実演鑑賞
満足度★★★★★
グレイト! 華5つ☆。観ることができて本当に良かった。
ネタバレBOX
板上は平台をセンターに据えその上に場に応じた小道具をセット。上手下手にハの字型に側壁が置かれ各々樹木の枝のような文様や花のような文様をあしらってある。この“ノ”と“〵”頂点からセンターへ延びた衝立の奥が通路になっており衝立と衝立の間は開けてあるので通路を介して下手、上手、そしてセンターが出捌けに用いられる。袖は当然観客からは見えない通路が袖の役割を果たすと考えて良かろう。
物語は、作者らの言によれば『ブレーキの壊れた観覧車のようなSFファンタジー』とのことであったが、自分には極めて深いメタファーを用いた傑作と感じられた。実際描かれている情況は2011.3.11 14時46分頃に発生した大地震とその後の大津波が曝け出した人災のあからさまな実態であった。あの辺りは海岸がリアス式の処が多い為陸地に津波が近づくにつれ津波の高度が高くなることは教科書で習ったから日本中の子供が知っていた。自分もその頃から知っていたと記憶する。にも拘わらず自民党政権時代に防波堤の高度不足が東電社内で問題化されていたにも関わらず対応が取られなかった結果、原子炉がメルトダウンを起し日本中がパニックに陥ったばかりではなく、経産省を始めとする官庁が嘘を交えた誇大宣伝を大々的に喧伝しマスゴミが推進派の戯言を無批判にメディアに載せることも多く、首相であった菅さんが視察に訪れた際には首相批判の記事が量産された。当時東電社長であった清水は「逃げていいですか?」と宣わっていたという。而も清水の嫁の父、勝俣恒久はこの人災の責任を逃れることばかり画策していたのではなかったか? 責任をキチンと果たして被ばくし亡くなった幹部は吉田所長だけではないのか? 長い裁判の結果、他の幹部は複数の副社長らも総て無罪! 最高裁裁判官の資質を疑う。人災後ほとぼりも冷めたと判断したのか? 自民・公明の与党+推進派及び官僚共は、愚か極まる原発再稼働路線を又も嘘と詭弁で推進している。
ところで国とは何か? 社会で習ったから誰もが知っているハズだが一応上げておくと国家構成の3要件は、領土・国民・主権だ。
領土は、国家が権限を及ぼす地域を指し、国民は、その領土に居住し、国家に属する者を指す。そして主権とは、国家が国内政治を自律的に決定し、他国から干渉を受けない権利を指す。これら3要素が揃うことで、一つの政治社会が「国家」として国際社会に認知される。ところで領土には陸地のみならず、領海や領空も含まれる。然し現在の日本は首都東京を含む地域一帯の上空空域、沖縄県を中心とする地域一帯の空域が外国イコールアメリカの管理下にある。また日本各地に存在する米軍基地は治外法権領域であるが沖縄に於いては日本国土の僅か0.6%しか占めない沖縄にその約70%が集中しレイプを始め数多くの凶悪犯罪が米国兵によって実行されてきたし、現在もニュースで報じられることは国民のよく知る処であるが、その処罰さえ日本の法で自由に裁くことができないのに国民の反発は異常に少ない。更に言えば毎年秋にアメリカから政府宛てに届く「年次改革要望書」によって日本の政治・経済政策が実施されてゆく。これは日本政府がアメリカの傀儡として機能していることを如実に表すものでしかないのは要望書の内容と日本を長く牛耳ってきた自民党の対応策を比べてみれば一目瞭然だ。これら総てを総合して日本が独立国等と言えると考える者があるとすればちょっと首を捻らざるを得まい。然し乍ら、これが現実である。F1人災を起した原発も輸出元のGEの技術者が国外に輸出するには余りにも危険だと抗議しアメリカ議会でも大問題になったことで知られた型式の原子炉であった。導入に積極的だったのは中曽根康弘及びCIAエージェントとしても著名であったポダムこと正力松太郎で正力は配下にあった読売新聞で原発を夢のエネルギーとして盛んに喧伝し、初代科学技術庁長官も務めた。関東大震災時の朝鮮人虐殺にも自らに一定の責任があったことを匂わせる発言を残している。更に若干。敗戦後の日本の歴史に極めて屈辱的且つ決定的に不利な重大協定を結んだ国賊・吉田茂についても一言記しておかねばなるまい。締結当時日米行政協定と呼ばれ現在は名を地位協定と改めたものの実質的内容は殆ど変わっていない協定で日本の空域改定や米兵の犯罪を日本の法でキチンと改定したり裁けないばかりか、米国人は国務である等の理由をつければ日本への入国・退出は完全に自由であり外務省等も実際アメリカ人が日本にどれだけ居るか把握できないのである。その方法は簡単、海外から米軍基地へ飛来し基地ゲートから日本の国土へ出るなり六本木迄ヘリで飛び街へ出るなりできるのだ。治外法権もいい処ではないか! かくの如く日本はアメリカの支配下にあり、その下で国民を騙しつつ、自らは王ででもあるかのような専横を恣にする下種政治屋が「国政」をかつてなき迄に骨抜きにし、無明の闇に沈めた。にも拘らずこんなあからさまな欺瞞と子供騙しの手口を見抜きキチンと批判することも真陸にできない国民とは何ぞや! である。
このような国民がこぞってここぞとばかりにイビったのが、グローバリゼーションが官民共同で推進され、調子にのった者共が勝ち組、負け組と囃し立て自分達同様に愚かで卑怯極まる下種では無く、単にマイノリティーであったり、貧しい者であったり、異なる価値観で生きる人々であったのではないか? 今作に登場するのは所謂ダメオヤジの主人公であるが、自分は独りぼっちだ、と孤独感を募らせるセクシャルマイノリティーも登場し極めて大事な役を演じる。だが本当に彼は孤独か? そうではあるまい。真に孤独であれば、己を認識することさえできない。彼は孤独ではなく彼の実存が社会の「一般的常識」によって引き裂かれているのだ。即ちダーザインがヘテロ的在り様の「常識」によって引き裂かれているということだ。換言すれば自らの性認識と社会一般から見られる性認識が逆なのである。このギャップが彼を否応なく引き裂き苦しめているのである。ダメオヤジの他者を観る目に分け隔てのないこと、それが本物であることを知って初めて友を得、自らが生きていた証を託すことのできる者を信じることが初めてできたことに気付き、彼は安堵して自死による自由を行使し得たのである。哀しいことではあるが、これが彼にできた唯一の自己解放の道だったのだ。今作が描く地域は幾つかあるが彼が活躍していたのは新宿。若い頃、自分が入り浸っていた新宿である。自分が入り浸っていたのはゴールデン街で、当時トーシローは怖がって余り来なかった。そんなゴールデン街を縄張りにする猫たちは異様に太っていたのを思い出す。歩くのに腹が地面に触れるほどにも太っていたのである。何故かといえば、性的マイノリティーが働く店がかなりありそこで働く人々が野良猫を可愛がる余り餌を与えるのでこのようであったのである。彼らの寂しさ苦しさを分かっていただけようか?
今作の上手い処は他にも幾つもある。例えばダメオヤジを覚醒させ地球を救おうと図る神乃至その使いのあれやこれやの覚醒作戦に対し悪魔の誘惑が対峙し続けるのであるが、りんご(即ち知恵の実)を食べれば総てが叶うとの文言を実現させることは神或いはその使いの要請することも実現できるということを利用し、同時に善と悪はコインの裏表即ち表裏一体であることを用いて悪の論理を以て善を為すことを可能にしてしまうダメオヤジの快挙。この際、一人称が“僕”から“俺”に変わり悪魔が彼に恋をし子供迄為すことになったが、この一人称の変化によって表されている男らしさや力強さ、決断力の変化をさりげなく表現している点も見事である。また3.11人災によって行方不明となっていた氷川丸船長父子とその次女(家族は操業中に津波で死んだと考え孤児になったと考えて時にはウリをしつつ糊口を凌いできた)がダメオヤジの部屋に転がり込んで世話になっていた際空腹の余り牛丼を食べたいと願い、腹をすかせた彼女の為にダメオヤジが牛丼を買いに行った先で金が足りず、用意された牛丼をタダで貰うことになった時、この縁で父子が巡り合うことになったりもしてアンラッキーとしか言えない人々に僥倖が訪れた経緯も描かれていた。他にも幾つかの挿話がありつつ物語は展開したが、ラストは時が移り悪魔と元ダメオヤジの間にできた子の時代、AIの長足の進歩により人間はAIに支配されようとする時代になっており神乃至その使いたちから夫婦はミッションの実行を依頼される。然し悪魔と元ダメオヤジ夫婦の解答は「俺たちの子だ、何とかやってゆくだろう」である。見事!
実演鑑賞
満足度★★★★★
先ずは、旗揚げ公演おめでとう! 自分の座った席がほぼセンターのやや下手最上段の一つ下だったのだが、空調の雑音と音響が役者の台詞に被ると台詞はその度に殆ど聞こえない状態になった。それが唯一残念だった点であるが、8本の短編を組み合わせたオムニバス形式の脚本は何れもほぼ自分事として追体験しつつ観ることができ、それだけ自分自身のイマジネーションが広く深く内的に開かれて実体験に迫るような感覚で体験できた。実に面白い作品群であった。このような経緯で拝見できたので台詞が聞き取り難かった点はマイナスとせず、旗揚げを寿いで☆は5つとした。
ネタバレBOX
演じられた作品群は以下
1;オーディション
2:合コン
3:不倫
4:ストーカー
5:起業
6:上京
7:骨董品
8:劇団
総じて修羅というより修羅場が描かれる作品群であり、基本的に狂言回しが入る。舞台美術は小道具を場転でスピーディーに換える形を採るので板上は実質素舞台と考えて良い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
最新技術とニンゲン。観るべし!
ネタバレBOX
つい最近急速な発達を遂げるAIとヒトとののっぴきならない関係緊密化を巡る物語である。かねてより地方、僻地などの医療従事者不足は喫緊の問題であるにも関わらずなおざりにされてきたのは周知の件だが、今作ではこのような極めて重大だが蔑ろにされている日本という「国」の重大問題をオガミ島という島を舞台に展開する。言うまでも無く、小さな島というものは例え本土から僅か10㎞程度の距離であっても大災害や台風、潮流の加減等々によって本土とのあらゆるコミュニケーション・物品移動等が阻害されやすい。今作では以上のような状況を在る部分では逆手に取り、ある部分では現在と近未来とをリンクして物語を紡いでゆく。新型パソコンにはAI対応プロセッサー&キーを具えた物が多く販売される実情があるし実機を操作した人も既に多かろう。この傾向は言うまでも無く2022年11月にChatGPTが一般公開されてから急速に世界中に広まりその開発競争は凄まじいとしか言えないレベルで進んでいることも今やネットユーザーなら誰もが知っていることである。実際AI同士にラボで対話をさせた結果が発表され、ある時点からAI同士は人間には理解不可能な単語等を用いて会話し出し出した事例が報告されており適切な対応が為されたとは聞いていない。既知ではあり既に常識ではあるが、コンピュータの計算能力がヒトを遥かに凌ぐことは自明である。而もバグやハッカーによる被害がなければ論理的で無駄が無い。無駄が多い人間が勝てる領域はメンタルな問題等数少ない領域のみである。この状況を多くの人間は深刻に捉えていない。
今作は今この「国」で実際に起こっている過疎地の医療問題をAIとの鬩ぎ合いで描いた作品と言える。この状況を分かり易く而も喜劇的要素を含ませつつ随所に深い問題をさりげなく配して編まれている。舞台美術は合理的。照明、音響も良く、スクリーンの用い方もグー。無論演出、キャスティング、演技も良い。一番演技が気に入ったのは古谷 照子を演じた仲野 元子さん。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板空間は観客席真正面の長方形空間。上手袖が出捌けである。板上には一台のリヤカー。荷台には芸人であるゲサク&キョウコが芸に用いるチンドン屋風太鼓、空き缶、ジョロ、バケツ、バチ等と生活に必要な水筒、日常食・干し芋の入った容器、捕虫網、飯盒、毛布やラジオ、懐中電灯、帽子等及びコルト45ピストル、フェンシング用剣、日本刀、矢等の武器類が水屋風の家具の棚やスーツケース内、リヤカーの荷台を構成する柱等に要領よく仕込まれている。中でも特筆すべきはリヤカー左前方に取り付けられた九重五郎吉一座と記された旗。役者陣の演技が良い。
ネタバレBOX
物語は不条理演劇のメルクマールとなった「En attendant Godot」の系譜に属す作品と言えよう。実際、ゲサク(井村 昴氏)とキョウコ(伊東 由美子さん)の演じる芸は好い加減をベースとし「出鱈目は芸の神髄」と豪語する体の、つまりこれは現実と夢の間に虚構という名の嘘を用いて真実を紡ぐ、芸という名のゲサク流演劇論だ。時に超弁証法的、時に言語破壊またある時は物理的に在り得ない不条理に満ち満ちた芸であり、我らニンゲンの持つ底抜けの奈落に於ける無明へのアイロニカルならざる寿歌と言っても過言では無いほどだ。この2人にひょんなことから加わることになったのがヤスオ(猪股 俊明氏)である。彼は特異な才を持つキリシタンらしい人物。ゲサクも知的だがゲサクとは異なるタイプのより一般に受け入れられ易いキャラを持つ温厚な人物であり、極めて紳士的な人柄である。その彼の特技とは、何か元になる物さえあれば、それを寸分違わず再生できる能力である。一座は彼のこの特殊な能力を高く評価し彼の好ましい人格も相俟って一緒に旅をすることになる。だが彼らの道程は決して楽なものではない。というのも彼らの生きている状況とは、核戦争によって富士山が半分吹き飛ばされる程の被害を受け人類の殆どが既に死に絶えたにも関わらず戦争の影響で部分的に壊れたコンピュータの誤作動による残存ミサイルや小型核爆弾、水爆さえもが発射され続けている世界なのである。核物理学の常識から言えば当然既に地表上の生物の恐らく95%以上が既に死に絶えていても不思議ではない状況であり生きる為に必要な安全な水・食料も基本的には入手できない世界であるが、そこは不条理劇、目を瞑って先に進もう。
何れにせよこの3人の珍道中は世界を股に掛けることになる。偶々某街で公演を行った際、ヤスオの特技を用いて創出したロザリオを観客たちにプレゼントしたが、その公演のプレゼント後に激しい落雷があり金属でできたロザリオをプレゼントされた観客たちの幾人かが亡くなった。そのことを自らの責任と感じたヤスオはエルサレムを目指す旅に赴く為、一座と別れる道を選ぶ。残されたゲサク&キョウコは、先ずモヘンジョダロ、最終的にエルサレムに行こうということになるが、ちょっと深堀すると実に興味深い思考が見えてくる。タウヒードの思想である。イスラム教は7世紀に起こった一神教であり、ムスリムにとってユダヤ教、キリスト教は謂わば兄弟のような宗教であり信ずる神は同一である。異なるのは預言者なのである。ユダヤ教の預言者とはモーセ、キリスト教の預言者はイエス、そしてイスラム教の預言者がムハンマドである。タウヒードとは華厳宗の一即多、多即一と非常に似た思想であるがこの思想はイスラムの根本原理と相通じる思考である。而もモヘンジョダロは仏典が仏教の生まれた地から広まってゆく途上での一大集約地であり、エルサレムは三大一神教総ての聖地である。現在に伝わる世界宗教に纏わる大変重要な拠点を巡ることになるこの作品の人類最後の僅かな生き残りたち(仏教徒及びキリスト教徒)の一部が目指すことになる場所と旅の持つ思考的意味の如何に大きいことか!
実演鑑賞
満足度★★★★★
今回の二本立て公演は、是非二本とも観ることをお勧めする。両方観ると全体の趣旨が良く理解できるからである。「ワーニャおじさん」ではチェーホフ原作の翻案と素直に理解できる作りと演出だが、「寂しい人、苦しい人、悲しい人」では作風が全く異なるからだ。この企画自体が抜群であり、演出も各々の作品を深く理解し活かした演出で素晴らしい。追記2025.4.13 14時
ネタバレBOX
「ワーニャおじさん」
無論原作はチェーホフ。但し今回演じられた作品はアイルランドの劇作家ブライアン・フリールによる翻案(1988)で尺は140分の大作。客席にサンドイッチにされた空間が板となる。舞台美術は場転によって小道具が調整される乃至は入れ替えられる。各々の客席と板の狭間は場転の際白いカーテンが引かれ場転の動作が隠れる。然しその間も台詞やギター等の音が入る或いは場転の際の演出家と役者陣の生の遣り取りが聞こえてくる等全く飽きさせない。役者陣の演技力も極めて高く本当に良い舞台を観ることができたという感が強い。
チェーホフの原作に顕れていた末期帝政ロシアの支配層の為体をより具体的に、そのような階層を神格化していたワーニャやその母・マリアそして姪・ソーニャと現地主であるソーニャの暮らすこの地で居候をさせて貰っているテレーギンはこの地の先代の地主であった。知恵者の婆や・マリーナの随所での説得力のある言葉。下僕たち(イェフィムとセミョーン)の出世を巡る遣り取りや仕事も下層民の暮らしを垣間見させて興味深く、チェーホフの作品に幾度となく登場する自然破壊への危機感とその危機がチェーホフ存命の時から数えても決して遠い将来ではなく一世代後にも起こり得る危機であることとして語られていることも重大である。増して我らの暮らす現代に於いてをや。喫緊事であるにも関わらず世の大勢は歯牙にも掛けない。こういった中で印刷物や権威者によるヒトそのものの生きる意味やそれが措定された後の生き方その物に対する方向づけ、そのような動きに対する反論・異論、革命論などが実際には内容の全くないペテン師としての支配階層にいいようにあしらわれている現実。その現実を正確に理解しているにも関わらず支配層を現実的・具体的に倒し、新たな単に人間のみならず生きとし生けるものたちとの相互関連性を活かし、生物多様性を活かしてこそ成り立つ農に関わる者もまたストレスや無意味と向き合う虚無感や耐え難さばかりの人生から解放され、倦怠と虚無からではなく、明日を楽しみにできる希望と努力の稔る充実感を寿ぐ為に飲む酒が真の旨さを齎す。そんな未来を死後のパラダイスに求めるのではなく現生に求めることができる。そんなチェーホフやフリールの夢見る視座の投影も見えるようだ。
終盤、ワーニャは大学教授を退任しこの夏その美しい妻・エレーナと共にワーニャ達の暮らすこの地で過ごしているセレブリャーコフの余りの身勝手と彼の二度目の妻であるエレーナへの熱愛を裏切られたことの痛みに耐えかね遂にセブリャーコフに対し発砲した。弾は当たらず、弾切れで殺害は失敗した。失意の余りの狂的振舞もこの事件の飛躍的な断裂性によって醒まされ、セレブリャーコフとワーニャは話し合うこととなった。
一方、セレブリャーコフの痛風治療の為片道4時間の道を夜、真夜中、日中要はいつ何時を問わず呼び出され足しげく通っていた医師・アーストロフの希はエレーナへの恋の成就であった。アーストロフの優しさ植物を愛し何故愛するかを良く知り植物が齎す恵のお陰で動物たちが豊かな生態系を産み連関しつつその多様性と豊かさを増していること、この関係性は極めて微妙でデリケートな相互依存によって成立しており一旦壊れたら最後人間の力如きでは到底再生できないこと迄見通すだけの天才であることを2人の女が知り、1人は熱烈に1人は夫有る身として多少の距離を持って愛していた。前者はソーニャ、後者がエレーナである。そしてワーニャは発砲事件直前エレーナに捧げる為の薔薇を摘みに庭へ出、戻って来た瞬アーストロフとエレーナが接吻している現場を見てしまっていたのである。ソーニャは、自分がアーストロフに好かれてはいても愛されてはいない現実をワーニャは生きる為の唯一の光であったエレーナに人間としての尊厳は認められても決して愛の対象では無いことを思い知らされていた。要するに普通の人間だと痛感させられたのである。そして今作は、そのような普通の人間の唯一無二の幸せは此の世に存在しないこと、幻想に映ずる天界のみにあることを告げるのである。
救いようの無いこの世界。この唾棄すべき現実を抱き締めるような作家の姿勢に共感する。
「寂しい人、苦しい人、悲しい人」
今作は一旦原作は悉く解体、デフォルメされ殆ど原型を留め得ぬ迄に再構成されていると考える。つまりこのような上演形態以外では、メタ思考することが出来ないと考えられるのである。尺は130分。
今作の設定は2018年の韓国。人文社会科学系雑誌・『時代批評』の編集部が舞台だ。日本でも「古い」の一言で蔑ろにされてきたそれ迄の資本主義の潮流を理論的に支え有名なニューディール政策に代表されるようなケインズ派の経済理論がスタグフレーションの有効な解決策を生み出せないとしてその論理の中核を為していた社会の有効需要を高め完全雇用を目指すと同時に社会福祉政策を通じ富の再分配を図ることで社会的公正を図ったことを批判するシカゴ学派が牽引した“新自由主義”が猛威を揮っていたことを前提として理解しておく必要があろう。つまり、主要産業国有化や規制強化で企業の身勝手な競争を制限してきたケインズ派の論理を攻撃し新たに資本主義社会を牽引する経済理論として登場した“新自由主義”がその牙を研ぎ澄まし襲い掛かっていたという背景を理解することなしに今作は理解できないと考える。その傷跡の凄まじい深さは韓国の出生率を見てみれば一目瞭然であろう。日本に“新自由主義”がその牙を剝いたのは韓国より遅かったことは、社会に目を向けている人々には常識であるから細々とは述べない。その代わりに「ワーニャおじさん」で医師・アーストロフの述べていた自然に関する哲学は、今作では科学哲学者パク・ヨンウの科学哲学として顕現し而もそれはアーストロフの目指したユートピアに対する揶揄、もっと端的に言えば人間活動に於ける上部構造、下部構造論を用いて下部構造の一つを為す経済が上部構造に属す知を蔑ろにすることで恰もそんな精神的働き等無いかのようにされ、無意味化されていること自体がディストピアとして顕わされていると観るのである。これ以外の対比も示しておこうか。ヒトが存続し続ける為には異性間同士に惹きつけ合う何かが無ければならない。その形を通常恋愛と呼ぶ。恋し合ったカップルは各々の肉体を求め合い結果として子孫を残す。その個々の行為の象徴が、接吻である。各々即ちアーストロフとパク・ヨンウのステディが居る女性に対する恋の具体的表現としてのキスシーンの相違に以上で述べたユートピアVSディストピアが象徴的に示されているのであり、作品に描かれている下部構造・経済の問題と上部構造・精神(ヒトは何処から来て、何処へ行くのか、人間とは何か? を巡る知的情緒と単にトレンドだの時代に乗り遅れてはならないだの(即ち経済・実生活)との対立が、これまで『時代批評』を牽引してきたチーム長、キム・ナムゴンと広告業界から新編集長として赴任してきたソ・サンウォンの対立として現れるばかりでなくソと共に赴任した優秀なグラフィックデザイナー、ペン・ジイン(ソの愛人でもある)が、ナムゴンの親友でもあるパク・ヨンウの想い人でありそのファーストキスシーンを矢張りジインに想いを寄せていたナムゴン自身が目撃してしまっていたことで、ナムゴンが抱えていた人間性を根拠立てる根本的命題を下支えしていたボードレール的ダンディズム即ち精神性の最後の栄光としてのダンディズムが目先の華やかさ豊かさを満足させる薄っぺらで享楽的一過性の豊かさを入手する為の富の獲得こそ最優先の価値という欲望に席巻されてゆく趨勢に抗う力無き個々人のアンニュイ(日本で一般に解されている意味ではなく仏語の内実を意味して居る)をも示していた。為にナムゴンは酒の席であれだけ乱れたのである。
ところで業績不振で親会社の采配により別の娯楽系雑誌との統廃合により経営危機を乗り切ろうとした提案も喧嘩別れに終わったが、今作はその後も描いている。だが終焉は唐突感を殆どの観客が持ったと考えられる。ナムゴンの主張に賛同した者達が久しぶりに顔合わせをした殆どそのことしか示されなかったからである。これには無論、今作の主張が込められている。未来は一瞬先も我々人間には見えない。つまり観客よ、あなたたちはどのような社会を目指すのか? との問いであり、これはこのように終わる今作が今作に相対した我々自身の未来に開かれており、その未来を紡ぐのは、必然的に観客であるあなた方なのだ、というメッセージだからだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
「ガザ希望のメッセージ」は2025.4.9 18時半 スペースDo 国境なき朗読者たちが今回は、1回限りで行った公演。
スペースDoは新大久保駅から数分の場所にある管弦楽器専門店の地階にあるスぺースだが初めて行った。横幅の広い空間で収容人数は100人程度。真正面にはピアノが置ける程度の奥行を持つ空間が設えられ平台を1つ置いた程度の高さで区別される。今回は朗読劇の形での上演なのでテキストを持った10人の朗読者たち、下手でピアノの生演奏をして下さるピアニスト1名が出演。
ネタバレBOX
ホリゾントにスクリーンを設け劇中歌われる歌の日本語訳やガザで起こっていたことを示す写真、ISM(International Solidarity Movement) メンバーが国際ジャーナリストや海外からの来訪者によってイスラエルが行っている占領、パレスチナ人に対するジェノサイドの実態が暴かれることを恐れガザ入域を禁じていることに対しNonviolence. Justice. Freedom.を盾に命懸けで赤新月社の救急車に同乗し何が起こっているかを世界に知らせる為、また少しでもパレスチナの人々の安全に寄与する為に活動しているISMメンバーからのメッセージ等が随時映し出された。
朗読はこれらと交錯するようにサイード・アブデルワーヘド(アズハル大学教授)が停電の際にも小型発電機を用いて発信し続けた「ガザ通信」、イスラエルが彼の筆力を恐れて姪ともども爆殺したガッサーン・カナファーニーの「ガザからの手紙」、ISMメンバーの米国人でありパレスチナ人の家屋を破壊しようと迫る軍用としか思えぬキャタピラー社製装甲ブルドーザーD9Rに轢殺されたレイチェル・コリーが「ガザから母に宛てたメール」の三篇が一旦分割され極めてバランス良く再構成されて朗読された。無論、場面に応じたピアノ演奏も入る。朗読自体レベルの高いもので真に心を打ち魂の深部に到達する内容であるというに留まらず、ヒトがヒトとしてあるべき姿を希求する人々が未だ世界には圧倒的に多く、極めて普通であることが改めて示された2024.5.10の国連総会(パレスチナ自治区ガザ地区の危機に関する緊急特別会合で177カ国中143カ国が賛成し、3分の2を上回る票を得て採択された。反対はイスラエル、米国等僅か9か国)でもパレスチナの国連加盟支持国の圧倒的多数によって示されたようにイスラエルの悪質極まる狡猾な嘘を織り込んだプロパガンダや米国が独立した際に最も威力を発揮した抵抗権の普遍性及び国際法上も認められた当然の権利をパレスチナだけには国家を為していないという詭弁を用いての判断か、認めないダブルスタンダードの結果が如実に示された。因みに安保理は2024.4.18にパレスチナの国連加盟勧告を求める決議案の採決を行っていたが、アメリカの拒否権行使で否決されていたのである。
今こそ人間として断じて許すことのできないイスラエルシオニストのパレスチナの女性・子供を殺したり不具にしたりしている非人間性の実態をIDF兵士自体が運営しSNSで拡散している数多くの動画等も梃に10.7自体の評価をイスラエル建国以前から極めて意図的・計画的・継続的に実行されて来、現在増々その狂気の度合いを増しているジェノサイドに対する正当でまともな抵抗権の行使であることをもイラン・パぺの実証的研究をもキチンと評価した上で認めさせるべきである。当然、政治的にはアメリカ福音派の問題にもメスを入れなければならない。
実演鑑賞
満足度★★★★★
かなり錯綜しているように感じるかも知れないし、実際に様々な表現技法が用いられ作品として高度な作品である。一方、舞台美術や演出にも多くの工夫が為され理解し易い形に勤めているのも事実。演者たちのレベルも高い。
ネタバレBOX
板上は、奥に黒布を張り巡らせ内2か所に袖を設ける形。ホリゾントセンターには丁度窓の内側に雨戸を取り付けたような塩梅に開閉できる仕掛けを設けシーンによって開かれた部分がスクリーンになる。場転で物語の進行に応じた小道具がすぺーディーに設えられるので観劇の支障にはならない。音楽劇と銘打つだけあって出演者全員の歌唱力はプロのものである。無論音響も良い。
開演早々から幾度も流れる“まなこのなかのあのこのまなこ”という節回しが象徴するもの・ことが自分には能の名作「井筒」を想起させ、多くのシーンで井筒に表現されていることと重なるように思われた。井筒は余りにも有名な作品だから、演劇サイトで一々内容を説明するのは余計なことでもあろうが、簡単に記しておく。
シテ役は有恒の娘、夫であった業平が早く世を去り寂しい日々を過ごしていた。彼女と業平は幼馴染でもあり、かつて物語の舞台である井戸のある庭で共によく遊んでいた。井筒のハイライトシーンで彼女は夫の着ていた衣装を纏い井戸の底を覗き込む。当然井戸の底には夫の面影を偲ぶことのできる姿が彼女を見つめ返している。この時彼女の寄る辺なき孤独感は夫そのものの視線と自らの視線が見る見られるの差別乃至強者VS弱者の全くない同等の立場同士の視線の一瞬に稔った永遠にすら昇華されていよう。
あの物語の構造とかなり似ている気がしたのである。無論、今作は現在の作品であるから、その大本を為す物語作者と鏡像の間には大きな違いがある。そしてその違いとは鏡像そのものの分裂であり、分裂故の多様性・多義制として現れる。だが、それは真か? その解を求めて今作は展開してゆく。実にスリリングな作品である。このような視座を持ち得る日本人は多くあるまい。実際問題として海外での暮らしを深く経験した者を除いて日本人には極めて珍しい視座であると感じる。自分を第三者的な客体として観る目を感じるからである。その意味でも今後どんどん活躍して頂きたい作家である。このようなタイプの才能が評価されないようでは日本の凋落は押しとどめることもできまい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツベシミル!! 傑作。回チーム初日観劇。華5つ☆
ネタバレBOX
余りに当たり前で今更問い返すことなどナンセンス! と思い勝ちなのがヒトは死ねば二度と生き返らないという事実である。このことの意味する処をどれだけの日本人が今、自分事としてリアルに受け止めているだろう? そして戦争とは否応なしにこの事実が日常化することだという事実を。一旦戦争を始めてしまえば国家や高級軍人にとって兵は単なる消耗品に過ぎないという苛酷な実情認識を変えるもの・ことなど存在し得ないという現実認識を。
上に挙げたことが今着々と進行している。問題だらけのマイナンバーカード推進の現実的理由は、徴兵制と考えるのが最も合理的な判断だろうし。
閑話休題、今作が綿密な取材と能う限りの検証によって練りに練った脚本となり、勘所を弁えた巧みで本質的な演出によって動き出し、総てを破壊してゆく戦争の肝即ち日常生活そのものを木っ端微塵にしてゆく戦争の意味する処を実に本質的に而も分かり易く自然な会話とダイアローグに落とし込んで演じた役者陣の力量。これらを効果的な表現たらしめる照明・音響・スクリーン描写の上手さ、見事である。
きちんと取材をしていることが端的に分かる例を一つだけ挙げておく。敬礼の形に注目してみたまえ。潜水艦乗り組み員達の敬礼の仕方・形cf.飛行機乗りの敬礼。ラストシーンで回天で特攻を行った者たちの敬礼の形が変化していることの意味する処。(こちらは観る者の想像力の問題だ)
実演鑑賞
満足度★★★★
えのもと ぐりむさんの脚本。極めて詩的な朗読劇である。オープニングで生ギターの演奏と歌唱。その後ギターは効果を担う。上演形態は朗読劇だが間の取り方や表情、声音等の変化で登場人物の心理をも細かに表現し脚本に描かれた内実を上手く舞台化している役者陣の演技、演出の良さが、この上演空間に辿り着く迄の都会の暗がりの持つ何とも言えない雰囲気とも呼応してグー。お勧めである。華4つ☆
ネタバレBOX
観たいではPaul EluardのL'Amourに絡めたコメントを書いたので観劇後は同じフランスの詩人、Paul VALÉRYの"Charmes"所収の有名な詩Le Cimetière marinから今作終章に呼応する1行を抜き出し書き添えておく。
La mer, la mer, toujours recommencée
VALÉRYの用いる単語は極めて簡易である。それは彼が20世紀最高の知性と称されたことにも関係するように、言語が真に厳密な表現機構を為す為にはその単語1つ1つが数学的に相互規定し合ってその内実を厳密に規定し合い意味する内容を正確に相互規定し合うことによって表現される内実に異同が起こらないことを目指したからである。従って読者に要求されることは上記のコンセプトを目指しつつ己の思惟によって為される厳密な解釈である。自分も仏語を習い始めて半年ほどでVALÉRYの原書にあたった。辞書と首っ引きであったが単語は容易で解釈に苦労した。その後、その詩行の美しさに撃たれるようになったのは矢張りBaudelaireの"Les Fleurs du mal"を愉しむようになる頃迄待たねばならなかったが。無論VALÉRYの理想は実現しない。然しVALÉRYは哲学の盲点を曝け出したことが重要だ。哲学が言語を用いる限り厳密な意味でそれが普遍的であることなど在り得ない。哲学は、異論、無数の解釈の集大成に成らざるを得ないのだ。
今作の序盤と終盤は極めてよく似た台詞でサンドイッチされているが、その内実は大きく異なる。このような差異こそ、言語の持つ曖昧さに起因しているように思われる。そのような曖昧を生きるヒトという生き物の生々流転、淀みに浮かぶ泡沫の如き存在の侘しさ、哀感、未練や何やらを下敷きにこれらを越えようとする靭さを載せてLe Cimetière marinのLa mer, la mer, toujours recommencéeと今作が響き合う。
仏語辞書を引いて各自、仏文は自分で解釈したまえ
実演鑑賞
満足度★★★★★
沖縄の宝は海と空(そして人の心)。アクアを拝見。
ネタバレBOX
板上は、沖縄本島からフェリーで4時間の離島がメイン。主要五教科の成績が極めて悪かった者たちの教科合宿である。期間は離島滞在日数3日間。引率するのは担任及び教務主任と思われる教師。主任の大学時代の先輩が、教師を辞めてこの地に引っ越して居た為毎年やってきていたのであった。出演者は総て恐らく14歳以下の子供たちである。18時開演の意味する処が観て初めて分かった。子供が出演できる時刻に法的定めがある為である。
歌ったり踊ったりするシーンも多いのだが、流石に若さというは凄い! と驚嘆する。体の切れがシャープなのだ。自分は完全爺の体になってしまったから自らの体に気を遣うようになった。そんな自分とは対極のスピーディーで軽やか而も健康的な動きに素直に驚いてしまった。アイドルタレントに極めて細かい点迄演出が指示を出し、人工的な厭らしさを感じさせるような点もない。のびのびと子供たちの躍動を舞台化する懐の深い演出と脚本の自然で大切なことを分かり易く而も柔軟に描いているしなやかさも見事で、子供たちの一所懸命にチャレンジする姿に好感を持った。
ところで沖縄は国土の僅か0.6%に在日米軍基地の約70%が最も肝要な地域を占領し続けていることもあり、日本全国で最も貧しい県の1つだ。まして離島ともなればその経済的格差は甚大である。先輩は2人の子供(姉・レフト/弟・ライト)を養っている。この姉弟、漫才に鑑みライト兄弟と名乗っている。因みに2人ともに先輩の子ではないことが終盤明らかにされる。2人の父母は存命であるが、上記の経済的格差を埋める為に二親各々が出稼ぎをしていて帰島出来ないのである。
今作には他にも注目すべきシーンがある。総てのテストを白紙提出した小学校時代成績トップの女子・えり。夫婦で島を訪れるダイバーたちにダイビングを教えて生計を立てていた父母を海難事故で亡くしたこの島の女子・ゆいの2人が潮の満ち引きや海岸線の地形等の条件で非常に危険な事態に陥るエリアで出会い互いの秘密を打ち明け合って、偶々目にしたウミガメの産卵時に懐中電灯で様子を見ようとしたえりを窘めたゆいの忠告と自然の摂理が教えてくれた真の知恵に気付き自分たちの生きてゆく術を体得するシーンだ。
えりが何故、総てのテストを白紙提出したのか? 大人は先ず、それが一種の救難信号であることに即刻気付かねばならぬ。その訳は、観てのお愉しみ。また、ウミガメの産卵が二人に教えた真の知恵の解も然りである。
閑話休題。沖縄の人々は優しく寛容だとヤマトンチューは思っていることが多かろう、実際ウチナンチュもシマンチュもゆったりとして寛容であり好感の持てる人が多い。然し、それは彼らが苦労し苦悩してきたことの裏返しである。自分達が人間として生きる為にそのような生き方が必要なのだ。それはパレスチナの人々が抱えている苦悩と基本的に通底している。抑圧の激しさに大きな差はあるが本質的に同じタイプの苦悩なのだ。この事実を意識して観ると益々深みが増す作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★
上演された短編は全部で以下の5作品。1:凡 2:た‐る‐らぬ(以上2作が日和しいさん)、3:jelly 4:ベランダ 5:強迫(以上3作がパキケファロ長崎氏)前者は女性作家、後者は男性作家、尺は80分程。
ネタバレBOX
小さな空間に短編とはいえ5作品を詰め込み簡単な小道具の変化で状況を変じ漢字1文字で表されたイマージュを梃に作られた作品群を手際よく上演する技術は高い。脚本のレベルも高く、演出の手際良さ、演技の質、何れも高評価だ。上演作品総てがホラー。
1:オカルト系のSNSで繋がった、自分の無力に追い詰められ虚無感に苛まれた者、苛められ世界に復讐したいと念ずる4人の男女らがオフ会で山奥の某所に集合。導師の示す手順に従ってある儀式を実行すると呪った対象に凶悪な呪を掛けることができる。この顛末を描く。
2:古びているが大きな屋敷に独りの女が現れる。こんな夜更け、而も女性がたった1人でどうやら廃屋となった館に何故忍び込んだのか? 金目の物があれば盗んで換金する為であった。彼女はそこで2体の大きな人形を発見した。その人形たちは彼女に気付き話し掛けてきた。「どこかにあるハズの油を探して自分達の関節に点して欲しい」というのであった。女は油を見付け点してやった。その結果・・・。
3:雨の降る夜、ワンルーム。扉の外からは0時を迎えると30歳を迎える主人公を呼ぶ小さな声が聞こえる。孤独であるが、その孤立を通して自由を満喫できない女性。
4:昨日からヒトの心を読む不思議な力を持つ者と暮らす女性、他人がこの不思議な生き物を評するに醜悪を以てすることも意に介さぬが、この不思議な力を有する者は例え離れた場所からでも彼女の在り様を在るがままに認められない者を何の証拠も残さず殺すことができる。
5:或る男、眠ることができない。目を瞑っただけでも悪夢に襲われるのでそれも継続できない。実は原因があった。過去に自暴自棄になっていた折、幸せそうに列車から降りた女性を幸せそうであるが故に殺めていたのである。あとのことは説明の要などあるまい。
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇研究部2024年度卒業公演である。自分が大学生活を送った時代と余りにかけ離れた世界、世界観に衝撃を受けた。
ネタバレBOX
出演者総数15名の比較的近場への旅行の話だが、登場人物各々のキャラは自分が大学生であった頃とは、当に隔世の感。最も異なるのは人間関係の在り様だ。我々が大学生活を送っていたのは所謂学生運動の盛んな時代であったから個々人は理論武装し互いに対峙し合っていた。当然の事乍ら戦争(当時はベトナム戦争)を巡る日本の在り様や、知的階層に属す予備軍たる自らの社会的位置と同世代で社会人となった者たちとの偏差や出身階層の差、未だ人生経験の乏しい自分達が世界を知る為に海外一人旅をすることへの憧れ、生きていることの意味を考える或いは生き続けていることに意味があるのか否かを問う、といったことが当たり前の時空に生き、大人世代と戦っていた。経験が足りない以上、理論武装する他無いから哲学書も可成り読んだしそうして覚えた論理で互いに戦った。どちらかというと時代は沸騰していた。
これに対し、今作で描かれる登場人物たちは、日常生活の細部や個々人間の空気を互いに乱すまい、と思惟し行動しているように見えた。我々の時代とは対照的に互いの心象領域に立ち入ること、立ち入らないことを決定すること自体が大問題で中心を為しているように取れるのだ。その結果、基本は自らを規定し得ない一人称世界をベースにせいぜいがそのようなアモルフな己を社会全体が演じている気遣いの内側に置き、せいぜいが二人称の世界迄で構成されることになる。即ちどれだけ多くの人々が集うことになろうと現実的なこれらの集団はエパーブに過ぎないことになる。これが現代日本の真の姿であるとしたら慄然とする他ない。
以上のような思考に導いてくれた点で極めてインパクトの強い作品であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日を拝見。流石! 遊戯空間の作品である。華5つ☆。断固、観るべし!!(追記後送)
ネタバレBOX
板上は素舞台。両側壁、及びホリゾントに各々の幅に応じた格子構造の枠が設えられているが、場面に応じて障子になったり目立たぬ壁になったり。演出の手際の良さ、照明の的確、生の三味線の見事な演奏、そして狂言回しの役割を担い上手客席側に座した桂 右團治さんの語りが混然一体となって醸し出す臨場感、流石に遊戯空間の作品である。
物語は大正時代に活躍し実在したモデルを句楽とその噺家仲間の焉馬、小しんという名のキャラクターを用いて書いた吉井 勇の九つの戯曲のうちの「俳諧亭句楽の死」「焉馬と句楽」「縛られた句楽」「句楽と小しん」「髑髏舞」の五編を選び再構成した作品である。篠本 賢一氏の原作読み込みの深さを梃にした換骨奪胎ぶり、演出の手際、役者陣・狂言回し・演奏者ら演じ手の極めて高い質、時代背景を観客が同時進行で想起すれば益々深まる奥行き等々、これほど含蓄に富み、深い作品があろうか?
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツ、ベシミル❢! 華5つ星(追記1回目3.9 13:57)
ネタバレBOX
板上構築物は2層構造を為し、場面によってやや奥が2階部分、手前が1階部分や地階になる。尚上階の一部床が抜けており下の階へ降りることができる。
物語は居抜きの物件に新たに入居してきた漫才トリオ・マトリョーシカの大野、中山、小西3名の若者と、入居先の住人、大家、宇宙人、研究所所長(るりの父・大和)及び研究員たち、警官ら、新聞拡張員、幽霊たち、幽霊と付き合いのあるバーのマスター兼古物商の郡司ら。因みにマトリョーシカのメンバーはその苗字とは反対に体の大きさは大野が一番小さく、小西が一番大きい。無論中山の体躯は二人の中間である。小学校時代からの幼馴染でマトリョーシカの名はこの仲良し3人組に同級生が付けた仇名である。最もお笑いに興味があるのは大野のみ。他の2人は興味の在りかが全く異なる為この先お笑いの世界でホントにやって行けるのか? 極めて疑問である。こんな状態だから生計はバイト代で賄っている。さて彼らが引っ越してきた部屋は居抜き物件であったが、新住人に大家が説明した処では、ちょっと変わった約束事があった。その内容は〝完全に壊れて使えなくなった物以外部屋内に残っている物を捨ててはいけない“というルールであった。その他に大家は奇妙なことを言った「このアパートはね、混沌によって安寧を生み出しているのよ」と。
引っ越して直ぐ、これから始める生活の為に室内を見渡し使い易いように作業をし始めるとソファに布を掛けた物があった。布を取り去ってみると若い女性が現れた。動かない、冷たい。死んでいる? 等観察結果と推論と更なる観察の末、首にボタンのような物を見付け電源を繋ぐ部分があることが分かった。アンドロイドであった。起動ボタンを押してみるとアンドロイドはスリープ状態からアクティブに転じ桁式、名前等を喋り出した。彼女の名は〝るり“。彼女のデータは毎年、1年間に蓄積したデータを開発者のストレージに送る。それはメモリの容量内で処理を高速化し安定化させる為なので送信後旧データが削除されてしまう。故に1年間のデータしか保持し得ないのである。この更新は8年間、目覚めたのはその8年目、残る日数は59日。るりと共に最後になるかも知れない59日間を過ごそうと決めた中山と、るりとのアガペーが総てが綯交ぜになっているカオスであるアパートで、蛹の中で一旦どろどろになって成虫になる為のカオテイックな成長期を過ごす虫の実存を通して、先にしか進めない時間と過去に依拠する他無い思い出がアウフヘーベンされる詩的世界は、見事という他無い。
実演鑑賞
満足度★★★★
登場人物総てが女性。(華4つ菱)
ネタバレBOX
演じるのも総て女性の監獄もの。(監獄という単語は現在の日本では法制度上廃止されているが、刑務所と同じような働きをしていた罪人を収容する施設。発音がより禍々しさを感じさせる為、犯罪者たちのその世界での貫目を示す為、及び今作の舞台となる刑務所との差異を明確化する為敢えて用いている。)登場するのは看守たち及び刑務所長、お笑い芸人、修道女、罪人たち。看守たち相互の関係と被収容者たちとの因縁の物語でもある。伏線と回収の形は明確で分かり易いから迷う場面はなかろう。(一方、深読みしようと思えばそれも可能である)
序破急でいうと“序”の部分で舞台となる女子刑務所の模様及び登場人物たちのプロフィールが描かれ、“破”で老朽化の為新装されることとなった更に罪の重い者達が収容されていた監獄及び監獄収容者たちのプロフィール、移送されてきたこれも老朽化した刑務所で旧収容者VS新参者の相克が描かれる。犯罪者としての格は当然、監獄から移送されて来た者達の方が上であり、その力や犯罪者同士の格の差が描かれる。“急”では刑務所へ慰問の為に訪れた芸人たちの出し物をした演芸会での出来事(今作のクライマックス)が描かれる。
急で回収される問題を一言で言うなら心理学的な問題の中で特に深層心理が人間に与える深刻な影響をドラマ化した作品ということができよう。犯罪に走った者達の多くが虐待やネグレクトの被害者であったこと、犯罪者とならなかった者達には護ってくれる者が居たこと。前者の与えられていた状況は護ってくれるハズの者たちが護れる者となる為の育児を受けていなかったであろう事実を示唆し、後者は護ってくれる者が居たこと、護ってくれる者たちはその親たちに守られて育ち、護る者を得て強く生きることができたことを示唆している点である。
実演鑑賞
満足度★★★★
物語の中核を担う役者陣の演技力が高く、生演奏のギターが素晴らしい。華4つ☆
ネタバレBOX
敢えてStraight Playと銘打っての公演である。それだけにロマ(日本ではジプシーと呼ばれることが多い)の踊り手・エスメラルダの踊りの伴奏や随所に入る生ギター奏者の腕は大したものである。而もエスメラルダ役の女優の踊りも本物のジプシーの叩きつけるような激しさこそないものの可成り野性味のあるダンスで高く評価できる。若い役者陣は未だ板上に立つことと現実生活の間(あわい)を体得できていないことが明らかであるが、これは演技の極致であるからこれ以降益々の精進を望む。
作品は実際にHugoの作品を翻訳でも良いから読んで頂くとして、矢張りHugoの作品らしい作品ということができよう。因みにHugo存命時、彼の新作が出るとなると新作を出す出版社の入っているビルの周りには初版本を待ち兼ねたファンがビルを幾重にも取り巻いて買い求めその行列は件のビルばかりではなく街路に延々と伸びて買い求めたという資料が残っているから如何に人気のある作家だったかは想像して頂けよう。作家としても詩人としても大成功を収めたHugoではあったが、彼の人生は一方で非常に辛いものでもあった。息子や愛娘が相次いで亡くなった経験を持つ父でもあったし、数々の浮名を流したこともあったのだ。而も兄の1人は彼の妻を恋する余り発狂してしまった。フロローの抱える様々な社会的・人間的側面はHugo自身が持ち抱えていた多様な側面を反映しているように思う。同時に今作の主人公であるカジモドにせよ、踊り子のエスメラルダにせよ、その魂は実に純粋で汚れが無いが、彼らのキャラクターも矢張りHugoの魂や心に在ったもう一方の極であろう。然しエスメラルダを誘惑するフェビュスにせよNotre-Dame福司教であるフロローにせよ、その実弟・ジャンにせよエスメラルダの可愛がる山羊・ジャリと「言葉」を交わすことはできない。ジャリが交感できるのはカジモド、エスメラルダ、戯曲家のピエールのみである。動物は不思議な存在だ。相手が人間であっても邪気の無い人間を恐れることは無い。無防備で甘えてくる。真の人間性は、このように動物たちにすり寄られる者達のみが持つ魂の宝である。Hugoの登場人物は「Les Misérables」のJean ValjeanにしてもCosetteしても最も純良な魂が世間の理不尽やヒエラルキーに翻弄され続ける。今作も然り。而もエスメラルダは光を失い、遂には絞首されてしまう。この光を失う場面は、ソフォクレスの「オイディプス王」を始めATG映画で松本俊夫が監督した「薔薇の葬列」でも描かれるシーンだが、このことの意味する処だけでも突き詰めて考究すれば1冊の本をものすることが出来るほど深い。観客がショックを起こす可能性を考慮してエスメラルダが目を刳り貫かれるシーンは割愛しクロパンに台詞で表現させるに留めたのであろうが、今その必要があろうか? パレスチナ人の女性・子供たちに対してイスラエル軍や入植者が行っている残虐極まる虐殺や暴力、嫌がらせ、差別、占領等が散々報じられている中で、G7をはじめとする所謂先進国がイスラエルによるフェイク及びマスゴミの垂れ流す意図的隠蔽を支持し、其処に住む人々がまたそれらを図式的に処理して済まして自ら想像力を動員できない頭脳にしていることが今着々と第三次世界大戦への道を踏み固めているのだという極めて重大な局面を見過ごすことにもなりかねない。そう危惧している。
実演鑑賞
満足度★★★★★
種火を拝見。タイゼツベシミル❢! 華5つ☆ 追記後送
ネタバレBOX
今年に入って観た作品の中で断然のベスト1作品。一応リーディンング作品という形式で演じられているので登場する役者陣は総て台本を持って読む。然し表現されている内容が、余りに躍動的、手の中でピチピチ跳ねる魚のようにヴィヴィッドなので可成り大きなモーションを伴い一瞬たりとも目が離せない。兎に角脚本が素晴らしい。計算し尽くされた伏線がこれまた見事に計算された順に配置され物語は二転三転どころではない展開を遂げ、是が非に非が是に・・・
実演鑑賞
満足度★★★★
板上はフラット。場面に応じて必要な道具が用意されるが展開に影響は全くない。華4つ☆
ネタバレBOX
内容が内容だけにどういう展開になるかと思っていたが脚本の内容にマッチしたキャスティングが功を奏していることもあり、実に自然に入ってきた。言うまでも無く生命は寿命が尽きたりすれば否応なく死ぬ。老いるという現象が、その実相を日々己の体の衰えで実感させる。そのような状態になると矢張り墓に象徴される死は実感を伴い始める。
自分自身は無神論者であるから墓等どうでも良いし理想は鳥葬等他の生き物の餌になることである。当然ではないか? 生きることは他の命を喰らうことと等しいのだから自分が死んだら他の生き物の餌になることこそ自然である。ただ、現在この星で暮らすヒトの多くが感染症を予防したり、腐敗臭や汚れ等集団生活を脅かす死体から自分達を守る為に遺体を火葬し無害化を図る。本質的な点はこの点だけだ。ただそれでは色々と、もやもやが残ったり釈然としない心の空虚やら何やらに纏わりつかれ区切りを付けられない者も多い。こんな訳で人々は宗教やら死に関する儀式を生み出したのだろう。まあ、こんな理屈はどうでも良い。
兎に角、老いを通して死に近付いたことを実感する日々を送るようになるとそれ迄は他人事であった死を意識するようになる。避けられぬ自分の死を意識するようになって初めて物事を真剣に考える人が出てくるのも道理だろう。今作の面白さは、そのような歳を迎えた人々の個々の在り様が、実に自然に表現されている点だ。ジェンダーバランスの問題もこのような前提の中に自然に同化している点も良い。当然の事ながら夫婦であっても個々人の違いは明確に在り、突き詰めて仕舞えばヒトという知的な生き物は自らの絶対孤独を意識せざるを得ない。ところがそのような厳然たる事実に向き合わざるを得ないことを知っているからこそ避けているのだ、という処迄観えてくる。更に興味深いのは、墓友の中に更に若い世代も入っていて、このメンバーは一種の精神的宙吊り状態を生きていることだ。即ち人生を彷徨している訳だが、彷徨とは即ち生き乍らの死である、とメタフィジカルには捉えられる点だ。尺120分の極めて自然に感じられる物語。
実演鑑賞
満足度★★★★
若者、4人の活躍がグー。(追記2.28)
ネタバレBOX
ストレート班を拝見。オープニングから歌を歌ったり作品の案内役を務めたりする女性が登場するが、節回しが微妙にずれているのが気になった。原因は、アラビア風の音程や節、音階と西洋流のそれらとの違いを明確に表現できていない所から来ているのだろうが、研究の要あり。また案内役の女性が"アラーの神“と表現していた部分は、かつて「クルアーン(コーラン)」日本語訳でアラーの神と誤訳されてきた歴史があるから致し方無い面もあるが、これは論理的にはトートロジーであり間違いである。何となればアラーはアラビア語で神という意味だからだ。
物語はファンタジーの常として、また「アラビアンナイト」中の一話として表現されて居る為「アラジンと魔法のランプ」に登場するようなジンが登場し極めて大きな働きをするし、物語の展開する場所は砂漠を幾つか超えた所にある王国であり、平和で富み300百年の間繁栄を誇ってきたという前提である。然しその繁栄は絵画のジンと呼ばれるこの地最強のジンとの契約を守って来たことによって達成されてきた。その契約とは、年1度の祭日にこの国で最も美しい生娘を生贄として捧げるという約束であった。300年目のその娘は王の一人娘即ち王国の姫であった。
今作に登場するジンは3体、各々その従者を持つが最強の絵画のジンには火、水、土、風4体の従者(無論、ギリシャの哲学者・エンペドクレスの唱えた世界を構成する四元素を下敷きにしている)、対抗する2体のジンの内絵画のジンに対抗し得るかも知れぬ暴れ者のジンに2体、指輪のジンに1体の従者がいる。後者2体のジンが姫を救う側に立った盗賊団・砂漠の風の4名の味方である。また舞台となる王国の王は絵画のジンに愛娘を差し出せないように計画を立てていた。東西南北から王子を招集し絵画のジンの祭日前に姫と結婚させる算段を付けていたのである。
世界観として現代の科学に通じる元素に分解して世界を解釈するギリシャの思想を基盤に置き、方位を表す東西南北を用い、盗賊団のメンバーを4名に絞っているのも面白い。以上挙げたような要素が絡み合って展開する物語に愛が絡むのは物語の基本形ということができる。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆
ネタバレBOX
満州から引き揚げてきた親戚の家に良く行っていたが、引き上げ時の苦労は、誰も一度も話してくれたことがない。冬のとんでもない寒さや現地の中国人との関係についての話はそれなりに聴いたことがあるが。
今作の舞台美術で異様だったのは天井から下がっている十くらいはあっただろうか。梯子形のオブジェで何れも横木の部分が何か所も欠損し不完全で不安定な趣を醸し出していたことである。今作の内容からそれは丁度、芥川 龍之介の「蜘蛛の糸」に描かれた状況の象徴のように思えた。関東軍は真っ先に逃げ護衛を失った開拓村に残ったのは女性、子供、老人だけであった。その村を襲ったソ連兵たちは有無を言わさぬ機銃掃射で死体の山を築いた後生き残った女性達を集団レイプした。その直前ソ連が参戦し攻め入ってくるという情報を得た村の女性たちは自死か一緒に逃げることの出来ない総ての者を置き去りにして逃げるか、齢のいかない子供たちは母が自身で子を殺して生き延びるかの選択を迫られ機銃掃射の前で武器にもならぬ包丁を構えて突進していった、満州開拓団崩壊の凄まじい地獄に垂らされた不完全で不安定な梯子である。この天から下がる梯子の下にはタッパ高60㎝程の真四角の平台を頂角を起点に据えその奥には突堤のような形でハの字型の真四角より更にタッパ高の高いオブジェが据えられており、これが人々の暮らす地上である。1年前には夢にも思わなかった有様であった。
この惨劇の起こる前には主人公・坂根 田鶴子の文化映画が完成しており、村の男達には召集令状が届いて居て既に出征していたこと、田鶴子が助監督に抜擢した優秀な中国人・包の失踪とその原因(彼女は映画製作の取材中、開拓村が無人の荒れ地で日本からの開拓民が五族協和の為にこの地を開墾したという噓を証立てる、この地で農業を営んでいて追放された中国農民に会っており、撮る・見る側と撮られる・見られる側の非対称性即ち権力構造の差を指摘していた)ことなどが描かれていて作劇の構成の上手さも際立つ。
最終部分では、単に満映のプロパガンダのみならず五族協和の茶番とその結果を坂根を通して我々観客にも突きつけている点が素晴らしい。また坂根を演じた万里沙さんの力演、包を演じた内田 靖子さんの演技も気に入った。
ところで、現在でも戦争状態や植民地支配の構造は本質的に全く変わっていないことがパレスチナに対するイスラエルの行いによく表れており、土地を奪われた・奪われ続けているパレスチナ人の状況は単に爆撃などによるジェノサイドのみならず、イスラエルの意図的パレスチナ人住居の破壊、水の供給停止・制限、食糧の搬入禁止・制限、弱った人々への空爆、病院破壊・医療関係者殺害、アラブ系報道陣殺害、歴史的建造物破壊、大学破壊、知識人を家族ごと殺害等々単に婦女子、老人、子供殺害以外にパレスチナの生活、歴史、文化、知的環境等総てを破壊し尽くし無かったことにすることが目的だと考えさせる事例は枚挙に暇がない。またハーレツでも報じられた通り10月7日に殺されたイスラエル人のうち、可成りの数の人々はIDFの攻撃で亡くなっている。然しイスラエルは10月7日、実際に何が起こったのかの検証を敢えてしていないと考えられる等々。無論ハーレツの報道通りならイスラエル軍が自らの手でイスラエル国民を殺したということだ。事態は変わらないどころかアメリカの莫大な軍事援助と拒否権によって守られたイスラエルの横暴は前代未聞の悪辣と言えるし、世界の政治倫理は第2次大戦時より腐っていると言えよう。この状況をウクライナと比較することは現在この日本でその気になれば誰にも未だ可能だ。観客の1人としてそう思う。