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2020年度 1-10位と総評
フリムンシスターズ【12月1日(火)と12月2日(水)の大阪公演中止】

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フリムンシスターズ【12月1日(火)と12月2日(水)の大阪公演中止】

Bunkamura

劇場で芝居を観る愉快を、本当に久しぶりに味わった。
松尾スズキのコクーン芸術監督就任第一作。「キレイ」で当てたのはもう二十年も前か。それとは全く違うテイストで、かつての松尾大人計画の味を残しながらも、新しいコクーンの出発を期待させる新作ミュージカルの登場である。新しく、若々しく、心弾む。
何よりもいいのは、現在の状況の中でまったく委縮していない。「いい加減な指示なんかには従わないで自由でいよう」という趣旨の曲もあるが、スタッフもキャストも舞台の上でのびのびとはじけている。そこが今の時期には素晴らしい劇場からの贈り物になった。
舞台の大枠はゲイの信長(皆川猿時)が仕切るショーパブになっていて、物語や人物紹介はほとんど、彼によってされる。正面に舞台に当たる空間があって、そこで芝居もあるし、歌もある。よくある構成舞台なのだが、舞台の色使いや枠取りの美術が素晴らしい。その上の二重にバンド(6名編成)がいる。物語は西新宿の地方の若者が集う吹き溜まりのような地区にあるコンビニとその二階にある従業員の部屋から始まる。そこに住んで、禿のコンビニ店長(オクイジョージ)との情事にふける沖縄出身の売り子(長澤まさみ)、10年前の妹への交通事故でスターの座を追われたかつての大女優(秋山奈津子)と、そのゲイのマネージャー(阿部サダオ)が久しぶりの出演の稽古に臨む話を軸に展開する。物語は一日半なのだが、その間に、登場人物たちの過去がほとんどクライマックスの連続のように歌と芝居で、挿入されるので、展開は波乱万丈、それを追ってもあまり意味はないが、要するに、この三人と彼らを取り巻く現在の社会からこぼれおちたひとびとたちは沖縄言葉で「フリムン」(狂う)にならなければ生きていけないのである。
そのフリムンぶりは、踊りであったり、音楽であったり、時には「後ろからズドン」という曲の物騒な歌の警官の上司殺人だったり、コンビニで売っているコンドームを盗む奴隷労働の現場とか、後ろからやって、と下ネタだったり、伊勢丹のパッケージを衣装にした伊勢丹の上品さを守る会を名乗るやくざ集団だったり、ユタのお告げが現実になったり、半端ないのだが、でたらめに見えながら今の空気をはらんだ統一感があって、素直に観客は乗っていけるのだ。暗くなりがちの話で、松尾スズキの過去の小劇場作品は暗さに居直ったような凄みがあったが今回は、暗さを笑い飛ばして前へ進んでいく。俳優もみな適役。主演の三人は、それぞれ出身は違うが、うまいことでは定評がある何でもできる人たちでその力を十分発揮している。観客も巻き込まれて陽気になる。
それは、脚本だけではない。
この舞台のスタッフはあまり知らない人たちだ。私が記憶していたのは振付の井出茂太くらいで、美術の池田ともゆきも音楽の渡邊祟も知らなかったが、立派に大劇場をこなす。キャストは脇は大人計画が固めているがそれでも中には歌唱力で客席がどよめく妹役の笠松はるのような新星がいる。細部に至るまで華々しいのだ。
私は、オンシアター自由劇場が初めて「上海バンスキング」で博品館劇場へ進出した公演の劇場の熱狂を思い出した。この舞台には劇場とともに時代が動いていく感じがある。なるべく早い機会に再演を期待している。

ミセス・クライン Mrs KLEIN

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ミセス・クライン Mrs KLEIN

風姿花伝プロデュース

女優三人の格闘技のような舞台で、芝居のだいご味をたっぷり味わえる本年屈指の舞台・2時間45分である。イギリスのニコラス・ライトの三十年ほど前の本で、中身は三十年代の終わりにナチに追われてロンドンに逃げ延びてきた精神分析医療の女性研究者の物語である。その精神医療を使っての物語は、時代相と相まってさすがに古めかしく、新聞の片隅の身の上相談レベルだが、その物語に上乗せされた女三人の相克の芝居が見所である。
自らの生き方を科学に託し、わが子の成長すら研究対象とするが、現実には子供たちから離反されていく母・ミセス・クラインを那須佐代子、その娘で、やはり同じ研究者の道に進むが母に反抗しながらも逃れられない娘を伊勢佳世、ドイツから逃れてきたばかりで、生活のためにクラインの助手の仕事を求めるポーラに占部房子。
ミセス・クラインのもとに、息子がハンガリーで落命したという知らせが届く二昼夜の物語である。ストーリーは息子の死因の真相をサスペンス風に追って進むが、芝居の核心はそこにはない。
母国を逃れたユダヤ人の話は数多く書かれているが、この戯曲が面白いのは、登場人物がいずれも科学者で、事件の中で揺れ動く、科学と女の生き方の間のジレンマが克明に描かれることである。登場人物は三人だけとなれば、これはもう役者と演出が勝負どころになるが、細かい演出、無駄のない新鮮な演技で、期待に応えてくれる。学者としても、親としても自尊心を捨てられない那須賀世子、親に反抗するように我が道を行く伊勢佳世。一方ではその人生に疑いを持ち、時に原初的な母と子に戻りながらも、異邦人として異国に生きなければならない人々のある種突っ張った女たちを型通りにならず演じ切る。その親子の鏡になる占部房子もよく物語を支え、最後にミセス・クラインに爆発するところなど見事であった。細かい動きとセリフに埋め尽くされた舞台を演じ切った小劇場の女王たちに拍手。
風姿花伝の小さな舞台だが美術も、衣装もいい。控えめな音楽の選曲も良い。よくわからなかったのは潮騒と海鳥の声らしい音響効果で、舞台がロンドンのハムステッドとなれば、海岸からは遠い。母国からは遠く、との意味かもしれないがそれは少しうがちすぎだろう。。


前年の「終夜」に続く風姿花伝の翻訳劇シリーズだが、座主の那須佐代子と演出の上村総史以外の俳優を変えて、素材に偏らない現代劇を上演しているのには敬意を表する。ことに日本の新劇にありがちな政治劇や、フォーマット(喜劇、とか推理劇とか)優先にならないで、舞台の上で演じられる「現代の」人間像が面白い戯曲を選んでいるのがいい。昨晩はこの事態の中で、小劇場では高めの値段設定だがほぼ満席だった。こういう芝居を観たい客は確実にいる。

真夏の夜の夢

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真夏の夜の夢

東京芸術劇場

異才を組み合わせれば、傑作ができるというものでもないだろう。
ルーマニアのブルカレーテは、「ルル」を見た時は偉いのがいる、と大いに感心したし、異色の感能性にも触れることができたが、野田とは肌合いも違う。さらにおおもとの原作がシェイクスピアの祝祭劇である。これにドイツ系のファウストや英語圏の「ピーターパン」まで組み込んである。舞台も、野田の場合はかなり手が込んでいても手づくり感がどこまでも残るが。今回は映像処理も大活躍で、言って見れば、ひっちゃかめっちゃかのごった煮「夏の夜の夢」である。野田流にふざければ「夏の世の夢」。夢だからいいじゃないかと言われれば、そうかもしれないが、自然破壊へのプロテストまであるところを見ると、結構まじめに現代批評も意図している。まぁこういうのもありカナ。国際的な才能激突のコロナ憂さ晴らし祝祭劇を期待していた小生はあてが外れた。

たむらさん

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たむらさん

シス・カンパニー

きっと、いまに気骨のある団体が現れると信じていた。
劇場自粛警察には、ほとほと、参っていたが、この公演は無駄な対策を止めている。滑稽でしかなかった切符のもぎり、場内マスクの強制、たけだけしい場内ご注意アナウンス、何よりよかったのは馬鹿々々しいとしか言いようのない席の一席明けを辞めたことだ。感染医学者がほとんど役立たないといっていることばかりだ。感染防止を言い訳にこんな愚行を重ねれば観客席は死ぬ。それが分かっている制作者がいたのだ。いや、演劇に関わるものは内心みなそう思っていただろう。さすが、シスカンパニー。5☆。
久しぶりの満席の客席。京王線の事故で途中入場者も多かったが、それもおおらかに許せる、小屋の客席の空気が戻っていた。観客は半年ぶりに演劇を心から楽しんだ。

さて、芝居の中身。先日、日生で同じような二人芝居「真夏の死」を見て、作者の切れ者ぶりはわかっていた。今回は現代劇。1時間足らずの短編だ。作品的には、三島のような線の太さはないが、作りはうまい。ことに後半の意外な展開には驚くが、人間関係が風俗的なので、三島の場合のような強靭な舞台を支える力がない。俳優も、現代風を意識したのか青年団張りのナチュラル志向で前から12列目くらいの席だったがセリフが届かない。残念。
政権が支配をあらわにしている牙城の新国の地下の貸し小屋でこの快挙に拍手。

意外な花嫁自殺は、ドラマの運びとしては無理がある。才人才におぼれたか。ここまで、妻に何も語らせないのは、手としてはこの手しかないだろうが、父親、両親の方はもっと手がある。「語れない」というのは非常のドラマチックで、いい芝居はよく使う手だから参考例はたくさんある。私のおすすめは、グザビエ・ドランが映画にして成功した「たかが世界の終わり」。今の人々らしい忖度満載。

雉はじめて鳴く

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雉はじめて鳴く

劇団俳優座

学園ものである。どこにでもありそうな高校の青春物語なのに、現代社会の辛いところをシャープに織り込んで、見事な現代人間ドラマになっている。さすが、横山拓也!
昨年の秀作「熱い胸さわぎ」のカップリングとでもいうべき作品で。同じく母子家庭の母子が主人公になっている。こちらは子供が男の子、あちらはひと夏の物語、こちらは冬。家族、親子がすべての人間の避けられない根源的人間関係だということを作者がよく心得ている。
ぎりぎりの暮らしの母子家庭の高校二年生男子の冬物語。体をすり減らして働く母(清水直子)を重荷に感じて、サッカーの部活と、担任の年上の女教師(若井なおみ)に避難所を求めているケン(深堀啓太郎)。母との殺伐とした日常関係と、もう二年間も、祖母の介護のためといって国へ帰ってしまった父の不在で心理的に追い詰められているケンを、担任の女教師は話し相手になり求めに応じてハグしてやる。そういう、人間同士の肉体的接触の多義的な意味あいもこの作者は巧みに取り込んでいる。「あつい胸騒ぎでは「乳房」、こちらは「父」。その「ハグ」が学内で問題になる。
物語は高校に派遣されてきた新任のスクールカウンセラー(保亜美)を通して分かりやすく展開し、ケンの家出、失踪へと広がっていく。
感想1。新劇団が、小劇場のめぼしい作家に作品を委嘱するのは、ここ数年の趨勢で、文学座、青年座、民藝はもとより、銅鑼とか青年劇場とか、以前から戯曲主導でやってきた劇団はどこでも同じことをやっている。それぞれの文芸制作部の力がなくなってしまって、窮余の策だろうが、作品的にはあまり成功例がない中で、この作品はかなりうまくいっている。よくある、劇団側も作者の側もお互い帳尻を合わせました、という発注作品的安易さがない。深みのある出来のいい現代青春ものになっている。見ていても気持ちがいい。
感想2。さすが俳優座で演技がモダンで鋭い。脇がもたもたしていない。母親の清水直子の無駄のない人物造形。学校の校長(山下裕子)と教頭(河内浩)もウけ芝居をやりたくなるところを見ごとに抑えてリアリティを担保する。たいしたものだが、ここでも、熱い胸騒ぎのiakuと俳優座の違いがくっきりと出ている。どちらがいいというレベルではなく、二つの提示が舞台にある。面白い。
それにしても、ブレヒトと田中千禾夫、千田是也の俳優座も変貌するものである。しかし、時代とともに歩まざるを得ない演劇では変貌を畏れてはいけないだろう。
感想3。平日の昼公演、客席は三割がた空いていた、若い客も少ない。Iaku公演なら満席である。客席数が違うというかもしれないが、アゴラで見るより、最初から演劇劇場として作られた六本木の真ん中の俳優座の方が客にとってはいいに決まっている。そこで僅か10公演でも客が埋まらない(アゴラの手打ちは15公演全席完売である)というのは、やはり、経営部がよく考えなければならないだろう。つまらないことを言うようだが、せめて、当日客席パンフで、配役くらいは知らせるべきだろう。俳優座なら役者は誰でも知っている、配役表など無駄だと思うところがダメなのである。


思いがけない最終場面でのどんでん返しがあるが、これは見事である。青春は一時の激情、だからこそ貴い、という青春物語のくくりがここではっきり見えてくる。

ガールズ・イン・クライシス

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ガールズ・イン・クライシス

文学座

文学座らしくなくて面白いよ、という評判を聞いてあまり予備知識なく寒空のアトリエへ。
コロナ下のせいか当日ビラも配役表も、もちろんパンフもない。ドイツの作品(2017?)という事はわかったが、余っていたチラシをもらうと、ここにも文学座らしからぬキッチュなタッチで男女の裸が躍っている。東欧の作品らしいエゲツなさもあって文学座としては珍しい演目だ。アトリエ70周年記念公演、とか日独協会の後援とか、大いに力は入っているらしい。演出は新進の生田みゆき。
ドイツのキワモノというと、時代は違うが、猥雑さと切迫した環境で書かれたでドルーテンの「キャバレー」を連想する。
内容は、男はうざいばかりで満足できないベイビー(鹿野真央)が、友人のデブで男にうぶなドリー(吉野美紗)と、思い通りになる男の人形(亀田佳明、木場尤視)と共に、金沢映子と横田栄司の狂言回しで、現代地獄巡りをするという筋の中で、「人間の欲望、エゴ、差別意識、群集心理をファンタジックに描く」(チラシ)という80分だ。ストーリーも登場人物たちもすべて男女三人づつの俳優で演じるのであまり筋を追っても仕方がない。役の設定にも母娘の関係や犯罪友の会のメンバーなどまるでよくわからないグループの登場などもあって、どんどん進む割には、気分は渋滞する。
俳優も、鹿野真央も亀田佳明も熱演だが、弾まない。文学座としては色変わりだが、こういう一種の不条理劇は文学座も日本の演劇も経験がないわけではない。別役実やケラリーノ・サンドロヴィッチがすでに扱っている領域である。その経験がうまく生かせていないのが残念なところだが、こういう戯曲を発掘して、このところすぐれた演出家を次々デビューさせている文学座の若い女性演出家で、見られたのは来年に期待を持たせる年末のいい企画であった。


ニオノウミにて

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ニオノウミにて

岡崎藝術座

二年前に岸田戯曲賞を受賞した上里雄大の新作の公演・客席50ほど(満席)の横浜のビル地下の狭いスペースでの上演である。長い年月をかけて練り上げられた昨年の受賞作「バルパライソの長い坂をくだる話」に比べると、こちらはエッセーの味。それでも、天皇の血で琵琶湖が真っ赤になる、とか外来魚のブルーギルが人間の勝手を訴えるとか、それぞれ、ふつうの演劇の舞台ではなかなか観客に納得させるのが難しいところを、ホリゾントの黄色と朱の幕(この色彩感覚は大したものだ)で表現してしまうとか、異様ともいえるブルーギルの着ぐるみ(衣装デザイン秀抜)の女優(重実紗果)の快演でみせてしまうとか、思い切った演出があって芝居好きは嵌められてしまう。
エッセーの趣旨は、作者が国境横断派ということもあって、琵琶湖で外来種として駆除されるブルーギルの命に託して、現在問題になっている外国人労働者をはじめとする開放化に対する日本の無意味で不思議な閉鎖性への多角的な批判、ということだろうが、作者の意図に反して、そのような内容より、舞台の仕組みが面白い。
舞台は三場に分かれていてそれぞれ約30分。一場(夜更け)は、竹生島に夜釣に出かける湖岸の過疎の村の老人と娘が島で神に会う話、二場(夜明け)。は、外来魚として排除されるブルーギルの訴え。三場(曇り空)は鎮魂の神の舞.で、一場と二場の間に10分の休憩がある。ここで、横浜ということもあって、観客にシュウマイ弁当やスナック、お茶を売る。もぐもぐしながら気軽に見てくださいという趣旨と説明されるが舞台の方が広いスペースで壁際に押しつけられて見ている観客はとてもそんな気分になれない。が、「バルパライソ」でも大きな船のデッキの客席を組んで、観客を取り込もうとした作者の意図はよくわかる。観客は、読むかどうかっ分からないアンケートを書かされたり、次回公演の広告をもらったり、突然舞台から賛否の声を上げるのを強制される観客参加には心底うんざりしているのだ。
俳優は三人。柄が役にあっているうえに、ダンスもやっているらしく、動きがきれいで無駄がない。巫女の役を演じる浦田すみれはまだあまり経験はないようだが、こういう役を演じられる貴重な年齢にも恵まれた。受けの諸役を演じる男優の嶋田好孝も、相手をよく見て演じている。舞台が狭いという条件もあるが、動きと衣装がち密に計算されている。能のワキだ。
平らなギターのような木切れにモニターを張り付けたような持道具が登場して、モニターの部分にはその楽器を弾く手元が鮮明に映し出される。音は、琵琶で、この楽器の伝来と三線としてのこの国での普及が語られる。また、終盤では「琵琶湖周遊の歌」が聞こえるともなく聞こえてくる。論理的な起承転結でなく、埋め込まれた民族の記憶の断片が立ち上がってくる。こういうところがうまい。
最期に内容になるのは本末転倒だが、この舞台や、松原俊太郎、岡田利規などの新しい演劇を作ろうとしている人たちには、既成のリアリズムに対する根強い不信がある。セリフによる戯曲、現実べったりの俳優演技のリアリズム、劇場の仕掛け、そこをウザイ、似非だと、否定するところから彼らの演劇は始まっている。岡崎芸術座の舞台は、地点よりも、木下歌舞伎よりも、前衛的だが、スッと観客の心に入ってくるところがある。これからの演劇を純粋な形で見せているのかな、とも思う。



この劇場は関係者でなければたどり着けまい。せめて、ビル一階の入り口には人を配すべきだろう。

赤鬼

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赤鬼

東京芸術劇場

いま公演される演劇として、誠に時宜を得た舞台である。
NODAMAPの赤鬼の再演.1996年の初演は今はなきパルコパート3で、段田と富田靖子で見た。海外公演を最初から予定していたと覚えているが、野田にしては寓話性がはっきりしていて、90分の小品ながら、気持ちのいい公演だった。今回は、後半、かなり変わっていると感じたが、大枠の話の筋は踏襲している。25年もたっているから、時代に合わせ、複雑になっていて、ミズカネの役は単純なずるい奴から、現代的な融通のいい悪い奴になっている。これを河内大和が好演。知恵遅れの行き届かない弟の木山雅彬も塩梅がいい。前川知大の舞台で見た記憶のある森田真和の赤鬼も純なところがわざとらしくなくてよかった。初演はイギリス人がやったからそれだけで説得力があったが、今回のテーマである「異人」という役どころをよく演じている。問題はきっと評判がいいとは思う夏子の主人公のあの女で、真正面から乙女の武器全開で場をさらっていくが、本はもう少し複雑な設定になっている。村人の反発もそれなりの位置がとられているし本人の出自も単純ではない設定なので、この単純に押しまくる演技では、底が浅くなる。
周りを囲む円形舞台は初演を踏襲しているが衣装などはタイ版(だったか?)の白衣装を引き継いでいる。15人の登場人物が円形舞台で、動きもテンポよく「ここから向こうへ」のテーマを演じていく。コロナ騒ぎの中で未知のものへの対処を考えざるを得ない時期には適した公演だ。しかも、単純な解を求めていないところがいい。
見ていて、何か連想する舞台があったなと気になっていたが、帰りの電車で気が付いた。これは木下順二の「夕鶴」ではないか。戦後の混乱の中で上演された寓話劇と、コロナ騒ぎの中で上演された「赤鬼」。村社会の中で、別世界に生きるものに出会う、というテーマは同じである。そういえば野田は「夕鶴」の映画版にも主役の相手役で出ていたなぁ
劇場は席を半分にして、中央舞台をビニールで遮断しての公演。最初は嫌だなと思ったが意外に透明度もよく邪魔にはならないが、役者がやたら声を張るのはこのスクリーンがあるからかも。早く自粛劇場警察みたいな雰囲気のなかでなく芝居を観たいものだ。自粛で、この非常にうまく言った舞台でも4割引きくらいにはなる。やっている人たちはもちろんわかっていると思うが、舞台と客の間に大きな溝ができているのは事実だ。
、初演とほとんど同じ93分。

往転

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往転

KAKUTA

初演からほぼ十年がかりで、面白い芝居ができた。三演目という。
東京から仙台へ向かう深夜バスが、たまたま荒天で横転事故を起こしたために乗り合わせた人々の人生を狂わせていく。乗り合わせ、というのは一つのパターンではあるが、そこに、現代社会の風俗、風景が面白く織り込まれていて、優れた現代劇になった。
技術的にも工夫が凝らされていて、見ていて、おや?とひかかったところは、後に見事に回収されていき、そこに、現代社会の断面が顔を出す。
長い間KAKUTAで芝居をやってきた桑原裕子らしい地道な努力が実を結んでいる。それを見て、俳優たちも集まってくる。今回は、なんといっても、峯村リエと小島聖。どちらも、小劇場でも、大劇場でもこなせる力のある女優だが、戯曲にこたえて現代を生きる女性を見事に演じている。いまの社会に確かにいる切なく生きる女性像だ。(忘れずに小島聖には今年の女優賞を上げてください!!)入江雅人もうまい。こういう中途半端な人間は演じにくいのだが、中年は寄る辺ない寂しい存在なのだ。俳優はそれぞれしどころで力を発揮して、本多の舞台が狭く見える。
思わぬウイルス騒動で客足にぶったか、八割の入りは残念だ。今年は「ひとよ」も再演するという。こちらは映画版で田中裕子の快演を見たばかりだ。楽しみだ。

天神さまのほそみち

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天神さまのほそみち

燐光群

こわごわ劇場へ行ったというのが本音である。コロナ感染を恐れてではない。劇場の過度の規制でしらじらしい空気の中で、規制した上演側だけがやってます、みたいな空気になったらいやだな、と思っていた。入場前の諸手続きで、やはりそうなるのか、とかなりがっかりしていたが、劇場に入ると、そこはやはりスズナリで別役実の世界である。
例によっての、別役劇で、市民生活の中で、てきやの広場の場所取りの不条理劇が面白おかしく展開する。文学座や新劇系を見慣れていると、燐光群はやはり言葉の訓練が足りず、最初は意識的にやっているいわゆる現代語セリフ調が浮いていたが、次第に動きとセリフが同調してきて舞台の上の人数が多くなると演出のさばきもよく楽しめてくる。経験豊富の男優陣の健闘に比べると女優陣はやや手薄な感じ。それにしても、どうしても社会派的な正邪を求めやすい坂手演出が、不条理劇でまとめてしまったのは意外でもあった。
最初の「あなたの家の前を通ったトラを見ましたか?」という問いかけを結局解決していないのもよく辛抱したと思う。それで面白いのだから成熟と言っていいだろう。席を間引いて70席ほど。これくらいだとほとんどスカスカの感じはしなかったが劇団としては赤字だろう。劇場の客席で同一方向を向いている客席でクラスターなど起きるはずはないのだから、間抜けな官僚のいう事なんか馬耳東風で、どの小屋もフルシートで客を迎えればいいのに。この頃の演劇人はおとなしいなぁ。

総評

劇場閉鎖という戦時中以来初めての経験のあった不運な年だった。しかし、劇場再開後はこの大きなダメージの中で、「フリムンシスターズ」や「ミセスクレイン」のような充実した力作が生まれ、た組の加藤拓也が新しい才能の出現を見せてくれた。正直に言えば加藤拓也の作品では「MISHIMA]で上演した「真昼の死」の方がよかった。しかしこれはもう一つの組み合わせが功を奏しておらず評価できなかった。再演作品が多くなってしまったが、この機会に振り返ってみることも大事だろう。ブルカレーテの演出の「夏の夜の夢」が野田とはまた違った舞台で面白かった。再演は、配信で映像に逃げて、勘定を合わせるより演劇としてはいい取り組みだと思う。

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