「流れる」と「光環(コロナ)」 公演情報 「流れる」と「光環(コロナ)」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.5
1-18件 / 18件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    4/6(水)と翌4/7(木)、池袋の「芸劇」(東京芸術劇場)で「劇団あはひ」の公演がありいずれもアフタートーク付きのソワレを予約しておいた。

    下北沢の本多劇場で初めて彼らの「どさくさ」を観てからお気に入りの劇団になっている。

    ●4/6(水)は「光環(コロナ)」。

    KAAT神奈川芸術劇場にて昨年上演した「Letters」を再演に向けてリクリエーションしていたら初演とは全く別のアプローチの作品となったが、いろいろと研ぎ澄まされたのでタイトルを「Letters」から「光環(コロナ)」と改め、新作公演の上演にするというメールが来たのは3月末。

    メールの大塚健太郎 氏(作・演出)のコメントによると、能の構造を援用し作品が本来持っていたポテンシャルをさらに引き出した結果「もはや別作品としか言いようのない、しかし明らかに作品本来の姿」だそうで「これはコロナ禍を経験したすべての人に送るわたしからの手紙です」と締め括っている。

    こうした電子メールという「手紙」から、すでにこの演劇は始まっているのかもしれない。

    もともと「Letters」という作品は、城崎国際アートセンター(兵庫県豊岡市)で実施された昨年8月、10月の二度の滞在制作によって生まれた作品だそうだ。

    当時のパンフレットの中には各自のそのときの語りも入っていて、推しの古館里奈さんなんかは温泉巡りをして美味しいものを食べたりとなかなか楽しんでいたりする。

    この演目は、舞台の空間も下手の奥から上手の手前に正方形の飛び石で繋がれた舞台があって全体として斜めの菱形のようになっている。

    夢幻能の構成をうまく使って(言わずもがなの裏返し的な使い方だが) 大塚氏の得意とする作品だと思う。

    lettersの宛先は存在しなかったものすべてという主題とのことだが、量子の重ね合わせ(superposition)や量子もつれ(quantum entanglement)のような演劇であり、劇場空間の「場」はまさにこの宇宙を表しているのかも知れない。

    アフタートークでは能楽研究者の竹本幹夫 氏がいろいろと解説もされているが、大塚氏の自己アピールもなかなかだ。😄

    ●4/7(木)はもうひとつの「流れる」。

    松尾芭蕉と曽良、鉄腕アトムと飛雄か梅若丸かの霊と、狂女と渡し守が出てくるが、スピンのπ位相のような時空の不思議な世界は見立ての舞台装置などと相俟って、良くできている。

    演者もそれぞれに役をこなしていて見事だった。

    こちらもアフタートークがあり、代役で出てきた藤井慎太郎教授(早稲田大学で美学・演劇を研究している大塚氏の恩師)とのやりとりは面白い。大塚氏はHip-Hop好きということで、とても合点がいった。

    ・「流れる」(「光環(コロナ)」と似た舞台の空間だが全く異なる世界に見える)
    https://natalie.mu/stage/news/473153

    ▼アフタートーク1:「光環(コロナ)」
    https://twitter.com/gekidan_awai/status/1512686756889612288?t=3E27u69kniBgOzRIoo_bFQ

    ▼アフタートーク2:「流れる」
    https://twitter.com/gekidan_awai/status/1512630310487269378?t=OghlS4LyVR4RfwHWrZPtmw

    (動画はいずれも期間限定公開だったようだがダイジェストにして残してるみたい)

    #来福録 #享楽三昧 #あはひ #演劇 #知ポタ

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2022/04/10 (日) 14:00

    座席J列6番

    【光環(コロナ)(「Letters」改題)】
    昨年11月の「試演版」と65分の尺は変わらないがあれこれ削ぎ落して(とはいえ出演者の数は1人増えた)様式美にまで昇華させた「現代能(未来能?)」な趣き。
    それでいて終盤の日蝕のスペクタクルと言って過言ではないダイナミックな表現たるや。試演版の表現も優れたものだったがまた別のアプローチで圧巻!(試演版では照明で表現していた「波打ち際」を本水で表現するとは……(!))

  • 実演鑑賞

    俳優の生の声とP.A.を通した声にかなり差違がありましたね。
    気になっちゃうんですよね。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2022/04/09 (土) 14:00

    【流れる】
    能の「隅田川」に「子を喪った親」という共通項で天馬博士とアトムを加え、狂言回し的に芭蕉・曽良のコンビを配するクロスオーバーぶり。
    「隅田川」を予習して臨んだので確かに下敷きになっていると思いつつ「一筋縄では行かない(私見)」あはひのこと、もしかして「女」は実在していないのでは?とか盛大に誤読(なのか?)して楽しむ。
    なお、この回のアフタートークでライター・編集者の九龍ジョーさんが「観ながらあれこれ関連付けたり想像したり」とおっしゃっており「わが意を得る」(笑)。

  • 実演鑑賞

    満足度★★

     光環を拝見。アップしたハズが載っていなかったので再送。

    ネタバレBOX

     板上はフラット。観客席側下手コーナーをAとし時計回りにB,C,Dとする。板中央に大きく白い正方形。このセンターに水を湛えた趣の真円。B・Dを結ぶ対角線を延長した線上に中心から遠くに行くにつれて小さくなる正方形がスモールb・cを各々の頂点として飛び石の如く置かれている。下手奥最小の四角形の面積を1とすると次は4その次は9でACを結ぶ対角線中心に完全なシンメトリーを為している。C・Dの中間辺りに天井からカーテンのような布が下ろされ床迄届いている、この幕の幅は50㎝程か。時折、ホリゾントやこのカーテン状の幕に文字が映し出される。
     原案はPoeの「Purloined Letter」だそうで、当初今作のタイトルはLettersであったが上演直前に変更された。能を意識して作られているというが、足捌きはすり足でなく、現在の日本人一般の通常の歩き方である。偉く能書きの多いアフタートークが付いていたが、観客が舞台を観て能とデリダ哲学との関係、ラカンとの関係をどう読み解くと考えているのか? そもそも作品というものの性質は、作家の手を離れた瞬間から作家も知らない何者(なにもの)かになるのではないのか? そのようにしなければ作品は単に作家の「従属物」に貶められてしまうだろう。
     敢えて善意に解釈すれば「光環」(コロナ)という作品は、詩人、哲学者、能作家、小説家、批評家等々を散々引用しつつ、存在と非在或は138億年前にあったとされるビッグバンとその後3×10⁻44乗秒の間に膨張して始源宇宙ができたとされる説に関わって必然的に提起される問題即ち“存在と無の関係”つまり宇宙に完全な無が在り得るか否か、が浮かんでこよう。自分の知る限り現在の宇宙認識に於いて完全な真空は無いと考えられていた。だとすると量子論的宇宙というものを考え更に一般相対性理論を同時に成り立たせる統一的論理を構築しなければならないが、それが出来て居ない現段階で無理に思考した時点に於ける、我らヒトの思考の揺らぎをこそ描いていると言えよう。唯、その描き方が引用の織物として表現されて居る為に極めて焦点を結びにくい。(兎に角、原案がポー、参照・引用は東浩紀、村上春樹、ヴァレリー、岡田利規、世阿弥、パウル・ツェラン、バッハマン、ラカン等々のオンパレードである。)このピンボケ感覚が一種の疎外感のようにしか表現されていない点で作劇法としては弱いと感じるのだ。ところで相対性理論と量子論の統一理論形成の話だが、時間を事物変化の経緯と捉えるなら初期のエネルギーと炎の塊のような何かがビッグバン後の3×10⁻44乗秒で拡散したとするなら炎とエネルギー時点で既に時間は存在したということになるのではないか? 而も時間は事物変化の経緯と規定したのであれば、この定義と矛盾する。
     「野獣降臨 」で野田は主人公の絶対的孤独を宇宙船と地球の交信が途絶えた時間に於ける絶対的孤独として描き主人公というコアに収束させることに成功したが、「光環」に於いてはこのような主体が存在しないことも今作の弱さの原因である。余りに引用ばかりであるのみならず、アフターミーティングで作家自身が語った所によればシテとワキを入れ替えるという作業をしているとのこと。能をベースにしているということも語っており、{能に於いては実際に異界の者(神、精霊、亡霊、鬼等)がシテとされることも多いのに、(態々今作では本来の脇役である側をシテとし、実舞台で主役である者が実はワキだった、と言及していた訳だ。)}が作品を観た限り逆転させたと言っていたのが間違いではなく事実であったとすれば、この操作によって焦点化が不可能になってしまった。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鑑賞日2022/04/09 (土) 19:00

     チラシを前にもらったときに、そして今回の観劇の手引きを見た時からより確信したが、能の所作や形式に乗っ取りつつ、西洋史の系譜や哲学者、エドガー·アラン·ポーの短編小説「盗まれた手紙」、村上春樹の「ある晴れた日曜日の朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」という短編小説、能の世阿弥の言葉などを作品の下敷にしたり、劇中に散りばめたりしながら、主人公の女の子役の俳優が殆ど棒読み、無表情で稀にコミカルに演技したりしているのと、他の俳優が演じる、急に声が甲高くなったり、低くなったりする、人の言葉を話す鴉、初老なのに奇妙奇天烈で相当に目立つファッションに身を包み、いつまでも中学生の甘酸っぱい青春のなかにいるかのような変わった夫婦、どうやら危機的状況の未来を予測できる予知能力を持っているらしい男などの個性溢れ、それでいて存在感のかなり薄い登場人物たちとのどこかズレた対話が続き、それに電子音楽も加わり、舞台中央に水が設えられ、それを劇中では海になったり、日食になったりするが、それらがシンクロしていき、この作品は、哲学的な要素や詩的要素、俳優の身体の所作、不条理劇の要素がクロスするとき、これは劇というよりも、良い意味で、現代アートのパフォーマンスを観て、聴いて、5感、そして全身を使って体感しているような感じがした。

     劇を通して、女の子と出会う風変わりな人や鴉との対話は、どこか「不思議の国のアリス」のやり取りを思い起こさせ、お互いがどこかズレているが構わず会話が進んでいく感じは不条理劇を思い起こさせ、そういう細かい部分への気配りや作·演出の大塚健太郎氏の知識量の多さには感服させられた。

     橋がかりを使って出たり、入ったり、音を全く立てずに摺り足で終始動いていたり、足袋を履いて演じたり、観客に緊張感を強い続けることと、完全に能にリスペクトをしながら、現代風な表現も巧みに取り入れて、美しさや儚さ、無常観なども含め、これはまさに本当の意味で、現代能だと感じ、作·演出の大塚健太郎氏の手腕に恐れ入った。

     ただ、劇が終わったあとのアフタートークでの、種明かしばなしの際、作·演出の当人がどう思っているかはわからないが、平たく言ってとても驕り高ぶっているように思えて、鼻持ちならなかった。理由は、前回2021年に『Letters』という作品をKAAT(神奈川芸術劇場)で演った際、アンケートで作品内容がよく分からなかったという大多数の意見に触れ、僕は、作品の内容や意味をちゃんと理解して、納得して帰っていただけるとありがたいです。今回の劇は能の様式に則りつつ、レトリックを作中に入れ込んだことで、分かりづらくはしたが、能に詳しく、推理小説のトリックを分かりきった人たちなら、これぐらいどうということもないんじゃないですかねぇ。というような、知識豊富な人たちに分かれば良いとも取れかねる発言に、疑問を抱き、それはどうかなと感じた。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「光環(コロナ)」を観劇しました。
    正直、私には難解でした。アフタートークも聞きましたが、それでも分からず仕舞いでした。
    演出は、とても綺麗で、何とも言えない世界で素敵でした。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「流れる」を観劇。能の世界観を感じられ,とても面白く観劇できた。

    ネタバレBOX

    自分が鑑賞した回のアフタートークは,ゲストが一方的に語るだけで,主催者との会話に乏しかったのはちょっと残念。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「Letters」改め「光環(コロナ)」
    これはもう完全に能の世界、実に複雑な構造で理解は困難を極める
    開演前に配られた「観劇の手引き」に「能編」というのがあって記憶を呼び覚ましていなかったら、皆目わからなかったかもしれない
    いや、それは一助にすぎず、アフタートークを聞いてやっと7割方理解した
    衣装や超シンプルだがライティングなどと相まって不思議な世界を作り出す舞台美術などは大変優れていた
    若いが確かに独特な世界を作る劇団だ
    本作は観る側を選ぶだろう

    ネタバレBOX

    なぜ対角線上両方に橋掛かりがあるのかと思っていたら、アフタートークの謎解きで本当の舞台は観客に背を向けているのだと種明かしをされ驚いた(観客の上手手前に伸びているのが本当の橋掛かり)
    そもそもワキと思われた女性が実はシテであり、ゆえに確かに彼女はほとんど観客に背を向けて本来のシテ柱(観客から見るとワキ柱の位置)に立って演じていた
    そして後シテの面としてマスクをつけて現れた彼女は本来の橋掛かりから廊下の方に出て行った
    アフタートークでは実は観客もシテであることが明かされ、そちら(橋掛かり)から後シテとしてマスクを付けて出て行ってほしいと言われた(本当は入場もそうして欲しかったらしく、自分は前方席でそのように入ったが、半分の観客は劇場側の案内で後方扉から入ってしまった)
    作の大塚健太郎はこの劇について、コロナ(だけではいが)によって本来出会えたはずの人々と出会えなかった大きな喪失感が根っこにあると語っていたが、それは観客も皆同じであることから、ここにいる全員がシテであるという構成にしたようである
    この能仕立てで演じられるのがエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」
    そしてこれに詩人パウル・ツェランの4月20日のセーヌ川投身の話や村上春樹の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」がからむ
  • 実演鑑賞

    面白かったです。(流れる)

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    letters を観劇
    難しかったが、何を意味してるか真剣に考えながら観た。
    それでもわからなかったので、アフタートークを聴くとわかるかなと思い聞いた。
    あーそうなのか、わずかだが納得。
    勉強になった。アフタートークを聴かず帰った人、もったいないです。
    是非聴いたほうがよかったです。
    能に興味を持った。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    当初の「Letters」から改題された「光環(コロナ)」を拝見。ポーの『盗まれた手紙』が下敷きだというので、デュパンのあれかぁと、変に先入観を持っちゃったのは失敗だったかも。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    『流れる』

    高尚で難解なスカした会話の応酬で観に来たことを後悔させる、批評家狙いの張りぼて作品ではない。能の『隅田川』だとかほぼ一切関係ない。鈴木清順やキアロスタミ(『風が吹くまま』)、ATG映画なんかの手触り。奇妙だが心地良い世界。台詞が断トツに秀でている、ギャグ満載の絶妙な遣り取りの会話劇。
    「ああ え? は そう はあ そうか」。

    予備知識として『鉄腕アトム』の設定だけ知っておいた方が良い。科学省長官であり天才科学者の天馬博士の息子、飛雄が交通事故死。彼は息子そっくりのロボット、アトムを作るもやはり息子の代わりにはならず、ロボットサーカスに売り飛ばしてしまう。

    松尾芭蕉役上村(かみむら)聡氏、鈴木浩介の雰囲気で何処かロンブーの淳っぽくも見える。目を大きく見開いて唖然とするアメリカンなリアクションに観客もどっと受ける。とにかく自然な口調がジャズのベースのよう。
    河合曾良(そら)役中村亮太氏、その辺の大学生そのまんま。リアルで憎めないキャラ。
    謎めいた女役鶴田理紗さん、乗船券の売り切れた渡し船に乗りたがる。何を思っているのか皆目見当が付かない。
    天馬博士役踊り子ありさん、『どッきん☆どッきん☆メモリアルパレード』で演じた鮮烈なヒロインが記憶に新しい。会話の受けが見事。
    アトム役古瀬リナオさん、148cm でまさに子供のよう。歩き方、動作、会話がロボットそのもので目を奪われる。この役は難しい。

    話は旅に出ようと船を待つ芭蕉と曾良が喫煙所にいるとチケットを探す女が現れる。向こう岸では慰霊祭、船はなかなか出航しない。

    かなり面白かったのでもう一本の『光環(コロナ)』も観たかった。何の先入観も持たず目の前の遣り取りを味わった方が楽しめる。取り留めのない会話と間だけでこの空間に魔法をかけてみせた。

    ネタバレBOX

    隅田川で数年前、天馬博士の息子、飛雄が水難事故で死亡。去年また男の子が溺れて亡くなったが見付かった遺品には「トビオ」と書かれてあった。しかも誰も遺族は名乗り出て来ない。そこで地元の住民は慰霊碑を建て慰霊祭を毎年やることに。天馬博士は「もう二度とこんな事が起こらないように」と、飛雄そっくりのロボット、アトムを創造。水難救助の任を与え渡し船に乗せて警備を行わせている。そして自ら船頭として船に搭乗。天馬博士は妻が亡くなってから髪を伸ばし、一見女性に見える。
    アトムはお母さんを探し続けている。飛雄の記憶なのか?存在しない幻を追い求めているのか?
    謎の女は「一年前に死んだ子供は自分の子だ」と言う。

    推論として、飛雄の死に哀しみ母親も早世。母親を待つ飛雄は亡霊としてもう一度水死を繰り返す。それを知った母親の亡霊が慰霊に向かう。(全く違うかも)。

    松尾芭蕉とかアトムの記号が強すぎて、物語の邪魔をしている感も。普通に妙な余韻の残るちょっと不思議な話で良かったような。何の意味もない普通の会話だけでこれだけ面白いとは。受け答えと間、松尾芭蕉以外の内面が全く見えない設定の面白さか?
  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「光環(コロナ)」(「Letters」から改題)観ました。当日パンフを読んで足りない知識を補ってからの観劇でしたが、淡々と進む話になかなか入り込めないと思っていたら、もう終演。自分にとってはハイブローでした。視覚的には良かったです。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    「流れる」鑑賞
    能をベースにかかれたとのこと、予備知識がないと面白みが解りきれないのか!?と思いました

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    流れる:ワキであるはずの天馬渡し守がシテで、そもそもが飛雄の身代わりであるアトムは子方でもない、役割とは何ぞやな夢幻能ならぬ夢煙能か。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    ネタばれ

    ネタバレBOX

    劇団あはひ『流れる〜能 “隅田川より”』を観劇。

    隅田川のほとりで渡し船の出発を待っている松尾芭蕉と弟子がいる。
    側には乗船チケットを買い損ねた女性もいて、船頭の息子アトム(ロボットの様な少年)が母親を探し回って辺りをウロウロしている。
    どうやら隅田川ではこの時期に子供が二回も亡くなっているようだ。
    さて船は何時出発するのだろう?

    能の隅田川を下敷きに、鉄腕アトムと松尾芭蕉という奇妙な顔合わせで物語が進んでいく。女性は隅田川の役どころの狂女であり、隅田川で亡くなった子供を船頭がロボットとして生き返らせ、アトムは女性が失った子供の生写しの様だ。
    様々な人物と能の融合?という点は興味深いが、隅田川という物語を知っていれば展開を掘り下げられたのだが、全く知らないのだ。
    能と鉄腕アトムと松尾芭蕉の知識がないと単なる会話の風景を見ているにしか過ぎないと思う観客は沢山いただろう。着眼点は面白いのだが物語でしか叶わない人物の融合が「ただ出会っただけ?」になっている。
    その出会いで何かを読み解くのが観客の役目?とも言っている様だが、それは劇作家の役目でしょう。
    比較するのはナンセンスだが、源氏物語の六条御息所を下敷きにした野田秀樹「ダイバー」第七病棟「ふたりの女」の衝撃を思い出してしまうのは今作の不満の現れだ...。
  • 実演鑑賞

    「流れる」を。
    80年代の小劇場で、気取った、お洒落な、シュールな、こんな感じの劇を見た気がするなあ。

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