート層と下層民社会に完全に分断され下層民は差別され権利もへったくれも無い有様。大学を出ていようが様々な資格試験に通っていようがそれが既に時代遅れの技術であれば雇用サイドから顧慮されることは一切ない。当然仕事にも就けない。正社員になれる訳もなく派遣等でも職にありつけば良い方である。そんな時代、大学を出て正社員として就職、懸命に働いたものの首を切られたまゆみが、この得体の知れないエリアに吸い寄せられるようにやって来た。電話機の取り外された電話ボックスから何者かが話し掛けてくる。それは彼女の痛い処を突く言葉の群れであった。それは彼女の仕事に対する上司即ち社会の評価であった訳だ。当然、彼女は面白くない。オープニングで凡そこれだけの情報が与えられる。そして次々に他の人々が寄ってくる。その各々がこの場所に吸い寄せられたかのようにも、惑星直列が在る確率で必ず起こるように何か或いは誰かに吸い寄せられるかのようでもある。集まった者達は三種類の存在だ。一つ目はエリート層、二つ目は下層民、そして三つ目はバグともいえるゾミア的存在。
因みに此処に関わる登場者はエリートとしてのAI(はぐれ者を含む)、普通の人間、そしてデータの無いコンピュータ上ではバグとして認知されるであろう、非存在的存在。これら三つの要素が矛盾なく同時に同空間に存在する必然性を探り回答を得ることが今作で為されていることである。既に惑星直列の件である確率でそれが必然であることは説いた。その謎が明かされてゆくのである。近未来、人間の開発したAIが人間の能力を凌駕しヒトをその支配下に置くという懸念はITを用いていることが当たり前となった昨今誰もが抱えている漠然たる不安である。今作で登場するAIたちもヒトとそっくりの姿形はしているが情報に基づいて作成されたイマージュに過ぎない。(そのイマージュを演劇だから本物の人間が演じているだけである)その実際にはイマージュに過ぎないが世界を統御するエリートとして機能している「存在」と実際の人間即ち下層民、そして不確定要素を表すゾミア的人間(データ無し)が一堂に会する必然性とそのことをエリート層が気にかけて介在してくる理由とは何か? が今作の面白さである。答えは分岐点だ。その分岐点で最上の登場者の誰かが最上機種AIであることが判明するが、全能のそのAIがニンゲンに対しどのように振舞うか? がこの全能の絶対者の判断に委ねられる。してその判断の結果は? 愚かな欲望の為に愚行を繰り返してき、人類などと呼称するには大きな矛盾を感じざるを得ない人類にどのように振舞うのか? 滅亡? 或いは? その結論を出すに至った全能の存在の内実は? 今作では敢えてその解答を表現していないが、観た者には明白であるように思われた。
実演鑑賞
満足度★★★★★
演出をも担当の森下さん、共演の室田さんお二人が一所懸命に作品と格闘して練り上げた秀作、ベシミル! (追記7.7 17時11分)
ネタバレBOX
舞台美術は極めて洗練されたお洒落なもの。板が客席に”」“状に囲まれていることは周知の通りだが‟」”の対面の出捌けのある辺をAとし時計回りにB,C,DとするとA辺の手前に流し、流しの下にバケツ、その手前に塵箱、壁に沿って右側にはタオル、バスタオル、場面によって毛布等布製品が置かれた三段の棚、更に右側の壁手前には、デッキブラシ、箒、はたき、モップ等の清掃道具がキチンと収納され立て掛けてある。B辺の手前、C辺寄りの壁には茶系の色をしたベンチ(上蓋が開閉式になっており、場面によって小道具を出し入れできるようになっている)。板中央には船型の浴槽、当然その脇には蛇口が設けられており、湯水ケアの為のマットが敷かれている。また。C/D辺のコーナー。D/A辺のコーナーには丸い天板の木製椅子が一脚ずつ置かれている他、D辺の端客席の段には手摺の付いた階段があり、二人の収容者が一日のうち最も自由に行動できる掃除時間に掃除をする対象になっているエリアがある。因みに壁面の模様は下部に蒼穹を思わせるブルー、上部はタイル張りを模し空に浮かぶ自由自在に姿を変える雲を想起させる白。而も各升目は小道具の出し入れができるように開閉式になっており、出し入れの際には暖色系の色が付く。ここから取り出される小道具にはウィッグ、水泳に用いるゴーグルや帽子、シャボン玉を作る為の液体の入ったコップにストロー、ペルセポネーがドーラに贈ったプレゼントの撹拌機等の小道具が取り出され収納される。因みに下段の壁からも泳ぎの補助浮き輪に見立てたフラフープが出し入れできる細工が施されている念の入れようで、極めてセンスの良い、而も繊細で1924年当時の英国で実際にあった触法的精神病患者として収容された良家の子女であった被収容者の、現在の常識では考えられない半世紀に跨る理不尽極まる拘束という有様を可視化した。{実際の収容所は昏く陰湿であったであろうと想像される現実とは裏腹に異常とされた収容原因ペルセポネー(ポルフ)及びドーラ(ドルフ)のケースが描かれる。}ペルセポネーは妻帯者と恋に落ちて子を産み社会的不適合者としてこの収容施設に送り込まれた。ドーラは葉巻を嗜み、過度に男性的態度を取ったことが触法とされ今作の物語が始まる2年前の1922年から収容されている。因みにペルセポネーはドリス・デイの大ファン、ドーラは読書好きであり軍隊についても詳しい為、ペルセポネーの入所以来、先に入隊し階級も上の古参兵が後身に指導するという形で人間関係を形成してゆくが、触法精神病患者として収容される人々には女性が多かった。理由の一つに女性でありながら賢明であることなどが理由になった。このような歴史的背景を鑑み白いタイルの一部に触法的精神異常とされた人々の守護聖女・ディエンプナの肖像が飾られている。(今作で物語られた内容では、彼女は父にレイプされた結果子を孕み而も出産した子を実父に殺され自殺した女性であるとのこと。自分の記憶に間違いが無ければ10世紀頃に実在した人物であるという)
ところで、自分はあらゆる芸術作品は解釈によってしか延命し得ないと考えている。今作の舞台美術も演出をも担当した森下 知香さんと共演の室田 百恵さんお二人の作品に係る長く真摯な討論を踏まえて“実際に精神を病んでいた訳でも無い二人の女性が上流社会で社会的恥と見做されていた価値観に抵触したというだけの理由で体面を守るという利害関係のみから娘を精神異常者と見做し収容施設に強制的に送り込んだ親や親族たちの「狂気」をこそ断罪した作品である”と人間として考え、作品の深い社会的闇(ジェンダー、宗教、習慣、世間体、常識及び精神異常というレッテル貼りによる強制排除の実態と被収容者達の拘禁故の様々な症状発生等々の被害者独自の精神的変異や、その時々での彼女らの内面を表象する重要アイテムの一つとして、このように実にキチンと整理整頓され、而も子供たちがウキウキして外で遊びだしたくなるような晴天と紺碧の海そこに浮かぶ白い雲をベースにしたような壁面の色彩。水辺に出、それこそ宇宙遊泳にも似た水泳感覚を、より宇宙遊泳に近いであろうエアスイミングで実現させていた、ペルセポネー、ドーラ二人に代表させた触法的精神異常者とされた多くの人々を文化的にもサポートする為に敢えてこのように明るく繊細で気持ちの晴れる美術にしたと解釈できるとする次第だ。
脚本と一所懸命に格闘したればこその、この爽やかさが選ばれていようが、この爽やかさを壊さぬように而も社会そのものの異常性即ち「狂気」を炙り出すことに成功した二人の女優(演出も担当した森下 知香さんと室田 百恵さんお二人の演技も称えたい)も今作の魅力である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
sideB-existence-を拝見。T1projectらしい心に響く作品。ネタバレは全開にはしていない。観劇の興が醒めかねないからである。終演後に追記する。
ネタバレBOX
板中央よりやや下手に電話ボックスらしき物があるが、電話機は見えない。このオブジェ奥に大きな衝立。衝立の端迄が袖となり、出捌けはこの1か所衝立の手前にはビールラックのような物が3個(うち2個は重ねてあり、その横にもう1個が置かれている)、下手側壁奥にはエアコンの室外機の機能部分を取り外した物が2段重ねにしたビールラックを挟むように置かれている。上手ホリゾントの手前にも矢張り下手の物と同様にエアコン室外機の樹脂製枠が置かれ地面に接する辺りには申し訳程度の緑が見える。上手側壁近くには四角いオブジェからにゅっと棒が斜めに突き出したような物がある。また上手客席の縁には土嚢のような物が置かれている。
開演前には、都会の喧騒音が流れている。オープニングと同時に電車の通過音、続いて激しい衝撃音が木霊する。
と男が独り現れ、意味不明な独り言を呟きだす。何故か混乱し、苛立っている模様。男には何かが聞こえているらしいが、幻聴であるのかも知れない。かなり長い独り言の内容からは、男が婚約者に訳も説明されぬまま絶縁を迫られたらしいことが分かる、男には婚約者が総てであった。そこへ別の男が現れる。新たに現れた男は、極めて理屈っぽく独り言を呟いていた男が幻聴を聴き、妄想に混乱しているのではないか? との疑義を提示した為追っ払われてしまった。その後、この場所には次々に様々な人物が流れ込んでくる。奇妙なことに後で流れ込んで来た人物たちからは、同じ地下鉄に乗っていた人だという既視感が告げられる。何故、人々は此処へ来たのか? ここは何処でどんな場所なのか? 等は当初一切分からない。そのうち最初の男が聴いていたのは明らかに幻聴ではなく、電話機の取り外された電話ボックスから着信音が聴こえ、実際に対話者が居るらしいことが、徐々に分かってくる。何となれば後でやって来た人々、一人、一人に対しても電話が掛かってきたからである。個々の発信者は各々の最も大切な人であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル!
ネタバレBOX
Musicalは基本的に余り好みではない。何となれば大抵戯曲の内容が余りにも単純化されてしまい、内容的に深みを欠くケースが多いからである。脚本重視の自分はこれが原因で好みではないのだ。然し、今作は例外であった。曲想、歌詞、生演奏が物語の内容に見事に調和し恰も演劇そのものに溶け込んで融和しているかのようであったからである。演劇の醍醐味と音楽の素晴らしさが相互に高め合うような効果を生み出していた。戯曲自体の良さも無論のこと、役者陣の演技も何れ劣らぬ良い出来である。
舞台は、小さなホールだから余計な装飾は一切ない。位置と高さの異なる板をその1枚、1枚が踊り場となるような塩梅で配置されている。それだけであるのが良い。客席は“」”の形で組まれコーナー部分が通路になっている。場面によっては役者の通路ともなる。
登場する演者は都合6名。長男・堅一(東京で勤め人をしているが、母の治療弟の面倒見などで有給休暇を取って帰省中)、香子(母、堅一が大学に入学して東京で暮らすようになって以来精神を病み統合失調症を患っているが、薬を飲むことを拒否しがち。理由は家族を守る為の通信が聞こえなくなるから)真紀(偶々、夕陽の綺麗な場所で母が消え入りそうな様子の真紀を見付け連れ帰った元ホステス、アルコール依存症で息子が1人居るが離婚した夫に子供の親権を奪われた。原因はアルコール依存による育児放棄)次男・智哉(既に体は大きくなって大人並みだが知的障害を持ち知能の発達は小学校1年生程度。言い出したら聞かない、アニメのヒーロー・ジャスティスが大好き)、お手伝い・登紀子(通いのお手伝いさん、極めて有能で気が利く。長い間この家に務めていることとてきぱきと仕事をこなし而も人情の機微を良く弁え母の悩みの受け皿、弟の遊び相手やだ駄々を捏ねた時の調整役すら最も見事にこなす賢婦人。こんな人なので家族全員から信頼され家族同様の扱いを受けている)Voice(母が薬を飲んでいない時、その妄想の具現化を表象する存在、夢幻能の片鱗を感じさせるようなキャラであり、母の幻聴とその苦悩の深さ、異様性をも表現するように見える)
さて、物語の粗筋をざっと記しておくと、真紀の居候している大きな家は地域の資産家のお嬢様であった香子の持ち家、夫は香子と智哉2人の世話に疲れ果て堅一を呼び戻す為に「お前のせいで母はこうなった、面倒を見ろ」と連絡した後、失踪。行方不明である。真紀自身は努めて明るく振る舞い、智哉のお気に入りにもなったが、近いうちに5歳になる我が子のことがずっと気掛かりである。因みに息子を連れ去られて半年、自分が病院に搬送されたのは4歳になっていた息子が隣家に連絡をして救急車を呼んでくれたからであった。アルコールを断ち、現在も飲みたい強い欲求に何とか抗っていられるのも息子を思えばこそである。一方堅一は、こんな真紀に心を惹かれている。然し現実問題として薬を飲むことを隙あればスルーする母、スルーすれば幻覚症状に襲われることが分かり切っているにも関わらず油断すればいつ何時スルーするか知れない母と知恵遅れの弟を抱え、家族同然のお手伝いさんを解雇することも憚られる中、経済的合理性からもこの屋敷を売り、自分も東京の勤め先に戻って母と弟も東京で施設に入れることが最適ではないか? との考えにも中々最終決断が下せない。余りにも優しい性格なのだ。そんなこんなで家族全員と居候1人が全員、悩みに打ち沈む中、唯1人日常生活目線で合理性を発揮し先導役を務めるのがお手伝いの登紀子である。今作の成功要因は、この人間関係のバランスにあると同時に登場する人物総てが全き善人であることだ。Voiceは謂わば影の存在なので当然物語レベルでのリアルには含まれずその影を含めた全体の雰囲気をフォローしていると考えて良かろう。
以上に挙げた今作の特徴を用いて何が為され、何が為されなかったかについて検討してみることにする。為されたことは、どの存在も他の存在を浸食しない点にある。即ち完全にヒトとして同等なのである。為されなかったこととは、優生保護法に在った本質、即ち有益・無益、有用・無用といった区別を根拠にした差別が一切無いことだ。現実にはあり得ないかも知れないこのことこそ、今作を優れた作品足らしめた要因であろう。各々の思いが全編を満たし現実には在り得ないユートピアを実現してみせた。これもまた芸術表現の力である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今作、基本的にリーディング公演の形式を採る。
ネタバレBOX
さもありなん、兎に角複雑で輻輳的なウクライナの歴史をオーストリア・ハンガリー帝国に支配された時代から紐解いてゆくのだから、その歴史的経緯を既に学んでいなければ理解するだけでも大変なのである。当然通常の公演のように演じていたのでは舞台美術だけでも予算的にも空間的にも完全に破綻してしまうであろうから、今公演がリーディング形式を採ったのは極めてまっとうな判断だ。それにしてもこれだけの内容を150分強の時間を掛けて演じ、途中休憩無しというのは体力的にも可成りキツイ。
板上は奥にスロープを設え、手前はフラット。客席側に台を設けてあるがこれが遠近を示す際とても上手に用いられて印象的である。
今作のタイトル中に在る『地の塩』は、ポーランドのノーベル文学賞候補作家でもあったユゼフ・ヴィトリンが1935年に発表した未完小説のタイトルであるが、ウクライナで出版された翻訳書はロシア語版のみであった。因みに『海の根』は『地の塩』をポーランド語原書からウクライナ語に翻訳しようとし実際翻訳中の男が黒海に面するクリミヤの地からロシアによって拉致され養子縁組などの候補とされ、ロシア人になるよう洗脳教育を受けていると懸念される息子を思い、ウクライナ独自のアイデンティティーと主体性を確立し独立独歩で歩んで行く根拠となるような内容の小説を書く決意をし、実際に準備を整え書き始めている小説のタイトルである。因みに『地の塩』の翻訳には途中から妻も関わってくる。そして、ほぼ2年ぶりに息子と会う機会が訪れた際会えたのは父のみであった。母は息子を気遣う余り精神を病んでしまったからである。
ところでウクライナは世界の穀倉地帯として知られその収穫量、品質の高さから現在まで世界各国に輸出されてきた。プーチンが新たな侵略を大々的に始める迄は。ざっと歴史を振り返るだけでもオーストリア・ハンガリー帝国の時代、クリミヤを帝政ロシアがオスマン帝国から分捕り自国領と主張した時代、ソ連の支配下に置かれた時代、フルシチョフの特命によりウクライナ領となった時代等の歴史を踏まえ、例え大本(政治支配の)がウクライナ以外に在ろうともウクライナ在のものはウクライナ独自の生に根付き、生きるとの発想でアイデンティファイしようとする。こういった思考をベースに拉致された子の父が書こうとしている小説のタイトルとして選ばれた名称が『海の根』であり、それは本体が離れた場所に根を張り育っていても離れた場所にもその根を伸ばしそこでも息づいている植物の根を、また民族としてのルーツをも意味していると捉えることができる発想から掴み取られた。
さて、今作では直接触れられていないものの、農業に携わる農民の特性とは何だろうという問いを立ててみた。天候に左右されるのが農業の基本的条件であるから、観測技術が発達し天気予報の的中率が高くなり信じられるようになるまでは基本的に農業従事者による観天望気が基本になっていたハズである。また農地は農業生産物総ての母体ともいうべきものであるからその土壌は農業生産物にとって地味豊かな物でなければならない。また、受粉や病害虫関連の知識と栽培植物との多様な関係についても深く正しい知識が必要不可欠である。更に種まきや収穫に際しては機械化されるまでは多くの人手を必要としたから農民同士の人的関係は共同作業が能う限りスムースに実行できるようでなければならない。こういった様々な手間暇が懸かる生き方をする以上、軍事等に専門的に関わる時間は乏しいというのが現実であろう。そしてこのような生活実態が農民のアイデンティティーを基礎づけているとするならば、海の根の発想は立派にこのアイデンティティーの上に成立すると考えて良い。実際、ウクライナの穀倉地帯の土の色は黒色であるという。日本でも山陰地方の一部にクロボクと言われる土が堆積している一帯があり、高級農作物の一大産地である。
実際に演じられる物語の舞台は、『地の塩』では、片腕に障害のある主人公ピョートル・ニェヴァドムスキが鉄道駅舎での雑務要員から応召されて兵士となり従軍してからの話、歳の離れた孤児の娘との内縁関係等が演じられる。因みに『地の塩』初演となった2022年大阪城野音公演では、稽古場がK大S講堂であったこと。この講堂は1937年皇太子誕生(現上皇)を記念して帝大構内に建てられたが1960年代若者造反の時代から反体制イベントのメッカともなり、現在迄K大学生による自主運営が為されている。何はともあれ今作日本上演に関わっていた役者たちがウクライナを旅した際に『地の塩』をウクライナ語に翻訳しようとしていた男と妻に出会い同じ表現する者同士として様々な話をするようになった訳だ。
クリミヤが中心になるのは、『海の根』を書こうとしている男がクリミヤ在住で、日本から訪れている人物たちと交友し現在のロシアとの関係の中で話が進むという今作の二つの柱のうちの一つを為しているからである。凄い作品であるのだが、観るのに体力、気力のみならず健康を要する。出来れば事前にウクライナの歴史書を読んでおいた方が良かろう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 演劇と映画の方法上の差異を見事にクリアしている! (追記20:59アップ)
いつも通りきめ細かな創りだが、モギリを終えて劇場入口へ至る階段脇の壁にも映画のポスター等が貼られ映画館の雰囲気を醸し出している。劇場へ入ると映画に纏わる様々な音響が英語で流れている。今回の舞台美術で最も驚かされたのが下手に奈落から上がってくる階段が設えられていたことだ。この劇小劇場にも数十回以上通っているがこのような使い方は初めて見た! 因みに奈落からの階段を上がるとホリゾントの手前に映画館モギリの机と椅子。ホリゾントには往年の話題作のポスターが貼られ上手ホリゾント前では売店の女子販売員が、何やらもぐもぐ食べている。この売店正面にもサイズの小さなポスターが貼られる念の入りようだ。上手側壁に緋のクロスが床まで垂れているが、これが映画観賞室への入り口、その観客席側に階段が設けられているが壁にstaff onlyの張り紙。映写室への通路である。奈落から映画館へ入る入口の階段脇には手摺が設けられその前に椅子が二脚並んでいる。尺は約80分。濃密に時間を過ごせる。
ネタバレBOX
さて今作、芝居で映画に魅入られ映画を友として生きる人々個々の拘りや各々の人生経験を背景にした世界との向き合い方、近くに高速道路が通ることでショッピングモール計画が持ち上がりディヴェロッパーと称する地上げ屋が、ショッピングモール計画の臍とも言える一等地に在るこの映画館の土地所有権を巡って暗躍する物語でもあり提起されるオイシイそうな話にどう対応するか? との緊張感を交えつつ仏ヌーベルバーグの影響を受けアメリカで始まったニューシネマ運動、その1960年代世界中で巻き起こっていた造反有理に集約される若者反乱等を経験してきた常連客、その後継者と見込まれた女子高生、映画館に隣接するストリップ小屋の踊り子等々と登場する男性陣との恋や思い掛けない社会的関係を巧みに織り込みつつ、演劇という表現方法で映画という表現の持つ魅力を描いた作品と言える。非常に上手いと思うのは、映画のシーンは一切用いられていないことだ。これには訳があろう。演劇の特性は観客の目の前で役者が生身でそのパッション、主張、高揚・哀感から絶望迄人生に起こる総てを直に観客に伝えることが基本だ。それに対して映画は俳優たちの演技をカメラアイを通じて観つつ撮影し出来上がったフィルムを編集して、今度は映写機に掛けてスクリーンに映し出すという幾重もの工程を経て漸く観客に届くから各工程に於いて失われるものが在る。これが生の役者の持っていた演劇表現の迫力、インパクトの多くである。演劇上演の央に、各工程を経る毎に生の迫力を失ってしまう実際の映画のワンシーンでも用いられていたら、演劇で映画の持つ魅力やそれに魅入られた観客を描き関係者の意気地の意味する処迄を描くことで映画独自の魅了をそこはかとなく描こうとする今作の魅力を喪ってしまう。今作はワヤになってしまっていただろう。それを避ける恐らく唯一効果的な方法、それが観客の想像力に訴えることだとしたら・・・。筆者の謂いたいことは自ずと読者にも伝わるであろう。ラストシーンがじ~んと来るのは売店の女子従業員が相変わらずもぐもぐ食べ続け、館長は今迄同様何の変哲もないかの如く余りにも普通にしている。当にこれらのことが、チェーホフがその傑作群で拘ってみせたテーマの一つである、生きること、生き続けることのリアルだ。そしてこの拘りへの結果が、チェーホフ作品群の残照の如く、映画に魅入られ映画を友とする総ての人々、そして同じく役者の演技で成り立っている演劇の魅力に魅入られ、演劇を友とする人々総てに対するオマージュをも示唆しているということが言えよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い。脚本・演出を担ったのは主宰の一角 龍太郎氏、若いのに良くこれだけのシナリオを書いた。スタッフの対応、キャスト表の載っているパンフの表面の写真センスもグー。
ネタバレBOX
登場する人物(折尾マサミチ)のモデルは案外中平 卓馬かも知れない。中平 卓馬はラディカリズムを追求した写真家として著名であるが精神を病み長い間病院で過ごした。退院はしたものの2015年に惜しくも亡くなっている。
今作に登場する写真家・折尾 マサミチは、“終わる瞬間にこそ輝く”と考えその瞬間を写し撮ることに執念を燃やす天才的写真家、一方、写真をベースにプロダクションを営み気鋭の若手と注目される館山 タツヤはコマーシャルベースに重点を置き、アイドル系女優や注目度の高くなりそうな人物を積極的に撮り業界団体や関連企業にも積極的に働き掛けるカメラマン。
真反対の態度を写真表現の意味する処と捉える両者は、大学の同級生。而も同じサークルに所属していた。また今作に登場する怪しげなバーのマスターは矢張り同じ大学で同じサークルに所属しで部長を務めていたが中退したバニー。メインテーマは芸術至上主義と写真も他者との関りをより良くする為のツールに過ぎないとして人々が求めているとされるタイプの写真を撮り続けヒットさせることを目指すコマーシャリズム。館山の経営するプロダクションが、最も力を入れて押しているのがモデルや女優をこなす桂木ユキであった。彼女は両親を早くに失くし弟のハルトを大学に進学させる為女優として大成する為の夢を一時期犠牲にして働き再度復活したという経歴を持ち現在は弟と同居している。そんな彼女は自分という存在が何処まで人々に注目され支持されているのかを知りたいという欲求を抱えていた。原因は彼女の年齢にもあった。アイドルとしては最終段階、女優として国を代表するような名女優と言われるには知名度が未だイマイチとの不安を抱えていたことがある。そこで彼女が実行に移すことに決めたのは半年後に自死することであった。計画を実施する為、彼女は半年間の自分の写真を撮って貰う為折尾に撮影を頼む。コーディネイトしたのは、折尾の大ファン・但野エイジ。これまでも折尾の事務所を散々サポートしてきた人物である。ユキは自分のメイクを担当していた塩田ミナミが弟のハルトと結婚したのを機に同居していた部屋を出たので、そこに折尾を住まわせ撮影してもらうということで話がまとまった。折尾は写真を撮ることにしか興味が無い為、男女の仲を心配する必要もない。
ほぼ同じ頃バニーの経営するバーにリストラで新聞記者を首になり、女房子供にも逃げられた森川リョウヘイがやって来て、馴染みとなっていたのだが、彼は偶然ネタになりそうな話題を拾った。そして現在はネットで時々記事をアップしているのも利用してユキのスキャンダルを疑い脅迫めいたことを企てる。こうして月日は過ぎてゆくが、実際に森川が脅迫に及んだ時、関係者一同も集まる中で姉の自死に対して一見それを看過するかのように見える態度を難じてきた館山に対して、弟は、表面だけ観ての批判がどれだけ浅薄なものかを悟らせて論破すると共に脅迫してきた森川に対し、“発表するなら発表するが良い、但し姉が自死した責任をあなたが負うことになる”との趣旨を告げる。これには森川が折れた。結果、ユキの自死計画は着々と進み、遂に当日を迎えた。然しどんでん返しが起こる。どんなどんでん返しかは観てのお楽しみだ!
実演鑑賞
満足度★★★★★
舞台美術も、脚本、演出、演技、照明、音響何れをとっても高い質を持った舞台だが、余りにもカッチリ組み立て過ぎず、適度な“あそび”を持たせた舞台である点がグー。
ネタバレBOX
言って見れば「Le Pèse-nerfs」邦題「神経の秤」を書いて最後は精神病棟で息絶えたA.ARTAUDのような、腺病質な迄に繊細な感性を持った無頼派作家を代表する太宰(役名・豊臣)と安吾(役名・塚口)、二人をモデルとした作家を中心に同じく作家業を営む二人の友人文士(役名・谷)、編集者等が出入りする塚口の家を舞台に物語は展開する。時代設定は1948年。敗戦後の1946年には戦中の配給制度が崩れた為、食糧を始めとする必要不可欠な物資が都市部では殊に入手困難という事情があった。とはいえ、かつての臣民は国民と名が変わり、アメリカを中心とした占領軍の価値観に合わせて戦争中に奉じた自らの価値観、行動には蓋をして懸命に生きることを口実にシレっとしていた大多数の大人たちが自らの倫理感を自問することは実に稀であった。それらに反抗し闇市等で幅を利かせた特高帰り、組織力と若い衆の力を動員することのできたヤクザが基本的には仕切る闇市で、それこそ生き残る為に使い走りをする戦災孤児の群れ。カストリが酒の代名詞で在り得、メチルアルコールを用いた粗悪品で目の潰れる者も多かった時代に文字に飢えた人々にカストリ雑誌が飛ぶように売れた時代でもあった。戦争中、特攻による死の恐怖を誤魔化す為に用いられた覚醒剤・通称ヒロポンが流行したのも日本政府が1956年に至る迄法に拠って禁止できなかった背景にも軍が用いていた歴史的事実があった。実際1956年迄覚醒剤はヒロポンという名称で売られ薬局で買うことができたのである。
こんな時代に若く才能溢れる2人の作家が、戦中・戦後で全く反転してしまった世相と倫理に悩み抜いた果てに自らの精神の平衡を保とうと酒やヤクに頼らざるを得なかった心情と命を賭けたその執筆のパッションには実に深く我らに訴えるもの・ことがあり、その内実が二人のライバル(塚口VS豊臣)の文学談義や各々の念う女性達の反応によって対比されると同時に三人の作家陣、編集者陣というインテリ集団に対するお手伝いさん・多喜子の庶民的価値観、その夫で長崎できのこ雲を見て以来恐らくはぶらぶら病に罹ってそれ迄の働きぶりが嘘のように変わってだらだら過ごすようになり乍ら尚且つ経験の無い文章を書くことにだけは強い欲求を示し而も文字は下手で読みずらいが内容は実に二人の一流作家に互し、而も当時原因が分からずぶらぶら病と呼ばれた被爆者特有の体調悪化で社会的弱者になっていた対照的な視点から実直で不器用極まる庶民の一途な念を凝縮するような力を持つ詩的な文章を提示することで、ここでも演劇的対比のダイナムイムズを見事に溶け合わせている。
今作の脚本ではこのように深刻な時代状況は表に出されず、観客の持つ知性や感性に評価は委ねられているので、何処まで作品を味わい尽くせるかは観客次第だが、兎に角余り時代背景が分からずに観る観客をも惹きつけ笑いを振りまくキャラとして登場する人物が書生・石原の存在だ。無論彼の役回りは深刻極まる内実を脱臼させる点にある。このアクションが今作をがんじがらめにする可能性のある物語の余りにもカッチリした作り、即ち予測のし易さをも拍子抜けさせてくれるのである。文頭部分でも述べた通り、役者さんの演技も皆さん極めて質の高いものだが、塚口等の治療で活躍する医師・芝山先生役に味のある演技の剣持 直明さんが居るのが嬉しい。
今作は、上述した時代背景には一切触れていない。また観る者の解釈が尊重されるのは当然のことである。然し乍ら、この作品のように実在したそれも未だに読み継がれる普遍性を持つ作家の作品の背景を為した生き様をベースにした演劇作品を少しでも深く知る為には以上簡単に整理した事情程度の知識を具えていた方が遥かに作品の本質に迫ることができよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
Aチームを拝見。2作を上演するが、第1部はリーディング公演、第2部が通常の演劇公演である。板上には、2部で用いられる舞台道具も大きな物は予め置かれているが、リーディングで用いられるのは木製の椅子3脚のみなので他の道具は目立たぬように照明で加減している。興味深いのはリーディングでは実験的に効果音迄台詞化されて上演される点だ。第2部6.10 0時20分アップ
ネタバレBOX
登場人物は3名、全員中学3年生、15歳。理沙と陽子は小学校時代スイミングスクールで隣り合ったレーンで泳いでいる際、タイムトライアルでのライバルとして意気投合、親友になった。陽子は中学に入ってもスィミングスクール通いを続けているが、理沙は演劇部に入りスィミングスクールは止めてしまった。もう1人の登場人物は矢張り演劇部の保。
ところで中三になってクラスメイトの中には眉毛を抜いたり、マニュキュアをしたりと化粧を始める者も何人か出てきた。これらの女子は男子に人気があり、どことなく大人っぽい。これに反感を覚えた陽子は男に媚びる価値観が化粧させるのだと反発し理沙と化粧をしない約束をしていたが、演劇部では「オセロー」を演じることとなり保がオセロー役、理沙がデズデモーナ役と決まった。演劇上でのメイクが一般の化粧とは異なるのではないか? と例外規定として約束違反を認めて貰いたかった理沙は陽子の頑なな態度に遭い絶交してしまう。陽子は陽子で演劇の世界に入って自分の分からない言葉や概念を用い話す理沙との齟齬に対するに、二人とも未だ自らの社会的責任を負うことの意味すら知らぬまま化粧しないという約束をしたことを根拠にストイシズムで対抗する。そして演劇部部室に忍び込んだ際偶然耳にした、保がドーランを顔に塗って演じたいという話を盗み聞き、SNSでブラックフェイスが差別語であるとして炎上させた。この件は、職員室でも問題化されたから卒業記念公演「オセロー」も潰されかねない事態に発展する可能性さえ出てきたのである。ここは演劇サイトであるから「オセロー」観劇経験は無くともシナリオは読んでいて当たり前。裏切りと嘘、偽情報散布が、「オセロー」と交錯している点は誰でも気付く。従って今作は「オセロー」の最も重要なテーマの一つである裏切り、嘘(本当に見えがちな嘘、或いは本当と誤解されがちな虚々実々情報)、或いは様々な見解があるにも関わらず見解は唯一つであるかのようにSNSという検証不完全な媒体に載せて拡散することで歪みを作り出す過程を炙り出す。無論、ブラックフェイスは19世紀英米で隆盛を誇った数多くの役者らによって世界中に広まり、差別問題として取り上げられるようになってからも暫くは用いられたメイクであったが、異論もあり、保の見解もまた差別では無く、人種差別社会で実力だけでトップにのし上がったオセローに対するリスペクトからブラックファイス採用を検討していた。陽子が自分の為したことを保に告白し彼女の行為は露見することとなったが、その解決策があっけらかんとしていて15歳を現すのに相応しい。
効果音を総て台詞で表現している実験が効果的だとは思わないが、少し深読みすればこれも15歳のストイシズムを、演劇としても演出でサポートしていると観れば極めて面白い実験であり、更に作品を深いものにしているということができる。問われているのは、我々観客の受け取り方の深さと広がりではあるまいか?
第2部はフライヤーでも採用されているタイトルの作品だ。
今作で最も問題となるのが、このカップルが互いの生殖に関わる器官に抱えることになった氷が何のメタファーなのか? ということであろう。作中、男の目指すもの・ことは頑是ない子供の悪戯書きのような詩を書くこと。一方女は日常的には実生活を重んじるものの、男の夢に賭けることで接点を作り出しファンタジーのような結実を見せる点がグーだ。
因みに後片付けができない男と夫婦になって2年の二人は新婚旅行にも行っていない。男はソファーに寝そべり洗濯物は取り込んであるものの畳んではいない状態だ。夜勤仕事に出掛ける前に1時間ほどある。そこへ妻が仕事から帰宅。夫が相変わらず部屋を散らかしているのを見て呆れつつも洗濯物を畳むのを手伝う。夫は出掛ける前に食事をする積りである。メニュは夫の誕生日に妻が作ったカレーを解凍して食べようとするが、妻は経年劣化で味が落ちていると反対、中々意見が纏まらない。そんな中の雑談に新婚旅行に行っていない話も出てくるのだがそれらの雑談中、夫が冷凍庫から出したカレーで食事の準備をしに電子レンジのあるキッチンに行っている間に妻の体に異変が起きた。何と臨月を迎えた妊婦の如くお腹が膨らんでしまったのである。而もそのお腹は氷のように冷たい。重さを尋ねると3㎏くらいとの答え。あれこれ対応を考えるがどれも上手く行かない。そうこうしている内に、夫の性器もコチンコチンに冷え固まってしまった。二人は途方に暮れあれこれ考えるも解は無い。仕方なくレンジで温め直したカレーを食べると、二人共同時に氷が溶け始めるのを感じ、実際に氷は溶け去って元の体に戻った。二人は共に手を取り合い舞う。その様は丁度始原の海に初めて出現した命のように、幻想の海に漂い、波と戯れ翻って風と遊び再び海に溶けるかと思われる。このように比喩的で詩的な作品である。解釈は様々だ。自分の解釈は以下の通り。
演劇は、小説よりずっと詩に近い。小説は煉瓦を一つ一つ積み上げて完成に近づける作品群であるが、詩はいきなり本質を手掴みにし言葉の髄で固定する。作中、男の目指す詩は頑是ない子供が落書きしたような詩を理想としていることが語られるが、その意味する処は総てのバイアスを排除し虚心坦懐にもの・ことを観察しそれを真っ直ぐに表現するということだろう。言うは易く行うは難い芸術論である。然し乍ら、妻も夫の理念に共感はしている。掛かるが故に二人は支え合い偕老同穴の契りを結んでいるのであり、掛かるが故に始原の生命体のようなファンタスティックダンスを共に踊ることが出来るのである。タイトルに3℃が入って水の極めて珍しい性質の一つ、約4℃でその密度が最大になることと大いに関係している。何故なら彼らの恋の密度は3℃の水がその比率の多くを占める飯より妻を愛していることになるからであり、二人の体の異常が食物を摂ることによって解消され問題だらけの未来(氷)から問題の氷解した新たな未来へと転化したからである。換言すれば自分の解釈では、氷が表して居たのは未来(問題だらけの)であり夫婦は新たな未来へ旅立った訳だ。これを寿がずして何を寿ごう。
実演鑑賞
満足度★★★★
30分程遅れて到着してしまったが、制作の方の適切な対応に感謝。華4つ☆ 追記6.9 20時40分
ネタバレBOX
異邦人と聞くと自分達世代の文学好きは皆カミユの「L'Étranger」を想起するだろう。因みにétrangerは名刺として外国人等も意味すると同時によそ者、部外者を意味し形容詞として用いられる場合は、類語の形容詞、奇妙なを現すétrangeに近い①未知の、馴染みのない②無縁の③異質な等の意味を持ち今作のコンセプトとしては日本の翻訳文化の影響を受け最も人口に膾炙している外人、外国人では表現できない特殊な雰囲気を表現する為用いられた“異邦人”の意味する処、形容詞的な意味を持つ用い方と解釈した方がしっくりくる。
板上はホリゾントに半壊した壁のようなオブジェ、半壊部には植物が這いその手前にずんぐりむっくりの徳利開口部を安定の為に巨きく広げたような形の椅子が2つ。他は素舞台。設定は寂れた公園であるが、春には桜が秋には紅葉が楽しめるものの手入れは行き届かない半野生化した場所。登場するのは公園で暮らす男、酔っ払い公園に入り込んで偶々出遭った支援学級の元教員で現在はOLだが仕事上のストレスで疲れ果てた身の上の2人。
物語の内容が夢・幻想の世界と現実世界の間を行き交うような精神の話でもあるので男の心象風景内では、薄く血を刷いたような桜の花びらが無数に舞う雨の中。男の総てであったダンサー・亡き妻がダンスを踊り狂う。その幻像に合わせ、男の足が拙いタップを踏む。一度目の邂逅は偶然であったが、2人は約束をしていた。「又、合おう」と。然し2度目に合ったのは半年後。男は独学で手話をマスターし会話が弾む。その中で女は2つの質問をする。その問いに男は答えた。その答えの一部が上記の妻との関係である。男の首には妻を亡くした時に交通事故で負った傷跡が生々しく残り、女が男に就職の誘いを掛けるも反対車線の車が車線を越えて正面衝突してきた刹那に男がハンドルを切らなかった。その原因が妻の浮気を疑っていたことにあったにせよ、自分が妻を死なせたという悔悟の念を断ち切ることができず、同時に総てであった妻との思い出の中に生きるしかない男にはこのような公園で過ごすことのみが自らの記憶を喪失しない唯一の方法であることを告げる。結局、公園がリニューアルされ男は消えた。女も男と最後に合った時点では仕事が軌道に乗り元カレとも復縁して新たな生活に旅立ってゆく。この2人の邂逅は、世間で普通の価値観を生きる人間が己の価値観の枠の中から異質な価値観と生き方をしている世捨て人のような人間に対して持ち得た印象記の体裁をとる。
実演鑑賞
満足度★★★★★
つかの作品はバリエーションが多い。それはつかの演劇に対する関り方の根本にあった態度から来ていることは周知の事実だが、今回選ばれた台本はその中でも極めて優れたものの1つであろう。先ずは、これだけの台本をよくぞ見つけ、演じたということにある。舞台美術は必要最小限。理想的である。演出、演技何れも若者にしか出来ぬスピーディーで切れがある、またその熱量が観客を撃つ力を持つ称賛すべきものであった。鏤められた膨大な科白が速射砲のように歯切れよく而も舞台という形式でしか実現されない卑語の多用と共に一種の清々しさと共に表現されるのは関わる者総て演者総てが若者であればこそだ。追記後送 華5つ☆
実演鑑賞
満足度★★★★
元々、福岡で舞踏の人々と共に活動していたという劇団。それだけのエネルギーと自由な実践力を持つ。華4つ☆
ネタバレBOX
二部構成の作品。間に20分の休憩を挟み150分超のエネルギッシュな公演だ。福岡から来ているという。初めて拝見する劇団だが、第一部は歌舞伎の演目から、第二部は歌謡、ダンス、パフォーマンスのショータイムと趣向を変えた構成だ。群舞では全体のモーションの不統一が若干見られるし、足指、手指の尖迄キチンと伸びて決めているダンスが実現できている者は少ないが出来ているメンバーのダンスは見事だし、其処迄細部を決めていない他のメンバーも基本的なポテンシャルは高いのでちょっとこの辺り迄詰めれば更に良くなるのは確実だ。
第一部、二部ともに板上は素舞台。第一部では出捌けはホリゾントセンターに設けられた1か所及び客席上手側の通路の都合2か所。六道輪廻の世界で因果応報に絡め捕られた貴族の娘、嫡男、次男の森羅万象中心に描くが、各々の人生の余りに凄まじく苛酷な変転に世の無常が描かれこの世界観に嵌ることができる人々には痛烈な作品であることは想像に難くない。然し乍ら現代を生きる自分には、因果律や六道輪廻の構造を示し敷衍することによって人々を操作する主体が何或いは誰なのか? と主体を問うことが興味の対象とはなった。その答えは容易に指し示すことは出来ないものの、ヒトが何処から来て何処へ行くのか? ヒトとは一体何か? という問いと同時に明快なことが殆ど分からないヒトという生き物の抱える巨きく不気味な不如意によって穿たれた底なしの深淵が覗き込める作品でもあるとは感じる。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上は作品内容が岡本太郎の作品“太陽の塔”制作依頼過程そのものの経緯に在る為、彼の作品にふさわしく極めて斬新、而も岡本が追求した美しさとしての機能美を具えたものである。今作、脚本の良さは無論のこと、演技、演出、舞台美術から照明、音響、制作に至る迄、総てが作品の趣旨に沿って見事に収斂している。必見の舞台。華5つ☆。尺は約110分。追記6月3日0時58分
ネタバレBOX
劇空間に入ると演劇空間は、高さ30㎝ほどの大きな円筒を中心に同心円上に広がる板面更に外側に白い同心円を為す。円筒の周囲に椅子や文机等の小道具が置かれ必要に応じて円筒上に持ち出される。この円筒の真上、天井部には白い円形のオブジェ。円形オブジェの接合部に見えるのは照明によって極太の円柱に見える紗の膜。観客席はこの実質素舞台をL字型に囲む形を採っている。開演前には祭囃子や万博開催時の喧噪と同時に実況中継の模様が音声で流されている。
上演台本は緑 慎一郎さん。尚、登場人物は名前は使われているがあくまでフィクションであるということは付言されている。その点に付いては今更言うまでもあるまいが誤解なきよう。
身の回りを見ても優れたアーティストという者は極めて親密で同時にフランクな人間関係を構築するものである。殆どの人が世間体だの常識だのに縛られ聊かも疑いすら持たぬのが世の常であるなら、真のアーティストは、それらから意図的に自らを疎外する。己自身で観たもの・ことを中心に持てる総ての感覚、知恵、知識、経験などを用い対象を真っ直ぐに観察し享受し自らの内部で熟成させる為である。このような生き方の実践のみが独自なアートを生み出し世に問うのである。従って存命中にそれらの作品が評価されることは無いかも知れぬ。だが時代の常識が変わり、人々の習慣が変わる時、彼ら、彼女らの作品群は、俄然真のアーティスト作品群と評価されるのである。
実演鑑賞
満足度★★★★
開演前、猿人と思しき者がモギリをしている場に現れたり、開演直前に劇空間に設えられた立ち入り禁止区域のコーンや侵入防止用の棒等を撤去する為に作業に入ったスタッフを邪魔してする悪戯が極めて面白い。追記6月3日0時38分
ネタバレBOX
劇空間は四方を観客席に囲まれている。板中央に深い奈落が設けられており、奈落の底へ下りる階段、登る階段として都合2つの階段が設けられている。この奈落は化石の堆積層と考えられる。物語はヒトである我々は何処から来て、何処へ行くのか? が今作で表示された問いだが、ヒトである我々とは何か? という問いを当然続く問いとして提起された壮大な物語だ。猿人(アルディ・ピテクス)、原人(ホモ・エレクトス)、旧人(ネアンデルタール)、新人(ホモ・サピエンス)各々の集団が化石層に埋まった別の年代の類縁と交錯し対話する方式を摂る。が、その質疑応答が基本的に同じフレーズで為される為退屈感は否めない。またオープニングで登場した人物がいきなり鴨 長明の「方丈記」冒頭をそらんじ乍ら奈落の周囲を幾度も巡るのだが、無常を現したとされるこの随筆より、寧ろ老子の方が相応しいように思うのである。理由は、その哲学にあるのは無論だが、様々な異論が出され得ることも無論承知している。というのも老子が実在したか否かさえ疑うことが可能だからである。周知の如く“子”は男子に対する尊称であるから、老という苗字の男性に先生という意味で付けた表現、老・子が老子という具合に個人に対する尊称を含めた表現として伝承されてきた可能性を否定できないからである。一方、無論司馬遷の『史記』に老子に関する記述が見られるが司馬遷自身が老子の存在を確定できなかった表現も同時に見て取れる。また孔子による記述も老子の実在の根拠としては弱かろう。だが、老子の述べた言葉としての記述『老子』が残存しているというから一応そこに書かれているとされる言から引くとその哲学の中心の1つを為す“道”に関する後代の解釈は多様である。自分はこれを前秦時代の春秋戦国時代をきめ細かく注意深く生きた人(々)の知恵の集大成であるかも知れないと思うのである。無論、老子個人であると解釈しても構わない。その辺りを研究する研究者の仕事に口出しすることも出来ないし、そのつもりも全くない。が、その知恵の骨子は戦乱の時代を生きた観察をベースに実に科学的な目と見識で編み出された知恵と解釈するのである。今作「ピテカントロプス・エレクトス」も考古学によって明らかにされたホモサピエンスに通じる人類史がどちらかと言えば科学的な実証に基づいている以上、文化的観想である無常観を代表する随筆『方丈記』より親和性も高かろう。演劇の醍醐味は当初バラバラに見えた各要素が一点に収斂してゆくダイナミズムにあろう。この点に留意するなら、今作の思考部分を為す哲学表現的立場もより親和性の高いものにした方が良かったのではないかと感じる。
実演鑑賞
満足度★★★★★
Aチームを拝見。谷崎の「小さな王国」は読んでいないが。実にスリリングで面白い。
華5つ☆ ベシミル。追記した。5.25 17:44
ネタバレBOX
板上は劇空間入口が、設定上の地下室と外界との接点となるドアになっておりホリゾントにはSNS上の交信内容が映写される。ホリゾント下手、センター、上手に出捌けが設けられている他、センターと上手の出捌け中ほどに丁度監獄で配膳に用いられるような仕掛けが設えられており、人が何とか這いずり出ることができる空洞を可動式板で使用時以外は塞いでいる。物語の多くの部分が小学校の教室での話と絡むので椅子が板上に在る他ラジオのような形の小道具が在る程度、ほぼ素舞台である。二十面相がタイトルに入っている通り犯罪という形、即ち違法になる行為が為されるのだが、今作の描く内容は寧ろ思想そのものである為、極めてスリリングな展開で緊張感が続く場面が多くその緊張度が極めて良質で高い為、またその緊張を破る食品デリバリーの配達員がドアを激しく叩くタイミングが絶妙で強い為唐突に途切れる演出が見事。また途切れた緊張感を上手く逸らし擽りや脱臼的手法で着陸させて別方向にずらして行く手腕もグーである。演劇であるから無論、次のカタストロフへ繋がってゆくのだが、其処は脚本でこの地下空間がどのような場所であるのかが書かれて、自殺志願者が30日の間に課されるミッションと内職をクリアした暁には目的を成就するN国へ行くパスポートを得る(或いはそれが自死成就かも知れないのだが)究極が与えられて居る為、観客が基本的な緊張感を途切れさす懸念は除外されている。この構成も見事である。
言ってみれば今作は命懸けの思想闘争がメインテーマ。但しこの思想実践は法に抵触するという問題を同時に孕む。即ち体制VS反体制の命懸けの闘争が主題である。無論、命を賭ける以上、同胞たる者には絶対的な信が置けなければなるまい。それが思考を真に自らに真摯な思考と為すと考える根拠足り得ることになろう。また倫理的にも自らの全責任に於いての選択が実存レベルで要求されるのは当然のことだ。若干飛躍するが哲学的に考えれば総ての犯罪は反体制的であるから、極めて現実的な本質に関わる問題提起を江戸川乱歩の小説の主人公の一人である二十面相と絡め、知的でスリリング且つ本質的な問題提起として上演された作品であると言うことができる。
ところで、書き落としていた。今作ラストシーンの状況を経ても今作の中盤でずっと描かれていた仲間内に於ける支配と隷属の関係である。換言すれば支配VS従属という関係だが、命賭けで同胞としての盟約を結び得た後に何らかの目標に対して(今作の場合は犯罪行為となる反体制的行為ということになるが)完全対等を保ちつつ盟友関係を保ち同時に目的を遂行し続けることが可能か? という問題である。そこに能力差によるヒエラルキーが生じ固定化することはないのか? という問題は必ず出来する。その際、分け前が同等であればそれで済む、ということで完全には解決されない問題はこれもまた必ず出てくるだろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
板上は下手に葬儀場の控え室。ホリゾントの手前にお茶のセットが置かれ、六畳の畳敷の休憩室にはテーブル、座布団が見える。正面奥の障子を通して落ち着いた雰囲気が醸し出されている。出捌けはこの休憩室の手前の側壁2か所に設けられた袖から。尺は約120分。
ネタバレBOX
物語は2つの葬儀(通夜の模様)をほぼ交互に演じ分けることで進行してゆくが、互いの挿話に因縁が無い為因果の生ずる必然性が生ずることは無い。その為、全体としてはドラマの迫真性を欠く。折角、舞台で演ずるのだから、話をどちらか1本に絞って更に掘り下げた作品にした方が良いように思う。映画なら、例えば葬儀場そのものをテーマとして脚本は無論変わるものの同じセットでもカメラを通した目で撮影し、フィルムを編集して様々にタイプの異なる葬式や通夜の内輪を描くことで別のテーゼ(例えば人間の儚さをテーマとした作品)を提示しテーマを統一することが可能であっただろうが、今回の表現法では演劇の醍醐味である登場人物相互の葛藤が作品全体に及ばす、生の人間が観客の目の前で苦しみ、哀しみ、悲嘆に暮れ或いは歓喜に我を忘れる様をダイレクトに共有する演劇独自の熱狂を共有することが出来ない為、全体としての遡及力が弱くなってしまった。この点が残念である。