旗森が投票した舞台芸術アワード!

2019年度 1-10位と総評
あつい胸さわぎ

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あつい胸さわぎ

iaku

初日前に11日間の前売り完売で、iakuの東京公演の期待の大きさがうかがわれる。行ってみると、狭いアゴラで客席パンパンに詰め込んで、百五十近くは入っている。その期待に応えた公演だった。
いつものように、行き届いた本で、構成も前半と後半はがらりとタッチが変わるが、それがテーマを立体的に浮かび上がらせる。
母子家庭の母親(枝元萌)は、中小企業の繊維工場に働き、一人娘を(辻凪子)育て上げ、今年芸術系大学に入学させた。同じ集合住宅の住まいに幼稚園の頃から同い年の青年(田中亨)がいて、同じ大学の演劇科にいる。高校ではすれ違っていた男女はまた出会うことになる。幼い頃から娘の意識の中には青年があったが、中学時代の青年の心ない一言が娘の気持ちを複雑にしている。それは中学生時代にふくらみはじめた胸に対するひとことである。母の勤める工場に千葉で採用された中年の独身の係長(瓜生和成)がいる。思わぬ痴漢疑惑でいずらくなって転職してきたのだ。娘が柄にもなく芸術系大学の小説家に進もうとしたのには十歳ほど年上の女友だち(橋爪未萌里)の影響がある。文義に詳しい彼女から娘は本を借りたり助言を得たりしている。だが、男を次々と変えていると豪語する彼女になかなか本音の女の悩みは聞けない。それは、そういうことには無頓着な母も同じである・・・・・と言う設定で、ひと夏の母子家庭の「あつい胸さわぎ」が展開する。
設定の中に埋め込まれたキーワード、母子家庭や若年乳がんと言う大ネタだけでなく、夏になるとやってくる巡演サーカス、娘が課題で書くわにに託した自伝童話、青年から持ち込まれるシェイクスピアのフォルスタッフ、パン食好きの若い世代、などの小ネタがうまくハマっていて、物語は快調に進む。並のエンタテイメント作品は到底及ばない抜群の面白さだ。客席は笑いが絶えず、ラストの母と娘が抱擁し娘の胸を探るシーンでは涙、涙、である。昔なら、演舞場で新派がやっても受けそうなうまさなのである。
Iakuは関西の小劇場だが、これは東京制作で、よく見る俳優たちが、目を見張る演技を見せる。幾段かの構成舞台をうまく使って、話は進行するが、まったく隙がない。五人の登場人物を巧みに書き分けているが、核になるキャラが大阪風にはっきりしていて、それを細かく演出で肉付けしている、もちろん、それぞれ俳優のガラも生きている。枝元の大雑把な性格や、瓜生の世間に遅れていくキャラを笑い声で表現するあたり、稽古を重ねていくうちに発見した役のキモの表現が素晴らしい。辻、田中の青春コンビも、実年齢からすると、ちょっと気恥ずかしいところだろうが、今まさに開こうとする青春の夏休みの気分が満ち溢れている。ひとり、橋爪は芝居を支える損な役回りだが、うまくそれぞれの役の鏡の役をになっている。
ノーセットの舞台に何本か建てられた柱には上部に赤い糸が張り巡らせてある。赤い糸で人間は運命的に結ばれているという寓意だろうが、それが生きている。
いまの日本の現代劇に欠けている深いテーマと広い娯楽性を併せ持つ優れた舞台だ。熱い胸さわぎこそ、人が生きる原動力なのだ。そうだ、こうして、人は生き、時は流れていく・・・と、劇場で共感できる人間の運命に出会う演劇ならではの喜びがある。




乳がんの後処理として乳房話残すかどうかを、決めていないのは、問題点ではあるが、ここはひと夏の時間のなかに置いておくだけでドラマとしてはいいのではないかと思った。つまり、人間には突如思いもかけないことが起きる、それに立ち向かう姿勢については作者は充分に答えを出しているのだから。

ドクター・ホフマンのサナトリウム 〜カフカ第4の長編〜

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ドクター・ホフマンのサナトリウム 〜カフカ第4の長編〜

KAAT神奈川芸術劇場

好きが嵩じてここまでやってくれれば、見物は恐れ入って拝見するしかない。
不条理劇大好きのケラが、散文不条理の本山カフカを素材にした集大成版。3時間35分の大作である。大劇場で、ナイロン以外のスター俳優も多く配した公演だ。
現代、カフカの第四の長編原稿が発見された、という発想だけで面白そうだと気をひかれるが、その原稿の行方をめぐる現代の追跡劇、書かれた時のカフカの周辺とその最後,さらに書かれた作品の中身と、およそ三つの物語が錯綜する。舞台では、五人編成のバンドが様々な形で現れ演奏し、ケラの舞台としては珍しい20人の出演者が、小野寺修二の振り付けでモブシーンを展開する。幕開きのシーンなど手が込んでいるが一糸乱れなく息をのむ美しさだ。マッピングを多用した舞台美術もいいセンスだ。
カフカというと、抽象性に頼って、簡素な取り組みでも舞台にしてきたが、これは官能性にあふれたケラならではのカフカである。
ケラとしては、あまり慣れていない大劇場の広さを意識した振り付けやマッピングのスタッフの起用が成功して、ナイロンとは一味違う舞台になった。
異論を上げれば、やはり、カフカの世界に若い女性の主人公というのはなじみにくい。
多部未華子は熱演だが、カフカの人物としては、いい悪いは別として浮いてしまう。相手役の瀬戸康史も同じような感じだ。そこへ行くと大倉孝二と渡辺いっけいはうまいものだ。ここでずいぶん全体が見やすくなった。麻美れいの贅沢な使い方。本人は役不足と思ったかもしれないが、ちゃんと締めの役を果たしている。ナイロン公演でもまた別の味のある面白い芝居になったであろうが(ほとんどすべての役でナイロンの配役が浮かぶ)、ここは観客お得の料金で横浜の大劇場の一夜を楽しませてもらった。だが、東京の客はつらいよ。これなら夜は6時開演でもいいのじゃないか。

いつも、パンフレットに凝るケラだが、今回は普通のブック・スタイル。おやと思って思わず買ってしまったが、これが日本の出版界では珍しいアンカット装本。紙にも活字にも例の通り凝りまくっている。読みでも十分。

KUNIO15「グリークス」

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KUNIO15「グリークス」

KUNIO

一日中芝居を見ていれば、どこかで躓くものだが、さらさらと見られる。場面場面がいろいろ趣向を凝らして面白くできていて楽しめるのだ。若く、馬力のある杉原邦生の「グリークス」である。
昔、コクーンで蜷川演出を一日かけてみた記憶があるが、それに比べるとずいぶん砕けた印象である。あれは90年、もう三十年も前のことだから、記憶も薄れている。ギリシャ悲劇の超人型造形が強い舞台で配役もまた、それに倣っていた。今回は翻訳も小沢英実による新訳でずいぶん下世話になった。テキスト論は本一冊やっても尽きないであろうから、とっつきやすいギリシャ劇だったというのにとどめて、観客の感想を。
まず、百五十の観客席なのに、大劇場の空気があり、しかもやたらに細かい。ここが世界古典のギリシャ劇にふさわしい。どこを見ていても楽しめる。どうしてもやってみたかったという演出家・杉原邦生の気迫が空転していない。幕開きから、林檎におさまるまで、一気呵成の出来である。今まで、音楽やダンスの挟み方で、疑問があるところがあったが、今回はうまくおさまっている。たとえば、トロイ戦争の始末を一曲にしてしまったあたり見事である。
主要な俳優たちが大健闘である。アガムメノンの天宮良、クリュタイムネストラの安藤玉惠、へカベの松永玲子、アンドロマケの石村みか、脇になるが、武田暁、小田豊、森田真和、普段もさまざまな劇場で舞台をしっかり固める俳優たちが実力を発揮している。気持ちがいい。松永玲子はやりすぎかとも思うが、ちゃんと舞台を締めていて、観客は大いに楽しめるのだ。その点、コロスの若い俳優との落差も目立った。若い俳優にとっても生涯一度の経験であろうが、まずは、セリフを割れないように言う、ということを訓練してほしい。それほど大きくない劇場なのだから、ここで声が割れるようでは、実は俳優として通用していないのである。
美術と衣装がいい。幕開き、松羽目が舞台いっぱいに立ち上がってくるだけで、芝居好きは捕まってしまう。あまりうまく使っているとも言えないが能舞台の躙り口など、小憎い。そこに国籍不明の衣装がまたよく合うのである。西洋甲冑から日本の神社の巫女まで、多彩な色とファッションで舞台を彩っている。
異論を言えば、第一部はトロイ戦争、と第二部は肉親間の殺人と、中心のテーマがはっきりしているのに比べて、第三部のエジプトの親子再会は、演出の調子も変わり絞りが甘かったように感じた。
しかし、これは、やはり今年、屈指の舞台といっていいだろう、。朝の11時半から夜の9時半まで、飽きずに楽しんだのだから。

『スーパープレミアムソフト W バニラリッチソリッド』

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『スーパープレミアムソフト W バニラリッチソリッド』

チェルフィッチュ

舞台の奥、八分あたりにコンビニの店の陳列棚を描いた紗幕が下がっている。コンビニのアルバイトらしき店員が二人出てきて、個人が孤立している現代社会でのコンビニの仕組みや店長や経営への不満、索漠たる仕事の話を、チェルフィッチュ独特の動きと共に語り出す。これはコンビニを巡る現代劇なのだ。国際共同制作が出来たのだから、こういう状況は世界(今回はヨーロッパだが)に通じる現代の風景と言う事だろう。
「三月の五日間」で鮮烈な衝撃を受けてからもう十五年近い。この作品をきっかけに、岡田は国内よりも海外に仕事の場を求めてきた。国内での消耗を避けるというのは賢明な判断だったのかもしれない。今回の舞台も再演と言う事だ。(初演は見ていない)。
ストーリーは、コンビニの二人の従業員と店長、それに本店の地区責任者と、後半新しく来たアルバイト店員が加わる。客は、深夜になるとアイスを食べずにいられなくなる女(彼女がこのコンビニで買う愛好物が長たらしい名前のスパープレミアムソフトWバニラリッチだ)と、見るだけで買わない客が、二人。慎重に雑狭物は取り除かれているが、「三月」と同じように、ここでは特に変わった事件が起きるでもなく、彼らの生活は続いていく。しかし、すべての登場人物に共通する現代人の「やってられないよ」という根こぎされた生活と心情がユニークな振り付けで演じられる。
丁寧に作り込まれていて、チェルフィッチュの世界に引き込まれた。エピソードごとに休止符を打つスタイルは洗練され、無駄がなく、何より見ていて面白いし楽しめる。背景音楽のバッハも巧みな選曲だ。1時間50分。あまり宣伝もしていなかったのに、見た回は掛け値なしの満席であった。
見た回は英語のスーパー付きの回だった。世界各地で上演するときはこういう形でやるのだろう。よくはわからないが、日本的な現代語台詞を無理にそれらしく英訳しているのではなく、内容を伝える翻訳で、言葉(オトで聞こえる台詞)よりも身体の動きで世界に共通する現代人の状況を伝えようとしていると感じた。国際的な演劇の場も変わっていく。

『Q:A Night At The Kabuki』inspired by A Night At The Opera

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『Q:A Night At The Kabuki』inspired by A Night At The Opera

NODA・MAP

日本の新劇創作劇の大劇場初演で三か月の公演を組むのは、戦後初めてのことではないだろうか? 確か、昭和二十年代に民藝の「炎の人」が新橋演舞場を中心に2か月を超えたと記憶している。それ以来ほぼ70年ぶりの期待の野田秀樹、秋から冬へ、三年ぶりの新作公演は、チケットも発売同時に前売り分は完売という盛況である。
一代記が映画になってヒットしているアメリカのバンド、クイーンが、楽曲の全面使用を許可したという話題もあって、タイトルは「Q」。キャストもおなじみの松たか子を軸にテレビ人気の広瀬すず、ベテランの竹中直人、上川隆也。橋本さとし、注目上がり目の新人で伊勢佳世、新人の志尊淳、もちろん野田秀樹も加わって、絶頂期だなぁ、と思わせる大興業である。チケットなかなか手にはいらず、台風で飛んだ穴埋め公演をようやく手に入れた。行ってみれば、当然ながら満席である。休憩15分でほぼ3時間。、
中身は、クイーンが喧伝されているが、長く使っているのは、前半、後半、それぞれ一か所で、あとは劇伴風に抑えている。サブタイトルにA Night at the Kabukiと打っていて、それはクイーンの意欲的なアルバム・A night of the opera の形式・つまり収録曲をアルバムとして構成することからインスパイアされたという。つまり歌舞伎座で歌舞伎にインスパイアされて歌舞伎風にまとめたということらしい。大筋は、シェイクスピアのロミオとジュリエットと、その対立を源平に移した並行的な物語を親子二代の世代で語り、入り口と最後に「俊寛」が使ってあり、ラストは俊寛を現代に並行させた満州の引揚者の帰国譚である。
野田作品の例にもれず、ストーリー展開は天衣無縫。東西、世代の行きつ戻りつもにぎやかで、ギャグにつられて笑っていると置いて行かれそうになる。しかし、全編3時間の中で、さすが!!と感じさせたのは最後の20分。そこへ行くまでは、趣向の行方がつかめず、いつもより端折り方もくどい感じで、周囲の中年の観客は舟をこぐ人も少なくなかった。ところが、幕切れがうまい野田秀樹。最後に大技を持ってきた。
幕切れに長いセリフがあって、そこで観客が納得してしまうのはいつもの野田節なのだが、今回は異郷からの手紙。この手紙が30年前に書かれていて、その伝達を伝達者が遊び惚けて忘れていた、というのが絶妙である。大方の見物も目を覚まし、今度は、なんだかよくわからないけど涙、涙になって、立ち上がり拍手してしまう。
この手紙の内容がいい。予想できない内容なのだが、ここで初めて、前半のロミオや源平の人間の争いが、歴史的にも、地域的にも普遍的な現代的なテーマに、爆発的に広がっていく。人間の中に埋め込まれた争いのDNAが呼び覚まされ、個人の生死も、社会の栄衰も、今を生きざるを得ない人間の哀歓としてほとばしり出る。遊眠社以来の野田マジックだ。
昨晩はケラ、今日は野田と、連続して時代を代表するいい舞台を見た。芝居好きとしては至福の二日間だった。井上、蜷川の時代は去り、今はこの二人だろう。さてそのあとは、誰だろう。そこを同時代としては見ることはできないだろうけど、それが芝居というものの運命だ、と野田に倣って呟いてみる。

芝居としての完成度から言えば、もっといい舞台が、ケラにも野田にもある。しかし、これは彼らが絶頂期に最大多数の観客とともにあった舞台だということも重要なことだろう。今、誰も「ムサシ」が井上、蜷川の最大傑作とは思わないだろう。しかし、それを最大傑作として見た観客がいたことも演劇の時代性を考える上では忘れてはいけないと思う。「炎の人」以外の三好十郎作品は今もしばしば上演されている。

改訂版「埒もなく汚れなく」

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改訂版「埒もなく汚れなく」

オフィスコットーネ

先年、小劇場からは珍しく大竹野正典作品が読売演劇大賞を受賞した。これはその舞台を制作したカンパニーが作者をモデルにした創作劇のの再演。
再演と言うと、初演をなぞったお披露目だったり、役者を派手に入れ替えたり、小屋を大きくしたりするのだが、この再演は主役の二人を初演のママに置きながら、新しい舞台を目指して思い切って整理している。話が昭和期の売れない劇作家の話だから、関西風を生かすと、夫婦善哉のようになってしまいがちで、初演はかなりその味が残っていた。しかし、この再演は作家の水難の事件ドラマや、家庭ドラマの世話物的なところは整理して、夫婦のあり方と、作家の宿命を、最後は山に登ることに託してまとめている。つまりは、物を作る芸術家と、男女、家庭、日々の生活の葛藤に絞ったわけで、よく出来ている.古い話なのに全く新しい。令和の新しい舞台の誕生の第一弾と言っていいだろう。
作・演出は瀬戸山美咲。初演は大竹野一代記のような世話物的な作りであったが、そこを作家の現場として作り直して成功している。しかし、作中人物では東京の制作者は、余分だったと思う。こういう第三者は、セメント会社の社長がうまくかけているからそれで充分コメディリリーフの役割も出来ている。演劇製作者の役割としても、いささか以上に皮相過ぎて笑えない。ここを切ると2時間以内でまとまてよかったと思う。
出演者では、なんといっても西尾友樹、占部房子の小劇場のキングとクイーンが揃って目いっぱい技術の限りを尽くして演じてくれたのが大きい。西尾は受けに回って目立たないが、出処進退見事なものだ。占部は今回の方がむしろガラがあっている。抽象的な役柄をいろいろ工夫して形でも見せようとしている。ほとんど日常性を捨象して、演技と台詞で見せる。それでいて、様式性の欺瞞を毫も感じさせない。俳優にも劇場との相性があって、この二人、二百人くらいまでの劇場だと圧倒的な力を発揮する。読売演劇賞も商業演劇の大劇場の役者だけでなく、小劇場で演劇の魅力を素で伝えるこういう人々に光を当ててほしいものだ。脇ではラッパ屋の福本伸一がさりげなくていい。

終夜

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終夜

風姿花伝プロデュース

本年白眉の舞台であることは間違いないだろう。
感想を二つ。まず第一。
テキストは7時間に及ぶスエーデンの戯曲の由。83年の作品という。北欧は第二次大戦後、大きな戦火から逃れたこともあって、一時期、時代を先取りするところもあった。フリーセックス、家族の崩壊、社会の空洞化、など、いまは一言で語りがちな社会変化の先駆けとして(都市の団地の普及が象徴するように)ようやく家族制度から脱却しつつあったわが国でも注目されていた。それから50年近く。
今、この延々と続く兄弟夫婦二組の痴話げんかを見ていると、人間は急には変わらないものだなぁと感じる。この芝居の「人間はどのように他者とつながるものか?」という80年代の問題意識は、中吊りになっているようにも見えるが、たぶん、大戦後(あるいは20世紀に入ってから)ずっと男女、家庭、という社会の基礎集団のモラルは中吊りになって行きつ戻りつしてきたのだ。80年代に北欧へ実際に行ってみて、日本の北欧理解は表層的なもので、北欧も、新教基盤の保守的なモラルが強いと感じた。それは日本も含めて世界的に底流でつながっている。
この種の翻訳劇は、国境を超えると本質が失われたり、時には別種のものになったり(近い例では埼玉の「朝のライラック」)するものだが、この上演は巧妙な編集でこの芝居の本質を伝えてくれた。今春上演された「まさに世界の終わり」もこのカンパニーで見たいと思った。現代のモラルがよく描き切れている「現代劇」だ。
第二。俳優と演出。舞台は4時間近く、速いテンポのセリフが切れることはない。俳優の動きも、セリフの受け渡しも多い。登場人物は4人だけだが、終始その舞台がアンサンブルとしてサマになっていて、ダレることがない。
それぞれの人物を舞台の上でひと時だけ今生きている人間として表現した。彼らをほかのメディアでは見たり、説明したりすることはできない。時間をおいてみることもできない。彼らを見る事で、観客はひと時だけ、現代の本質に触れたのである。
昨晩は台風前夜の雨もよい。終バスを逃したくない観客も多かっただろう。俳優もテンポを上げて、4時間近いタイムテーブルを20分近く巻いた。それでも全く乱れなく幕を下ろしたのはお見事だった。岡本健一や那須佐代子ができるのは知っている。今回は栗田桃子。こんなにうまい人とは知らなかった。斎藤直樹の手堅さも光った。

バルパライソの長い坂をくだる話

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バルパライソの長い坂をくだる話

岡崎藝術座

シアターガイドなき今、こんな馴染みのない小屋で上演されたのでは見逃してしまうではないか。流石、岸田戯曲賞受賞作品。どこでも見ることのできない見事な寓話劇である。
劇場へ入ると、そこは船の甲板を模した客席。バラバラに置かれた約百席の椅子。選曲の良いラテンリズムの入れ込みの音楽で、観客は世界を飛ぶ。
幕が開くと、客席から登場した三人の南米の男優がスペイン語(ポルトガル語?)で語り続け、ひとりの女優がそれを見まもるという舞台。舞台には切り出しの小型自動車と、ブルーシートを海に見立てた遠見。その前で主に父の遺骨の箱を持つ男が語るのは、ヨーロッパから南米へ、さらに沖縄から小笠原列島へと連綿と移っていく悠久の人類の寓話である。人類はどこからきて、どこは行くのか? そのテーマが父の遺骨の行方と重なり合う。
簡素なセットも効果を上げる。歌舞伎ではないが、幕を落とすと砂漠が現れるシーンなど、観客の心をつかむ。終始無言の女優も素晴らしい。
寓話の中にリアリティを忍ばせて90分。まったく飽きることはない。台詞が続き、字幕を読むのに疲れるが、ここは、日本の俳優で、日本語では成立しないだろう。そこが難しいところではあるが、ここには原酒の生一本の酒をたしなむような快感がある。
満席。いつもの小劇場では見かけない静かな若い客が多かったのも新鮮だった。

男たちの中で

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男たちの中で

座・高円寺

10月は一月に、二度、本年屈指の舞台に出会うことになった。それも合わせ鏡のように、一つは個人、今一つは社会から現代を見据えた翻訳劇、老若の優れた演劇人の仕事である。ともに、長時間が納得の舞台だ。
「終夜」が、個人や家庭、夫婦(基礎集団)から世界を描いているのに比べ、「男たちの中で」は社会で生きる人間関係(機能集団)から現代を描いている。印象を三つ。

テキストが強靭である。このテキストも八〇年代に書かれ、ウイキペディアによるとイギリスではなくパリで初演した作品のようだ。
登場人物は六人、それぞれの役割が、シェイクスピアを下敷きにしたというが、非常にうまく書かれている。大企業が世代交代の時期を迎えている。創業の当主(龍昇)はなかなか席を明け渡そうとしない。主人公は養子のレナード(松田慎也)、つまりは現代のハムレットである。取締役会への参加を強く義父に求めるが拒否されると、義父の殺人を思いつき、それに失敗すると、乗っ取り相手のハロルド(植本純米)と手を組もうとする。こちらにも資金繰りに困っているという弱みがある。そういう状況を冷静に見ているライバル社(千葉哲也)もいるし、当主の身近で手ぐすね引いている秘書(真那子敬二)や脛に傷を持つ下僕(下総源太郎)もいる。
登場人物たちは、いずれも個性的で人間味にもあふれているが、現代社会の走狗でもある。その中で、親子や主従をめぐる人間模様は下世話で面白い。この作品が書かれたのは、世間で「金融工学」というコンピュータ頼みの新しい金儲け戦略が表面化し始めて時期だ。手も早いし、よくポイントを掴んでいる。書かれてから四十年もたっているのに(テキストレジしてはいるだろうが)古びていない。
日本でも社会構造の中の人間を描く若い作家が増えてはいるが、この作品のパワーには及ばない。世界にはすごい作家がいるものだ。
第二は、演出の佐藤信。六十年代末から現代劇のリーダーの一人であった。作者のボンドは、演劇の検閲をめぐって官憲と対立した過去がある由だが、六十年代演劇は唐も、寺山も、佐藤信の黒テントも既成の権威(官憲)と対立した。その後、佐藤信は公共劇場の芸術監督を務めたり、小さな神楽坂の小屋にこもったり、演劇活動の場を広げた。いまは座高円寺。ここのところ新作がなく、焦点を見失ったかと恐れていたが、それは客の杞憂だったのだ。
もともと芝居作りに凝る人で、黒テントでも三軒茶屋でも神楽坂でも、いいなぁと見た芝居はある(一方で大外れもあった)のだが、今回は直球一本、見事なテキストレジ、巧みなステージングで休憩10分を挟んで3時間20分を押しまくる。佐藤信、若い上村聡史に負けていない。ボンドのこの戯曲の発掘と合わせて、中年に及んで自信もついてきた小劇場の癖玉を使いこなして、老いを感じさせない仕事だった。
第三は役者。これだけ癖玉がそろった舞台も珍しい。登場人物が全員男性だからメールキャストは当然でもあるが、それぞれ柄が立つ上に芝居もうまい。彼らが役者の個性をむき出しにして激突する。ごちゃごちゃした経済の話なのに格闘技のような一種の爽快感がある。全員男だから容赦なく面白い。特筆は植本純米だろう。花組芝居の次の立女形と期待されていた役者だが、そんな柄を吹き飛ばす快演である。
芝居の筋は大会社の経営者交代だが、そこへ。現代社会の人間の赤裸々な姿を陰陽取り混ぜ織り込んで見事なドラマであった。ちょっと・・と思える点は本の展開では大詰めのドタバタ殺人事件、癖玉の中では龍昇にセリフの幅のなさ、松田慎也に若々しい大胆さが欲しかった。

殺し屋ジョー

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殺し屋ジョー

劇団俳小

うっかりしていたら見逃すところだった。
行き届いた戯曲を手堅く纏めている、という印象であった「俳小」が大変貌である。
入口はやはり戯曲だったのだろう。アメリカではすでに人気作家というトレーシー・レッツの戯曲は、現代アメリカ戯曲の一面として強く持っている反社会性、暴力性、孤立性、家族への深い憧れと懐疑などを、お家芸のハードボイルド・ミステリ調に詰め込んだ二十数年前の若書きである。(日本初演)薬物販売の下っ端の若者22歳とその妹20歳の切ない青春ものとも見える。警察官でありながらアルバイトに殺し屋もやるという悪徳警官ものでもある。
舞台の物語は二転三転、筋だけ書いても意味がなさそうなハチャメチャの展開ながら、さすがアメリカの本だけあって、よく出来ていて、見ている間は乗せられてしまう。演出がシライケイタ。劇団温泉ドラゴンの主宰者で、そこのいわいのふ健と、外部から山崎薫が客演、総員5名の俳優で、現代社会の普遍に迫る世界を作り上げた。小劇場だから、俳優の技量を越えたナマの迫力がある。失礼ながら、いわいのふ健以外の俳優はいままで記憶に残っていなかったが、これで忘れられない役者になった。
シライケイタに星五つ。完全に満席。いい芝居が入るのは素敵なことだ。二時間二十分。珍しく休憩があるが、これもよく考えられている。こういう身も蓋もないアメリカの現代劇は今までもやってこなかったわけではない(サムシェパードやマメットなど)が、今回は最も旨く行っていると思う。今回は上演回数が少なすぎた。少し長い再演を待っている。

総評

1二十年に一度くらい訪れる演劇の曲がり角に差し掛かっていい作品だたくさん出た。しばらくは、野田とケラの最後の光芒が楽しめそうだが。2劇場の芸術監督の役割が看板だけでなく、実際の芝居に反映されるようになった。来年はコクーンに注目。3小劇場の劇団性があまり意味を持たなくなった。しかし、戯曲と演技者は演劇の根本である。どうなるか、注意深く見ていきたい。4新しいリアリズムの作家たち(古川健、横山拓也)が柔軟で素晴らしい。同時に前衛も頑張った。京都組(木下歌舞伎、地点)は東京にも支持者がいることを忘れずにこれからも活躍を期待している。5商業演劇は十分成功しているのだから、今少し海外新作品の紹介に力を。国内演出家も育ってきているのだから安心して任せてみたい。

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