tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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徒花に水やり

徒花に水やり

千葉雅子×土田英生 舞台製作事業

ザ・スズナリ(東京都)

2021/12/15 (水) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

観たい公演のリストは当然だが月日と共に増え、今数えてみると月30~50位になっていた(実際観るのは10~20)。ところがこの12月は70以上。東の演劇事情は盛況也。配信でリベンジできる公演があるのは有難く、本作もその一つ。
配信に伴う悪条件を物とせず、面白く楽しく観れた。声は大きく台詞は判りやすくキャラも演技も明瞭。よくよく見れば、ヒロイン役の田中美里以外は4名とも皆戯曲を書く俳優である。
最後をどう仕上げるかは書き手が最も考える所だろう。土田氏の本は話の締めを「イイ話」に着地させる印象があり、ヤクザ(の父=故人)の絡む話にしては、アウトローの世界から軸足が最後は普通人の世界に戻る感じがして、私としては些か淋しかった。芝居に頻発する笑いは「着地」する前の「期待」の笑いである事が多いが、反社、アブノーマルな家庭環境、頭は悪いのに裏社会の事情は「肌で読める」等々のキャラ・設定から生まれる笑いは、「逸脱(解放)」の快感がもたらすものである(枝雀の「笑いは緊張の緩和」理論は汎用性高いな..)所、最後は「はみ出た」場所に着地はしなかったな..というのが、この芝居への唯一の不満であり、だがそれがラストである故にやはり無視できないな、となる。
が、、美味しい場面は癖になるもので。もう一回は笑わせてもらおうと思っている(配信でラッキー)。

樹影

樹影

ケイタケイ's ムービングアース

シアターX(東京都)

2021/12/28 (火) ~ 2021/12/28 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

シアターXでの上演で名前だけ認識のあるダンサー・振付師だが、もう古い人らしい、とどこか避けていた(経歴もよく知らず)。今回は別の芝居と迷ったが、結局こちらに足が向いた。客席は結構埋まっており、若い人も割といる。
演目は二つあり、古木を使った「樹影」が、シリーズ化している「LIGHT」のナンバー○○を前後で挟むという構成であったが、両者は一体化していた。シンプルで力強く、古木が屹立する姿に照明が当たり、ケイタケイの無心に事を為す風情が、絵として強いインパクトを与える。「音」は控えめだが風景に深さを与えていた。少なからず関心がもたげた。

ネタバレBOX

舞踊系の鑑賞が続いた年末。先日赴いたKAATでの「綾の鼓」についても一言(Corich登録がなかったので..反則だがまァご容赦)。

世界的演出家ピーター・ブルック舞台の常連、という冠で紹介される笈田ヨシ氏と、コンテンポラリー舞踊の第一人者(と聞く)伊藤郁女のコラボ作品。
以前スパイラルホールで観た伊藤郁女(かおり)が異種交流に挑むというので観に行った。経歴を見ると早熟で早くから国際舞台で活躍する舞踊家ゆえ毎年見られる人では無い訳である。
スパイラルのは作り込んだ舞踊作品だったが、今作はフラットな時間の中で濃厚な「舞踊」は部分的、他は笈田、伊藤、打楽器の人による演劇仕立ての作品であった。
台詞は仏語で喋り、字幕が出る。約1時間。
今になってパンフを見返すと、「打楽器の人」は実はSPAC俳優・吉見亮氏であった。なるほど棚川寛子氏の音楽と切り離せないSPACでは多くの俳優がポリフォニックな打楽器アンサンブルを担うが、その演奏の中で氏は中軸を担う人だとか。道理で「芝居」も堂に入っていた訳だ。
また笈田氏の生年もふと見れば、1933年! 90歳に手が届く年齢である。
「後で知って吃驚」の第一は何と言ってもテキスト提供者がジャン・クロード・カリエール。古くからの映画好きなら耳に覚えのある名だろうが自分的にはこの名前は別格として記憶に収まっている。氏が脚本提供した映画は幾つかのルイス・ブニュエル作品、「ブリキの太鼓」「ダントン」「シラノ・ド・ベルジュラック」「存在の耐えられない軽さ」等だが、作品の多くが映画賞に導かれている。
本作のテキストは恐らく2枚程度に収まる量だが、その少ない蒔かれた言葉がある時、時間的空間的な尺が一気に広がるドラマを提示する。言葉からぼんやりと、自分の連想の赴くままに広げたドラマであり、作者の意図がそれであったか否かを検証する材料はないのだが。伊藤氏が書いたにしては凄い、ビギナーズラックか?と訝り、終演後に作者の名を見つけ、ひどく納得してしまった次第であった。
レクイヱム

レクイヱム

小田尚稔の演劇

SCOOL(東京都)

2021/12/22 (水) ~ 2021/12/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今回は新作だろうか。確かに「死」にまつわるエピソードが、「小田尚稔の演劇」の手でそれぞれの原石に光を当てられている。SCOOLでの二作目の鑑賞となったが、スペースを有効に使い、適度な密度と広がりがあり、ちりばめられたユーモアが小さな灯をともす。時間を自由に行き来する遊戯の中に身を浸した、という感じである。
若者をもノスタルジーに引き込むだろう車窓を過ぎる夕刻の映像は開演前から背景の白壁に流れ、置かれたデスク上のスタンド等が下辺に影を写して物憂げにリアル空間と映像を馴染ませている。
本レパも再演を重ねて行くだろう事からエピソードには触れずにおく。

境界

境界

Noism

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/12/24 (金) ~ 2021/12/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

名を知ってかなり歳月が経ったNoizm、初観劇。一度見て面白かった山田うんと作品を出し合う公演、という事もあって足を運んだ。
別の作品とは言え、Noizm0、Noizm1とあるので出演はNoizmメンバー(山田うんのは若手、金森譲のはベテラン)であるようだ。

どちらが先か知らずに見始めたが、一つ目開演早々既視感。3、4人がステージを斜めにユニゾン、軽快に前へステップする動きにブレーキがかかって片足を出した所が停止点、また同じ軌跡を戻る、というのは山田うんのもの。舞踊には個性が否応なく滲む。たった一回の観劇でも焼き付いたのだろう。全編に穏やかなクラシック(室内楽)が流れ、音楽のみではステージの意図は汲みづらい。特徴的なのは衣裳で、春を思わせるが微妙な何か意図があるような・・淡い原色系の数種類の色を全員違うパターンで切り貼りした感じだが、「自然」か「人工」か狙いが不明、あるいは「人間の営為に自然などない」の意か・・。山田氏の出自がそうなのか、クラシックの影響か、バレーに寄った印象。技術を習得した若者がその技術も披露する「如何にも舞踊」な群舞であったが、ふんわりとして今ひとつ掴みどころが無かった。一人だけ体格の良い西洋人が男性だな、と見ていたが、終演後一列に並んだ顔を見ると半数が男性と見え(短髪の数)、ユニセックスな世界が狙いだったのかな・・?等と考えてみた。舞踊の娯楽の第一は身体の動きの視覚的な快楽、音楽とのコンビネーション(リズム感)にあり、要は理屈ではない訳だが、ピンと来なかったのは「境界」というコンセプトが醸す「攻めた」ニュアンスとかけ離れていたからか。

一方Noizmは荘厳という言葉が相応しい舞台。出演者は三名、高貴さをまとう白い衣裳の女性?と、黒をまとった武術的な動きをする二人。何もない舞台に、簡素で大胆な装置が場面によって挿入、そして照明を駆使して独自な世界観を見せる。山田うんの時は「白いリノリウム?」と見えたのが、黒になっている(15分の休憩時間に敷き直すのは無理だろう)。空間と時間、生命、人間の営みの反復といった、何か本質的な領域に触っていそうな視覚的なイメージが強烈である。そして、「見た事のない」風景が現前していた。
同じりゅうとぴあの「演劇」部門では笹部氏によるギリシャ悲劇の(ギリシャ悲劇だけに)荘厳な「赤」のイメージを思い出したのは、偶然か。

ネタバレBOX

後半の金森譲演出のステージは、闇を基調に暗転を使ってダイナミックに場面が変って行く演出であったが、触れておきたいラストは(確か)一度緞帳が落ちて開くと一面に赤い花が敷き詰められ、空からも花びらが降りそそぐというもの。照明は真上から天界からのそれのように煌々と光を降らせ、観客サービスだろう前・中央客席も照らして花びらを降らせている。あっと思わせる壮観だったが、あの広いステージにどうやって大量の「花」を敷き詰めたのか、頭をひねっても判らなかった。
演者の足が花びらを散らしていたから、花びらを張り付けた布を広げたのでもなさそう、と思っていたが、後から考えると、それ以外に方法は無いのではないか。緞帳が下りた瞬間にスタッフ総出でポリバケツ何杯もの花ビラをぶちまける、というのではあの形は難しい。巨大な布を敷いた後、足で蹴散らすだけの花びらを後から蒔く、が正解だと一応思っておく。舞台端のリノリウムの肌が見えているエリアとの「境界」にも薄く花が散っているが、これも後から蒔けば、可能である。うむ。まあ、いいんだが。
海王星

海王星

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2021/12/06 (月) ~ 2021/12/30 (木)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

この入場料ではまず劇場観劇は無しだが、配信があるというので、寺山修司作品を、我らが真鍋卓嗣(小劇場演劇の演出では第一線)がどう演出?という興味で拝見。(出演者で気になったと言えばなじみある内田慈、「彼女と言えばこう」というイメージを破り、健闘していた。)
だが色々と物足りなさを語れば尽きない舞台であった。配信は「音」に難があり、できれば2回見ようと思っているが、今回は短い配信期間の中で都合2回、鑑賞できた。よって芝居の全容もほぼ把握できた。

冒頭の歌から全体の歌に行く出だしの運びは寺山舞台の要素があって良かった(主要人物以外は皆、白と紅の白粉でアングラ感を出し、灯りが入ると人形のように静止し、ホテルの広間の上部のプラットホームが演奏エリアなのだが、指揮者が神然として人間界を音で翻弄する的な風情。)
しかし・・寺山作品にしては「ひねり」が無い。戯曲としての出来は確かにありそう、ではあるが、それより気になったのは、主要人物の台詞の「言い」にひねりがない。ある感情を直線的に表現する。(白塗りのコロスは「いかがわしさ」を漂わす演技をやっていたが、コロスとして一体的に存在している感はなく、リアルな演技と見分けがつかない。)
特に気になったのは、松雪泰子がスレた女が若い男にのめり込む大胆な演技に振り切れず、歌もあまりうまくなく(これが決定的か)、おっかなびっくり演じている。映像畑が長いせいかショットを撮らせる的な「見せる」演技にとどまり、内から滲み出るものが少ない。(この女優の限界を感じたのは映画「フラガール」のラストで、非常にもどかしく勿体なかった。)今回は主役と言える役、だのに。。

寺山戯曲に臨むなら、役の二面性、多面性、要は二重人格?くらいに切り替える謎めきの度合いが欲しいが、全体にストレート演技である。にも拘わらず、テンポは緩い。たっぷり演技は「探る」演技との定理が当てはまるか。本来複雑な(つまりひねりのある)人間感情が、埋まらない感情表現で時間が緩いので、上演時間の長さの理由はこれか、と思う。
コロスたちの一癖二癖あるキャラとの対比を、演出は中心人物(山田裕貴、松雪泰子、ユースケ・サンタマリア、伊原六花)に求めたのかも。
ひねりと言えば、音楽にもひねりが少ない。個々の楽曲ではユニークな成功しているものもあり、才能のありかは認められるものの、芝居が語るものを受けて芝居が語れないものを埋め、繋ぐバトンとなる楽曲でなければ、音楽劇である意味はない。台詞の説明のための楽曲が散見され、何とか「台詞を喋った方が良い」というレベルは脱していたが「台詞を言うより断然いい」という場面を作った楽曲は限られていた。
本舞台はミュージカルではないにしても「畑違い」である真鍋氏がてこずったのは音楽担当だったのでは、と勝手に推測。
戯曲の作り(ト書きの指定も?)が根本的な問題であったかも知れないが、戯曲の立体化としての成功はもっと狙えたように感じる。ただし、もっと高いお金をとって客を呼ぶだけの「コンテンツ」にする使命がもう一つ加わったとすれば、その事自体が作品の質を薄めた理由だったかも。

ネタバレBOX

道ならぬ恋な訳ではないが(善意の第三者、的には)、挙式の後では道ならぬ、が付随する年の差の二人が逃避行を挙行する直前、ユースケサンタマリア演じる父は、自分の妻であり息子の恋人である魔子の毒殺を伊藤六花演じる(息子を慕う)若い女性に託す。父は船上でその目論見の成功を打ち上げ花火によって確認した後、自死するつもりでいる。だが毒入りの酒に口をつけてしまうのは息子の方。女性は早合点して花火を打ち上げに屋上へ行き、船の上に立つ男(父)は、暫く姿を見せた後いなくなる、という証言で父の自死が観客に知らされる。
行き違いで死んでしまう悲劇は、「運命」が信じられていた古典のそれ。嘆く魔子は自分らが決断を恐れ先延ばしにした事の報いだ嘆き泣く。若い女性は息子の死に打ちのめされ、魔子という障害を消し去る事しか考えていなかった(事態を受け止められない)と言い募る。こうして幕が閉じられる。
寺山であれば、この人間界の皮肉、悲喜劇を俯瞰で眺める視点を、芝居に持ち込むはずだと思う。役割としては音楽の指揮者に委ねられているのだが・・一音楽家には重い役回りではないか。(「キレイ」で伊藤ヨタローがやったのはその役目だったが芝居にこなれている彼だからこその仕事だろう。)
泥人魚

泥人魚

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2021/12/06 (月) ~ 2021/12/29 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新宿梁山泊のテント芝居が実力派俳優の客演でコクーンに出現!の趣きである。金守珍演出第二弾の「唐版 風の又三郎」が空間的スペクタクルに酔わせる作品とすれば、本作は言語によるハンドリングの比重が大きい印象。唐十郎戯曲の本質とは言葉一つで風を起こす(実は観客に想像力を駆使させる)ものである、との勝手な仮説で言えば、テントという小宇宙だからこそ、言語によるスペクタクルが屋台崩しのファイナルでせめて空間的スペクタクルを具現して溜飲を下げることが可能。というのが(私が唐戯曲を多く味わった)梁山泊の芝居であり、いよいよ金守珍は唐戯曲をテントでない劇場・・装置の置き場に困らない広いステージと座って痛くない椅子のある劇場で、日和らず(唐ファンでは必ずしもない)観客の前にストレートに差し出したのだとも見える。
作家・唐十郎としては晩年の戯曲になる今作は、まず台詞に負わせた「飛躍」の度合いが従来作以上に高く、また物語を動かすアイテムとなるキーワードとキーマンも従来作以上に多い。生々しい現実の断片と、詩的イメージに属する断片は、小賢しく擦り合わせをする事なくぶっきらぼうに並存する。

本作が実際の社会イシューの暗喩であると判るのは、「諫早」という地名が出て来た時。芝居の前半で「湯たんぽ屋」に必要な材料であるブリキの板が景気よくエッサと運び込まれるが、店の中に一列、上手から順々に並べられる、という奇妙な場面の伏線が、そこで氷塊する。
(あるいは初演当時、観客はあのブリキの板の列を見ただけで諫早のギロチン板を想起したかも知れぬ。)
当地での農業と漁業の利益相反を、元の自然を大規模に改造する事によって片方に利するという無理筋な政策が、通ってしまうのを見て胸が痛くなった人は少なくないだろう、私もその一人だ。
作品はこの一つの現実に対する唐氏なりの昇華、というより代償行動の賜物で、観客にとっては未解決な元ネタが現実に存在し、しかもドラマの背景にとどまらず中心に絡んでいるという点で、特殊な演目ではないかと思う。

海へ帰って行くやすみは、船で育った来歴から人魚の化身と噂されるが、作者が地元諫早の「外」から持ち込んだアイテムである人魚は、外海から遮断された壁の中で滅んだに違いない生態系の象徴であり、この物語は「既に死んだ」存在への鎮魂歌となっている。ここで言う「死」は物理的な死にとどまらないだろう。あの光景を見て、何かが死んだと感覚させる源を、説明する事はできないが、唐十郎がラディカルを込めようとした作家魂は確信される。

サワ氏の仕業・特別編

サワ氏の仕業・特別編

劇団ジャブジャブサーキット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/12/16 (木) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

岸田國士の作品名をもじった回文風のタイトルは内容と殆ど無関係だろうと踏みつつ、ただ二年振りの東京公演への気負いは込められていそう・・と、そこは仄かに期待してアゴラ劇場へ赴いた。
率直に言えば、はせ氏の戯曲の「端折り」の傾向が行き過ぎの感。中盤意識が飛び(体調も↓であったが)言葉は耳に入って来るが意味内容が脳内で像を結ばない状態、
「これは何なのか」が判らない時間は冒頭から始まり、長い。パズルの最後のピースが嵌まらないと全体が見えてこないんではないか、という位の勢いで、ジグソーパズルなら目に見えるが演劇では前の場面は記憶が頼り。解かれない伏線が折り重なってはとても覚えていられない。
という事で、戯曲が掲載された雑誌を買い、たまたま載っていた作者の寄稿を読むと、最後に公演の宣伝があり、「掲載された台本を読んでも判らないだろうから舞台を目で見てほしい」と書かれてある。何ィ~、である。冒頭から読み始めた台本だが、一場での二人のやり取りのヒントの無さ。観劇中の睡魔は自分の体調だけのせいでもなかったかも、と。。
そんな訳で、台本を読んでから感想を書こうと考えていたが、それに割く時間はないと断念した。(何年か前同じ雑誌に載った「見なかった芝居」の台本を必死に読んだがやはり難渋した記憶がある。)最後に観たジャブジャブの舞台は判りやすかったが・・。

『水』/『青いポスト』

『水』/『青いポスト』

アマヤドリ

新宿シアタートップス(東京都)

2021/12/16 (木) ~ 2021/12/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「青いポスト」観劇。二本立て公演が多い劇団だが制作的にもこれが合っているのだろう。思い出せば昨年の二本立て「生きてる風/豚に真珠..」の後者も観ていたのだった。こちらは「生..」を観るつもりで予約し、都合が変って日時変更したら演目も変わりall女子の「豚」の方を観たという顛末だったが、今回も蓋を開けるとall女子芝居。
主役と身内以外の人物たちは関係性も判らないが(もっとも判った所で..という感もあるが)、芝居の勘所はフィクショナルな設定の成立の度合と、視覚的・美的仕上がり具合、という点では、久々に見たアマヤドリの群舞は相変わらず(苦手なやつ)ではあったものの、型のレベルは高くその分だけ仕上がり良く、つまりは劇的な高揚を舞台にもたらしていた。

ネタバレBOX

今作は4年前初演の再演という。恐らく、架空の町の設定は初演時より今が入り込みやすい。新型コロナは様々な事を露見させたが、その一つに確実に含まれるのは人間の愚かさだろう。事態が急を要しただけにそれとのギャップによっても、またそれに対応する人々の行動の変容によっても、忘れっぽい日本人でもさすがにこの変化は認識される所となった。自分らの代表を選ぶ選挙とは真逆に、「悪い人」を一人投票で選び、「消される」というルールが受け入れられている町。この設定は、事前調べで一位とされている姉を持つ妹の「行動」を通して、人間を論じる芝居のための設定だ。だから「論」そのものに意義を感じなければ、荒唐無稽なだけで無意味な設定は自滅する。だが今作はミステリー仕立て(ヒントを小出しにして観客に物語全体が見えるジグソーパズルを作らせる)である事と共に、今に通じる終末的な空気と、その中で殆ど無力に等しい人間の「可能性」を見ようとする視点を感じるところがあった。
リアルに想像すれば「悪い人」を一人選ぶ、という制度がその目的(悪を排除する)を正確な意味で遂げることは考えにくい。悪の「行状」が民主的手段で決まる事はあっても、悪である「人間」を民主的手段で炙り出せるかは甚だ怪しい。刑事事件を裁くように厳格な基準と調査によってその「悪」は認定されねばならないが、この投票に限っては悪の「基準」はどうでも良く、ただ人に選ばれれば彼(彼女)が悪である、いや悪かどうかもどうでも良く、ただ選ばれれば消される、というルールがある、という事だろう。もっとも人々は無目的なルールを受容するほど鉄の心は持てないからそのルールは「悪を排除するため」だと信じている・・そこまで作者が描いているとすれば、「悪法も無批判に受け入れる」法の奴隷と化した日本人への批判的視点を持ち込んでいるのだろうか? まあそれは無いだろう。自分の判断基準を持たない大衆の投票で一人を「消す」というルールは、このルールが存在する事によって「人から恨まれない、妬まれない、目立たない、能力においても突出しない」という行動様式を人々の間に蔓延させることが目的だと考えれば、効果は絶大で、極論すれば今の日本はそういう世の中かも知れない・・てな事を作者も考え巡らしたかも知れない。

脇に逸れた。そんな事より、この設定を敷いた上にどんなドラマが乗っかっているか、が本題。
人から誤解もされやすい姉が、自分の店で社会の風紀を乱すような客商売をして当局から睨まれ、店をつぶされた、という出来事があり、「悪い人第一位」という前評判が立っている。冒頭姉は妹に傍若無人な行動をとった、という事で妹に責められているが、姉は言い訳をしないため、観客は「ひどいやつ」と姉を見る。が、妹の抗議=お婆さんから「二人に」ともらった一袋のチョコを全部一晩で食べた、というその理由がその後の説明(姉が悪人第一位となってえらいこっちゃ)で判り、姉が妹思いで率直な性格である事が次第に判って来るのだが、この過程は観客に「一度悪く見えていた人間を見直す」プロセスを辿らせるもので、作者のここは計算勝ちである。
次なるは、この状況に対し、妹がある行動に出たらしい、というもので、これは噂レベルでしか語られず、妹本人の口からは語られない。
もう一つルールに補足があり、投票の順位について、工作を行うなどの不正は裁かれ、第一位の悪人の代りに裁かれる、というもの。このルールは「悪を排除する」目的からすると煮え切らないルールで、何が不正かの認定も難しいはずだが、ここも「ドラマ」のための設定という事で、ドラマ本体に目を向けよう。
投票には「事前投票」というのがあり、恐らくは上位に絞り込まれた者の最終決戦投票がある、と読める。で、芝居ではこの事前投票で、妹が一位となる。ショックを受ける姉。妹も家族ぐるみで評判が悪いので一位になる原因が何かあったのかも・・と観客には想像させるが、問題はその次で、実は妹は何か工作をしたのではないか、というもの。そして現に妹は人々に印象操作をさせるメッセージが書かれた紙を配るよう郵便屋に頼んだのだ、と郵便屋が証言する(それに応じた事は罪にはならないらしい)。だがこの証言も妹の計算の内ではないか、という噂も流れる。こちらの噂が本当なら、妹は自分の行動が「不正」と判定される事を誘導したのではないか、という仮説が成り立つ。
最終投票で一位が決まると、一定の期間が過ぎてその人間は文字通り「消える」という。最終投票の後、妹が姉の窮地を救うために自己犠牲的な行動をとった、という美談を感じ入ったように姉に告げる。その時姉は初めてその可能性に思い至り、必死で妹を探す。妹は見つからず、結局彼女の不審な行動のナゾは解けずに終わる。
姉は語る。投票によって「消される運命」にある事を自分は覚悟しており、最後に演説でこう言ってやろうと毎日考えていた。自分に対する誹謗が如何に浅はかで誤ったものか、他人の言葉に踊らされ、乗せられ、信じるしかできない愚か者どもに罵倒を浴びせて消えてやろうと。。
閉塞した社会、人の評価が自分の幸福の基準である社会で、社会の犠牲という特別な存在になろうとしていた姉に対する妹の感情は、実は・・・。
一方、似た物同士で仲のいい姉妹という側面も芝居では見せる。
自己犠牲か、それとも英雄の称号への憧れかは不明のまま、解釈を観客に委ねられる。
だが謎の「解」がどちらであろうと、一つ、妹はある行動によって事態を変え、(真相不明であれ)人々の行動変容を誘導した。事態は変えられる・・ただし自分の命と引き換えにしてでなければ叶わない。
自爆テロは今の日本でも起き得る。浅間山荘事件は陰惨で許し難いが、引きで見れば社会の病みが生み出したものなのではないか。
改革の意志が既得権(大人)によって拒絶され、それが当然視されている社会で僅かでも変容をもたらそうとすれば、自分の将来を棒にふって犯罪に走るか、命を最終手段としてこれを有効に使うことを考えるのは、若者にとっては健全な思考かも知れぬ。
私の心にそっと触れて

私の心にそっと触れて

メメントC

新宿スターフィールド(東京都)

2021/12/16 (木) ~ 2021/12/22 (水)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★★

こういう芝居に遭遇するたび、「芝居に敵うもんはなか」とドヤ顔したくなる。体内物質の分泌が促進され、血行も良くなり尻の痛さを忘れる。良い事づくめである。
劇場観劇を諦め、配信を選んだが、正直音声はよくない(録音マイクが舞台から遠いのだろう、ノイズレベルかなり高い)。見始めて一瞬しまったと焦ったが、意外やすぐ芝居から目が離せなくなり、休憩を挟んで終いまで演劇的快楽を味わった。
・・という事で、公演は終了し後は配信しかないが、自分的には配信でもお勧めである(ただし「巻き戻し」せずに鑑賞するには音量の上げ下げが必要かも。)

主催がメメントCと山の羊舎とあり、メメント→山下悟氏へ演出依頼したのだろうと勝手に想像していたが、実は山の羊舎の企画であるようだ。舎の主たる活動は別役実作品の上演で(それも年一回あるか無いか)、2015年別役フェスでの「後ろの正面だあれ」は私に別役実世界の魔力を見出させた一つだったが、このささやかなユニットが昨年上演した「メリーさんの羊」(山の羊舎の前身が「メリーさんの羊を上演する会」という一風変わった集団)に、女1役で出演した民藝・白石珠江が今作での妻役。その夫である認知症を発症した元医師(奇しくも認知症にも通じた脳外科医)と共に実にハマり役であった。
舞台は基本、老夫婦宅のリビングらしい場所で、介護事業所のスタッフや夫婦付き合いの長い旧友、新たな夫(二番目)連れの娘といった訪問者が夫婦の「現在」に絡むが、やがてかつての同僚で職場を追われた元医師(現看護師)や、難病を患い僅かな希望にすがるように治験に同意したピアニストの登場によって「過去」が顔を覗かせ、老医師の現在を形作っているだろう人格の構成要素が見えて来る。そしてそれらは同時に、医師自身の手(脳)からこぼれ落ちて行くものとしても描写される。
この芝居が醸し出す面白さの源をうまく説明できないが、久々に嶽本女史の書いた言葉のユーモアと力強さに触れた。

胎内

胎内

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

PRUNUS HALL(桜美林大学内)(神奈川県)

2021/12/12 (日) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

公演2日目に知り、既に満席との事であったが週末どうにか観る事ができた。十年程前だったか、確かシアターミラクルで観た「胎内」が三好十郎作品を観た最初だった(と思う)が、敗戦後間もない頃、洞窟の中での少人数の芝居とだけ記憶にあった。
毎回思う所だが、スタッフ(舞台創造、制作とも)の仕事の抜かりなさが今回は役者が3人のみである事でとりわけ際立った。入口から天井まで洞窟内に仕上げた美術、土、水のしたたり、小道具、照明。役を演じるには若いがエネルギーでカバーして余りがある役者たち。休憩を挟んで140分圧倒された。

ネタバレBOX

台本は鐘下氏によってテキレジされたのか、戯曲の時代的隔たりが殆ど感じられず。
若い彼らの背伸びした発語に私は好感と共感は寄せながらも、客観的に周囲の反応を見る余裕があったが(角度的にも囲み式の客席だったので)、芝居のラスト一人が他の二人をも代弁するように人間存在への認識(愛)を淡々と語るとき、学生が大半を占める観客が心を掴まれている様を見て更に胸が熱くなった。
TOGE

TOGE

カンパニーデラシネラ

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2021/12/17 (金) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

デラシネラinKAATは昨年に続いて外国人ダンサーとのコラボ作品。ちょうど一年前の「knife」は世相を反映してか抽象度が高くトーンは陰鬱に思えたが、今作は女性5名(+時々小野寺修二)のユーモアに富んだシーンが連なる。もっとも冒頭で照明に照らされるのは町を見下ろすように設置された、無機音を出しながら左右に首を振るたレーダー探知機のようなものと、警報スピーカーのようなもの。監視社会、戦争を想起させる。暗転後、パフォーマンスはまず椅子を使ったもの(離脱を食い止める動きが入れ替わり立ち替わり)、次が紙(オフィス、書類のよう)、大きなゴムの輪を自在に使ったもの、カラスの鳴き声へのリアクション、等々。マイムというジャンル自体にユーモアが不随する事を思い出させると共に、小野寺氏の発想の自由さ、表現の幅広さ・深さ(微細な動きに意味が宿る)に魅せられた。脳ミソに養分注入の1時間。

桜の園

桜の園

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2021/11/13 (土) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今年5月駿府城公園での「アンティゴネ」野外公演以来のSPAC観劇。
静岡芸術劇場での観劇となるとコロナ直前の2020年2月「メナムの日本人」以来1年半振りだ。
早速芝居について。
フランス人演出家によるフランス人俳優と合同のチェーホフ作品舞台。舞台下(側面)の字幕表示を時々読みながらの観劇であったが位置的には見やすく大きな支障ではなかった。アート系な演出はさほど意外性がなく、大気音(ゴォォ)や明確な和音にならない音響が微かに鳴り、照明も抑え気味で、ロシアの空を思わせる鈍い光を放つ巨大なホリゾントにさえ人間が影に見える位。これらは舞台上を対象化させ、観客は地球上、歴史上の一点のはかない生を見る感覚を持つ。
実際には光は当っているのだろうが、絵画的な印象がそんな具合で、俳優も然り、各人ユニークな人物像を演じているが脱色され、だだっ広いステージの上で一人一人にフォーカスされず、観客からはどこかよそ事という感覚である。
そんな事で、今受ける印象の範囲を大きくはみ出す事はないだろう事が予想されてしまうので、眠気が襲う。またフランス語の発語というのが(仏映画もそうだが)感情の直接的アタックがなく(異言語ゆえ?)、日本人俳優が発語する場面との落差も大きい(各国俳優は母国語で台詞を喋る)が、劇が進むにつれそれは幾許か融合し解消された感はあった。
眠気は襲うが入眠には至らず、字幕の読みそびれ程度で済んだ。ただし、ストーリーを把握していなかった「桜の園」の予習をしていなければ爆睡したと思う。

その上で演出の意図を肯定的に感じた部分は、俳優らがマスクを着用している事と関係するが、現代、殊にコロナ期以降の厭世観を体現した舞台になっていた。
SPACの方針なのか、5月の野外公演でも布の口当てを着用していたのには驚いたが、今回もマスクを当てており、最初はげんなりしてしまったが、不思議と声が籠る事はなく(通気の良い素材を選んだのだろうか..とすれば感染対策ではない)、見た目の違和感もなくなり、最終的には現代を映す衣裳に思えてきた。

ネタバレBOX

ただ、せめてカーテンコールではマスクを取って欲しかった。
喋らなければ、マスクを外す事に何の不都合もない。しかし、これが地方の実情なのかな、とも思う。
コロナへの警戒心は感染爆発している都市より地方の方がナイーブであるらしい。他人のマスク着用に対する感覚も随分違うだろうと想像される。都市居住者にとっては感染は周囲で起こっている事だが、地方の人にとっては「外から入って来るもの」そして万一感染したら「持ち込む者」(=犯罪者?)である。今ここにあるものには慣れるしかないが、ここにない存在は恐怖の対象だ。

いずれにせよ科学的根拠の乏しい、あるいは他のリスクに比して突出した対策が無批判に常態化する事は危険だということは踏まえたい。ルールばかりが増えた社会は臨機応変さを手放して他者の落ち度を指摘する神経が異常発達し、それを回避しようとする(保身の)態度が肥大化し、結果人間を不幸にする。自分はルールを破っていない、というだけで社会的責任から免罪され、社会とは参加する場でなく批判を回避して生き延びる場となる(既になっている?)。
社会には減点ポイントが異常に多い網の目が巡らされている。得点とされるのはごく限られた評価指標で、一体どういう価値観に従えばそうなるのだろう。得点ポイントの少ない社会とは、負けて当り前、勝つのは希少という通念に支配された社会。業績主義に顕著なように大概それは金銭的利益をもたらすものに限られているようだ。最大公約数的な「善」以外は不要不急として減点対象にしかならない。表層的な「役立つこと」だけが残って行く。
科学的根拠が薄いことが通っていく事も、空気を読んで保身に回る事も根源は同じで、約めて言えば物を考えず、人が決めたこと(あるいは空気で決まってしまうこと)を無批判に受け入れる事(思考を放棄すること)に源を発している。成熟を拒む社会は経済低迷と歩を同じくして退行に身を委ねてしまうのか。

全く関係ない話題かもだが、、最近週刊誌のゴシップ記事で紀子さま(秋篠宮夫人)の「変節」についての記述を読んで興味深かった。皇室でも次男に嫁いだ紀子は秋篠宮の自由な(気楽な)性格もあって二人の女児と共に自由や自主性を重んじる家風を育んでいたが、長男夫婦が女児(愛子)一子のみで男子出産の気配がないため、宮内庁サイドから次男夫婦に期待を寄せる意向を伝えられたという。つまり第三子(男子)を秋篠宮家が生み育て将来の天皇とする、というプラン。ここで紀子は大いに悩んだが、ある時決意してこれに従い(子作りに励み)めでたく男児(悠仁)出産と相成ったわけであった。紀子にとってこの事は将来の天皇を育てる責任(人格形成も含め)を負うという事であり、宮内庁や皇室の「伝統」に傾倒して行く。結婚以来、皇室とはいえ「天皇」とは無関係の明るい家庭生活から百八十度転換し、内面では「重大な決意」をした、というのがその変節のきっかけらしいという。この事が生来のマイペース人秋篠宮や二人の娘との乖離を生んだ(例えば秋篠宮の訪問先での態度を注意したり、次女が熱中するダンスに反対したり、学習院以外への進学に難色を示したり)。
この記事を読んで、紀子が「決意」をした瞬間を大いに想像させられた。雅子妃、あるいは美智子妃が強いられた「覚悟」を自分に強いたという事だが、しかし決定的な違いは、具体的に何かのしきたりに従わせられたというのではなく、言わば能動的に、自ら「天皇(天皇家)ならこうすべき」という基準を求め、適合させて行ったらしい事で、この差は大きい。紀子の思う「天皇家の伝統」、あるいは見聞きしたそれを自らに当て嵌め、「決意」に見合う内容を家族に強いていったという事なのではないか。将来の天皇にはこう教育しなさい、といったお達しがあるなら、それに従うという態度、または取捨選択する態度が取れるが、まだ決まってもいない将来天皇になる「かもしれない」悠仁は未だその教育は秋篠宮家に任せられている訳であり、紀子が早合点とは言わないが一人相撲、空回りしている風景が見える。天皇家だろうが一人の人間、自分の夢もありやりたい事もある。それでいいのではないか(何なら女性天皇だって国事行為ができれば良いのだし、婿養子は世間でやってる事だし結婚したければすればいい)、と思うが、恐らく「決意」には野心の裏付けがあったに違いない。多大な負荷を引き受けるのだから、それに見合う身分や栄誉、評価を得たいと思うのは自然だ。そしてその目標をクロージングするため、伝統や慎みの態度とやらを目に見える形で示そうとする。そんなものに頓着しない家族は紀子に従わず、果ては長女の結婚と相成った訳である。

紀子にとって「決意」と共に選び取った道(将来の天皇の母としての道)は、あらゆる禁忌に囲まれた世間であり、つまりは減点を回避していくいばらの道だ。その道を行くために近親者に自由を許さず、「やがて得るもの」のための犠牲を強いる。凡そ幸福とはかけ離れた風景をその目を想像しながら視ると、我慢を強いる社会の大本が見えて来る気がする。小室氏との結婚を騒ぎ立てる人の気持ちが私には全く判らないが、これも想像するに、わけも判らず我慢を受け入れている人間が、我慢のヒエラルキーの頂点にある天皇家、皇室に属する人間の気ままな行動を見て難癖をつけたくなるのだろう(オブラートに包もうが要は難癖でしょ)。
無益な我慢もやめにしたい。
疚しい理由2021

疚しい理由2021

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2021/12/15 (水) ~ 2021/12/22 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

feblaboらしい作品、と言える程観ている訳ではないが、よくやられる議論物もワンシチュエーション、程よい謎解き、どんでん返し、つまりは演劇的娯楽性の高い演劇だ。
台詞が重ねられると共に状況が、人物の関係が見え始め、真相に接近していく、また時に裏切られるいわばミステリー。久々にブラジリー・アン作品を味わったが、良品と言えるだろう。
もっとも不明のままの部分もなくはなく、もっと言えば別の解釈もあり得るのではないか、という考えももたげる。3人芝居、2チーム。演出が違うとの事である。戯曲解釈まで変えて来るとしたらこれは中々のチャレンジだが・・。

ネタバレBOX

不明点は、あるいは戯曲の欠陥かも知れぬが、、いずれ書いてみよう。
ガドルフの百合

ガドルフの百合

KARAS

シアターX(東京都)

2021/12/10 (金) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アトリエを出てシアターXで行なう公演では、着想とその突き詰め度(完成度)を試す気概の感じられる舞台が味わえるので可能な限り行こうとしている。今回は紗幕を使い、照明も毎度ながら鮮やかで、側面に映る影を見せる場面も多い。
開幕するとテキストの朗読(以前の「シナモン」もアトリエのアナウンスも特徴ある声だと思っていたが佐東女史のであるらしい)が流れ、作者の化身と思しき男が歩いており、やがて風が吹き、遠くで雲から稲光が漏れるのが見え、やがて風雨に襲われ行く先に見える小屋に逃げ込む・・といった宮沢賢治の短編のテキストが勅使川原氏のムーブのようなダンスと合わさって立ち上がる。男は建屋の中に光る白いもの、やがて百合だと判るそれを見つける。彼はその百合に恋をする。
佐東は百合を形象し、純朴で妖しい動きを見せる。一方勅使川原は旅に疲れた男を踊りで「演じる」。
上演の中盤までは物語をなぞり、見事な世界観。陶酔へ誘うのは「物語性」である。が、物語は早々に凡そ言い尽くされてしまう。その先は、勅使川原と佐東の「舞踊」となる。テーマが物語に沿っていても、表現は舞踊であり、舞踊というものは如何ようにも題名を付ける事ができる抽象性がある。姿態の美を見せる時間となる。そして最後には物語に戻り、「恋」の美しげな形、絵のような構図を見せてカットアウトとなる。
舞踊とは言え、冒頭から「物語」を追って観ているので、「舞踊」という抽象世界に入った瞬間戸惑いを覚える自分がいた。そして最後は既に語った物語の一片をリフレインしたもの。
最初から「舞踊」鑑賞モードであればまた印象も違っただろうが、物語を味わうが故に、とても見やすく飲み込みやすかった。ところが宮沢作品の終了と見えた所から、芝居のコールで歌う歌のように舞踊がサービスで踊られ、さらに、既に語った物語の一場面あるいは物語を象徴する場面が巻き戻して再現される。終盤のくだりは「付け足し」(サービス)と感じられたが、好みから言えば、「物語」叙述を上位に据え、1時間前後のところで終了しても全然良かった。

クリスマス・キャロル

クリスマス・キャロル

劇団昴

座・高円寺1(東京都)

2021/12/02 (木) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同じ劇場(座高円寺2)で観た「ラインの監視」が初の昴であった。「クリスマス・キャロル」は座高円寺のラインナップに上ったので注目した。隣のオバさんペアの会話によれば「この劇団はこれずっとやってる」恒例の演目らしく、ネットによると前回の2017年まではほぼ毎年あうるすぽっとで上演、本拠地三百人劇場閉館の2006年頃からのデータでは菊池准台本・演出、やがて同台本を河田園子演出、エスクルージ役はほぼ金子由之とあり、近年の6回は12/24・25劇場ホワイエでの無料公演となっている。だが4年空けて復活した今回は、海外の脚色版を河田が演出した有料公演である。劇場も変わり、スクルージ役は宮本充、新版クリスマスキャロルであった。
過去データを調べた理由は、「長くやっている」舞台にしては・・?というちょっとした違和感。当初から音楽は上田亨となっているがシンセ音の伴奏が今風。演劇アンサンブルの往年のレパ「銀河鉄道の夜」のような磨かれて黒光りした感がなく、後出しじゃんけんのようだが「新版」だと知って合点が行った。
この原作には昔からピンと来ない所があって、今回は芝居を観て改めてその事に思い当たった。一人のリアルな存在が変化して行く過程というより、グラフィックソフトで合成した顔のように色んな「困った人」の要素を詰め込んだスクルージという存在と、対比させる形で理想的な人間のあり方を提示した作品、という風に解釈すればスクルージの言動の矛盾も気にならないのだが、芝居となるとそれを追ってしまう。「困った」要素を脱して理想に近いスクルージとなったラストの場面は爽快で、これは私流に言えば自己矛盾なスクルージを辿る時間を脱して、自我同一性を獲得した事による気持ちの良さと、「良い人間になった」喜ばしいラストとが混同され(という言い方が意地悪ければ、重ねられ)、劇的高揚とともにラストを迎える事が出来ている。
つらつら振り返ってそのように納得されたものである。

ネタバレBOX

スクルージという人物の「問題性」は、人間が等しく陥りがちなネガティブ思考やニヒリズム、偏執や失意の状態など諸々相矛盾するあれこれであって、これらを彼は担わされている。
スクルージとは私たちである、その象徴的存在としてある、という解釈が最もそぐわしいが、そのように整理されるためには小説を書き起こしたような台本では解決しないだろう、と言って、原作のそれぞれ魅力のあるエピソードを使わないのではクリスマスキャロルにならない。厄介な原作だが、観る側が小説の趣旨を汲んで味わえば良いだけの話かも知れない。が、話を続ける。
一方「スクルージ以外の人々」はどういう存在か。つましく生きる善良で希望を捨てない信仰篤い人々、となっている。だが彼らが等しく貧しさの中に幸福を感じる生活ができているのは、実はスクルージという悪い見本があるためで、その対照として輝いて見えているというのは物語の構図としてだけでなく、現実にもあり得る事ではないか(だとすればスクルージは最大の貢献者だが、まあ極論はおいておくとして・・)。
彼らはスクルージ(つまり困った人)の「隣人」として描かれている、というのが妥当に思う。部下とその家族、甥の家族、町の人々、またわざわざ彼の前に登場して過去・現在・未来を見せて回る聖霊たちは、スクルージ一人を慮っている。この一対全員という対比が連想させるのはやはり聖書の99匹の羊と一匹の羊の譬えだ。神は迷える一匹の羊を他の九十九匹より大切にされる、という話。
物語の方は、彼が改心した後の顛末を喜々として描く。彼はお金に「固執する」ことを改め「ほどこす」ことを選び、挨拶さえ交わさなかった彼が挨拶を返す事で人を驚かせ、友情を育むことを選ぶ。ただし物語が記す振る舞いはお金持ちにしかやれない行為である。彼はコツコツお金を貯めた期間があったからこそ「お金に頓着しない」態度が可能となり、美徳を示せたのである。(これを読んだ人は仲良き事は良き事、という教訓を学ぶだろうが、そのためには財産を持つのが最も良い、という教訓も学ぶ事ができる。)
だからこの話は、キリスト教精神を説くお金持ち向けのお話、譬え話だと位置付ければすんなりと飲み込める。天国に持って行けないものを積むのではなく、徳を積めよ、との結語へ導くための遠大な譬え話である。

こうした突っ込みをかわしてなお成立するクリスマスキャロルであったか否かが、私にとってはやはり大事だ。
特にスクルージが「変わる」きっかけが、実はよく判らない。変わった結果=人々と情を交わし合う姿は美しく描かれているが、では彼はそれまで何が原因でどういう状態にはまっていたのか、が曖昧なので、何をきっかけに彼が変ったのかはよく分からないのである。
舞台の方では、第一の精霊が彼の幼少期、青春期の甘酸っぱい思い出や「失敗」の体験が点描されるが、「それゆえこうなった」自分を彼が自覚しているなら、動揺しないはずだ。それが、この第一の段階で「もうやめてくれ」と泣きが入り、黙秘を続けた犯人が刑事の前で折れるように「正解を知っていたが拒否していたのを飲み込ませた」という感じになっている。では彼は何故「折れた」のか、そこも判らない。スクルージという人間の軌跡を厳密な意味で追う事ができない作品にやはりとどまっている。
ただし、この新版の戯曲のちょっとした脚色だと思われたのは、第一の精霊の前でいとも簡単に崩れるスクルージだが、第二の精霊(現在)は彼が現在接点を持つ従業員の家族、また甥の友人仲間の場面に同席し、彼らのスクルージについての会話を聞くが、彼は既に人間への関心をまるで子供のように取り戻しており、彼らとの交流をしたい衝動を抑えられない(が、彼らにはスクルージは見えないので交流はできない)、という描き方。そして第三の精霊(未来)が恐ろし気な姿で現れた時、スクルージは既に予感して彼に「私に未来を見せようというのだな。」と言う。弔う者もいない孤独な死者が横たわっており、義理でそれを運び込んだ者らが「こうはなりたくないな」等と捨て台詞を吐く。既に人間性を取り戻したスクルージに対し、ダメ押しで見せなくても良い場面を作っている、というのが(原作においても)きつい所だが、やはり過去、現在、未来という展開に作者はこだわったのだろう。でもって作者はスクルージに「あの男は私なのか?」と聖霊に訊ねさせている。「あれが本当の未来なのか、それとも私が変らなければああなるという警告なのか」とまで。未来が決定されているなら、それはそれで受け入れるしかないものだが、作者はスクルージを「変わる余地があるなら変わるが、余地がないなら変わる努力はしない」心の持主だと描きたいのか、あるいは警告というものが人間にもたらす効果を描きたいのか・・ここはどうにかしたい場面の一つである。そもそも「現在」の場面で効果や目的にかかわらず人と関わる悦びを発見(再発見)したスクルージが居るのに、その下の次元に後退させる必然性がない。
もっとぐじぐじと文句を垂れるなら、「過去」の彼の選択は彼を孤独の道へ導いたことを示しているが、彼はその事の後悔をどこか抱えていて、それを忘れるため、否それを正当化するために金に固執する道を邁進し続けていた、と理解できる。だがそれは端から分かっていた事で、確信犯なわけで、過去の場面を見せられただけで動揺するかな~と思う。そして「現在」において彼はすっかり変わったスクルージを演じるが、金のある無しに関わらず、人との交流を楽しむか楽しまないかは選択の問題、または性格の問題で、彼は何が変ったのでそうなったのか、というのが判らない(先も述べたが)。
ストーリーとは別に、以前も「文句」として書いてしまった上田亨氏の音楽。氏が担当と知らずに舞台を見始めて、やはりあのシンセのような音と、エコーの使い方が耳についてしまう。感動的な楽曲もあるが、良い曲とそうでない(好みでない)曲とがある。私が優れていると感じる劇伴作曲家との違いは、音楽が前に出過ぎている事だ。音楽の色に場面を染めてしまい、場面を主導する位置に立ってしまうため、好みが違うと興醒めしてしまうのだと思う。
帝国月光写真館

帝国月光写真館

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2021/12/08 (水) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初・高取英作品。氏が主宰する月蝕歌劇団にまではついに触手が伸びなかったが、2018年没した高取氏の追悼公演という事で「珍し物見たさ」も手伝って足を運んだ。
寺山修司と所縁のある人であり源流のある劇団、という印象であったが、チラシ絵が同じ丸尾末広“系”?でつい混同してしまうA.P.B.tokyoというユニットや青蛾館、また後に知ったが池の下が寺山戯曲を上演するのに対し、こちらは高取作品の上演が主であったようだ。「月蝕歌劇団」とは若き高取氏が初めて寺山氏に提供した戯曲。劇団旗揚げは1986年に遡るがそれに至るまでの数年「演劇団」名義で高取作・流山児祥演出による舞台を数本やっており、今回の作品はその最後にスズナリで上演した作品である由。当時からスズナリは演劇人にとってのステータスで成程流山児氏にとっては記念碑的な作品な訳である。(以上観劇翌日にweb調べ。)
さて舞台。音楽・歌の使いようは演出面で天井桟敷に寄っており(私は万有引力を通して知るのみだが)、廻天百眼などの音楽系アングラの源流に触れる新鮮さがあった。戯曲版「ドグラマグラ」等の著作がある高取氏の本作は、ストーリー的には唐十郎に近い言葉を媒介した話運びもありつつ、内容は猟奇探偵物のエッセンスで染められている。
軍靴の響きが高まる昭和初期、紙芝居に登場する赤マントが帝都に出没し、暗躍しているという・・冒頭2人の少年が一方の父の月光写真館なるものを探して冒険の旅に出るが、やがて闇の世界は現前し、憲兵隊、宗教団、赤マントらを操る男や、極秘研究に打ち込む科学者がけん制し合いながら何かを巡って動いている様相。何やら剣呑な原子(幻視?)再生機の完成が一つのエポックとなるが、果たして・・。
伏線回収の精度は正直低いが、目指している世界観は判りやすく、この路線の開拓者の一人と認識した。

ホテルカリフォルニア

ホテルカリフォルニア

劇団扉座

紀伊國屋ホール(東京都)

2021/12/07 (火) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の扉座観劇は、思い出深い演目ゆえ。もう20年も前のこと、知人の紹介でその知人が関わる西東京あたりの地域劇団がこの戯曲を上演するのを見て、笑った。あの芝居がこれだと判ったのは、題名に「厚木高校・・」と副題が付いているのを見てもしやと色々調べたからで、この演目は誠に横内氏の「私戯曲」であることが今回改めて観て非常によく判った。
劇団40周年に寄せ、祝祭的出し物を売れっ子俳優も総動員で実現させたようである。
扉座はしばしば踊りを多用する劇団だが、今回も踊りはキーになっており、取って付けた感なく芝居にがっつり噛んで堪能できた。「ホテル・カリフォルニア」を皮切りに70~80年代洋楽も全開で、音楽とダンスの高揚を織り込んで高校生活の断面を描いた弾けた劇世界を、おっさんおばさんが衒いなくやっている。
はっきり言えば私が20年前観た芝居の方が芝居として愛せたし、この戯曲自体若者らに書かれたと言って良い、むしろ若者らに是非やってほしい作品だなと感じ入った次第であるが、此度は扉座のアニバーサリーな趣向に乗り、大いに拍手をさせてもらった。

ネタバレBOX

この日は実はNODA MAP「THE BEE」三度目の当日券抽選に外れ、その足で新宿紀伊國屋ホールの初日に駆け付けたのであった。ちょうど割安の回だったが後方は空席もあり、カーテンコールでは宣伝を、と呼びかけていた。チラシ情報が主の私にはあまり宣伝に力を入れていないのかな(余裕なのかな)、と見えていたがやはり演劇稼業は大変なのだな。。
この芝居の序盤で主人公が演劇部の先輩に連れられて観たつかこうへい「熱海」の衝撃を伝える場面、演劇部で取調室の再現をするシーンを見るにつけ、横内氏の受けた衝撃がストレートに伝わってきてひどく納得した。が、扉座の芝居は少し違うんだよな、とも思う。だが高校演劇で劇作の才を開花させたのは本当らしく、やはり自伝的作品なのだが、私にとっては20年前に観た学園物の秀作がベースで、記憶の中の作品をなぞりながら観たような事であった。

その上でこの芝居の持つメッセージ性にも(作者は嫌うかもだが)触れてみる。(投稿してから日が経ったが。)
芝居におけるナレーションの効果をしばしば思うが、想起するのはこの芝居だ。
白け世代の高校の日常風景がナレーションで的確に説明される。
飛ぶ太陽

飛ぶ太陽

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/11/26 (金) ~ 2021/12/08 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

毎回何がしか新味のある桟敷童子だが今回はまた異色作。戦後史に埋もれたある事件の紹介、描写に徹したと言って良い作品となっている。登場人物は恐らく創作だろうが、亡くなった住民百数十人中には居たであろう想像に収まる人物たちが登場する。敗戦後の一歩を健気に踏み出た時(1945年秋)に起きた筑豊炭鉱の町の爆発事故が題材である。東憲司氏がこだわる土地と歴史に絡めた作品は多いが、「昭和20年11月12日午後5時19分」の唱和をこれでもかと挿入し観客の耳に刻みつける。(現に覚えてしまった。)ただ事実を題材にしようとドラマを書いてきた桟敷童子が今作では事実であることにこだわり、着地させた。これに至る経緯または意図について例によってあれこれ想像をめぐらしてしまうが、またいずれ。

ダウト 〜疑いについての寓話

ダウト 〜疑いについての寓話

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2021/11/29 (月) ~ 2021/12/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

英語戯曲作品の翻訳・演出を得意とする小川絵梨子女史は本作でも本領発揮、題名が示すように疑惑の真偽を探るミステリーでもある本作の持つポテンシャルを最大限に引き出し緊迫感十分であった。主役、と言って良いだろうシスター(学校長)役・那須佐代子と、神父役・亀田佳明が疑惑を巡って火花を散らし、新人シスター(教師)役・伊勢佳世、生徒の母親役・津田真澄の貢献も目に焼き付いた。
映画版を観た印象というのが今一つであったので、それほど期待はしていなかったが収穫であった。

ネタバレBOX

元々舞台のたに書かれた脚本で、映画版は作者自身が脚本化・監督し、脚本は映画仕様に随分書き直したらしい(web記事より)。ラストでどんでん返しがあったと記憶するが、それがうまくハマらず「おや?」と寒くなった。「破線のマリス」という邦画のラストで感じた論点ずらし(感動話にシフトしてしまい肝心の謎が置いてけぼり)に似た・・。
だが舞台は微妙なニュアンスも含めて細やかに整理された演出で、ストーリーが明快に伝わった。
ただし観客が最終的にシンパシーを寄せる校長の信念が果して「正しい」と言えるものか否かについては、多様性が言われる今は少数派にならざるを得ないのかも知れぬ。存在の承認こそが成長と発達の起点である、という私も信じている視点からすれば、校長の方針は「時代遅れ」とも。もっともこの芝居に関しては校長の判断が正しいとの仮説をとるが、ミステリーとしての面白さとは別に、ドラマは一つの問いを投げている。

他の学校から転任(転職)してきた新人シスター(教員)に対し、校長が掌を加えず厳しく対する芝居冒頭のやり取りから見事で、「教え」「愛する」教員の仕事にやり甲斐を見出だす新人に校長は「要は注意深くある事」と言う。そこには万人に対する「疑い」が込められているが、今その最大の的が神父であり、中盤、そして終盤での校長による追及と反論する神父の厳しい応酬から「真相」が少しずつ浮かび上がる。
ワクチンの夜

ワクチンの夜

城山羊の会

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2021/12/03 (金) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前作は映像で観てこれも独特であったが、今回も共通するものがあった。というより、恐らく内田ケンジの狙う世界が、一度(氏の領分である)映像表現で鑑賞した事で、よりその意図を汲んで見れるようになったのかも知れぬ。
コロナ・ウイルスのワクチンを今日打ってきた夫婦、その息子、その祖父(夫の父)、息子の大学の後輩の男女が、夫婦の家のリビングを入ったり出たり。下手が玄関への廊下、上手に二階へ行く階段(結構な高さまで作られている)、正面奥の中央が台所へ行く出口、その下手寄りに祖父の部屋に続くらしい廊下が奥に消えている。
前作(映像)では主人公の主婦の妄想と、現実との境界が溶解していたが、今回「妄想シーン」は出てこないもののワクチン熱で熱い吐息をつく妻は、既に妄想(発情?)モードの中にあると読めたりする(しかも後にその対象となる若い男に曰く、実は今日注射をした若い医師を「ある人」と見紛って体が熱くなった)。発情モード全開になるに従い照明が落ちるのも主人公の見ている風景という解釈を誘う(「日暮れ時」は後付け)。

約1時間半、言ってしまえばどうでもいい類の話なのだが、あんな事も(こんな事も)普通しやしないが、わざわざエロ要素を盛り込んでたりもするが、期待に応えつつ予測を裏切る展開から目が離せない。
大昔読んだ筒井康隆だったかの小説に、人の行為全てがリビドーに裏付けられている描写があったような。この芝居の人間の行動も全てそれである様を、皮を剥ぎ取って「ばぁぁ」と開けてみせるので笑いになる。ショーケース(文字通りの)の外から人(観客)が覗き見してると気づいたら「きゃっ」とめくれたスカートを直す訳である。

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