tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『熱海殺人事件』  vs.  『売春捜査官』

『熱海殺人事件』 vs. 『売春捜査官』

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2019/07/26 (金) ~ 2019/08/06 (火)公演終了

満足度★★★★

燐光群とつかこうへいの取り合せは以前沢野ひとしをやった時のような意外性からの成功のパターンか、失敗かのどちらか・・迷ったが好奇心には勝てず千秋楽を観た。
つかこうへい作品のエッセンスは、あるアマ劇団の気合いの入った舞台を一度観て辛うじて片鱗に触れたのみだが、それでも十分なインパクトがあり、当時の日本演劇の画期であった所以を了解した(つもり)。従って今回はつか作品の換骨奪胎が勿論狙いではなく、つか演劇という実体を掘り起こして現代という土俵に据える試みに大いに期待をした。
(続きは後程)

ネタバレBOX

つか劇団出身の麗女優木下智恵を招き入れての燐光群流・つか舞台への挑戦。意気込みを感じるが、確かに前半戦は「熱海殺人事件」の笑いのうねりを作っていた。取調べ刑事伝兵衛が事件の真相よりも彼なりの「犯罪らしさ」(ドラマ性)への拘りを優先し、本来の職務を逸脱して容疑者と被害者(死者)の人生に干渉していく。無名の彼ら同時代の多くの若者の冴えない日常が、取調室という閉鎖空間に居合せた同床異夢らのてんでな喋くりの中で、鎮魂の対象のように浮上する。
言葉の応酬で固定観念を平然と超える醍醐味は、以前アマ劇団で見た「熱海」にもあった。
一方坂手特有のテキストは中盤から登場する。元戯曲の「あの海に浮かんだヨット」を辺野古の海に浮かぶ「抗議船」へと半ば強引にスライドさせ、調書に書かれるべき被害者(愛子)と容疑者の青年とのデートをかっさらって抗議行動に愛子を青年が誘ったという事になった。その後観客としては忍耐の時間が流れるが、ラストは坂手一流の技で「つか」の文脈に合流させた。私の見た坂手台本の中でも、最も強引な部類に入りそうだ。ただ、木下女史の孤軍奮闘とは言わないが、「つか」世界に生きる彼女の姿を信じられた事で、舞台は閉じるを得たり、という具合であったように思う。

あまりに異質な二つの文脈に、芝居が引き裂かれた印象は拭えない。確かに沖縄は日本社会の不全を象徴する代表的トピックで、今日上演される全ての演劇の舞台の台本にこのトピックをを書き込めないものかと頭を悩ませるのが自然だ、位に思っているが・・・、少なくとも正論を吐いて「正義は我が方に有り」と溜飲を下げる台詞は、どうも「つか」文脈に馴染まない。余裕がなく感じるからだろうか。
一介の刑事が犯罪を人間ドラマに仕立てようとする偏執的行為には、どこか可愛げがあり、正義の彼岸に自身を置くことでいっぱしな硬質な言葉で政治を語るような分際でない、と卑下する態度があり、そうしながら真の価値を生み出す人間の本性に近いところに居る。・・人間の「欲求」への居直りというか、自覚にこそ「ほんたう」の次元からの変革は可能なのである、といった70~80年代の思潮が「つか」作品(「熱海殺人事件」しか知らないが)のベースにある。もちろん一つの解釈に閉じ込める必要はないのだが・・。
それでも「熱海殺人事件」だけあってエネルギッシュで爽快な舞台の後味であった。
月がとっても睨むから

月がとっても睨むから

Mrs.fictions

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2019/08/03 (土) ~ 2019/08/12 (月)公演終了

満足度★★★★

Mrs.fictionsの数少ない長編作、それも昨夏上演がお流れとなった新作の仕切り直し公演。どんな様相であろうか、若干尻込みしつつも興味が勝って近ごろ桟敷童子以外の利用も盛況のすみだパークスタジオへ赴いた。
昨夏の穴埋め企画で見た「花柄八景」(映像)、再演「伯爵のおるすばん」そして今回と、短い期間内に長編Mrs.舞台を立て続けに鑑賞する事に。
このユニット固有の持ち味それは実直さと丁寧さだろうか。笑いとシリアスいずれに関わらず、どちらかと言えば間を取る方を選ぶ場面の作りにその表れを見るのは単に錯覚だろうが、それが長所に思えているのは舞台の成功の所以だろう(もって回った言い方だが)。
書き手目線では、作者が力を注ぎ込んだ痕跡と成果を劇作の随所に見た。錯綜する多様なideaを一本の筋に織り上げ、言葉に息を通わせ、一つの物語世界を作り上げる。お蔵入りには惜しいと言わせるレベルに(当然ではあろうが)仕上げた。

ネタバレBOX

本編通じて笑いの仕込みに余念が無いがテーマじたいは重い(作者がテーマありきで書き始めたのかそれは判らないが)。つぶさに思い出せないのが悔しいが、捻りの効いた警句が三箇所ばかり、オッと思わせる台詞があった。ストーリーの展開もさる事ながら、人生を俯瞰させる気の効いた文句(を引き出すシーン)三つ目にして太鼓判をついてしまった。
罪の問題を巡って二人が向かい合うラストでの長いやり取りは、言葉が説明し得ない余白があり、二人の交流(演技)に委ねられた時間である。台詞の後ろに流れるコンテクストをリアルに辿る課題は恐らく公演の続く間に完全な形をみないだろう。が、そこに向かう探求を演劇的営為と思いたく、また探求の余地を与えるテキストとして読みたい願望も今作品には寄せてみたい。
涙目コント

涙目コント

MONO

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/08/01 (木) ~ 2019/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★

前川氏のみ既成作品、横山・平塚両氏が書き下し、短編を入れ構成した土田氏と合わせ、四名の作者による「屋上」で展開するドラマ。企画に惹かれて観た。
やや時代がかった6階建て雑居ビルのさほど広くないリアルな屋上が、星のホールに組まれ、互いに関連しない人物が出て系統の異なる芝居をやる。同じ装置を別物として使い回すのでなく、同じ(ような)ビル屋上(一般人が入れる設定)として使われており、その点では趣きのある写実的な装置が用意でき、それでいて多様なドラマが展開するので不思議な感覚である。

ネタバレBOX

私の初イキウメ(前川)が今回の作を含んだ短編集で、他がどういう話なのか楽しみであったが、程よくバラけていた。
平塚戯曲は別役実の域に近づいたかに思わせる台詞運びの巧さ、自然さ。横山作は既に別れが決まった男女の一方がギリギリ粘る中の微妙な変化を魅せる台詞劇。土田は構成に合わせて中短編にショートショートとうまく書き分け脂の乗った作家の仕事。最後にじんと来るコントという事だったが、土田作のラストにその場面が一瞬訪れたのみで、他はドライに笑える話だったのは私には良かった。
時代が見える話がいい。平塚作の人物の自己評価をめぐるやり取り、人間の奇異な思考の背後に社会が透けて見える。横山作には男女の力関係の崩れを最初見ていたが次第に一時代前の男の自意識が原因と後付けで見えて来る。「言わない」女に後から理由を言われる男が哀れでもあるが、演じる二人がうまくバランスを作っていた。切れ味では前川作だが「知らない世界がもしかしたら・・」というワクワクが持ち味。笑いで毒のないものは個人的に据わりが悪く、土田作がいまいちぐっと来ないのはウェルメイド志向なせいだろうか。
星の王子さま

星の王子さま

B機関

座・高円寺1(東京都)

2019/08/02 (金) ~ 2019/08/05 (月)公演終了

満足度★★★★

「~機関」の名に何処となく時代的な響きがあり、古手と思っていたが、2016年始動したばかりという。年一回公演を打ち、今年4回目、今の所全て寺山修司作品である。主宰の舞踏家・点滅(という名)自身は90年代からパフォーマーとして活動。不勉強だが寺山と舞踏を近しく感じるのは共にアングラの出自からか。(天井桟敷は確か見世物小屋の復権などと唱えていたような。白塗り裸体が妖しくうごめく隠微と、舞踏=身体性への遡及?とは形は似てるが果して...?)
劇団については全く知識0だったが、顔を知る役者の出演で足を運んだ。流山児・伊藤女史、我が神奈川の若い劇団より鈴木千晴。後で気づいたが名に覚えのある近童弐吉はガッツリ新宿梁山泊の俳優(ほぼ20年前中野の新アトリエで『愛の乞食/アリババ』をかぶりつきで観た朧気な記憶)。

さて出し物。開演前から白塗りが4体蠢いている。寺山戯曲に絡めた「双子」の逸話は主宰が絡めて翻案したらしい(となると相当な改稿だから違ってるかもだがパンフにそれっぽい記述)。舞踊プロパーと演技プロパーが別個で判り易く、ドラマ語りの生硬さが舞踊表現で緩和されている。最後の最後に飛び出る論理の混線、反則スレスレ(?)の処理は、「時代の産物」たる戯曲の限界を超えようとの試みだろうか(戯曲を知らないので何とも言えないが)・・それでも時代がかった印象を拭えない展開であったが、二女優のイノセントの佇まいがこの反則による空白を埋め、どうにかこうにかラストを迎えた。
試みは場合によっては大変刺激的になった可能性があるが、論理的タフさも詩情も、私の納得に達せず、疑問符を残した。
座高円寺のステージを埋める大装置と、壮大な音楽は酔わせるものあり。ちょいちょいエロあり(どちらの翻案か不明)。

ネタバレBOX

余談だが、近くに母娘連れがおり(恐らく小学低学年以下)、異形の星の王子さまをよく笑い、時折ささやき、エロ場面も笑い飛ばしていた。後半、娘を裏切って野生男に身を委ねる母の野獣のような「体位」には私が冷や汗をかいたが、賢い子らしく終演後この芝居を観た事の意義を母に語っているようであった(母を安心させようとの子心か)。私も安堵した一人。「星の王子さま」というから来てみたら・・。母親の思いは如何ばかりかと想像しなくもない。
『怪人二十面相』

『怪人二十面相』

サファリ・P

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/08/01 (木) ~ 2019/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★

観劇過去2作品のみだが期待を裏切らず、流麗な動きとドラマの文脈を示唆する華麗なアンサンブルが、目の前に展開していた。
が、アゴラの最上段最奥で条件悪くもあっただが、隣の迷惑客のために理解は半減、終演に向けての高揚も(あったなら)味わい損ねた。
怪人二十面相。恐らくは一編のストーリーを組み立てる形ではなく、江戸川乱歩のこのシリーズの何に着目し何を抽出して呈示するか。それを見極めるには一定密度の集中を要し、特に数少ない台詞の場面がその大きな手掛かりである。初日ゆえか役者たちは若干甘噛み気味もあって、台詞を聞き取るのに懸命だったのだが、、隣は相撲観戦でもするかのように落ち着きなく、注意を殺がれる事度々。初め音が気になり次に態度にムカつき、どのタイミングで空咳をかますかも読めて来るとお手上げであった(自分の神経を制御し難いのは免疫反応=花粉症に似て始末が悪い)。
これしきでは収まらないので後日詳述。

朝のライラック

朝のライラック

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場・NINAGAWA STUDIO(大稽古場)(埼玉県)

2019/07/18 (木) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

ITI主催の年末のリーディング企画「紛争地域から生まれた演劇」で紹介されている中東や第三世界の戯曲には興味津々だが、多忙な時期で中々行けない。さいたまネクストシアターでこれを舞台化する試みが今回で3回目。初年は知らず逃したが、昨年と今年の二度彩の国さいたま芸術劇場くんだりまで訪ねた。NINAGAWA STUDIOというから稽古場のような場所かと思いきや、立派な小劇場である。
演目は一昨年末のリーディングの一つ。惜しくも逃したという私的伏線と、演出家の名が後押しして遠方へ出張ったが、見応え十分。シリア内戦の一場面を切り取った激しいドラマだが、情緒を揺さぶるものがあり、客席に鼻水をすする音が聞こえていた。
この話には、芸術を愛しそれを生業とする若い夫婦と、内戦以降彼らに受難を強いる非寛容な原理主義の対の図式がはっきりあってその意味では判りやすい。
ISを想起させる勢力は一定距離を置いた存在であるが、直に夫婦に理不尽を迫るのは「長老」と呼ばれる地元の宗教者、言わば強者にすり寄り、あわよくば美人の人妻を我が物にしようと画策するのがいる一方、救いの手を差し伸べるのは夫の元教え子で現ISメンバー。決して単純でない状況をシンプルな構図に落とし込んだ。夫婦の最後の選択には異論もありそうだが、教え子の台詞を引き出し、一つのドラマに昇華させる組立であった。

戯曲に書かれた微妙なニュアンスを芝居にどの程度反映できたのかは判らないし、意外な光景から色々と想像が膨らむ余地もあった。何しろ我々はアラブ世界を知らない。単純図式化を拒絶するささやかなディテイルが、台詞の端々にあったようにも思う。

偉大なる生活の冒険

偉大なる生活の冒険

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2019/07/27 (土) ~ 2019/08/05 (月)公演終了

満足度★★★★

新年工場見学会以外で五反田団を私は観た事があっただろうか、、と思い出してみたがどうやら観てない。生きてるものはいないのか、は読んだだけで。いつだったかポツドールや三条会やで「S高原から」を競演する「ニセS高原から」という企画の事を熱っぽく語る知人から、五反田団なる脱力な劇団名を聞いたのが最初で、10年以上になりそうだ。
ドライな印象しかなかったのが、意外にもドラマチックな要素があったのには驚いた。偉大なる生活の冒険とは、働かない40歳男が最後に勇断を行なったあれだろうか、それともこういう生活自体を冒険と呼んでおるのだろうか。。
妹の死は師匠平田オリザ言う所の後出しじゃんけん嫌疑が濃厚だが、居候先の女と男の関係の「変化」を想像させる仕掛け。だがそれ以上展開が無く想像のフックにとどまる。現代口語劇を師匠に近いテイストで継承する一人と改めて認識した。

再演 マインドファクトリー~丸める者たち~

再演 マインドファクトリー~丸める者たち~

かわいいコンビニ店員 飯田さん

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2019/07/24 (水) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

ちらちら気になっていた劇団をこの機に観劇。名を知る出演者が橋渡しに。すみだパークスタジオの横広使い(桟敷童子に同じ)は正解で、客席からしっかり芝居に噛める。
言葉(論理)と物理的暴力が、非力な側の人間を支配するリアルな描写に心疼きながら、成り行きを見守った。終盤、抵抗から敗北へと辿る主人公だが、そこはまだ伏線の段階で、待ち受けるラストの最悪の図が浮かび、それはやめてくれと心中懇願する自分が居た。それだけ入り込んでいたようである。
オーラスの時間はリアルというより象徴的な描写で「思春期の一コマ」と括られるような処理だったが、生々しいのはいかにも学校っぽいモルタル壁の肌合いがこの空間の閉鎖性(さらにそれを擁する小さな町という閉鎖社会)を示し、十代に味わう成長への希求ゆえの無力感をフラッシュバックさせるものがあった。
体罰教師(野球部コーチ)は法に抵触しているため最後には捕まる運びとなるが、悪は滅びる式の結末でもなく水面下に広がる体罰の実態を告発するのでもなく、「この体験とは何なのか」「この実態とは何なのか」と舞台は問うて幕を下す。
若手、かどうかよくは知らないが、地に足のついた堂々たる舞台。

ネタバレBOX

劇団や劇団名の由来、主役青年や悪役教師はじめハマり過ぎな俳優陣と、触れたい部分は多々あれど割愛。内容について幾つか。(書き直し)
体罰教師の手管には、「力」の不均衡・非対称性の存在する場所に自然発生する以上の周到さがあり、社会的背景を思わせる。「なぜ俺がお前らを追い込むか判るか!」と教師は前置きして大義名分や目標に近づくための独自の理論を語る。言っている事はコロコロ変わるが、余白の残し方、崇高な目的のアピール、実にうまい。既に力関係が固まった中では、教師の理不尽な措置にも生徒は「きっと何か理由があるはず」と思わざるを得ない。主人公である忍耐力あるキャプテンは一定受け容れていくが、ヘタレ達は不平を言い「辞められない」状況を嘆きながら、如何にサボるかに走る。その中の一人はあり過ぎる隙を突かれて「みんな、もうこいつの相手しなくていいぞ」と暴言されるまでに「ハメられ」る。一方、一度も叱られた事がなくよくサボる約1名(登場しない)がおり、主人公は二度、この部員の事を教師に質問する。「やつは結果を出してる」と、それらしい回答でお茶を濁す教師。「結果」とは何か、どこまで結果を出せば叱られないのか、は示さない。冒頭語られる「ヒットを打って勇んでベンチに戻った瞬間教師に殴られた。」エピソードが示すように、常に体罰を加える教師はむしろプロセス重視だろう(でなければ体罰の理由が希薄になる)。理屈をつけるなら「お前ら結果を出せない選手のくせに、結果を出したからといって浮かれるな」。この矛盾した理屈を意外に日本人は受容してしまう所がある。判断を目上の者に丸投げする精神性は、政治がここまで私物化・売国化しても許してしまう事にはっきり表われている。
物理的暴力と暴言と、後に発覚する女生徒の性的奉仕という「甘い汁」を、力ある側に提供する「環境」は、一人教師の特質ではなく、町にとって(一度甲子園に出た)野球部が特別視されている事にも原因する。「町の人が悲しむ顔を見たいか。喜ばせて上げたいだろう」・・教師は大義名分を「利用」した側面があり、町はその窮状から野球部への偏愛を生み歪な構造を作ってしまった側面があったろう。どちらがより濃いか判別つかないが、この図式には大戦時の日本陸軍というこれ以上ないサンプルがある。「上官の命は天皇の命なり」という大義名分は、上官による下級兵士への無制限のいじめを常態化し(究極的には南方で軍令違反の罪を着せて処刑しその肉を食った)、そこでは本来の目的「戦に勝つ」など霧散していたに違いない。教師は「町のため」という大義名分を体罰や暴言という快感、後に発覚する女生徒の性的奉仕という快感を、享受できる構造を作り上げ、その地位に甘んじたに過ぎない。その僅かな部分で、生徒の事を「思っていた」という事はあるのかも知れない。野球部に異常な期待を寄せる町の状況を「非常時」と表現するなら、スパルタ教師は「どうにかして期待にこたえよう」とした、などという擁護もできそうな気がする。非常事態が許す無法は、権力の側に利する。それを行使できるのは物理的に力を持つ者だからで、どのタイミングで権力はこの手を使うか私は常に不安である。この芝居がリアルなディテイルに支えられている事は確かで、色んな意味で観る者にとって無縁ではない示唆的な芝居でもあった。
しだれ咲き サマーストーム

しだれ咲き サマーストーム

あやめ十八番

吉祥寺シアター(東京都)

2019/07/19 (金) ~ 2019/07/24 (水)公演終了

満足度★★★★

サンモールスタジオ公演以来2~3年振り二度目のあやめ十八番。自分が観るようなモンじゃないな、と思ったものだが、昨年の「ゲイシャパラソル」は題名にそそられ(観られず)、今回は吉祥寺シアターでやるというので何故だか観たくなった。
予想通り、ではないが期待を裏切らず、目を喜ばす美術が広がる。目一杯高さを利用して渡された橋、階段、舞台面からは闇に溶ける奥行があり、巨大な月の一部が覗いている。箱庭的なカタチに乗っかって、「江戸」のノリと気分が舞台上に持続する。もっとも「現代」要素も悪びれずに現れて共存し、なんちゃって感を祝祭的に高める生演奏の音曲と、江戸らしい啖呵や口上に導かれ芝居は進んで行く。
ストーリー自体は散漫である。最初からその兆しがあり、結句その通りであった、と思う。最終的に作者がどの人物にフォーカスしたかったかは判らないが、答えの一つは千秋楽終演後の挨拶で作者自身が披露した作品解釈=「3人の誰がオチを取るかの奪い合いのようなもの」。なるほど、焦点は定まらなくて自然な訳である。
各人物は互いを牽制しあう事で人間像や生涯像が棲み分けされ、トータルで群像を形成する。群像はその背後に何かを見せる。彼らがうごめく吉原という土地そして江戸という時代。「終わり」へ疾走する終末の気分が支配するのは、欲と金に追われる者共のはやる心のせいもあろうが、「江戸」がやがて終りを迎える時代区分、もっと言えば消え行く文化である事が影響するのだろう。この劇団が(本家の花組芝居も)なぜ「江戸」をやりたがるのか、の回答が芝居の作りににじみ出ており、ある種の憧憬や願いに観客も同意し、架空世界の構築に加担していく。どんな芝居もそうなのであるが、希薄なストーリーでも成立してしまう裏にはそういう事もあろう。
一回目の観劇ではそれ(ストーリー性の問題)がネックになったが、今回は「話」に入り込もうとせず冷静に筋を追いながら観た。ヘタに整理をつけようと言葉数が増えるより、ノリの持続を選った潔さ?を快く受け止めた次第。

ネタバレBOX

そう言えば中盤「昼飯(ひるまま)」=枝雀師匠の出囃子=の変奏が鳴ったのは嬉しかった。落語を「発見」した作者の欣喜雀躍に共鳴。
美しく青く

美しく青く

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/07/11 (木) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

赤堀新作戯曲inコクーンは何作目になるか(調べりゃ判るが)、年々こなれて来たように感じるのは「見慣れた」せいもあるかも知れない。きわどい人間像を炙り出しながらそれを包摂していく世界観が赤堀作品の一つの特徴で、ピンポイントなシチュエーション描写がツボだ。今回は「8年前」という台詞が仄めかす東北の、猿害に悩んでいるというから農業人口が一定数あるどこか。農業が生業でない主人公の住まいはマンションの一室のようであり、彼と同世代(アラフォー)や20代の若者が自警団を構成してもいる。主人公夫婦と妻の実母、自警団に同道している役所の男、飲み屋のママ、そこで働く地元の若い女性、農業を引退した頑固老人等等が個性的かつ普遍的な人間像を見せ、典型的でない言動の背後に今この瞬間を浮かび上らせていた。
五場面の大転換も何気に美味しい。

ネタバレBOX

地方の描写としては、限定させる要素を除き、やや引いた視線での描写に止めていた(毎回の事だが)。原発事故の影もあるが言明されず前面には出てこない。
だが主人公がリーダーとしてのめりこむ自警団が彼にとって何であるのか、というあたりに「地方」の病理を匂わせ、そこから「逃げるのだ」と東京に出ていく若い娘に言わせる窮状は、ひとり「猿」のみに由来せず、全体的な厳しい状況が彼らの生活を侵食している事を想像させる。工事半ばの「海が見えなくなる」防潮堤の高さも異形で痛々しいが、作者は客観的な「窮状」をそれ以上際立たせず、人間同士の間に生じたものを人間同士の力(自然治癒力?)で乗り越える風景を切り取っていた。
だが痛々しさは現実を言い当てており、リアルに裏づけられた光景として脳に像を残した。
芙蓉咲く路地のサーガ

芙蓉咲く路地のサーガ

椿組

新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/22 (月)公演終了

満足度★★★★

「毒おんな」(@スズナリ)以来の椿組観劇(@花園神社は2年振り)。汗まみれを覚悟して出掛けたが、夜になると気温は落ち、そのせいか劇場に近い集中度で芝居に入る事ができた。土着性を扱う中上文学の世界が、椿組「夏の野外劇」の祝祭性をも飲み込み、厚みのある芝居になっていた。
今回で4回目の野外劇体験だが、劇的高揚感は最も大きかった。サイドの自由席でも比較的前列の内寄りに陣取る事ができ、距離感は最適で台詞はよく聞こえ役者の表情も見えた。主役級の常連俳優の他、久々に見た佐藤銀次やこの所ご無沙汰の張ち切れの二女優、初見の役者も力を寄せ合い弾け合う一夏のお祭り公演である。

舞台の高揚は、劇作のうまさというより取り扱う対象、中上が描く土着的神秘性に由来したのだろう。中上健次の小説はどれも未読だが、映画では幾つか観た(『青春の殺人者』『火まつり』『千年の愉楽』等)。ザッツ中上と言えば二番目になるか。三番目のは近作で(高良健吾主演)、血にまつわるスキャンダラスな筋書は追えていたが空気感まではフィルムに捉えていない。殆ど説明のない(台詞も少ない)『火まつり』が忘れ難い。その他評論等で言及された中上論から作られた私的中上像を、見出そうと構えて芝居を観たが、正体不明の土着に踏み入れた作家と「向かい合う」のでなく、同じテーマに迫ろうとする作り手のベクトルを見出した事で、良しとした所がある。

舞台は紀州の新宮という地名が出てくるので南西部(中上所縁の熊野に近い)である。
母の手で育った路地の青年・秋幸(主人公)の実父は、かつて織田信長に協力し、後に対立して討死する浜村一族の末裔を自認する。秋幸にとって「悪」そのものである父の人物像は後半変化し、浜村一族の末裔としての自覚(?)へ向かうか否かという物語の線がある。一方、彼らが育ち様々な出来事が生起する「路地」は彼らの生活世界そのものであり歴史を形成しており、ところがこの路地を消失させる張本人が父であり、土地を取得して財を成す父は「皆は恨みを自分に向けるが、皆路地を出たいと思っている」と秋幸に言う。路地を愛した秋幸の葛藤は極まる。ところが旅から戻った秋幸が目撃したのは父の自死の瞬間であった・・筋を見て行くと相当な端折りがあり、小説ではどう書かれたのだろうと想像する時間がある(劇中ではナレーションで小説の文が読まれる)。あらゆる有機物質を分解する土壌のように猥雑さを許容する「路地」が、彼の屈折の源でありながらも包み込む母胎である、これを主題とすれば、父の浜村一族信仰は寄る辺に過ぎず、行動規範は近代の拡張主義のそれで、いずれ破綻を見るものである・・といった文明批評を読み取るのが作品の正しい読みだろうか。しかし舞台で見ると、織田信長に反旗を翻して戦わざるを得なかったという浜村一族の歴史紹介に始まり、その霊魂が超然と語ったりする。一方、秋幸の他にも二人の女を孕ませていたという父こそ路地の権化に思われ、浜村信仰に寄って行くべきは秋幸で、やがて父と対峙する、という図をなぞろうと劇を見ていた所もある。
が、そうした筋立ての問題はともかく、中上文学が発掘した太古に繋がる人間像に現代人である私は見入ってしまう。そこには理性がとらえがたい活力があり、逆に現代とは何なのかを捉え直す入口を示すようにも思われる。

命、ギガ長ス

命、ギガ長ス

東京成人演劇部

ザ・スズナリ(東京都)

2019/07/04 (木) ~ 2019/07/21 (日)公演終了

満足度★★★★

話題性のある公演だろうに「スズナリだし..」と理由なく油断していて気づけば完売。千穐楽を当日券に並んで観た。選挙結果に依っちゃ芝居にうつつを抜かす日々もそう永くはないぞ、と気もそぞろながら、敢えてそんな不安を拭ってくれそうもない公演を選ぶ天の邪鬼。
1時間前のスズナリには二十人余りの列だったが入れた(当日券21枚、残りはキャンセル待ち数名)。足は痛かったがベンチ席で役者2名を舐めるように見た。体調悪く序盤に何度か気を失ったが、奇妙でフシギなスズキワールドを噛み締めた。

ネタバレBOX

松尾スズキ(大人計画)作品と言えばここ数年の間にサイズ大の劇場で三、四作を遠目に観た。大人計画の出自である小劇場色を離れたエンタメ寄りな舞台に、毎回不全感を覚えていたのだが、今回は変った趣向ではあるものの松尾スズキ的世界が間近で味わえた。
学芸会仕立ての舞台で松尾氏と安藤玉恵それぞれの持ち味と演技術を動員したギャグがポロポロと零れ、反応素早く笑いに沸く会場に必ずしも共鳴しなかったが(何度か大笑いしたが)、やがて散らかされたネタが意外な仕方で回収され、底辺な人びととアッパーな人びとが底意地を晒しながらいつしか、彼らのしぶとさ、いじましさに光が当てられている。
社会的弱者という概念の相対化は松尾作品の一特徴とは言え、今これをやるべきかと一瞬疑問がよぎったが、観ていく内に底辺の者らの手練さとアッパーな者らの愚直さという転倒が絡みあい、転倒しても尊厳ある個への屈折した愛情が場に満ちていった。
実際は順序だたない構成や意表を突く展開で、何がどうなったか大部分記憶にないのだが。。
小劇場でやり続けるべき演劇人のツラを二人の中に見た。二弾、三弾まではやって欲しい。
『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「北限の猿」・・以前同じアゴラで観たはずだが印象は随分違う。横長に設えた客席からは役者の肌の具合も見える。「この森の奥」はこの作品の姉妹編(国際バージョン?)という所。「猿・類人猿」ウンチクがやはり面白く、3作品の中で最もバランスの良い脚本、そのせいか演者も伸び伸びと演じていると見受けた。割と核に据わる役に坊薗女史、これがダブルでもう一組では川隅女史、こちらも観てみたいが。
この作品を書いたきっかけが前年に出版された立花隆著『サル学の現在』という。
人間とは何なのか・・この問いを別角度から投げる類人猿研究の、20年後の現在は?

ハムレット

ハムレット

しあわせ学級崩壊

nagomix渋谷(東京都)

2019/07/17 (水) ~ 2019/07/17 (水)公演終了

満足度★★★★

昨年のいつだったか当日券を求めて(確か御徒町へ)赴いた際は満員で入れず、気になっていた同劇団を今回機会を得て観劇。都内音楽系ライブスペース3軒ハシゴ公演の最終会場渋谷に来た。1drink=500円で入場3000円。開演前からビートの効いたサンプリングサウンドが流れ、立った客が体を揺らし結構盛り上っている。ステージ上のテーブルで楽器の代わりに機材を操作するメインとサブの背後にはコラージュな映像も流れ、客はステージ側と対面してライブの様相である(一昔前に初入場して以来のクラブの雰囲気)。最初は戸惑いつつも耳と体を慣らし開演時刻を迎えると、ステージ上には先のパフォーマーに代って劇団主宰が立ち、女3+男1の役者陣から演技エリア(登場箇所)の説明があり「舞台」がステージでなく客が立っている平場である事を知らされる。客の顔も見え、僅か3~40人の中に見覚えある俳優や作家、劇評家もいた。
噂に違わぬ大音量の中のパフォーマンスはマイクを持った黒い四人(直前まで場内スタッフとして立ち働いていた)によって展開、音の摩擦熱の充満する空間に身を委ねる1時間が始まった。
台詞聞こえの難を超え、言葉と心情表現の「立ち方」が背景の音に拮抗する具合を味わう内に、同時空での出来事に同期し飲まれていく感覚がある。
(物語=ハムレットについては後日追記、のつもり)
そう言えば公演最終日は同会場21(日)18時だとか。

明日ー1945年8月8日・長崎

明日ー1945年8月8日・長崎

劇団青年座

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/17 (水)公演終了

満足度★★★★

KAAT地点の当日と迷った末こちらに決めた。青年座らしい、新劇色濃い役者たちの立ち回りだが、「明日」という作品が持つ独自の構造ゆえ、リアリズムな時間がファンタジックな色を帯びている(生の演奏が貢献)。この題材の舞台化の一着地点を認めた。

ネタバレBOX

「明日」と言えば私にはまず黒木和雄監督の映画。青年座の舞台はその二年前に作られていて、折節に上演されてきたらしい。映画は学生だった私に実に新鮮な感動を与えた。長崎の原爆が投下される前日のある人々の平凡な、また切実な日常の場面を切り取っている。原作者井上光晴は現地取材し実際にあった事を小説に反映しようとした、とある。つまり未曾有の破壊兵器使用という歴史事実あってのドラマである。この構造が独自だ。史実にまつわるその周辺の話というのはよくあるが、「明日」に描かれるのは戦時下の「非戦争」的日常であり、これに徹している事で「明日来るもの」の意味が示唆される。「明日来るもの」を告発するドラマでありながら、完全に手段化された庶民の風景がそれ自体で感動を誘うドラマになったのは音楽、時計、回転舞台といった演出と俳優の微妙なバランスにありそうだ。どこかいじると崩れそうな風もある。
外部の仕事が目にとまる小暮女史も本家で印象的な場面を作っていた。
『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「カガクするココロ」初観劇は桜美林大での学生発表(多分10年以上前)で、これが現代口語演劇初体験。時代に合った表現を見た気がしたと同時に、音楽がないストイックさ、娯楽性フィクション性を削ぎ落とし客に忍耐を強いている印象も。確かズンドコ節の替え歌を全員がアカペラで歌って幕が下り、ああこれが取って付けたようだが終劇間際のサインなのね、と納得。後に青年団バージョンを見て、学生版にはなかったディテイルのリアルに面白さを発見した。
さて今回はキャスト全てフランス人。学生の発表公演のために仏語バージョンに書き換えたリニューアル版だそうである。フランスだけに恋愛話や口説き文句が増えていたが、惚れた腫れた以外の内容はほぼ無く、日本語バージョンも実はそうだったか?と記憶をまさぐった。日本人は恋愛感情も関心もオブラートに包み、その苦しさがモチーフになる。オブラート(表層)部分すなわち建前の論理も日本では他者との関係性では重要になる。そういった文化的背景を仏語バージョンでは当然変えねばならなかったという事は想像できる。字幕の観劇では人物関係を把握するに至らず、伏線回収場面を部分的には楽しめた。若い俳優たちは内面から滲み出る個性を風貌に刻んでおり、制御された佇まいは青年団のそれだが、日本人俳優の場合「見せなくてもいい」と割り切って演じているように見えるのに対し、キャラが濃いせいか劇空間も単に記号的でなく熱が通ってみえる。
他の発見としてはフランス人なりの多様な個性、キャラが少しずつ見えてきた。ただそれが俳優が作ったキャラなのか、俳優自身が持つキャラなのか・・平田流では本人キャラだろうと推察。少なくとも恋愛に深く絡む人物には「見た目」の良いのが選ばれるのは「この森の奥」とも共通。ただしこのステロタイプな配役はもう一つ面白味に欠ける。

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

『その森の奥』『カガクするココロ』『北限の猿』

青年団国際演劇交流プロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★★

オリジナルではなく過去作の改作だという。「北限の猿」を以前観た感触を思い出した。
マダガスカルにある研究所に日韓仏の研究者が集まり猿・類人猿を研究している。日常的な挨拶くらいは出来るが踏み込んだ会話は携帯式の音声翻訳器で行い、観客には正面に左右2つのディスプレイに字幕が映される。ポータブル翻訳器は今なら実在しそうでもあるが、10年前なら「近未来」の設定だったろうか。いずれにせよこの研究所のような国際プロジェクトが例えば英語でなく、母国語による会話で実現し、様々な夾雑物を排除できる時代にはファンタジーでなくリアルベースで多文化の現場が芝居になる。それを実際に仏人役を仏人俳優が、韓国人役を韓国人俳優が日本人と演じる舞台がこのたびお目見えとなった。字幕が挟まる事の観劇上の障害はあるがどうにか大意は掴める。
その上で「お話」の良し悪し、好き嫌いはあるのだろうが、面白い芝居ではあった。核心は彼らの研究対象である類人猿に関する知見。我々人類と突き合わせ、比較する事で人間や人間社会と動物(の社会)との差異があやふやになってくる。会話は新たにやってきた女性研究者、マダガスカルの観光事業に研究所を組み込もうとする日本からの民間プロジェクト3名との接触を契機に展開される。作者のうまい設定だ。
ただ、話題は差別や侵略の歴史にも踏み入って行くが、そうした話題を「出す」事で溜飲を下げ、最後はみそぎを終えたかのようにスッキリ、虹を見に行こう!と切り替わるのには何やら座りが悪い。ほぼ出揃っていた出演者が最終的には「虹」を見るべく全て退場するのだが、最後に会話を閉じて(舞台の締めくくりを担って)出て行く女性3人組には殆ど虹を見たい欲求を感じない。誰も居なくなった空間を見せて幕、というパターンは平田オリザ作品に多いが、互いの理解を深める大事な会話が「授業時間」などで中断されるならまだしも、見なくていい「虹」のために切り上げられてしまう。
「芝居の都合」とは思いながらも、欲求に従うのでなく「付き合いでする行動」には日本の連れション的行動パターンの嫌疑がもたげる。フランス人なんだがなァ。

皿の裏

皿の裏

Rising Tiptoe

座・高円寺1(東京都)

2019/07/03 (水) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

最近まで名も知らなかったユニットだが、作演出美術音響その他何でもござれ、才媛ここに在りと10年以上も前から発信していただろうに気づかなかったとは。との自省を込めつつ、自ら完結させてしまう舞台はどんなものかと座高円寺を訪れた。劇作家協会プログラムだけに劇作家・宇吹萌作品上演という色彩が強いのか、どうかは判らないが作家の趣向が覗く舞台ではあった。再演に耐える現代的寓意に満ちた作品だが、舞台はオリジナルな手触りで、美術をはじめ俳優の使い方、音楽の使い方にも先人の薫陶を授かった堅実さを離れて独自の匂いがある。特に俳優の扱い=演技アプローチの統一性の面で「成長(改良)の余地」のある作り手、という印象が個人的には際立った。

MITUBATU

MITUBATU

なかないで、毒きのこちゃん

OFF OFFシアター(東京都)

2019/07/02 (火) ~ 2019/07/09 (火)公演終了

満足度★★★★

同劇団二度目の観劇。若い才能は公演と公演のインターバルも短く次から次の攻勢に追い付かず二、三やり過ごして漸く、かの卓袱台返しならぬ破壊芝居の記憶も生々しいOFFOFFへやってきた。どこで培ったのか前回爆発させたplay with audienceを今回もやらかして本編に入り、終いにもやって閉じ繰っていた。
意外や話はしっかり作られ、バラックの内部のような溜り場で寝起きする辺境人らの矜持を描き取っていた。話を構成するのはどこかで見たような設定や人物だが取り合わせに必然性と新鮮さがある。
メインステージ(下手側=溜り場)は狭いものの、上手のカラオケステージのような段(小屋の外)、客席の上手最上段(おとぼけ刑事=女上司と男部下の車中)、時には観客用出口も使い、自由度が高いというだけでなく理に適っている。
役者は皆達者で、笑い系に強いのが笑わずに堪えて(アウトローゆえに「笑っちゃう」生活実態ではあるのだが)、人物を生き通した末に滲み出る否定しがたい色というか香り、人物らしさを滲ませ、一つの絵ができていた。

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

存在しないが 存在可能な 楽器俳優のためのシナリオ

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/07/05 (金) ~ 2019/07/07 (日)公演終了

満足度★★★★

レパートリーシアター海外編2度目の観劇。
今回もポーランドから招聘した舞台だが、俳優ヤン・ペシェクが76年初演以来40年以上演じ続けてきたこの「一人芝居」は、完成度の高い、というより特筆すべき演目であり日葡国交100周年の今年3度目の来日が実現した。
劇場主催レパ公演だから入場1000円だが、上演時間の短さ(1時間)を差し引いても(他国語である事への配慮など諸々体裁を整えれば)最低でも3500円が相場だろうと無粋ながら考えた次第。

タイトルにある「楽器俳優」という単語が刺激的である。関心の向きはシアターXのサイトで確認の程。演者は老優とはいえ今年75歳とは思えない身のこなしと闊達さで「晦渋な演劇理論」(を喋っているらしいとはパンフにあった)を懇切に熱っぽく表情豊かに語りながら、舞台上に散在する物に目を留めてはそれと戯れる。凡そ「理論」と似つかない優れて具体的なモノとの交遊のバリエーションがツボである。
言語を介して生徒(大学の講義を想定すれば観客は学生)と対峙する態度と、物と対峙する態度はどうやら同じ次元にある。人類の始原を描いた映画に登場した猿のような「物」への純真な眼差しと、同じく演劇にも向けられた結果なのに違いないがこなれて難解化した理論とのギャップは激しく、それが同じ時空の中に区別なく配置されているので笑ってしまう。異国語じたい「難解」な訳だがこの言語世界に、「物」と遭遇する事で浮上する「反応する身体」が首を出す。だが本人の脳内では講義の時間は途切れなく繋がり延長している。

シナリオを書いたボグスワフ・シャフェル氏は1960年代に当時演劇を学んでいた19歳のヤン氏を見出し、この俳優に当て書きしたこの作品を10年後(74年)に渡したという。ヤン氏自身はこの作品を当初はつまらないと思ったとの事だが、あるアイデアと共に輝き始め、楽器俳優との概念が示す演劇=音楽(音で作品が構成される)との視点から多くを学んだという。

ネタバレBOX

初日は終演後ロビーで交流の時があり、通訳を介して会場との様々なやり取りがあった。日本初のパントマイマーと紹介された人、ヤン氏演出による日本での舞台の出演者などなど。ヤン氏とシアターX、日本との関わりの年月を垣間見る。会場には欧州系の人々の姿が相当数見られ、日本語ポーランド語どちらの発言にも反応していた。ポーランド人が日本に居ても不思議はないがこうしてみると新たな発見である。

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