雲をつかむような冒険【当日券あり】
とくお組
駅前劇場(東京都)
2011/04/20 (水) ~ 2011/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★
ファンタジーだと思う。笑
上空30000フィートに浮かぶ飛行艇を舞台に、空賊という仕事が流行らなくなり、仕事の成果があがらず、次の人生をどうしようかと考えながら、旅を終えて帰る途中の男達の物語だと思う。そうして・・たぶんファンタジーコメディ。笑)....
以下はネタばれBOXにて。。
ネタバレBOX
舞台セットが素晴らしい!自宅にも作って欲しいほどのセットだ。これを構想しながら作る物語はさぞ楽しかったに違いない。案の定、役者らがとっても楽しそうだ。でもって、「天空の城・ラピュタ」のパクリのような細々としたガラクタ。
そのセットの前で実際に鈴木が料理を作るのだがこれがまた包丁捌きがお見事なのだ。そんな空賊たちが繰り広げる世界感もまたラピュタなのだが、ジブリが魅せる世界感よりもアニメ的な「とくお風ラピュタ」はやはり出演者の醸し出すキャラクターに他ならないと思う。
舞台セットは大きな飛行艇のキッチン部分だが、全体的な構図は当日パンフに載っており、容易に想像出来る。この想像だけでも実にファンタジーで楽しくなっちまうのだが、そんな空賊らの艇にこれまた空賊が乗り込んできて、まんまラピュタなのだが、敵はたった一人という寂しさ!笑
ジブリ好きには実際のアニメの絵図らと物語を思い出しながら、そのセリフのかみ合わない可笑しみも相まって楽しかったのだった。これはもはやとくお組がどうのこうのではなくジブリの凄さを感じた舞台だった。面白い!
川と出会い
青年団若手自主企画 ブライアリー企画
アトリエ春風舎(東京都)
2011/04/20 (水) ~ 2011/04/23 (土)公演終了
満足度★★★★
なじみ深い感覚が斬新に映る
川がちゃんとそこにあるから
空気も、感じることも自然にやってくる。
演じ手の方々の汗や
筋肉が働く気配までが伝わってきながら
感じるものはその動きを通り越して
観る側が持つ川の肌触りの記憶と共振していく。
とても不思議なイメージのコラージュを体験することができました。
ネタバレBOX
アトリエ春風舎、
ここのスペースのフレキシビリティには
いつも驚かされます。
今回は、通常の粗い板張りにさらに床材が施され
板張りの広いダンスステージが確保されている。
入って奥側に客席が設えられ、
そこから観た正面に大きなスクリーンが掲げられて。
映像や写真で川の風景が映し出されて
それを借景にパフォーマンスが重なり始めます。
バレエ、ダンス・・・。
舞台を横切る形で流れていくパフォーマー達の動きが
次第に川の感覚に膨らんでいく。
ひとりずつの動きが決して均一ではなく、
クラシックバレエはもとより、ダンス、体操、格闘技といった
それぞれが自らのメソッドを生かして動いていることで
川の流れに様々な複雑さが構成されていきます。
観る側が個々の動きを追うことに慣れ
やがて全体を包括して感じることができるようになったころには、
舞台に自然な感触の川の流れがあって
パフォーマーたちの動きをそれぞれの動きに目を奪われているうちに
風景が生まれ、
さらには肌に川面からの風を受けるような感覚がやってくる。
シーンの重なりはそのまま
川が内包するイメージの豊かさとなって
観る側に伝わってきます。
映し出されるあちらこちらの川、
土手の景色、桜が映える川面、
街のタイトな雰囲気、
東京、京都、ヨーロッパ、世界・・・。
そのなかでのモノローグは
言葉としてではなく透明感のあるイメージとして
観る側に伝わってくる。
身体表現と言葉で編み上げられる河童(?)のイメージまでが
精緻に創られ川からやってくるものとして浮かび上がる。
川の表現とそこから繋がっていくものが
互いにさらなる膨らみを創り出し広がっていきます。
ふっと気が付けば、
その風景を客観的に眺めている
観客の自分の中にある川の記憶までが
その風景に一体化していて・・・。
終わってみれば驚くほどに
心を掴まれておりました。
余談ですが、クラシックバレエの動きを
あんなに近くで観たのは初めてかも。
その華麗さと同時に
しなやかな動きをを支える筋肉の力や
つま先で全身を支え切るバランス感覚の
力感にも息を呑む。
やってくるイメージは馴染みのあるものなのに
常なるものの新しい表情を見つけたような感動が残って。
作り手がさらに築いていくであろう
表現の方向性にも強い興味を持ちました。
卒業ナルコレプシー
たすいち
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2011/04/22 (金) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
卒業、、
中盤は李そじんさん&長瀬みなみちゃんコンビが楽しませてくれ、終盤に実はテーマがそんなに深かったのかと驚かせられた。
観終わった後、少し寂しくも何かしっかりと残って凄く良かった!
2月公演のサイキックバレンタインと比較しがちですが、これはこれで一貫していて個人的には満足です☆
裸の女を持つ男
クロムモリブデン
シアタートラム(東京都)
2011/04/16 (土) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★
元ネタの記憶が新しいので
といって生々しくもなく、といううまさ
パイナップルゴーストホテル
ダイタンプラネット
インディペンデントシアターOji(東京都)
2011/04/20 (水) ~ 2011/04/25 (月)公演終了
満足度★★★
もっとおもしろくてもいいはず
惜しいなという、演者的に。役名は、作の世代がそのあたりのせいなのかま
~演劇のススメ~「走れメロス!」
aji 2021年活動終了
atelier SENTIO(東京都)
2011/04/21 (木) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
外からみれば普通の家
板橋で降りるのは初めてです。案内図をみるかぎりすぐに見つかると思っていましたが、駅を降りてそちらのほうに行くと...徐々に不安が。行けばいくほどなにもない住宅街に。目印のコンビニまでたどり着き周りを見渡せどそれらしいところは見当たらない。地図ではここを曲がってとあるのですがその先に見えるのは普通の家だけ。線路沿い...に曲がると先のほうに明るい場所があり走光性の私は吸い寄せられるのでありました。以下、ネタバレ
ネタバレBOX
普通の木造2階建て、築**年。すぐ横を東武東上線が通ります。時間になり中へ案内される。靴を脱ぐように言われる。入ってみると外観とはちがって堅牢なかんじ、天井がパイプで補強され照明がいくつも。籐椅子があります。座りやすいですね。いつものように1番前です。3面の壁は白く塗られ、床の白い洗面器には水が張られきれいな色をした花びらが。奥のほうには小さな白いテーブルと水差し。壁にはこれも白く丸い時計が3つ。みんな時間がちがいます。静かに聞こえてくる音楽は女性のものげなヴォーカル。暗転、アイーダが流れお芝居は始まります。明るくなり、正面に女性がおひとり胸の位置に白い紙を持っています。書かれているのはお名前と、好きなものでしょうか。暗転し次の方。4人の紹介がおわると女性お二人の朗読でスタート。不思議の国から来たようなかわいらしい衣装。コミカルな動き。太宰の作品を読みながらさまざまなパフォーマンスが展開されます。舞台の前後左右をくまなく使い、歩いたり走ったり体操したり。微妙に電車が通過する音が聞こえてきます。暗転すると天井に夜空の星々がみえます。最後は乱舞...ストロポ、壁に影が映えています...から「命短し 恋せよ 乙女」ゴンドラの唄で終演。
作品の内容というよりも、読み方(斉唱/輪唱/合唱)や仕草が楽しかったです。
アンダー・ザ・ロウズ
虚構の劇団
座・高円寺1(東京都)
2011/04/08 (金) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★
ちょっと残念・・・
全体的には、らしさはあったものの
話としての焦点の合わなさ、
この劇団には無かった色、
落とし所のつまづきなど
詰めの甘さが目立つカンジでした。
焼肉ドラゴン
新国立劇場
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2011/04/16 (土) ~ 2011/04/17 (日)公演終了
満足度★★★
安易に絶賛してよいものか
「政治的」な演劇である。
プロパガンダ性が強いとまでは言えないが、在日コリアンの差別問題を扱っている以上は「政治」を抜きにして語ることはできないし、そこにどうしても韓国人側に立った「偏り」を感じないわけにはいかない。
とは言え、日本人が差別者でないと言いたいわけではない。実際に我々はこの国の「歴史」を知っている。この舞台を観ている時の我々の「居たたまれなさ」の正体は、「加害者としての罪悪感」だ。しかしその現実の歴史に根ざした「加害者意識」があるからこそ、在日韓国人を「差別にあった可哀想な人々」、日本人の一部を「韓国人をいじめる酷い人」という二項対立で描くその手法に疑念を抱かないではいられないのである。
人間を、そんな単純な図式の中に当てはめちゃって描くのは、『水戸黄門』のような勧善懲悪のドラマならともかく、こうした繊細さを求められる演劇の場合は「やっちゃいけない」部類に入るんじゃないのかな?
ネタバレBOX
たとえば、「焼肉ドラゴン」が国有地を不法占拠しているために、市役所命令で立ち退きを強制執行されるエピソードがある。
日本人の市役所職員は、「在日はすぐに興奮して感情的になる」と“火病”をあげつらう発言をするのだが、そう口にする本人が、興奮して灯油缶を蹴る行為を繰り返す。言ってる本人の方が感情的というあからさまな戯画化だが、作者の鄭義信は、これを単に笑いを取るためだけに書いたのだろうか。そうだとしても、登場する在日韓国人が人間的に欠陥があっても決して揶揄される描かれ方はされていないのに、“在日を差別する日本人だけが戯画化される”ことには疑問を抱かざるを得ない。
梶山季之『族譜』では、戦前、朝鮮人に創氏改名を迫った日本人を、こんな単純な鈍物としては描かなかった。五族協和を本気で信じるがゆえの「善意」の持主として描いていた。だからこそその「無知」が、民族の頃を無自覚に踏みにじるその残酷さが、観客の心に迫ってくるのである。対して『焼肉ドラゴン』の日本人描写は、悪い意味でコミックである。
確かに、東京オリンピックから大阪万国博にかけての高度経済成長期、日本はそれまで放置してきた「戦後処理」の総仕上げのように国土開発を続けていった。全国各地で「不法占拠」されてきた土地が取り上げられ、住民が目腐れ金で追い出された例も少なくはなかった。
しかし、『焼肉ドラゴン』は、、そうして住み慣れた場所を追い出されたのが在日韓国人だけではないという事実には触れようとしない。日本人の不法占拠者も同じように転居を余儀なくされていることには全く無頓着だ。在日コリアンの物語なのだから、そこまで描く必要はなかった、ということなのだろうか? しかし、そういった事情を知らない観客がこの舞台を観れば、「在日韓国人ばかりが差別に遭っていた」と思い込みはしないだろうか。
龍吉は「佐藤さんに土地代を払った」(=日本人に騙された)と語るが、龍吉の場合はその通りであるのだろう。しかし、不法占拠と知っていて、その土地に居座っていた在日コリアンもいたはずである。みながみな被害者であったはずはない。そのことに鄭義信は一切触れようとしない。その結果、この物語では、「被害者としての在日コリアン」のイメージばかりが強調されることになる。
“おかしなことに”、こうした歴史的事実について、『焼肉ドラゴン』には“なぜか触れない”部分が、かなり目立つのである。
哲男が「金嬉老事件」のことに触れて、彼を差別と戦う英雄のように語るシークエンスもある。確かにあの当時、そのように彼を持ち上げる風潮があったのは事実であるが、彼の主張が自分に同情を集めるためのただの「口実」に過ぎなかったことは、彼の“後の犯罪歴”が証明している。しかし、そのことにも戯曲は決して触れない。そんな未来のことが語れるわけないじゃないの、というのは、正しい意見のように聞こえるが、一家離散の後、“理想の国”である北朝鮮へ行こうとする哲男・静花の二人の「未来」については、はっきりと不幸が待っていることが語られるのだ。
金嬉老についても、静花に「人殺しをそんなふうに誉めるなんて」とひとこと言わせれば相対化できることだ。しかし鄭義信はそれをしない。こうした「語られない」例はいくらでもあるので、やはりこれは「あえて語ろうとしていない」と結論づけざるを得ないのだ。
先述した通り、私は日本人が加害者でなかったと言いたいわけではない。しかし、この戯曲に価値判断の基準に偏りがあって、歴史をよく知らない観客、時代を体験してこなかった人々には「語られていることだけが真実」と錯覚させてしまう部分が確実に存在している。「戯曲を読む」という行為には、「語られていない部分にこそ真実が潜む」という視点が必要になる。
金一家の離散劇は確かに哀しい悲劇だ。鄭義信には、一人一人の人物の情感を丁寧に描く技量は確かにある。龍吉の「俺からどれだけのものを奪うのか」という絶叫に真実があることを認めるにやぶさかではない。しかしそこで涙してしまうのは、歴史に無知ゆえの面が少なくないのではないか。加害者としての意識があれば居たたまれなさの方が優先するだろうし、彼らの主張に「偏り」を感じれば、それこそ龍吉自身が述懐する通り「それは運命だよ」と言ってあげるしかない。ここで泣けるのは、彼らコリアンが、観客にとって結局は「他人」だからなのではないか。
一般観客の無知を責めるのはいささか酷ではある。しかし、演劇人が、特に戯曲を自ら書く身の人間が、この戯曲の「あえて書かない部分」に気付かないというのは、いささか情けないと言わざるを得ないと思う。
『humming5』
ポかリン記憶舎
SANSAKIZAKA CAFE さんさき坂カフェ(東京都)
2011/04/22 (金) ~ 2011/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
すみませんコーヒーを はい、ミルクも
雨の千駄木、初めての場所です。時間少し前にうかがうと太田みちさんが受付で準備中。「カラフルな猫(4/1)」も@カフェでした。入って右、カウンターに数席。中央に小さなテーブルとイス3脚。座席は左、壁側に2列。2列目に座ろうかなとしていたら前の人と同じ高さですよ~、とおっしゃるのでそそくさと丸椅子へ移動。明神さん...「冬の穴@学習院女子大」ときもそうでしたが、とてもほっとする案内ぶり。カウンターの中、トイレ、ガラスドア越しに見えるお店の前の通り、その通りをはさんだ向こう側の歩道、見えるところ全部を使ってのお芝居。私たちは役者さんと同じ時間を過ごします。すぐ近くの銭湯の話なども織り込んで、「ここにあるカフェ」のお話はひとくち飲んみれば、外の雨も風情のひとつに思えてきます。
狭い中、肩を寄せ合いながらの観劇です。カウンターを正面にみる位置、前の丸椅子が見やすいです。
ネタバレBOX
棚に「ネジの本」、壁には「絵」「写真」。ドアが開けば外の風を感じ、あぁ、まだ雨が降っているな。おやっ、外から中をみている人がいる。そんなカフェの中で役者のみなさんは手を伸ばせば触れることができるところでお芝居を。始まる前からいる常連さん、同級生の再会、母/娘、娘/恋人、バイト希望。どこのカフェでもありそうなお話がひとつ、そしてひとつと。「冬の穴」のときにも感じましたが、「灯り」がしみじみと沁みてきます。
その族の名は『家族』
こどもの城 青山円形劇場/ネルケプランニング
青山円形劇場(東京都)
2011/04/13 (水) ~ 2011/04/28 (木)公演終了
満足度★★★
棘なカンジ
とげとげしさ、現代社会の家庭・家族問題がうまく描けていると思います。
が、この先も心に残るのか、再演を希望するのかといえば
そうではないカンジ、印象です。残念ながら。
卒業ナルコレプシー
たすいち
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2011/04/22 (金) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★
食べてみたら普通の味だった
みたいな感じですかねぇ・・・・。
タイトルの組み合わせで、
面白そうな具材から見たことも無い様な料理が出てくるのかと思っていたら、普通の定食が出てきたような・・・。
そんな感じを受けました。
(キテレツなモノが出てきたりして、
帰りたくなるようなモノでない分良かったんですが・・・、
なんかこう香りとかスパイスとか期待してましたが。
:期待感強すぎたかな?)
ネタバレBOX
割と狭い客席に、
担当のお兄さんなどが上手に観客誘導されていました。
常識的な対応に感謝。
主人公の第2ボタン争奪戦みたいな話で、
取り合いはコメディで選択結果が辛い現実。
オチは観客の心の中と。
=結果、作品の出来は普通に感じてしまいました。
うーん、最近ヒネテルのかな?
舞台中央の伝説の桜の木の下での「告白」って、
懐かしいなぁ”ときめきメモリアル”
(やったこと無いんですが筐体は持ってる(^^)
現実ー未来ー夢の中と、上着や言い回しなどで、
割と上手に判り易く表現していましたね。
主人公争奪、男女の争い!
笑えました=特に浦石さん役の長瀬さん。
わざとらしいオーバーアクションが堂に入ってました。
上演時間70分間に上手に作品がまとまっていたので、
安心感はありましたね、定番の焼き鮭定食のような感じで。
トップ・ガールズ
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2011/04/01 (金) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★★
トラウマ
人生の光と影、ってところでしょうか。
スピリチュアルな1日【初日を30日(水)から4月1日(金)に延期】
アミューズ
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2011/03/30 (水) ~ 2011/04/03 (日)公演終了
満足度★★★★
期待を裏切り
というよりか、期待値以上の良さは見せてくれました。
よくあるグダグダパターンになるかと思いきや
うまくそれなりにまとめ上げ切れていると思います。
毒見<全日程終了致しました。ありがとうございました!!〉
味わい堂々
OFF・OFFシアター(東京都)
2011/04/05 (火) ~ 2011/04/10 (日)公演終了
満足度★★★★
すっぱい
毒よりは、酸っぱいカンジ。
わが星
ままごと
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2011/04/15 (金) ~ 2011/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
切なさと愛おしさ
ラップが混ざる心地良いリズムに合わせ繰り出される台詞、
人間と宇宙を対比する遠近法、
何気なく過ごす日常の奥底に潜む感情をあぶりだす会話、
突出してこれが良い、というファクターは特には無いのだが
少しずつの積み重ね、組み合わせが
非常に良い相乗効果を生み出し、
稀有な作品を演出しているように感じました。
良作、再度みたい。再演も希望。
紅姉妹~べにしまい~
G2プロデュース
紀伊國屋ホール(東京都)
2011/04/21 (木) ~ 2011/04/29 (金)公演終了
満足度★★★
期待が大きかったって事!?
好きなベテラン役者さんが揃っている舞台なので、期待も膨らみ観劇。
確かに各役者さんの持ち味もそこここに有り、
ホロッとさせられる場面、笑いを誘う場面有りで完成度も高かった。
面白かったけれど、ハンコを付けるなら「よくできました」かな?
きっと舞台って、役者の力、話の力、演出の力のどれもが同じ力で支え合って出来てるという事で、その一つの力だけが大きくても、バランスが崩れて違和感が残るって事なのかなあ?
少年ハリウッド
ネルケプランニング
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2011/04/14 (木) ~ 2011/04/24 (日)公演終了
満足度★★
完全アウェー^^;
第二部のライブはなかなか辛い状況にでした。隣のネエちゃんが熱狂するにつれどんどん置いていかれる自分。手拍子が精一杯^^;第一部の芝居もどこか醒めた眼で見てしまい,芝居としての満足感は乏しいものです。連れがそこそこ満足してくれたこと,経験としてはまぁ楽しめたことから,総合としては良しとしましょう。
その族の名は『家族』
こどもの城 青山円形劇場/ネルケプランニング
青山円形劇場(東京都)
2011/04/13 (水) ~ 2011/04/28 (木)公演終了
満足度★★★★
池袋と青山、それぞれの家族
ハイバイの「て」をほぼ踏襲した内容でしたが、
役者達の味がしっかりとしみ出して、
東京芸術劇場とは肌合いの異なるこの家族の質感があって。
それはそれで、時間を忘れて、
青山円形の家族の刹那にとりこまれることができました。
ネタバレBOX
この作品のハイバイバージョンは
東京芸術劇場での再演にすっかりはまって、
めり込むように公演の2度観までしています。
それは鳥の糞を目印に重ね合わされる物語の表裏に
単なるネタバレ的な時間の繰り返しにとどまらない
家族のぞくっとくるような関係性や
伝わってくる個々の内なる想いの鮮やかさに圧倒された
舞台でした。
その時の「て」と観たものと今回での作品の構造は
概ね変わるところはありませんでした。
にもかかわらず、
青山円形劇場の舞台からは
ちゃんと円形劇場の家族の匂いがする。
父と子の関係にしても
夫婦間の想いにしても
台詞が同じでも
円形の舞台に立つ役者達の個性が
東京芸術劇場の家族達とは違う雰囲気を醸し出していて。
比較になってしまい恐縮なのですが
どちらかというと、舞台上から、
家族の過去から積み重なってきたものの色が減じられ
わだかまりのテンションが薄められる一方で
家族のナチュラルな質感が誇張を少なくして描かれ
空間を満たした感じ。
ハイバイバージョンで垣間見えた
日々を暮らす空気のエッジが
観る側に飲み込みやすいように丸くされて、
その家族独特の歪みの鋭角さに心を捉われるのではなく
一般的な家庭の普遍的なレベルでの関係性や不器用な愛情、
さらにおかしさやその先にあるペーソスが
観る側を柔らかく浸潤していくような作りになっていました
それは、
ユースケ・サンタマリアがマイクを持って部屋に乱入する
事情が明かされた時の可笑しさや
研ナオコが自らの死を演じる時の遊び心なども
さりげなく舞台にとりこむ土壌ともなっていて。
なんだろ、演劇としての歯ごたえを抑え
食べやすくされているような感覚があったのは事実。
でも、一度目の時間の流れに
二度目の時間が裏地として縫い合わされていく構造から伝わってくる
家族の想いの表裏や奥行きが鮮やかに浮かび上がってくることは
池袋でも青山でも変わりはなくて。
家族という集団がもつ普遍性を滴らせる
戯曲の秀逸はなんら損なわれていない。
舞台にしつらえられた街灯がとてもよい工夫で、
したたかに空間が作られていきます。
家の内と外、家族の建前と本音、時間の表裏、
さらには芝居の範疇への入り方と出方・・。
なにげなく観る舞台に
様々な切り口が組み上げられ
役者たちのお芝居がその中で
個々の色合いをしたたかに醸し出していく。
観終わって、この舞台本来の面白さに加えて
ハイバイバージョンを観た時と
同じ形で違う色合いの想いが注ぎ込まれていたことも興味深く、
また、それを成し得る戯曲の強度のようなものにも
改めて舌を巻いたことでした
「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査
福岡市文化芸術振興財団
ぽんプラザホール(福岡県)
2011/04/22 (金) ~ 2011/04/23 (土)公演終了
満足度★★★★
観せることと読むこと。
上演順は日替わりだったそうで、審査日は「柿喰う客」が先、「village80%」が後でした。
公開審査にて、さすがの評論が展開されたので、あくまでも審査前に感じた(アンケートに書いた)事のみ。
決定的な差は「この戯曲のキモ(作者が最も伝えたかった所)はどこか」という部分をどこかと探る所に、両演出家に差があったのかなと。
作者の意図に沿うのか、演出家が強調したい部分に沿うのか。
核を元に肉付けをしているのなら、そういった出来上がりになっていたはずであるから。
ネタバレBOX
village80%でもったいなかったのは、ベッドの上が空っぽだったことです。
「空っぽにしたい」という演出であったなら、審査員からの指摘にもありましたが、羽音が彼女の周囲で起こることには矛盾?違和感?を感じました。
「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査
福岡市文化芸術振興財団
ぽんプラザホール(福岡県)
2011/04/22 (金) ~ 2011/04/23 (土)公演終了
満足度★★★
両者の力量差は歴然
コンペ作品2作を同時に☆評価させるというのはどうなのだろう。それぞれの項目を立てるべきものじゃないのだろうか。
「柿食う客」を☆☆☆、「village80%」を☆☆として、「満足度」には「柿食う客」の方を入れることにする。
しかし、「柿食う客」が演劇的に極めてアグレッシブであったのに対し、「village80%」は“頭でっかち”の印象が強かった。
観る前はそれぞれの劇団のこれまでの活動を鑑みて、「どちらも個性を発揮していてよかった」くらいのことは言えるかと思っていたのだが、villageの力量不足はあまりにも明白である。学生演劇ならばまだしも、それなりに公演を重ねてきたプロの劇団としては、とても評価に値するものではない。演出が戯曲と乖離して、台詞を殺してしまっているのである。
対して柿食う客は、本来ならこの戯曲の演出としては不適当な彼らのスタイルを、戯曲を解体することで強引に自らのものとして引き寄せて見せた。正攻法ではないという見方もできるが、演劇に何が正道で何が邪道かという規定はない。一見、不条理劇的ではあるが、一般客も充分に楽しめるものになっていたと思う。
ネタバレBOX
戯曲と演出とは不可分である。演劇が総合芸術である以上、それは当たり前のことだ。villageの失敗は、演出が“先走った”結果なのではないか。渡部光泰の演出は、とても戯曲を読み込んだ上で考えられたものだとは思えない。
テネシー・ウィリアムズの戯曲はミニ『欲望という名の電車』である。ムーア夫人の「虚言癖」は、『欲望』のブランチと同質のもの。自らのウソが作り出した妄想に飲み込まれた哀れな女の姿を描くことが第一の主題だ。作家もまた、彼が自称するチェーホフではない。
しかし、作家が主張するごとく、夫人のウソは真実であって然るべきなのだ。哀れな女が哀れでなくなるための必死のウソが、どうして真実であってはいけないのか。だから作家もチェーホフであるべきなのである。
この戯曲を演出するためのキモは、彼らの語る言葉が明らかにウソでありながら、真実かもしれない、いや、真実にしか思えないと、どうしたら観客に感じさせることができるか、その点にあったと言えるだろう。
villageは、3人の登場人物の間に、6人の「白い服の人」を介在させた。ある時は3人の台詞をなぞり、ある時は3人に絡み、ある時は3人に弄ばれる6人の「彼ら彼女ら」は何者なのか。いや、ゴキブリだろうがシラミだろうがゴーストだろうが何者だって構いはしないのだが、問題なのは、彼らが演劇的存在として全く機能していない点である。
狂言回しとして、コロスとして、物語を牽引するわけでもないし、黒子に徹するわけでもない。陰の主役を担わされているわけでもない。決定的にダメなのは、戯曲のテーマを浮かび上がらせる方法論を内在させていないだけでなく、かえって邪魔をしてしまっていることだ。
舞台空間は、そこに人がいればいいというものではない。空間もまたそこにある「俳優」である。そして、この戯曲の場合、ムーア夫人を取り囲む空間は、彼女の「孤独」を演出している。それをごちゃごちゃした白い人で埋め尽くしてしまったことで、villageは舞台を「何の意味もない場所」にしてしまったのである。
戯曲を読解する力もなく、マットウな演出ができないのなら、いや、あえて好意的に「戯曲の意味をわざと無視して、自分たち独自の演出がしたいのなら」と言い換えるが、その場合は戯曲そのものを解体して、自分たちのスタイルに合わせるくらいのことをしてもいいではないか、台詞だって翻訳通りのものに拘る必要はない。
そう思って「柿食う客」版を観ると、villageの欠点が見事に解消されていたので驚いたのだ。
戯曲の台詞が自由に組み替えられ、6人の俳優の役柄も随時移動し、繰り返される台詞は音楽と相俟って、いくつもの意味が重ねられていく。この台詞の重層化が、「台詞を解釈する時間」を観客に与えることになる。
彼女は何者か、彼は何者か。一人一人の俳優の演技は、決して巧くはない。中には韓国人俳優もいて、発音すらたどたどしい。しかし同じ台詞を何度も聞かされた後、“明らかに他の俳優たちに比べて演技的に劣ってはいるが一生懸命に台詞を紡ぎ出す姿”を見た時、我々はそこに彼の「誠実さ」を発見することができる。最初は笑って彼の台詞を聞いているが、じきにそれが「感動」にシフトしていくのだ。
だから最後の「ワタシハ、チェーホフデス」の台詞に、彼の優しさと労りを感じることができる。あたかもSF小説の中で、心を持たないはずの人形、ロボットに、人間の心が宿った、と感じられた時のように。
villageも柿食う客も、決して巧い役者を揃えた劇団ではない。
しかし、実際に舞台を観た時の彼我の差はいったい何によるものなのだろうか。基本的すぎることを言うようだが、やはり戯曲に向き合い、読み込むことができたかどうかの差だったのではなかろうか。
villageは、奇を衒うことに躍起になるあまり、自分たちの演出にどのような効果があるか、という基本的な計算をすることを怠った。それが「観客不在」の独り善がりの舞台を現出させてしまった原因であろう。villageはまだ“演劇以前”のところで立ち止まってしまっているのである。