観るたびに発見がある…重層的な、深い霧のような作品
日本は言論の自由が確保され、市民の権利が保障された民主主義国家である。
1945年から誰しも この国の政治社会レジームを疑わなかった。ウクライナ情勢をめぐり「欧米側」に立つメディアは、ロシアを反民主主義=帝国主義国家に擬似化するプレゼンスだろう。
確かにロシア史は弾圧下の民衆抜きに語れない。しかし、ロシア文化人・知識人の“反抗心”を、私たちは ともすると過小評価してしまったのではないか。
水爆の父ー民主活動家のパブロフ博士は著名だろう。だが、仏思想家・アルベート・カミュが記した戯曲『反抗的人間』より、遥かなる“反抗心”を有した演劇人 も、 また実在したのだ。
彼らは反戦運動を街頭でアピールするのではなく、劇場で、兵隊を集め、「檻」を表現した。さらに、新聞やテレビ放送では伝わらない政治談義を、劇場というパブリック空間を駆使し、観客と役者とのコミュニケーションから実現してしまったのである。
日本は民主主義国家なんかじゃない。開発独裁型国家とは違い、社会システムが「巧妙」である分、国際人権団体の網を潜っているだけだ。
それは さておき、ロシア文化功労者・レオニード・アニシモフ氏はロシア演劇史を直視してきた演出家だろう。
「演劇にできることは何か…」。
その苦悩と舞台形式を同氏が舞台芸術監督を務める『東京ノーヴイ・レパートリーシアター 』に込めたようである。
大作を 1000円で
芝居好きではあるが あくまでも芝居であり、「演劇」という呼び方、語りかたにはあまり馴染めない
本質は、同じなのだろうか
今日観た「白痴」3時間半、休憩を挟む前 とくに車中のオープニングから惹き付けられる
後半 ナターシャ殺害のくだり あたりから 急に長さを意識しだした
公爵役の役者さんの 声に魅せられる
役者を涙させる菅沢 晃
『東京ノーヴイ・レパートリーシアター』は、ドストエフスキー、ブレヒトといった偉人作品を、翻訳劇に囚われず提供してくれる、稀有の劇団である。
その上演時間3時間30分は 削ぎ落とす無駄がない。
一般的な演劇だと、ゲネプロ(公開練習)から千秋楽へ向かって「進化していく」順路だろう。
帝国劇場ミュージカルは通常、本公演前に レビューを設ける。このチケット料金はS席につき約2000円安価である。
一方、ヨーロッパ・オペラ劇場に多い、日替わり上演を行うのが「レパートリーシアター」。
『レパートリーシアターKAZE』等の劇団は名が知られているが、日本においては圧倒的に導入された例のないシステムだ。
今回『白痴』を観劇し痛感したことは、「役者に新鮮さ」が与えられるプラスであった。
セリフを聞けば、『東京ノーヴイ・レパートリーシアター』の『白痴』『白墨の輪』シリーズは、メインキャスト以外 稽古量は十分ではない 可能性を伺わせる。
しかし、菅沢 が 魔術師である事実は変わりない。
ムイシュキンが スイス療養中に出逢った娘の回想をすれば、隣にいた役者は号泣してしまう。
照明は菅原ピン。
涙する場面ではない。
ところが、回想シーン後も、鼻水が止まらなかったのが麻田(アレクサンドラ)であった。
「冷たい女」の役柄を否定。
彼は人の心に礼儀正しく侵入し、それを癒すパワーを発揮した。もはや宗教だ。
舞台進行に支障が生じるギリギリの線である。
こうした事態は、「役者に新鮮さ」が与えられるレパートリーシアターでなければ 再現しえない。
スタニスラフスキーで東西融合
ロシアの演出家•レオニード•アニシモフ氏を迎えてのドストエフスキー代表作『コーカサスの白墨の輪』。
スタニスラフスキーシステムは、自然の法則に基づいた演劇理論として、世界中最も権威がある。
彼の出身地・ロシア共和国連邦といえば、東はヨーロッパ大陸に通じ、西はアジアへ通じる地球儀半周分の長さ だ。北米大陸アラスカはアメリカ合衆国の州であるが、帝政ロシアが財政難のため自国領土を売却したことに起因する。
『コーカサスの白墨の輪』を観劇し気づいたことは、三味線を弾き、音響・語り手を担当する講談師。そして、グルジア語の代わりに東北弁の「うん、だべ」で 話すグルジア人であった。しかも、コーカサスの山脈だと、関西弁の「そや、せやろ」も登場する。
『ト音』という日本劇作家協会新人戯曲賞候補作が、標準語と津軽弁を入れ替えた工夫により革新的モチーフとして迎えられた経緯からすれば、改めてスタニスラフスキーシステム、すなわち この理論を応用した演出・アニシモフ氏の先見性を思う。
グルジア共和国は現在、「西側ヨーロッパ社会」の一員を目指す。最終目標はEU加盟であり、NATO参加である。ただ、この国の背にそびえたつコーカサス山脈は、アジア系民族が定着する土地でもある。中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン等の国々に地政学的にも近く、トルメクスタン人などの東洋、グルジア人などの西洋が混在する民族空間でもあった。そういえば、『コーカサスの白墨の輪』は、西に位置したオスマン帝国との争いを書く。この国も「東西の架け橋」だった。現在のトルコの首都イスタンブールは、シルクロードで賑わった巨大商業都市である。
せっかくロシアから著名な方が来日し、ヨーロッパ式レパートリー・システムを導入するのだから、講談師や東北弁や関西弁は聴きなくなった観客もいたはずである。その抱く脳裏には、
「コーカサスの文化を緻密に観せてほしい。これこそスタニスラフスキーシステムだろう」
という、反発が渦巻く。
しかし、中盤まで観劇したところで、私も抱いていた この懸念は払拭された。
つまり、金髪カツラを被らず、黒いマジックで顔を修正することは、東洋人=民族混在空間を現す。
あえて東北弁や関西弁などの方言を使うのは、山脈で言語性が変化する、そのニュアンスを伝えたかったからだろう。
結果、文化的本質が 体現されているならば、これを、自然法則に基づいたスタニスラフスキーシステムと呼ぶ。
方言の応用を誰かがアニシモフ氏へ助言したはずだが、標準語を使う兵士に「均一性」「国家」等の概念を与える演出意図があったと感じるのは私だけか。
満足度★★★★★
必見
あらすじは当然割愛するが、脚本は、ドストエフスキー作品の深さを見事に表現している。ムイシュキン役の演技の素晴らしさは格別だが、ロゴ―ジン役、ナスターシャ役、リザヴェータ役らの役者も上手い。其々の個性がキチンと立った演技である。また、オープニングの列車での移動シーンでは、車両の揺れに合わせて座席が揺れる様などを演じさせて、観客の目を飽きさせない。この辺り、多くの上演を通じて体得したであろう演出の機微である。照明は、想像力を最大限に膨らませる為に極力絞ってあるので、目で追う動きが無いと、仕事が終わって劇場に駆けつける客の中には、睡魔に襲われる客もあるだろうからである。
ナレーションも始めは少しスローかと感じられたが、内容とマッチしたゆったりとしたものであることが、観ているうちに納得できる仕掛けである。
照明の微妙な使い方の見事さ、効果的で邪魔にならない音響、舞台装置は殆ど変わらないのに、其々の場面にぴったりの設えに感じられる魔法、発声の確かさなど、どれをとっても素晴らしい舞台。必見である。
「スタニスラフシキー」すら超越した「魔性」
ロシアの演出家•レオニード•アニシモフ氏を迎えてのドストエフスキー代表作『白痴』。
同劇団は「スタニスラフシキー•システム」の実践を掲げる。
神保町の古本屋に行けば、「スタニスラフシキーの本ありますか?」という客がいるし、あのハリウッド女優•アンジェリーナ•ジョリーも 継承者だ。
日本国内の演劇(映画)ファンで知らぬ人はいない、超大物だろう。
「学説」として理解するのと、「舞台」を観て理解するのとでは やはり違う。
もちろん現代の演劇ー映像作品の骨幹を築き上げた「父」の名称を手にするスタニスラフシキーなので、今回の『白痴』を観劇したからといって彼に初めて出会った日にカウントできない。
だが、発祥の地•ロシアで長い間、モスクワ芸術劇場等で実践をされてきたレオニード•アニシモフ氏演出の『白痴』を観ることは「別次元」の機会だった。
観客の総意に他ならない。
「白痴」のムイシュキン役を演じた、菅沢 晃 の魅力•資質が全てだった。
台詞を声に出したとは思えない、身体性も含め「白痴の公爵」だったのである。
※ネタバレ
「魔性」の声だ。
「白痴」の純粋な心の中に、相手の心さえ掴み取る。
相手の辛さ、苦しみを解き放ち、純粋な心と一体化してくれる。
おそらく、「白痴」こそ本当の心理学者なのだろう。
私には どうしても この様子が「舞台」に思えない。
これが「自然法則に基づくスタニスラフシキー•システム」の威力なのか…。
いや、…いや、…菅沢 晃という役者ひとりの「魔性」である。
全体を見渡せば、「惜しい」面は たくさん。明らかなミス•キャストも壮大なドストエフスキーの世界観の邪魔をした。
唯一、圧倒的な事実を述べたい。
そうした欠落点を覆い隠す魅力、威力、そして「魔性」が ひとりの役者に あったということを。
満足度★★★
「コーカサスの白墨の輪」観ました
去年見逃したこの作品が1,000円で見られるというので、喜んで行きました。前日、去年の公演を見た友人が「なんと言うか・・・・面白くないことは無いんだけれど、長い!とにかく長いのよ~!」と言っていたので、体調を整えていったのですが・・・・・。友人が長いといってた理由が分った。休憩を挟んで3時間の公演はこの劇団では普通。これ、時間の問題ではなく、とにかくナレーションと三味線がテンポを引き伸ばしている。去年ぐらいから演出のアニシモフ氏は三味線がお気に入りらしく、やたら三味線を舞台に出してくるが、別にナレーションが必要なような複雑なストーリーでもないのに、人形浄瑠璃ばりの声を張り上げるナレーションが入り、またそれが長い。これに三味線が重なり、ますます長くなる。彼らがやる、金属板を使った効果音や子供の可愛い声などは見事だったが、なんというか、演出疲れするような舞台でした。グルジアという民族色を出すための方言を駆使した台詞も聞き取りにくく、イライラする。また、シャンソンのような台詞もあったりで、ちょっとさまざまな演出を詰め込みすぎた感じだ。舞台の演出はいったい誰のためのものだろう。演出家が色々やりたい気持ちは分るが、観客に受け入れられなくては何にもならない。この劇、劇団関係者や演劇人の間では評判だったらしいが、去年の公演では、コリッチの「観て来た」に一人の感想も寄せられてはいなかった。一般観客のこの薄い反応を劇団側はどう捉えているのだろう。