デカローグ1~4
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/04/13 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
前回の「デカローグA」の公演では、全体の企画への疑問を感じたが、それは、この「デカローグB]を見ても変わらない。しかし、今回の舞台の印象は大きく変わった。それはあとにして。
前回に続く全体に関する問題では,エピソードを1と3,2と4,という組合わせで上演している。公演Bを見て、このシリーズはやはり、企画者が組んだような,どこから見ても良い、という並びの内容でもではないと言うことが解った。少なくとも、4までは、順に見るようにエピソードが並んでいる。単純なことでは主人公の年齢が成長していくように並べられている。それを無視して、演出者のくくりの都合で観客は見なければならない。確かに、演出者は資質が違うから順にすれば、お互いが損をすると言うことは解る。ならば、このような上演があることを企画の段階で解るなら、常識的には「順に見る」「演出者を二人たてるなら、までまぜこぜにして混乱するようなことはしない」というのは、制作者が、作品に対しても、観客に対しても行うべき最低の主催者の務めだと思う。
で。舞台の方に移るが、前回、舞台が風俗的で必要な本質に迫っていないと書いたが、2、4をみると,同じアパートが舞台でそこに住む住人の日常的な物語りながら、Bの舞台は人間や時代の本質に迫ろうとしていることが解る。
例えば、前回の1のエピソードは,冬、パソコンの計算が得意な子供が大丈夫だと計算した池の氷の上で遊んで溺死する少年と家族の物語だが、舞台は単なる北国の不運に出会った家族のホームドラマの域を出ていなかった。今回の4のエピソードは父子家庭(父と娘)に残された封印されたままだった母の遺書の開封をめぐる父と娘の物語だが、その小さな一の封筒の上に、社会に巣立つ娘の不安と、父母への心情、さらに娘の男性への思い、自分が生涯の仕事にするかも知れない演劇への距離感、など微妙なところまで演じられている。Aではムード音楽かと言うような音楽(国広和樹)も、Aでもそれなりに上手いのだが,今回は弦楽器も加えて深く決まっていく。さらに分量は少ないが最近のプロジェクションマッピングを使って舞台の世界を広大な大自然の営みのなかに連れて行くあたり、観客をしびれさせる技法もあって,Aとは同じシーズとは思えない出来である。このあと、5.6は同じ上村聡史の演出だから楽しみでもある。
ネムレナイト
大人の麦茶
ザ・スズナリ(東京都)
2024/04/10 (水) ~ 2024/04/21 (日)公演終了
実演鑑賞
始めて見る劇団だが、最終公演という。二十年あまり、スズナリで30回公演を打ってきたと言うが、そろそろ時分なので・・という見方によっては潔い引き方である。客席にも舞台にも悲壮感もないコメディ調のお別れ幽霊譚である。批評はやめておくが、小劇場の世界もこれからは今までのような安直な友達座組では成立しないのだろうと思う。稼ぎのために2.5まがいの営業をしなければならないとすれば、下北沢の空気も変わっていくことだろう。
デカローグ1~4
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/04/13 (土) ~ 2024/05/06 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
またも新国立劇場の意図不明の上演である。しかも超大作。見終わるには三日、観客は劇場に通わなければならない。「エンジェルス・イン・アメリカ」や「グリークス」に習ったのだろうが、このAを見ただけで、この連作ものを上演する意味が疑わしくなる。
まず、これはポーランドの庶民劇である。先の「エンジェルス・・」も庶民劇で、時代の象徴性があるではないかと言うだろうが、それは牽強付会である。このポーランドの市民集合住宅にも時代の風俗はあるが、時代のテーマがない。それを無理矢理超大作にして遠く離れた極東の国立劇場が翻案する意味がわからない。ならば、三十年前のポーランドの世界に、現代の日本を考えさせるようなドラマがあるか。
二つ、原作は映画である。監督作品と言っているからシナリオと言うより、映画であろう。あまり話題にならなかった映画だが、それなら映画を見れば十分である。映画は映像のリアリティで、内容を保証している。舞台にはそれを超えるリアリティを持たなければ態々、極東の國で翻案戯曲化する意味がない。そのための工夫が全くと言ってよいほどない。前世紀に非常に複雑な歴史体験をしたポーランドの市民劇を、多分、物珍しいだけで「エンジェルス・・」に形だけで匹敵できると考えている安直さが見えてしまう。せめて既にポーランドで戯曲化されている作品の翻訳ならまだ解るが、國を渡る難しい翻案を、まだ経験も少ない若い台本作者に課すのは酷ではないか。責められないが、翻案の意図が読めない脚本である。三つ、二人の演出者の交互演出というのも解らない。十分に冒険的な企画であるが、それなら、一人の演出者が通すべきで、歌舞伎のお披露目ではあるまいし、任期がきて変わる新旧芸術監督が連続演出するというのは、観客を愚弄しているとしか思えない。観客の方は、もう、新旧両演出家の資質がまるで違うことをよく知っているからである。
最初の二つのエピソードの公演には以上の危惧がそのまま出ている。
まだ開いて三日ほどだから、いつものように半分も入っていないという事態ではないが、こういう超大作をやる劇場の熱気がまるでない。次期芸術監督には、まずは貸し館しか客の入らない劇場に演劇の熱気を取り戻して欲しいと期待する。。
東京の恋
劇団道学先生
新宿シアタートップス(東京都)
2024/04/09 (火) ~ 2024/04/15 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
よく狙いの解らない短編上演である。テーマは「東京の恋」で、岸田国士、別役実、現在の深井邦彦、と三人の戯曲(深井は新作)から過去東京の百年の三時代を背景に短編集としている。恋と言うが、戯曲の内容は、男女の夫婦への思いが素材になっている。岸田本は結婚以前のお見合いの若い男女、別役本は中年の再婚のお見合い、深井本は妻が亡くなった良人の慕情と、恋と言うより結婚に関する「男と女」の意識のすれ違いがドラマになっている。岸田本(「頼もしき求婚」)は昔どこかで見た記憶があるが、今となっては、こういうお見合いは、若い男女や仲人役も含めて、観客にも俳優にもリアリティのきっかけがなく、空転している。別役本(「その人ではありません」)恋の機微を突いているわけでも、男女の関係の面白さが出ているわけでもない。本の出来もあまり良いとは言えず、繰り返しが多くて退屈する。深井本は新作だが、亡くなった妻に再会したい、という主筋は前作に引きずられてか、古めかしくラストに置かれた現代の挿話が、百年の鏡にもなっていない。東京の恋と言いながら焦点が見えてこない。
俳優はよく小劇場でお目にかかるベテランもいるのに、言葉への神経が行き届いていない。ことに、岸田、別役と言えば戯曲の台詞としては(内容については別にしても)、定評がある。観客も舞台の日本語としてはいままでも聞いてきている。この台詞表現の無神経な単調さ、鼻濁音一つ、友達言葉や敬語も出来ていない東京言葉の(ほとんど)無視はどうかと思う。過去を引きずらないというなら、先週見た若い加藤拓也・演出(「カラカラ天気と五人の紳士」)のように、原戯曲の台詞のまま現代の言葉にする努力をしなければ、過去の戯曲を再演する意味がない。
先年亡くなった劇団主宰の中島敦彦の劇風をつなぐなら、人情の機微を観察して、表現していくことが、この劇団の劇界での位置取りだと思う。中島敦彦の作品を始め、前世紀末から現在にかけても、幾つかの埋没させてしまうには惜しい戯曲が発表されている。松原俊春、宮沢章夫 如月小春 山田太一(戯曲もある)などなど。そういう作品の小劇場での再演も新しい役割になると思う。
カラカラ天気と五人の紳士
シス・カンパニー
シアタートラム(東京都)
2024/04/06 (土) ~ 2024/04/26 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役実作品に新しい演出が加わった。弱冠三十歳余の加藤拓也。若手の中でもどんな作品でも「いま」風に作ってみせる才人である。まずは、電柱一本が定番のセットが変わった。
地下鉄のホームが線路側から組まれていて、正面には改札口への階段。どういう形になるにせよ電車が来るかも知れないと思ってみていると、あっさりその期待は裏切られるが、異様なセットが何も言わないで今の不穏の社会の空気を舞台にみなぎらせる。二十年ほど前にKERAが「病気」を演出するまでは別役作品は見る方も、やっている方も解らないのが普通で、ケラの言い方に従えば「宙を見つめて独り言のように言い合う」のが普通の別役不条理劇のやり方だった。ケラは「病気」を爆笑劇にしてやって見せて別役作品は新しい顔を持つようになった。不条理も笑ってしまえば、リアルだと解る。新しい現代劇の発見である。
加藤拓也はもう一つその上を行く。
この作品派別役も老年になってからの作品(92年)で人間の生と死が取り上げられている。
幕開きに棺桶を担いだ五人の男が現われ、それが福引きの景品であるという笑劇的展開があり、それなら、そこには死体が必要だから、どうせ人間は死ぬことが決まっているのだから誰か死んでみたら・・・というような展開になる。で、人の生と死の意味や役割が展開する。極めて日常的な会話と論理展開の中で、人の生と死の笑いも残酷さもさりげなく広がっていく。後半女性二人が出てきて、生と死は一層日常化して、五人の紳士たちの建前は無力化されてしまう。
ここも加藤演出の冴えたところで、ほとんど、どの台詞も日常レベルと同じテンポで進んでいく。シリアスになることなく、昔の宙にらみとは逆の超日常化である。こうなると、別役ドラマも現代の日常ドラマになる。そこが加藤演出の新しい発見である、
棺桶と、それをおく二脚の台、落ちたら死にかねない下の方の段がない梯子など、日常のすぐ隣にある道具が、地下鉄のホームというセットと相まってこの別役ドラマから現代のホラー喜劇のような味までも引き出している。(美術・松井るみ)1時間10分。アッという間に終わる。
漸近線、重なれ
EPOCH MAN〈エポックマン〉
新宿シアタートップス(東京都)
2024/04/01 (月) ~ 2024/04/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
みずみずしい少年愛回顧青春劇である。内容は何度も繰り返されたドラマではあるが、表現が新しく、今風の風俗・会話も取り入れ、歌やパペットを上手く使うという小技も冴えて、新宿の夜を楽しめるスタイリッシュな小劇場作品となった。1時間半。
劇団主宰の小沢道成と、ゲスト俳優の一色洋平の二人芝居。地方から出てきた「僕」を一色洋平、僕が越してきたアパートの住人たち、家主の老婆(時にパペットで登場する)、跡継ぎの長男、部屋を斡旋した不動産屋、地元を離れず、結婚を知らせてくる高校時代の親友、隣に住む売れない漫画家志望の青年。いつも二番手までのホスト、なんかというと騒ぎの下になるインド人、そういう住人たちを小沢道成が一人で演じ、家主や地下に住むという珍獣のパッペト操作も担う。パペットを使い曲者俳優たちを揃えた昨夏の「我ら宇宙の塵」もよくできていたが、今回は二人芝居にしただけ引き締まった作品になった。
ヤオヤに組んだ板張りの壁に、形の違う窓が開いている。中央の一つだけは二人が窓顔を出せる大きさで、不動産屋が僕にアパートの部屋を見せているシーンから始まる。次々に窓が開いて住人たちが登場するが、一人一人よく工夫されていて面白く見られる。前半は地方から東京に出てきた二十歳過ぎの少年の一人住まいのドラマだが、現実とファンタジーを巧みに見せる。後半は結構す結婚すると知らせてきた「僕」の高校時代の親友の結婚式にどう対処するかを通して、青春後期のほろ苦い心情ドラマになる。帰郷すべきかどうか?
ストーリーそのものは奇をてらってはいないが、子供の頃ピアノを習っていた、等の小ネタを上手く使って音楽も効果を上げる。
場面の大道具に顕わされているように非常にスタイリッシュで、それが嫌みではなく、すっきりまとまっている。欲を言えば後半の締めが緩いところだろう。さらに言えば、これだけの技量があるなら、結局心地良い世界だけでなくもう一歩踏み出してみたらどうだ。
時代をリードする演劇人は、井上ひさしと蜷川幸雄。野田秀樹とKERA。新しいリアル派ではチョコレートケーキにIAKUとしばしば対抗組となって時代を作っていくものだが、いま新進の一方の雄、加藤拓也にはカップリングできる才能が見当たらなかった。小沢道成にはその役が担えそうなところも見える。須貝英を作者に迎えているところもいい。加藤拓也に三人がかりになってしまうが相手にとって不足はない。
メディア/イアソン
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/03/12 (火) ~ 2024/03/31 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ま、すごいものである。ギリシャ劇を日本マンガが世界を席巻する時代にあわせて、見せてくれたようなものである。進撃の巨人もあれば、ジブリ風もちゃんとある。あれよあれよとみている内に二時間たって、アンコールになって、さて、この芝居アンコールに出てきた兄弟を演じた二人(井上芳雄、南沢奈央)以外あまりなじみのない全部で五人しか出ていなかったっけ、と頬をつねってみたくなる。それほど、スケール感がある。ギリシャ演劇を現代的に見せてくれたことでは驚異の舞台である。9000円安い。平土間満席。
切り絵マンガ風な美術を天井の高いこの劇場一杯に作ったのも成功している。海だろうが、宮殿だろうが、みな、そこでやってしまっているのに貧乏くささがない。音楽も上手く使っているし、役者の衣装も黒白と地味にまとめていながら小洒落ている。
メディアはよく知られているから少しは基礎知識はあるが「イアソン」の方は知らない。なんだか、シェイクスピアのペリクリースみたいな話だなぁと思っている内に終わってしまった。この舞台、ちょっと話がわかりにくいのが残念なところである。折角、語り手の役もあるのに、もう少し状況を解りやすく説明しても良いと思った。前半と後半と人物位置が変わるところがよくわからなかった。フジノサツコ脚本による古典は、面白いと感じたところは何でも入れてしまう癖があって、「怪談牡丹灯籠」などは成功したが、これはギリシャ劇だもんなぁ。予習をすればもっと面白かったろうと残念。前半の展開がわかりにくく、怪獣大暴れの中断に至るまでは周囲のファン女性は結構お休みの方が多かった。彼女たちはお話しかと解らなかったに違いないがそれでもご満足で引き上げていった。
自慢の親父
工藤俊作プロデュース プロジェクトKUTO-10
シアター711(東京都)
2024/03/20 (水) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
スタンダップ・ショーのような、コントのような舞台である。ノーセット。
俳優のしゃべりだけでドラマが進む。そろそろ働き口もなくなりそうな老いた父親が長年会うことのなかった息子に会うことになり、現在の中年バイト暮らしを取り繕うべく、働いている工場の労働者たちが「自慢の親父」作りに右往左往する。それぞれの登場人物たちの思い違いの笑いだけが主なネタで見せていくが、全体に思いつきの進行なので終わりまで見ても、どうと言うことはない。かくべつ異色の俳優がいるわけでもなく、全体に、ギャグも演技も古めかしい。テンポも間もまったりしている。1時間半足らず。
それでいて、不思議に腹は立たないところが平塚直隆の本で、救いどころがないのに、相変わらず、オイスターズだなぁ、と空席もある劇場をあとにする。今時珍しい舞台ではある
イノセント・ピープル
CoRich舞台芸術!プロデュース
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2024/03/16 (土) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
原爆投下したアメリカの開発者たちの開発成功から現在に至る軌跡を描いたユニークなドラマである。作者は青森の高校演劇リーダーの畑澤誠吾。演出はチョコレートケーキの日澤雄介である。ともにこういう素材はよく知っていてまとまりは良い。2時間15分。
戯曲はほぼ十年前に劇団昴で公演したものを演出者、キャストも変えての再演である。今週見た「キラージョー」(よくできている脚本だ)も五年ほど前に俳小で上演したものを、演出者シライケイタが引き取って温泉ドラゴンで再演した。共にまずは成功だ。
小劇場で惜しまれながら上演のママ放っておかれている戯曲は少なくない(それほど多くもないが)。今度の上演の主催はネットチケット販売のCorichである。面白いところに着眼した興行だが、ただただその後の成功を祈る。過去にも同じ企画に手を出した団体や劇団は少なくないがほとんどが失敗している。大きく見て企画は良いのだが作品選択が続かない、今回の満席の入りでで甘く見ないように、と釘をさした上で。
こういう社会問題劇の戯曲を扱うのは難しい。ドラマであるから、彩りとしては「教訓劇」や「扇動劇」になりやすい。ともに昭和の新劇がこだわって失敗し、今も少なからずその尾を引きずっている分野である。観客の多くは見ていて閉口してきた。
昭和が終わって、チョコレートケーキは幾つかの作品で同じ危うさを内包している素材を現代の観客が見る現代劇として観客に提供し新劇の轍を踏まず、成功させてきた。その演出家日澤雄介の演出。この作でも、チョコレートケーキの公演なら、見逃しておかない日本側の責任を棚上げしている(まぁ自虐趣味に落ちていないところはよしとしなければならないが)ところはもう一つ工夫の欲しいところだ。この素材は「教訓」にはなるが、この國ではこの話で「扇動」されやすい時代になっていることも忘れてはなるまい。扇動劇の側にいた木下順二が終始、作品からは扇動を排除し続けたところも、昭和の一面としてで忘れてはなるまい。
キラー・ジョー
温泉ドラゴン
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/03/15 (金) ~ 2024/03/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
なんと言っても脚本がよくできている。現代の最後の晩餐である。
五年ほど前には俳小が池袋で上演したときも、前評判で完売した戯曲を演出のシライケイが自らの劇団温泉ドラゴンに持ち帰っての再演である。主演のイワイノフだけが同じジョーを演じるほかはキャストは全員変わって、レベルは大きく上がった。俳小が海外戯曲上演の枠を出なかったところを、おもいきり温泉ドラゴン的に振り切っていて、テキストレジも前回とはかなり違う。その功罪はあるが、今回はかなり手練れの客演俳優たちが、生き生きと底辺生活者の切ない物語を力演していて劇場内息をのませる迫力はある。五十嵐明の無気力、谷川清美の勝手放題、内田敦美の無知の純情など、胸をつく力演である。内田敦美は新鮮な上、技術的にも幼児性を工夫して演じていて、ここは特筆されて良い。クリスも脇に助けられた。俳優の力演が見所である。
一方、舞台は初演より、かなりダイナミックな悪党ものの作りになっていて、そこが疑問でもある。
細かいところから行くと、場面をトレーラーハウスから、廃屋ふうな一軒家にしたのが解らない。折角の絶妙の舞台設定の象徴性を捨てている。その上、客席の蹴込みに花を飾ったのはオセンチでいただけない。登場人物のキャラクターにも、アメリカの原作にはなかったに違いない日本的情念(例えば、兄の犯行への突然の変心、とか妹のヴァージン性の強調とか)が組み込まれていて、それが折角の作品独特のドライなタッチを、日本観客向けにしてしまっているようにも思う。(現戯曲の翻訳をきっちり読んでみたくもある)。
中段まではほとんど初演に沿っていると思うが、中盤の家族内の目を覆いたくなるような争いが、目に見える形で演じられていて、それはそれで舞台表現になっているが、そこまでやる必要があるかどうか。ジョーのペニスをドッテイに口淫させる魔面などは戯曲では裏にしているのではないだろうか。倉の善良な客は息をのんでみていたがやり過ぎである。
と、いろいろ言いたいことはあるが、シライケイタがこの戯曲を俳小の初演ような翻訳調(それでも十分に面白かった)でなく、温泉風に取り組んでみた成果は上がったし、良い試みだった。昼間から満席の劇場には、中年の下町の観客もいてそこも新鮮な劇場風景だった。
諜報員
パラドックス定数
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/03/07 (木) ~ 2024/03/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ゾルゲ事件に関連して逮捕された四人(一人はおとりで実は三人)のゾルゲ側諜報員が、お互い何も知らず(あるいは知らないふりをして)尋問に立ち向かったか、という話で、実話がベースになっているが、少人数の腹の探り合いドラマである。事件は複雑ではあるが、かなり事実もわかってきている歴史ものだ。それを背景に内閣情報部と特高警察の捜査の張り合いを枠にドラマが進んでいく。もちろん新聞記者や医者、官僚など、一応その時代でも身分保障されている諜報員は拷問しにくいし、なかなか組織の秘密は口にしない。内報者も潜入されている。ドラマはこういうシチュエーションで描く人間ドラマである。この手の作品を書いたらもうイギリスものの独壇場であるが、野木も懸命に追うが、かなり苦しい。
落とし穴は意外なところにある。細かく見てみたいところだが、その前に、この舞台斜めに組まれていて声が客席に向いていないだけでなく、ひそひそ声の台詞が多く、ことに幕開きの場はほとんど聞こえない。後ろから3列目でこちらも老年だから、申し訳ありませんというのはこちらかも知れないが、周囲の年配の方はすっかり諦めて寝落ちしていた方もいたから、こちらのせいばかりではない。次の場になると声量は上がる場もあって、以後は聞き取れる場と、聞き取りにくい場が交互にやってくる。話の背景はある程度知っているから訳がわからないわけではないが、舞台としてはどうだろう。
というわけでとても批評できるほどには見ていないのだが、老年の方は補聴器をお忘れなく。劇場パンフによると演出の野木は、普通の生活のようにと芝居がかる役者を憲明に抑えたと言うが、台詞が通るようにするのと、日常会話を表現するのとは、俳優の訓練術のテクニックである。折角面白い素材なのに残念。
アンドーラ
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2024/03/11 (月) ~ 2024/03/26 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
なじみのないスイスの作家の作品だが、著名な作品であるらしい。国家とそこに住む国民のすべての価値観や倫理観が同一であることは難しいもので、そこを統一させてドラマを作ろうとすれば無理が出てくる。スイスと言えばデュレンマットの「貴婦人の来訪」がよく上演されるが、それに似たタッチでもある。
きな臭い現状をみれば、永世中立国というのもウソっぽいよ、という作品はそれなりに意味はあるが、この程度のことはもう我が国の国民はご存じで、なにをいまさら、といった感じではないだろうか。休憩15分でほぼ、3時間、アトリエの椅子は苦行だが文学座の実力が良く出た寓話劇にはなっている。
作品の良いところは、あまり上部構造には立ち入らず、市井の市民を登場人物にしているところだ。国家が戦争をしようと言っても、国民の方は、さまざまな事情があるわけでそこが上手く描けている。役者も教師の主人公夫妻、阿呆の店の手伝い、神父、医者、宿の亭主など、皆ステレオタイプにひと味つけて役にしている。味のつけようもなかった武田知久とか、兵隊役の采澤靖起も舞台に出るとちゃんと役割を果たしている。この辺はさすが文学座。
疑問は主人公の兄妹をフィメールキャストでやっていることで、若手の女優さんは奮闘だが、意図がわからない。これでは大車輪の兄役かわいそう。
とはいっても、あまり見ていない新人の演出家(西本由香)はここまでベテランに個性をたてて役作ったのも、白一色の抽象舞台のステーよくできていて、文学座ガールズ(と言うにはベテランもいるが)演出家の一翼を担うだろうと楽しみだ.
御菓子司 亀屋権太楼
MONO
ザ・スズナリ(東京都)
2024/03/01 (金) ~ 2024/03/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
遅ればせながら、作者には岸田戯曲賞を、という中身のある市井の小劇場作品である。
関西小劇場の老舗MONO、かつて「-初恋」でそのフレッシュなゲイたちの青春を見てからもう三十年。作者土田英生の下に集まった五六人のメンバーで独自の演劇世界を作り上げてきた。「ヨーロッパ企画」とともに東京でも固定客を持つ劇団MONOの年一度の東京公演だ。時代の変遷も感じる。
ドラマの世界は御菓子司 亀屋権太楼という京都あたりにある和菓子の老舗。そこで展開する一族の物語は、ちょっと手を入れれば松竹新喜劇でも上演できそうな「あるある」の内容なのだが、そこに巧みに現代を忍び込ませて、現代劇としては大きな冒険もしている。そこに作者と劇団の円熟も感じる。話は和菓子屋の当主が死んで残された家族と従業員のその後、五六年の物語なのだが、観客の予想通り、店はたたまなければならなくなる。
そのメインストーリーの組み方はさすがベテランだけあってうまいものだが、その中に現代的なドラマが見事に組み込まれている。
一つは、現代でよくあるSNSの評判と、歴史に対する加重な信頼への批判である。関西らしい地域社会のなかで「世間の評判」が、生活を押しつぶしていく様を喜劇的に描きながら、リアルを失っていない。特に、加害者・被害者と一方的になりがちな人々の現実社会で揺れる変化が多様に描かれている。
二つ目は関西を舞台とすると、タブーになりがちな同和問題を実態に目をそらさず、偏見を持たずに取り入れていることである。ここでも一方的な立場はとられていない。そのバランス感覚の良い良識の戦う姿勢は評価できる。昭和の時代にはさまざまな問題をはらみながら社会問題として常に採り上げられてきた同和問題も、紆余曲折を経て、現在はこういうことなのであろう。表向きにはすっかり消し去られている問題をあえて取り込んで、巧みにドラマ化している。
さらに言えば、この問題も含めて、劇団が関西を離れず、地方劇団としてのルーツ(現実には東京が劇団員の生活の場であろうが)を生かして演劇活動を続けていることも評価したい。東京にはこういう劇団はもう、喇叭屋だけになってしまった。
客席は9分の入り、週末は完売しているという。土田の作品は空振りも多いのだが、いつもどこか新しいところを見つけようとする。今回は作者の良さが詰まっている。この際忘れていた賞をあげたいものだ。
「5seconds」「Nf3Nf6」
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2024/02/24 (土) ~ 2024/02/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
演出者として長いキャリアのある和田憲明が、野木萌黄の戯曲から再演したい作品を2作、上演したなかで、見ていなかった「5Seconds」を見た。
80年代初めに起きた日航機の機長の判断の誤りから着陸直前の海に墜落、20余名の死者を出した事件審判で行われた貴重と弁護士の面接のドラマである。もとなった事件は現役真っ最中だったからよく覚えている。ちょうどモンテカルロにいて海外と人たちと仕事をしていた。アメリカの人が、新聞を見て、これは間違いなくパイロット・エラーだな。といったのは覚えている。アメリカは飛行機社会なのだ。
その後の事件経過はよく知られていて、結局機長の心身障害が理由になったと思う。
そうなるとそれは個人の問題ではなくなる。この種の事件が、個人に加えて会社の責任も重く、問われることになる事件の一つでもあった。(いまは原発事故のように会社の判断をした個人もその責を問われることになる)。航空機操縦のコックピットの最終責任者はまず、機長、次いで副操縦士と技術責任者が二人、墜落の5秒間にその三人に何があったか。まだ現代社会の責任構造が単純であった時代の事件だが、現代にも通じる興味深い事件である。
野木の戯曲は、審問を前に機長の弁護を請け負った弁護士事務所の若い女性弁護士(難波愛・文学座)が、当日操縦した機長(中西良太)の主張の聞き取りを行う4場である。
機長は墜落後救助されて病院に収容されていて、回復すれば裁きの前に出なければならない。その前の4回の病院での面会がドラマになっている。若い女性弁護士は、機長にその操縦の理由を理性的に聞き出そうとする。機長は、事実、精神的に安定した状態ではなく対応は揺れる。弁護士としては心神耗弱に持っていけば成功(法で無罪と規定されている)なのだが、面会の中で、機長が年齢もあって、しだいに機長の場からは外されそうになっていることも解ってくる。そうなれば、彼のフライドや生きがいは奪われてしまう。
山場は、機長が、ごく普通の習慣的な着陸手法であった5秒間の「着陸」時の機長をやってみせるところだろう。
この戯曲は、現代社会のどこにでもある個人の責任問題を、ここにいる個人の問題と、そこにある集団との意識の違いから描いた面白い狙いの作品である。裁判では人間はなかなか裁けない。
テーマが面白いのも、1時間40分ほどにまとめられた二人芝居もよくできてはいるが、野木の戯曲によくあることだが、テーマが社会的には拡がりきれず、どうしても、そこにいる俳優たちが演じる二人の人間の問題になってしまう。野木は異色の小劇場劇作家で数年前まで、パラドックス定数でさまざまの社会の場に生きる人間の個人の姿を面白いドラマにして見せてくれていた。よく見ていた。なかでも「三億円事件」は大きな演劇賞にもなった優れた異色の作品で、三演公演の演出が和田憲明だった。
だが、その後、新国立劇場で新作を委嘱上演した頃から、野木には目立った変調があった。その理由が、新国立劇場以前に書かれていたこの作品で解った。野木も新国立で、機長のようにプライドを奪われたにちがいない。実につまらなかった新国立劇場の作品を強制されて(決して劇場側は強制したとは言わないだろう、JALのように)野木は立ち上がれないような大きな心の傷を負ったわのだ。創作者なら誰でも持っている精神の柔らかな部分を無神経に刺されたに違いない。再演の舞台から作者の芝居の魂の真実を見せられたような上演だった。
ワークショップから生まれた演劇 「マクベス」
彩の国さいたま芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/02/17 (土) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
角書きに「はえぎわX彩の国さいたま芸術劇場・ワークショップから生まれた演劇」とある。若い世代に向けた作品作りを目指し、試演を重ねて、親しみやすく、飽きさせない構成と演出で制作された、いままでいくつもの舞台を見てきた「マクベス」のニューヴァージョンである。リーダーは演出のノゾエ征爾。デビュー三十年になるベテランである。
特色としては、舞台がいかにも今時の若者好みにきれいに様式化されていること、演出者か音響担当者か、あるいはワークショップの民総意か解らないが、何曲か、現代作曲の音楽が使われていること。それに応じて(ひきずられて、といった方が良いかもしれない)ダンス的表現(美術での8X8の椅子を俳優全員が動きながら美術大小道具の役割をさせていくところも含め)が多用されていること、テキストは、現代に残る名台詞、名場面を残らず山場として強調してあり、今まで再演ではマクベス夫人(が最も多いだろう)や敵対する武将などの視点をとることが多かったが、この再演では原作通り、今となっては類型的な普通の人間、マクベスの原作に従っていること、制作に携わった俳優、制作など舞台の現場が(多分)平均年齢以下の若者ばかりだったこと。が上げられるだろう。それらが良くも悪くもこの公演を特徴付けていて、それに耐えるのも古典戯曲の役割だとも感じた。
もうずいぶん前になるが、中屋敷法仁が、 踊るシェイクスピア というシリーズを上演していて、オールフィメールキャスト(だったと思う)で、名作を踊り抜く舞台があった。確かに新しくはあった(それなりに愉快ではあったが)が、だからといって、シェイクスピアに新しい発見があったと言うことはなかった。そこが古典のしたたかなところで、ノゾエは、真面目に考える方の人らしく、やはり難物だなぁ、と感じた由で、客席には若者と同じくらい成人客層も見に来ていて、なかなか、観客世代を変えようとするほどの作品は作れない。上に挙げたような小手先ではどうにもならない。アノ、野田秀樹ですら、ずいぶん脇では使っているが、正面からはほとんど4大悲劇と戦っていない。入りは6分。
う蝕
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2024/02/10 (土) ~ 2024/03/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
もともと作者・横山拓也がもっているファンタジー志向に、今回は大きく振り切ってみた作品だ。初めての演出になる(多分)瀬戸山美咲がそこを合わせたところが幕開きで、四角の角封筒が空いて荒廃の島が轟音とともに現れるいくという趣向はなかなか見せる。しかし内容はこの作者らしくいろいろなファンタジーの筋を組み合わせていて、なかなか全体のファンタジーの構造が読めない。そこがこの作品の評価の分かれるところだろう。
終末ものばやりの昨今に合わせてもいて、不気味な地盤沈下で沈みゆく島を虫歯になぞらえて「う蝕」と例えて見せたところなどさすが。そこに現れた男ばかりの6人のキャストにそれぞれ役割が降られているが、これがすっと頭に入ってこないところから舞台は横山作品には珍しく渋滞する。
島で犠牲になった人々を救助しようと来島する準備隊のひとびとよ、犠牲者を歯で決定づけようとする歯医者の人々、次第に見捨てられていく島の運命、がミステリアスに進行していくのだが、話がうまくつかめない。どこかで見たような気がするのは、ベテランでは、岩松了、ちょっと上では前川知大、若いところでは加藤拓也が良く使う芝居の枠取りファンタジーの世界だからだろう。しかし、彼らのようにどこかですっきり割って見せるというがないから、若い男の子の俳優見物で見に来た満席の三十歳前後の若い女性客は、帰り道に、しきりにスジの答え合わせをしていた。
それも芝居見物の面白さだから悪い風景ではないが、それほど深い意図は読めなかった。
横山としては少しひねった世相ファンタジー。休憩なしの二時間。三週間に及ぶ30回以上の公演数なのに、もう補助席に立ち見まで出て大入りである。
掟
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2024/02/15 (木) ~ 2024/02/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年、復調ぶりを見せてくれた中津留章仁の地方都市の若い新市長と、旧態依然の市議会の対立を素材にした問題劇。22年にも地方都市の閉塞ぶりを描いた作品〈出鱈目〉があったが、過疎化の中で出口のない地方都市は、日本の縮図としては格好の材料で、何とかしなければ、と皆思ってはいてもどうにもならないところを見せる。
汚職で市長ら首脳陣が退陣した地方都市の市長選に、地元出身のデータコンサルタントが故郷帰りする。さっそく初当選するが、新市長(森下庸之)は地方自治法を盾に(占領軍が基本を作ったので結構、住民本位。それをいいことの政府は手を抜く。能登地震でもそこは丸見え)旧勢力の市議会員たちと対立しながら改革を試みる。背景にほっておけば十年もすれば過疎でどうにもならなくなる地方都市の現実のデータがある。三権分立を立て前にまずは、議会に根回しなしで財政改革を進める手法(道の駅に都市企業を誘致する)、次に議会運営のなれ合い手法(この辺りは「堕ち潮」)、さらには地方新聞、ローカルテレビの地方政治癒着が争点にあがる。対立構図は、いままでふつうに取られる善悪の構造とは半逆転しているほかは、さほど新鮮味があるわけではないが、こうして地方の実情を露骨に見せられると、出口がないだけに暗然となる。結構新人も出ている地方の現実もこうなのだろう。
中津留は多作の人で、トラッシュマスターズだけで、もう39回公演というから、ほかに書いた社会問題、風俗劇も作品は多く、数えればそろそろ百になるのではないか。問題の素材だけが面白いという作品も少なくないが、なかには「絶海の孤島」のような傑作もあるし、何よりも、多作して(テレビのような他愛ない娯楽作もある)なかには昨年の「入管収容所」のように実話を巧みに芝居にした見るべき作品もある。とにかく、戦後新劇の社会問題劇作者たちとは比べ物にならない馬力のある現在の演劇界では異色の作者なのである。そこは評価すべきだと思う。
今回は、地方議会の対立勢力の議員たちに新劇大劇団の幹部級のいい俳優を呼んできたのが成功した。青年座の山本竜二の田舎大名さながらの無神経ぶり、女性議員と言えばいい役が多いのだが、気位だけは高く横暴で勝手なだけの女性議員(斎藤深雪・俳優座)、取りまとめが取りまとめにならない議長(葛西和雄・青年劇場)、立て前だけで結局頼りにならない良心派(小杉勇二・民芸)と主演級が巧みに役を肉付けしていて、なんと、3時間(間に休憩10分)飽きさせないのだ。みな面白そうにやっている。
ドラマの結末はお察しの通りで、変なアジ劇になっていないところがいい。だが、作者の馬力を考えればやはりここも面白いだけでなく、一度は本気で取り組んでみるべきテーマであることは忘れないでほしい。
インヘリタンス-継承- THE INHERITANCE
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2024/02/11 (日) ~ 2024/02/24 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
欧米では時に、こういう大長編劇が出てくる。英米で著名な賞も受賞した大作の翻訳上演である。日本でも、田中角栄伝・四部作なんて作もあるが英米の場合は、この作品も、前の例では、エンジェルス・イン・アメリカでも、長編大河ドラマを一つの架空の劇的世界に設定し切ってしまう構想力がすごい。この大作の素材はアメリカ・ゲイ社会の三年間(前編だけ)である。コロナ直前の2015年から17年まで。新しい作品である。
前世紀末に同性愛者の間にエイズの猖獗があって、欧米では病気という以上に、性関係をもとに築かれる家庭を基盤とした社会を揺るがす衝撃があった。アメリカ社会は同性愛についてかなり神経質になった。それはヨーロッパも同じだが、日本はその圏外にあった。理由はすでに様々な社会学者によって分析されているが、日本は欧米ほど深刻ではなかったことは事実だろう。この芝居を見ているとそういう日・欧米差が良くわかる。(念を押すと、そのことの良い、悪いを言っているのではない)。まだ若い日本の演出者(熊林弘高・2010年デビュー)に気合が入っていて、大劇場の舞台の3時間余を見せ切った、ここが第一点。
舞台は、ニューヨークの高級アパートメントに長年暮らすゲイカップル、エリック(福士誠治、徒食の人?)とトビー(田中俊介・孤児出身・作家)を軸に、エイズを生き抜いた不動産の資産家ヘンリー(山路和弘)と、作品助言者のウオルター(笹井英介・大学の先生?)の高中年の二人、若い世代で、田舎から出てきた美少年アダム(新原泰佑)。この五人を軸に集まったゲイたちの三世代のドラマを描いている。長年のゲイカップルが結婚式を挙げるかどうか思案するところとか、家を持つかどうするか、とか前の時代の家族が一族の柱とした家庭の事情に、今も悩まされるところなどリアリティがある。人間なかなか変わろうとしても変われない。いかにもニューヨークのゲイ同士のこじゃれたパーティシーンから始まり、アブナ絵的なゲイカップル・シーンもある。演出のテンポもシーンのつくりもいいので、つい見てしまうが、物語はやはり日本とはかけ離れた世界なので、今少し登場人物が何をして食っているか、ちょっとした説明があってもいいのではないかと思う。ウオルターなど、せっかく斧語りの説明役的な役回りになっているのに、この人物そのものが良くわからない。アダムを演じた新原の二役のように単純な役割なら、これで成功と言えるだろうが、ドラマの中でもこのゲイ社会はもっと複雑に入り組んでいる。
ドラマは2015年おぱーてーから始まって、16年、17年と同じような場面がメインて、
なかにはトビーの小説あたって、ブロードウエイで上演されるというアメリカンドリームの話も組み込まれ、一つの軸になっている。
この前編の最期はヘンリーが死後に残す家をウオルターとともに訪れるところで終わっている。最後に出てくる家が、いかにもアメリカン・ドリームの家でこういうところにタイトルの人間の継承の面白さを見せたのか、とまぁ、納得はする。しかし、アメリカ社会の現実はもっと荒々しく荒れているのではないか。もう二十年近くあの地に足を踏み入れていないのでよくわからないが、この作品のヒントになったというフォスターの「ハワーズ・エンド」も結局家(家屋)の争いになったことを考えてしまう。この典型的なアメリカのi家庭の家を、いったどう超えようとしているのか、は後編待ちということなのか?
兵卒タナカ
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2024/02/03 (土) ~ 2024/02/14 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
日本人が書けば、どういう立場からもこういう物語にはならないが、ドイツの亡命作家が書くとこういう作品になるところが、面白いと言えば、面白いが、この舞台が興味を引くのは、そういう珍品掘り出しの上に、このところ注目を浴びている文学座の若い女性演出家たちの一人、五戸真理恵がスタイリッシュな演出で新鮮な舞台表現を成立させているところである。そこに尽きる。
一段高くなっている黒に覆われたノーセットの舞台に登場する俳優たちは、全員が白一色のギリシャ劇のような無国籍の衣装である。伴奏音楽は和風を織り交ぜた前衛音楽風で、効果音と相まって、不思議なリズム感を舞台に作る。一幕、二幕は50分そのあと10分の休憩三幕は45分。結構長いが、舞台の面白さに引きずられて飽きない。
全体がリアリズムではない新鮮な様式感で統一されている。がある。しかし様式がありながら現実感のあるリアルを舞台に残していて、見事である。たとえば、一幕の帰郷の場。村人たち、それぞれが、タナカに与えられた軍装を珍しげに触ってみるところ。
村人一人一人にちゃんと芝居がつけてあるだけでなく、全体の動きもタナカと同僚兵士ワダと村人たちの対比もよくできていて、兵士となったタナカと村が別の世界に住むようになったことがよくわかる。両者の間に起きる距離感(羨望や憎しみを含めた)がセリフにない演出をされている。
二幕で言えば、いわゆる売春宿のマワシをとるところ、前半はコミカルに様式的にできているが、この後に、兄妹の再会を持ってきて、喜劇から悲劇への急転の効果を上げている。うまい。ここまでに比べると、三幕の軍事裁判はいささかご都合主義に議論も進むので、残念なところではあるが、そこはやはり戦前の戯曲で、それを考えれば、あの国際情勢の中ではよく日本の状況を把握していたといえるだろう。
プロダクション制作で集められた俳優が主演のタナカをはじめみなすっきりと好演している。演出・五戸は前のパルコがうまくなかったが、今回は復調。やはり期待の新人である。
最高の家出
パルコ・プロデュース
紀伊國屋ホール(東京都)
2024/02/04 (日) ~ 2024/02/24 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★
反面教師の舞台である。大きくは三つ。
まず、本がだらしがない。この作家はメタシアター作りが得意の様だが、外枠もできていなければ、内枠もできていない。結婚生活に飽き足らない若い女性が、家出をして人里離れた山中の劇場(演劇)と出会う物語だが、ファンタジーなのか、青春後期モノなのか、色々取り揃えてやっているが、結局何をやっているのかさっぱりわからない。かつて新興都市の読書クラブという面白い設定の同じつくりの作品(ロマンチック・コメディ)があったから手慣れているのかもしれないが、これではメタにする意味も分からなければ、その効果もわけがわからい。同じ構造の」KERAの再演(スラップスチックス)もやっているが、こうしてみると、KERAの劇的構成力との間には天地ほどの違いが分かる。
二つ目。キャスティング。際立つ軸がない場合に、軸を作る努力がスタッフ全体にかけている。物語が頼りないうえに、観客がついていける主人公に魅力がない。周囲も一部の若者の人気だけでそろえているから、脇でまとめられる役者がいない。これでは2.5ディメンションと同じで、それならそうと、もっと腹をくくって、ロビーをグッズ専門売り場とサイン会場にするくらいの覚悟がなければ、これでは関係者すべてに不満が残ってしまうだろう。
三つ。パルコ劇場は、都市演劇の新しいジャンルを開拓してきた実績もあり、制作部もある劇場である。劇場改築のころから、梅コマのように複数のプロデュースも行ってきているが、制作の方向が見えていない。2.5は本腰を入れれば、独自の領域が開けるかもしれないのに、制作部に方向性と情熱が見えない。これで、9千円で三週間打って客が来ると思っているなら、本や役者を読める人がいないということである。まだ始まったばかりなのに、半分がやっとでは先が思いやられる。
興行には失敗はつきものであるが、ほかにも、パルコ主催でまず、初歩の基本的取り組みでちょっとどうかと思う舞台が続いたので憎まれ口。