tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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見よ、飛行機の高く飛べるを

見よ、飛行機の高く飛べるを

劇団青年座

練馬文化センター(東京都)

2017/02/28 (火) ~ 2017/03/01 (水)公演終了

満足度★★★★

2014年に行なった再演の地方ツアー(神奈川、北海道)、東京にもお立ち寄りが一般対象で2ステージ。1日目の夜公演は受付体制悪く15分押しでの開演。
この戯曲は印象的だった(非の打ち所がない)ため、かなり期待を脹らませてしまったのだが、まず上々であった。青年座の新劇風演技が前半では「人物判別」の邪魔をしたものの、大きな舞台での表現としては勘所を押さえ、「つらい現実」(文字にすれば平板だが)が、リアルに押し寄せて来る怖さ、悔しさ、切なさ、哀しさがくっきりと描かれ、彼女らの内心に共感し思わず涙であった。
「ザ・空気」も「歌わせたい男たち」も、端からみれば滑稽だがその状況の渦中にあって右往左往し、四苦八苦する、彼らの中での必然性が、否応にも理解させられる。
自分自身にしてからがこの時代という状況の中で右往左往している存在であって、それはそれは哀しい光景なのだろう、とは思いたくないから思わないのだが、多分そうであるな。そう思った方が良いのだ。あまりに赤裸々に、最後には己の本当を話さないではいない彼女らの潔さの眩しさ、美しさが、そのままメッセージである作品。リアルさに裏打ちされた分、女学生の苦悩しながらの、既に敗北を実感しながらの行動さえ、自分らはやれてるの? そうマジに問うてしまう。ドラマの中の人物は私の実感を伴った記憶に刻まれてしまった訳である。

ピーピング・トム『ファーザー』

ピーピング・トム『ファーザー』

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2017/02/27 (月) ~ 2017/03/01 (水)公演終了

満足度★★★★★

以前映像で観た演劇的なダンス(確か「フォーレント」)の、物語性の深さ(つげ義春的、最近の演劇で言えばペニノ的)に惹かれて、初めて実物を観た。舞踊の身体の切れ、動きのバリエーションと物語性に、圧倒される。その部分を担っていた若い中国女性と韓国男性(母国語で喋るので判る)が狂気じみて凄みがある。また欧州顔の女性二人(一人はポルトガル語らしき言語)、ボーイっぽい役の白人男性が若手。ところが鋭利な踊り手以外にも、年齢層の高い男女が相当数、何かと登場して賑やかしている。老人ホームを舞台にした一夜の(あるいは数年に亘る)物語であった。
中心的な老人役は白人の二人で、もしや舞踊界の重鎮でもあるか。一人は巨漢、一人は顔が埋もれそうな白髪。「その他」の人達は実際の年齢はさほどでなさそうだがその特徴だ。ほぼアジア系の顔が揃っている。この人口構成は明白に意図的だと解釈できるが、舞台の飄然として思わせ振りな相貌に紛れて「違和感」の一つに収まり、ただ彼らがそこにいる事実が何かを物語るようで、ないようで。
だがこの「意図」らしきものは効いていて、さりげなくふいに訪れたラストも受け入れさせる。
そしてカーテンコールに並んだ晴れやかな顔たちを見て漸く、直前まで異界にどれだけ深く嵌まり込んでいたかに気付く。
最終場面では老人ホームの酷な現実があからさまに、静寂の中に呈示されるが、それまでの喧騒が倒置法のように私の中に復活し、酷薄な現実を乗り越えるべくいつしか補っている。自身がそのような「人間的」心の所作を行なった事によるのか、我に返れば、視覚が認識しているものとは違う、不思議な幸福感があった。
衝撃のパフォーマンスだ。
(殆んど何も説明していないに等しいが・・)

こしらえる

こしらえる

こまばアゴラ演劇学校“無隣館”

STスポット(神奈川県)

2017/02/22 (水) ~ 2017/02/26 (日)公演終了

満足度★★★★

トークでの作・演出の女性は見知った顔、STスポットでの公演に昨年出演もしていたと思うがそれはともかく・・
演劇という言語を使いこなす現代の若い才能だと思った。ドラマ構造、俳優の機能、そして場面を創出するため二つを繋ぐ何らかの理論が、あるやに思うが、最終的な形は俳優の仕事を介するため「理論」は厳密には実証され得ない・・と、説明してみる所のこの理論を、この人は感覚的に知悉し器用にこなして、演劇の理屈に叶った「形」を作ってみせたという事のように思う。この印象は、異質な演技モードによる場面が自然な移行で接続されていく作りに依る。才能にとってガチ勝負になるのは冒頭と最後に山縣氏が呟く散文(詩)の部分で、芝居全体を言葉で総括する構成とした結果と思うが結語に収まりづらい感あり。
だが奇想天外の展開を笑いに帰着させる事なく、内なる衝動の裏付けを与えた(リアルな行動線を選び取った)、抽象(シュール)と具象(リアル)の絶妙な配合は美味であった。

野方企画αひとり芝居vol.2

野方企画αひとり芝居vol.2

野方スタジオ

野方スタジオ(東京都)

2017/02/24 (金) ~ 2017/02/26 (日)公演終了

満足度★★★★

野方スタジオを何度目か久々に訪問。一人芝居だけにシンプルだが照明が効くと効かないとではこうも違う。。正面奥のテラスに出る掃出し窓一つが、白系の壁と似た色の布で隠れるだけで、「閉じた空間」がそこに出現していた。こういうスペースが公演一つ一つを経ながら熟して行くのを見るのは嬉しく、心温まる思い。またそんな気分にもさせる3人の一人芝居の熱演でもあった。
試演会のレベルを予想していたが、意想外に気合いのこもったパフォーマンスで、作、また演出とパンフに書かれていないのは全て自作という事か・・。(一人の「作」での参加を除き)自前の作品の持つ自由さ、多様さが、私には新鮮に目に染みた。vol.3も控えているという事でちょっと楽しみである(怖いもの見たさも半分)。

ウズベキスタンにムラムラする

ウズベキスタンにムラムラする

こまばアゴラ演劇学校“無隣館”

アトリエ春風舎(東京都)

2017/02/17 (金) ~ 2017/02/20 (月)公演終了

満足度★★★★

無隣館の若手企画が目白押しだが、今回は五反田団・宮部純子企画による自身と二人の女優の三人芝居。チラシとタイトルの適当感が、見事そのままの劇空間となり、ウズベキスタン云々のくだりもさして期待しなかったが一応台詞に入れて来たという感じ(スジナシかっ)、「芝居を作る」という話で入れ子ではあるがむしろ宮部女史自身の「現実」を軸として見れば特段ややこしくもなく、また無理矢理に「作品」に仕上げようとの意志もなく、劇の見方についての示唆が最初に呈示されているので戸惑う事もなく、面白く観た。
やはりと言うか、五反田団の芝居に通じる何か、それがこの芝居の動力となっている感じは、脱力の力という、言葉上矛盾したものの存在について考えさせる。
不思議と記憶に残りつづけそうな、観劇体験になった。

「シン・浅草ロミオ&ジュリエッタ」

「シン・浅草ロミオ&ジュリエッタ」

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2017/02/18 (土) ~ 2017/02/27 (月)公演終了

満足度★★★★

濃い。台詞の熱とスピード、アクション、歌い舞いを触媒に2時間20分に凝縮された壮大な幕末恋愛譚は、ファンタジー要素が薄めがちな劇の密度を煮詰めて充分濃い仕上がりだった。ドガドガ独自の世界(私の印象)は浅草東洋館という小屋の要素が多分に滲み込んで出来ていた、と今回気づく所あり。もっとデカイ箱で縦横に跳ね回りたい事だろうと、お馴染みの掛け声「浅草公会堂」の夢を洒落でなくまことのそれと聞いた。
シン・ロミジュリは沙翁の原作に依拠した翻案ではなく、確固とオリジナリティを持つストーリーにその要素が介入する、その案配が絶妙だ。遊廓吉原をある種の治外法権の地と設定し(史実の詳細は知らず)、世間の爪弾き者たちがなけなしの沽券を握りしめ苦悩し行動する、生命力の衝突といった様相に熱気が宿る。全開にエネルギッシュである所が唐十郎の系譜と言えば系譜。底冷えも甚だしい昨今、かくありたいと憧憬するにはあまりにフィクションだが、ドガドガ流ゲリラ戦をしかと見た。

『こんこん』 『跡』

『こんこん』 『跡』

世田谷シルク

さくらWORKS<関内>(神奈川県)

2017/02/11 (土) ~ 2017/02/19 (日)公演終了

満足度★★★★

無隣館時代の小品観劇以来、劇団本公演を観劇。対照的な作品の二本立て。堀川炎の揺らめく蝋燭(さわると熱い)のようなアイデアの火花は今なお。と言っても私が目にしたのは劇団公演を1回(演劇修行前ラストの?)と無隣館のと近年の2度だけなのだが・・「(あの人)らしい舞台」と感知させる匂いがある。

ネタバレBOX

最初の新作『跡』は台詞無し、音楽が流れる中で一人の男の一生が描かれ、無声映画を観る趣き。完成度高し。『こんこん』は狐の話だが、一人の男の想念(夢)の世界が関節の外れたハチャメチャな様相で展開する。こちらは台詞過多でうるさい。冒頭と最後の「現実の男」の登場で収まりがつくが、一生分生きるに等しい濃さのある夢が、ラストは現実に浸潤する予感で落としている。
二つの作品がうまく対を成したい所だが、「夢」の中の印象が(『跡』を観た後ではいっそう)現実のモードに近く、しかも破綻しかけた物語。夢だったはずがいつしか現実の話だと思って見て居る・・という感触が狙いでるならそれはそれで良いが、テキストがもっと練られたい。スッキリと収まりの良い話にするか、ナンセンスに寄せるか・・。ただ別役実の文章を読むと、不条理が成立する要件というのは厳密であるらしいが、線香花火の持続力(喩えが悪いか?)で個人的にはそちらを狙ってほしい。
ダークマスター東京公演

ダークマスター東京公演

庭劇団ペニノ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/02/01 (水) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/02/10 (金)

イメージを限りなくリアルに作りこみ、アゴラ劇場のステージの隅から隅まで、別世界となった。こだわりの度合いが尋常でない。そして、人がそこに入ると益々リアルに、場が生き生きとうねり出す。見事と言う他ない。「話」の着想と、それを徹底したリアリズムで作るこだわり、アトラクションに酔った。
この物語を前へ突き動かす原動力は、何か漠とした、原始的な感覚で捉える他ないものだ。それを感じようとする感覚と、目前で起きている現象への興味とが手を携えて、この観劇を強烈な体験にした。

ネタバレBOX

原作がある事を後で知ったが、ペニノの作品として、一見爽快な、だがやはり恐ろしげな、演劇世界が作られていた。『地獄谷温泉 無明の宿』の赤裸々さと、深層心理に訴えかけるような、要は不気味な(日常感覚の盲点を突かれたような)ストーリー性と趣向は、今作に引き継がれている。
疑問が残る部分(説明が省かれ、こちらで補うしかない部分)もあったが、精緻な建造物を思わせる演劇の形態にただ圧倒される。作り込まれているのは舞台装置だけでなく、人物も然り。「バカうま」という設定の料理を実際に作り(それも一皿二皿ではない)、役者が食う。
あるテーマが確実に流れているが、一つに収まる作品ではない。
あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]

あしたの魔女ョー[或いはRocky Macbeth]

開幕ペナントレース

小劇場 楽園(東京都)

2017/02/08 (水) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

約60分。テンション、ユニフォーム、体力粘力押しの語り口に笑える。一年前の凱旋公演(トラム)以来のお目見え、ペナントレース固有のワールドは小さな箱でも健在だ。一見脈絡を無視した(今回は話がMacbethだが抽出場面も三、四箇所と大胆)ナンセンスの域に接近しながらも、どこか整然とした端正さがある。例えばミジンコの眼差しで文学作品を眺める視点をいかに獲得するかの闘争を大声で戦い(そんな場面はないが)、バカ騒ぎの中に美の神との対話ででもあるかのような崇高さが滲む(ほめすぎか)。役者は大真面目に仕事を遂行し、決して自ら笑わない。ストイックなパフォーマンスは折り目正しく繰り広げられ、二手に分かれた客席と太柱の『楽園』で立ち会った初日、台詞は瞬間危うい所もあったが、許容範囲っしょ! 逆に、恐らくは突貫工事で仕上げただろう役者らの体力に目が向く。とにかく随所で笑え、この笑いは高度である。

東京オリンピック

東京オリンピック

東葛スポーツ

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/05 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルの題材に、期待を高めて観劇。お馴染みのラップ主体の東葛スタイルであったが、皆サングラスを掛けており(これも毎度の事。大物俳優がお忍びでお遊びのてい?)、照明も暗め、マイクを通すので、役者の身体は目の前でも感覚としては遠。ラップも(字幕を見る角度=座る場所にも拠るだろうが)耳ではあまり聞き取れず、字幕を追うがしばしば間に合わない。韻を踏んだ台詞が連想ゲームのように数珠つなぎ、「うまい」と思わせるフレーズに多々出会うが残念ながら記憶に残らない。(使いたかったのにな~)
さてオリンピック開幕式の形式を取り、あれこれをやる。最もおかしかったのは川﨑麻里子の前説的喋り。噛んで含めるテンポが良い。で、色々あったが全体としてどういうパフォーマンスだったか。今回はいまいち切れが、鈍い、という印象と、思想的?立場によってニュアンスが違いそうだという印象。ラップの駄洒落は効いていたが、言葉遊びの感を拭えず、時々チクリと毒針をきらめかせるかに見えるが、誹謗・皮肉を向ける矛先がどこか違うのではないかという感覚が残った。そこが引っかかると居心地が悪い。女の子らが「いい気に」毒舌吐いてる、それって言わされてる?自分の言葉で言ってる?いやいや、そりゃ、役者で雇われてんだから・・うむ。。
自分の志向とシンクロすれば何の問題もないのだろうが。
音響、選曲、映像処理の技は秀でている。
もしや「見せ方」一つで印象が随分変わるという事も。
自由な言論空間である事、そう感じられる事・・を目的化した仕事をぜひ。

命どぅ宝

命どぅ宝

劇団文化座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

ちから強い芝居だ。その強さに琴線を震わせられ続けた。何より沖縄口をよく身につけた。演技のタイプ、様式も「斬新」というわけではない。が、骨太とはこのような芝居を言うものだろうか。土の匂いが薫る。
本土復帰前、米軍支配の暴力性が露骨だった時代、沖縄・伊江島で米軍に接収された農地を巡って抵抗を続けた阿波根昌鴻と、政治を通して闘った瀬長亀次郎の二人の死闘と交流、そして実際に伊江島で何が起こっていたか・・。描かれているのは「事件」ではなく人物である。彼らはなぜ闘わざるを得なかったか、そして、どのように闘ったのか・・一つ一つの決断の中に「生き方」が刻まれている。うちなー口が見事に(台詞の言葉=意味以上に)心を語っていた。
作家の執念とともに、人物らの心に同期させられる。不当な支配、不平等な立場は今も変わっていないという現実。「終わらない歴史」の呻きが胸をノックして来て、困った。
どこまでも素朴で楽観的かつ沈着、また高き心をもって闘う彼らの姿勢に、泣けた。「人は喜ぶために生まれてくるのです。戦争をするためじゃない。」これ程シンプルでちから強い思想の言葉はない。重い史実に向かって堂々勝負した戯曲、衒いなく弛みなく、よく書いた。
「歴史の重み」に「依存」した芝居をこれまで何度もけなしたが、この戯曲はその例に当て嵌まらない。史実の「威光」に寄りかからず、人物を、その輝きを描き出している。

陥没

陥没

Bunkamura/キューブ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/02/04 (土) ~ 2017/02/26 (日)公演終了

満足度★★★★

ケラ作・演出舞台は三つ位、残念ながらヒットに未だ遭遇せず。いや遭遇しても私がそう思わないだけかもであるが(ウェルメイドなタッチが苦手という事は言える)。映像で観た二作の一つは毒が前面に出て悪くなかった。建造物のように芝居を堅固に構築する印象。昨年「8月の家族たち」を観劇したのはケラ氏の「演出のみの舞台」をみたかったからだが、確かな技であった。
だが今作、気になるのは芝居じたいの結語になる部分、芝居本体よりは、洒落や蛇足と見えなくもない部分だ。(またまた例によって歴史云々の話になりそうだがご勘弁を。)
昭和三部作という。・・歴史の描き方には二通りある。問題の根を掘り起こす視点と、讃うべき現在へのルーツを再発見・再構成する視点。このように区分すれば、という話だが、この舞台は後者になっている。単純に、前者は現在と過去に懐疑的で、後者は逆に肯定的、という違いに過ぎないが、単なるドラマのタイプの別を超えた根本的な違いがあると、私は思っている。
3時間に亘る作品をただこの区分で振り分けて批評するのは乱暴だが、重大な分岐がそこにある、と、多くの観客を動員する公演だけに申したくなる所なのである。(くだくだしい論議はネタバレへ)

ネタバレBOX

懐疑史観と肯定史観、「作品」の中では両者混在するのが通常だが、話の閉じ繰りが歴史秘話の開陳の体裁なら、後者のそれだと言える。『陥没』はそれに属する。
もちろんこの舞台は「歴史物語」ではなく、1964年の東京五輪開催に合わせたホテル開業の夢が今花開かんとする、準備段階のホテルの中で展開するドタバタ、ラブコメディだ。史実に触れているのは「東京五輪」くらいである。が、五輪を睨んだ「時」を歩んでいる設定は、強い。必然今の2020五輪を睨む現在にも重なってくるからである。
さて、冒頭の場面ではホテル建設の夢を語る男(山崎一)とその娘(小池栄子)、その許婚(井上芳雄)が慎ましく暖かな関係を見せている。が、父が倒れたとの知らせとともに暗転、タイトルロールが映像で流れ、本編に入った三年後では、娘小池は夫井上とは既に離婚し、冒頭場面の最後に「気持ち悪い」風情で登場した、父の会社に引き抜かれた有能な新社員(生瀬勝久)と小池はなんと再婚している。小池は取締役社長として現場を健気に仕切っており、従業員は他に事務員(緒川たまき)と、あとは生瀬。そして死んだ父の霊も天界から男女二名を伴って登場する(観客にしか見えない)。
ホテルのロビーで展開する話の中心は、小池の元夫・井上と、若い新しい恋人(松岡茉優)との婚約式が翌日、このホテルで開かれるというもので、井上の弟(瀬戸康史)と彼らが連れてきた友人?(山内圭哉)、井上の母(犬山犬子)、松岡の高校時代の教師(山西淳)などが出入りする。どういう経緯か逗留しているマジシャン(高橋惠子)、その秘書(だったと思う・近藤公園)、婚約者の女友達の歌手(趣里)も加わる。天界の同伴者二人は丸い電灯で表現され声のみ出演(誰かは不明)、やがて姿形を現すが、その場合はある登場人物の体を借りて行動し、乗り移られた方はその間の記憶をなくしているという案配。天界人の「七つ道具」惚れ薬が厄介な事態を引き起こし、カテゴリー的にはラブコメそのもの。
冒頭の伏線は、本編の歪んだ状況(生瀬が小池の夫である事、元夫も別の相手と婚約しようとしている事)を、超克すべき視点を残し、忘れた頃にその問題が浮上して解決へと動き出す。撒かれた伏線が最後には拾われ、あるべき形に収まる、完結したドラマになっている。
その構図を楽しめば良いという話ではあるが、やはりこの劇は「歴史」を落としどころにしている。東京五輪の前年に、こんな事があったとさ、無かった?無かったとは言えないさ、誰も見ていないんだから・・ま、そんなあれこれがあって、つまり日本はあの時代をくぐって、今という時代を迎える事ができたんだね。うん。なんか、感動だね。・・そういうオチで閉じられている。「日本」「歴史」の共有感が介在して成立するドラマのフォーマットを借りて、お客のご機嫌を窺う芝居に落ち着く訳なのだ。

知られた歴史の「裏話」的な語りとは、史実を「それ以外にありえなかったもの」と規定し、「実はその裏には・・」と寝物語に話すあのニュアンスがある。パロディは、パロる対象が堅固であるほどよく、権力が強大で悪どいほど面白い諷刺を生むのと同じ構造だ。
芝居はもっと複雑で多様な視点をぶちこむ事も可だが、芝居全体がどういう叙述となっているか、だ。芝居の序盤、世情を皮肉る台詞が吐かれるが、流れにそぐわず飲まれてしまう。
高度経済成長時代の「秘話」は、昭和の当時の風俗を散りばめながら、しかし人物らの感覚は現代に近く、「誰もが知る」(訳ではないがそんな風情の)歴史=「昭和」のキャンバスに遊ぶ時間である。
主語は時代。心温まった後味の理由は「現在の肯定」にある。芝居には毒もあったから、肯定された気にならない客も居たかも知れないが。。
歴史の「肯定」と書いたが、歴史を俯瞰し、それが必然であったという意味で史実が「確定」された時、肯定か否定かという論議のステージは通り越している。
運命論は、「それ以外に辿る道はなかった」のは宿命、即ち「必然」であって天の道理にかなっている、という叙述になる。複雑に絡み合ったものが解きほぐされ、収まるべき所に収まる物語じたいが「運命論」と言い換えて良いが、この話の中に人間の情熱や努力が無かったかと言えばそうでもなく、運命を「切り開こう」とする人間は描かれている。
ただ、小ぢんまりな世界での右往左往が、「感動」の次元に持ち上げられるには、やはり「歴史」という大きな物語の力が不可欠であった。肯定された「現在」は、日本という国、あるいは共同体のそれであり、観客はその一員に組み込まれて、等しく祝福に与るという寸法である。
永井愛の「時の物置」は60年安保の翌年、経済路線に舵を切り、生活の安定と「正しさの追及」(主に政治的次元)が齟齬を持ちながら同衾する事になった日本の、庶民レベルでの風景を描いた秀作だが、受験勉強に勤しむこましゃくれた高校男子にさらりとこう言わせている。「叶わぬ夢を追うより現実を愛した方がいい」
これを演劇、ドラマに置き換えると、一つの補助線になるだろう。
ドラマチックたる根拠を「歴史」そのものに置く叙述の方法。ドラマ作家と歴史の依存関係(「歴史」が擬人化して自らを肯定されたがっている、とみれば)が、私には欺瞞に感じられる。互いを称賛しあって付加価値を高めるのは、あながち商業面に限った話とは言えないが、損得勘定の匂いは燻る。
作劇の才能と集客力を持つ作り手だけに、そこに繊細であって欲しい願望がある。
渇えた人心には甘い蜜こそ栄養なのやも知れぬが、ナショナリズムという蜜(麻薬?)の扱いに芸術家は慎重であるべし。
たわけ者の血潮

たわけ者の血潮

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/02/04 (土)

良くも悪くも中津留の世界(・・とは如何にも渋い評の書出しだが)。独特の演劇である。議論のためのシーンを回してる感は最近の特徴だが、演劇的リアリティの踏み外し感は以前からだろう。
ただ以前はB級映画的展開の面白さがリアルをすっ飛ばしてたのに対し、今は一場面一テーマという議論劇の形態がドラマの流れを停滞させている。(この点民藝に書下ろした「篦棒」は一つの問題軸が最後まで通った骨格のしっかりしたドラマであった。)
俳優の演技の質にも関係がある。ある場面でテーマが単一化してしまう証拠に、俳優はその時点のテーマに埋没し、人物の感情が議論の帰芻にのみ左右され、全重心を依存した彼らは声を荒げて嘆いたり怒ったりする結果となる。
単一テーマへの埋没ぶりが、リアルの対極に感じられるのである。
人物の貫通行動を眺めてみると、とった行動を事後的に説明(弁明)している事が多い。
これら皆、俳優の力量に依拠する所大かも知れないが、単調に見える感情表出は演出の指定か、人物描写の綻びを埋める手段という事も。

恐らく中津留氏は人物を泳がせて台詞を引き出していると思うが、各場面がドラマ本線との距離にかかわらず、均等に丁寧なんである。
議論の中で生まれる珠のような言葉も、長い伏線あっての意表を突く場面展開も、全体の中でくすんでしまっては何とも勿体無い。

ネタバレBOX

ドラマトゥルギー的には父(市議)の変化と、そして息子の変化も欲しい。これがドラマの軸だ。大麻は一つのキーワードだがキーワードに過ぎない。祖母への無理解=悪をなした父母と、それを暴露する息子、という図式では足りない。父は折れるがその父にも事情があり正当性があった事をやはり息子は認める必要がある。
それには、大麻を全否定しないにしても、(現実的に考えて)自由に関する一つの可能性を仄めかす以上のものにはならない。大麻解禁を離党後の指針にするのは、洒落っ気であるべきだ。
芝居はリアルの次元に繋がっているのであり、大麻は確かに挑発的ではあるが、突き刺さって来ない。「自由な精神」を証かす「踏み絵」には、大麻はなり得ないからだ。芝居ではここに論理の飛躍がある。
祖母がそう思われて来た事故死でなく、自死だった(らしい)という男の暴露も、想定内だろう。その死に責任があった(らしい)夫婦は息子が知らせた「事実に驚く」のではなく、彼と彼女にとって祖母が何であったのか、に結び付いたリアクションが欲しい。実の娘に当たる妻の狂乱に等しい反応は、リアルを超えてわざとらしい(たとえ俳優が精一杯の心情を注いだのだとしても)。図式化された(概念としての)「罪」を想起させるにとどまってしまう事が、その何よりの証左だ。「自死」があったとしても、原因はドラマの表に出ていない何かがあったと示唆するので十分、「祖母の自死=(大麻に非寛容だった)夫婦の罪」という図式に嵌め込む演技は、不要に思われる。
・・いや、それだとドラマの起伏が形作られないではないか、と文句を言われるかも知れないが、「仄めかし」、あとは想像させる、方が良いと思う。
最後に見せる憲法読みのくだり、祖母が庭で亡くなった日に手にしていた「たわけ者」の台本に書かれた台詞を孫が読むシーンは秀逸。ただ、ここも一度で十分。二度目をやるなら一度目を上回る切り口をみせなきゃ、逆に肩透かし。最後だけに一層勿体なかったりしたが、この場面を頂点として、見入ってしまう場面が全編に続く(客席も水を打ったようである)。
関係ないが、中津留氏の喋りや様子からして、かなり体力と胆力のある人物のようだ。あの芝居の長さとリズムが全く苦でない人、と想像すると何か納得できる所もある。
リリオム

リリオム

ユマクトプロデュース

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2017/02/02 (木) ~ 2017/02/06 (月)公演終了

満足度★★★★

鑑賞日2017/02/03 (金)

愛らしい作品。古いハンガリーの戯曲だが、生き生きとした台詞に簡素な構成、独特の語り口がある。たまたま半年前に古本屋で見つけて名品発掘!と喜んでいたから嬉しい上演だった。ハンガリー民謡を取り入れた(と思われる)音楽と踊りなど、戯曲の世界に迫ろうとする意気込みを感じさせ、俳優の配置も悪くなかったが、何かがもう一つ欲しい思いが残った。泥臭くリアルに行って良い部分と、軽々と跳躍する部分と、その案配だろうか・・何か惜しかった。

ネタバレBOX

年寄の役も若手がやっており、若手公演の趣も。恐らくは、自分が舞台上でどうなってるのか、判っていないパターン(それでいい場合もあるが今回はどうだったろう)。この戯曲の難易度を高めている、ラストの微妙なシーンに求められる微妙な演技には、とても手が届かないように思える。瑞々しさは替えがたいが、その上を狙える作品だと思う。
ザ・空気

ザ・空気

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/01/20 (金) ~ 2017/02/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

鑑賞日2017/01/31 (火)

普段は順位など意識しないが、今年のベスト5だな(すなわち今は断トツの1位)と、頭で呟きながら客席の通路を歩いていた。若い女性が涙を拭っていた。妙齢の如何にも芝居を見慣れた女性は皮肉の一つも言えず、立ちしな隣の夫に「永井愛、さすが。・・」と口にするのが精一杯のように言っていた。
現実に今日本で見られる事態をはっきり感じられるという事が無ければ、つまり切実な、自分たちの問題だと感じられる下地がなければ、この感想は出てこないかも知れない。
劇場の中で完結せず、刺された矢が劇場を出ても疼く。

ハムレット

ハムレット

ラゾーナ川崎プラザソル

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2017/01/25 (水) ~ 2017/02/01 (水)公演終了

ハムレット舞台の初見は遅く、確か柿喰う客の女体シェイクスピア。以後KUNIOハムレット、新宿梁山泊版、そして今回という所。400年前の作品が、演劇芸術の革新の100年の間にも上演され、今尚上演され続ける驚異。近年見たハムレットはどれも、語り口が明快で、原作をよりよく「解りやすく」伝える工夫の感じられる舞台だったが、原作の普遍的な魅力とこれを現代に上演することの意味、について毎度考えさせられる。
自分が何度目かになる事もあるが、とても分かりやすいハムレットだった。今回の舞台は若い役者が力を存分に発揮し、押さえるべき所を押さえ、テキストが導くべき高みに達し得た舞台、と言えた。シェイクスピアの戯曲は伏線に不足があっても当該の場面、例えば妹の狂態、またその死を嘆くレアティーズの「嘆きの台詞」一つで、観客は彼の嘆きの深さを想像させられ、納得させられる、という面がある。言葉の持つ詩情が多くを語るという点、ギリシャの詩劇に通じる「感情の吐露」のカタルシスであるが、終始「激した」感情を放出し続ける人物ら(日常会話にさえ激情の下支えがある)の言葉に、重みと厚みを与えるのは俳優のやはり力量であるなと思う。それら全てが「伏線」となり、後後にずしずしと効いて来る。それが悲嘆であれ憤怒であれ、これを快しと受け止め感情移入するのが観劇の快楽である。
一方、「思わず乗せられる」ストーリーの構図には、優れて現代的(というか普遍的)テーマがねじ込まれている。ハムレットは叔父の謀反を(状況証拠ながら)知り、報復を為すべき立場にありながら、それに手を出しあぐねている。肉親の「情」は古今東西あれど、その肉親を裏切るのも情であれば、これを制する規範というものがあり、明文化されているか否かにかかわらずそれは法に等しい機能を果たす。近代法以前の法規範に詳しくはないが、天の道理に照らせば、ハムレットの葛藤は「本来外敵から守るべき肉親」が敵として現前した事の納得しがたさと、既に知ってしまった「無法」の事実を正す勇気を持てず立ちすくむ姿にある。
ちょうどそれは同日の昼に観た『ザ・空気』でドキュメント番組の改変の圧力に抗い切れず折れて行く人物達の姿に丸々重なって来る。相似形のドラマを見る感覚さえ覚えた。ハムレットが「悲劇」でありながらバッドエンドでないのは、「悪」と刺し違えて屍が積まれても真実が明るみに出、それを語り継ぐ者と、信のおける新たな王を迎えいれる所で終わっているからだ。
日本では「政府批判をする者」へのヤクザまがいのテロが起こり得てもその逆はありそうにない。この国をどう見れば良いのだろうか・・・
演劇公演を行える劇場としての佇まいを持ち始めた(杮落し当時とは随分風情が変わった)プラザソルを後にしながらそんな事を考えた。

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.8

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.8

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2017/01/26 (木) ~ 2017/01/29 (日)公演終了

満足度★★★★

日韓演劇交流事業としての定着が嬉しいこのリーディング企画は今回も刺激的だった。今年は「韓国→日本」の年、もう二年経ったという事か。。
翻訳計5作、上演3作。今回で8回(韓国開催は7回)を数え、韓日とも紹介戯曲は30~40に上らんとする訳である。日本から紹介された戯曲をみると鐘下辰男、宮沢章夫、松田正隆、坂手、野田、松尾スズキ、唐十郎、鄭義信、岡田利規、前川知大、マキノ、畑澤、本谷、前田司郎、佃、桑原、藤田貴大と同時代作品の上演、そして岸田、寺山、宮本研といった日本演劇史に記さるる作家の戯曲紹介もあり、そこから類推して向こうからの紹介戯曲が韓国でどう位置付けられているかを想像するのも面白い。
今回は3つの内2作を観賞。「若い軟膏」は、ほとんど緊急事態と言っていい状況にある人物らの土臭いドライな「日常」を描き出し、シリアスと喜劇の微妙な狭間で、笑いたいが笑えない貧困譚が力強く語られていた。
韓国社会への疑義が明白にあるが説教臭さは全くない。地の上を蠢く人間の様をただ観察する場所に観客を立たせ、しかしその場を離れる事が許されない、何か執拗な引きがある。演出はリーディング演出の仕事の多い関根信一。
「アメリカの怒れる父」は、若手だが秀作舞台の演出者として印象深く記憶していた大谷氏のを観ておきたく足を運んだが、リーディングの演出としては(題材も難しかったと思うが)もう一つと感じた舞台だった。
リーディングというジャンルについても考える所だが、台本を離した役者による、具象の多い舞台より、リーディングは自由度があるが「言葉」の抽象機能が否応なく発揮されてしまうのかも知れない。だから「身体」ベースで作る通常の舞台より、戯曲への大胆な解釈(不明さを一切許さないといった)に立つ必要があるのでは・・?などと考えてみた。「アメリカ・・」では例えばラスト、作家の結語になる文章(ト書?)が字幕で流される。それはそれで誠実な扱い方だと言えなくもない(テキストをテキストの次元で伝える)が、イスラム原理主義グループに息子を斬首された父を描く試みに「失敗した」とする文言は、無理にも「作品」本体に取り込むべきではなかったか。。作家の奥ゆかしさは主人公である父を希望の中に生きさせず、自殺の結末に導く(アフタートークより)。だが作者はこれを「失敗」とする事で、ある種のバランスを取ろうとしたと思われる。自殺は考え得る結末であり意外性もない。これによって「本体の話」を完結させるのでなく、少なくとも含みを持たせた自殺シーンに仕立てるか、あくまでこれが「試行」としてのフィクションである事を担保する、戯曲外の第三者を配する、などが個人的には欲しかった。誠に勝手な言い分だが。

シンポジウムでは、韓国で昨年起こった事件、当局による戯曲介入に抗議して行われた、光化門広場での不法占拠の「ブラックテント」設営と演劇公演が紹介されていた。
言論の自由を制しようとする動きはどの国にもあるが、健全な抵抗が起きるか否かは決定的な差異に思われる。そのテーマに鋭く迫った秀作「ザ・空気」(二兎社)を、この欄には相応しくないが強く推しておきたい。

世界

世界

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2017/01/14 (土) ~ 2017/01/28 (土)公演終了

満足度★★★★

コクーン進出赤堀雅秋作演出舞台第三弾。常連の大倉、鈴木を配しながら「大犯罪」の絡まない話で、リアル・ストレート勝負に好感が持てる舞台だった。上部に歩道橋、下が回転舞台で4場面。メインは自宅居間兼会社の待合場所、そしてスナック。またとある青年の自宅。内気な青年を巡るいささか酷な話と、親族経営の会社従業員と家族によるけだるい話の二つが並行し、接点を持つのは終盤だが、二つが繋がってもそれで世界がさほど広がる訳でもない。所詮その程度な「世界」に生き、死んで行く市井の人生たちへの讃歌。

音楽劇 メカニズム作戦

音楽劇 メカニズム作戦

公益社団法人日本劇団協議会

Space早稲田(東京都)

2017/01/13 (金) ~ 2017/01/29 (日)公演終了

満足度★★★★

宮本研の戯曲は硬いものしか読んでいない(舞台は未見)ので、これには驚いた。あみだくじで選ばれた4人の新組合幹部が大活躍(男3人と女1人)。彼らをサポートする長(今やレギュラーのこんにゃく座井村タカオ)が秀逸。「宇宙」を現状打開のキーワードに持ち出すところが半世紀前という時代を感じさせたが、劇全体は「今」に再現されたと言えるのは朝比奈尚行の音楽の功績が大きい。さすがと唸った。流山児演出は力みを顧みない演技が肌に合わないと感じる事も多いが、今回は総合点でマル。役者達も魅力的であった。

鯨よ!私の手に乗れ

鯨よ!私の手に乗れ

オフィス3〇〇

シアタートラム(東京都)

2017/01/18 (水) ~ 2017/02/05 (日)公演終了

満足度★★★★

リピーターとなる“価格帯”の劇団ではないが・・2度目の3○○は前回観たスズナリよりやや伸びやかなトラム。思いのほか早かった「再会」は再び渡辺えりのバイタリティに圧倒される観劇になった。
認知症の高齢女性を演じる名優たちが「等身大」に見えなくない妙なリアル感と、渡辺えり特有の「時空が飛ぶ」系の回転(展開より回転の語のイメージだ)が、絶妙の塩梅を作っていた(特に前半)。身も蓋もない台詞や小理屈がおかしく見ている間に「認知症」という概念との間に取り結んでいたネガティブな縛りが解かれていく。
中盤以降「物語」説明のモードが加わり、といってスッキリはせず混沌の度合いは増す。トラムでは狙いにくい終幕のカタルシス(さすがに屋台崩し的趣向をトラムでは・・)を敢えてなぞってしまうのが惜しかったが、波と寄せる演劇的叙情に心地よく浸り、脳内が刺激される1時間55分。
白が基調の舞台では、目まぐるしい中にも人物たちが赤裸々に、クリアに実在していて、嘘がつけない。
曲数はさほどなかったが歌の存在感はやはり大きく、シュールな中に突如、形を成した情感が胸をド突いてくれていた。

ネタバレBOX

文句を言えば、ラストに皆が眼差すもの(鯨)・・その視線の持つ「切実」は普遍的なものでなければならず、またそうある事は可能なはずで、しかしその僅かな時間に「塾生」たちが注いでいた目には切実さと憧憬に乏しく(私の目に入ったのは一人、二人ばかりだが)、これは淡白な終わりである事に加えて興ざめだった。唐突な終わりかも知れないし、鯨に何を仮託するかが戯曲に書かれていないかも知れないが、そこは頑張ってよ・・と。
だが不足感は実はその前段からあって、最後に登場人物たちが遠くに見る「鯨」とはすなわち、子供達を救う「幻」「伝説」の潜水艦(ブルーホエイル号)なのだが、老人劇団員たちが劇中という設定において「子供を救う」使命に奔走するところがその先に、潜水艦が子供たちを救出する場面を発見し、そのままラストへなだれ込んでしまう。手が空いてしまう。その手を「見送る手」に換えてしまうのではやはり物足りないのは人情か。
単なる劇の練習だったのが「現実」の鯨を見て驚く、という図式は、既に幻の中に生きる老人には通じない。従って「鯨」を発見するというくだりをラストに持ってくるなら、本来だともう一つ裏返す展開を加えたい所だが、あそこで収めるしか今回は無かったのかな・・と。
まあラストはともかくとして、、俳優は見せ場を逃さず一々憎い。

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