実演鑑賞
満足度★★★★
初日を拝見。
ネタバレBOX
Galleryでの公演なので演じられる空間は、通常の床を観客用の椅子で囲んだほぼ楕円形。楕円形の上手下方に電子ピアノ。フライヤーに記されているように“映画でもない、演劇でもない、気がつけば隣人”と言い得るような内容である。表現としてはほぼ一人芝居。演者は独りの少女。小ぶりで白い熊のぬいぐるみが唯一の友達。ぬいぐるみは名前を持つが古武士のような名である。他に恐らく病を患っている母。生演奏をしているピアニストに誘われて少女がピアノを弾くシーンがある。印象的なのは少女が裸足であること。
フライヤーに記されている“映画でもない、・・・云々”のコピー通り通常のストーリーテリングな展開は排除されており、少女の暮らしについての独白、たった独りの生活の中で繰り返されるぬいぐるみとの自作自演「対話」、観客を巻き込んだしりとりや記憶力ゲーム、独白、動物の形態模写等がランダムを装って演じられる。かなり抽象度の高い作品なので上に挙げた様々なアクションがどのように繋がり、何を示唆しているのかについては様々な解釈が可能な作品であると言えようが、フライヤーに記されていたコピーのラスト“気がつけば隣人”は確かに現在日本人の多くが陥っている或る精神状態或いは精神疾患と無縁ではないと解釈した。またアネモネの花言葉も顧慮する必要があろう。一応おさらいをしておくとアネモネの花言葉に哀しいものが多いのはアフロディテが恋したアドニスが不慮の事故で亡くなりアフロディテが流した涙やアドニスの流した血からアネモネが咲いたとされる話が人口に膾炙したからではあるが、花の色によって花言葉が異なるので自分は、この説を重視し哀しみに纏わる花言葉を選んでいる。
今作の本質的メッセージが最も濃く表れるのは、動物の形態模写場面からであろう。兎や蛙など幾種類もの動物を演じていた少女は、突然起こった銃撃に倒れる。自分はこのシーンで「ごんぎつね」を想起した。新見南吉の有名な作品だから内容はご存じだろう、省略する。ごんの哀れな末期に深い哀しみを覚えるのである。今作ではこの動物形態模写とどうやら病んでいると思しき母の登場、母から身を隠す“かくれんぼ”によって自らのアイデンティティー不成立の根拠からも、母という自らの創造者との二人称関係からの脱却にもチャレンジし得ない結果抱えたアンヴィヴァレンツからも、逃げてばかりいる少女の、非主体的生き方の齎した諸状況を感得した。
このような精神状態を持つ日本人が増加しているという意味で“気がつけば隣人”即ちSome one like youなのである。父の不在とぬいぐるみの名からは、第三者性の欠如があからさまに見え、結果、実存レベルで己を客観化し得ない主体のamorphousが自ずと見えてくる。
実演鑑賞
満足度★★★★
尺は2時間強。休憩なし。華4つ☆
ネタバレBOX
板上は12畳の和室居間。下手側壁側には座布団等が置かれ正面奥は廊下。居間の上手手奥には醤油などの入った段ボール箱や水屋等が置かれている。板奥廊下の上手に手洗い、下手がこの地で70年の歴史を持ち手打ち麺に拘る鈍亀製麺の厨房と店という設定だが客席からは見えない。居間客席側にはかなり大きな木製テーブルが置かれ、畳敷の手前には縁側、沓脱石も見える。縁側の両サイドには植栽。沓脱石と上手植栽の中ほどに小降りの岩が置かれて風情を醸し出している。
物語はこの店の店主・蛍田 小鉄、今作のキーパースンで長女の彩、次女で店を継ぎ婿・名嘉村 誠司と回す澪。長男で詩人を目指すが才能は無い引き籠りと思しい湧。鈍亀製麺事務の西矢間 美月、パートの富士井 とも子、羽子田 かよ、誠司の同級生で競艇狂いの丹下 登、製粉会社の営業マンでセフレの多い・椙本 陽介、地方TV局やラジオでキャスターを務める澤邑 澄音。
終盤迄は、上記の諸人物が暮らす日常を世話物的に描く。物語が徐々に急展開に向かうのは事情があって東京に居た長女・彩が何の連絡も無しに実家に戻って来て以降である。それ迄は登のギャンブル狂いの在り様と借金地獄の実態や、湧の澄音に対する片思い、陽介の人妻美月へのこれも片思い等々、何処にでも転がっている日常的な恋バナや正社員とパート従業員の賃金・待遇格差などありふれた対話のオンパレードと愚痴。
この状況に楔を打ち込むのが長女・彩の帰宅であった。彩は26年前、小学校2年の時に実の母を殺していた。これが原因で小学校を転校し妹澪は苛めに会い、弟湧は引き籠り勝ちな性格になったと考えられる。彩が何故実母を殺したのか? その原因追求は当然作品中で為されるが。結論は五里霧中であり、観客が想像する他は無いが、終盤の何とも言えない寂謬は心に沁みる。この作品で殊に目を引いたのが彩を演じた村井 彩子さん。歌も上手いし、演技も単に上手いだけでなく独特のアトモスフィアを伴った良い演技であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
べし観る! 華5つ☆
曼荼羅は著名ライブハウス、JR吉祥寺南口(公園口)を出て直進できる道を真っ直ぐ。バスが通れる程度の道を抜け丸井やドンキが対面に見える大通り迄出て信号を渡らずに右折、対面のドンキを過ぎて少し歩くと地下への入り口がある。畳半畳程の入り口なので見落としやすい。
ライブハウスでの公演であるから当然バンドは生。3人編成のバンドでドラム、ベース、リード各々のギター。場転や台詞の切れ目に、演じられている舞台に相応しい曲を選曲して演奏してくれて演劇と音楽が互いに混じる、或いは交感する、時に競合したり逆に引いて舞台の雰囲気を濃密にするなど、シェイクスピアにロックというのは初めての経験であったが実にフレッシュでグー。最終追記2025.7.20 10:04
ネタバレBOX
そういえば半世紀程前、シェイクスピアに詳しい友人からシェイクスピアは実在していなかった、という説が出ているとの話を聞いたことが在った。その後学会でどうなったかは残念乍ら知らないが、数あるシェイクスピア作品の内、完全オリジナルは1本、殆どオリジナルが1本、この2本の内の1本が「A Midsummer Night’s Dream」である。もう1本の作品名とどちらが完全オリジナルとシェイクスピア実在説の研究者たちが考えているかは調べてみると良い。
今作では、シェイクスピアを底本に脚本が作られているが、タイトルに“あの”が付いているように演出の篁さんが仕込んだ部分がある。今作終盤部に現れるが、このシーンが、始めっから「紳士・淑女の公式見解」からは懸け離れた若者たちの恋愛模様(現在ではディミートリアスとライサンダー二人の若者がハーミアを愛し、ハーミアの父イージアスが認めているのはディミートリアス。ハーミアが惹かれているのはライサンダー。而もハーミアの幼馴染であり仲睦まじかったヘレナはディミートリアスに恋していることが描かれ、アテネの法に照らして父の命に背けばハーミアは死刑か生涯僧院に入って神の僕となるかを選ばねばならぬ。父権の絶対な頃の父としては当然の判断に娘が逆らう設定等はエリザベス朝にあっても相当ぶっ飛んだ内容と思われる処から始まり、思い余ったハーミアは死か修道院かどちらかを選ばねばならぬ期限までにアテネの法が及ばぬ地にライサンダーと駆け落ちする為、郊外の森で落ち合う約束をする。
一方森では妖精の王(オーベロン)、妃(タイテーニア)の夫婦喧嘩に端を発した惚れ薬の作用から物語はヒッチャカメッチャカな展開を遂げる、更に同夜アテネ公爵(シーシュース)と彼に強奪されたアマゾンの女王(ヒポリタ)婚礼の夜に催される演劇の募集に応じた民衆たちの段取りや稽古が森で行われていた。パックはタイテーニアの目にも惚れ薬を垂らしていたのでタイテーニアが目覚めて初めて目にしたのは祝賀上演の稽古の為、森に来ていたボトムであった。これら見事なシッチャカメッチャカぶりが物語をずんずん推し進めて行く。
トリックスター顔負けのシッチャカメッチャカな各場面が篁さんの仕込んだワンシーンでいきなり収束する。シェイクスピアの優れた台詞の一枚上を行くと言っても過言では無いこの1シーンは見事という他は無い。実際にどんなシーンであったかは観てのお愉しみだが、その実態は終演後に追記する。以下が終演後の追記だ。
{一つ、人間の論理で言えば矛盾と見えなくもない点はある(それは、パックがタイターニアの目に惚れ薬を掛けていた点だ*)が、妖精たちは人知の及ばぬ“魔法”の力を持つ異次元的存在、人間如きの判断で測ってはなるまい。}何れにせよこのシーンの圧倒的インパクトは、今作でシェイクスピアが多用している矛盾語法に紛れて多くの人が看過してしまっているかも知れない。
今作のラストはシェイクスピアの台詞を活かした民衆演劇口上の見事な矛盾だらけの修辞などを通してハッピーエンドの大団円の安定感と天才シェイクスピアの大きな翼に護られたような幸福感に素直に浸れる人が殆どだろう。
因みに篁さんの仕込んだワンシーンは以下
妖精の王オーベロンがパックに命じた最後の命令の如何を訊ねる席で、パックが頭部を覆っていたフードを脱ぐと、其処に現れたのは妃タイテーニア。これを見たオーベロンは、それ迄の堂々たる威厳を忽ち喪失してしまう。何故なら王は唯偉そうにパックを手足の如く使い、実際にその命令の手足となって、様々な行き違いや矛盾、抗争を丸く収め大団円を齎したのは、パック即ち妃(この場合女王と言った方が相応しいが)だということを悟るからである。更に深読みをするならこの解釈は己の存在について思考する総ての男女に納得されるものだと信じたい。何となれば女性は産む性であり、女性が産むのは単に子供というに留まらず未来そのものだからである。男性はこの為、即ち女性に奉仕する為に存在し、未来という名の子供たちを育てる為にこそ生きていることを知っているからである。
*無論、この部分を矛盾と見ることは容易い。然し本当にその解釈は正しいのか? ちょっと深読みしてみるなら、これは力では男性に劣る女性の生存与件に係る日常的大問題である。今作の中でも父権性や女性をもののように扱う男の姿が殆ど総ての男性登場人物に現れている。抗ってもどう足掻いても力では勝てない。それは恰も民衆が国家権力という名の暴力(軍・警察)に対する姿でもある。このような絶対的劣勢の下、正攻法で批判や念が表現できると考えるとすれば唯の世間知らずか愚か者に違いない。そんな時に用いられるのが反語法や矛盾語法である、ここで用いられているのがそれであると解するならば、これは力弱き者の問題提起の王道だと考えられる。言うまでも無く今作の演出家、篁さんは其処迄読んでこの手法を用いていると考える方が自然であろう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日を拝見。
ネタバレBOX
板上は下手側壁脇に置かれた赤いフレームのチャリ。ホリゾントとその手前には天井から幕が吊られ手前の幕は下手の半ばで断ち切られて、奥の幕との合間が袖になって出捌けを形成している。チャリの横や客席側の板上には丸椅子と箱馬が点在している。オープニングでは手前の幕に取り付けられたブラインドが下がりタイトルが映写される。尺は120分。
ちょっと変わったタイトルの今作、中々ユニークな内容で興味深い作品である。タイトルからは自堕落であると自認している自分自身の遣る瀬無さに対する足掻きに対し、幾らしてみても明確な手応えが見られないと日々感じているヒトの寄る辺なさがイメージされたが、どっこいそんな甘さは無く寧ろ居直る他無いと腹を括った、あと3週間で36歳の誕生日を迎える女性の、底なし沼に落ち込んだ中での極めて「真っ当な」生き様が描かれる。
紡がれるのは、小劇場演劇に携わる演劇人個々の表現する者としての自覚・自意識と、日本に於ける非メジャー演劇が置かれた「先進国」としては極めて特異な厳しい状況下の実態を背景とした葛藤、そのような表現者として生きた過去を持ち現在はコンビニで掛替えの無い戦力として働き、1時間1100円で生計を立て乍らアンニュイに沈み込む主人公。
サブエピソードには同世代の結婚・出産に絡め、極めて深刻且つ普遍的な選択に纏わる諸問題(半年間セックスレスな夫婦関係・産みたい願望を持つ妻の妊娠活動を要する男女関係の実態から生じるあれやこれや。と個々の実存を賭けた諸対応。正解を追い求める世間一般的な在り様と、現実との関係に重きを置きそれらとの諸関係の中に独自の解を見出そうとする立場の角逐が、現実への歪んだ距離感を体現するような生き方の差として描かれる点も面白い。この哲学的在り様の個人的差異が演劇表現方法の微妙な差異と比較されつつ描かれている点で今作のメタ構造が見える点もグー。約2時間の作品であるが、以上に挙げた諸要素が呼応して幾重にも重なりあいながら今作を運んで行く。適度なブラックユーモアを交え、シリアスでシャープな科白が飛び交う興味深い公演である。主役のコンビニ店員を演じる甲斐 千尋さんの熱演もグー。他の演者では金持ちの娘が立ち上げた劇団・リボーンの演出家役を演じる新納 ゆかい氏、妊活中の妻を演じた櫻井 由佳さんの演技も気に入った。
実演鑑賞
満足度★★★★
確かに踏み込んだ側面がある作品。華4つ☆(追記予定)
ネタバレBOX
板上は板奥行の中ほどに天井から左右に分かれる幕を張り、場面、場面で使い分ける。尺は休憩無しの約140分。時代は太平洋戦争終期。海軍航空隊に芙蓉部隊と呼ばれた部隊があった。美濃部正少佐(最終階級)を指揮官とする部隊であったが、特攻が至上命令化する中、合理的な戦術である夜襲攻撃を主張、実践し多大の戦果を挙げた部隊であった。今作は、この部隊が活躍した1945年静岡県に在った藤枝海軍基地から海軍の特攻基地として名を知られる鹿児島県鹿屋、鹿屋が敵にマークされいくら偽装しても空爆を免れぬ為新たに移転した同県内の岩川基地からの転戦に至る過程を搭乗兵、指揮官、航空技術者、整備。無線技術者、司令官補佐、兵士らの任務をサポートする為に派遣された女学生、身辺雑事の世話をする女性や内地から流れてきた芸者や浮草稼業の女性、往時の大日本帝国植民地であった台湾の最前線で念う人の為に自らできることをする女性や数多くの一般市民が空爆激や銃撃等で追い散らされ亡くなったり傷つく戦場の有様をも描く。
史的には実際に特攻する兵士らに死の恐怖を紛らわせる為に用いられたヒロポン(即ち覚醒剤)の話も出てくる。この事実を今作では家族全員の死の報せを聴き守るべき者さえ奪い、徴兵した兵卒には死を強制しておきながら自分達だけはおめおめ生き残っているばかりか階級上位や特権階級であることを利用するだけ利用してのうのうとふんぞり返っている真の国賊共への反感を素直には出せない斎藤のキャラに担わせている。このキャラの創造が今作の肝と言えよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
二度目の観劇。後期日程初日は強い雷雨に祟られたが、地下のスタジオに入り公演が始まると空気は一変! 劇空間という特別な時空間の圧倒的な力を実感する。開演と同時に地下の一室に響く雫の音。その音の不気味が身に染み入る。これほどのインパクトを一回目の観劇では感じなかったが。何れにせよ二度見の効果はしょっぱなから現れた。役者陣の観客への“どしゃぶりの中、来て下さって有難う御座います”という気持ちの籠った迫力のある演技、台詞回しからも力を頂いた。当に演劇は生き物だ。二度観、三度観・・・お勧め作品。追記1回目7.13 15:40。華5つ☆ 追記2回目7.14 02:57
ネタバレBOX
一回目の観劇では此処迄深くは気付かなかった、ベンの新聞記事言及の意味する処である。先ず、87歳の老人が渡ろうとした道路の混乱に体力的にも対応できなかった老人は、停止していたトラックの下に潜り込んだ。するとトラックは動き出し老人は轢き殺された。次は「8歳の子が猫を殺した」と苛立たし気に叫ぶベンにガスが、その男の子は云々の突っ込みを入れる。すると「女の子だ」と答えるがこの時11歳の兄が目撃していたことも語り、ガスとの会話の中で兄が殺した猫に対する罪を妹に擦り付けたと判断した。無論不条理劇が不条理劇として成立する社会的条件が提示されたのだ。現実社会の大混乱、既存価値反転、崩壊に起因する人倫崩壊、それ迄真っ当とされてきた総ての価値観、倫理観崩壊の惨憺たる結果を示している訳である。人々は最早まともなヒトとしての価値観の中では生きてゆけないという、全世界に対する認識である。それが、新聞という報道の王者であったメディアを介して提示されることで、綿密な取材と緻密な検証によって客観的であると認知されてきた媒体が未だ信ずるに値するとの願いを込めて語られていると解すべきであろう。既にマスゴミになっているかも知れないが、そうであって欲しくない、という儚い幻影迄込められているという解釈さえこの作品冒頭で提示されたと診た方が良かろう。
この後直ぐ、今朝出掛ける時の話をガスがし始める。ベンが道路の真ん中に車を止めて暫く動かなかった理由について、何故そんな不自然なことをしていたのか? との突っ込みである。この時点でガスはベンが自分の知らないことを組織から知らされていたのではないか? との懸念を抱いていたことが感じられ、その後も何度も様々な突っ込みを入れるが、ベンに「どちらが兄貴分なのか」を問われ一歩引くことになった。その端緒がこの無駄の一切無いハズのミッション実行過程の不気味な軋みとして提示されていたことである。これがピンター流の伏線か! と感心させられもした。この後終盤でベンとガスの再びの論争があって、ガスの抱いた疑念はうやむやにされるが、結末を考慮するなら…。さて、ここから先の解釈は楽日迄伏せておく。
自分の解釈は以下の通り。無論、ベンは組織から総てを明かされていた訳ではあるまい。それは、夢現舎の演出家・演者の解釈も同様であることは演技から分かる。然し作品全体を合理性に則って解釈しようとした結果、小生は以下のように解釈した。
組織というものの本質的属性は組織を維持することである。これが組織が組織として構築されていることの第一義であるからだ。少なくとも組織中枢はそのように考える。ベンの方が組織に対して従順である。即ち組織にとって都合が良い。ベン自身はそのように身を処すことによってガスより「狡猾」に生き抜く術を持つ。これに対してガスは理屈を通し過ぎる。それは組織を維持し続けることこそ第一義である組織にとって危険なことである。従って組織は、その組織維持の為に不都合な者を処分する。という非倫理的な即ち不条理な条件下にあって実に尤もな論理によって危険を除去した。ピンターという作家。何と寒々しい、我らの現に生きる時代の実相を描いていることであろうか! 終焉時に響く雫の音は開演時の予感を遥かに凌駕する寒く侘しく無情なものであった! これこそ、無意味の味か! 甘~い! 「我らが現に生きている資本主義の正体だ」そんな作家の肉声が地の底から届いてきそうだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
オープニングの見事な演出は、一気に観客を演劇空間に引っ張り込む。いつもの生演奏の良さ、そしてよくぞこれだけ多くの歌の上手い而も演技もしっかりした役者を揃えたと感心させる。実力派あやめ十八番の面目躍如たる作品。観るべし! 華5つ☆ 脚本の良さは言うまでもない。
ネタバレBOX
舞台美術が一風変わっている。通常の板下手奥に当たる部分に生演奏楽団。ホリゾントには幕が掛かり袖の役割も果たす。その手前が長尺の板。この板のセンターに階段が設えられ手前に丁度先に挙げた板に相対するように半分程の尺の板が中央を開けて組み立てられており、これら長短3つの板の間に一間程の可動板が各1つ設えられている。階段手前の隙間には場面によって照明機材や撮影機材が置かれる。また奥の組み立て板上手天井から直径4mはあろうと思われる巨大な円形蛍光装置(これは場面によって太陽の象徴としても用いられる)のような物が下がっている。時代は太平洋戦争から敗戦後GHQの支配体制が終了する頃迄。即ちラジオからTV草創期に掛けての時代だ。
現在のような録画放送主体と異なり生放送、生放映準備期から開始迄の時期である。坩堝にカオスを仕込んだような現場は時代と価値観の大転換期で初の試みも多く技術的にも新たな民生技術が開発されるようになって人々の心は沸き立っていた。無かったのは資金や戦争で失われた人材であった。その為、現場スタッフ個々の負担は重く泊まり込み等も日常だったが仕事への熱気だけは旺盛であった。更にアプレゲールの波に乗って個性的な女性が漸くその価値を認められ始めた時期でもあった。だが一方で戦争中に挙国一致政策を採る国策下、数万の学徒動員兵に激を飛ばす任務を負わされ、息子を含む未来ある若者たちを死に追いやったと生涯苦悩する名アナウンサーら戦中から活躍していた花形スタッフの耐え難い苦悩が渦巻いていたことも忘れてはならない。
ところで金鶏は天界に棲む金の卵を産むと伝えられる鶏であるが、この金鶏が鳴く声を合図に地上に暮らす鶏たちが明けの聲を一斉に挙げると伝えられており、勅命で金鶏を捉え金の卵を産ませて国富を増すという話もあったとの話迄出てくる。事の真偽は兎も角、フランスの国鳥は時の聲を挙げる鶏だ。人々の湧き上がる念を象徴するかのような鶏の鳴き声に先行きに期待しようとの念が象徴されるのも道理かも知れぬ。
今作には幾つかの恋と宿命が紡がれる。一つ成就した目出度い恋はスマトラ戦線に派遣され現地で催された演芸会で歌舞伎の白波五人男を観、そのスマトラで味わった握り飯の余りの旨さに命を失うことに初めて恐怖を覚えた出雲 幹とその素敵なラブレターに応じ結婚したNHK放送団第一期生の喜代子。悲恋に終わったのは、幹と同期のNHKアナウンサー宮 義勝。彼は新番組決起を誓った席で吐血、左肺に大きな影が映るほど重い結核で倒れ由比ガ浜のサナトリウムに収容されたが、このサナトリウムでのもう1人の重病人・ハナに出会い恋に落ちた。空気だけは良いが、治る希はほぼ無く唯何もできずに生きる生活は極めて耐え難いものであった。そんな中、重病人であるハナはあくまで明るく人々に接し、光り輝いていたのである。そして彼らの療養中にアメリカで結核の特効薬・ストレプトマイシンが開発された。不治の病、業病と恐れられた結核治癒の可能性が出て来たのである。然し劇薬ストレプトマイシンが効果を挙げたのは宮のみであった。二人は結婚式の衣装を纏い出雲がライカで撮ってくれた写真に納まることはできたが添い遂げることは出来なかったのである。もう1つ、明確な恋になったかも知れない宿命の出会いがあった。以下でそれを記そう。
正式にTV放送を始める前には準備期間が設けられこの期間中は本番同様1万ワットの照明を出演者に当て撮影に臨んでいた。それほど強い光を当てなければTV画像として放映できる像が撮れなかったからである。この為被写体として映される女性アナウンサ-・美濃 明美は角膜を焼かれ遂に現場を去る悲劇に見舞われる。照明技師・歌井 東吉は美しく撮ってやりたいと願いその為に必要な技術を駆使した。明美の目が痛い、涙が出る等の訴えは無視された。1万ワットの照明なしでは放映できる像を撮れなかった技術的問題があったことと、照明のプロとしての奢りもあった。がそれは明美の目を傷つけずにはおかなかった。無論この事例はTV草創期の悲劇の1つであり他に今作には描かれなかった多くの悲劇が在ったと考えるべきである。初めてTV映像を送信することに成功した第一人者・金原 賢三博士も草創期の技術の到達点がヒトを傷つけてしまうことに至ってしまったことを深い痛みと共に詫びているが、今作の名シーンの1つだろう。
実演鑑賞
満足度★★★
う~む。
ネタバレBOX
物語が展開するのは下町場末の定食屋兼安酒場。常連の多い店である。此処にモテない
保険の営業マンがやって来て営業する話であるが、加入できるのは女性のみ。掛け金は格安、リターンは信じ難い程大きい。30歳で加入し60歳迄保険会社の提示した条件を守れればリターンは1億2000万円、人生100年と言われる昨今、女独りで生きてゆく覚悟さえできれば生涯設計は安泰という訳だ。
だが脚本で多用されるギャグの質が単純で而もワンパターン、ギャグの面白さは思いがけない発想・飛躍や脱臼、調子っぱずれやタイミング外し等々を予想を裏切る形で繰り出したり、態とギャグの無い時間を入れて間延びさせたりしつつ、観客の反応をじっくり観察し、丁々発止のアドリブを入れ乍ら展開させることによってしか生むことが出来ないと考えるが、こういった発想自体が欠けているように思った。それにモテル、モテタイという凡庸な発想の真逆の発想だけで喜劇が成立するものでもあるまい。作家が真面目過ぎる気がする。喜劇は通常のストレートプレイより遥かに難しい。それは我々の体験し続けている人生が圧倒的に悲劇的なものだからであろう。実際の体験がそのようであれば、共感を得ることもその分容易であろう。反発もその分強いこともあろうが、対応方法はいくらでもある。だが、苦労や苦悩に疲れ切り打ちのめされた人々を笑わせることは容易ではないのである。喜劇で勝負するつもりならこの辺りから再考してみる必要があるのではないだろうか?
まあ、テーマが保険だからその縛りから抜けられないという理由はあるだろうが、ギャグを多用するならそのような社会認識の枠そのものを壊しかねない程強いインパクトを持つ非常識なギャグ的発想が欲しいのだ。
演劇は長い間、喜劇と悲劇に大別されてきた。不条理劇が出てくる迄。それには無論深い意味があると考える。そのように分別することで極端化し易くなるからだ。当然、その分劇的効果が増すのである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
必見、華5つ☆。(追記後送)
*文中IPCC、COP3などに関する説明は当パンに記された記述を参考に手を加えて書いている。
ネタバレBOX
今作、根本的にはIPCC(即ち気候変動に関する政府間パネル)に関するドキュメンタリー作品である。そのクライマックスは1997年に京都で採拓された京都議定書採択へ至る過程である。では何故京都議定書採択の過程が歴史に残るような紛糾に至ったのか? それはIPCCがUNEP(国連環境計画)とWMO(世界気象機関)によって設立された国際組織でありIPCC自体は研究を行わず世界中の気候科学に関する研究を整理し中立的立場で評価報告書として纏める。そして報告書に基づき~しなかったらこうなるとハッキリ書く。この明確なメッセージが国際交渉や各国政策に多大な影響を及ぼしてきた為一定の影響力を持つのである。利害も歴史も国力や政治力も経済力も異なる国々が各々の利害や未来を賭けて展開する戦いは真剣そのものだ。
ところで1997年に京都で開催されたCOP3(第3回締約国会議)が何故歴史に残るような紛糾に至ったのか説明しよう。史上初めて先進国に対し法的拘束力を持ち2012年を約束期限とする温室効果ガス排出削減数値目標を課したからであった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
必見! 華5つ☆ 途中休憩を挟み長尺の大作だが余りに夢中になって時を図るのを忘れた。追記7月8日11:55
ネタバレBOX
私事で恐縮だが私自身が多少複雑な環境下で育ったので幼児期のある期間親権下になかった。70年以上経た現在でもトラウマであることに変わりはない。ただ許すことを覚えたに過ぎない。更に若い頃かなり長期間地域の住民運動に関っていたから様々なタイプの人々と関りを持っていた。こういう人々の中には虐待を受けていた人たちも多かった。そして子を虐待した親のそのまた親も子を虐待していたというケースが実に多いのが実情であるという事実を観てきた。
オープニングでホリゾントに浮かび上がる観覧車の光彩が都会の夜に浮かび上がる時、何という侘しさ、妙な切なさが胸を撃つか! これはこの後のシーン、マリとカネマサの少女・少年期が交互に描かれる、母に取り付いた男によるそれぞれの虐待の有様を予め暗示しているように見える。マリとカネマサの左手に残る無数の根性焼きの跡。更にマリの胸にはアイロンで焼かれたケロイドが残り、カネマサには失明の危険を伴う頭部の負傷があった。カネマサの母、マリの母は、何れも自らの子が傷付けられることを防げなかった。但しカネマサの母は息子を庇おうと抵抗した実績は持っていた。この点がカネマサが弱者を庇い続け、優しさを持続する靭さを保持し得た原因かも知れない。極めて残念なことであるが、今作で描かれているように虐待に走る親と、それを止められない親に共通する圧倒的共通点は、現に虐待している親は、虐待されて育った親であり、その親もまた虐待されて育っているので、子供の愛し方を知らない、否寧ろ子供の愛し方が分からないという事実なのである。
兎に角、脚本に人の心を撃つ力がある。作・演が上西 雄大さん1人なので細かい処迄虐待という不条理に抗う強い念が一貫している。キャスティングも良い。殊に少女時代のマリを演じた役者さんのまっすぐな演技が作品の錨のように機能し、所轄の刑事らのカネマサ(鴉)に対する深い人間性評価は剣持さん演じる元名刑事・桑島を通じて随所に鏤められ、カネマサの犯した殺人事件や窃盗事件に関しても何とか見逃してやってくれ! との気持ちを観客に呼び覚まし一瞬たりとも緊張感が途絶えることが無いなど芸達者な役者陣が各々いい演技をしている。
終盤、カネマサ逮捕に至る場面でも、それを執行したのは、本署の連中であり所轄署は蚊帳の外で関与出来なかったが、カネマサがマリの誕生日に買ったプレゼントは桑島の計らいで渡すことができたばかりでなく、カネマサ、マリが分かれの挨拶を交わすこともできた。一方で現実に殺人という重罪が裁かれるという現実の厳しさをも同時に描いて作品のリアリティーを担保する点も流石である。観客もこの劇団のファンが多いようであるが、それも当然と頷ける良い作品であり、劇団である。
実演鑑賞
尺103分。通常の観劇体験のみならず香や音との共感覚すら楽しめるゆったりした舞台空間は秀逸。最終的な☆印、追記は後送するがお勧めである。未だ予約も可とのこと。
ネタバレBOX
板上はセンター奥に荘厳な祭壇を思わせる造りの構造物、手前には周囲を椅子に囲まれた広く大きなテーブルが並べられている。客席側の下手、上手には幾多の切り花をふんだんに用いた華の宴。ここ以外にも随所に花々が見え、洒落た瓶や試験管立に並んだ試験管、その1つに差し込まれたピペット等が見える。極めてセンスの良い安定感と豪奢すら漂わせながら決して威圧感のないこの舞台美術を包み込むように仄かに漂う微妙で繊細な芳香、そして音響。これらが共感覚を体験するように観客の身体をしっとり浸し包み込む。
この空間の手前は店の入口という設定なので登場人物が客席側通路から店へはいる際、出る時は音で出入りを表現する。
ちょっと見、花屋に見えるこの空間に下手奥から試験管とピペットを持ったカガミが入って来、ピペットから薬品を垂らす。微かな反応がある。満足そうに彼女は試験管立にそれを差す。
と店に若い女性・アイリスが入ってくる。挨拶後、飲み物を取りに行こうとするカガミにアイリスが質問する。花屋さんでしたよね? と。答えはマジョノミセ。「ようこそ生贄さん」と返され、直ぐ帰ろうとするアイリスにカガミは冗談であったかのように応答。この後もスナック、花屋と答えは変転するが、総て嘘、との言葉も入り、アイリスが帰ろうとすると引き止め、これから先は総て真実しか言わない契約を交わす、と悪魔と人との契約時の台詞をベースにした文言を滑り込ませる辺り、中々芸が細かい。この直後カガミがアイリスに飲み物を用意している間に常連たちが次々にやってくる。物語の始まりだ。
実演鑑賞
満足度★★★★
解散と何度か唱えて、その度に復活するバカバッドギターを悪く云う者は余り居ないような気がする。というのも演劇は一種の麻薬のような吸引力を持つ芸術だからだ。誰が好き好んで離れたりするものか! んなこたあ、謂わずもガナなんである! 華4つ☆
ネタバレBOX
という訳で今回も復活の狼煙を挙げた訳だが、とはいえ多少の人生経験も積みいきなり本公演で臨む等ということはしない。今回は短編3本、1本目『タイムスリップおばさん』原作矢島ヨーコ/脚本・演出 片寄直樹約40分、2本目『楽屋、ではなく喫煙所。』脚本佐藤ホームラン/演出 片寄直樹、3本目『グッバイ三ツ山』脚本矢島ヨーコ/演出 片寄直樹は各々約20分であるが、矢島ヨーコが脚本を書いたのは初とのこと。また、タイトルのケルベロスは3つの頭部を持ちギリシャ神話に登場する怪物であることは衆知の事、だが何故頭部が3つあるかと言えば冥界に入る者と冥界から逃げようとする者を同時に監視する為である。前説から登場するがちゃんとリードを取り付けられており先導者に引っ張られるとベニヤで作られたケルベロスの顔出し穴が顔を突っ込んでいる役者陣に当たって痛がったりするのをアピールするものだから、思わず客席から笑い声が起こったりもして如何にもこの劇団らしい雰囲気で始まった。
さて『タイムスリップおばさん』から参ろう。タイトルから明らかなようにタイムスリップ物であるが、そこはバカバッドギター。タイムマシン第1号は通常なら試作機に当たる段階の未完成品だがこのマシンで出発してしまう処がまずもって常識外。何となれば行きはよいよい帰りは…の片道切符マシンだからである。行く先は搭乗員の出身高校、1991年(つまり彼らの高3時代=バブル期)。
ところで、出発のあれやこれやの最中、インド諸島に生息していた偶蹄目の“トウヘンボク”が乱獲によって2020年に絶滅しましたとのアナウンスが流れる。過去に戻った3人は加藤、タマ、京子の3人。加藤は弱小高校野球部であったが、現役時代ライトフライを取り損ね珍しく初戦敗退を免れ強豪校と当たることになった時に甲子園への夢を果たすことが出来ずにいて、戻れた今回はこの失敗を取り返したいと考えていた。そして今回は見事にその念願を果たした。だが、これがまずかった。歴史が変わってしまったのである。理由は歴史を改変したことだ。これを修正する為に身体の大部分をアンドロイド化し而も教え子たちより後に開発された帰ることのできるタイムマシンによってここへやって来た担任教師・武田に助けられ歴史の重大改変は回避された。無論、物語はこれだけに終わらない。タイムマシンで到着した3人と仲良くなっていた転校生・ユカが謎の失踪を遂げてしまったのである。理由はパラレルワールドが関与してきたことであった。そしてこのパラレルワールドでの結末はハッピーエンドに終わるのだが、彼らが戻っていた時期、戻っていた世界でトウヘンボクに関する絵本を出版しており絶滅の危機を訴えていたことからパラレルワールドでは元の世界で絶滅後もこの生き物は数十頭生息している。落語のオチのような結末である。
次に控えしは「死神」。有名な落語ネタを矢張り舞台上演回数日本トップで有名な清水邦夫「楽屋」ではなく『楽屋、ではなく喫煙所。』として創作した落語物、落語は語りを中心にした一人芝居と取れる芸術であるから芝居ネタとしては極めて相性が良いのは当然だ。これを2人の噺家が演ずる。但し物語中盤迄、1人は生きている噺家として機能しており、もう1人だけが喫煙所に巣食う霊である点、役者が男性2人であり清水原作の女性4人とは異なる点や相違点として挙げられる。前半生きて「死神」を語る役者の噺ぶり、霊の役者の噺ぶり、前者は故立川談志流でテンポの良い江戸を感じさせる噺っぷりで上手く、後者も上手い。そう思って見聴きしていたのだが後でパンフを見てみるとそれもそのハズ、ライブハウス等で噺しているのである。
さて第3話に参ろう。『グッバイ三ツ山』である。所謂推し活によってデビュー曲が大ヒットし一躍スターダムにのし上がった三ツ山地方出身の歌手・近藤銀八とファンクラブ会員No.1,No2の往時と現在を巡る物語。推し活の熱狂と持続力、その活況と悲哀をも感じさせる。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ヒグラシチームを拝見。面白い、お勧め!
ネタバレBOX
地方の火葬場待合室を舞台に火葬開始から骨上げまでをリアルタイムで描く。窓外には桜の満開が見え、天気も上々。尚、板中央やや奥に吊るされた大き目の白枠は場面によって窓にもなれば、写真のフレームや他の様々な物にもなる。
Mura.画は、村上 悠太氏が独りでやっている企画ということで毎回、キャストは異なるという。今回拝見したのはヒグラシチームであったが、一部のキャストがWキャストであった。脚本も面白いが、役者陣が上手い。殊にシングルキャストで出演している役者さん達はベテランも多く流石と感じさせられた。中盤までは火葬に付される本人達の霊の登場以外は、待合室でありがちなシーンがベースになる比較的オーソドックスな創りだが、恍惚の人の仲間入りをしたと思しきお婆ちゃんの登場で事態は一変する。何とお婆ちゃんには、火葬される息子と同じ日の同じ時刻に矢張り火葬される2つの霊が見え、会話ができたからである。こんな事情で同日・同時刻の火葬で若干いがみ合いをしていた親族達は、故人個々の念をイタコと化したお婆ちゃんを通して知ることができ、故人個々の念や亡くなった経緯を正確に知ることとなった。その内容の奇想天外な展開や個々のエピソード、夫婦、親子、恋人同士の愛等が実にリアルに表現され心を撃つ。終盤、怒涛の如く訪れる各エピソードの回収のセンスも洒落ており、表現も美しい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
淡々と紡がれる今作のテーマは深い。改めてゆっくり、世の中のこと。自分のことを振り返ってみたい。(追記予定)
ネタバレBOX
十日に一度、欠航でなければ内地からの船が港に入る人口千人程の小島には四十年来稼働し電気を起してきた風車が在る。物語は島の崖に立つこの風車が強い風に立ち向かい人々に恩恵を施してきた音、目には見えないほどゆっくり、而も着実に移動し島の若者たちが何度も戦争に獲られ亡くなってきた墓を耳にできる音もなく、心の琴線を響かせて埋め尽くして行く“音”、そして周囲を囲むさざ波の聲が続いてきた。然し心臓音のように当たり前の風車の音は搔き消されることになる。この風車を四十年間護り続けてきた老人が語る島の歴史が今作で描かれる三つの音の内実と共に展開する。
冒頭に挙げた入港の日の賑わいを想像して欲しい。人々は欠航でなかったことにホッとし、待ち侘びた新鮮な食料や便り、注文していた物が漸く無事に手に入る喜びや幸運に胸をなでおろしひと時の安らぎを覚える。だが、何度となく起こっては村の若者を徴兵し死や身体の欠損を強制する戦争に抗する手立ては無念にも見付からない。今迄の戦争で敗戦の憂き目もみて来た。その時に受けた魂の傷は時の経過も癒すことが出来ない重い軛である。母が愛する嬰児が泣く声を防空壕の皆から咎められ止む無く殺した、その痛みは! 嬰児を水に沈めた時、水中から上がって来た小さなあぶくの数々が、一つ一つ彼女の魂を抉るのである。今も、明日も、永久とは言わぬまでも少なくとも死ぬまでは。付き添う夫もどうしてやることもできない。愛する妻を庇ってやれない苦悩は筆舌に尽くし難い。戦争は若者達にも大きな重い圧を加え、未来は鈍色である。徴兵される男子ばかりではなく、恋こそ命の乙女も無論、この宿命からは逃れられぬ。砂丘は古い兵士の墓から順に覆い尽くしてゆく。だが今後も墓が消えることは無さそうである。それは、この国の為政者が民の命を何とも思っていないからである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
扱っている問題が本質的なので観る者次第でいくらでも深読みできるが、無論その分、如何様に表現するか? 難しい処をいい塩梅で表現している。単に面白いというのではない、オモクロさが楽しめる。役者陣の演技、演出、音響、照明もグー。(追記予定)
ネタバレBOX
タイトルに先ず捻りがある。“あくた”は主人公の名・アクタと重なるが当然のことながら人々は塵芥を想起する。“ちり、あくた”だ。即ちつまらないものなどの例えだが“もの”を開いて表記したのは、人と物を、差別する側が同一視点から観ているからである。つまりゴミ、クズと評価している訳だ。自分達と寸分違わない同じ人間を。
タイトルからだけでも最低このくらいのことが見て取れる。オープニングの演出も素晴らしい。漸く舞台が見える程度の昏い照明の中、風が吹き荒れる音や雷を背景に白い剥片が地下から吹き上げられるように舞ったかと思うや、朗読調の台詞が此処、彼処で叫ぶように始まる。板に着いた大勢の役者たちが台本を持って読み上げるようなスタイルを取っていたのである。その台詞の一言、一言に台本の一片が宙を舞う幻想的なオープニングは、息を吞むほど美しくいきなり観客を劇空間に引きずり込む。 明転するとホリゾント上手の一角は羅生門に見えた。
実演鑑賞
満足度★★★★
「アンネの日記」は小学校時代に読み、自分がその時代に生きていたら、助けたいとその理不尽に心を撃たれた書物であった。であるが故に自分は現在、パレスチナの側に立つことを選んている。
ネタバレBOX
物語は2つの部分に大別される。「アンネの日記」で描かれたオランダへ出国、隠れ家へ移ってからの閉塞した生活内容をベースに展開しゲシュタポに発見され踏み込まれ連行される迄の部分と、余りに悲惨な史的状況を前半で伏線として描いていた姉の眼鏡を用いることで、収容所での生活をパラレルワールド理論を用いて覆すことによって。
欧州での例史的アシュケナジー差別を多少、深堀してきた人によって見方は相当変わろう。殊にシオニズムが力を持つようになって以降の歴史を知る者にとっては、殊更である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
祝20年! ゴイス! タイゼツベシミル❢! 華5つ☆(追記後送)
ネタバレBOX
トツゲキ倶楽部の舞台製作では端役を作らない。だから必然的に出演している役者は1人の例外も無く例えスポットの当たっていないシーンでも何等かの仕草や表現をして舞台上で生きている。このことで一瞬、一瞬の空気が形作られ、濃厚な雰囲気や重層性を作り出している。芝居は最低同じ演目を3回は観ると良いとされている。それは良い芝居は上述のように個々の役者が各々の演技をしているので細部迄観て作品の面白さが真に分かる為に3回程度は最低見た方が良いということだ。今作は出演者数も多いのでできればこれ以上観てみたい。自分がゲル貧でなければ本当に3度でも4度でも観たい作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツベシミル! 華5つ☆
ネタバレBOX
流石夢現舎の作品である。舞台美術は基本的に必要な物だけ。作品の内容を深く鋭く分析し、洋の東西を跨いで本質を見事に抉り出し、それを2人の登場人物、ベンとガスに託して益田 善晴さん、山田 哲朗さん2人がその身体と技術の総てを使って観客に届ける。間の取り方、抑揚やちょっとした仕草、ピンター本人の作品に向き合う姿勢を深く、明確に理解し、役者という位置を矢張り明晰に掴み取って観客に届ける。
元来不条理な作品というものは、世の中の有象無象総てがそれまで社会を支えてきた論理や倫理のほぼ総てを崩壊させ、その余りの根底的破壊に人々の信じて来たもの・ことの総てが音を立てて或いは音もなく意味を為さなくなった時、その場にその時居た者たち総ての苦吟が滾る如く否が応でも滲み出す。最早希望も普遍的価値観も喪失し、新たで納得のゆく真理も行為も総てが為し崩し的な崩壊様相を“新たに”呈するに至った未来に向けて滲み出てくる呟きの如く苦い果実であろう。その歓迎されない不運、貧乏籤、己自身を洒落のめす他無い程バカバカしい迄のどうしようもなさを、それでも何とかうっちゃる為の営為であろう。哀しいと逃げることは容易いが、この辺りの虚しさ、苦しさ、遣る瀬無さが濃厚なアトモスフィアとして生きる総ての者達を囲み、圧迫し、いつでも、どこでも逃げ場等無いままで圧し潰しに来るのだ。この逃げ場のないどうしようもなさが醸し出される凄さ。ミッションの段取りをする中でベンが間違えることの意味も、此処迄書けば類推できよう。
ラストの衝撃的シーンを予告する如く、これこそ伏線の手本と言えるような脚本の上手さは、ガスはベンの名を始めから何度も呼ぶのに対しベンは終盤の終盤に至る迄ガスの名を呼ばないという見事な暗示。当パンに二度見の勧めが書かれているが、二度、三度観たい作品であり、演技である。無論、お二人の演技のみならず、舞台美術、音響、照明の効果的な用い方も素晴らしい。
実演鑑賞
満足度★★★★
「Deep in the woods」を拝見。
ネタバレBOX
板上は30年程前に現在の住人、シノダの祖父によって建てられた地方の別荘。2Fには書斎を含めて5つの部屋があるという可成り立派な建物である。今回集まっているのは幼馴染3人。 他に雑誌の企画・編集などをやっていて漫画家の夫の不倫に立腹し、夫のシトロエンを運転して来たサトウ。もう1人は医師、アオキ。妻子は祖父母の処へ出掛けているので一緒に来ることができた。
シノダは、芸大を出てその才能を活かし賞も獲っており注目度も高いが、サトウの車が故障、シノダの車も半年も前からライトの具合が悪いのに修理もしていないので使えない。アオキは行路の途中に住んでいる関係でサトウの車に同乗して来ているので何処へ出掛けるのも不便だ。こんな訳で別荘で話す場面が基本的にメインになり、徐々に何故、半年もの間たかがヘッドライトの故障を放置し続けてきたのか? そしてもごもごと喋る様子や何となく覇気のない、決断を中々下せない様子、レスポンスの遅延などの仕草を通じて、2人はシノダの変容の並々ならぬことを幼馴染ならではの感覚で察知するが、具体的にどのような対応を取れば良いかが判然とせず、大人になってしまった自分達とアーティストらしさを未だ抱えたシノダとの邂逅のもどかしさに蹉跌を感じる。どう対応すれば良いのかに戸惑い直球を投げられないのだ。友人としての2人のぎこちなさが、或いは慮りを欠くと彼の精神状態が不安定の度合いを増す怖れもある。こんな模様は観客に慮る友人とアーティストの持つ世界とのギャップの歪として観客にも伝わる。各々の生活、互いの微妙な在り様とのズレが、間の取り方や台詞回し、抑揚等の細部を通じて表現される。精緻な作品。誰にでも上記で述べた事情が分かるのは到着翌日の展開である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
抜群のセンス。ベシミル。華5つ☆ おっともう1点、きづいていたお洒落シーンがあったのだが、書き忘れていたので書き足した。(6.22 2:38)
ネタバレBOX
様々なレベルでお洒落なセンスを感じる公演。物語の展開するバーの名はイタリア語のマリオネッタ。劇場床に1枚平台を置いてあるが、この平台の上手及び下手にはピアノの白と黒の鍵盤が描かれ、下手鍵盤の直ぐ横には太い柱が立っている。この柱の正面は微妙に色の異なる煉瓦で表装され側面は白のレンガ型ブロックで表装されている。上手奥にはバーカウンター、下手へ延びるホリゾント壁にはLPレコード3枚が行儀よく斜めに嵌め込んである。バーカンにはハイチェア、背凭れ付きチェアが並び、奥には様々なボトルが肩を並べていてこの店の独自の魅力を醸し出している。而もこれだけではない。登場人物総ての衣装が、黒・白・赤を全身で或いは衣装デザインの色として、或いは組み合わせとして用いられ統一感と格調を示しているばかりでなく、劇空間にはほのかなワインフレーバーのような香りが漂っているのだ。謎が謎を呼ぶ重層的で練られた脚本が終盤まで観客を引っ張るので観客は様々な推理をし乍ら見続けることができる良さときめ細かな演出、役者陣の個性的な而も演じるエネルギーの緩急を弁えた演技の調和も見事だ。
無論、幾つもの謎の回収も素晴らしい。様々に工夫された伏線も多く、2度観、3度観も楽しめよう。
追記:ラストに下手袖から紅の袖が出、手に青い薔薇を一輪。花言葉は”奇跡”が一般だが、何故、このシーンにこのようなアクションが? その訳は観劇者各々に考えて欲しい。