舞台芸術まつり!2023春

ゲッコーパレード

ゲッコーパレード(埼玉県)

作品タイトル「少女仮面

平均合計点:20.2
丘田ミイ子
關智子
園田喬し
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★

 まず、驚いたのは劇場の使い方、俳優の居方でした。

ネタバレBOX

 空間を客席と舞台で単に二分するのではなく、舞台を半円形に囲むような形で客席が配置されており、通常舞台と設定されがちな場所に設けられた客席に座る、ということ自体がまず新鮮な体験でした。少なくとも私がOFF・OFFシアターで観劇してきた中でこの空間設計は観たことがなかったので、せっかくならばとその席を選びました。

 俳優達も客入れ時から舞台や扉の入り口、エレベーター付近などに点在しており、そこを通って客席に着くという流れには、衣装とメイクを施した俳優に点呼され、席に案内され、休憩時にも俳優とすれ違う「紅テント」での演劇との距離感に通じるものを感じました。同時に紅テントでは俳優が点呼や客入れの際に俳優でもある個人としてそこにいるのに対し、ゲッコーパレードでは俳優が常に役として存在しており、そこには違いも感じました。唐十郎の『少女仮面』を選んだ背景や決め手、それを上演するにあたってのプランなど試行錯誤の欠片をあれこれと想像しながら、開演に臨むことができました。従来のステレオタイプを切り捨て、劇場そのものを再構築するというカンパニーの試みは見慣れた劇空間を全く新しいものにしていたと思います。

 同時にこの空間で一体『少女仮面』という演劇をどう成立させるのか、ということにも興味を惹かれました。物語への没入感を手伝う大仰な美術などは設けられておらず、ほとんど俳優の身体がその役割をも背負うような形で進行していたことも新鮮でした。『少女仮面』という伝説的な作品を俳優の身体に丸々託すといった斬新なアプローチで劇場に落とし込もうとした点にカンパニーの意欲と個性、今後への期待を感じる作品でした。そこには、「目的ではなく人の集まりこそがパレードのように活動や表現を形成していく」というカンパニーの信条が煌々と光っていたように思います。

 そういった構造面が全く新たなものであったことに対し、戯曲そのものに現代を鑑みたアレンジなどはほとんどされていないように記憶しており、その良さも勿論あったのですが、空間の特異さ故に観客に情報がリーチしづらい部分も散見されたように思います。ただでさえ物語そのものが複雑な戯曲なので、観たことのある観客は記憶や経験で補填することで新しく豊かな劇体験になり得るのですが、初見の観客には物語やその機微が果たしてどこまで伝わったのだろうという疑問は残ってしまいました。

 これは制作面に関してなのですが、私が観劇した回には写真撮影が入っており、そのアナウンス自体はされていたのですが、印などもとくにされていない客席の一つから撮影が行われたことにはやや戸惑いを覚えました。また席によって見える景色が変わることはいいのですが、多少の見切れが生じてしまうシーンもありました。カンパニーの信条やこれまでの公演スタイル、今作の空間のコンセプトなどを鑑みるに、これらはともすればこだわりの一つと想像することもできたのですが、やはり均一の席代が発生している劇場公演においては客席ガチャになりかねず、特定の席に座った観客のみが多少なりとも観劇しづらい、没入の妨げになるという状態は避けた方が良いのではないかと思いました。観客だけでなく、撮影するスタッフさんにとっても少なからず物理的にも精神的なやりづらさが生じる可能性もあるため、ゲネ時に撮影するか、あるいは観客が入った状態の本番の撮影に意義があるのだとすれば、撮影席に印をつけたり隣席の観客に予め了承をとるなどの策を練った上で敢行するのがベターかもしれません。

 しかしながら、これまで住宅を本拠点に活動をしていたゲッコーパレードによる「劇場」の再構築、演劇や俳優の従来の在り方への疑いの視点には大いに刺激を受けました。「演劇は劇場で成されるものである」という考えが一般的な中、わざわざ「劇場シリーズ」と銘打って公演を打つこと。そういったフィロソフィーそのものにも面白みを感じます。その独自のスタイルを活かしたまま、快適とまでいかなくてはいいので、観客が等しく劇に没頭できるような環境を考えていただけるとうれしいです。

關智子

満足度★★

 まず、唐十郎の戯曲作品を取り上げるという挑戦的な姿勢を評価したい。アングラの強烈な身体性と世界観に引きずられないようにしながら、自分たちの作品を構築するのは非常に困難であることがあらかじめ容易に推測される。それでもそれに挑戦するというのは、彼の作品の今後の展開を考える上でも重要な姿勢である。

ネタバレBOX

 他方で、結果としてやはり困難な挑戦だったと言わざるを得ない。独特の劇場空間は戯曲の世界観と一致しており、存在感と異物感の強いクセが魅力となっている俳優たちが果敢に挑戦していたが、ゲッコーパレードの独自性が十分に発揮できていたとはいまひとつ言えないだろう。

 劇場空間の活かし方にも課題が見られた。そこが地下トンネルには見えても、観客がひしめく華やかな劇場の舞台や満州の病院が浮かんで来ない。身体の動きに窮屈さが感じられた。

 だが、課題が明白であるだけに次回以降には期待が持てる。「劇場」シリーズは始まったばかりということなので、今後の活動も注目したい。

園田喬し

満足度★★★

 「戯曲の魅力・面白さ」を再認識できた観劇でした。瑞々しく、幻想的で、情熱に溢れた、言葉の数々。劇中のモチーフが「俳優」や「演劇」であり、その上で「私達はどう生きるか?」に迫る物語なので、観劇や取材を生業とする僕にとって惹かれる上演だったと思います。それを踏まえて、非常に悩ましいのは「『少女仮面』という戯曲の良さを審査にどう反映させるか?」でしょう。これが、劇団の特性や独自性を大いに取り入れた上演なら、演出面の高評価に繋がります。ところが、今回の上演は戯曲が元々持っている魅力を引き出すことに力点が置かれていると感じます。そのアプローチに反論する意思はないのですが、要するに「最大の功労者は劇作家」という着地点をイメージしてしまうのです。この上演を思い出す度、ずっとそんなことを考え続けています。

深沢祐一

満足度★★★

 劇場へのカウンターを提示する

 1969年に早稲田小劇場が初演し第15回岸田國士戯曲賞を受賞したこの唐十郎の代表作は、これまで数多の劇団が上演してきた。これまで一軒家での上演を主としてきたゲッコーパレードが本作を演劇の街下北沢の劇場でどのように上演するのか、まずは興味を惹かれた。

ネタバレBOX

 劇場に入ると舞台下手側と客席の壁を背景に半円状の演技スペースを設け、そこから舞台後方と客席の段差に向け同心円状に椅子を置き新たに客席を設けるという空間設計にまず目を奪われた。いままで見たことがないOFF・OFFシアターの空間の使い方を見ていると、この劇団の劇場に対する姿勢とテント芝居を敢行した唐十郎の姿勢が重なるように思えてきた。

 宝塚歌劇団の伝説的な男役トップスター、春日野八千代に憧れる少女の貝(永濱佑子)は老婆(ナオ フクモト)を伴い春日野が経営する地下喫茶店「肉体」へと向かっている。その頃「肉体」では腹話術師(長順平)が人形(平野光代)を操りながらひとりで対話ごっこをしている。ボーイ(小川哲也)はコーヒーを引っ掛けるなどして腹話術師を軽くあしらい口論になるが、ボーイは腹話術師のことが見えなくなってきている、まるであなたが人形の付属物のようだと主張する。店に入ってきた男(林純平)は喉が乾いているのか、店内の水道の蛇口に口をつけ汚い音を立てて吸い気色が悪い。

 やがて入店した貝と老婆はボーイに春日野への取次を申し出るも断られ、諦めて帰ろうとしたそのとき、奥から春日野八千代を名乗る人物(崎田ゆかり)が出てくる。憧れの人に会えた貝は舞い上がり、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフになりきって芝居を続ける。しかし春日野は演じていくうちに、自分の肉体はファンによって奪われてしまったと嘆きはじめ、幻想的な存在である自分自身を総括していく。終幕では春日野が慕う甘粕大尉(佐藤冴太郎)が春日野のファンの少女たちを連れて登場するが、彼女たちが春日野に返したいと差し出したものが、春日野をさらなる狂気の世界へと突き落とす。

 伝説的な作品をテキレジせずほぼそのままの形で上演することで、古典としてのアングラ演劇の魅力を堪能できたのはよい機会であった。俳優の熱量や大仰な動作が劇場のサイズとフィットしているのかはやや疑問ではあったが、戯曲の言葉の強度とは合っていると感じた。小川哲也らボーイたちが見せるアンサンブルの妙、林純平の水飲み男が醸し出す退廃的な味わい、そして春日野八千代を演じた崎田ゆかりの狂気の世界に陥る芝居が特に印象的である。

 ただ今となってはやや時代がかって聞こえるセリフや古い固有名詞に対する註釈がないため、偉大な作品を上演するという以上に現代的な意義が感じられなかった点は気になった。劇場での上演に問いを投げかけるこの劇団が、演劇における肉体論がテーマであるところの本作へ新たな解釈を提示してほしかったと思う。

松岡大貴

満足度★★★

 唐十郎の名作と、俳優の肉体と。

ネタバレBOX

 戯曲は説明するまでもないが1969年初演、岸田國士戯曲賞を受賞した唐十郎の代表作の一つ。まずは若手と呼ばれる団体が日本の既存戯曲に取り組むことは積極的に評価したい。日本の特に小劇場ではやはり新作上演が多く、戯作と演出を兼ねることも多い。それ自体はそれぞれの創作過程の上で選択してきたことであるのだが、やはり古典や名作の再解釈や現代的価値観との化学反応は、演出という職能を考える上で重要に思う。ヨーロッパが文化としての、あるいは市場としての舞台芸術を築けたこともそれぞれの時代の戯曲を再解釈して現代作品として提示する一貫性が観客と共有できる部分として用意されていることも大きいと感じる。大きく様式の異なる近松や南北にすぐに取り組むのは難しくとも、木下順二や宮本研、寺山修司といった近代における名作を再解釈する余地はまさにこれからであろう。どれも新劇やアングラといった枠には収まらないはずだ。

 前段が長くなってしまったが、1960年代から連なるアングラ演劇の旗手たる唐十郎の作品にゲッコーパレードが取り組むことは、まさに前述の文脈にも適うことだろう。その上で、その上演をどう評価するかというと少々難しい。ほぼ元の戯曲通りに上演された本作は、その演劇が我々が想像しうる“伝統的”アングラの作法に則っていたようにも思う。デフォルメされた動きに節のついた台詞回し、少し毒を感じる衣装やメイク。俳優達はケレン味たっぷり。特に劇場内を不規則に力強い足どりで移動していた小川哲也演じるボーイは、自分にとって春日野八千代より印象的であった。

 今回の応募にあたってゲッコーパレードは「この公演の一番の意気込みは、俳優中心の演劇を作ること」と述べ、それは演劇にとって必要不可欠である俳優が消費されず、主体的に演劇を作ることを目指しているとしていた。なるほど、それは確かに取り組まれていたのかもしれない。俳優はそれぞれ異なる演技体を持って作品に臨み、舞台美術や小道具は排除され、俳優が制約を受けるものは極力取り除かれていた。『少女仮面』の戯曲を読んだことや作品を見たことのない観客は場面が想像できない部分もあったかもしれない。それでも俳優たちは自由であったのかもしれない。では、そして、自由になった後の俳優たちはどうなるのか。舞台の上での虚構を失い、自己の肉体のまま戯曲の台詞を語る俳優は、何者になるのだろう。

 ゲッコーパレードの、特にこのシリーズの取り組みは道半ばであろう。俳優が俳優として舞台に存在することになった先に何を描くのか、それは特権的肉体論の先を描かなければならないのではないか。模索してほしい。るところの本作へ新たな解釈を提示してほしかったと思う。

このページのQRコードです。

拡大