tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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あの大鴉、さえも

あの大鴉、さえも

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2016/09/30 (金) ~ 2016/10/20 (木)公演終了

満足度★★★★

デラシネラな運び屋達
ネタバレ注意。であるが少しばかり。珍しく俳優目当てにチケット(安くない)購入、戯曲は以前読んでいたから「短い」「盛り上がりはない」「不思議な雰囲気(何ならゴドー)」「どんな趣向かに拠るが・・小野寺修二」と、考え得る舞台の形を想像してもよく分からず、俳優の選定に答えがあるかな・・と推定してみたのである。
 答えは三人の取り合わせ、には必ずしもなく(私の目には)、個々の持ち味は発揮されていたが、三人三様に得意とする所が異なるため、あのような形になったかと思う。とは言え、多くは三人が息を合わさない訳に行かない場面。さて如何。
 

ネタバレBOX

あほやなぁ・・と「笑える」三人である事が、この戯曲をやる前提なのかな、と思う。笑えるという事は、そこに人間の本質が表れたという事であるので。 笑いが思いの他少なかった。踊り(的な動き)による表現は秀逸である。 問題はガラスの扱い方だったように思う。こいつだけは、形状が決まっていて、それは共有されていて、しかしよく分からない注文に翻弄されている様子が見えたい。ガラスは三人を縛り付けており(ある見方では結び付けている、とも)、重要。折紙を折って作ったかのような二つの壁で仕切られた空間、下手の壁は内側に傾斜しており、ガラスを立てかける場合にそこは空間がゆがんでいるのか、傾斜した壁に立てかけているのか・・・細かな事だが、どのリアルの線引きがあるのかは、抽象度の高い作品の解釈にとって大事なことに思う。
突っ込みたい部分はあったが「無為」な時間を批判的にも、肯定的にも見ることの出来る不思議な作品世界になっていた。原作が持っていた文脈が汲まれたのかどうかは、判らない。 
北村想名作戯曲リーディング

北村想名作戯曲リーディング

流山児★事務所

Space早稲田(東京都)

2016/10/12 (水) ~ 2016/10/15 (土)公演終了

満足度★★★★

リーディングの愉楽
何年か前の山元清多特集リーディングの一つを見たときの多くの発見・・作品「海賊」の世界、俳優、「リーディングがこれほど沸騰する舞台になるのか・・・」という、この(まぐれかもしれない)遭遇を思わず期待したのは、今回の北村想特集4作品の一つにあの「海賊」の座組み(演出=東京ミルクホールの佐野バビ市=演出、黒テント片岡哲也その他)の賑やかな面々の名を見たからで。それ以外の演目・座組も気になりつつ、幸いお目当てのBチーム「DUCK SOAP」が観れた。
小アフタートークでの流山児祥・演出佐野氏のやりとりから北村想という作家の背景、演劇界での位置、人となりが知れて興味深い。
作品は演出による大きな加筆によりメタシアター(入れ子構造)化され、お笑いが勝っていたが、俳優が目一杯やっている舞台を作っている。「そう言えば台本持ってやってたっけ?」という位に動き回る印象。1演目をたった2ステージでは役者も淋しい事だろう・・と、「存分に楽しんだ」観客=私は勝手に想像する。

ネタバレBOX

そんな楽しげなステージ上ではあったが、入れ子の中身=北村戯曲の芝居 を終えて、ある会社の演劇サークルの面々に戻った所で(=素の役者に近い)、部長=進行役がいきなり「大喜利」をやると言い出す。
 ところで「DUCK SOAP」の物語、と言おうか何と言おうか、どんなお話か。ませた小学生の二人組やヤクザっぽい親分子分のとぼけた会話や、何やかやが登場し、確か中心には(擬似?)家族の物語が展開していたように思うのだが、殆ど思い出せない。理不尽な感情に埋もれそうになる瞬間や、理不尽さを逆手にとって飄々とした周辺の人々の風情だけが断片的に記憶に散らばっている(ような気がする)。笑いに走って「中身」が散漫になったせいもあるにはあるだろうが、私は大真面目にテキストを朗読されるよりは作者の筆の「角度」に近い角度を捉えた演出だったのでは・・と思った。いやそう思っておこう、、何しろ楽しい舞台だったから・・という訳。
で、このタイトル、正確には、「DUCK SOAP 家鴨石鹸あるいはセリフを覚えたあと役者は何をするかという問いをめぐる土曜日の黄昏と夜と夜中」という。
 「台詞を覚えたあと、役者は何をするか」が、大喜利のお題である。
 ただこの問いは、演劇の現場で実際にどうするか、という方法の問いであると同時に、台詞を覚えて役の役割をこなす、という俳優の「作為」(仕事)がそこにある全てではなく、役者という人間が既に見えているのであり、さてその人間である所の俳優は何をする者ぞ、というもう一つの問いが含まれている、とみえる。(そしてまさかその問いに「俳優をやってます」とは答えられまい)

この哲学的な問いを、大喜利のお題にした時点で、「哲学的」は霧散してしまうが、私はお遊びモードをそこに無理くり持って来たからと言って、作者を冒涜してもおらず、むしろ挑戦的であったかも知れない。問いを問いのままにせず、役者個人のひねり出した回答が卑近なものだったとすれば、それは想念と現実の落差であり、だからダメなのではなく現実とはそうしたものなのだ、と知るべきであったりする、そういう事ではないだろうか。。

という事で、大喜利は俳優にとっちゃ手に汗の時間に違いないが、その後の展開は ・・まず進行役(お笑いの人)が例を見せてコケる。その後、二人がアドリブで(自分で考えた回答を)答え、その後もう一人、二人の勇気を称えつつ、思い切り外した回答でコケた。
 (もっともここで言うコケた傷は勲章である。遊びが許される程度には舞台で楽しませたので。)
 惜しかったのは、場が引きのモードになっていて、ああいったものは空気であり、誰も座布団を投げる気持ちでは恐らくなかった、にもかかわらず、司会は役者からの「何やらせんだ」攻撃と会場の静けさに生汗をかいていたか、大喜利は早々に「ラストに繋げる展開」へバトンを渡してしまった。
 ・・・その事が惜しかった。とこれしきを言うために長々と書いてしまった。
今一度俳優達に拍手。
「お国と五平」「息子」

「お国と五平」「息子」

(公財)可児市文化芸術振興財団

吉祥寺シアター(東京都)

2016/10/06 (木) ~ 2016/10/13 (木)公演終了

満足度★★★★

近代古典という世界
日本の戦前に書かれた戯曲は骨っぽい。「確かな言葉」で紡がれ、言葉として普遍性が高いと感じさせるものがある。高度情報社会である現在より、人や権力の「眼」の監視の度合いがもっと粗く、「個」としての内心の自由度が(制度上はともかく実質上)大きかった分、「他者」に伝達すべき言葉の使い様に丁寧さがあった、という事ではないのか・・そんな事を想像させられる。
近代古典の世界を味わいたく観劇。私としては感動の『息子』が目当てだったが、最初に上演した『お国と五平』の尺が長く充実しており、『息子』はあっさりと終わった。前者は谷崎潤一郎作。高校の一時期ハマって以来何十年ぶりに谷崎文体に相見え、武家の女房と家臣が交わす台詞の端麗さもさりながら、後半登場し「女々しく」憤怒と哀願の言葉を繰り出す男の居直った人生観には、谷崎の底に流れるものに思い当たった感でハッとした。人々にもてはやされ颯爽と生きる者は元々その素養(この場合は武術の覚え・それに発する自負、勇気等)を生まれながらに持ちえた事でその誉れを手にしているに過ぎない。してその身分が約束されている条件では多少の欲もかき、隠し通せると高を括っている。それを「目撃した」と暴きながら、「生まれながら」の素養に恵まれず白眼視され捨てられた身で卑怯な刃傷に及んだその男が免罪されることは大義として無い・・・それだけに相手を謗り情けを語りながら「命乞い」をするしかない哀れな男であったが、彼に「一言」言わせたかった谷崎の、顧みられぬ人の人生を見つめる眼差しを彼の作品を思い出しながら思った。喜劇仕立てである。
 一方『息子』は難しい芝居だ。約30分の短いやり取りの中に、台詞とは別に「いつ気付くのか」、探りと確信のプロセスがしぐさとして表現されねばならず、その微妙な線をどこに引くか、どう振舞うか・・そしてあの距離でその関係を成立させるキャラ作りからして大変である。老父は元気すぎ、息子はもっとくたびれ切っていい。谷崎作との関連で言えば、彼がそうなった全責任が彼にある訳ではない、が世間は冷たい。微かながらに、情が通った片鱗が、彼らを取り巻く冷たさを逆照射する。そして近づく捕り物の音が、哀れな彼らの存在を浮き上がらせる。芝居の方はまだ、作り込む余地があった。

アンダーグラウンド

アンダーグラウンド

無隣館若手自主企画vol.14 小林企画

アトリエ春風舎(東京都)

2016/10/07 (金) ~ 2016/10/10 (月)公演終了

満足度★★★★

巻き込まれ型舞台
「参加型」とは露知らず参加した。トークに招かれた女性が「参加型」に一家言ある人らしく、今回の趣旨の曖昧さについて指摘していた。その様子からすると、「参加型」のスタイルは何らかの理念を原点に持つようだ。舞台→客席の一方向コミュニケーションの限界、といった所だろうか。
 地上人である所の観客が、大きなエレベータに乗って地底世界へ向かっている。会場は客席がなく、地底人であるキャスト5人の誘導でまずは紙製眼鏡作りと地底世界についてのレクチュア。観客が何らかの「態」でその場に居る中で、いつしか芝居(地底人として名を持つ彼らのやり取り)が始まっていたり、地上人集団に語りかけたりする。「劇」の要素に観客が組み込まれている形は珍しくないが、同じ平場でそうなっている、という感覚はまた別である。
 ポイントは「原罪」を背負った歪な存在となった地上人を地底人は蔑視しており、地底世界の人口が減ってしまったため労働力として、しかし生活と身分を保証する約束で地上人が移住させられる途上である、という構図が後半に判ってくること。白の衣裳で統一されたキャストは高等な人種らしく、無垢で情熱的な演技によって我々とは異質なものとして存在し、「今ここ」が地上世界の劇場である「現実」から離れた、「地底」というフィクションを成り立たせている。
 紙製眼鏡をかける事で「現実」に属する観客同士の対面を回避し、照明や音の効果、そして地底にまつわる詩的な言葉によって、普段は舞台上で観る架空世界を自分らもそこに紛れ込まされた形で観る、という体験になった。もっともストーリー自体は単純だが。
 それらがフィクションのモードだとすれば、冒頭の作業と、もう一箇所途中でキャストがちょっとしたゲーム的な動きを観客に指示してやらせる場面、これはフィクション世界とは違う質に感じられた。フィクションの世界は観客が想像を逞しくして架空世界を理解しようとする時間になるのに対し、フィクションにあまり寄与しない動きをやらされる時間は、自分の身体という現実に引き戻されそうになる。もっと別な動きならどうだったか・・。
 さて先述した「参加型」が目指すのは、フィクション世界よりは、それとは異質に感じられた時間、つまり観客が自分の身体(自分自身の現実)を意識させられ、他者の前にさらされる条件で何らかの物語に参加する形なのだろう。
 その意味では今回の舞台は、参加型というより、フィクションに巻き込まれる体感型舞台とでも言ったらよいだろうか。
 いずれにせよ、興味深い「観劇」ではあった。私には待遇の良い奴隷船に乗せられた感覚、そうなった場合の自分の感情を垣間見る瞬間があり、それなりに新鮮な体験であった。

夜明けに、月の手触りを ~2016~

夜明けに、月の手触りを ~2016~

mizhen

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/10/05 (水) ~ 2016/10/10 (月)公演終了

満足度★★★★

「みずへん」、また一つ発見。
5名の女優による、それぞれの切実な物語--モノローグによる--が舞台上で交差しつつも融合せず、互いの動線が絡み合いつつも整理され、それぞれに展開する。舞台処理がユニーク。独白で綴るテキストにはキレがあり、それ以上に俳優がそれを飲み下して十二分に生き生きと演じていた。
小野寺ずる登場。やがて全体の中心に来る彼女の役、なりきり具合と言い、凄みあり。

ネタバレBOX

5人の女性それぞれの設定と、物語上の「現在地」じたいはよくある話、ではある。・・・お笑い芸人を目指す女性、妹とそりが合わず屈折した感情で家族を眺める姉による、妹の結婚式での挨拶、あるアイドルグループの追っかけの生き方、広告会社で企画を担当するキャリア女性、そして、どちらのだか判らない子を宿し、「新たな恋」へと走ろうと苦悶する女性。最後の妊婦役を小野寺ずるが怪演・好演するが、残念だったのは・・・「誰の子だか判らない」という台詞が、そういう生き方をしてきた女性、と見え、新たな恋に走るその相手と既に行為に至っていた、という風に見えなかった事。勘違いが終盤まで続き、不思議ちゃん要素のある女性に魅入っていた所が、混乱を来たしたこと。設定をしっかり飲み込んだ上で展開を見守ったら違う感想になったかも知れない。
・・がとにかく5人5様の生き方、キャラの棲み分けは素晴らしい。
篦棒 べらぼう

篦棒 べらぼう

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2016/09/28 (水) ~ 2016/10/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

中津留氏の言語が「新劇」舞台で命を得る
「中津留らしさ」について、ここ最近否定的な意味のそれを語っていた気がするが、今作は出色であった。休憩を挟んで三時間にわたる、ある一家の叙事詩は細密画でありながら中津留氏らしい豪快な線も入る。最終局面などイプセンかハウプトマンかの戯曲か、と思わず唸った。今の中津留氏の文体に、劇団民藝が持つ演技態が合ったのやも知れぬ。

狂犬百景(2016)

狂犬百景(2016)

MU

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2016/10/01 (土) ~ 2016/10/10 (月)公演終了

満足度★★★★

初MU
短編ではあるが、作者の思い描く架空の「狂犬な世界」での幾つかのエピソード4編、となっている。つまり、全体として「狂犬な世界」を構成する、規模は違うが「火星年代記」的な、一つの未来形、あるいは「あり得るもう一つの世界」を提示する一まとまりの出し物だ。
「百景」の名の通り、作者によれば「狂犬」エピソードは百あるのだとか。その事を言わせるだけの、創作意欲の源泉がこの架空世界である「狂犬な世界」にはあるのだろう。

個人的には、「初」のMU式文体に不慣れのせいか?、台詞が入って来ず、前半の二編は意識が途切れがちになり、目の前の現象が何であるのか、分類すれば喜劇か悲劇か、そこで起こっているのは対立か迎合か、さえも判別しづらい(中々味わえない)状態となった。
後半二編では、はっきりした感情、激した感情を乗せやすい台詞と展開があり、俳優から発した「感情」をよすがに、芝居に入ることが出来た。

ネタバレBOX

やりとりは饒舌とは言えずギクシャク感は残った。これは文体の問題か、俳優のもう一つな演技のせいか・・・
残念ながら特筆したい役者(の演技)は私の目には入ってこなかった。台詞の端に拙さが残る印象がそこここに。もっとも「よくできた分かりやすい戯曲」に取り組めばそれなりの舞台を作るだけの声量、メリハリはあるように感じたが。。一人抜きん出た役者が居ると居ないでは、相当違うんだろうな・・そんな事を思ったりもした。(ここで言う俳優の仕事は、戯曲を一つの完結した作品に結実させるための「役」の姿を掘り当てることができ、表現が出来る、という意味。テキストと俳優の発語、表現との関係で仕事の優劣は決まる。)

舞台美術。短編4つに対応するためか抽象度が高い。一方テキストも十分に言葉を端折った文体で、具象の手がかりが欲しいがそれが希薄で酸欠になる。・・そうなると言葉が頼みであるが・・。(台詞が入ってこなかった原因にはそのあたりも・・?)
装置は茶色く塗ったブラインドを縦と横に組み合わせてパッチワーク風に舞台上に大きな壁面を作っており、緩い円弧で演技エリアを囲む、で中央は出入りのため大きく開いている。あとは袖(手前、奥)。
この壁の茶系(オレンジ)の色に、照明も暖色でほぼ通していたと思う。光の色彩の変化でもっとメリハリを与えても良かったのではないか・・・

さて「狂犬」は素材としてユニークである。狂犬病に罹った犬と、その犬に噛まれて狂犬病となった人間(舞台ではゾンビのイメージ・・「バイオハザード」的な・・をまとわせていた)が街に氾濫する光景、すなわちパンデミックの状況設定は、極限状況で人が優先すべき価値、について考えさせる。
さて第二弾はあるのか・・・?
『Re:』

『Re:』

Element

参宮橋TRANCE MISSION(東京都)

2016/10/01 (土) ~ 2016/10/02 (日)公演終了

満足度★★★★

リーディングのためのお話
書かれたメールを読みあう構成は、形としてリーディング以外にあり得ない、というかこのテキストを用いる限り、「読み合う」形が正解で、リアル。
メールの文面らしいリアルが(むろん「読み手」の演技もだが)、信憑性を与えている。メールに現われて来ない領域を聞き手の想像力に委ね、その分、説明不要な飛躍的な展開が可能である。
最初のやり取りで女性側が突っ込んで行く所、男が会社を辞め、父母の居ない実家の家屋がちゃんと残っていてしばらく働かなくて良い稼ぎを得ていた身分、また男が画家として成功を手にする展開など、都合のよい出来すぎた展開なのだが、「読み」=小説の要素でもって、焦点を二人の「心の行方」に絞り込むことが出来、二人のそれぞれの歩みのディテイルは、常に距離を持つ宿命にあった男女(だからメールも可能)の心の軌跡を描写するための背景画となっている。
・・という構造の下、観客の想像力は、二人が(全ての男女がそうだとは限らない)相性を持ちえた者同士として、その最も相応しい関係に到達できるかどうか、という関心に発展していく。その結末が見たくて仕方なくなっている。その瞬間までの全ては伏線であった・・と総括される結末へと、急ぐ訳だが、少し気になる部分もある。
男女は離れていて互いに好きあっている(これを私は相性と呼ぶ)、一時的な(性)衝動でない事を男は自らに確信した、というが、「単なる好き」以上の「愛」だとか「決意」だとかの手を借りる必要のない「相性」を持つ男女(と、しておこう)が、結ばれるか結ばれないかは、個的な関係の帰趨の問題だ。愛を育んだり困難を乗り越えて行くかどうかの出発点に、到達するかどうかは、単に二人の「好き」が結実するか否かの問題。だから観客はこのドラマからもはや高尚なテーマや感動を得ようとは思わず、ただ個的な関係の顛末を「覗き見」しながら追体験する。そこでの快感は、はっきり言えば甘味な人生(の中のある時間)だ。
もっとも互いに離れていることで、間違いなく結ばれるだろうその時を至福の時のように思い描く、その「未然」の時間も、甘味である。「迷いがない」状態も、ある種の快感だ。男は成功した、だから生活上のあれこれで迷うことがない。好きなものにダイレクトに向かって行ける。これが彼の「成功」が可能にしたものなのか、彼の「思い」(心)が可能にしたものなのか、それは判らない。得てして、ある高みに上った時人間はその確信の根拠についての吟味などしないものだ。
観客は、男が得たその身分じたいには共鳴しなくても、女を求める心には共鳴できる。身分はどうあろうと、二人の望ましい結末という快感を手にしたくてこのリーディングを今味わっている。早くくれ。結末をくれ・・。
 でもって、その(観客いや私が勝手に抱いた)やや「不純な」思いの投影として、それが遂げられない不安もよぎる。テキストにその伏線ははっきりあるが、その陳腐な結末はないだろうと思っている。だがそうなってしまう。
 女は10/2の記念日に亡き相手にメールで語りかける。そこには相手という肉体をなくしてもなお残る「愛」がある、かに見せている。しかし私は、男が亡くなった時点で、女にとって男は「異性」として求める相手ではなくなる。メールの文面も、空しい。予期せぬ辛い体験の中で「男を信じられなくなった」女が、その頑なな心を再び開く者として男は現われたが、固有の一人でしかないその男と、始まりを迎える前に死別したという顛末には、女は新たな出会いに向かう力を手にした(男の存在によって)という含意がある。つまりこの時点で二人の物語は二人の間だけで完結できなかった事が(現実的に考えれば)明らかになる、という感じ。
 別にその解釈でいいじゃん・・と一蹴されそうだが、まァそんな事を思った。
結末はやはり、そこで終わって美しいパッケージにしてしまうのでなく、実はそこからが大変な共同生活の端緒についた二人、で終わりたかった・・個人的な願望。

 

僕の居場所

僕の居場所

劇団あおきりみかん

王子小劇場(東京都)

2016/10/01 (土) ~ 2016/10/03 (月)公演終了

満足度★★★★

10月初観劇・・特に意味はないが。
今年も余すところむにゃむにゃ。「居場所」という、味の消えたガムのようなテーマで、しかしありきたりな芝居は作らない事の期待で、三度目のあおきりみかん観劇。前回アゴラ劇場の狭い空間で難渋していた事を思い出した。舞台いっぱいの装置、色々盛り込んで装置も活用して、道具を出したり引っ込めたり、引っ掛けてバスっと音がしたり・・もあったが目立たない程度であった。この装置に人一人の重量を委ねるシーンにはとにかく冷や冷やした。もっとも、ドテッと落ちたとしても、ギャグに回収する技はありそうだが。
一劇団としては役者のレベルも結構高いのでは。鹿目戯曲は一応テーマ性、感動らしきものが用意されているが、どこまで本気かも微妙な、「お芝居」と割り切った眼差しを感じなくもない風合いがある(というか、8割方笑い)。この「笑」と「テーマ性」を両立させる役者の技術、また風貌の力を、感じさせる舞台だった。ラストに向けた「謎解き」は、それこそ「所詮お芝居」の醒めた眼差しで、さらりと流してもらっていい気もした。そこまで整合性を求めてない、というか。。 

『OKINAWA1972』

『OKINAWA1972』

流山児★事務所

Space早稲田(東京都)

2016/09/15 (木) ~ 2016/10/02 (日)公演終了

満足度★★★★

本土復帰の年、沖縄じゃ沖縄の時間が、流れていたさァ。
流山児+風琴の合同公演という趣き。役者は流山児主体だが演出的仕上り、また役者も2,3人混じって、風琴らしい。
ヤクザの視点で本土復帰当時の沖縄の民衆の温度を伝える芝居。沖縄は地理的にも「日本」という領域を構成する四島からは遠い。これは「日本という奇異な精神風土に染まらない)健全さを維持し得る距離だが、日本政府によって米国に売り渡されている(今も)現実も「距離」の一面だ。
さて沖縄の「庶民」、それも下層に属する(上層が存在したのかは知らないが)人々の自らを語る中に「混血児や親を知らない者が多い」・・という台詞があった。米軍=強者と、被占領民である沖縄人=弱者の関係を如実に表わす台詞として、今は迫ってくる。
男は「力」に憧れ、女は風俗業に身をやつす。本土復帰を前に、「力」は対本土(のヤクザ)に向けて結集されるが、うまく立ち回ろうとする欲は本土とのパイプやパワーバランスの活用に手を出してしまうという悲しい顛末もある。裏社会では「沖縄」は分断され、潰された。
主人公は母の手一つで育った(なぜか)フィリピン人との混血、これと一風変わった彼の親友がいいコンビで、「組織」に居る本土帰りのエリートのキャラクター設定もうまかった。破天荒で命知らずだが「太陽」のように周囲を照らす、と評される男、そいつに殺されかけた過去を持ちながら、大義(沖縄を本土の魔の手から守る)のためにその男とも契りを交わす武術を身につけた男、その男に惚れ、危険な選択にも奥歯を噛み締めて同意する女房・・・役者揃いである。
さて「沖縄」で進行するドラマにしばしば挿入されるのが佐藤栄作総理大臣と、彼が沖縄復帰交渉を委ねた某という学者の対話シーン。これは本土復帰が沖縄の「権利回復」でも何でもなく、実質は占領期と変わりない米軍の権利が継続することを「密約」で約束しながら、表向きには、「核抜き本土並み」を取り付けて復帰の「偉業」を成し遂げた演出がなされる、その裏側を暴露するシーンなのだが、惜しいことにこれが判りづらい。
沖縄の物語の、重要な背景を説明しているが、佐藤首相という人物、交渉者の○○という人物が、それぞれどういう動機や目的で行動しているのかが舞台上の姿を通してはもう一つ見えて来ず、重要な基本情報だけにもう一工夫できなかったか・・という憾みが残った。

『楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―』

『楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―』

ビニヰルテアタア

浅草橋ルーサイトギャラリー(東京都)

2016/09/27 (火) ~ 2016/10/01 (土)公演終了

満足度★★★★★

幸福な時間
「楽屋」フェスでの楽屋三昧の日々も早遠い記憶の今。
場所は浅草橋ルーサイトギャラリーという、昭和な木造二階建の二階の一室。玄関で受付を済ませ、奥へと案内され、家の中程の急こう配の階段をギシギシ昇り、突き当たりを左に折れた部屋をみれば、夜光に照り映える隅田川の対岸を臨むガラス窓が川側全面に。部屋の入口が唯一の出はけ口となり、衣裳道具や雑多な物が置かれた窓側が、「楽屋」の舞台である。
近藤結宥花の名が目に入って一も二もなく観劇を決めた。新宿梁山泊の『唐版風の又三郎』以来。健在だった。
優美な音楽を使い、取る間合いはたっぷり取って、1時間20分。(楽屋フェスでは50~60分が通常だった)
戯曲と役者の魅力を細部にわたって味わった。

青

ツチプロ

OFF OFFシアター(東京都)

2016/09/21 (水) ~ 2016/10/02 (日)公演終了

満足度★★★★

正義の顔。
『青 Chong』という在日を描いた在日監督による映画の原作か‥?と一瞬思ったが別物だった。がテーマは排外主義、異民族との共存。
このユニット及び夏井氏戯曲作品、ともに初。出来る役者を起用してやった舞台、にしては悪くない役者の佇まいだった。「その芝居」を成立させるだけなら不要かもしれない有機的な繋がり、そこから立ち上る匂いが劇空間に(体内に万単位で居るという雑菌のように)存在するかどうか、私にとっては評価を分かつ要素だったりする。
千葉哲也演出は3作目で、千葉哲也が登場しているような、くたびれた背広にやさぐれ心の主人公に仮託した「男臭さ」の世界が味だと(過去見たもの含め)、思った。
戯曲、話の運びはうまい。二人の男の出会いから「運動体」を立ち上げる流れは、それに乗じて憤懣を吐き出す者らと、彼ら自身の資質が少し異なっていた事も自然に見せ、「行き違い」の悲劇を成立させる所以となっている。
 ヘイトが武闘派を生んで過激化する想定の近未来は、今と紙一重だが若干風向きが異なっている「現在」だから、2016年の話として改稿すべきでなかったかと思う。「警鐘」とみるなら時期が違っている内容に思えた。
 だが感動的な場面がある。右翼にしてはリベラル感性な主人公、そして本音のやり取りを経たにせよその場で転向するもう一方の元々あったと疑念を抱かせるリベラル感性は、やや現実離れしているものの、そこで勇気ある転進、命がけで暴徒を止めるという決意を彼らにさせる。その彼らを見据える女(メンバー)の顔がいい。

ネタバレBOX

ダメ出し一箇所と言われたら、ここ。
侵入してきた相手との和解と決意(約束)のあった後、頭から水を浴びせるように、その「約束」の相手を殺す「情緒的便乗組」の輩。彼が金属バットを振り上げた時、その男が相手を殴り殺すままにさせた処理。
危険と背中合わせだった二人の男が、バットを振り上げた男の様子に「驚いて腰を抜かし」、止めに入ることもしなかった事。これは演技として成立しづらかった。なぜ助けに入らなかったか・・・本気じゃなかったから・・・と見えてしまう。「出会い」が本物なのか、疑問をさしはさむ余地を与えている。
ただ「正義」の側にある主人公を今更そこから引きずり下ろす気がしない観客を、最後までその気持ちにさせていた程度には、不自然さは目立たなかったかも知れないが・・・
うつくしい世界

うつくしい世界

こゆび侍

駅前劇場(東京都)

2016/09/21 (水) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

恐ろしげな世界
汚染された世界では「きれいな空気」が生命線。酸素は植物が生成するが、汚れをろ過したきれいな空気を作るのは薔薇だけ。もっともこの「薔薇」、植物ではなく人間の中でごくたまに生まれる、「ほめられると膨らむ」種類を指す。彼は耳を心地よくする言葉を聴くことできれいな空気を吐き出し、人を助ける。ただし、この社会ではこの空気は支配者の独占である。というか、空気を独占することで支配者となっている。最初の場面は、「薔薇」と思しい赤子が生まれたことに夫が気付き、その事を察知したらしい産科医を殺す(裏手の銃声でその事がほのめかされる)。時が経ち、その夫はやがて、狂気の支配者に使われる「官吏」となっており、薔薇の管理を任されている。支配者の片腕の大男が恐ろしげで、恐怖政治の実際の手先となって能動的に人々を威嚇する事に喜びを覚えているようである。
太陽もまともに当たらない世界、照明も茶色くくすんで人々は貧しく、世知辛く生きる。ここに善良で心のきれいな主人公の娘がいる。病気の妹がいて、仲良くくらしている。配給の空気を入れるタンクを交換してくれと言われ交換すると、穴が開いていて、困ったと妹に相談する。そんなあたりから、官吏の息子(実は薔薇だが素性を隠している)と、娘が出くわし、最初は険悪だが次第に心を通じ合わせ、精神的な愛を育む関係になる。だが娘の能天気さがアダとなり、官吏の息子が薔薇である事が支配者に知れてしまう。旧「薔薇」は次第に空気を作らなくなってしまっていた。
そんなこんなで、恐ろしげな世界の物語は綴られて行くが、ここに(我らが桟敷童子の)大手忍演じるこじきが登場してくる。これはまともに喋らず(喋れず)、いつも殺された死体があればどこかへ運んで行き、通りかかると人々から「臭い」と言って顔を背けられる。この「こじき」の独自の価値尺度や生活様式、哲学は無言の行動で表現される。万事行き詰まったときの「救い」が全身薄汚れた乞食によってもたらされる・・ファンタジーな場面は中々美しかった。喋れず、声だけの演技がよい。さすが我らが・・・
 惜しむべくは物語をもっと緻密に、不具合を修正できるのではないかと思う。最後は「二人の愛の物語」的なまとめになっていたが、「汚れた世界」を生き抜く同士として、べたべたせず、同じ方向を向いていれば良いのではないか。向き合って愛してる、だの言った瞬間に空しくなる・・というのは愛を感情、心情として捉える限り、それは「自分」に属するものでしかないという難題に現われるからであり、「汚れた世界」を生き抜いてきた娘にその事を知らないなんて事はない、そう思えてならない。
 舞台に出現せしめた汚れた世界の色合いは良かった。
 

贖い

贖い

地平線

アトリエ春風舎(東京都)

2016/09/22 (木) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

新国立劇場研修所修了生の力量は。
見覚えのある二人。研修生公演を見始めたのは4,5年前か・・・洋物芝居でとっつきにくく、「無理してる」印象が否めなかった中、初めて顔のよく見えた「親の顔が見たい」(第8期)以来、俳優に親近感を覚えるようになった。その「親の顔」(何とあれは試演会)で中心的な役割だった坂川慶成、そして第9期の高橋美帆による二人芝居だ。(チラシデザインは8期で俳優としても目立っていた荒巻まりの)
 この新国立男女のまだ若き二人による芝居は、「淋しげな背中」の溶暗から、食い食いの激しい台詞の応酬に始まり、徐々に徐々に、「ある事(人)」をめぐる真相を浮かび上がらせて行く、ミステリー仕立ての会話劇。
互いによく知る間柄だから成り立つ、相手の数手先を読む台詞、話題の飛び具合が「ミステリー」的である事を可能にしているが、「後出し」に過ぎる感が否めない部分もある。
話を迂回させつつ、観客が真相を知るまでの時間を先延ばしにする工夫はうまいが、現われた(はずの)真相である「全体像」は意外でもなく、持って回って説明されるようなことでもなく・・・という印象だ。
まだ二十代前半の二人、とは後で判ったが、とてもそうは見えない貫禄は修練の賜物と言えるかも、であるが、中盤から若さが露呈し、芝居のテンションを維持するのが精一杯、それでもよくやっている、のだろうけれど、役のあり方、演技として的確かどうかとなると厳しい。
 男性の方は(性格・立ち位置として奔放である事が自然なキャラという事もあって?)「出方」にバリエーションがあって弛ませないが、女性のアプローチはせいぜい3つ位、それを使い回すのが精一杯に見えた。感情的になる。がそれを鎮めて、敢えて言葉を相手に投げる義務を負っていることへの倦み=ため息混じりの台詞、と来る。西欧だから「言葉」はどうしたって省略できないので、あの(洋物によくある)息混じりの喋りが出てしまってもある必然は無くはないのだろうけれど、「人物」になりきれていない、ゆえの「目くらまし」演技、意表をつく出方、これを二人ともやっている。終盤はこればかりに思えて仕方なかった。
問題は二人がどういう関係なのか・・・最初、夫婦に見え、その共通の親しい人の名が出て、彼が死んだ事がだんだんと判る。息子?と思いながら見ていると、それにしては一方が淡白すぎ、中盤も中盤に来てやっとそれが、男の「兄」だとわかる。そして女は彼と結婚していた女性だった。
 兄は音楽家で、単なる偶然によって、衝動的な殺人の犠牲者となる。加害者は所謂マイノリティ、異国人であり、男はそうした者たちへの(恵まれた白人としての)負い目を抱いており、その事は起こるべくして起こったと理解していることがわかる。貧困の子供たちへの支援活動もしている。そんな彼を女は受け入れがたいが、理解は示す。が、男のその行動、選択は自分の全てへの恨みに発していて、実は「正義」ゆえの行動ではなく己の負の要素に負の刻印を押すための行動に過ぎない(かなり意訳すればそんな具合)、と断じる。女は女で、結婚生活に敗れて5年前に出て行った事の負い目を持ちながらも、いつか帰る場所だと考えていたのに、訃報を聞いて帰ってみれば自分にまつわる何もかもが消えてしまっている(夫の生活から削り取られていた)事に愕然とした事を弟に伝える。行き詰まった彼女は戻ってくることを考えていた、という。
 さて、「問題にしている人間」を作者が中盤まで伏せた理由は、恐らく、出会っている二人が兄の(元?)妻と義理の弟である設定から、考えつくのは道ならぬ恋。だから伏せに伏せて、その間に「彼」との関係から派生する様々な「問題」のほうを話題にし、掘り下げさせた。
でもって、最終的に、二人は女がそこを去る前、電撃が走るような感覚に任せて肌を重ね、求め合ったことが語られる。女はそれで去ったのだと判る。男はその事実に触れまいとしてストイックな話題に固執していたらしい推測に導かれる。「兄」の死は9・11についてのある解釈と同様、ある恒常的な不正を放置し見ぬふりを続けてきたことのツケなのだ、と解釈し得る問題からすれば、そのような高邁な「正論」をいかに語ろうが、情欲の前に人間はひれ伏すしかない、脆弱さというものに繋がるのだろうか。。 
 いずれにしても、このオチが付け足しでなく、作者の最初の狙いなのだとしたら、芝居の作りは随分違ったものにせねばならなくなるのでは。
 冒頭から激しく続けられたやり取りは、全て、二人の間の精神的障壁を取り除くための、前戯であった、のに違いない。そうして「変わりえない世界」の片隅で、叶わなかった愛の代償であり今や不要となった「正論」を手放し、その手で「自由となった」女を抱き締め、現実に埋没して行く・・。そんなのが正解かナ・・などと想像した。
 芝居を離れるが、3年という期間を演劇修練に費やした修了生が、演劇界で活躍して行くことは喜ばしい。官製の演劇教育、などと揶揄する向きがあったりするのかどうか知らないが、私は応援したい。

郡上の立百姓

郡上の立百姓

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2016/09/17 (土) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

現代に突き刺さる。
こばやしひろしという人の何十年か前の戯曲だそうだ。原稿用紙が筆圧でガリガリ鳴っていただろうと想像される、力強い、物凄い作品である。群像劇だが、個人をしっかり書いている。
藤井ごう演出のテンポ良さ、見せ方のうまさもある。
ガリガリ、カリカリ、ガリガリ、カリカリ。
惜しむらくは客席の年齢層が。
ガリガリ、カリカリ・・・・

怪獣の教え

怪獣の教え

パルコ・プロデュース

Zeppブルーシアター六本木(東京都)

2016/09/21 (水) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

音楽ライブに近い「浸る」感覚、その上にドラマが乗っかり、スクリーン一杯の映像が補強しつつ幻惑する
こたびも予習無しで観劇(・・にしてはそれなりの観劇料だが)。謳い文句の新「感覚」体験を期待して、衝動買いした。
二度目のブルーシアター、客層はややハイソな印象。開演5分前到着したが入場口にはまだチケット所持者でない長い列が出来ている。予定を10分過ぎた19:10にアナウンス「・・張り切ってどうぞ!」(板尾創路)。が、前方の席がまだガラ空きである。すでに正面には幅広のスクリーンに太陽灼けつく大海原の映像が映し出され、波音にたゆたう開演前の時間がそれを合図に終わると、舞台中央ツラに置かれた「装置」の裏に男が立ち、波音の間に地底からの呻りのような音が混じり出す。よく見るとそれは「装置」にセットされたジデュリドゥ(オーストラリア先住民の木管楽器)で、照明の変化により、彼はそれを吹き出したのだと判る。音が次第に激しくなり、波は高鳴り、映像が狂おしく同期する。この長い演奏のかん、空いた席が一組、二組と着実に埋まって行き、照明がフェイドアウトし始めた時最後の一人が仲間に手を振って通路側に登場、客をかき分け席を目指し、闇となる寸前に席に尻を埋め、空席が無くなった。測ったかのような始まり。
 「期待」は裏切らなかった。ただし、「演劇」としての不足感は残る。もっとも、物語の方向性には共鳴できた。「汚れきった日本」「生きるに価しない場所」・・ディストピアをそこに浸る場所でなく「抜け出すべき場所」との明確な認識が物語の前提になっている、と感じた。
 スクリーンの幕の裏では、TWIN TAILによる生演奏。迫力ある映像が必然にする「迫力ある音」に、随伴しながらタイトなドラムとギター+αが鳴り、舞台に一貫した色彩を与えている。
 主人公の青年・天作が吐く告白じみた台詞によって大状況な物語が首をもたげ、詩劇的高まりをみせると、次第に激しくやがて壮絶な(という形容詞が似合う)ドラムワークが鳴り響く。耳、そして目は大海原や「夢」が作り出した不気味な風景に釘付け(それを観に来ているのだから当然だが)になり、単調なリズムで話される思わせぶりな言葉が「謎」を仄めかして脳内も支配する。

 物語そのものが十分練られて(あるいは語りえて)いたかは疑問だが、主人公による批評性を帯びた詩的語りの部分で、音楽、映像、芝居の三つ巴のエネルギー放出をみて、快感であった。
 「船に乗る」をリフレインする「詩」的フレーズを連打する主役(窪塚)の長台詞もその一つ。「ここから抜け出すために」・・都市生活の描写には排気ガスや放射能まみれの雨、といった表現が混じる。マイクを通しリバーブを効かせた大音量の台詞、これを「演技」として許容するのはこのライブシネマという形式の中でしかあり得ないだろう。暗く悲壮な台詞を唾するように吐き出す窪塚の「煽り」に当然バンドは呼応する。
 「怪獣」はこの文脈から語られる。冒頭「おじいさんから聞いた話」として怪獣の話をするが、ラスト、「○○○○、これが怪獣の教え」と結語される。ただし、その意味するところは漠然としている。「全てを破壊する」怪獣は、現代の闇そのものの比喩なのか、どん詰まりの状況を救う最後の手段の象徴なのか・・。
 (途中、テンポの変わらぬ台詞回しに睡魔が襲い、前半をだいぶ聞き漏らしたので把握しきれていないかも知れないが・・)

子どもたちは未来のように笑う

子どもたちは未来のように笑う

遊園地再生事業団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/09/03 (土) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

説明不要な存在であるはずの「子ども」に関するあれこれ。「回帰」への試み
遊園地再生、久々の観劇は三度目。抽象度の高い舞台というイメージが強かったが、今回は「意味が判る」会話、また朗読も。もっとも多様な場面の中には飛躍したシーンもあるが無駄に感じさせない。
 美術、演技いずれも、ある完成されたイメージへと緻密に作り上げる手腕は、今回も改めて認識。(使い勝手の悪い)アゴラ劇場に破綻やほころびの無い劇空間が出来ていたのも、才能だと思う。起用した俳優については外れがなく、「子ども」を巡る逸話の視点は、手垢モノでもありながら、観客を頷かせてしまうのは俳優自身の身体的魅力の成せる所、宮沢氏はそうしたアピール(役者自身の身体的・容姿的強みを発揮させる)も、周到に織り込んでズルイと思う部分もある。
 ただし「手垢」とは言え、正当な議論が「子ども」を巡ってはなされるべきであって、芝居はそのように説得しつつ、さほど説教臭さを感じさせない作品になったのも「丁寧さ」ゆえと言える。
様々なテキストの一部(子供に関する言及がある)を取り上げた、時折ふと挿入される朗読も面白く、興味深く、また感動的。朗読ピースの選定は、自作テキスト以上に難作業だったのではないか。

生物として思考以前の存在であったはずの「子ども」、またそれに関わる領域は今の社会状況では冷遇されている。
短期スパンの生活設計が、企業の推奨する所。
長期ローンが組める・・というのは長期スパンの人生設計と見えてさにあらず、「面倒は先延ばしにして短期スパンの人生を謳歌しましょう」・・当社はそれを支援します、という意味に殆ど近い。

スカラベ

スカラベ

風煉ダンス

立川市子ども未来センター 芝生広場(東京都)

2016/09/16 (金) ~ 2016/09/25 (日)公演終了

満足度★★★★

祝祭的
20年ぶりの再演とか。「まつろわぬ人々」が初風煉ダンス。昨年は惜しくも逃し、今回どうにか駆けつけた。様々な出演参加者が目につく。風煉ダンスという集団をよく知らないが、ある「価値」を求めてその事業を成そうとする主体に賛同し駆けつけている「感じ」が薫っている。今回の芝生広場に設営された客席及び舞台(広い!)は、一大事業と呼ぶにふさわしいかも知れないが、それだけではなさそうである。この「感じ」はテント劇や野外劇につき物のそれのようでもあるが、それだけでもなさそうである。 「まつろわぬ・・」にあった下から突き上げるようなある種の告発(昨年の「泥リア」も?)の様相がそのヒントかも知れない・・・これら全て想像(もっと調べて書けってか)。
 ハチャメチャな登場人物や場面が、自然である物語の構造にもなっているが、空間じたいも十分にその存在を許す雰囲気を保証し、途中雨なども降ってビニールの天井がパラパラと鳴ったりしたが、生演奏と声は(マイクも使っていたが)よく通って歯切れが良く、活力がある。
予告より上演時間が長いのは場面転換、また一部俳優の台詞の間延びか。というのも通常の舞台の二倍四方ある広さがこの芝居のポイント(動かなくても良い距離を敢えて移動しての芝居は笑える)で、前の場面や台詞を食えば1~4秒位稼げそうな箇所が幾つもあった。(これから詰まって行くだろうが)
珍妙な唄、切なげな唄もいい。登場する奇矯で奇天烈なキャラたちは、また見てみたくなる。
物語は、宗教的儀礼として成り立つような筋立てで、原初的で祝祭的(ゆえにハチャメチャが許容される)。
おそらく見た目以上に俳優は肉体を酷使しているだろう、「捧げる劇」の当然の姿として。
舞台に仕込む物理的な内容物に情熱を燃やす者(たち)の手作り感あふれる諸々も、芝居の温度を上げている。
自分も野原を走りたくなる芝居である。

魔法処女☆えるざ(30)

魔法処女☆えるざ(30)

劇団だるめしあん

王子小劇場(東京都)

2016/09/15 (木) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

女子演劇の愉しさ
「劇作家女子会!R」での短編が所見。観劇二作目で、<エロ・ポップ・ファンタジー路線>には脚本もさる事、女優河南由良の存在も大きいな、という今回の感想。
短編(前回)は一呼吸で書いたかと思わせるような、隙のない流れの良い台本だったところ、中・長編(今回)では・・・期待通り。流れの良い自然な場面配置で話を先へと押し進めていた。
ただ、短編にあった、現代の生を抉る痛快さは控えめとなり、主人公の「痛さ」(30にして処女)の一点に集約させ、その事をめぐっての挑戦と挫折、期待と落胆の紆余曲折を物語るドラマとなっている。落しどころは設けているが、ポップで楽しい→感動の領域へとドラマを進めているにしては、もう一掘りほしい気がする。「エロ楽しい」路線のほうに比重を置きたいなら、エロ的にももう一掘りほしくなる。
うまいだけにその「もう一つ何か」が欲しくなるのは、役者達が十分に立ち回っている分だけ(俳優として表現に到達しようとする苦悩が滲んでいない分だけ?)、薄味であるせいだろうか・・。

ネタバレBOX

30歳魔女(=処女)のえるざの一人称の視線で話は進行する。ジジ、じゃない飼い猫(名忘れ)が唯一全てを語れる対話相手(実際に話す)で、恋愛に関しては猫連中の方が良きアドバイザーであったりするが、一定の距離はあってやはりえるざの物語、となっている。そこで彼女に関わる人物たちの言動は、彼女にとってどういう意味を持ったか(どう見えたか)、の演技にとどまり、シンプルで明快な演技が判りやすい。ただしリアルからは離れ、彼女の視界の「向こう側」のリアルは推し量りにくい。
が、えるざの物語が力強く成立するなら、結果オーライである。
処女卒業(=恋愛)か魔法か、という二者択一は、結婚か仕事かの構図に似ている。人は子を産み育てるために生まれてくるのか?(そうだと言った瞬間、その資格から排除される者が数値として弾き出される。)
 彼女にとって魔法は便利な付加価値は持つが、人生にとっては負の価値である。そうであったのが、愛する者のために最後は空を飛んで見せる。このラストは彼女の人生にとっての解決だとは見えない、けれども、人のために使う「魔法」というものを見出したのだとしたら、価値の転換の到来を告げるラストであり、そこまでのものでなくとも、瞬間の輝きをみせる美しいラストだ。
 であるので、このシーンが「空を飛ぶ」事への根源的な意味、その感覚(世界が広がる幸福感)を示すものであったら・・・と思った。
(・・具体的には、冒頭でみせるコミカルな「飛ぶ」場面、これは背後の壇上で行うが、最後も同じく壇上に登り、猫もまたがる二人乗りで「横向き」に行なう。これを舞台中央・・前面か奥か・・で輝く照明の中、風を切って少女時代の表情をみせて終わりたいなぁ・・・と。実際の舞台では、とんびが前面で、えるざが背後。その姿をみて彼が悩みを払拭する(かつてのように・・)、となっている。がもし彼が中央で演じるのなら、えるざの姿を想像させるような極上の表情=見せ場!を演じてほしい)
・・・などとリクエストが出てしまうが、作り手はそこまでの感動を想定していないのかも?
ミラー

ミラー

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2016/09/09 (金) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

テキスト無し。演劇とは何?
何も無いところから作り上げた舞台。驚愕すべきは、その豊かさ、芸術性、そして依拠すべきテキストを奪われた分滲み出る俳優自身の魅力。
言うならばワークショップ発表の類とも言えるこの舞台、パレスチナから来日したイエスシアターの演出、俳優二名の1ヶ月の滞在期間中に、ひねり出し搾り出し練り上げ作られたそれは、穿ってみれば純粋演劇と名づけてみたくなる代物。「まがい物」等では全くない。
日常との地続きに演劇はある。

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