
The Freak
劇団カルタ
RAFT(東京都)
2026/05/29 (金) ~ 2026/05/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2026/05/30 (土) 19:30
取り壊しを控えた古い借家。そこに住むリョウタのもとへ、ある夜、スズコとその恋人のユウゴがやってくる。リョウタが二人を呼んだ理由は、この部屋に現れる幽霊ノゾミを見てもらうためだった。
実は、10年前の大学時代にもスズコとリョウタと仲間たちは、幽霊ノゾミを成仏させようと奮闘したが、結局その後もリョウタのいる借家に居続け、成仏は失敗に終わって現在に至るというようなところから、リョウタの借家をメイン舞台に、幽霊ノゾミを巡って、ひたすら議論し、時に反発し合いながら、解決策を探りつつ、最後はどこか切なさが残る劇だった。
今まで観た幽霊が出てくる映画や劇ではなかなか考えられない、ホラーでもなく、人情喜劇、ファミリーコメディとも言い切れない、なんとも形容し難い劇作品で、新鮮だった。
笑いもところどころありつつ、幽霊ノゾミが全然恐怖を感じさせない、人間より人間臭いのも相まって、群像青春劇と言った感じが強く、借家を舞台にしている辺り、1960~70年代の安下宿でありそうな仲間たちとの結び付きが非常に強く、泥臭くてウルサイけれど憎めないような関係な感じの登場人物たちだが、借家内部の舞台セットはどこかお洒落で、どう考えても映画やドラマに出てくるようなシェアハウスの内装そっくりで、その感じからむしろ最近流行りの『タテドラ』のような感じもない混ぜになっていて面白かった。
リョウタと幽霊ノゾミが10年も一緒に暮らし、リョウタの悩みも聞いてあげたりする関係なのに、幽霊ノゾミのズボラで何処かふざける性格で、全然呪縛霊感はないが、何処かウザさが言動に表れがちなのもあってか、リョウタの性格が正反対なのもあってか分からないが、お互い自分の気持ちに素直になれていないということが、スズコの発言などによって浮き彫りになっていくのが興味深かった。
劇の途中まで、スズコが幽霊ノゾミに対して素直になれないような素振りを見せたり、急に怒り出したりして、どこか思わせぶりな態度に出るものだから、てっきりこれはGL(Girls Love)展開かと勝手にドキドキしたものだが、そういう意味では無かったと途中から分かり、少し残念だった。幽霊ノゾミが日常の会話に溶け込むように入っている劇で、どこか切ない劇というだけでも良いが、そこにGL要素をさり気なく折り込み、3角関係要素も盛り込むと、話がもっと膨らんでいく可能性があるのではないかと感じた。
今回入った劇場の席数が小劇場の中でもかなり少なく、劇場自体も狭いところで、演劇を観ていると言うより、良い意味で、稽古場公演を観ている感じがして、すぐ側で隣の家の様子を息を殺して覗き見ているような感覚で、作品世界に入り込みやすかった。

声が走る。浪曲が走る。
日本浪曲協会
横浜にぎわい座・芸能ホール(神奈川県)
2026/05/26 (火) ~ 2026/05/26 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/05/26 (火) 13:00
今回横浜にぎわい座と言う演芸場で、『声が走る。浪曲が走る。』と言う女流浪曲師6名、曲師6名による比較的若手の女流浪曲師中心の掛け声コーナーあり、浪曲あり、浪曲の歴史や豆知識について、アメリカのスクールドタバタコメディのようなコント形式で伝えたりと、創意工夫が感じられ、観ていて全然見飽きなかった。
浪曲は今まで、伝統芸能の野外のイベントで複数回観たことはあるものの、屋内の劇場で観たことは無かったので、最初、正直、浪曲師の唸りを静かにじっくり聴くという感じで、一元様お断りな空気もあるんじゃないか、似たような節回しを聴いているうち、退屈で眠くなってくるのではないか等の不安があったが、実際に観聴きしたら、そんなことは一切なく、良いタイミングで、声援を観客が出すこともでき、リラックスして、時に大いに笑いながら楽しめた。
周りの客層は高齢者が多かったが、一元様お断りといった感じはなく、伸び伸びとして、自由な感じで、ノリが良い感じで、温かい気持ちになれた。
浪曲の内容も比較的頭に入ってきやすいものが多く、落語のように伸びやかに難しく考えず、楽しめた。
古典も新作もあったが、飲酒を断った筈の母里太兵衛が福島正則の酒の誘いを断り切れず…というようないつの時代でも頭を悩ます問題等、現代の感覚でも全然共感できる内容のものが多く、物語に入り込みやすかった。
新作の『ルミの場合』では、人生に絶望した若い女性の前に悪魔が現れ、「寿命をいただく代わりにお望みの人生にしたまします」と営業を持ちかけられるが、絶望しているからどう生きたいかなんて分からない。悪魔が去った後、捨てられたギターを持ち帰って弾き始めたところから人生が少しずつ変わっていくという内容で、最近の小劇場演劇やアニメで取り扱いがちな紆余曲折を経ながら主人公が成長していく自分探し作品で、しかも、その新作浪曲の途中の場面で、悪魔の誘いに乗らないと決心したりと、最初自暴自棄になって死にたがっていた主人公の目に見えるような成長ぶりに驚き、最後のほうの場面で、まだやり残した感じもありながら、幸せな感じで終わっていくのに、感動した。
自殺する若者が多発し、精神を病む人も多発し、引き籠もりになって、家を出れなくなる人も多くいる、そんな生き辛い世の中だからこそ、必要な作品だと、強く感じた。
最後の玉川奈々福さんによる浪曲「仙台の鬼夫婦」の実は道楽夫を思えばこそ、鬼となり、厳しく当たる妻のお貞との情愛溢れる感じが、落語「芝浜」と内容は違うけれども、似たような接点を感じ、違うジャンルであっても、似かよる部分ってあるものなんだなぁと感心してしまった。
また、鬼の如く容赦無く恐妻と化すお貞を演じる際の玉川さんの顔芸と怯える駄目夫の表情に大きく変化をつけ、夫婦漫才に匹敵する程、丁々発止のやり取り、ドタバタコメディで大いに笑え、表情を見ているだけで、楽しめた。
それにしても、浪曲師も数多くいるとは思うが、ここまで、落語並みの表情の豊かさとこ気味の良いテンポで話を進める浪曲師はそうそういないのではないかと感じた。
今回の催しを通じて浪曲が、和製ミュージカルと言われる所以が分かった気がした。登場人物たち同士の台詞と謡いとが不自然に聞こえない程自然に連動していて、なる程と思ってしまった。
浪曲自体は、明治から始まった芸能というのも初耳で、良い勉強になった。

ブン/ダン
劇団チャリT企画
新宿シアタートップス(東京都)
2026/05/20 (水) ~ 2026/05/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/05/23 (土) 19:00
劇団チャリT企画の公演を観るの自体は確か、今回の劇含めて3回目だったと思うが、相変わらず日常の会話の中に色濃く、それでいて不自然でない感じで、政治や社会問題が取り上げられ、それでいて真剣に緊張感を孕み続ける展開ではなく、大いに観客を笑わせ、飽きさせず、固唾を飲んで見守ると言うよりかは、肩の力を抜いて気楽に観ながら、劇の最後で深く考えさせられ、すーと寒くなるような作風で有名だ。
ルールもへったくれもあったもんじゃない”力”によって支配されたしっちゃかめっちゃかな世界
「センソーハンタイ!」を叫べば「センハラですよ!」と訴えられ、スパイ防止法が施行され、国旗損壊罪が成立し、憲法改正が次々に実現して、国内の国民の分断も行くところまで行ってしまっているありそうであり得ない近未来SF劇だったが、劇の具体的な舞台となるのはシェアハウス、それもドラマやLGBTQ+の恋愛リアリティーショーに出てくるようなお洒落なカフェのような感じではなく、1960年代や1970年代で言うところの貧乏学生や売れない画家や漫画家、映画監督、演劇人がいた下宿をもう少し清潔感がある感じにしたといったセットち登場人物で、何だか親しみが湧き、近未来が舞台の筈なのに、チャリT企画らしさが全面に出ていて、劇中の会話に出てくる家の外を自警ロボットが彷徨いているのが日常化していたり、国旗が破かれたようにも見えるデザインのTシャツやポスターも国旗損壊罪に当たるかも?と言うような拡大解釈の危険性も会話の中に落とし込んでいて、その日常に潜む不穏さとのバランスの取れた描き方に感心した。
シェアハウス『テラダハウス』内の掲示板は、基本何を貼っても良いことになっていたが、新入居者で普段会社でコンプラ研修等にも関わっているという二階堂さんが、テラダハウスのオーナー寺田さんに、掲示板に貼られていた反戦デモのお知らせのチラシや戦争反対について書かれたビラ等が掲示板の一定数をしめていることを取り上げて、今の時代反戦デモや戦争反対について書かれたビラを見て、不快に思ったり、傷付けられたり、精神病んだりする人がいるというような懸念を伝え、それを受けた寺田さんはシェアハウスのみんなで話し合った上どうするか決めようと言うような話しが劇中出てくる。
そして、まずはシェアハウス内の皆と話し合ってから決めようと言うつもりだった寺田さんがいなくて、二階堂さんしかいない間に、反戦デモのお知らせのチラシや戦争反対について書かれたビラが無くなっていたり、その後、日の丸が破かれたようにも見えるデザインのポスターが無くなっていたり、テラダハウス居住者の中村さんの弟がデモ中に自警ロボットに標的にされ、ボコボコにされ、片足を負傷した関係で1次テラダハウスに住まわせるが、それでなのかどうなのか、シェアハウス『テラダハウス』の外回りを複数の自警ロボットに包囲されるというような危機的状況が劇の後半で描かれ、シェアハウスの住人内でも猜疑心と意見の相違から分断が深まっていくという展開になっていき、ただ普通に暮らして、平和的なデモ行進に参加する人もいて、自由にものが言えて、表現できてと言ったような必要源の日常が静かに少しずつ、音もなく壊されていく怖さが、時々下らない笑いも含めて描かれていて、思わずゾッとしてしまった。
しかも、シェアハウス『テラダハウス』内に、一見人当たりが良く、性格も良さそうに見え、それでいておかしいと思ったことにはハッキリ言うタイプに見える二階堂さんが新入居者として入居してきたことが切っ掛けで、反戦デモのお知らせのチラシや戦争反対について書かれたビラが無くなっているトラブルや電話傍受が明らかになったり、但し盗聴器は見付からず、盗聴器を設置した犯人は分からずといった感じのことが立て続けに起こり、もしや二階堂さんは政府のスパイなのではないかと匂わせる場面も観客には見せており、本当に劇の最後の方で確実にそうかもと感じさせる場面が展開し、震撼させられた。
世の中、イカにもスパイと分かるような言動、行動は映画やドラマではあるまいし、しないよなぁとその手口の巧妙さに呆れ、感心してしまった。
しかし、現実には政府のスパイが今時潜入捜査的な接触の仕方はこの情報社会においてリスクが高過ぎる。
実際には、もっと目に付きづらいパソコンやスマホ内の履歴や個々人のSNS情報から、どういった思想信条、どういった嗜好なのか、名前や電話番号、メールアドレスまでも、やろうと思えば割り出し、言論統制といったことにも活用できてしまうことが技術上は可能。
今のところそういった個人情報を政府が言論統制的な枠組みにおいて、露骨に活用しないのはまだ与党内にも最低限の倫理観がある議員が一定数いるからとも言えるが、この先、高市首相の異性の良い発言も相まって、今回の劇世界が完全に現実とはかけ離れたディストピア近未来劇とも言えないところが、非常に恐ろしく感じた。
正に、今演る、意義のある劇だと感じた。
劇の最後の方の場面で自衛軍をイスラエルに派遣が決定したニュースにシェアハウスの居住者が騒然となり、シェアハウス居住者の雄大さんと大平さん、中村さんが警察に捕まり、と言ったような気な臭く不穏さを残し、全然ハッピーエンドとは程遠く、一抹の希望すらない展開に愕然とし、私たちが政治や社会問題に対して、曖昧戦略や無関心な態度を取り続けたら、いつかこれに近い事が起こり、いつの間にか戦争に加担させられかねない状況になってしまう可能性が高いと感じ、気を引き締め、物事や政治、社会問題や戦争、紛争に対して諦念に駆られず、常に感心しを持ち続け、選挙にも生き続けることが大事だと、改めて、強く感じた。

魔法少女マジョリティ
劇団はみだしぼっち
シアターシャイン(東京都)
2026/04/23 (木) ~ 2026/05/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2026/04/24 (金) 19:00
魔法少女ものの劇ということで、勝手に何となく、キャッチーで軽くて、あんまり考えずに観られる劇かと思って、観に行ったら、近未来が舞台になっているものの、魔法少女の可愛さ(衣装も含めて)や笑いもありつつ、社会問題や今の日本の現状を肥大化させたような世界が描かれ、身につまされるものがあり、良い意味で思っていた感じと違って、衝撃的だった。
劇の冒頭で、女子アナに扮した役者がフリップネタを披露したが、フリップネタの中に『クレヨンしんちゃん』に出てくるボー君など分かり易く、大いに笑えるネタもあったものの、フリップネタ全体としては正直全然笑えず、周りの観客を何気に見ても白けてしまっていることも多く、この役者白けさせる天才かと、嫌味とかではなく、感心してしまった。むしろ、これからは、その役者自身のなにげに白けさせてしまう才能を自虐ネタにして笑いに変えるという、逆転の発想もありかなと感じた。
劇中、ところどころ、歴代の魔法少女もののアニメや『ハリーポッター』シリーズに出てくるキャラをネタにした笑いや隠れミッキーならぬ、劇中の随所に魔法少女もののアニメや『ハリーポッター』シリーズ等に対するオマージュがなされていて、大いに楽しめた。
また、魔法生物であるぬいぐるみで喋るはちべぇが、明らかに『魔法少女まどか☆マギカ』に出てくる、魔法生物きゅうべぇに寄せている気がして、脚本·演出の渡辺佑美さんの魔法少女愛が色濃く感じられた。
劇中で、魔法少女朝子(演じている役者がどことなく元NMB48に似ている)が魔法だけでは倒せない敵に対して、朝子の魔法生物であるはちべぇの助言で対戦をすることになるが、ベイブレードはまだ良いとして、かき氷の早食い対決は、その無茶振りっぷりが平成アイドルのバラエティ番組の罰ゲームを彷彿とさせて、観ている私たちをハラハラドキドキさせ、最後の対戦のカードゲームは、『小さ過ぎて見えねぇよ』的なことを朝子が楽屋ネタ的、的確なツッコミもあって大いに楽しめた。
ただ、対戦場面で、観客を半ば強制的に役者が適当にその場で選んで、観客に無茶振りをやらせたら、より面白いとも感じた。
今回の劇では、魔法少女朝子が最初は何も考えずに、魔法生物はちべぇに言われるままに敵を倒し、そして敵を倒すと、お年寄りや小さな子どもから、学校の同級生や先生にまで褒められたり、感謝されるもので、それが心地良いのもあって、日々敵(ヴィラン)を倒す日々だった。
しかし、劇の途中で魔法少女朝子はこのままで良いのかと自問自答し始め、自分が倒していた敵の中に、同級生がいたり、敵が何を言っているか分からなかった騒音は、社会問題等かなり真っ当なことを訴えていたことが分かり、一体敵とは何なのか、自分が戦うべき相手とはということに思い悩み、塞ぎ込んでしまう。
そして、実は魔法生物のはちべぇが…という流れが非常に現代的なテーマを孕んでいて考えさせられた。
特に魔法生物のはちべぇが時々口にする『君は何も考えなくて良いんだよ。敵は敵さ』というような言葉が単なる絵空事とも思えず、自分も劇中出てくる登場人物のように半ば諦め何も考えずに他人に流されている時がないか、世の中の事柄に無関心になっていることはないか深刻に考え込んでしまった。
この劇を通して、無関心ほど怖いものはない。
為政者は分断を煽り、国民の不満の捌け口として、少数派や外国人を敵に設定する。
そうすると、国民が本来関心を向けなければいけない、国家に監視されていないか、思想信条の自由を奪われていないか、平和が崩れ知らぬ間に戦争に突き進んでいないか、不正を隠蔽しようとしていないかといったことよりも、国民の関心が簡単にそういった仮想敵に向いてしまう(同調圧力が効きやすい日本社会では特に)危険性があり、世の中の無関心がより国家や時の為政者の暴走を簡単に許してしまう危険性を、この劇では如実に物語っている。
考えることを辞め、国家や為政者(政治家)が言うこと、発信することを真に受けるのではなく、国や為政者(政治家)の言うこと、発信することに対して、疑問を抱いたり、1度立ち止まって考えること、対立を煽ったり、威勢のいいことを言う政治家等を信じないこと、対立よりもどうやったら理解できるのか、仮に相手が文化も言語も全然違う国だとしても、勉強し理解しようと努力し続けることの大切さを、この劇を通して改めて考えさせられた。
今回の劇では、本当の敵は身近で信頼していた魔法生物はちべぇだったが、実際は、本当の敵は誰というようなことは基本なく、この人は敵、この人は味方と自分の中で分かり易くレッテル貼りをするところから、それが段々と集団に波及し、肥大化していくと、社会の中で分断が深まっていくのかもしれないと感じた。
敵とは、自分とは文化や言語が違う、自分にないものを持っている、自分と違うファッション等、嫉妬や嫉み、僻み感情がいつしか憎しみ、偏見、差別等に変わっていき、出来上がっていくものではないかと感じた。
相手を知ろうと努力し、国レベルで言えば、外交し、理解し合おうと地道に根気強くアプローチし続ければ、戦争や争い、偏見や差別は解消するのではないかと感じた。
今の時代、相手に対しての想像力が著しく欠如しているから、差別や偏見、SNSで簡単に相手への誹謗中傷等を書けてしまうのではないかと感じた。
相手のことを知らないから、余計に不安になるし、恐怖も抱き、それが引いては外国人問題等にも繋がっていくのかも知れないと今回の劇を観ていて、強く感じた。
今回の劇の中で、最後のほうの場面で、今まで敵(ヴィラン)と思って、あんまり考えずに倒していた敵(ヴィラン)と話し、言いたいことをお互いに言い合った後、双方が理解し合おうと歩み寄っていく感じで終わっていくのに、少しの希望を感じた。
そして劇中、学校の同級生で敵(ヴィラン)と魔法少女朝子との関わりにおいて、GL(Girls Love)的展開を匂わせる場面が出てきたことも、個人的には良かった。
魔法少女なのに朝子という少し古風な名前も面白かった。
また、劇中あちこちに出没する敵(ヴィラン)が基本中央線沿線にしか出ないという謎の縛りや高円寺や阿佐ヶ谷のどこどこに出たと言うようなサブカル的で庶民的な場所に、妙に具体的に情報が表現されているのが、自虐的で、共感でき、笑えもした。

イタイ★ホテル
enji
吉祥寺シアター(東京都)
2026/04/16 (木) ~ 2026/04/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/04/16 (木) 19:00
今まで遺体や遺体の遺族に関わる話だとファンタジックな要素が強めか、深刻な話になりがちだが、そういった話ではなくドタバタコメディと言うのが新鮮で真新しかった。

イタイ★ホテル
enji
吉祥寺シアター(東京都)
2026/04/16 (木) ~ 2026/04/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/04/16 (木) 19:00
24時間対応、ご遺族の宿泊も可能なホテル風鈴/通称【遺体ホテル】を舞台にした、遺体の個性豊かでアクが強すぎる遺族たちと新米の女性のホテルコンシェルジュとの交流、遺体の生前恋人だったゲイの男性と同姓同名だが当てられている漢字が違うことから遺体の取り違いのトラブルがあったり、派手な生前葬、役所の職員の東北出身の姉が父親の葬式を東京のホテル風鈴で役所職員の弟に黙って勝手取り行おうとしたり等の勘違い含めたドタバタコメディで大いに笑えつつ、感動的な要素も織り込まれていて、そのバランスが良かった。

賢治の風
劇団演奏舞台
演奏舞台アトリエ/九段下GEKIBA(東京都)
2026/04/10 (金) ~ 2026/04/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/04/11 (土) 18:00
前に1度、劇団演奏舞台の劇は、現代能演出の能『藤戸』を観たことがあったが、今回の宮沢賢治の詩集の朗読や童話『どんぐりと山猫』を中心とした『賢治の風』の舞台とでは、舞台の構造自体が違っていて興味深かった。
『藤戸』の際には、能舞台を現代化したかのような抽象的なセットで、どこか観ている観客にまで緊迫感と極度の集中力を強いる舞台だったのに対し、今回の『賢治の風』では、宮沢賢治の詩や童話を扱っているせいか、時に耽美さや緊張感、不穏な空気感を与えつつ、電子音楽のような生演奏が付き、照明やスクリーンに映し出される美しい映像が朗読と混じり合うことで不思議な一体感が生まれ、日常と非日常の境目が段々と曖昧になっていく没入感覚に、『藤戸』の時の能舞台を現代に蘇らせた感じとは違った空気感を感じた。
普通宮沢賢治を取り上げるというと、映画やアニメ、漫画、演劇、朗読劇を問わず、普通は童話中心で、そこに多少詩を織り交ぜることが多いと思うが、今回の朗読劇ではそう言った既成概念に囚われず、宮沢賢治の詩集から、私の知っているものから知らないものまで、数多くの詩を、時に情感豊かに、また、深刻に、そして、耽美さ、切なさ、やり切れなさ、不穏さを含んだ感じまで、それぞれの詩で全然空気感を変えていて面白かった。
朗読劇の『どんぐりと山猫』では、一般的に山猫がズボラで田舎者だが、憎めず、人の良いキャラとして描かれがちなのを、今回はどこか不気味で、掴み所がなく、ただ威圧的と言うより、超自然的で逆らったらどんな不幸が待っているか分からない存在として、山猫、そして山猫の腰巾着にも見える御者が時にコミカルさやバカバカしさを備えながらも描かれていて、そのバランスと日常に非日常が当たり前に浸食しているシュールさを兼ね備えた、笑えながらも、どこか残酷性が混じった世界観に引き込まれた。
それと、どんぐりたちのガチャガチャした感じと、山猫に会いに行く少年の妙に純粋無垢な感じのさじ加減が大いに笑え、少ないキャラ1人1人が際立った演出が良かった。
全体として、大人の宮沢賢治という感じがして、こういう視点もあるのかと考えさせられた。

遠津川の両雄
祭文庫
シアター711(東京都)
2026/03/20 (金) ~ 2026/03/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/03/22 (日) 17:00
中世大和の奥また奥、吉野の山を行き越えて、人馬通えぬ遠津川(とほつかわ)。
秘境も断崖、田畑無し、天智天武の戦より、千年数えし免租の地。
雲海彼方の霊場を、変えぬ傑物、変える傑物という感じで、CoRichに載っていたあらすじが頭に入ってきづらい内容だったが、実際に観てみたら、勝手に私がイメージしていた怪奇幻想的要素が色濃い時代劇演劇と言う感じか思っていたら、良い意味で違って裏切られた。
信貴維綱(シギコレツナ)と北広時(キタヒロトキ)の2人は幼馴染で、今は遠津川の指導者と信貴(シギ)の妻の礼子(ライシ)と、信貴(シギ)、北(キタ)の幼馴染の慧(ケイ)を中心とした、アクション少なめ、但し、多少の怪奇要素ありの、ドラマ要素強めの、時に笑いあり、緊迫感に満ち溢れた作品で、そのバランスが良かった。
性格も目指す方向性も全然違うものの、幼馴染の信貴(シギ)と北(キタ)の2人が、段段と考え方の違いが決定的になり、遠津川とその近辺の平和を守る為、北(キタ)とそれに結果的に付いて行った者たちとを討つという難しい決断というか、覚悟を決める信貴(シギ)という風なドラマ重視で、変えようのない宿命の要素にも重きを置き、ハラハラドキドキで、最後は誰の得にもならないような終わり方になっていく悲劇的で、痛快とは程遠い、重くのしかかってくるような劇に、考えさせられた。
1時代劇演劇と言うだけに留まらず、世界各国で戦争や紛争が勃発し、日本やアメリカ、欧州でもポピュリズムや排外主義が蔓延りと言った不穏な時代において、今回の劇の中では、信貴(シギ)も北(キタ)もお互いの主義主張を一切捻じ曲げず、遂には最終的に戦わねばいけない状況に追い込まれるまでを丁寧に描いており、意外と国レベルの戦争や紛争等も、こう言った些細な意見の相違等の積み重ねで、取り返しの付かない悲劇に発展することも多々あるのではないかと(最もそうでない場合もあるだろうが)、取り返しの付かない争いに至る過程が丁寧に描かれており、分かり易くて、且つ自分とは全然違う意見の人がいても、完全に突っぱねたり、自分の意見が正しいと押し通すのではなく、話し合いを繰り返し、理解し合おうと努めていくことの大切さを改め思わされた。
また、時代劇演劇だが、従来の時代劇演劇と違って殺陣に重きを置き過ぎていないのが、新鮮だった。

帰ってきた?! 新版:プレイス・リバティ
海ねこ症候群
小劇場 楽園(東京都)
2026/03/05 (木) ~ 2026/03/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/03/06 (金) 19:00
今回の劇は、再演ということはCoRichチラシのタイトル的にも分かるようにはなっているが、厳密には新板とはどういった感じか、新板と再演に違いがあるのか、あんまりピンと来なかったが、実際に会場に行くと、パンフレット代わりの無料冊子があり、それの中身を開演前に見たのと、劇が始まってから、出てくる登場人物たちの関係性や舞台セットの女子トイレ、トイレットペーパーなどを観てみて、しっくりきた。
具体的には、無料冊子やチラシに書かれていた主人公のトイレの住人成願寺高校3年清水詩織さん(訳あり)と廃部寸前のオカルト研究部対生徒会と謎の女子高校生(実は学校の7不思議の1つ、トイレの花子さん張本人)の全然接点が無いようで、徐々に関係性が浮かび上がってくる感じが、イラストも相まって分り易かった。
但し、実際に劇の中身を観てみると、登場人物たちの関係性や生徒会長石田亜紀さんと主人公の清水詩織さんとのかつての関係性、調整型で温厚そうに見える生徒会長石田亜紀さんが生徒会長になってから、下駄箱に必ず誹謗中傷が書かれた紙が沢山入っている、こういったタチの悪い悪戯をする真犯人が実は生徒会内で誰よりも生徒会長のどんな相談にも親身になって聴く、誰よりも生徒会長の理解者で真の友達だと豪語していて、生徒会長の石田さんからも信頼されていた女生徒だったりと、劇も終盤に差し掛かると、単なる対立、摩訶不思議でオカルトな要素、そして軽快なコメディというだけではないんだなという、クラスの陰湿な虐めや嫌がらせ、嫉妬など、学校という狭い世界の中での社会問題を次々に浮かび上がらせていく展開が、軽く想像を飛び越えていて、良い意味で衝撃的だった。
初演を私は観ていないので何ともだが、初演では女子高という設定を今回は共学の学校という設定に変え、オカルト研究部なる新たな存在も出すことで、シリアスに行き過ぎて、救いがあまりない内容になるところを緩和して、ワチャワチャと騒がしく、楽しいコミカルな部分と、トイレの花子さんやトイレの神様などの摩訶不思議な存在などが混じり合うことで、とてもバランスの取れた劇になっていたと思う。
普通謎の女子高生(トイレの花子さん)はどこか不気味で、隙きあらばトイレの中に引きずり込もうとしたりするような気がするのに、今回の劇での花子さんは、優しくて、寂しがり屋で、何処か子どものような純真さをもっていて、オカルト研究部の部員たちとも仲良くなったり、孤独感を抱え込み、相手との間に壁を作る主人公の清水詩織さんとも段々と仲良くなったり、その辺の人間より人間味のある幽霊として描かれており、一方で成願寺高校の生徒たちの人間関係のほうが余程複雑で、周りと少しでも違ったことをしたりすると、裏で陰口叩かれ、時に集団無視され、陰湿な虐めだけでなく、嫉妬や恨みの対象にさえなり、今日まで学校の頂点にいても、いつ振り落とされるか分からない、陰謀渦巻く歪んだスクールカーストとの比較が見事だった。
トイレの花子さんを親近感のわく女子高生として描いているのは新鮮だったし、トイレの神様が威光なんて微塵もなくて、庶民的な上に、細かくて、人間臭く描かれているのも共感できた。
意外と、幽霊=怪奇、ホラー的に必ずしも描く必要もなければ、神様=絶対的で威厳を持つという風に描かないといけないという事はない、柔軟性に富んでいても良いんだと立証してくれた作品だった。
ノリ的には、映画『学校の怪談』シリーズと近いと感じた。勿論、そこまでの絶望的な怪奇現象、ホラー要素こそないけれど、上手くいかない人間関係やすれ違い、虐め、嫉妬や恨みなどの要素が物語に影響を与えている部分など、良い意味で共通点が多く見受けられた。コミカルな部分が要所要所で出てきて結構笑えるところも似ていたが、今回の劇のほうがより笑える場面も多くあった。
イメージしていた以上に、軽いだけのエンタメ摩訶不思議芝居ではなく、軽快な笑いも多いし、怪奇現象も時にコミカルに、手作り感満載で描かれるが、学校内で起きている社会問題にも登場人物たちの視点から、具体的に斬り込んでいて、思った以上に考えさせられた。
特に、生徒会長の石田さんが、1番の親友だと思っていた生徒会内の女生徒の個人的な嫉妬が原因で嫌がらせの紙を下駄箱に入れていたことも劇の後半で明らかになり、自分の今までの生徒会長としての言動に自信が持てなくなり、人間不信になってトイレに籠もる場面、皮肉にも今までトイレに籠もっていた清水詩織さんによって心が徐々に開いていくという終わり方に、人生常に勝ち組ということもなくて、どこで脱落するか分からないが、それでも、一旦動けなくなってしまった状態を無理に周りに合わせようと努力する必要はない、ありのまま自分を受け入れなければ、自分自身がまず自分を信じてあげないと、前に進めない。時には立ち止まっても良いんじゃないかと感じさせてくれる劇だった。
答えは、1つじゃないし、選択肢だって1つじゃない。無理に人に合わせる必要はない。人は、十人十色で多様なんだから、色んな生き方があって良いと感じさせてくれた。

土曜日の過ごしかた
ニットキャップシアター
座・高円寺1(東京都)
2026/02/27 (金) ~ 2026/03/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/28 (土) 14:00
普通、戦前から戦後までを取り扱った作品だと、特に演劇で描く場合は、戦後の登場人物たちのその後はあんまりハッキリと描かないことが多いが、今回の劇では、喫茶店の看板娘でもある白瀬キミと幼馴染で喫茶店の常連客の青年のその後を描いていた。
常連客の青年は南京戦線に招集され、戦後になり、日本に戻ってくるが、以前の青年時と違い中国の南京での過酷にして非情、凄惨、残虐極まる現地の戦争を現場の1日本兵として経験し、心身ともにやられ、トラウマから立ち直れず、折角幼馴染の白瀬キミと夫婦になり、子どもと言うか、赤ちゃんまでいるのに、相当な酒浸りになり、仲間の多くが戦死や病死したりしていった中で自分だけ生きて帰り、病気や怪我もなく無事なことに耐えられず、自分をいつまでも責め続け、現実逃避の為酒浸りになり、赤ちゃんが泣いてるのに対して怒鳴ったりと、DV気質なところもしっかりと描かれており、戦争による影響によって人の性格や態度まで大きく変わってしまう弊害もしっかりと描かれており、戦争が終わったら、人々が民主主義と平和を享受して謳歌すると言ったような描くのではなく、ちゃんと都合の悪い部分と言うか、歴史に葬り去られがちな戦争によるトラウマによって人が変わり、家族や子ども等に暴力的に振る舞うDVといった部分も、丁寧に描いているところに共感出来た。
戦後の、戦中とは大きく変わった日本社会について行けきれない人たちも描いていて、そう簡単には変わり切れない部分、でも戸惑いながらも現実に向き合っていこうとする複雑な心境にリアルを感じた。
太平洋戦争前、日中戦争中から特高の下っ端の役職にいて、喫茶店の常連客だった中年男だった人の弱みに漬込み、自分の出世の為なら手段も選ばないような非情な男だったが、戦後は何にもかにも、噛み付き、批判し倒し、以前と丸っきり態度やスタンスが変わっているように描かれており、こうまで人って変わるものなのかと呆れた。
また、元特高で自分がかつてしたことは反省せず、自分の上司を批判したり、世の中が戦争に向かって突き進んでいく最中に、日本のエリートや知識人、日本のメディアが日本の軍部や政府の方針を明確に批判しなかったから、暴走していき、空襲や原爆をアメリカが落とすことになるんだと言うような無責任極まりない発言をする露骨に下卑て厭らしい、何処か媚びた感じに簡単に転向してしまう風にその元特高の下っ端男を描いており、人ってこうまで居直れるものかと、現代日本における自民議員の裏金議員が選挙で大勝して国民を舐め腐り、開き直る光景と何処か重なって見え、過去の人たちのこととしてだけで片付けられない問題だと感じ、考えさせられてしまった。
自分も、知らぬ間に思考停止していないか、無意識に諦めたりしていないか、この劇を見て、自分の普段の行動や言動を見つめ直す機会となって良かった。

土曜日の過ごしかた
ニットキャップシアター
座・高円寺1(東京都)
2026/02/27 (金) ~ 2026/03/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/28 (土) 14:00
舞台は戦前の京都の喫茶店です。
当時、京都近辺の喫茶店には『土曜日』という新聞が置かれていました。
発行者は松竹の大部屋俳優であった齋藤雷太郎。
彼は大陸での戦争が激化する時代に、庶民感覚とユーモアを交え、政府に堂々と物申す内容を発信していました。
この京都を舞台として、ほぼ全篇京都弁な上、地域新聞『土曜日』と、『土曜日』が置かれた和洋折衷感がある喫茶店、その喫茶店の店員や女将さん、その店の常連客、『土曜日』に記事を書く人たち、そして特別高等警察(略称特高)を中心とした、軍や政府の中枢中心でなく、市井の人々を中心として、時にコミカルに、時にシリアスに描き、日常が徐々に戦争に侵食されていく過程を丁寧に描いており、戦争に日本が突き進んでいく中でも、そういった人たちの中に日常があったところに重きを置いた劇作品は、ありそうで、あまりなかったので、良いところに目を付けた作品だと感じた。
劇中、地域新聞『土曜日』は、極端な右とか、左の論調に偏るのではなく、純粋な映画評論や、市井の人々が純粋に気になっている芸能人のゴシップ、一部の企業が優遇されて、自分たち市井の人々の方が高い税金を払わされることへの疑問など、市井の人々の生活や興味関心を買う記事が大方を占めていた。
それは、なぜかといえば、思想信条を強く打ち出したり、政府批判を露骨に強めたりすると警視庁官房内の特高に目を付けられるので、新聞の存続の為、芸能人ゴシップや、映画評、等の娯楽を中心とした只のエンタメ紙を装うことで、特高の検閲を上手くかわせるという在り方が、太平洋戦争は始まっていないものの、日中戦争は始まっている中で、日本国内ではある程度の自由がありつつ、徐々に新聞等に対しても弾圧が酷くなる中で、何とか生き残る為の苦肉の策でもあったのかと考えさせられた。
下手すれば、新聞社が潰されるにとどまらず、記者は勿論のこと、新聞に関わる人たちが一斉検挙されたりしかねない時代の空気になっていくなかで、そんななかで自由にものが言える空間作りのために、大部屋俳優の斎藤雷太郎が知恵を絞って、一見するとエンタメ紙のように装うことで難を逃れようとする、こう言った機転を効かせないと新聞が発行できなくなっていっていた当時は、どれだけ自由がなかったのかとも言えるが、ふと現代社会を振り返ると、今の時代が自由かというとそうとも言い難くなってきている状況と、当時の状況が重なって見える場面が何度かあり、薄寒くなった。
最初市井の人々向けのエンタメ紙だった筈が、段段と政府や軍への批判が濃厚な記事なども載り出し、そのうち『土曜日』を置く喫茶店の女将の白瀬ノブが次女の白瀬タカが店の奥にレジスタンスを匿い、無理が祟ったのか次女の白瀬タカが病気になり、それも実は誰の子か分からない子を身籠っていることが分かってきたりで、女将の白瀬ノブは抱えきれなくなり、つい店の常連客の1人で、特高の下っ端に悩みを打ち明けたことから、次女が匿うレジスタンスだけでなく、新聞『土曜日』に関わる人たちが次々に捕まる結果になっていく、そして喫茶店の女将白瀬ノブはこんな筈ではというふうな複雑な気持ちになり、追い詰められていく、そういった日常がふとしたところから、大きく崩れ落ちていく描かれ方が、リアルだった。
『土曜日』に映画評論を載せていた大学教授が、担当の特高刑事に誘導尋問されて、自分の意に反した調書を書かされるあたり、近年話題となっている(昔からあったが)冤罪問題と、かなり重なって見えて、こうやって冤罪って成立するのかと思うとゾッとした。
また、教授に対して、露骨にパワハラ的な態度や言動に出ることはないし、寧ろ表面上はにこやかなのだが、机を叩いたり、決め付けるような発言もなければ、親や家族を引き合いに出して脅すこともしない。
だが、教授とともに、他の特高刑事たちも誘って、気晴らしに鰻屋に行ったりもするが、全額教授の奢りといったところなどで、教授に屈辱を味わわせ、プライドを徐々にズタボロにしていく作戦を取ることで、特高側の意見に誘導していく在り方が、見た目から分かる脅しや威圧よりも高等テクニックなだけに、特高に対する得体の知れない怖さが倍増した。
一般的に私たちが特高をイメージする時の、露骨な暴力的で冷酷非道で、血も涙もない、人間味の欠片もないような人物として、ハッキリと描かないぶん、中身の見えない怖さや威圧を感じ取れた。
特高が、言わば、自分たちとは関係のない人間としてではなく、観ている側も含め、人が持っている弱さや劣等感などの延長線上に出来上がっていく組織だと感じ、被害の立場から、人は加害の立場へもなり買われることを立証している気がして薄寒くなった。
ほぼ全篇京都弁と言うことで、会話が一見すると上品で優雅、優しく聞こえるが、節々に、皮肉や裏があったりと言った風に描かれていて、今でも使われる京都弁と全く一緒ではないものの、京都府民が大阪府民や外部の人で京都府民になろうとする人に対して、表では優しく、裏では冷たく下に見ているといった部分が共通して見える場面もあり、多少誇張して描くことで、結構笑えた。
劇中、韓国仮面劇『マダン』に習ったかのような仮面が大量に出てきて、しかも敢えて無個性で何処か不気味にさえ見える仮面を使っており、その仮面が、喫茶店の付近等に所々顔を出す演出が、何処で誰に見られ、聴かれ、噂されているか分からない、段々と戦争色が濃くなっていく過程、異議を唱え辛い、空気を読み、周りを気にして、皆同質化していく、危険性を暗に描いており、今とも何処か共通した部分を感じ、緊迫感と身に迫るものを感じた。
ハッキリと劇を通して、爆撃の場面こそ描かないものの、徐々に戦争に突き進んで、段々と自由にものが言えなくなり、書けなくなり、派手な服装どころか、爽やかな麦わら帽子1つ被れない状況になっていく過程、気付くと身動き1つ取れなくなっている恐ろしさが、喫茶店の舞台セットが徐々に狭まっていく演出などによって、視覚的にも効果的に観る側にひしひしと伝わってきた。
トークショーでは、劇団チョコレートケーキの古川健さんをゲストに迎えてのトークだったが、劇を観ていて、現代社会の状況とあまりにもリンクした状況に恐怖を覚えた感覚など、私が感じたものと似たような感想を仰っていて、喫茶店のセットが狭まっていくことに関する感想も含めて、私が感じたものと似ている部分が多くあり、劇団チョコレートケーキの古川さん含め、共通して感じた部分も多くあるんだなぁと感慨深くなった。
今、同調圧力等を身に沁みて感じ、生き辛い社会だからこそ、忖度せずに、自由に発言することの大切さを強く感じた。(まぁ、だからといって、SNSで誹謗中傷するのは違うと思うが)
自由に闊達に、発言し、書き、音楽を楽しみ、演劇や映画を自由に誰の目を気にすることもなく観て楽しむことができ、おかしいと思ったことをちゃんと批判出来て、行政府や警察等に弾圧されず、今だったら自衛隊に徴兵されたりしない世界は、こう言った平和、民主主義な社会は常に私たちが今の生活に満足せず、常に行政府の動向に気を付け、些細な異変にも直ぐに声を上げることが大事だと、今回の劇を通して再確認させられた。

舞台#008 霜響桜美-そうきょうおうび-
ナンカダレカ
アトリエTANTOO(東京都)
2026/02/15 (日) ~ 2026/02/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/22 (日) 19:00
短編劇集の朗読劇だったが、今時、普通にここまで椅子に座って台本を持って、と言う、朗読劇の本来の様式をちゃんと厳密に守っている朗読劇は意外と見かけないので、新鮮で良かった。
しかも、普通、短編劇集の上演と言うと、1つの作品と関連させた劇が続くことが多いが、今回観に行った劇では、1つ1つの短編劇が関連している作品ばかりでなく、4作品のうち最後の2作品は全然系統の違う作品が混じり、更に本当に最後の短編劇はインプロ要素のある劇と、それぞれの短編劇に違った良さがあって、そういう短編劇の連続上演は意外とない試みだと感じ、記憶に残った。
短編劇の1作目は「貴方は霜見草-Frost message-」と言う作品だった。
田舎の町でママと暮らす野菊。
野菊は大好きなママに言わなかった事が三つあった。
一つ目は霜柱に現れる文字。二つ目は夢の中だけで会う存在。
そして三つ目は…。
と言うような謎めいたあらすじだったが、実際に観てみると、結構不思議で、淡くて切なく、儚いファンタジックな作品で、野菊にはお父さんがいないということから、劇の途中まで、野菊のママはシングルマザーだと思っていたが、劇の途中からだんだんと分かってくることには、野菊がママだと思っていたのは、野菊が幼い頃に本当の生みの親の姉妹の次女が養子として引き取ってくれたということが分かってきて、衝撃的だった。
更に、それに輪をかけて、野菊が今まで過去を振り返って、自分の過去をタイムスリップし続け、客観的な視点から本音を言うような場面が続くが、そのカラクリと言うかが、この短編朗読劇の終盤になって分かってくる。それは、現在の野菊は車の事故で瀕死の状態で、病院の中で幾つも自分の身体にチューブが付けられ、自分の意識が生死の間を彷徨っている状態だから、自分の短い半生が走馬燈となって見えているという驚愕の事実が知らされる結果に、その余りにも報われない主人公の野菊に心が痛んだ。
野菊が幼き頃より、野菊の夢の中に出てきて、この短編朗読劇の象徴と言うか、キーポイント的な存在として出てくる、藤子Aの漫画『笑うセールスマン』に出てくる喪黒福造のような、時に幸にも、人を不幸にも出来るような存在として、八咫烏が出てきて、絶妙な怪しくも、主人公の野菊に味方するような、時に挑発するような信じ切れもしないが、何処か憎みきれない性格が読めない存在として、存在していて、その八咫烏を演じる役者の演じ方が、闇の住人的なミステリアスな存在感を放っていた。
小学生の頃の野菊の名前ををからかっていた意地悪な男の子が、実は、後に野菊のことが好きで、構ってほしくて、ワザと意地悪していたことが分かるが、そんな小さい頃にトラウマを植え付けると言うか、自分の名前が、存在が心底嫌になるほど野菊は追い詰められていたにも関わらず、しかも完全には立ち直れていないにも関わらず、その男の子の取って付けたかのような言い訳は、そんなんで自分が野菊に過去にしたことが帳消しになるとでも思っているのだろうかと、疑問に感じた。
短編劇2作品目は「残響とララバイ-Receive the sonority-」と言う作品だった。
姉の光子と同居しながら大学の声楽専攻コースに通う陽子。
陽子はピアノ専攻の誠司と出会いから音楽活動を始める事になる。
三人での生活を送りながら、陽子に目的を果たす為の大きな仕事が舞い込み…というあらすじで、実際に観てみると、短編劇1作品目に出てくる野菊の生みの親に焦点を当てた、前日譚だった。
この作品も、1作品目に匹敵する程の救われない、報われない話で、最初片耳だけ聴こえなかった主人公の陽子が、途中から両耳聞こえなくなり、誠司とすることしたのかなと言う感じによって、子どもを身籠り、身体障害を抱えた陽子が子どもを持つことを極度に心配する姉の光子だが、その心配をよそに何とか赤ちゃんを産み落とし、その子に付けた名が野菊と言うことが劇の最後のほうでで明かされ、子どもには元気に健康に育ってほしいと願うが、それが1作品目の最後のほうで、その大人になった野菊は車の交通事故で虫の息という結果が分かっているものだから、余計に切なくなった。
また、1作品目、2作品目共に不妊治療、身体障害、虐め、更年期障害、精神的虐待、養子等の社会問題を時にファンタジックな要素を混じえつつも描いていて、考えさせられた。
そして、野菊と、その産みの親にして、野菊を産んでそんなに立たないうちに亡くなった陽子があの世で出会えて、それは本当に幸せなのだろうか、生きていることと、どちらの方が大切か等、野菊と陽子に取っ手の本当の幸せとは何だろうと色々深く考えさせられてしまった。
2つ目の短編劇に出てくるフクロウが江戸弁と言うか、落語調に急に早口で喋るのが、全体的に張り詰めて重苦しい作品に、多少緩和されていると感じた。
3つ目の短編劇は「サクラサクリファイス」という作品だった。
桜が名物の村で開催された街コン。 奥手な男女は出会い互いに惹かれ合う。
しかし、失踪した先輩を探す為に村に来た男は、村に延々と息づく神の呪いに巻き込まれる事となると言うあらすじだったが、実際に観てみると、確かに和製サイコホラーで、村社会の因習を色濃く出ていて、金田一耕助シリーズのような不気味さと謎めいた感じが、混合した内容だったが、坂口安吾の小説『桜の森の満開の下』にもかなり影響を受けたような内容で、大変面白くも、段段と背筋が凍りついていき、全く救いのない不条理でジワリと怖い終わり方に複雑な気持ちになった。
最後の4つ目の短編劇は「美味い!もう一杯!」だった。
最後の台詞は「ご飯炊けたよ」。決まっているのは、それだけと言うことで、あらすじだけでは全く内容が入ってこない作品だった。
実際に観てみると、ChatGPTに劇作家が脚本を読み込ませて、それを元にChatGPTに出力してもらったものを、敢えて修正せずに印刷し、お客さんに当日その台本が配られ、それを役者が客席を回ってきたのに渡して、役者たちが当日その場で台本に目を通して、演じるという、役者の力量が相当問われるインプロ劇となっており、冷や冷やものだったが、見事に演り切っていて感心してしまった。
米が炊飯器で炊けて、食卓で食べられるまでを擬人化したナンセンスコメディだったが、当日に役者も台本を渡されるからか、台詞を間違えたり、噛んだり、一瞬台詞が出てこなかったと言ったハプニングや、人ではなくChatGPTが劇作家の脚本を元に書き起こしているものだから、ちょくちょく日本語として変な言葉や、誤字脱字も多くて、そのハプニングがかえって面白かった。

とき語り 源氏物語
SPACE U
梅若能楽学院会館(東京都)
2026/02/19 (木) ~ 2026/02/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2026/02/21 (土) 18:05
源氏を取り巻く、男たちの政略、因果応報のドラマに焦点をあて、今までの今作『とき語り 源氏物語』を30周年の記念公演として上演します!
梅若能楽学院会館さまの能舞台での上演が叶い、演劇における他の要素を極力そぎ落とし、【語る】ことにより、「漢(おとこ)…光源氏」の世界を鮮やかに描くと言う風にCoRich舞台芸術!のあらすじに書かれており、梅若能楽院会館での演劇公演ということもあり、その特殊な空間をどう活かすことができるのか、不安と期待が半々だったが、実際に観てみると、現代夢幻能のような感じに仕上がっていていて、思っていた以上の出来栄えに感心してしまった。
古典の紫式部の『源氏物語』を扱いつつも、服装や舞台セット、メイクから分かる感じにはなっておらず、それでいて、黒い足袋を履き、終始基本は摺足で、所々に平安時代の古語や和歌が盛り込まれ、現代語での台詞との違和感をそんなに感じない程、余りにも自然に劇中に織り込まれており、そのバランス、実験性と能的な所作が入り混じって、その両方の1方が目立ち過ぎたりせず、見事だった。
梅若能楽院会館の能楽舞台の特徴の1つの渡廊下も有効活用しており、能舞台独特の緊迫感、閉塞感、能舞台に役者が出てきて台詞を喋り始めたその瞬間から夢幻的な空間が潜在的に流れていて、何処からが始まりで、何処からが終わりか見え辛い空気感が漂っており、能舞台に対する最大限のリスペクトが感じられて良かった。
壮年の出家した光源氏が走馬燈として、自分の生みの親で後宮に住まう周りの嫉妬や度重なる嫌がらせに精神的に追い詰められ、心身共に病弱になって、病死したの桐壺更衣に瓜二つの藤壺女御や他に出会った女性たち、知り合った男たち、自分が今まで経験してきた人生を思い返すというような構成になっていて、夢幻能に寄せて来ている感じがした。
壮年の光源氏が劇の最後のほうで語る正式な妻を差置いて、『今までの女遍歴は皆、自分の生みの親桐壺更衣に生き写しの藤壺女御の影響を受けて、似た顔、代替物だったんだ』と言うようなことを言い、不倫や自分の過去の所業を何処か男の都合良く描き切っている辺り、昨今のジェンダー論的観点からは頂けないが、藤壺女御との近親相姦的要素を美しく、しかし何処か妖しく、儚く、破滅的禁忌を破った道ならざる純愛のように描かれていて、そこに妙な美意識を感じ取れた。

『安庭』(アンティン)
峸劇場
シアター711(東京都)
2026/02/12 (木) ~ 2026/02/14 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/14 (土) 14:00
一人ミュージカル、バレンタインに感動のステージへ
大学時代に安庭と出会い、饒舌な李麒は静かになった。
別れのとき、理由は分からなかった。
安庭に「少し距離が置きたい」と言われ、李麒は一歩引いたが、心は揺れたまま。
その経験をギター一本で、自分の愛を歌う——というような1人芝居で、殆ど良い意味であらすじと内容は大きく変わらなかった。
しかし、あらすじ以上に所謂1人芝居から連想されるイメージと違って、1人の俳優が演じる芝居と言うよりかは、シンガーソングライターのちょっとしたワンマンライブを観ているんじゃないかと錯覚させられるくらいLove song、失恋ソング等のオリジナル曲?を歌って、ギターを演奏していて、そこに初恋、失恋からの再会、そして再び別れるまでの演劇要素も盛り込まれていて、今迄このような型破りな1人芝居は観たことがなくて新鮮だった。
安庭に李麒が初めて出会った際にも、その前に付き合っていた彼女と別れて意気消沈していたところを、安庭の行動に振り回され翻弄されるうちに、安庭のことを李麒は大好きになるが、ほぼ初恋のようなもどかしく、それでいて青春のような感じの場面も語られる。
しかし、やはり次第に釣り合わなくなってきて、一旦休暇期間を安庭から提案された李麒は、自分の未熟さを痛感し、それと同時に喪失感を感じ、何も手に付かないほど意気消沈するが、そのうちエマという女性に出会い、新しい恋を始めて、エマに夢中になる。
しかし、ふとした事から今は年下の彼氏がいるという安庭に再び出会い2人の女性の間で心が揺れる李麒の弱さや駄目さも丁寧に1人の俳優によって語られ、演じ分けられていて、見事だった。
そうしている間にもエマに彼氏がいることが分かりショックを受ける。
その後、安庭と再び李麒は恋人同士になり、もう今までのような失敗はしまいと大人な対応を取るようになる。
しかし、その平穏でささやかな安庭と李麒の恋人関係も長続きはせず、結局は別れなければならなくなるという、主人公にとっては非常に切なく、物悲しい作品でもあったが、実際の人間関係だって、似たようなものかも知れない、映画やドラマは大抵理想を描くし、恋愛映画なども都合良く描く作品も多いが、実際の実人生なんて、常に上り調子でもなければ、常に下り調子でもなく、恋愛にしたって、人間関係にしても永遠に上手く行くなんてことはなくて、出会いと別れを繰り返し、甘酸っぱさと苦さが織り込まれた、こういったことを繰り返しながら、人は歳を取り、成長していくんだと感じ、感慨深くなった。
思っていたよりも、深いテーマが内包されているようにも感じられ、考えさせられた。
これは、ある個人の男性とそれを時に翻弄し、その男性李麒と関わる女性たちとの恋愛を描いた小品だったが、恋愛と失恋を繰り返す劇と言うのに留まらず、人はどう生き、その生きていく過程の中で出会いと別れを繰り返す、これは謂わば宿命だが、そうして人は成長していくと言った在り方、生き方について、非常に哲学的に考えさせられる作品でもあった。
途中度中、観客を巻き込んでみたり、水を飲んでみたり、時におどけてみたり、誇張して観客を笑わせたりとサービス精神も旺盛で、男性李麒役をメインにしながら、他の役も1人で器用にこなしていて、演技も自然ながら、何となく劇の内容的に少し沈んだ気持ちになるところを、大いに笑わせてもくれて、その絶妙なバランスが素晴らしかった。

幻のイントルーダー
sitcomLab
恵比寿・エコー劇場(東京都)
2026/02/04 (水) ~ 2026/02/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/06 (金) 19:30
舞台となるのは、人気小説家、藤澤智彦の自宅のリビング。
藤澤と妻の絵里が家を留守にする間、「僕が掃除をしておきますよ!」と申し出た編集者の末国。
普段は藤澤にコテンパンにこき使われてる末国だが、姉の希には、姉に要らぬ心配をかけまいと藤澤にはとても気に入ってもらっていると嘘をついていた。その姉が藤澤に挨拶をしたいと言い出したのだ!
困った末国は藤澤夫妻の留守中に自分の友達に藤澤に成り済ましてもらうことを思いつく。が、そんなお粗末な計画が上手く行く筈もなくと、大体あらすじ通りどころか、そのはるか予想を超えるドタバタ喜劇要素ありのシチュエーションコメディで大いに終始笑いが止まらず、普段のストレスや閉塞感も全て吹っ飛ぶ程、大いに楽しめた。
ただ、このシチュエーションコメディ劇に関しては、他のシチュエーションコメディ作品と違い、人気小説家藤澤智彦が劇の最後の方まで出て来ず、自分の友達に藤澤になりきって貰って、藤澤に急に挨拶したいという姉を上手く騙し通すというパターンではなく、劇の比較的最初の方で本物の藤澤が戻って来るというハプニングな要素があったりと先が読めず、姉も勝手にギャルで彼氏と一方的に別れて来たという曰くあり過ぎる友達を連れて来たりとイレギュラーな展開が続く。
更に、同じ部屋に本物の小説家藤澤と藤澤になりきっている末国の友達が一緒にいることから、いつ姉に末国の友達が演じる藤澤が偽物だということが知れてしまうかもというハラハラドキドキ感もあって、その絶妙な緊張感が良かった。
小説家藤澤に普段コテンパンにこき使われる編集者の末国が、姉が本物の藤澤を知らないのを良いことに、末国のイケメンだがとんでもなくおバカで、お里が知れている友達に藤澤に扮して貰い、姉を騙すためでもあるが、それと同時に普段の積年の恨みを、末国はストレスをこの機会を好機と見て、本物の藤澤を徹底的にボコボコにしたり、あからさまに馬鹿にしたりといった感じの豹変振りも面白かった。
藤澤が浮気しているとひょんなことから勘違いを生み、姉の友達のこじらせ系ギャルの軽弾みで誤解を招きかねない発言や本物の藤澤の判然としない態度、どう見ても業界ゴロにしか見えないプロデューサーの誤解を生みかねない発言から勘違いが更に大きな勘違いを呼び、編集者の末国も今更本物の藤澤はイケメンの友達の方じゃなくてとは言えず、本物の藤澤は藤澤で違う作家の盗作疑惑が言われていて、相手に訴えられないうちに何とか穏便にことを進めようとすると言うように、各々の思惑が絡み合い、嘘に嘘を塗り固めようとして、最初姉を心配させない為に末国が見栄を張ってついた嘘が、ドンドン事態が大きくなって収集のつかないところまで来てしまう感じが大いに楽しめた。
末国の友達役の俳優がが最初のうちこそ、実際に見たこともなければ、ましてや性格や癖、普段の言動も知らない小説家の藤澤智彦になりきるのに及び腰だったが、劇の途中から調子に乗り出し、途中から編集者の末国の忠告や言うことを聞かず、暴走しだして、果てはかなりのクズっぷりを見せつけ、開き直るという、見た目のイケメンな感じと勘違いしたり、乗り気になったら止められないアクの強すぎるギャップがある性格やオーバーリアクションが印象に残った。
藤澤の妻の絵里役の俳優も、最初のうち人が良い、優しい奥さんに見えて、藤澤が浮気疑惑や盗作疑惑が明るみに出ると(実はそうではないのだが)、今までと態度が豹変し、途端に恐妻化する振り幅の落差を見事演じ切れていて、見事だと感心した。

菊五郎と天狗の冬
劇団 枕返し
OFF・OFFシアター(東京都)
2026/01/30 (金) ~ 2026/02/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/02/01 (日) 13:00
ダメを絵に描いたような、パチスロと競馬好きで、おまけにスナック好きで、金が無いと相手が子どもだろうとお構い無しに、大人気なく難癖付けて恐喝、恫喝する30代の不良中年男「菊五郎」。
それとは、正反対に物心ついた頃から天狗の元で育った心優しい少年「冬彦」(但し、どう見ても冬彦を演じる小学生役の役者は、老け顔と言うにも無理があり過ぎる、どこをどう見積もっても不細工で味のある思いっきり太ったオジサンにしか見えなかった)。
その冬彦が、物心ついてから、育ての親の天狗でなく、本当の産みの母親に一度もあったことがないことに思い至り、2人は東京にいる冬彦の母親探しの旅へ出ることに…。
次第に打ち解けていくふたりの数奇な旅はやがてと言うような感じのロードムービーが劇になったような感じでもあり、どこか懐かしく感じ、昭和の日常平和系特撮ドラマ『怪獣ブースカ』や『チビラくん』、アニメで言うと『ドラえもん』と言うよりかは、『オバケのQ太郎』とかに近い緩やかな展開でありつつ、長谷川伸の戯曲『瞼の母』へのオマージュが強く感じられた。
それに加えて、民話や柳田邦男の『遠野物語』の座敷童子のエピソードのように、妖怪と人が時に恐れつつ、共存して生きている緩やかな感じが劇全体を覆っていて、良い意味であらすじを読んで私が感じたことと同じような、期待通りの劇だった。
しかも、今の時代、世界各地で紛争、戦争、飢餓、テロが絶えず、異常気象が続き過ぎて環境問題も解決するどころか、動物にとっても、人間にとっても、地球自体にとってもかなり深刻な状況になっており、さらに、ポピュリズムが台頭し、米大統領は大統領令を連発し、民主主義を軽視蔑視するような言動、行動が目立ち、とても多様性とは程遠い世の中になってきて、日本でも高市早苗首相の支持率が異様に高まっていたりと憂慮すべき自体となっている、かなり将来に希望が見えない世の中において、この劇の中では実際に会ったことも、親子としての思い出もない冬彦の母親に、小学生の冬彦はただ無性に会いたくなった、只それだけの理由でクズ男で腐り切った菊五郎と行動を共にし、冬彦の産みの母親に会いに行くのみならず、その旅を通して、行動を共にする菊五郎の腐り切った心を、人としても終わっているように見える(具体的には、天狗のところで冬彦が修行しているんだから、競馬の予想も当てられるだろうと言ったことや、スナックで冬彦が小学生なのもお構いなしにスナックに一緒に入り、冬彦のことなどお構いなしに、店の女の子やスナックのママと飲み明かして盛り上がったりする言動等)のを、長旅を通して、冬彦にそのような意図はない筈だが、冬彦のちょっとした何気ない発言や健気な言動、行動から、結果的に緩やかに菊五郎を成長させていくと言うような登場人物たちの描き方に、人は年齢など関係なくやり直せるんだと気付かされた。
今の不寛容な時代にこそ、互いを思いやるようになるまで、根気強く理解しようと努める冬彦の姿勢には、頭が下がる思い出あると同時に、私たちも見習うべきところが多いと感じ、気を引き締めた。
去年、原作長谷川伸の戯曲『瞼の母』の映画化である無声映画『瞼の母』を活弁上映で観たことはあるが、その中に出てくる旅の博徒でヤクザ者の番場の忠太郎が実の母親と出会うが、宿屋を経営して娘がいる母親は、『息子は9つで死んだ』と言うようなことを言って聞かず、金目当てと番場の忠太郎を疑い、お互いにすれ違い、1人、再び番場の忠太郎が宿屋を出て、悪漢を斬って去っていくという在り方で、どこか物悲しく、鬱屈とした終わり方で、それと今回の劇の最後のほうで冬彦が産みの母親を前にした場面とで、全然置かれた状況は違えど、今回の劇でも冬彦の本当の母親に娘がいるのは共通しており、偶然かも分からないが、こんな偶然あるものなのかと感じた。
また、今回の劇の最後のほうで、冬彦と菊五郎が、冬彦の実の母親が娘と幸せそうなのを見て取って、これで良いんだと自分に言い聞かせて冬彦はまだ小学生なのに、その辺の大人より大人になろうとする踏ん切りの付け方をする在り方に、長谷川伸の戯曲原作無声映画『瞼の母』の番場の忠太郎と実の母親との場面と全然違うけれども、どこかオマージュを感じさせる場面に、既視感を感じさせられた。
冬彦の本当の産みの母親を前にしても、冬彦が内心動揺しながらも、ここで自分が出て行って、娘と幸せそうにしている母親の現在を壊し、過去を思い出させるのは酷だと考え、冬彦は自分が挨拶さえせずに、ひっそりと身を引く決断をするという在り方に胸を打たれた。
それと同時に、冬彦の判断が非常に現代的な価値観だとも感じた。
その何とも言えない、どこか切なく物悲しい在り方に、親子とは、必ずしも本当の親と再会することばかりが良いことなのか、本当の親を前にして、もはや人間ですらない自分を育ててくれた育ての親の天狗のほうが大事にした方が良い存在なのか、答えが出にくい問いが頭の中を駆け巡り、深く考えさせられた。
シナコ役がイメージを思いっきりブチ壊していて、もはや実在のシナコを侮辱してるんじゃないかと思う程、太っていて、思いっきり見た目オバチャンで、とんでもなく痛くて、存在感あり過ぎて、逆に大いに笑えた。
天狗や雪女、天狗のもとで修行する子どもたち役も、冬彦筆頭に明らかに小学生には見えない雰囲気も笑え、個性豊かで、大いに楽しめた。

枯れた椿
中央大学第二演劇研究会
ART THEATER 上野小劇場(東京都)
2026/01/16 (金) ~ 2026/01/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2026/01/17 (土) 13:00
中央大学第二演劇研究会の劇は前にも1回観たことはあったが、その時に観た劇がファンタジーと、どこか昭和的懐かしさと、緩やかな下町的お節介、コミカルさが入り混じった劇で、基本誰も傷付かず、今時珍しいくらいハッキリとした敵が出て来ない新鮮な劇だった。
その前回観た劇とは一転して、横溝正史の『金田一耕助』シリーズの映画版のように和製ホラー要素、村の因習的要素、座敷牢、村が何か隠しているといったこと、ミステリー要素などが絡んでおり、観ていてかなり暗くなり、ジワジワと薄寒くなってきて、誰も救われるとは思われない結末に暗澹たる思いになり、トラウマ級の恐怖が植え付けられる内容だったが、まさに現在的の要素も強い劇だった。
母子家庭の親子に焦点が当たった劇というのも、非常に今の時代にも通用するテーマを含んだ劇だと感じた。
村社会の因習がある幼馴染の3人の内の女の子の地元とある海辺の村に3人で行き、最初優しく見えた村人も、実はこの村は八百比丘尼伝説で有名だが、その人魚の肉を食べた八百比丘尼に人魚の血が流れている家系の人を食べてもらうと、この村が天災や戦争、飢餓等から救われると信じられている村で、オサムがたまたま人魚の血が流れた人だということで村の為に人身御供になりかけ、何とか東京まで命からがら逃げ帰るという、典型的和製ホラーだったが、そこに、かつてオサムが人間を信じ切れなくなった過去の友達との、オサムの親が母親のみの母子家庭だと分かったあとの差別や偏見そういったエピソードが丁寧に説明され、単なる和製ホラー、都市伝説ホラーと言ったものではなく、社会問題や社会の暗部に深く切り込んでいるところに、学生演劇とは思えない程の本気度が感じられる劇に感銘を受けた。
また、性格がどこか読めない、謎が多く、責任感が強く、時に高圧的で、冷酷な側面もある村の村長、村長の子どもの兄弟で、最初優しく見えた二面性のあるお兄さん、母子家庭で育ち親を困らせてはいけないと思い自分の気持ちは押し殺し、周りに合わせて生きてきて、いつの間にか自分を見失いかけているオサム等演じる役が、現役の大学生が演じるにはかなり複雑な役柄が多かったが、二面性のある役も含めて演じ分け、迫真の演技で演じていて、プロ顔負けの演技に感動した。

タバコの害について
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2026/01/08 (木) ~ 2026/01/12 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2026/01/09 (金) 19:30
チェーホフの戯曲というと、新劇がレパートリー化しているイメージが強く、辛気臭いロシアの元祖リアリズム演劇と言ったイメージも強く、劇中で難しい言葉が当然のように使われ、教養として身に付けるような作品(『かもめ』、『ワーニャ叔父さん』等)が多い感じがしていたが、今回観た『タバコの害について』というチェーホフの1人芝居として書かれた作品は、良い意味でチェーホフ戯曲に対する固定観念を完全にブチ壊していて、大いに楽しめた。
とある田舎のパブ。
家内からの命令で講演を始める老先生。
お題は「タバコの害について」だが…
終わりのないボヤキは何処へ向かうのか?と、どんどん劇が進むに従って講演のお題なんてどうでも良くなってくる、社会問題や政治問題にボヤキ芸で時に鋭く突っ込みつつも、それどころか益田喜晴さん演じる老先生の家族問題の愚痴、果ては婚期を逃した娘の相手を募集し始めたり、飲み会の良さをやたらと強弁し始める。
更に、香具師の口上を始めて、物を売り付け始めたり、助手役の橘沙モカさんに手を挙げていて、20歳以上だと自分は思った観客に赤ワイン?を注いで回らせて、観客が赤ワイン?を飲むと言うような展開もあり、劇中何度となく、油断していると、老先生役の益田喜晴さんに観客に適当に質問してきたり、話しかけてきたりと、観客と役者、そして役者が演じる役の境界がどんどんなくなってくる劇が新鮮だった。
また、次から次に劇のタイトルでテーマでもある筈の『タバコの害について』から全然離れていくが、そんなこと関係なく、老先生役と助手役との会話や老先生役のボヤキ芸で大いにツボり、大いに笑えた。
これがチェーホフ劇とは思えぬ程の緊張感無く、老先生役の台詞にはあんまり意味をなさない話しも多く、お気軽に見れるところが良かった。
劇が始まる前に、お菓子もドリンクも貰えて、劇中に甘酒飲んだりしながら観ることが出来たので、何よりも肩肘張らず観れて、これこそ芝居が庶民から発展してきて、今の現代演劇にまで繋がっているのを感じさせ、良い意味で演劇と観客の境界線を感じず、こうした絶妙にアットホームな空間こそが、本来の劇場の在り方だと感じさせられた。
本当の意味での1人芝居のヴァージョンだとどういった展開になっていたのか、逆に気になった。
今回の劇自体は老先生による講演という名目のもと、実際はただのボヤキ芸と言うか、不満や愚痴をひたすら言い続けると言うような内容で、私自身が抱えている不満や不安、ストレスなどとも通ずるようなところも多く、老先生は私自身であり、観客1人1人、演じる役者も含めての分身と言うか、代弁者的存在かもしれないと劇を観ていて感じた。
チェーホフはそのBarでチェーホフ自身を投影したかのような老先生に講演させるという、それ自体が奇想天外だったが、そもそも老先生という存在が絶対に確かに存在していたのか、そのBarだってどこのBarかは具体的に劇中示されない辺り、観客の想像力に大いに頼っているし、老先生が具体的に誰なのかはハッキリと明かさない辺り、観客1人1人の実情、役者それぞれの実情と重ね合わせてみる想像の余地がいくらも残された登場人物となっているところが、思い思いの自分の状況と重ねてみて、大いに笑えたり、共感できたりするところが多いのは、そういったところにあるんじゃないかと感じた。
助手役の橘沙モカさんによる、見た目は坂道系アイドルにいそうな雰囲気の見た目とは裏腹に、老先生役の益田喜晴さんへの時に毒舌、辛辣、時にサディスティックにも見える突っ込みや行動のギャップが意外で、癖になる味わいがあった。

第84回「a・la・ALA・Live」
a・la・ALA・Live
座・高円寺2(東京都)
2025/12/24 (水) ~ 2025/12/24 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2025/12/24 (水) 19:00
a·la♪ALA♪Live観るのは、私は多分今回の第八十四回含めて3回ぐらいは観ていると思うが、全然マンネリ化しておらず、前にもましてごっちゃ煮と言うか、闇鍋的で、現代版寄席という感じを強く感じた。
現代的スタイリッシュさ、多様性、懐かしさがない混ぜ、渾然一体となっていてかなり詰め込んだ感じもしたが、大いに楽しめた、大いに笑えた。
冒頭のクリスマス·パーティーでは、どういったプログラムなのかと思ったら、役者の荒山昌子さんによるクリスマスをテーマにした滑る笑いも含めて、距離感のない元気なノリで、この後の多種多様なプログラムを楽しむ為にも、一気にその独特のトーク力で引き込んでいて、何となく巻き込まれていて、知らず知らずのうちに、ツボりやすくなってしまって、現代寄席に誰よりも乗りやすく、盛り上がりやすくなってしまって、荒山さんは人をノリ良くしやくするのが上手いと感心してしまった。
現代寄席の中で、間隔を何回かあけて3回出演したアクションパフォーマンス集団「NEMO」は、所謂アクション集団や忍者集団○○といったのとも違って、格好良いや様式美、常識や固定概念、規定の枠組みに留まらない独特のアクションパフォーマンスの世界観に引き込まれた。
忍者同士の忍具も用いた本格的なアクションから、かの有名なピンク・レディーの『UFO』をもしたかのような衣装で、非常に現代的でファンシーでコミカルで、どこかTiktokを撮っているかのようなオシャレで原宿的な感じが見事に融合した「Space Fight」という宇宙船内を舞台に繰り広げられるアクションパフォーマンス、刑事と犯人のチェイスアクションの「チェイス」というジャンルも雰囲気も違うアクションパフォーマンスを披露していて、そのバリエーションの豊かさにも驚いた。
それぞれの世界観ごとに、アクションに差をつけたりしているのも見事だったが、時々見せる連続バク転にも目を見張るものがあった。
2人が良い感じに水と油で、違う個性を出していて、愛嬌とアクションパフォーマンスが見事にバランスが取れていて、見ていて、見飽きなかった。
街頭紙芝居の紙しばいやもっちぃさんによる「ヤマタノオロチ」では、途中でバルーンの剣でヤマタノオロチを倒す場面で、ヤマタノオロチを倒す役を急に任されて、舞台に立ってバルーンの剣を振るうのが、急に私が任されたもので、すぐには心の整理がつかず、アタフタしてしまって緊張したが、そう言えば小さい頃にヒーローショーで怪人がやる企画に参加したことを思い出し、久しぶりに童心に帰れて、大いに楽しめ、大いに笑えた。
また街頭紙芝居「ヤマタノオロチ」の最後のほうで平和を訴えるような2025年戦後80年という節目ということもあるからか、そういったメッセージも織り交ぜられていて、考えさせられた。
江戸太神楽は、バランス芸、門付け芸、大道芸で、仙若さんの勢いのある話術に引き込まれ、芸の上手さとのギャップも楽しめた。
おめでたい芸も多く、晴れやかな気分になれた。
モロ師岡さんの1人コント「モロアワー」で、山中恒原作で映画化された『転校生』の中の階段でぶつかって男女の心が入れ替わるシーンをパロったような場面も多く、モロ師岡さんが『転校生』にかなり影響を受けているのかもと感じた。
しかも、よりトランスジェンダー的な在り方、巨体で太り過ぎた中年男と家が貧乏で、ドサ回り芸人から、更に落ちぶれて性風俗嬢になって思い悩んで、現状に絶望し、落ち込んで、諦めている若い女性の心が入れ替わるというような、社会問題も組み込まれており、大いに笑える場面も多くありながら、大いに考えさせられた。
太陽がくれた分度器の荒山昌子さん、島袋ぢぇみさん、鈴木ゆきをさんによる劇も、介護の問題、家族間のDV、そもそも露骨ではないが男尊女卑的な在り方、認知症の問題など、現代的切実な問題と向き合いつつ、家の中の押し入れに入り、しばらくしてそこを出ると過去にタイムスリップ出来るという少し不思議な話だったが、夫とも夫の年取って認知症発症中のお母さんとも上手くいってない中年女性が押し入れのタイムスリップを繰り返して、過去の若い頃の夫や夫のお母さんと交流するうちに、少しずつ自分も周りも変わっていき、最後大きくは変わらないものの、少しは良いほうに向かう展開のラストに感動した。
途中、大いに笑える場面も多くて、観ていて飽きなかった。

朗読劇 「JK★CHRONICLE ― 消えたメロディ ―」
Candy Pop Music
方南会館 ホール(東京都)
2025/12/27 (土) ~ 2025/12/27 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2025/12/27 (土) 18:00
KチームVersionを観た。
私立シンフォニア学園は、音楽とパフォーマンスが得意で、ちょっぴり特殊能力を持つ女の子が多く集まる学園。
数か月前、その舞台で起きた**「文化祭盗難事件」**は、一ノ瀬アイリと仲間たちの活躍によって解決したが、学園には今もその余韻とわずかな不安が残っていた。
事件から月日が流れ、学園には新たな希望が芽生えていた。
それは、三人組の新アイドルユニットCandy☆Drop。
彼女たちは文化祭「シンフォニア FES.」でデビューを果たすべく、日々練習を重ねていた。
そのステージを彩るはずだったデビュー曲――**楽曲「ラストノート」**が突然、学園のサーバーからまるごと消失してしまう。
「ラストノート」は、かつて伝説のユニットRefrain†Noteが最後に歌うはずだった幻の曲。
Refrain†Noteの元メンバー、火野アンは動揺を隠せずにいた。
彼女だけが、この曲がRefrain†Note崩壊の真実と深く結びついていることを知っていたから。
やがて浮かび上がるのは、過去の伝説と現在の夢が交差する壮大な陰謀。
文化祭「シンフォニア FES.」の幕が上がるその瞬間、アイリたちは消えたメロディを取り戻すため、
最後の推理と行動に挑む――。
と言うようなあらすじだったが、観劇前は声優の生アフレコ的ファンタジックな学園ミステリーかと思って観に行った。
実際に観てみると、良い意味で裏切られた。
具体的には、ファンタジックで、ミステリーではあるが、あらすじにははっきりは書かれていなかったが、殺人事件の要素とか、もしくはあらすじにも書かれていた学園の陰謀が段々と明かされていくのかと思って観ていたら、そういった事というより、先生とアイリたち生徒たちが「ラストノート」のメロディを取り戻す為、「ラストノート」の曲の誕生や練習場所等学園の中を巡りながら推理しながら、行動していき、それに連動して後ろのスクリーンに移される映像やその場面や状況にあった音楽や照明の当て方になっており、どちらかというと良い意味で大どんでん返しや衝撃的な事実が明るみに出ると言うような急展開はなくて、今時のイマーシブシアター的な観客没入型というか、物語、台詞、映像が一体化して、電子ゲームをするように進んでいく感じの、その物語の劇世界を自分もその選択をする立場の側になっているような感覚になっていて、新鮮な朗読劇だった。
普通、アニメや電子ゲーム、イマーシブシアターではこう言った見る側、ゲームをする側、イマーシブシアターのイベント参加する側が選択していくような在り方は時々あると思うが、朗読劇ではなかなかこういったシチュエーションの劇はありそうでなかったので、意表を突かれた。
朗読劇だが、ここまで、自分のいる場所から一切動かない劇もなかなか珍しいと感じた。
ミステリー要素もありつつ、女子高生たちと先生と「ラストノート」という曲の誕生や練習場所を巡りながら青春している感じや演じている役者たちが透明感溢れていて、こんな青春出来たら良いなと感じる理想的な感じが見て取れて、キラキラ輝いて見えて、普段の疲れやストレスをすっかり忘れる程、癒やされた。
しかも、普通のミステリー劇と違って、あんまり考えずに、比較的簡単な謎解きで、疲れず、気軽に、色々考えさせ過ぎず、たまには、あんまり複雑じゃない劇も良いものだと感じた。