旗森が投票した舞台芸術アワード!

2022年度 1-10位と総評
笑顔の砦

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笑顔の砦

庭劇団ペニノ

実演鑑賞

独特の劇空間を見せてくれるぺニノの公演。期待を裏切らない本年屈指の舞台だった。
今回はリアルな僻地の漁村のアパートの二部屋が舞台で、その日暮らしの漁民たちと、認知症の親を抱えた父子家庭が登場する。幕開き、漁から上がってくる小さな漁船の、船長(緒方晋)と弟子二人(野村真人・井上和也)。漁師らしい大声の遠慮のないやり取りで、現代のその日暮らしのありようも見えてくる。しばらく見ない間にこういう現実的な生活描写、会話の台詞がすごくうまくなっている。以前アパートの一室でミニマリズムでやっていたころは頭で考えた世界だったが、ここではリアルに日本の肉体労働者の生活を掴んでいる。開幕の時は空室だった隣り部屋に認知症の老母(百元夏江。埼玉芸劇の老人劇団の俳優で、日本舞踊のお師匠さんだった由、よく見つけてきたものだ。これだけでもびっくり)を抱えた地方公務員の父子家庭が転居してくる(この設定もうまい)。この親子も典型的な設定なのだが、実直に見えて何もできない父親(たなべ勝也)や、世間をすでに投げているような娘(坂井初音)が、それでも老親を中に家族からは逃げられないところなどうまいものだ。五年前に、岸田戯曲賞を受賞したのも肯ける。
漁師となる若者〈FOペレイラを宏一郎〉預かることになる、とか、接点のない二つのグループが初対面の挨拶で悩むとか、日常的な些細な事柄の中で、寒い冬の日々の三日ほどの時間が過ぎていくのだが、このどーしよーもない出口のない生活は確かにこの国のどこにでも形を変えて存在する。そこで生きて行くにははもう、テレビで見るマカロニウエスタンや文庫本の「老人と海」の助けなんかは役立たず、只、食って笑って生きていくしかない。「寂しい」と言う言葉の実感に老いの見え始めた船長が戸惑うところなど絶品。言葉では表現できないところが芝居になっている。キャストは関西の小劇場を中心に組まれているらしく、知っている俳優は一人もいなかったが、実にリアルである。とても地ではできない役ばかりだから、よほど稽古がうまくいったのだろう。あるいはキャスティングがうまいのか。これだけでも評価できる。
舞台は細かいアパートの飾りや、あまりなじみのない俳優たちの熱演でドラマチック空間になっている。この作者は宗教的な絶対的存在に関心があるらしいが、この貧しい部屋にこそ神宿る、と言う感じなのである。フランスでの公演を終えて、最終公演の由。若い観客も多く九分の入り。
蛇足だが、席ビラを作るなら、ぜひ配役表を配ってほしいものだ。折角俳優の名前をお馴染にしようとしても五十音順の俳優の一覧だけではとっかかりがない。配役を調べるだけでもずいぶん時間を要した。



建築家とアッシリア皇帝

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建築家とアッシリア皇帝

世田谷パブリックシアター

実演鑑賞

競馬予想みたいだが、この舞台、今年のベストワンの本命だろう。
アラバールは戦後の現代芸術の方向を示したトップランナーと評価され、寺山。唐の時代から、野田にも、ケラにも影響がみられるが、本人の作品を、このように明確に、面白く、言葉は悪いが、女子供にもキャッキャッと楽しめるように作った舞台はかつてなかった。薄暗い難しい暗喩ばかりの実験演劇から解放したこの公演は、俳優、演出、舞台装置、照明、舞台操作、全スタッフ・キャストが一団となって細かく設定された完成度の高い舞台を創り上げた。どこを取り上げても、今年の最高の演出、演技、美術、音楽・音響、照明、もっと言えば、舞台監督、道具方、の賞に値する。アラバールをこういうふうにマンガみたいにやっちゃおう、客は来るぞ、と言い出した人には企画賞。
物語の設定は単純で、孤島に流れ着いたアッシリアの王と大衆のひとりである建築家が、二時間半にわたって、現代を王と道化の役を演じながら笑いのめす、前半は、政治、後半は裁判が軸になっているが、筋はどうでもいいことで現代に生きている人間どもの、性や支配意欲や脱出願望をテンポのいいセンスが光る演出で演じていく。
きっと男優賞は外さないであろう岡本健一と成河(ことに成河は休憩時も舞台に出ずっぱりで三時間、舞台を楽しんでいるように見える。かつてない最高の出来で、役をよく把握していて、これは是非賞を上げてほしい。岡本は、まぁできるとは思っていたが、コンビが非常にうまくいっている。機関銃のようにある無数のきっかけを外さずにやり切った)、の快演で、立見席まで万遍なく埋めた各年齢の女性客は大満足の様子だったが、3時間の立ち見はしんどい。
昨日は開演直後に瞬間停電があって、そういうことがあると、仕込みの多い現在の舞台は、仕込みがどう暴走するか解らないので、もう一度、さらわなければならない。20分押しだったが、非常時の処理もうまくいっていた。

スカパン

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スカパン

まつもと市民芸術館

実演鑑賞

モリエールの古典戯曲の中身は、吝嗇な親を持った子の結婚をめぐる騒動で、その立て引きを支配するのが「悪だくみ」のスカパン、と言う単純な構図の笑劇で、どれだけ笑えるか、と言う芝居である。笑劇をしらけないで見せるのはかなり難しいもので、ばかばかしさを超えて人間的な共感が笑いとともになければ芝居にならない。この舞台はよく出来ている。小日向、大森は長年演じてきているから当然だが、串田が松本の劇場の芸術監督に就任してから育ててきた地域劇団の女優、湯川ひな(イアサント)、下地尚子(ネリーヌ)、男優の武居卓がベテランに引けを取らないだけでなく、客演の笹本真帆(ゼルビネット)がいい。息子たちを演じる串田、小日向の息子たちも、初々しさも残るがちゃんと芝居になっていて、身内贔屓の感じがない。串田和美がコクーンで初演したのは94年でその後7回もやっているし,海外の演劇際でも評価されているから、手の内だったろうが、この混成の俳優陣を自分も主演をつとめながらよくまとめている。そこにあまり演出者の強制を見せないところも串田らしい。
今まで見たさまざまな「スカパン」の中では最もよく出来ている。笑うだけでなく、どこかしあわせな気分で劇場を後にできた。その味わいは串田の芝居独特のものだ。
串田和美は60年代の俳優座養成所の最後の卒業生。上の世代の井上ひさし、蜷川幸雄、下の世代の野田秀樹、つかこうへい、ケラリーノサンドロヴィッチに挟まれた空白の激戦区の中で、演劇界の節目になる仕事を残してきた。
60年代に俳優座養成所のエリート卒業生を集めて、若者の小劇場、自由劇場を結成して当時の大劇団と違うレパートリーシステムを作ろうとしたこと。そのために自力で六本木に劇場を作ったこと。シアターコクーンの芸術監督として、小劇場作品と商業劇場の懸け橋となる独自のカラーの作品を創る一方、この新しい職責の重要さを示したこと。地方の公共劇場で、地方都市の演劇と市民の関係を築いたこと。そしてそういう演劇活動の中で、常に、独特の都会的な舞台作りで、串田和美作品らしさを失わなかったこと。
常に自分が信じられる人間像を舞台に乗せてきた80歳の演劇人がこの節目で「スカパン」を快演した。飄々とスカパンを演じている串田和美を見ていると、演劇に生きる、ということの感動がある。
初日のアンコール。串田もちょっとしんみりした表情だった。

ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

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ザ・ウェルキン【7月21日~24日公演中止】

シス・カンパニー

実演鑑賞

なかなか面白い現代劇である。
宣伝では「12人の怒れる男」のにならった推理劇と言っているが、それは看板にすぎない。
登場人物は確かに12名。対照的にここは女性のみ、しかも妊娠経験のある者ばかり。彼女たちが被疑者(大原櫻子・意外の大好演)が妊娠しているかどうかを審判する。その審判が行われるのは18世紀半ばのイングランド。当時最も合理的思考が支配的だった地域なのだろうが、彼女たちの審判の思考過程や生活環境は現代とはもちろんズレている。しかし、ここが非常に面白いのだが、その判断の中に、今も我々が生活規範として信奉していることも少なからずある。時代それぞれの論理と倫理の落差を感じながら、ドラマが進行するのが新鮮だ。テーマとしては直截に女性のジェンダー問題が取り上げられるが、その先には人間が子孫をつなぎ、文化をつなぐ営み(歴史)への視点がつながっている。
推理劇と言うが、被疑者がとらえられている罪は、今はもう存在せず、忘れられている罪状への決まり(法)だ。この辺の設定も非常にうまい。犯罪の方はどうでもいいのである。
罪を犯しても、妊娠している罪人は死刑だけは免れることができる、と言う法があった。被疑者は妊娠していると言って死刑を免れようとする。そこで、妊娠経験のある女性が集められて果たして彼女の主張が正しいかどうか判断するためこの審判が開かれることになったのだ。当時としては進歩的だった(実体験検証)である。
最近の裁判でもこんなこと、やってんじゃないの?と言う作者の冷めた目が次第に観客の客観的な視点にもなってくる。
舞台は二部構成で、短い世態スケッチのほかは、12名の審判する裁判所の白で統一された一室のみ。ここも「怒れる男」と同じだが、事の正邪ではなく、物事を判断する、のは時代を超えて何時もあったことだが、それは移ろう。しかも当事者は気づかない。ここは正邪も判断も安定している「怒れる男」とは大きく違う。被疑者をめぐる一つ一つの話題の選択が巧みで、現代の観客も引き込まれる。しかも、議論が、一方の主張に傾斜して感情的になることがない。劇としてはものすごくうまい。
ここは若い演出家・加藤拓也らしいところで、どこまでも冷静なのだ。現代の、時代が変われば、どうせ判断も変る、という判断中止の世情を映している。現代劇なのだ。
終幕の歌(富山えり子・歌も曲もいい)になって女性たちが唱和するシーンになっても、決して煽ることはない。「友達」でも見たが、舞台の上の集団をうまく動かして、普通ならそこで感情を盛り上げるところを時代の「風景」にしてしまう。新しいタッチが舞台の魅力になっている。舞台面のつくりもうまい、休憩に入る前、煙突にカラスが飛び込んで煤まみれになるところなども、戯曲指定かもしれないが、作りがよく出来ている。
女性を演じた12名の俳優にはそれぞれしどころがあって、みなその期待にこたえている。吉田羊は主演が務まる女優ということを実証した。久しぶりに見た長谷川稀世が無理なくカンパニーの中に溶け込んでいたのもさすが。この本を発掘してきたシスカンパニーもさすがである。タイトルの「ザ・ウエルキン」はイギリスの古語で天空・蒼穹の意味の由。変に甘い翻訳をしないで放りだしているところもいい。
見た回は九分の入り。







毛皮のヴィーナス

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毛皮のヴィーナス

世田谷パブリックシアター

実演鑑賞

マゾヒズムの語源にもなったマゾッホの「毛皮のヴィーナス」を今、脚色上演をしようと女優オーディションをしている劇作家・演出者(溝畑淳平)のアトリエに、時間に遅れて、行儀の悪い女優(高岡早紀)が飛び込んできて、オーディションを受けさせろ、と強要する。
ここから1時間45分、現代の女優と劇作家が、19世紀末のマゾッホの描いた男女関係をどう理解して実践していくか、と言う二人芝居がスリリングに展開する。
アメリカの劇作家・デヴィッド・アイヴスの戯曲で、ほぼ、そのままポランスキーが映画にして既に公開されている。この日本版は、戯曲や映画が持っていた原作(マゾッホ)へのヨーロッパ・コンプレックスから離れて、マゾッホの小説、アイヴスの戯曲、それを立ち上げようとする女優と演出者のナマの男女、という複雑な三重構造の中に現代に生きる人間を描き出そうとする。よく出来ている。
冒頭、雷雨のなか、ぬれねずみで下品さ丸出しでやってくる女優が、衣装を用意してきたと言って、脱ぐ。下着はまるでサドマゾバーのウエイトレスのような黒のタイツの衣装。その上に十九世紀のフリルのついて純白の衣装を着て見せる(衣装・西原理恵)。これで、演出家も一本取られるわけだが、このあたりで、観客も降参する。
二転三転する展開は次第に、いつ、女は男へ鞭を振るうのだろうというクライマックスへの期待へと変わっていくが、そこは見てのお楽しみだろう。
高岡早紀は今までの見た舞台ではあまり印象に残ったことがなかったが、これは熱演。相手役の溝畑淳平も、いったん出たら出ずっぱりの長丁場を見事にこなす。さらにこの舞台は二階を組んだ装置(長田佳代子)、劇伴奏でなく音楽として芝居に噛んでいく音楽の国広和樹、さりげない照明(佐藤慶)のフォローなど、この劇場(トラム)がそのまま、現代の「毛皮のヴィーナス」になっている。演出は文学座の新星・五戸真理恵。新人ではないが、ここまでキャスト・スタフを(多分)おだてまくって芝居をまとめきれるところなかなかのタマで観客は今後に大いに期待する。客席完売だが立見席がある。昨日はそこも満杯で壁際の本当の立ち見客もかなりいた。しかし立ち見で観てもご損はない(オトナに限る)と思う本年屈指の舞台だった。

天日坊【2月25日-26日公演中止】

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天日坊【2月25日-26日公演中止】

松竹/Bunkamura

実演鑑賞

改築になるコクーン最後のコクーン歌舞伎。掉尾を飾るすばらしい舞台だった。
数え上げればきりがないほどいい。初演は12年、再演らしく跳ねるところははね、抑えるところは抑えて緩急自在、現代歌舞伎の代表作になった。
まず宮藤官九郎の脚本。百五十年ぶりの黙阿弥再演と言うが、中身は黙阿弥歌舞伎によくある趣向盛り沢山の大歌舞伎でも時に見る御落胤悪党ものである。そこを宮藤官九郎が現代観客向きに、あれよあれよというテンポのいい道中物にアレンジしている。御簾内は上手下手に置いたそれぞれに金管二本(ほかに下手にリズム二名、上手はギター二名)入りのジャズ風バンド(音楽Dr,kyOn、平田直樹)これがよく似合う。二十分の休憩を入れて3時間10分、全く飽きない。
演出は串田和美。コクーン歌舞伎を先代勘三郎と組んで始めた功労者である。串田ももう八十歳、初期の青臭さはなくなって老練であるが古びていない。いつまでも気分は青春だ。ここの歌舞伎がよくやるように小屋掛け芝居の外枠を作っていて、それがこのチープな詐話にぴったりだ。
役者もいい。座頭の勘九郎はもとより(いやと言うほど先代に似てきたなぁ。歌舞伎と言うのは怖いものだ)お六の七之介ももはや見事な大看板ぶり、地雷太郎の獅童もニンにあっている。脇の鶴松の高窓大夫、萬次郎の猫間、など歌舞伎役者に交じった笹野高史のお三婆ア、初出演(でもないと思うが)の小松和重の現代劇俳優がいい色合いで入っている。抑えに扇雀。いう事のない座組である。皆精彩があって少しづつ全体を押し上げ、舞台が活気を帯びている。最後の長い殺陣。古典歌舞伎の殺陣の様式を踏まえていて、それがジャズ伴奏に嵌まる現代の殺陣で山場になっている。コロナ禍で掛け声がないのが歌舞伎公演としては唯一の失点か。ここは仕込んででも掛け声がないと緞帳が降りない。
コクーン歌舞伎全作に言えることだが、どの作品も古典を踏まえている。そこが赤坂歌舞伎、六本木歌舞伎や新感線とちがって、高く評価したいところだ。歌舞伎はファッションではない、単なる様式でもない。日本の文化の中で、数少ない世界のレベルで誇れる演劇文化なのだ。

ドードーが落下する

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ドードーが落下する

劇団た組

実演鑑賞

久しぶりに加藤拓也の創作劇、それも自分に身近な青春喪失劇である。
「無用の人」ドラマは、今までにもチェホフを発端に(もっと昔からあるだろうが)数々見てきたが,これはまがうことなき現代劇。相変わらず、うまい。
現代の無用の人は芸人社会からおちこぼれて30歳代になってしがない食堂のバイトなどをやっている夏目(平原テツ)と、それを取り巻く男女。信也(藤原季節)は友達として事ごとに夏目の面倒を見るが、歳を経て、その距離は次第に遠くなっていく。二人を中心になんとなく集まっている同世代の若者グループの、いかにも今風の3年間の物語を、現在、三年前、一年前、直前と時間設定して辿っていく。自殺するとか、警察に捕まるとか、深刻なものから、男女関係、親子実家問題、友人関係、日々の生活問題と、この世代にありがちなエピソードに加え、知的障碍者への性犯罪とかエグイ現代社会タネも交えて物語は進むが、それらを解りやすいテーマにしがたって並べてはいない。最後が、突然のように終わることも含め、作者が当日ビラで述べているように一つの時代の人間関係記として描いているだけで、評価もしていなければ、感情を伴走させてもいない。それでも面白く見てしまうのだから、この作者、やはり並大抵の才能ではないと思う。
現実の社会にはこの若者程度の総合失調症の人たちは普通に生活している。内心、自分たちは世間には見えない方がいいんじゃないか、と思いながら生きているし、周囲もそこは塩梅してきた。しかしその亀裂は時に露呈することもあるわけで、丁度安部国葬の日にこの芝居を観たのも奇縁であった。いや、そこは病を持つ人たちだけでなく現代のどこにも誰にも遍在することだろうと、観客は解らないでもない。少し引いてみれば、誰もが個人の壺に入ることを推奨しているような社会への批判劇にもなっている。
今回は、そういう無用の世界に生きる人たちをマダカスカルの絶滅した飛ばない鳥ドードーになぞらえているが、そこは作劇的には少し性急だったかと思わないでもない。
この作者の才能はよくわかっている。しかし、こういう生モノを扱っていると思わぬけがをしてあたら才能を潰すこともある。この作・演出者に「ザ・ウエルキン」を持って行ったのはさすが、シスカンパニーの見識であった。「ザ・ウエルキン」ジェンダーを問う難しい側面を持っていたが、ほとんど完璧と言っていい演出だった。それは翻訳台本だったからのびのびやれたからだろう。野田秀樹もこの年代には、よく古典や小説原作の作品に取り組んでいた。日本古典をベースに野田の桜の下のような新作を期待したい。

私の一ヶ月

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私の一ヶ月

新国立劇場

実演鑑賞

実に数年ぶり、新国立劇場の創作劇、久々のヒットである。
この作者は今春吉祥寺劇場でヴァンダインの本格ミステリの劇化を見ただけで、その時は、なんと大胆な!と思ったが、技術はしっかりしていたので期待して初日に行った。
地方のささやかな家族のほぼ二十年にわたる人生ドラマなのだが、現代の世相も、人間像も的確にとらえられている。脚本も演出も上滑りしていないところがいい。
演劇ならではの工夫がいろいろあって、それが膨らんで豊かな芝居になっている。
例えば、母が子に託す十数年前に一か月だけ書いてやめてしまった昔の日記。その日記をいま、娘が一か月書く。と言うのがタイトルの所以なのだが、そこに込められた人が生きていくことの喜怒哀楽の深さ!。日常表現からを重ねて、書き切っている。表紙の赤い小さな日記帳の小道具が心憎い。
夫が自死しているというのをさりげなくポッと出すタイミングの良さ。説明しないから生きている。その夫が残した最後の台詞もいい。なんだかよくわからなくなった、と言うような言葉だったと思うが、そういうさりげない言葉が人を動かす。ここでの母親の日常誰もがやる不愛想な対応も、実に!うまい。日々の生活の亀裂の深淵をさっと見せる。
本が最初平田オリザ風に始まるので、ヤダナと感じたが、その後は全くオリザとは似て非なる手法で、日本海側の地方の小さなコンビニを営む一家の話が、新幹線で、東京と簡単に往復できる今の時代を背景にじんわりと、時空も、異界の人も含めて広がっていくあたり、とても新人とは思えない出来である。
ドラマは、テーマとしては珍しくもない喪失の物語なのだが、現代の観客の心を打つように周到に出来て居る。母子を演じる村岡希美と、藤野涼子がいい。この親子とカップリングされるように置かれている中年を迎える男同士の友情の行方は、影が薄いが、物語にくっきりと陰影をつけているのは、この男たちの喪失の物語なのだ。ここは少しわかり良すぎるか、とも思うが、それはないものねだりで、次はもっといい芝居が見られそうで楽しみである。
入りは、いつもガラガラのこの劇場だが、意外にも8割ほど。客はよく知っているものだと感心。

花柄八景

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花柄八景

Mrs.fictions

実演鑑賞

はじめてみた小劇場だ。「見てきた」でも評判がいいので、午後降り出した雨の中を駒場まで。五日ほど前の予約時には空席があったのに、行って見れば満席と言う。口コミが効く小劇場世界は生きていた。この劇団は喜劇を目指しているようで、SF仕立てだが、しっかり今の時代を反映する生活感のある舞台設定で80分飽きさせない。そのへんの高評価は既にある「見てきた」の通りで、飽きずに面白かった。全体に「花」が登場人物の名前にも美術にも、衣装にも縦横に使われていてこの作品のキーノートにつながっているところなどはベテランのうまさである。
これはこれで十分だが、余計なことを言うと、
登場人物の五人のキャラ配分はうまいのだが、それぞれのキャラが立ちすぎていて、ドラマの進行の中で成長していかない。未来世界が舞台になってからの、落語協会の拡大や、一門の野球の話などが一つのストーリーに束ねられていないで、単なるエピソードだけになってしまって勿体ない。二つ目に上がれなかったプランター(ぐんビィ)は、うまく作れているのに、ロンドン憧れのパンク男女(今村佳佑、永田佑衣)なんか、もっとはじけて面白く作れる。橋の下少女(前田悠雅)には役のキモが見えない。ここもいくらでも面白く作れる。これだけの素材があれば1時間40分は行けるだろう。花柄一門の師匠・花壇(岡野康弘)は折角一門を率いる落語家なんだから東京方言の歯切れの良さを使いこなしてほしい。もっとも地獄八景は確か関西の噺だったから、これでも良いのかもしれない。(私は井上ひさしの「樋口一葉」を連想した)。
と、グジグジ注文も出てくるが、それはそれとして、こういう世情喜劇に取り組んでいくと、新しい境地が開けるかもしれない。この後、二百人規模の劇場まではスーッと行きそう(そこから先は大変だが)でユニークな劇団に育ちそうだ。たまたま今年、同じく落語家を主人公に芝居を作ったあまり世代の違わない横山拓也とは別の路線で新しい小劇場演劇が出てくることを期待している。

The Birthday Party

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The Birthday Party

CEDAR

実演鑑賞

何度か見ている芝居なのに見るたびに感じが違う。1957年のピンターの初期作品で、まだ冷戦時代。イギリスではグレアム・グリーンが人気作家で、まもなくモームが亡くなり、ル・カレがデビューするころ。芝居では、不条理演劇が注目されていた。
日本で最初に見たときは、田舎旅籠ものの調子だったが、次第に不条理劇的になり、今回はサスペンスもの。
様々な趣向が可能なところが奥が深いところだ、登場人物たちも、登場人物たちも、物語も、キャラがあるようで、破綻している。そこがリアルなのだが、確かにまとめにくい。演出の松森望宏は始めてみる演出だが、細かくサスペンスを積んでいって飽きさせない。ストーリーを見る作品ではない、というのはその通りだが、今までは筋をなおざりにしてきたせいで、思わせぶりな前衛劇、という印象が抜けなかった。松森演出は謎に満ちた現実の諸相をあたかも伏線であるように描いていって、緊張感がある。照明に加えて、音響効果と音楽も狭い劇場の特質を生かして大いに劇に貢献している。新人なのに、うまいのである。
この演出者は後しばらく見てみたいと思わせる出来だった。
CEDERは松森が新国立劇場の俳優研修生の北野由大(スタンレー)と組んだグループだが、実質的にはプロダクションで、適材がキャスティングされている。大鶴(謎の追究者ゴールドバーグ)、大森(宿の亭主ピーティ)のどこのプロダクションでも手堅く脇を固める俳優に加え、意外な顔ぶれではテレビタレントとみてきた藤田朋子が宿の女主人メグを好演している。2時間15分。クリスマスイブとあって、客が薄いのが残念な翻訳劇だった。

総評

大劇場の演劇公演は、低調だったが、小劇場では新しい人も出てきたし、充実したいい子運が見られた。このジャンルでは例年、横山卓也、古河県の独走状態だったが、今年は彼らが一休み(もちろん、来年は期待している!!)。かわって、オールドファンにおなじみの庭劇団ペ二のが目を見張るスマッシュヒット。新顔では、須が、いい舞台を見せてくれたが、いい舞台を見せてくれた。アラフォーティーの女性作家たちも一休み。文学座の女性陣の活発な成果も今年の特徴で、五戸真理恵、稲葉香恵が大活躍。舞台成果でいえば、コロナに全く負けていなかった。それにしても、演劇ジャーナリズムの壊滅状況は目を覆う有様だ。

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