tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

オフィスマウンテン

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

オフィスマウンテン観劇で6公演を曲がりなりに走破(冒頭見逃したのも含め)。
二度目のオフィスMは、山縣氏のユニット立ち上げレパ(2015)であるが、後でデータみれば初演は出演者4名となっている。今回のアゴラ公演は山縣氏単独のパフォーマンス。「一人芝居か・・1時間弱とは言え耐えられるかな」と一瞬過ぎった不安は杞憂、上演開始から左脳的理解を拒んだ動作と発語に引き込まれていた。予測を裏切りつつ、しかしある「流れ」を辿っている感じ。また「今初めてそこで起こったかのような」身体的反応は近代演劇が俳優に求めた高度な技術の範疇。
山縣太一という鍛えられた肉体と芸が鑑賞の対象と言って誤りでない。
昨年観た「ドッグマンノーライフ」の感想に私は「個々の役者の身体能力のバラツキが気になった(山縣氏がやれば見られる芸になる)」という趣旨の事を書いていた。それを裏付ける結果を見た気もするが、私としては共演舞台の道は手放さないでほしい(手放してないと思うが)。
身体動作の基調は主観的な「呟き」(勿論発語も含め)であるが、演じられる本人(だか別人)が職場の後輩二人を飲みに誘う(ノミニケーション)という具体的シーンも断片的に外側から入り込んでくるように現れるのが面白い。
現代の(演者自身の年齢である)アラフォーの生活風景、精神風景が表現者・山縣太一の身体から立ち上るのがこの上演のミソ。
私の近くの兄貴は一々ツボであるらしく山縣氏の発語に吹き出していた。私にも伝染しそうになったが(私も十分楽しんでいたが)、徒手で挑む姿勢と独特なポジティブ志向は「天性」(天然?)に属するものかな。氏が追求する方向性に何があるのか私には想像もつかないが。
今回の「競演者」である大谷能生氏の音楽は微妙に絡む距離感で、これも色彩を明確に出さず左脳的理解をさり気なくかわしていた。
呆気ないと言えば呆気なく終わる「演劇」だったが、山縣氏の身体負荷に同期していたのか緊張が解けた瞬間の快い疲労が見舞った。
ネタバレにて、後日「企画」総評を。

ネタバレBOX

以前書くと約した「総評」を律儀にも物そうと、ノープランで書き始めてみる。
「これは演劇ではない」なる刺激的タイトルの下、若手であり一定の実践経験もあり一定評価もある集合に属するアラサーからアラフォーまでの手合いが勢ぞろいの感。競演する当人もこの「集合」で括られる事が満更でも無いらしいと、様子を見ながら思う。孤独な戦いである。時に手を携え、互いを労い合う機会も、この「集合」を観客も認知し劇場につめかける事の上に初めて成り立つとすれば、つめかけた一人である自分がそれをした甲斐もあったというものだ。良かった良かった。
全くかぶる事のないパフォーマンスたちは、見事に「棲み分けた」というよりは、まだ十分に隙き間がある、棲む場所は探せばある、そう思わせる広がりを総体として見せた。アングラ以来演劇が求めた自由を、彼らも求め続けている、その系譜にある。そう思えば応援もしたくなる。そんな気持ちにさせた皆々方に心底より感謝したい。
28時01分

28時01分

演劇屋 モメラス

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

個人的には本企画の目玉、モメラス。ことごとく不都合な時間ばかりだったが、無理矢理どうにか観劇できた。才女ぶりを確認。みて面白いかどうかが全て、という基準で測れば、「オイシイ」場面が仕込まれた本作は高得点。
妊娠という特殊な身体状態にある女性の心象風景といった風にも見えるが、展開の着想、視角的イメージの着想ににんまりである。

幸福な島の誕生

幸福な島の誕生

カゲヤマ気象台

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

これは演劇ではないシリーズ後半1作目を観劇。既に3演目とも見終えた。
個別に評するのが難しい作品群で、何か言葉を添えようとすると身もフタも無い言葉が口をついて出そうになり、前衛の世界ではそれは逆に敗北、作品に勝ちを譲るだけの当て馬・・? それでも何か一言。
カゲヤマ気象台(作演出の名)のsons wo:は以前一度だけ目にしていて、1ステージ2演目あった一つのみを観たので完全とは言えないが、後半の演目は人物らの突飛な所作や扮装の比喩の対象を定めきれず、リフレインの多い舞台だった、とだけ。今回も「繰り返し」の時間が長く、この作り手の特徴とは早合点か。
「文章を読む」行為を微積分する新聞家と比べれば、順に登退場する三人(男二人女一人)はモノローグを発しているのかモノローグっぽい口調で誰かに喋っているのか(ダイアログ)、という風に見え、<演劇>を観るいつもの感覚で「関係性」を読み取ろうと、つい前傾姿勢になるのだったが。
各自、喋る「身体」は内向きで鬱屈し、「明朗な声で明確に感情や意志を伝える」のが演劇のベース、といった健康優良児な演劇イメージを拒絶する感じがなくもなく、また俳優三人が序盤に吐く言葉がちょっと思わせ振りでもあり、様式の解体と、再構築を期待させる出だしだった。
・・・が、断片でしかない個々の俳優が、舞台上に会して漸く始まるのは、鬱屈度が高くやや知的キャラを担う男による、他の二人への怪しげな誘導(イメージとしては洗脳)である。具体性のないぼんやりした言葉が、鬱屈からの悲壮味を伴う「もっともらしい」響きで二人に投げられ、精神修養らしきものを二人に施すという場面が後半延々と続く。
「・・して下さい」というオーダーに、二人はただ従順に上体を揺らし、腕をブラブラと上げる。「正解権」を完全に相手に手渡してしまった人間との非対称な光景はオウムの麻原を連想させ、その問題提起にも思われるが、不要にしつこく、だれる。同じような体験に観客を巻き込む意図があったか知れないが、そこだけ追求する意義には賛同しがたい。
示唆されていたのは、この鬱屈したタイプの青年がある一貫性を持つ事で主体性薄の他者を操る先導者にもなり得ること、誰しも悲喜劇の種をその内に持っていること、でもあるか。
いや、主題やメッセージを伝えるのが目的なら、むしろ既存の、正統な舞台様式を借りてでもやろうとするのが正しい。
消去法で残るのは、追求されているのは演劇の新たな「あり方」の提唱者となる事(の名誉)、であるか、表現したいものを表現するための最良の手法の模索、であるか。後者から前衛は生まれるとすれば、この表現主体の求めるところはまだ判らない。

ネタバレBOX

不規則な呟き。「演劇とは何か」
別役実なら「演劇」の条件を何と言ったか、いや恐らく断言めいた事を氏は書かない。氏が言う「風が吹いている」のは舞台が成立する「条件」ではなく、舞台の「実態」である。
では場・俳優・言葉の三要素・・いやいや無言劇がある。要素と言えば観客は外せないだろう、とか。しかし特殊な状況、客にではなくその場に居ない死者、あるいは西洋では神を観客と見なして芝居を上演するなんて事も・・ただその場合、観客は存在すると言える。
ポストドラマと言われるカテゴリーに思いを馳せる。この企画に呼ばれた6者とも、この範疇に入りそうだが、ドラマに飽き足らなくなった時代、あるいは状況とは何だろう。嘘っぽいのは嫌である。現実が斯様にシビアであるのに。せめて夢を見させてくれ・・・現実逃避。逃避した気にもならない逼迫した「現実」に直面する人間に、寄り添える演劇のあり方が、様々に模索されているのかも知れない。
ミュージカル「YOSHIKO」

ミュージカル「YOSHIKO」

ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ

紀伊國屋ホール(東京都)

2019/01/10 (木) ~ 2019/01/16 (水)公演終了

満足度★★★★

風変わりな舞台を観た。イッツフォーリーズ初観劇。小型ミュージカル(という言い方があるのか知らないが)をやってる集団の中では割とメジャー、という勝手な印象があるが(同カテゴリーにミュージカル座とか、、これも勝手な想像)、舞台はその定型と見る事もできるのに違いない。定型であるとすれば私にはマイナス要素が気になるのだが、それも引っ包めて興味深い舞台だった。

いずみたく作曲、という事は初演は随分古いだろう(・・・と最初書いたが、実は新作公演との事である。イッツフォーリーズを作った本人がいずみたくで、吉田さとるという同劇団所属作曲家が先達の曲を活用して新作脚本の楽曲を仕上げたらしい。)
演奏はナマ。紀伊國屋ホールの幅狭のステージに立てられたレビューショー用のプロセミアムの裏が演奏ブースで全貌は見えないがベース、ドラム、キーボード。ストリングスは録音ぽいがうまく合わせてナマっている。楽曲に新しさは感じないが古くはなく、骨格はしっかりしていて遊び心もある。
観劇のポイントは文化座の若手藤原章寛が「実家」を離れて客演。鵜山演出が数年前東園パラータでの「廃墟」公演で見出したのだろうこの俳優は、繊細で良心を疼かせる好青年のイメージにピタリで、今回も成程そういう役回りだがさらに大きな人物造形を求められ、応えていた。
鵜山氏もそうである所の新劇系のリアルにとって、ミュージカルという形式は表現上の乖離があるが、良い影響をもたらしたのではないか。

マイナス要素というのは、うまい歌い手は声もよく、従って台詞も明朗で感情が分かりやすいのだが、一般的表現になりやすい。要は声が大きく、はきはき言えばいいってもんじゃないだろう、と突っ込みたくなるタイプ。かみ砕いた親切な表現は観客をなめてるようだが実際のところ、痒い所に手が届く「商品」をいつしか欲する存在が消費者というやつで、そういう人達は「完成された芸」を見に行く。
歌のうまさはミュージカルの条件なのだろうが、先日観たオペラ「ロはロボットのロ」が音楽に軸足があったのに対し、こちらはやはり芝居が軸だと思える。だから、声が多少震えても、否そのほうが、ハンディを超えようする作用によって役の心の純化された部分が表出して胸を打つ(技術的にはそう単純ではないだろうが)。昨年の「マンザナ、わが町」の歌い手役が、うまく歌う技術(高速ビブラート)を持ちこむのが気になったのと同じ理由で、歌うまは、同じ調子が続くとよけい芝居に嘘臭さを漂わせる感じがする。難しい様式ではあるのだろう。
むろん芸術はより高みを目指した作為の産物で、歌手が楽曲の「魂」を表現しようとしてそうなるのだとすれば、これは楽曲の問題だろうか?
・・・そんな事を思いつつも芝居を大変興味深くみた。

岡田嘉子という、どこかで聞いたような歴史上の人物は、ソ連に渡った女優だ。舞台にも「ソヴィエト、この不思議な響き」といった歌詞の唄があり、(旧作なれば左翼臭と書いたが)大国が角突き合わす帝国主義時代に共産主義革命を遂げた国への、当時の人々の憧憬が書き込まれているが、冷戦以前にあった和製左翼文化も遠くなりにけり、今は素朴に歴史的関心の対象として浮かび上るものがある。
主人公の恋人となる元左翼演劇の演出家(藤原)が投獄されるような時代、「日本もいつかそうなるさ」と夢を語る台詞はあながち若者の浮かれ心が言わせた文句と退けきれない。できればもう一つ「現代」との接点を持ちたく思ったが、だとすればそれは何だったろう。。

トロンプ・ルイユ

トロンプ・ルイユ

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2019/01/09 (水) ~ 2019/01/14 (月)公演終了

満足度★★★★

2015年末pit北/区域の閉館公演「東京裁判」が初・パラドックス定数。この劇団と劇作について3年近くブー垂れてきた訳だ(まだ3年のような、もう3年のような)。
政治色の薄い題材では、罪がなくキメ台詞のうまい書き手である。本作は地方競馬が題材だが、競馬界にリアルに食い込もうとしたドラマというより、競馬界に舞台を借りたヒューマンドラマで、一般的なだけ観客の想像に委ねる部分が広い。
男優6名ともが人間と馬の両方を受け持ち、双方同じ比重でキャラも重ねているのが面白いが、暗転は少なく明るい中での照明変化のみで「馬場面」と「人場面」の移行を表し、関係性がほぼ把握できた後半では合図もなく人から馬、その逆と居ながらにして変化する様も滑らかだ。しかもストーリーは進展しており、役者それぞれ決まった人物と馬名を受け持つので、物語説明の順序も考えなくてはならない。さぞかし、、戯曲の神様は我に味方したと思い為したろうなどと作者の心を想像したほど「待たせ」の全くない進行だった。役者力も重要だが(特に馬の風情がよい)緻密な演出を印象づけた。
現代の精神風景を想起させるような台詞(差し馬のウィンザーレディの「人は俺みたいな馬に自分を重ねてんだ」といった台詞)も一瞬光るが、現実世界に着床させようとの意図までは恐らくなく(格差を容認する新自由主義的状況が抉られる事はなく)、むしろ中央競馬と地方競馬の「格差」や悪条件の中でも果敢に挑戦する勇姿にスポットを当て、精神的な成長と連帯(友情)といったハードボイルド路線の爽かなハッピーエンドに着地する。

自分は競馬の知識はあまりないが(付き合い程度に競馬新聞を覗くくらい)、舞台とされる「丸亀競馬場」や遠征先の尾道、横浜根岸での地方競馬開催は現在なく、これはフィクションと割り切る事ができた(瀬戸大橋が出たりするので遠い過去でもなく、また人物の言動からも競馬のバックヤードを厳密に描き出す意図はないとみえた)。
ただ、事実と架空の領域の塩梅は戯曲の「質」を左右する。実在の地名を使うのも良いが、中途半端だと同作者の歴史事件を扱った劇同様、「事実性が持つ箔」を、都合よく利用したと見られかねないだけ損である。
まあドラマの方も、馬の擬人化など私は許せるが(というよりそこがこの戯曲の魅力)、「馬は何も考えてない」と言い切る牧場主や、レース中に転倒した馬が再び巻き返すというアニメ的展開など諸々あるにはある。

が、私の中では、人と馬との精神的交流が「ある」との想定で書かれたこのドラマの終局に、「人間目線」の場面描写の中で人(調教師)が馬に語り掛ける場面、出来過ぎではあるがここに込められた包摂の心とでも言うべきものを私は受け止めた。レース馬は治らない負傷を被れば殺処分されるという、そのシーンもうまく組み込み、思えば人間同士の殺伐とした世界に動物同士の世界というもう一つの(オルナタティブ)視点が入る事により酷薄な世界が違う陰影をみせる。これが豊かさでありファンタジーの効用である、といったような事を言ったエンデの事を今思い出した。

秘境温泉名優ストリップ

秘境温泉名優ストリップ

猫のホテル

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/04/03 (火) ~ 2018/04/11 (水)公演終了

満足度★★★★

こういうのもあったなぁ・・思い出せるかな。
思い出せないが朧ろに断片が浮かび、あれかな、と思う。笑わせどころをクライマックスに設定した感じはなるほど落語家に提供したネタらしく、また喬太郎ネタらしくもあったな、と今思ったりするが、そのラストに持って行くなら不要な伏線が多いな、などと思った感じはぼんやり思い出した。
猫のホテルは3男優揃い踏み出演のためには(他にも居られるけれど)お祭り的・記念的公演にしなくちゃ集まれない、そんな時期?・・と想像。否、中村氏や市川氏が立つからお祭りになっちゃうのか。

Farewell(フェアウェル)

Farewell(フェアウェル)

松本紀保プロデュース

サンモールスタジオ(東京都)

2018/04/06 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

おっとこちらも・・思い出し投稿でござい。
山田百次の狂気走った役が、理の通った人物か一本外れた怖い人物像かのいずれかに定まり切れない所がもどかしかった・・という記憶。秀逸な本だったが主人公となる松本演じる役の「叫び」がもう一つ届かずもどかしかった・・というのも。
大変だったろうな、と想像され、松本プロデュースの「次」は難しそう・・という予感が裏切られる事を願いつつ。

Ten Commandments

Ten Commandments

ミナモザ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★

これもコメント忘れ・・思い出し投稿。
久々にミナモザ名義での瀬戸山美咲作品を鑑賞。米国で原子力開発に関わる事になった科学者の一人が残したTEN COMMANDMENTS(十戒)の文言を紹介するだけでも十分、含蓄がある内容。十戒の文は上方に映写され、舞台の方は台詞が少なく思わせぶり。
話は変わるがサブテレニアンの「ホット・パーティクル」を今年観られず惜しかった。
また話が飛ぶが先日のserial number「アトム・・」は、この科学者像を重ねられる人物がもし参入すれば全く成り立たなくなる戯曲であった。

衣衣 KINUGINU

衣衣 KINUGINU

metro

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2018/02/09 (金) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「二輪草」に続いてmetroの隠微な世界を味わった。ゴールデン劇場という狭いステージに小宇宙を作り込む「気概」をひしと感じたが、ストーリーを掴み損ねた(ように記憶する)。

続・時をかける少女

続・時をかける少女

2018「続・時をかける少女」製作委員会

東京グローブ座(東京都)

2018/02/07 (水) ~ 2018/02/14 (水)公演終了

満足度★★★★

そう言えば・・と思い出し投稿。実質ヨーロッパ企画、初観劇の心構え。初めてのグローブ座でもあって、物珍しげに、異空間を愉しむ。タイムトラベル物はかくあるべし、まずは笑い飛ばすべし、の心を貫き、劇場では滅多にみないタレント系?俳優も巧さで引っ張っている。して評価は。脚本上田氏の小気味よい頭脳派な突っ込み方を楽しんだ。圧倒された感はなかった、という感想は事前の期待の高さからか。

プライベート

プライベート

キュイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

「これは演劇ではない」は、彼らがつくる演劇<らしきもの>への思い切った命名である以上に、作り手を挑発するタイトルでもあるらしい。
「演劇ではない」に相応しく、ドラマの足場を外した奇妙な出し物だった。が、不思議に確かなものが流れていた。
「プライベート」とは(演出・橋本清氏の拘る所らしい)ドキュメントの手法と相性がよさそうである。ドキュメントは暴露の方法であり、プライベートは暴かれる対象。プライベートに関する個々人の考察が終演近くに語られ、明確な答えを導き出す事はないものの、縷々再現された場面が迫ろうとしていた次元と、プライベートの概念がシンクロしていた。
この舞台のコンテンツはまず架空のアフタートーク、そして稽古日程がホワイトボードに書かれその内の幾つかの稽古日の事、顔合わせ日の事、音楽担当の滝沢さんのライブの日の事、等等が暗転に挟まれて再現される。
俳優は男女四人ずつ八名。初日、作・綾門優季氏がいつになくこれからやろうとする創作について1時間喋り通していた事など、各人がそんな雰囲気だったろう普段顔で会話したり客席に向かって話す。稽古場の鍵を開ける人が誰それしか居なくて云々といった雑多なエピソードから場面作りやコンセプトに関わる話題が渾然一体と、「製作」日誌として綴られる。
・・ハタと気づくと、彼らは何の為の稽古をしているのか、稽古の過程を紹介する舞台、の為の稽古、とは一体何なのだ、という事がもちろん思考に上って来るのだが、そこは先述した綾門氏による舞台のコンセプトを喋り倒したエピソードが効いて、何かが目指され稽古が進められたのだろう事が、エピソードの具体性や普段着な俳優らの様子からも疑いえないと感じる(錯覚する?)のだ。
その綾門氏の話のキーワードは、「虚実」だったな、と誰かが話す。虚実の虚とは「あたかも実際にあったかのようで実は作者による創作」の意ではなく、「そのために皆が稽古に励んでいるはずの目標」じたいが虚、の意に違いない、と私はいつしか思って見ている。
ドキュメントな場面の形態の一形態として俳優がそこに居り、語られる事の事実性のリアルの力強さが、舞台を終始支配し、観る者は俳優個々のリアルな残像と共に、「流れた時間の確かさ」を持ち帰る。
綾門氏は「戯曲単体では成り立たない、上演してこそナンボの舞台」を何としても仕上げたいとの気負いで臨んだとパンフに記していたが、橋本氏の演出と相俟って、それは遂げられていた。

遺影

遺影

新聞家

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

予想した通り、肩透かしなステージ。以前STスポットでのダンサーとの共作で感じた印象は変わらず。(自分が観た回は)満席と相変わらず注目度を窺わせたが、うまく関心を引き付けている手練のほうが気になる。・・正直、こんな代物で人を釣るのだから、何かある。
本編が30分程度、残りは質疑応答。質疑では自ら語り始める事なく、まず質問を受けてやり取りを始める。これも手法だろう。
さり気なく謎を残し、次の機会に持ち越すこと・・志の輔が落語のマクラで伝授していた「人の関心を自分に繋ぎとめる方法」である(CD化したものだが演目を忘れた)。

このユニットというか作演出者の「売り」は文章である、という事が今回見えた。日本語の文法構造をうまく利用し、発し始めた言葉では何を言い始めたのかが判らず、「次」の言葉で文章の形が見える、というセンテンスの構成にしてある。気の利いた比喩が頭に付いていたりすると、頭は真っ白になるが、後続の単語により意味が現われた時、かかっていたストレスが弛緩する。
もっとも耳を凝らして聴いても声量が小さかったり、同音異義語を確定できず文意を掴めずに次に進むしかない所などは、「計算できてない」(あるいはごまかし)、と見えるが、それでも、ゆっくり感情を込めずに喋る事で、単発で発される言葉が如何に意味をなさず、組み合わさる事で意味を形作るかが分かる。戯曲というものも謎掛けと謎解きの織り物であって、最後に謎が解かれる快感が観劇の醍醐味だ、というタイプの人も多いはずだ。
ダイアローグではなく「書かれた文章を読む」という形式で「謎掛けの謎解き」を味わうのが新聞家、これが今のところの私の理解だ。

いずれにせよ、文章への自負が、それを「読む」行為のあり方を実験的に探究する、というあり方を可能にしているのだろうと推察した。身も蓋も無い事を言ってしまえば、パフォーマンスのあり方探求とはポーズであって作者自身はそのネタとなっている文章そのものが、「表現されたもの」であるので、形式云々の「周辺のこと」を幾ら突かれようと痛くも痒くもない、のではないだろうか。「書かれたこと」が核心なのだが、それは「探求」の側面によって触れられない領域となっている。二重生活ではないがそうやって行く内に何か「実的なるもの」との接続が為されるのかどうか・・その時の到来に賭けておられる。その試行錯誤に私はつき合う気は全くないが、「実的なるもの」を掴まえた暁には、注目してみよう。(恐らくそれは演劇という分野では無い気がする・・)

アトムが来た日

アトムが来た日

serial number(風琴工房改め)

ザ・スズナリ(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/29 (土)公演終了

満足度★★★★

年末の風琴工房には(私の風琴最高傑作が2016年末の「4センチメートル」)そもそも期待度が倍増し。とは言え今回はserial numberの第一弾、役者陣の変らなさに逆に本質的な転換の緩和ではないかとの想定もしつつ、評判の良い今作を観劇。
原発というテーマを扱う。集客は良いのだろうと思うが、口コミでどの程度増えただろうか。私の目には、原発再稼働に手をこまねいて何もできない後ろめたさを、現状容認説によって荷を軽くし、口が滑らかになったとて、せいぜい現状容認しつつ未来を語ろう・・程度の論しか出てこなかろう。なぜなら、再稼働路線を進む日本の現状と、乖離の小さい論を持つ事で現状容認して「しまっていた」自分を慰撫するだけに終わるから、である。それがこの劇の「効果」である・・と言えば極論に過ぎるだろうか。
議論を喚起するため・・大変よろしい。口が滑らかになる方向性が既に決まっている。現状と「あるべきあり方」との差の中で葛藤し、葛藤を乗り越える事でしか現状は変えられず、そのための議論を手助けする演劇が求められている・・・その意味では、今回の芝居のネタとなっている二つの物語は、己の「良心」に付着した反原発論を揺さぶり、それを捨てる事で個人の心の荷が軽くなる手助けはするが、「現状を変える」ための厳密な知識は残念ながら見いだせない・・というのが残念ながら私の結論だった。並行して叙述され、交互に描かれる二つの物語は、(1)1950年代の日本の原子力産業の誕生に貢献した男達の物語(「プロジェクトX ~不可能とされた原発誘致を成し遂げた男達~」とでも名づけられよう)、(2)2040年の日本・地下700メートルの核廃棄物貯蔵施設、兼日本唯一の原子力研究所。スズナリのステージに作られた杉山至の美術はその内壁で、未来っぽい間接照明で映える。この時代は、南海トラフ地震による浜岡原発のチェルノブイリ級事故(炉心溶融+核爆発)をきっかけに世界規模で原発廃止の動きがあった、その十数年後、原発再開への研究を打診しにやってきた政府役人と繰り広げられる議論劇。
プロジェクトXでは細かでマニアックな事実が殆ど上演時間稼ぎのためかと思ったほどに詰め込まれ、はっきり言って「原発事故」を引き起こした大元の基礎作りに貢献した人々を顕彰する内容が、戯画的でもなく批判的でもなく哀切にでもなく「ヒャッホー!」「やったぜ」のノリで描かれても、コメントのしようがない。「事故」の評価はその被害によるしかないが、この芝居では何と、放射能被害についての知見が、全く語られない。。それによって議論は分かれるし、そもそも未来の「浜岡事故」が福島を超える未曾有の事故であったのに、議論の中にその被害の現状が全く入って来ないのは、脚本上の限界というよりは、出発が間違っていたのではないか・・と思わざるを得ない。
もちろん詩森氏は単純な戯曲を書かない。近未来では一人のやや年輩の男が3・11の頃の自分の事を語る。原発に対する思いを語った言葉は、現在の私たちも記憶に残り、共感できる内容であり、唯一2018年現在の我々の代弁者と言える。そしてラストは「原発と付き合っていくしかない。その怖さを直視しながら・・・」という言葉とともに劇は閉じられる。この「怖さ」という言葉の中には諸々が含まれようが、しかし被害の具体的イメージを助ける情報がほぼ無く、一方原発容認への舵切りを促す言辞が殆どである事のアンバランスは最後だけでは覆いようがない、と見えた。
SF場面での議論が恣意的に選択された事実と推論=世界的規模の人口増加が見込まれる事、エネルギー枯渇問題、必要エネルギー量の試算(2058年には賄えなくなる)、等により、もはや原発再開を選ぶしかない・・と、こうなるのだが、現在世界の富の偏在と飢餓の常態化があり、既に人口増加は既成事実であり、エネルギーは平等に配分されていない現状はそこに重ねる事がなく、一方チャイナが(世界中が原発をやめたのに)一国だけ原発開発をし続けている、といった現在の国家エゴのイメージは重ねるというご都合主義で「論」は構築されていく。またインドネシアが石油を売らなくなる、という予測もまことしやかに語るが、この危機感の煽り方は戦前から変らぬ一国主義のそれであるし、そもそも石油依存問題はインドネシア国が何を選択するかの問題を超えている。日本がエネルギー源を持たないという意味でのリスクは、ウランも同様であるし、それを解決するための高速増殖炉がナトリウムという扱い難い物質を必要とするため、だけではないがとても実現しそうにない代物で(プルトニウム生成のメカニズムがなければ電力会社の核廃棄物が資産として計上されないため稼働を前提として存在させ続けた事は周知)、しかし芝居ではこの存在をまともに取り上げ、ナトリウムの問題を克服すれば道が開ける、としているだけでなく、この「もんじゅ」の成功如何にエネルギー自給率は掛かっている事になる訳なのだ。国際的な不和を想定したエネルギー自給率確保の問題設定は資源のない日本には無理筋であって、他国との安全保障の関係構築が(現在もだが米国一辺倒がリスクを高めていると指摘されている)必須なのだが、その視点は「インドネシアがどうの」という如何にも偏狭外交のネタで曇り、科学者たる者が政治家の口車にまんまと乗せられて行く。
・・・何度も反芻したが、この「反語的」内容のドラマは、「こうなってはいけない」例として鑑賞するものだと、そう処理するのが正しい着地点だが、どうもそうではないようなのである。
観客の知的度数を甘くみた、「どういうドラマかは判るようになってございます」という約束に違わぬ内容だ。

ネバーマインド

ネバーマインド

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

ヌトミック、ちゃんと観た初めての機会であった。正月お楽しみ公演の趣、あるいはこれがスタンダードか。三部構成、第二部にゲスト参加あり。独特だが、肉体駆使、世の非対称な力関係という毒をまぶし、「パフォーマンスの為の」との要素で舞台芸術をいじる側面も。
「これは演劇ではない」と題された企画に選ばれた栄誉?に十分応えつつも、面白がるが勝ちとばかりやりたい事やってるのが良く、音楽要素が濃いのも好みである。
この日は爆弾持ちのゲストがまんまと爆弾を落としたが、ハプニングさえ計算に入れたよう、コーナーを仕切った俳優2名に功労賞。エンタメ部門から観劇開始した本企画、この後も楽しみ。

ネタバレBOX

第三部は楽器演奏、指揮者付き。演奏ネタのコント。第二部の終わり、ゲストに「○○さん選んで下さい、過去それとも未来」と去り際に訊けば、「未来」との回答、「では」と演奏されたのはバックトゥザフューチャーのテーマ(「過去」と答えても同じ曲だろう、過去と未来を行き来する映画なので)。ギター、サックス、アコーデオンの三人と、長い指揮棒を持った指揮者。演奏が始まると、演奏者のとちりを発見した指揮者が指揮棒を相手に突きつけて睨み、中断。失敗すると何度も中断される。実は第一部のアレンジ版である。第一部では指揮者に当たる女が長い棒を床にコンコンと左右に叩き、それに合わせて棒をよけて左右に跳ぶ者、バスケボールをドリブルする者、縄跳びをする者が、失敗するまでカウントを進める。10クリアすればその数は保存され、先へ進むが、前進しているようできりがない。失敗のたびに「指揮者」は「ネバーマインド」と言い、三人の選手は種目を入れ替わる。一回失敗すれば「ネバー」が一つ増え、中盤ではネバネバネバネバネバネバネバネバネバネバネバーマインド、といった具合。最終的にはネバーは30近く、カウントは110台まで到達。厭々やっているのが見え見えな男二人、粛々と続ける女一人、指揮者も女。男二人は最後には自棄になり「どんなときも」を歌い叫びながらぐるぐる回るが、競技は続く。反抗に疲れた男らも結局は世の中の仕組みは変わらぬと諦め、元の鞘。
第二部はゲスト(この日は地蔵中毒・大谷皿屋敷氏)に5ラウンドの質問コーナー、という名の試験を実施。1ラウンドごとに3つの質問だがこれが挑発的で、例えば「中学生が茶髪、あり?なし?」、「あり」と答えると、質問読み役の女性は「ネバーマインド」、つまり不正解だと告げる。正解だと拍手をする。正解だからどうだ、不正解だからどうだという批評以前に、正解をしなければそのラウンドの最初の質問に戻るというシステム。自論に拘っていると次に行けずお客をいら立たせてしまう、という狭間に立たされ、ゲストは客席を見る。場の潤滑油として男性進行役がうまく立ち回るが、5ラウンド最後の問題は、某ラジオ局を権力の手先と歌うタイマーズの生放送画像で、これを認める回答を「ネバーマインド」と女性進行役は拒否し、ゲストは切れる。
第一部も、第二部も、面従腹背と反抗の要素が共通のモチーフ。第三部もうるさい指揮者に対し、演奏者が「どう反抗してやろうか」と考え小さな抵抗をやり始めるのが面白く、下手側にミキサー二台で陣取るエフェクト担当もドラム音を入れたりと噛んでみたり。やがて指揮者が自分もトチリをやらかして突っ込まれ、演奏を終えると退散。すると、「本当はこれがやりたかった」とばかり、ギターがエフェクターをオンにしじゃら~んと鳴らす。エフェクト担当の女性がベースを持って立ち、ニルヴァーナのアノ曲がアコーデオンとサックス、低い女性ヴォーカル(先の指揮者)という構成でなかなかいける。反抗的態度からの移行でパンク=異議申し立てと連想させ、微妙にパロディ色も滲ませるが、音楽センスに裏打ちされた「笑い」は強し。
演奏された曲の収録アルバムのタイトルが「NEVER MIND」だそうである。
4.48 PSYCHOSIS 2018-2020

4.48 PSYCHOSIS 2018-2020

川口智子

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2018/12/25 (火) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★

昨年始めのW.S.&公演プログラムで上演された「サイコシス」の再演。同じく若葉町wharfにて。上演後トークは長島確氏と演出川口智子氏、進行にもう1名。
今回座った場所は初演とだいぶ違った角度になったが、印象はあまり変らず、ただ二箇所で流された映像が初演時にあったか否か定かでなし。
会場は壁一枚を隔てた道路に沿って辺が長い長方形で、内壁は白く、天井が高いぶん見た目より容積があるせいか心地よい残響がする。角の小さな入口は透明ガラスで、開演後カーテン1枚を引いて外界と遮断する。
通りから遠い側に横長の雛壇型座席(1列約10名として3段で30名余、この日は満席)に座ると、窓枠のはまった広い壁と対峙し、その見えない向こう側からのノイズや他者の関心という干渉を懸念させながら、人が不在のステージが観客の注意を静かに引き出している。横長のステージには直方体を横に並べた白い台の上に椅子、上手上方に上から吊られた赤い窓枠。飄然と滝本直子が登場し、腰掛けると暫しの間、台本に目を落としたり、遅れてきた客に視線をやったり。最後の客が座席に収まった後、入口扉にカーテンが引かれ、さらに待つ。客席背後の2階部分から恐らく照明担当だろう、きっかけを見ようとしたか、下に居る音響担当がなかなかきっかけを出さないのを怪訝に思ったか、顔を出す。と、おもむろに録音された女性の声が流れ、素早く照明が変わった(という確か流れだったと思う)。
このリーディング公演はいずれ本格的な舞台へ発展するとの事だが、ワークインプログレスとしての一定の方向性の明示と作品としての完結が見いだせたか、というあたりである。
作品としての完結が目指されたのは(有料公演なら当然と言えるか)確かだが、「本作品が採るべき相応しい形はオペラ」、との川口氏の言には(オペラの定義にまで話は及ばなかったが)かなりの距離を覚えるのは正直な所。その道程を訊ねたい衝動に駆られたが、むしろ長い製作プロジェクトの途上で時折我々を楽しませてくれると有難い、位に構えて気長に待とう。

グッド・バイ

グッド・バイ

地点

吉祥寺シアター(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★

地点の年末公演は初めてか・・年の瀬の忙しない時季、その陰で無様に死地へ赴いた男を思い出し、あっけらかんと追悼してみるという試みが身体に殆ど抵抗なく入って来た。「あれ?」と違和感が走る事が無い、という事くらいしか、その完成度?を挙証する術が見つからない地点の毎回のパフォーマンスだが、アイデアの使い回しが無い(私が知らないだけかもだが)というのも、期待値を高めている一つだ。
音楽は使いようで、下手をすれば演劇の方が食われてしまうが、空間現代との今回の仕事では拮抗していた。
グッ・・ド・・バイ、グッド・バイ。7人が「グッ」「ド」「バイ」の三つを7名の俳優3組で恒常的に受け持ち、ギターのカッティングに乗せて威勢良く発する。出だしではこの繰り返しが長く、上演時間の短さを思い「時間調整か」と意地悪い考えがつい過ぎったが、程なく、巻き込まれた。太宰の言葉が新たに加わり、レイヤーが一枚、二枚と重ねられる。音楽の景色の変化も幾箇所かある。時間を厳密に刻む音楽の上に、歌唱と同じように台詞を発するのが、耳に快感である。
さて、既成戯曲(古典)や松原俊太郎の新作戯曲をこれまでやってきたのを、今回は非戯曲の舞台化に挑戦した。太宰の言葉のコラージュとすれば、出典はあり、大きな違いは無いかも知れないが、何を芝居の結語とするかは三浦基氏の専権事項である。最後のあたりでその意図らしきものがふと見えた気がしたのだが、よく覚えていない。太宰という「歴史」の一コマを消し去る事はできない、我々はこれを超えて行くしかない・・的なものだったか、一人の男ありき、大いなる事業を成せり・・的まとめだったか。結びはやや陳腐に思えたような記憶があるが、それよりこの舞台、あまりに知られた作家の仕事と、他に例がないほどよく知られたプライベートをあげつらい、笑う事の許される太宰治という存在を、今までに無い形で語り、茶化し、その事で愛着を伝えた出し物だったと言える。終演したばかりの役者が達成感のような表情を浮かべていたのは、楽日のためか。難易度も高かったろう。
常に中心的役者である安部聡子の不思議な存在感は、「拮抗する発語」の勘所を押え、はっきり言ってライブを見に行った客が良い演奏に「いえーい!」と叫んでるに等しい声のノリなのだが、「落ちない」声・言葉を出すための「心」が見える。このあり方が、舞台上のドラマ性を高めるのをどう理解すれば良いのか。やる側でない私には深い謎の一つだ。

財産没収

財産没収

サファリ・P

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/23 (日)公演終了

満足度★★★★

何か書くには情報が少なく、演出意図を取り違えそうだが、、以前観た同演目の上演(それも独特な演出だったが)では確か男女の二人芝居で、死んだ姉の事をやたら語る妹の中に姉への偏愛や憧憬や憎悪やらが不分明に渦巻いて殆ど姉と同じ道を辿りそうな危うさを感じさせ、実はこの妹が語る姉というのは自分の事ではないかと思えて来たり・・その「他者」の言葉を聞く青年(少年?)の身体に観客として同化して行くような、そんな芝居だったのを思い出しつつ、かなり大胆な演出的切り込みをしているらしいP・サファリの三人舞台が意味深でスタイリッシュで猥雑な残影を落として行くのを眺めていた。
高さの違う電灯が天井から三つ吊され(人の腰あたりのもある)、他にコードが下まで届いて床に照明が置かれたのもあり、その縦のコードに真っ赤な帯が結わえ付けられ斜めの線が2本出来る。その四角のエリアには、女性用の帽子を被り黒レースを羽織ったトルソー(胴体の人形)があり、これが擬人化されるので、最大4名の人物が舞台上に居る勘定となる。
始め男性二人が上手奥袖から時間差で登場し、ジャレたがる片方が他方を追うものの、相手は別の事(歩きながら読んでいる本=「財産没収」のテキストか)に気を取られ、つれなくしているという図がリズミカルに表現される。暫くあってつれない方が声を発すると女演技で、女性役を代行しているようにも、あるいはゲイカップルの女役とも見える。紅一点がやがて登場。容姿・動きともに妖艶を絵に描いた艶姿で、(下品を承知で言えば)鼻血もの。女役を兼任する男と、既にゲイにしか見えない締まった筋肉の男性役との三者が、位置とモードの入れ替えしながら良いバランスで変転する軌跡が何とも「美的」なのであるが、象徴されているものを読み切れない。
以前同じアゴラで観た「悪童日記」(今度また再演するらしい)もそうだったが、身体を駆使したパフォーマンスが特徴で、スピーディで形が良く、緩急によって情感が表現できる。今回は利賀演出家コンクールにも出品した演目だからその再演と思われるが、利賀だけに暗示部分(表面に見せない部分)が広がっている演出の方が評価が高そうだ。従って難解なのもむべなるかな、だが、「悪童日記」という小説の舞台化の方が難しい作業だったのでは・・とは素人の感想。
「ユニット」にしては完成度の高さに圧倒される。新たな仕事でまた驚かせて欲しい。

ロはロボットのロ

ロはロボットのロ

劇団おとみっく

角筈区民ホール(東京都)

2018/12/27 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★★

初演の頃地元の鑑賞会だかにたまたまやってきたのがこのレパートリーでこんにゃく座を知った始め。新宿梁山泊くらいしか劇団というものを知らない私が脚本・鄭義信の名に気付かなければ、出会いは10年遅れたろう。宝石のようなこの作品は音楽萩京子の曲・うたと鄭義信の本との稀有な出会いの賜物とも言え、特にテーマソングにも当たるあの曲(題名を知らない)は、明るく笑い合いながら涙する鄭作品情緒の真骨頂がこよなく反映された楽曲で、日常を取り戻した大団円で歌われる。
2001年の初演からブランクの後、ここ何年にまた一般公演からレパに上がり、池袋、そして一般人可能な鑑賞会に埼玉くんだりまで足を運んで十分に楽しんだのだが、最初のインパクトには届かなかった。埼玉公演では心無しか隙間風が吹くのを否めず、それもそのはず自分の鑑賞眼が肥えてしまったのだ、と思っていた。
が、今回の(演技面では)ほぼアマチュアに等しいキャストに拠る「ロはロボットのロ」に、初演時の感動を呼び起こされたのだった。
歌は大変良いが演技は拙い。演出はこんにゃく座の大石氏でこれが健闘だったが公共ホール(2~300席の中規模)の限界は否めない。こんにゃく座の役者だったらこの台詞ではああやるな、など勿体無い取り零しに一々引っ掛かりながら観ていたのだが、後半は演技の方もキャストの「地」の力がプラスに転がる(だけの物語説明がしっかり為されていたのだろう)方向に転じ、区民ホールという場で、架空の町ウエストランドの物語が濃密に、そして蜃気楼のように、浮かんで見えたのである。
おとみっくの出自は音楽畑、正しくオペラという事になるが、この感動の要因はいずれまた。

ネタバレBOX

本家を貶めるつもりはないのだが、うた(音楽)と芝居(演技)の兼ね合いである。
こんにゃく座の復活「ロはロボットのロ」では、演技は格段にうまい。痒い所をしっかり掻く。佐藤(敏)氏のドリトル博士ともう一役を白髪のカツラの「早替え」で登退場を繰り返すなどは典型と言えるが、幾つかの箇所で初演ではこうだったかな... と思う所があった。主役の佇まいも重要、再演でテトを演じていた若手はのほほんとしたおおらかさはあったが何かピースが足りなく感じさせた。役が担っていた「役割=機能」を何か落としている感覚。初演となるとかなり古い記憶だが、ロボットの動きが見せる(人間基準では)素人なたどたどしさと、生への躍動と恐れが混在した初々しさ、知らなさゆえの大胆さといったものが、これから起こる事の伏線になる。ぼんやりでは必ずしもなく、人間基準では足りない諸々を補うべく脳内は目まぐるしく回転し、しかし選択された動作は無駄なくシンプルという、人間種ロボット属らしさのリアルとでも言うべきもの。
これも随分前だが「アルジャーノン」の知恵遅れの主人公と共通するものがありそうだ。テトの繊細さが、ココという存在を発見する。ロボットの動きも、言語に訛りや不自由さがあるのも、鄭が好んで用いる片足を引き摺る女性も、イノセントである事や優しさや被虐の運命や、そうしたものを引き受けるドラマ上の仕掛けであり、かくありたいがあれない自分の代わりに存在する者だ。この無実性が揺るがなく感じられる事が重要で、それを上回る「笑い」は不要だったように思う。
もう一つは言うまでもないが音楽、うたの比重の大きさ。結局はうたの説得力が、オペラでは物語説明の説得力となる。前半は芝居(演技)部分で冷や冷やするが、後半は音楽が凌駕し、芝居も引っ張る。
おとみっくの役者は歌を専門とする故に、声が澄み、演技では汚れ切れないが、佇まいそのものがイノセント。若さゆえに嘘が無く、恐れがあり、不安に打ち克とうとするひたむきさがある。素人だから成った舞台であり、次は演技をもっと旨く、と意識したら崩れてしまうバランスの上に出来上がった舞台だ、という気がする(無論うたの力は絶対的だが)。
tatsuya ー 最愛なる者の側へ

tatsuya ー 最愛なる者の側へ

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

桜美林大学・町田キャンパス 徳望館小劇場(東京都)

2018/12/16 (日) ~ 2018/12/23 (日)公演終了

1987年が鐘下辰男のTHE・ガジラの立ち上げ、「tatsuya」は91年初演で文化庁の芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞・・・とは後で調べて知った事で、私と言えばこれは鐘下氏の新作だろうと。筆力の衰えの兆しかと。そう思った自分であるから大きな賞をとったとは意外だったが、自分の評価を修正はすまい(芸術選奨の過去の選出をみると、当年度の作品に与える体裁で、たまに妥当なのもあるが周回遅れでの授賞と見えるものが多い)。

新作かそうでないかは大きい。こと過去作品(「tatsuya」は20数年前)を上演する場合、「なぜ今これか」のexcuseに余念がないくらいが普通だ。言うまでもなく演劇は現在性が命であるから。受賞作か否かはどうでもよろしいが、過去作品であるか否かを察せられなかったのは観劇としてはボタンの掛け違いだった。結果的に舞台単体で私をねじ伏せはしなかった、で十分なのだし、鐘下辰男という人自体が一々弁明をしないタイプに思われる。が、観客としてはある程度、舞台を味わう補助線を持ちたかった、というだけの事。時間は戻らず、混乱しつつ観た事実は残り、今となっては修正が難しい。
なぜこれを新作を思ったか・・・チラシその他にヒントが無かったのもさりながら、観劇し始めて「永山則夫」のモチーフが見えてきたにも関わらず、(私の不勉強もあるが)役の名前と描かれた人物イメージが違う、周囲の人間との関係も違う(この人物を題材にした演劇作品には二つ程出会っているが)、という事は少なくとも永山則夫にまつわる「史実」を追っていない。大胆な翻案の線ではなく、フィクションか、もっと現在に近い事件を題材にした戯曲か・・という類推が生じた。
口角泡を飛ばし合う役者らの身体は現代のそれである。モチーフは「貧困」に括る事のできる犯人の境遇と事件との強い因果関係にあり、テーマとしては古い。物質的欠乏だけでない貧困という面では現在にも重なるが、その事を巡る人の振る舞いが(書かれた台詞による)一時代前のそれに見え、演じる感性じたいは時代が下ってより現代的に見える(ここは俳優の演技の問題であるかも知れぬ)という、このちぐはぐさには混乱した。
過去作品をどう現代化するか、その橋を十分に渡し切れていなかった、というのが私なりのまとめである。
もっともこれしきではマイ鐘下ブームは終りそうもなく、「筆衰え」説は差し当り保留できて安堵である。

女中たち

女中たち

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2018/12/09 (日) ~ 2018/12/26 (水)公演終了

満足度★★★★

風姿花伝プロデュース第5弾。第1弾「パサデナ..」に心酔、前回を惜しくも見逃したので今回は早めに予約。演目はそれまでの比較的シリアスなストレートとは少し傾向を異にしていそう(「女中たち」は恐らく観ていないが何処と無く)。鵜山仁演出、さてどうだろう・・楽しみに出掛けた。例によって体調(↓)を懸念したが舞台との距離近し。豪奢に飾られた邸の一室は目を引くが、写実一色でなく象徴的な形も含み、役者が入ってみないと見えない余地がある。
さて開幕。演出がこの戯曲についてパンフに書いた中にあった「虚実」定まらない難物、という(意味の)言葉通りで、難敵を相手に四苦八苦した跡が見えたのだが。「女中たち」をこれは読まずばならぬな、と強く思い劇場を後にした。
(余談だが劇場入口に洒落たカフェ(窓口で出す)が作られていてチケットで一杯。終演後飲んだがこれは美味い。次来た時もあるといいな。)

ネタバレBOX

実は途中で寝てしまったのだが、その理由(体調不良以外の)を言い訳がましく考えた所を。開幕後、艶やかな女主人をいかにもな振りで演じる中嶋朋子と、しおらしく振る舞っていたかと思うと無礼な口をきく那須佐代子の女中のやり取りから、興味深く小気味良い謎掛けの始まりだ。ところが、その先から雲行きが怪しくなる。二人のやり取りが過激化して女中が女主人の首を締める途中で目覚まし時計が鳴ると、「もう少しだったのに」と、二人は芝居をやめてしまう、というオチがまずある。彼女らは二人とも女中で女主人不在の時間をそのように楽しんでいた訳だった。これをオープニングとして、以後暫く「現実」のやり取りが続くのだが(これを現実と捉えるべきか否かも微妙に思われるが)、ここから那須氏の演じる方の女中が悲劇的なトーンで台詞を出すのである。相手に食ってかかって笑いああの余地=遊びがない。わざとらしくそうやるのでもなく、真剣さを観客に理解し共感してもらおうと必死に演じるが、空を掴み損ねるかのように言葉が着地しない。台詞の言葉の要請と違う答えを役者が捩じ伏せようと見えるのだ。
この場面が始まった時、鵜山仁氏は役者に演技の中身はについては注文をしない人疑惑(私が勝手に思っているだけだが)を思い出した。
何となくだが今回のキャスティングは女主人が若く女中が年嵩という変則的なもので、特にその点に意味付けをしようという意図は感じなく、その事の違和感もさほどなかったが、役者本人にとってはどうだったろう。
いずれにしてもこの戯曲は人物のその人らしさを謎解くタイプの劇ではないだろうと思うのである。(人情の機微や真情の訴えで感動を誘う芝居では、後に明かされるその人の来歴や本心、というあたりが落とし所になるのだが。)
それで思い出したのが文学座で昨年二十年ぶりに再演した別役作「鼻」。別役のとぼけた台詞の中に僅かに滲む程度の「感動」に、芝居こと動員して力業で感動ドラマ風にしていたのも、鵜山演出だった。この「女中」も殆ど強引に感動を掘り起こすというよりあてがっていると感じられ、終盤の洒脱な台詞も真情吐露に重ねていて、頭の固い私が端から決めてかかったのが悪いのかも知れないが、全く合わないものを接合しようとしていると感じてきつい時間となってしまった。
女中らの弁えは、とことん本心を「読めなく」振る舞い続ける事ではなかったろうか。虚の中から、観る者に実を探し出させる構図にすべきではなかったか。明日で公演は終わり、自分の実感を検証するためのリピートが叶わないのは残念。

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