『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』  公演情報 TOKYO NOVYI・ART「『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 」の観てきた!クチコミとコメント

  • スタニスラフスキーで東西融合
    ロシアの演出家•レオニード•アニシモフ氏を迎えてのドストエフスキー代表作『コーカサスの白墨の輪』。
    スタニスラフスキーシステムは、自然の法則に基づいた演劇理論として、世界中最も権威がある。
    彼の出身地・ロシア共和国連邦といえば、東はヨーロッパ大陸に通じ、西はアジアへ通じる地球儀半周分の長さ だ。北米大陸アラスカはアメリカ合衆国の州であるが、帝政ロシアが財政難のため自国領土を売却したことに起因する。


    『コーカサスの白墨の輪』を観劇し気づいたことは、三味線を弾き、音響・語り手を担当する講談師。そして、グルジア語の代わりに東北弁の「うん、だべ」で 話すグルジア人であった。しかも、コーカサスの山脈だと、関西弁の「そや、せやろ」も登場する。
    『ト音』という日本劇作家協会新人戯曲賞候補作が、標準語と津軽弁を入れ替えた工夫により革新的モチーフとして迎えられた経緯からすれば、改めてスタニスラフスキーシステム、すなわち この理論を応用した演出・アニシモフ氏の先見性を思う。


    グルジア共和国は現在、「西側ヨーロッパ社会」の一員を目指す。最終目標はEU加盟であり、NATO参加である。ただ、この国の背にそびえたつコーカサス山脈は、アジア系民族が定着する土地でもある。中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン等の国々に地政学的にも近く、トルメクスタン人などの東洋、グルジア人などの西洋が混在する民族空間でもあった。そういえば、『コーカサスの白墨の輪』は、西に位置したオスマン帝国との争いを書く。この国も「東西の架け橋」だった。現在のトルコの首都イスタンブールは、シルクロードで賑わった巨大商業都市である。


    せっかくロシアから著名な方が来日し、ヨーロッパ式レパートリー・システムを導入するのだから、講談師や東北弁や関西弁は聴きなくなった観客もいたはずである。その抱く脳裏には、

    「コーカサスの文化を緻密に観せてほしい。これこそスタニスラフスキーシステムだろう」


    という、反発が渦巻く。


    しかし、中盤まで観劇したところで、私も抱いていた この懸念は払拭された。
    つまり、金髪カツラを被らず、黒いマジックで顔を修正することは、東洋人=民族混在空間を現す。
    あえて東北弁や関西弁などの方言を使うのは、山脈で言語性が変化する、そのニュアンスを伝えたかったからだろう。

    結果、文化的本質が 体現されているならば、これを、自然法則に基づいたスタニスラフスキーシステムと呼ぶ。
    方言の応用を誰かがアニシモフ氏へ助言したはずだが、標準語を使う兵士に「均一性」「国家」等の概念を与える演出意図があったと感じるのは私だけか。

    ネタバレBOX

    酔っ払い裁判官を演じたのは、『白痴』で魔性を発揮する菅沢 晃氏である。「貧乏人に人情を与え、金持ちからは賄賂を貰う」…。このような姿をみると、「地位が人をつくる」ことわざ すら、実は間違った言説ではないかと思えてくる。この由来は孔子の『論語』であるが、いかに儒教が欠陥だらけの思想ハンドブックかを教えてくれる。
    やはり、権力に溺れず、民衆のために それを行使する人間は、コンクリートの中から光り輝く鉱石を発見するのと同じくらい希少だろう。日本の政治家(地方議会)は典型である。


    『白墨の輪』が問うのは、「本当の母親なら我が子の手を引っ張ることはできない」という、弱者の視点。かわいい我が子の親権を得たい「2人の母親」側にたてば、その小さな手を確保したい「願望」がある。だが、目の前にいる我が子を痛めつけたくない「本能」もある。育ての母親は 後者が上回った。
    菅沢 晃氏の「イケス」な演技も あの「魔性」と並ぶ。


    ちなみに、この舞台で旧知の仕事仲間に再会した。
    このページを読んでいれば連絡してほしいものだ。
    世の中には、スタニスラフスキーシステムでは説明つかない出逢い=再会が待っている。

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    2014/01/21 00:17

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