実演鑑賞
満足度★★★★
Red Devilsの回を拝見、尺は約90分。
ネタバレBOX
最近異類とヒトとの純愛作品が増えているような気もする、世の中しっちゃかめっちゃかだから、人間に対する不信感の根源的な現れかも知れない。今作では、異類の側が女性でヒトに恋するのだが、無論こんな転倒は文学上の初歩的なテクニックに過ぎず要らぬ摩擦を避ける為の常套手段だ。ジェンダー論が盛んになっていることとも関わるかも知れぬ。
肝心なことは、それが純愛である点だ。ピュアなもの・ことは胸を撃ち心を締め付ける。今作の肝もその点にある。物語が展開するその日は、雨降りで太陽に焼かれる心配が無いので父や姉妹は青山墓地へ出掛けて留守、合間を利用して核を為す恋の成就を切望する乙女(メモリ)は恋人晴海を初めて実家に招いた。晴海が父に挨拶したいとたっての懇願をしていたからである。然し天気予報に反し雨は止んでしまった。急遽父たちは帰ってくる。準備も満足にできていない状態で大の人間嫌いで通る父が認めるハズがない。メモリは偶々残っていた叔父に晴海の保護を頼み、止んだ雨に急な対応をした為エネルギーを使い果たし休んでいる父を休息させた後部屋に戻った父方にLuciferの血を引く孫娘であるカイリ、サトリ姉妹がメモリを庇い、叔父とカイリの夫らがメモリの恋に協力することとなった。やがて力を回復した父がdevilsの館に入っていた泥棒とメモリが愛する晴海とを混同したまま晴海を殺害しようと乗り込んでくる。更に物語を錯綜させるのが館に棲む悪霊と様々な人間等に化体する能力を持つカイリの夫が化けた晴海が入れ替わり立ち代わり父の前に現れるので父は混乱を招く顛末。おまけにエクソシストの能力を持つ神父迄現れてシリアスな恋と喜劇的要素がくんずほぐれつする様は中々工夫されており、テンポも良く進行する。さて、メモリの純愛に応える晴海の覚悟は? そして大団円は? Luciferが元々、天使であったことも思いださせることもグー。
実演鑑賞
満足度★★★★★
こういう舞台に稀に出会うから観劇は止められない。断固、観るべし! 当然華5つ☆ 今年になって観た舞台で最高峰! 尺は休憩無しの110分。完全に舞台と対峙しつつ見入った110分であった。
原作は井上 ひさしさんの名作。内容は今更くどくど述べる必要などあるまい。(追記9.27)
ネタバレBOX
改めて手練れ作家、井上 ひさしさんの構成の上手さ、条理展開の見事、限界状況に置かれた人間のヒトとしての倫理、親子の情、娘の友人やその母を通じて描かれる被爆者たちとの交々。総てを引き裂く原子爆弾の仮借なき酷たらしさ。その央で展開される究極の選択で死に行く者の優しさと生き残ってしまった者に襲い掛かる申し訳なさの思念。これら総てを、演出を担当し父、竹造を演じた浅井 星太郎さん、娘、美津江を演じた池田 純美さん二人の役者が演じるが、間の取り方、演者同士の板上での距離、表情や仕草、効果的抑揚や巧みな台詞回しで見事に演じ切り一瞬たりとも目の離せない緊迫の舞台を創り上げた。
伴奏は、浅井さんの音楽の師、佐々木 多幸詩さん(キーボード)、ギターに松岡 信二さん。劇中歌の歌詞も良い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
彗星を拝見、途中10分の休憩を挟み2時間45分の長尺。然し長さは全く感じない。
ネタバレBOX
物語はテレビジョン黎明期、日本の対外戦争、そして歌舞伎と各々ジャンルが割れるものの、深堀りしたり当時を生きた人々の人生を通せば、大きなうねりに何とか立ち向かおうと懸命に生きたヒトという生き物の視座から俯瞰し得るような物語として収斂し得る。この事情を梃に入れ子細工宜しく舞台は組み立てられてゆく。
ところでテレビジョン黎明期は技術の問題として戦争とは繋がり易い。これに対して歌舞伎は? と感じる人々も多かろう。これにはあやめ十八番・代表の堀越涼氏が歌舞伎に15年も関わっていたことが大いに関係している。無論、歌舞伎が日本文化を代表する芸能の一つであることを否定する者はあるまい。そして芸事というものは、伝統的であればあるほど新たな基軸を見出し芸として表出することが困難になる領域の文化である。序盤、坂東天鼓の父、天五郎が栄国稲荷の狐と契約を交わすシーンがある。洋の東西を問わず優れた芸術家が狂気の域に足を踏み入れることすら辞さなかったことは、それほど迄の覚悟をする必要があるということの裏返しでもある。
今作を貫いているのは、このような向き合い方、大抵の人々が流されてしまう宿命というものに抗う個々人の姿である。天五郎が自らの芸を新聞で痛罵されたことを気に病み遂には栄国稲荷の狐と契約を交わすシーンが描かれているが、上述の如く芸事を極めるということは、狂気にすら怯まず精神を開拓する程の覚悟が要求されるものであることは、古今東西の優れた芸術家が幾度も描いてきた本質の一つである。
その先駆・中興例の一つとしてテレビジョン映像を世界で最初に実現した金原 賢三(役名、モデル:高柳健次郎氏)の偉業が為されたことが今作の柱の一本として選ばれている。1926年12月25日の事であった。この年大日本帝国は昭和元年を迎え歴史的惨敗戦への年号を刻み始めた。これが今作第二の柱、太平洋戦争勃発(1941年12月8日)以降の戦争譚に繋がり第三の柱(歌舞伎、今作ではスマトラでの兵士たちによる“白浪五人男”上演)に繋がるのである。実に意味深長ではないか!
これ以外にキネマの女性脚本家として名を為していた天鼓の親友伊勢友之助(駿河屋)の母、尾長光子に脚本家を目指し弟子入りしていた久連子益次郎(女性だが故あって男の名を名乗っている、訳は今作を観るべし)に纏わるサブストーリーが絡む。彼女の脚本家に成るという執念と彼女が友之助の筆おろしをしたことを根に持って暴行、悪罵を加え追い出した友之助の姉、尾長さなえの恋う人(天鼓)を喪い希望を失くしたどろどろの感情を描き、稲荷と契約を交わすに至り、その契約後名跡を復活、旧劇の大立者となった天五郎(駿河屋)との因縁話が組み込まれているのも、日本の体質を見事に炙り出して今作の基底を下支えしているのは見事という他あるまい。柳田國男の指摘を待つまでもなく日本社会の特質を示した深みと観ることができよう。優れた芸術・美の足下に蜷局を巻くのは常にこのように不気味なカオスなのである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
照明、音響等の効果もグー。何より詩的作品である点が気に入った。
脚本・演出は“さかさまのあさ”の宮田 みやさん、演ずるは“ウテン結構”の岩澤 繭さん。Symbiosisの中でも特殊な異種恋愛の物語だ。
ネタバレBOX
Corichの説明文を読んで詩的な作品だと感じたのだが、その直感は当たっていた。科学の発達に伴い近年では宇宙の始まりに関してのみならず様々な銀河の写真集や解説本も数多く出るようになった。生命の誕生が宇宙の諸星達の生々流転と関りのあることも次第に人々に知られるに至っている。科学少年、少女たちには既に知られていたことが漸く人口に膾炙するようになったのである。かつて詩人が予言していたように諸星から生まれた生命は互いに関連し様々な関係を持ちながら生々流転している。そんな巨きな流れの中で、人類以外の生き物たちが互いの情報を交換し合い、そうして得た情報をも用いつつ生存競争をしているということも分かりつつある。漸く人間だけが“言葉”を用いることが出来る、などと言う傲慢極まる論理は廃り始めたのだ。オルフェウスが鳥や獣のみならず岩や他の自然とも話すことが出来たとの言い伝えや、アニミズムの残る世界で未だに伝わる土地の古老の誰々は鰐と話が出来る、などの口承も余り軽んじてばかりは居られないようになるかも知れぬ。人間の知っていることなど宇宙の10のマイナス何十乗倍分の1に過ぎまい。
おっと話が大きくなり過ぎた。物語は人間の或る男と南米に実在する極めて毒性の強い、然し宝石のように美しい毒蛙*との純愛を描いた作品である。この蛙一匹の持つ毒でアフリカ象2頭が死ぬとされる程の猛毒を持つ蛙が天敵のこの毒に耐性を持つ蛇*に襲われ泡や、という時男がこの毒蛙を救ったのである。救われた毒蛙は、彼のヴィオトープで飼われることになった。助けられた瞬間、彼女は雷に撃たれでもしたように恋に落ちた。然し人間が直に毒蛙に触れれば忽ち死ぬ。それほどの猛毒なのである。だが彼女は既に恋に落ち、そしてそのまま天敵の蛇に襲われたダメージで気を喪ってしまう。「お早う」という声に目覚めると、其処に居たのは『彼』であった。心臓が脈打ち、ドキドキが加速する。世界がいっぺんに変わってキラキラ輝く。恋が世界の見え方迄変えてしまった。然し彼が居なくなると嬉しさも胸のドキドキトキメキも総て失せ、世界は単調でもの憂いものに変わってしまった。のみならず恋焦がれれば焦がれるほど、彼と己を隔てるヴィオトープの透明な壁のみならず、直に彼に触れれば己の毒が彼を殺すという事実が己を苦しめる。彼に触れたい、直に触れてキスの雨を降らせたい。然しその念を叶えた途端、彼は死ぬ。それは免れることができない。愛するが故に求めることが、果たされればそれは愛する最愛の人を殺すことなのだ。このアンヴィヴァレンツが彼女を生き乍ら引き裂き、耐え難い苦しみを齎すのだ。一方、こんな彼女の悩み苦しむ姿を知ってか知らずか、彼女が「騒がしい」と文句を言ってきた奴がいる。上階ヴィオトープに棲む青大将である。彼はヴィオトープで生まれ育った蛇であったから、外界のことは余りよく知らない、知っていることはヴィオトープで元野良から聞いて仕入れた知識であった。然し乍らこの蛇がヴィオトープで生き続けることは退屈と窮屈に徐々に圧し潰されて精神を病む地獄だと認識しておりいつか脱出してやろう、との夢を持っている。偶々この青大将が脱走に成功した。飼い主の人間即ち蛙の命の恩人がヴィオトープの蓋を閉め忘れたのだ。彼は一緒に逃げないか? と声を掛けてくれた。然し彼女は此処に満足していたので断った。彼は独りで旅立った。
この後も彼と毒蛙の日々は続く。蛙は「お早う」で始まる毎日の彼との逢瀬を十全に味わい幸福すら感じていたが、触れたい、彼に触れキスの雨を降らせたい、との念は募るばかり。恋の煉獄に身を魂を焼かれ苦悩していた。そんなある日、彼女はヴィオトープの蓋を彼が閉め忘れたのを発見した。抜け出すことができる。彼は出掛けていて、彼女は抜け出た後、彼が怪獣に絡み付かれ口に嚙みつかれているのを見たように思った。その瞬間、彼女は今度は彼女が彼を救わねばならぬと猛烈な勢いで怪物に突進、張り付き最後には怪物の顔面に毒をぶちまけた。怪物は堪らず彼を離して逃げた。倒れた彼はペシャンコになった彼女の体に裸の手を触れた。始め彼女の体は人間の体温に耐えられず火傷を負ったが徐々に彼の体温が下がり彼女の体は焼かれることが無くなった。遂に彼と直に触れ合い純愛を実現することができたのであった。
*登場する毒蛙は、自然界で最強と言われるアルカロイド系の神経毒バトラコトキシンを持つモウドクフキヤガエルだろう。毒を持っていることを示し無駄に他の生き物を殺さずに済むよう体色は極めて鮮やかで宝石のように美しい警告色。彼女を襲った天敵の蛇はノハラツヤヘビ属マイマイヘビ科のヘビでバトラコトキシン耐性を持つ唯一の蛇ということになる。
実演鑑賞
満足度★★★★
「受付」「六月の電話」2本を上演、「受付」は☆4つ、「六月の電話」は☆5つ。総合評価華4つ☆(追記9.21)
ネタバレBOX
「受付」
別役さんが今作を書いたのは当パンによれば1980年だが、演出家は余り作家の今作執筆当時の心理状態をイメージすることができなかかったのではないか? との疑念が残った。実際今作で別役さんが何を描きたかったのか? については様々な解釈が存在し得るし何も私如きが感じることが正しい等という気はさらさら無い。然し今回今作をどう解釈するのか? という点で結論を出していないような気がしたのも確かなことなのである。表層だけ観れば精神科を受診しようと訪れた45歳の既婚子供4人の会計事務所勤務のサラリーマンが、受付の女性に、募金、アイバンク登録、献体等々を押し付けられてゆく不条理な喜劇と取ることができよう。然し、別役氏の意図はそんなに単純なものだったのだろうか? 受付嬢の台詞の大多数は、このビル内に存在すると彼女が主張する37もの各種団体の受付との電話内容なのだが、この内容をからかいたかったのか? だとすれば何故? 何故このような形で? 等様々な疑問が生じる。
また、何年もの間、机上に置く筆立ての位置に迷い、他の事に手を付けられない程の状態を続けている彼女の心理状態は何を反映しているのか? といった疑問である。下らないこと、余りに些末的で解決する気なら自分で少し細工して机の引き出しに入れるとかどうしても机上と関連付けておきたいのであれば筆立て自体を嵌め込めるような容器を作りその容器が取付金具で机に取り付けられ自由に動かすことが出来るようにすれば済むこと。或いは小型で平たい筆記具用の皿型の物を用意し、邪魔にならない場所に置けばよいだけの話で何年もバカバカしい些末事項に拘る等愚の骨頂である。
以上のようなことを茶化したというのであればそれが何故か? を考えて演出をしたとは考えにくい。また受付嬢役の女優さんが台詞をやたら噛んだのも残念。
「六月の電話」1995年作(当パンより)
今作で重要なアイテムは板奥の衣文掛けに掛けられたウェディングドレス。此処に現在住む女が20年前の今日結婚式場の控えで着ていたものである。して当日新郎は式場に現れなかった。以来20年、彼女は誰もいない空間に「あなた」と呼びかけ続けている。時折掛かって来る電話に応対することが彼女の現在の仕事であり、寄る辺なく何のあても無い彼女は自分で決めた日課をその時刻が訪れると果たすことで時間をうっちゃっている。今日もそのような日をいつも通り過ごしていた彼女の下をアリバイを証明することが自分の仕事だと称する男が訊ねて来た。依頼人も不明、非依頼者の個人情報も不明、唯彼が仕事を果たす為の最低限の情報とアリバイを客観的に示すことができるよう、カメラや当日の新聞というアイテムを引っ提げて。必要最小限の情報とは、アリバイ照明が必要となると思われる者の住所であった。住所は確かに彼女の実際住んでいるこの場所であり、危害を加えるそぶりもなければ、非紳士的態度でもなく、唯水が飲みたい、とか彼女の残した食べ物を食べても良いか? 等の質問をすること位で害は一切ない。但し依頼者の指定した時刻迄は被依頼者のアリバイを証明する為、被依頼者と一緒の場に居て被依頼者がずっとアリバイ証言者に証言して貰える状態であったことを保証しなければならない。これが、この話の要点であり、話が進むに連れて依頼者の目途と何故このような依頼が行われたか、その背景が明らかになってくる。
その背景とは1970年代初頭には既に瓦解していた所謂世界の展望を形成する視座が、時代の反進歩勢力によって益々混迷の度合いを増し遂には消滅するに至る過程で起こった進歩派同士の内ゲバであった。進歩派の理論的指導者の多くが実際の社会経験に乏しい若者達であり旧支配体制を維持する勢力に対する有効で決定的な闘争指針を打ち立てきれず、而も今迄主張して来た論理との整合性を保つ為に更に論理を先鋭化させる以外の道を持たなかったが故の近親者同士のぶつかり合いが起こっていた。この辺りの指導部のメンタリティーや焦燥の結果を垣間見させる独特の雰囲気を持った作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★
江戸糸操り人形劇団、結城座旗揚げ390周年記念公演の第二弾は「雲は天才である」も書いた石川啄木が代用教員を務めた頃の話として紡がれた。(追記9.21)
ネタバレBOX
物語冒頭、人形劇上演の為に人形を詰めたバッグを提げ、小道具等をポケット一杯に詰め込んだ団員一同が興行する街、劇場を求めて彷徨い歩く模様が描かれる。とある街で彼らはぽっかり口を開けた穴を見付けた。何やら興味を惹かれ中に入ると階段が付いており底迄降りることができた。底に降り立ち中を歩いていると1冊のノートが落ちていた。拾い上げて読んでみると石川一(はじめ)と書いてあり団員の一人が啄木のことではないか? とあたりを付けた。どうやらここは啄木が代用教員として児童たちに教えた学校のようだ。啄木が雲に拘ったようにこの穴の底に青空が現れたり壁面に現れたりして其処を様々な形の雲が過ってゆく。子供たちが歌っている歌は児童たちが自由に闊達に自然と戯れ、その想像力を広げると同時に自然の持つ多様性や豊かさ、推移や時に厳しさから様々なことを学べるよう詩人・啄木が願いを歌詞にした作品であったが、頭の固い校長やその奥さん、校長にべったりの教頭らは猛反対“正式な許可も無しに校歌を歌わせるとはけしからん”と難癖を付けてきた。こんな状況にもへこたれず、一先生は、児童たちを森に連れて行き課外授業を行った。これも“とんでもない”として校長たちは授業を潰す為に森に入って行った。
丁度、同じ頃劇団員がバッグに入れた人形が紛失していることに気付いた。八百屋お七の人形である。大切なヒロインの人形が何者かに盗まれたと判断した劇団員たちは人形捜索に当たると同時に失せ物、失踪者等の困りごとを解決する、と銘打つ探偵に操作を依頼。探偵も森に入り、犯人を特定した。
ところで森には橘が群生する場所があり、この橘の群生は得も言われぬ芳香を発していたが、人がこの匂いを嗅ぐと睡魔に襲われ眠り込んでしまうと伝えられ八百屋お七の人形を何者かに奪われそれを探しに来ていた劇団員たちは息を止めて森から脱出、一先生や児童たちも校長らの追跡から逃れていたが、深追いした校長らは芳香に絡め捕られ眠り込んでしまった。眠りから覚めた校長たちの言動はその後どうなったか? 盗まれたお七の人形は? 人形を盗んだ犯人と犯人を突き止めた探偵の決着は? それらは観てのお愉しみだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツ、ベシミル! 華5つ☆ 初日を拝見。
ネタバレBOX
虹色ぱんだは灰衣堂愛彩さんが、自分の好きな作品を自分の息の合った俳優たちと創り上げ上演する為に作ったチームである。今回は泉 鏡花が1917年9月号『新小説』に発表した傑作戯曲「天守物語」を上演。原作の現代の読書人には若干難しく感じられたり、とっつき難いと感じられるであろう箇所を原作の華麗・流麗は保ちつつ現代のどんな世代にも極めて分かり易く而も作品の本質を極めて的確に掴み取り優れた解釈と虹色パンダさんの舞台演出で一瞬観ただけで引き込む舞台に仕上げているのは、ずっと時代劇をAshで作品化してきた主宰の灰衣堂さんの積み重ねてきた歴史認識やその認識の深さ、確かさを物語るものであろう。余りにも有名な作品であるし、玉三郎絶頂期に彼が富姫を演じ国際的にも大喝采を浴びたことは多くの演劇ファンの知る処である。
役者の演技も凄い。殊に感心したのは姫路城天守閣五層のあやかしたちに力を与えている獅子頭が鷹匠・図書之介を追って城主の命で五層の住人たちが攻撃を仕掛けられた際、目を攻撃され、皆の目が見えなくなる中、工人桃六の鑿によって視力を回復するが、この桃六を始め富姫の師匠をも演じた役者さんが棒杭が倒れ込むような一見無造作な倒れ込みシーンを演ずる場面が序盤から中盤に掛かる辺りにある。可成り御歳を召した俳優さんだが、これは歌舞伎等で荒事とされる程危険な演技である。それを難なくやってのけるこの役者さんの凄さにほとほと感心した。
無論、このように見事な演技にこれほど感心できるのも、原作の解釈の深さ、的確、そして今作上演台本の分かり易さがあり、同時に鏡花存命中は上演されることのなかったこの傑作を原作の本質である純愛の受ける途轍もなく理不尽で厳しい「現実」と、女性が男性優位社会に担わされてきた苦労・苦悩を現代ジェンダー論を踏まえた上で、演じられる時代とその価値観とも通底する現代の形に創り上げた演出の巧み、そして今作上演台本・演出に架ける念が見事に役者陣の演技と共に結実していることがある。
実演鑑賞
満足度★★★★
短編3作「ゲーマー、ふたり」「嘘と秘密」「初恋の記憶」(上演順)を連ねたオムニバス形式の朗読公演だが、何れの演者も技術力が高く安心して聴いて居られる。
ネタバレBOX
自分が特に上手いと感じたのが「ゲーマー、ふたり」で伊吹 香澄を演じた女優さん。パソコンゲームのスピード感に没入しつつ操作するゲーマーの緊張感溢れる心理的揺れを巧みな抑揚変化や細かい表情作りで活写しつつ朗読、見事であった。
脚本に描かれたキャラで最も気に入ったのが2話目で描かれた“烏”。して烏とは、左目の光彩が極めて稀な為裏社会では途方もない大金に化けると半グレ集団に拉致された若い女性・陽葵があわや目をくり抜かれる危機を迎えた刹那彼女を救った情報屋と称する者の名だ。(実は該者の兄)彼女を救出後、烏は陽葵をセキュリティーの高いラブホに移し、安全を確保した後、この犯罪の首謀者の名を特定、始末した。
第3話は幼馴染同士が思春期を迎え初恋に落ちたが男・光洋は高校を卒業したら都会へ出て美容師になる、と彼女・朱莉を故郷へ残したまま旅立ってしまった。年月が経った。残してきた初恋の相手・朱莉から結婚式の招待状が届いた。光洋が故郷へ戻った折もう1人の幼馴染・翔子の関わる高校野球チームにピッチャーとして登板した。(美容師として店は持ったもののリピーターが少なく自らの才能に疑義を持つ彼は高校時代地元ではかなり名を知られたピッチャーであった)、こんな昔の栄光を思い出させた翔子は言った「別れるならキチンと別れろ」と、朱莉とけじめをつけることを求めたのだ。翔子のサジェッションが功を奏したか結婚式は華やいだ空気の中で終始営まれ新郎新婦とも新たに良い関係を築くことができた。
ところで、今作ラストに茶目っ気たっぷりな追記がある。この追記故に、相互に関連の薄い3作のうち2話が関連して成立しているといった塩梅である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
可成りストレートに時代を若者視点から描く。背景には時代の闇も、その深さと処置の難しさも透けて見える処がグー。
ネタバレBOX
板上は奥に暗幕。暗幕の真下には30㎝程の高さの黒い平台、幕が開くと黒い平台の上には下部が黒く上部が真っ赤な二回りほど小ぶりの平台。正義マンが現れる時などに使われる。
暗幕の手前の下手・上手には階段状の切り込みを入れ斜めに延びた衝立が見えるが各々が袖として用いられ下手の袖は地の色が白、上手の袖は地の色が黒でシンメトリックに配置されている。各々の文様は刷毛で掃いたような抽象的文様が描かれその色は下手の物には黒っぽい色と赤で表装が施され、上手の物には白とブルーが用いられて衝立の形態で対称性を強調すると共にその微妙な差異を描かれた文様の色彩的差異で示してもいる。場転場転でグレーに着色された箱馬が用いられるのも物語の内容に即し見事な感性である。無論、平台の色、黒と赤の使い分けも物語を象徴している。
肝心の物語は高2の女子・ドロシーが、ブリキ先生から進路指導を受け成績も良いのに何をしたいか決められない。モラトリアムから抜けられない事を中心に展開する。彼女の父は教師だった。多くの生徒たちから感謝され御礼の手紙が束になって幾つも残って居るほど生徒から尊敬され愛された教師であった。然し理由は明らかにされないまま自殺だったとの風評が流れていた。現在は母と2人の母子家庭である。ブリキ先生の推しは、決められないなら一先ず大学進学してみたら・・・であったが、彼女はそれを受け入れられない。母と2人の母子家庭で大学に通うことは母の負担が過重になることだと考えているからである。ところで、ブリキ先生はドロシーの父・山田正義に憧れて教師になり、生徒指導の指針には正義というコンセプトを以て当たっている。父没後可成りの年月が経つにも関わらず未だに墓参りをしてくれる教師である。一方父の親友だった獅子尾は警察官になっては居たが自らの勇気の無さが親友を死に追いやったと未だに悔やみ正義の墓参りを欠かさなかった。
また高校の先輩・案山子田はドロシーがバイトをしているコンビニで矢張りバイトに入ってきた大学中退者だが高校時代の成績は可成り良かったにも関わらず現在は何をやってもミムメモ(間が抜けていて)で結果主体性を確立できずに他人からこき使われるだけの人間に成り下がってしまっている。心をドロシーと通わせることのできる友人は同級生の凛子とその彼氏の金治くらいのものだが、積極的に何かをしたいという目標も持てないドロシーに彼氏は居ないのでカップルの世界には入って行けない。こんな八方塞がりの中で進路は決めなければならない。期日は迫っているのだ。そんな中、時代はライン等で簡単にカップルの相手を見付けることができるようになっていた。凛子カップルの友人に速見というサブカルの一ジャンルに矢鱈詳しいオタクが居てレア物の収集も情報の多くをネットから得ているようであり時代の躍動は何となくプラスに映ったのかも知れない。ドロシーはライン系を使って或る男性と知り合いデートを重ねるようになったが・・・。物語は急展開、果たしてドロシーの運命や如何に? この結末は実地に観劇して確かめるべし。
全体を通して自分の感じたことは終演後に追記する。
実演鑑賞
満足度★★★★
ちょっと変わったタイトルから類推できるように若い脚本家の作品とはいえ、観客の解釈次第で如何様にも味わいを深めることができる捻りを加えた作品である。(追記予定)
ネタバレBOX
物語は南の地を支配する魔王と北の国の王子とその2人の連れが、奪われ監禁された王子の婚約者を奪還すべく戦い敗れて、時空の異なる世界へ飛ばされて以降を描く。王子を含む3人は、火炎を発する魔術を用い龍を倒した王子の他、身体能力の高さで戦闘力の強い勇者、傷ついた身体や死者をも再生する能力を持つ娘。それぞれの超人(勇者)そして魔王は、ファンタージェンの住人。そして戦に敗れた敗者たちが飛ばされた地とは、観客が暮らす世界、と考えると良い。
飛ばされた当初、3人は各々が何処へ、どんな時代・時期に飛ばされたのかも皆目分からず、果たして仲間が生き残ったのか否かも分からない。全く異なる未知の世界の孤児同様の孤独に苛まれた。互いに仲間を探し求めるがその手段に確たるもの・ことが在る訳でも無い。全く分からぬ新たな世界で今日、明日を生き延びる確証もない。王子が飛ばされたのはバンドを止めて以来「路上ライブコンサートをやる」と言いながら全く実行できていないミュージシャンを目指す若者が彼をサポートする女性と暮らす一室。勇者は仲間を探しつつ婚約者である姫救出を目指す為、ここに居候することになるが・・・。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 傑作。華5つ☆ 尺75分弱。
ネタバレBOX
今回で22回目の、明治大学シェイクスピアプロジェクトのラボ公演だが、今作は猿楽町第2校舎1Fに在るアートスタジオでの上演。尺は約75分弱。シェイクスピアの「冬物語」というより完全に新作のSFと言った方が鑑賞後の感覚から言うと近い。それだけに極めて良く出来た脚本にこれまた見合った優れた演出、舞台美術大道具は総て白で統一され箱馬、長方形のテーブル、ギロチンの枠のような形の背の高い柱構造等、が場転に応じて速やかに所定の位置に場面に相応しい形に組まれて用いられる。小道具のヒロイン・ハーマイオニの木彫(これだけは木の色)が実に効果的に用いられている点も優れた舞台の隠れた定石である。以上挙げた舞台美術迄実にしっかり作りこまれた秀作。照明、音響もレベルが高いのは、ステーション関連の映像を見ている舞台上の人物たちの表情に映像画面の反映が微妙な明彩で反映されているのを見ても明らかだ。大道具が総て白で統一されているのは、冬を象徴する“雪”や“氷”のイマージュと解した。これが同時に夫・レオンティーズに同僚との浮気を疑われ自死を遂げた妻・ハーマイオニの潔白を示唆している。
ところで今作の物語が展開するのはハーマイオニの自死から16年後、レオンティーズが、ボヘミアプロジェクト継続の是非を判断する為にステイションに送り込まれた後のことである。然しそもそもそのボヘミアプロジェクトが何であったかを理解しておく必要があろう。地球の直径の約1.2倍の惑星・ボヘミアに人類が巨大なベースステーションを築き最も優れた研究者達を送り込んでボヘミアの環境等を精査した16年前よりも以前、このベースには85人を収容できるベースが建設され多種多様な研究が行われていたが、特に注目すべきであったのは、ボヘミアの海に関する論であった。何とボヘミアの海は、海自体が知性を持ち知的活動を担っているのではないか? との仮説が提起されていて、地球上でも大きな論争が長期に亘って繰り広げられながら結論を出せずに膠着状態が長く続いた。徐々に人々の関心も失せ、莫大な費用の掛かる宇宙計画の是非判断を公式目的にレオンティーズが送り込まれたのは必然であった。判断を下すにはボヘミアの海が知性を持っているのではないか? 論争の決着を見た上で今後の継続判断をする必要があるが、その起点となったのがボヘミア探索隊員であったアンティゴナスが自死する前に遺した謎の言葉『ボヘミアの海で熊を見た』であった。
かくして到着したボヘミアのステーションでレオンティーズが遭遇したもの、それは自死したハズのハーマイオニであり、実際に残っていた浮気相手と疑った者の助手であり、皮肉屋の研究者であり、彼らが「客」と呼ぶ、彼らの夢や想像即ち脳の活動に現れたイマージュが現実に再生された生き物であった。この「客」たちは、地球人が自分を生み出した脳活動とコンタクトを取り続けることによってどんどん進化し深化をも遂げた。その結果、自らが再生された“生命”でありオリジナルでは無いというアイデンティティーの不在に悩まされる。このアイデンティファイ不可能性は、更に先に本当と偽の問題を突きつけ、本当(本物)でないなら空虚そのもの(こういう言い方自体が矛盾を孕むが)を突きつけてくる。演じるのは1年生が殆どの傑作である。
実演鑑賞
満足度★★★★
Gチーム拝見。
ネタバレBOX
板上は基本フラット。歌ったり踊ったりのシーンが多いから合理的な配慮だ。各役者相互の連携を図る意図もありそうだ。というのも基本的に演じられるのは落ちこぼれキャラなので可成り大仰な形でその無能ぶりが形象化されている為、普通のキャラ作りより却って神経を使う必要があると考え得るからである。無論、この様に書くには拝見して伏線と回収の上手さが観えたり、ダメ状況を変える為のアイデアとその手法が見事だったり、どうしようもないほど腐り切ったりインセンティブを失くしてしまった集団を転換し得るのが、或る意味アホであるという事実からである。殊に日本人は自らが先頭に立って何かを実行することをしたがらない。極めて狡猾な者の多い民族である。ずる賢さが目立つ民族なのだ。そういった日本人の特質を暗に揶揄することによって喜劇性を持たせるという芸迄が仕込んであるという見方さえできよう。
以上のことに道理があるとすれば、今作はアホな設定とは真逆に賢い芝居ということが出来よう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
シアターグリーン若手劇団支援企画参加作品である。新鮮で若者らしい柔らかで繊細な感性の光る作品だ。華5つ☆ 尺は約120分。
ネタバレBOX
物語は高校演劇部の活動を描くが脚本を担当している日暮 蛹は天才的な才能を見せ、高校生で既に小説をものして一部に熱狂的なファンを持ち、この演劇部に書き下ろした戯曲でも賞を獲るなどその才能は高く評価されていた。或る時、彼の作品の熱狂的ファンの1人桑田 幸宏が新歓時でも無いのに演劇部に入部したいと申し込んで来た。既に書籍化されていた蛹の小説と偶々観た高校演劇部の上演作品のテイストが全く同じ感性、感覚の才能を持つ人間によって書かれていたことを見破るだけの愛読者だったのである。それ迄親からも“抜け殻のようだ”と観られていた幸宏の人生は一変した。イキイキとし輝くようになったのだ。兄を大好きな妹の美紀も演劇部に入った兄の下に良く来るようになった。
ところで登場人物名に昆虫と関りのある名前が多く登場する今作、昆虫が幼虫から蛹になって羽化し成虫になったり、種類によって何度も新たな蛹に脱皮して成虫に成る時を迎えるという生命の辿る厳粛でドラスティックな転変を劇中辿る台詞がキチンと埋め込まれていることと無論大いに関係している。前者の場合蛹の中で一旦幼虫はどろどろに溶けた状態になってから総ての器官、成虫に成った時の形を整えてゆくのである。その様は余りに過激で厳粛而も命の崖を渡ってゆく姿そのものである。この事実を知った時、子供たちの総てが命に対し畏敬の念を感じる。そういった科学的観察を通して知られている事実をキチンと書き込み、ヒトの自死への本人と周囲の者各々に波及するある意味捉え所の無い難題を考究することが、今作のテーマである。
同時に表現する者としての作家、役者や演出家等の演劇人と、作品を受け取る側や元ネタになったモデル達の相関関係に於けるそれぞれの社会的、倫理的責務と具体的対処についての考察が今作のテーマということが出来る。
若く繊細な感性と理知が編む今作、高く評価したい。今後の活躍が楽しみである。
実演鑑賞
満足度★★★
自分には全く合わなかった。尺は約90分。「不信の時代」批評と捉えれば無意味でないとは言えまいが、登場する総てのギャグの質が、
ネタバレBOX
余りに無粋で無意味。
或る意味、時代を素直に映した作品かも知れない。舞台美術はそれなりの完成度を示しているものの、何処か不安定感が否めない不思議な感覚を起こさせる。というのも基本レイアウトがシンメトリー等、安定感を齎す普遍的な形式を敢えて避け、力学的構造は保ち乍らも各々の造作に変形を加えたり、変則的な組み合わせ方をしているからである。脚本内容も御多分に漏れず社会的存在であるハズの我らヒトが、社会を形成する為の基本条件であるハズの信頼関係そのものを、その根っこから信じていないと疑えるような内容だからである。どういうことか?
通常、文章というものは一先ず人間関係自体を“信じる”前提で構築される。それなしには、互いの交信は不可能となるからである。何故なら徹底的な不信が、総てを疑う以上例え疑う主体としての自己を措定するにせよ、疑われる他の総てがあやふやでしか無ければ、疑う主体が絶対的に存在することの証明も出来るとは言えなくなるのではないか? との疑問に応え得るとは言い難いと言えるのではないか? このように考える人々が増えているとすれば、デカルトやパスカルが数学を用いて彼らの哲学の根底を確認したことに異を唱えることになろう。何れにせよ、現在我々の生活している世界の実情は、嘘、隠蔽、フェイク、これらの複合化や、強者による弱者への刷り込み、恐怖や驚きを与えて隙を作りその隙に乗じて対象を意のままに操る手法やサブリミナル効果を用いての無意識操作、詐欺やなりすまし等々の犯罪迄、他者を信じられない事象の多発等々、世の中は、他人の精神操作術のオンパレードであるから人々が世界に対する不信感を持ち警戒するのは当然であろう。
今作がこんな時代を反映していると解するならば、今作のギャグが一つ残らず単なる単発的な脱臼や、在り得ない組み合わせによって醸成される場面の意外性の単純な表出だけに終始する構造は簡単に説明できてしまう。日本的ディレッタンティスムの粋であるような粋で鯔背な文化とは真逆のナンセンスとでも名付けたい質のもの。ことという印象を持った。無論マザーグースの歌のようなナンセンスとも質が全く異なり、作品内部での有機的な表現単位の相互連関が予め不信によって阻害されて成立し得ないが故の芸の不在という寒々しい作品に留まるように感じた。荒川 洋治さんでは無いからもじって言おう。“不信の時代も寒い”と。
りに寒々しい。
実演鑑賞
満足度★★★★
尺は120分。
ネタバレBOX
板上は基本フラット。上手中央辺り床から天井へ扇状に広がる赤く細い帯。その根元はやや盛り上がり恰も地球創世記の原始的火山の初期形態を模したような形状をしている。その他板表面には様々な直線が縦横斜めと走っている。
物語は生命の材料と成る物質の生成から開始することが相応しいと考えたと思しい脚本家が138憶年前に我らが暮らす天の川銀河が出来上がった瞬間と考えられているビッグバンから始められる。まあ、ビッグバンについては今時誰でも知っていることだから割愛するが、今作のテーマは今年2025年が敗戦後80年、昭和100年に当たり様々に取り沙汰されていることと無縁ではない。当然、敗戦の憂き目をみた日本人には生死に纏わる耐え難い、語りたくない多くの事実が在った。今作を演じた劇団メンバーは皆若いから直接戦争の経験がある訳では無い。然し新たな戦争前夜が声高に叫ばれ岸田が主張した軍備増強路線をこのまま続ければ日本は憲法9条を持ったまま、米中に次ぎ世界第3位の軍事大国ということになる。奄美から沖縄への自衛隊移転及び各島嶼地域の軍事要塞化は、庶民の窮状を無視し着々と進められている。この事実はどんな政治音痴も気付かざるを得まい。そんなことにも未だに気付かないとなれば大変な時代認識不足である。ただ、だからと言って今作が戦争の耐え難い無惨や信じたくない酷薄、惨憺たる実情を訴えている訳では無い。寧ろそういった戦争の実相から離れファンタスティックな物語に転じる為に「竹取物語」のヒロイン、かぐや姫を取り込み、月と地球の切っても切れない関係を利用しつつ、戦争と戦闘の合間に見えた華麗な満月の美しさに昇華させようとする。而もこの昇華を通して新たな生命の誕生に纏わるドラマを紡ぎ、生後の教育を通して月の人々(即ち天界の人々)と地球人類との邂逅を、遥か彼方に俯瞰されたかのような戦のイマージュを提示する。それはダンスの形式や大声で途切れの無い台詞の重爆撃を通して。実際に戦争を体験した人々から、その内実を聴き、紛争地弱者を支援し続けてきた身としては、全くリアリティーの無い表現方法であり、バチな印象をうけたものの、言いたいことは良く理解でき、このような形で前を向こうとの姿勢も理解できるものの、このような発想で戦争への道程を止めることは覚束ないとも考える。
実演鑑賞
満足度★★★★★
タイゼツ、ベシミル! 華5つ☆。脚本、演出、演技、舞台美術、効果何れもグー。演技では成人後の亮を演じた丹波 隆博さん、少年時を演じた及川 鉄之典くん、現在の八重子を演じた瀧澤 千恵さんの演技が特に気に入った。尺は約120分。終盤の急展開も見事である。但し、これはネタバレにも書いて居ないから是非、劇場で観て頂きたい。
ネタバレBOX
板上、下手は手前に3段の階段、踊り場奥は福岡のFMラジオ放送局スタジオのブース。上手は、このスタジオでパーソナリティーを務める加島 亮の実家の一室。部屋中央に卓袱台、その上には小さなラジオとTV用リモコン。卓袱台の北西には整理棚に載せられた小さな仏壇。部屋手前の客席側にはTVが置かれているという設定である。出捌けは両側壁に設けられており上手の部屋の上には2階の一部が見える。オープニング早々亮が義母・八重子が入居する前日に発見し読んだ産みの母の日記を通して、36歳になった亮と子供時代の亮が交感する形で描き、物語の時代変遷と亮の子供時代の様子をこの2つの空間を巧みに使い分けながら重層的に描くが、この演出が実に効果的だ。また実母や父の死後には父の霊も幽霊として登場させ、あの世と此の世の境を脚本の描く世界(実母と生きた世界への執着、八重子が来てからの実母への囚われ故に苦しむ生活)を霊という曖昧を通して合体化する手法も見事だ。
物語は小さな頃に産みの母を失い、その後再婚した父(大二郎)の連れ合い八重子にどうしてもなじめず、優しく美しい八重子に惹かれる自分の、自然に生まれてくる思慕の念が産みの母を忘れさせることを恐れる余り、つれない言動を繰り返す亮と、食事を供しては拒まれ、心を込めて作った遠足に持ってゆく弁当を放り出される八重子の日常に延々と募る苦しみ。長じて折角入った大学も1年で中退、演劇をやると父の反対を押し切って東京に飛び出しずっと実家に戻ろうとすらしなかった息子が、実は仕事も思うようには貰えず地元に戻りラジオパーソナリティーを始めた息子の生放送番組をずっと聴きながら時に“あんたのおかあちゃん”のラジオネームで投稿し始める。それは父の三回忌に亮が実家に戻ったことがあったことが契機となったのだろう。同じように愛した二人の妻の一方を頑なに拒み続ける一人息子に決定的な手立てを用いることをその生来の優しさ故に実行できなかった父の悩みをも深く理解していた八重子故の行動であった。リクエスト曲は坂本 九の「上を向いて歩こう」。
このリクエストにラジオ番組のアシスタントで恋人でもある結羽は「お義母さんでは?」と鋭く反応するが、36歳にもなって己の臆病を克服できない亮は否定する。
然し・・・。後(クライマックス)は、劇場で観るべし!
実演鑑賞
満足度★★★★
初日を拝見、尺は120分、華4つ☆
ネタバレBOX
シェイクスピア作品は毎日、世界の何処かで上演され続けている。中でも人気の高い今作のことだ。どのように演ずるか? では、各々の役を、どのような演出で? が大きな取り組みとなり、どのような脚本にするか? ではどのような翻訳にするか? 原作をどのように読み込むか? は各演者にとっての大問題だ。今作も当然のことながらこの難題と格闘し工夫を凝らしている。話が前後して恐縮だが、最も画期的な工夫は上演台本が現在流布している既存の翻訳5つを参照の上、その何れとも能う限り異なる日本語訳を心掛けている点だろう。物語は極めて分かり易く展開し、ハイライト部分はハイライトらしく突出する演出と演技で紡がれる。舞台美術も効果的だし、開演直前に掛かる音源はジャニスの「サマータイム」で、痺れさせてくれる。役者ではパック役の今井 勝法さんの演技が気に入った。ご年配という印象を受けたがその動きは敏捷で的確。身体の厳しい鍛錬の成果が見える。大したものである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
観るべし! 華5つ☆ 初日を拝見、約2時間15分、休憩なし。
ネタバレBOX
太平洋戦争時、沖縄は本土防衛の最前線となった。今作は、陸軍の医療部隊が最前線に設えられたガマ内の傷痍軍人に対して行った「医療行為」の実際を、その補助として携わったふじ学徒隊女学生たちの曾孫に敗戦後の1945年生まれの祖母が自らの産みの母の義務(戦争体験を後代に伝える義務は、朱里の本部が解体後その指揮系統は各部隊長が担えとの司令部指令により通達された経緯からこの医療部隊の隊長であった小池隊長が最後の命令として生き残っていた少女たちに命じたもの。即ち生きて親元に帰り自分達の体験した戦争の実態を伝えよとの指令であった)
ファーストシーンでは、若い女学生の華やぐ声音の響く中、頭に包帯を巻いたり、脚を負傷してびっこを引いたりする負傷兵が舞台上を歩き回る。背景にはいつの間にか「海行かば」が歌われている。非常に上手い導入部である。また、これらに覆いかぶさるように裕仁の開戦時1941年12月8日に発された「宣戦の詔書」の宣言が流れる、{それは侵略している大日本帝国を正当化し侵略されたが故に立ち上がった中華民国が恰も悪であるかのような物言い、また中華民国を支援する英米とも戦禍を交えることになったこと(=太平洋戦争開始)、断じて勝つべきこと、虜囚の辱めを受けるより死すべきことなど、トンデモない奢りと下らない精神主義に凝り固まった非合理的発想そのもののプロパガンダ}であるが、物語冒頭にこのような発言を置き、最後に所謂「玉音放送」を流してサンドイッチにすることで裕仁の戦犯性と反省の全く無かったことを示して何気に挟み撃ちにしていると自分は解釈した。無論、何も対比はこればかりではなく至る処に散見している。演劇など、文化が人間に対し、平和時に為すべきことは、如何に昏い未来を防ぐか! への補助機能を果たすことでもあろうから、悪は悪とキチンと言うべきなのである。いつの時代の若者も、本来悪戯っ気に溢れキャピキャピしているのが在るべき姿であろう。未だシリアスな現実というもの・ことに出遭わずに済み、その実態が如何に苛酷でまともな精神に異常をきたさずにはおかないものか、に気付かないうちは。だが、部隊に参加した少女たちは殆ど1人の例外も無く苛酷な現実に出会い、どんなに悲惨な状況を見、出遭っても何も感じなくなってゆく。そうなって行く自分自身を怖いと思いながら。それが出来なかった余りに感受性に恵まれた少女たちは、目に見えぬほど、徐々に静かに、確実に狂ってゆく。他に道は無いかの如く・・・。
かく言う自分も実際に最前線に行って戦争を体験した経験はない。それ故に静かに狂ってゆくことの恐怖を実体験せずに済んでいる。幸いなことである。支援している場所が場所だから、無論紛争地に入ったり難民キャンプに入ったり、軍事基地と向き合ったりということはあったが、戦争体験では無い。その為か、実際の戦争には入って行けない、と実感させるだけの舞台であったことに感心させられた。
最初と最後に裕仁の演説が流れるのも効果的である。何という極楽蜻蛉ぶりであることか! 大日本帝国憲法下では唯一の主権者で在りながら敗戦責任を取る行為は退位を含め一切せず、日本人だけで300万以上、アジアの人々を1千万以上も死なせておきながら、一切の責任を取らずに済ませたのみならず、敗戦時にはシベリア抑留者として残隆兵をソ連の苛酷な強制労働に従事させ、沖縄の人々をアメリカ軍制下に置いて土地収奪、米軍基地建設、婦女暴行、殺人、暴力行為等々好き放題をさせておきながら自分はしゃあしゃあと天皇制の上にふんぞり返っていた。三種の神器が大切だったと言ったことが伝えられている。こんな者を頂点に置き最前線兵士死者の殆どが病や食料不足、安全な飲み水不足や虜囚の辱めを受けずに死すべし、との訓示によって無駄死にさせられていった。ふざけちゃいけない!
ところで敗戦後、主権は我ら国民一人、一人が担うようになった。即ち現在奄美から沖縄島嶼部に及ぶ軍拡と日本国土の僅か0.6%を占めるに過ぎない沖縄だけで在日米軍基地の約70%を置き続けていることの責任は我々日本国民自身に在る。このことの意味する処を深刻に受け止め、行動せねばならぬ。伊勢崎 賢治氏の言われる通り、日米地位協定のとんでもない内容は、総て国際標準に改めねばならぬことは当然である。そうしなければ、日本全土が台湾有事の際には前線となり多くの原発が立地している日本海側の原発が安全に保たれることなど、それこそ「想定外」ということになろう。アメリカの最前線として機能させられる植民地の実態についても想いを馳せるべきなのである。戦争というものが勝敗によって決せられるのが基本である以上、そんな愚行を犯す前に為すべきことは、真剣に対処しておくべき最低限の最重要課題である。今作を含め敗戦後80年の今年、多くの戦争物が演劇でも上演されている。今作は、その中でも優れた作品ということができよう。観るべし!
実演鑑賞
満足度★★★
ドラマツルギーについて考える必要があろう。
ネタバレBOX
板ホリゾントにエレベーターの扉のような開閉口。開演前にはその前に“田中真美の脳内”と書かれた布が時折風にはためき乍ら揺れている。開演と同時に撤去されると主演の真美が現れ目前に設えられた階段を下り下手に置かれた、赤や黒のドレス、スカート等の衣服を体に当ててみたり、上手恐らくクローゼット内に置かれた衣文掛けにバスタオルを干す等の作業を始める。その後、現れる多数のキャラクター。男女ともに居るが女性が圧倒的に多い、各キャラクターは各々独自の性格を持つが基本的には世間からの評価が低いことを気に病んでいる。因みに真美自身は地方から夢を叶えようと上京してきた。然し三十路を越える現在になっても未だ自分自身の夢を確定することすらできておらず、宇宙でたった1か所リラックスできる時空は布団に包まり眠る時だけ、という塩梅である。その癖“立派な社会人になること”だけは恰も金科玉条の如く頑なに自己命題化している。また、故郷に帰る条件として、目指している“立派な社会人としての自己の確立以降”という条件を科して居る為、心配する母からの電話だと分かり切っている電話に中々出ることが出来なかったり、無視してしまったりを繰り返している。そういった日常が自己否定を生み出し、それが益々真美を、第三者の存在と対峙する機会を喪失させていることにも気付くことが出来ない。即ち論理的に決して脱出できない隘路に自ら嵌りこんで身動きが取れず自家撞着の不快に沈み込んでいるのである。試しに“死にたい”と戯言は繰り返すものの、無論本当に遂行することはできない。それ位のことは自身でよく理解しているものの、覚醒している訳でもないのは、三人称的な世界に生きていない以上必然である。が、一人称世界でしか生きていない彼女にそのような論理を構築することは不可能である。母との関係が正常に築ければ二人称世界を通しての三人称世界への軟着陸も可能であったかも知れない。然し描かれた内容内にその兆しは見えない。それが、今作の限界である。世間や第三者との鬩ぎ合いを避け、何時までもナルシシックな一人称世界内で生きる限り、この壁を乗り越えることは不可能である。本来なら、二十歳前後でこの問題は克服していて然るべきなのだが、こじらせてしまった以上、腹を括って意図的、論理的に自らの頭脳をフル回転させて克服する他はあるまい。表現する者として生きる気であるなら、この問題は避けては通れない必須の問題であることに気付けないようでは、良いシナリオは書けない。演劇をやっている以上、シェイクスピアは読んでいるだろう。仮に「ロミオとジュリエット」でモンタギュー家とキャピュレット家が因縁の対立関係に無く、互いの親族同士の殺人や親友の殺害等が無かったら、また、ジュリエットの仮死を知らせる手紙がロミオに届いていたならこの悲劇は、完全に間の抜けた作品にしかならなかった。その程度のことは中高生でも分かる。脚本を執筆する以上乗り越えねばならぬ初歩的問題なのである。
因みにこのような問題を個人的に抱えた個々人が三人称世界と対峙する状況を描くことができれば、面白い作品になるだろう。それを実現する為には、先ず、世界に向かって翔び第三者と格闘すると同時にその手法を自らの頭脳を用いて編み出すことが必要だ。ヒントは書いた、今後に期待している!
実演鑑賞
満足度★★★★★
椿組を拝見。
ネタバレBOX
舞台美術も中々手の込んだものでグー。開演前には「林檎追分」や「ふるさと」のメロディーやダンモが流され中々良いムードを醸し出していた。然しオープニング早々、ぶっ壊れた日本語のオンパレード、ピーチクパーチク囀るような甲高い声がこれらの雰囲気を完全にぶっ壊した。な~~んだ! と絶望仕掛けたのも束の間。物語が実際に展開するのは現代である。が、それは入れ子細工の如く昭和元年生まれの祖母の大学時代、即ち太平洋戦争で大日本帝国が劣勢に陥り学徒出陣が強制される時代直前から原爆投下で決定的敗北を見、体験させられ、満州へ渡っていた祖母の母の訃報を受けた敗戦直後迄の、折角東京の大学に受かり就学したものの曲がりなりにも授業を受けることが出来たのは最初の1年、後は勤労動員され銃後の補佐役として事務職に徴用され、飢えとファシズムの要求するもろもろの規制に、偶々極めてリベラルで至極真っ当な寮長及び寮母らの甲斐甲斐しく理知的で人間的な対応に救われつつも、大空襲後の東京都下に広がる惨憺たる有様を目撃し、その余りのショックに絶望の淵に沈み掛けながらも、何とか前を向こうと孤児と化した子供たちに最後に残っていた梅干しを全部上げてしまった寮母と共に、壺の底に残っていた梅干しの汁を啜って現直しを図り一縷の光明を見出すなど等身大のリアルを戦争を体験し体験談を語った祖母の孫が出演する舞台作品として、脚本家が見事に紡いだシナリオを只管生きぬく演者達のストレートで真摯な演技が表現するという形で実現する。
この単純だが効果的な仕掛けによって今作は心に沁みる作品として成立した。良い舞台である。実際敗戦後長い間、傷痍軍人は盛り場や人々の多く集まる上野公園等で街角に立ち、物乞いをしていた。その姿は1952年生まれの自分も散々見て来た。今作は池袋北口辺りがその場所として登場する。