舞台芸術まつり!2024春

早坂彩 トレモロ

早坂彩 トレモロ(兵庫県)

作品タイトル「新ハムレット

平均合計点:20.2
丘田ミイ子
河野桃子
關智子
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

音楽と身体を使って、翻訳劇を独自の技法で作り上げる作劇が特徴であった初期と、戯曲の本質に踏み込んだ緻密な演出スタイルにシフトした中期。そして、それらを経て、今その活動は第三期、「自由に、開いて、場作りを進めるトレモロに突入」と主宰の早坂彩さんは言います。その言葉通り、本作『新ハムレット』はSCOTサマー・シーズン2022と豊岡演劇祭2022で初演、豊岡での滞在制作と利賀山房と出石永楽館での上演を経て、東京と京都の二都市での再演へ。さまざまな場所で上演を重ねることによって、場作りはもちろん作品そのものを広く開いていく果敢な試みが感じられます。

原作は太宰治の『新ハムレット』。シェイクスピアの『ハムレット』を題材に取りつつも、太宰自身の新たな視座を含んだ戯曲風の小説です。

ネタバレBOX

劇中ではそのことを太宰治本人と思しき男に語らせる形をとっており、男(黒澤多生)の趣と存在感に観客の耳目を引きつけるオープニングが、まさに劇世界と小説世界のゲートを一つに繋げているようで興味深かったです。作者当人がストーリーテラーのような役割を担うこと自体は真新しくなく、むしろ現代口語演劇のある時代のトレンドとしても多くみられる導入だと思うのですが、本作の大きな特徴は作者の奥にさらにもう一人の作者が存在することです。
「シェイクスピアの『ハムレット』について色々思うことがあるから、僕が今からなんやかんや言いながら似た小説を書きますからね」
「戯曲みたいに書いていきますからね!」
という形で小説が始まる手法は批評的で面白く、さらにそれを舞台化するというのは、マトリョーシカのような入れ子構造を繰り返しながら、太宰がもし存命なら一生続きそうな批評バトルを重ねていくような可笑しみも感じました。
太宰治は派手で傍迷惑なその生き様から多くの作品のモチーフやモデルにもなってきましたが、個人的にはそのナルシズムが「芸術家としての美点」にではなく、「人間の可笑しみ」に振り切って表現されている作品ほど本質を突いているような気がしていて、本作はまさにそのことを導入から叶えていたと感じます。 派手におちゃらけるとか、明確に言葉尻を遊ぶだとか、そういった分かりやすい方法ではないにせよ、人間臭さの感じる存在として俳優がそこに立っていたこと、立ち回っていたことに説得力がありました。太宰に見せてあげたかったくらいです。

他にも俳優陣の表現力の高さに本作の本質が支えられていた瞬間は多くありました。
ハムレットの悲壮や葛藤が最大限に表出された松井壮大さんの鬼気迫るお芝居も凄まじく、姿は「ハムレット」であるはずなのに、その精神はどこか太宰の「芸術家としての美点」の方のナルシズム的気配を纏っているような感触もありました。もう少し踏み込んで言うと、太宰が魅せられた死への欲求や自己憐憫をハムレットという人物に映写するように声と身体を駆使して体現されているように私には見えて、その加減に舌を巻きました。
もう一人印象的だったのが、王妃のガーツルードを演じた川田小百合さんでした。川田さんの俳優としての技術力の高さを痛感したのは、自分をモデルとした劇を城内でハムレットらが上演する様子を眺めている時の表情でした。「眺めている」と書きましたが、その様子を実際に眺めてお芝居をしているのではなく、記憶が正しければ、ハムレットらと並列になった状態で表情のみで「眺めている」ことを表現する演出だったのですが、まさに「絶句」の様子を瞳の変化でまざまざと表現されていて、こんなにも静かで激しいお芝居があるものかと驚きました。その激しさの中にもふと太宰の直情さが顔を出すようでもありました。

以上の理由などから、本作はシェイクスピアの『ハムレット』よりも、さらには『新ハムレット』そのものよりも、「『新ハムレット』における太宰の眼差し」を重んじてつくられた批評性の高い作品であることに面白さがあると感じました。ただ、一つ懸念があるとするならば、私個人が日文学科の太宰治ゼミ専攻であったこと。その影響が本作を、太宰サイドへと強引に誘ってしまっている可能性も少なからずあったとも感じます。

本作は舞台芸術における風景としても鮮烈なものを残した作品であったと感じます。
椅子や梯子などの木々を複雑に組み合わせたオブジェ作品のような舞台美術(杉山至)は、ある時は船に、またある時はお城の中に変幻し、劇的な展開を手伝う貴重な装置でもあり、俳優が実際にその上に乗って芝居をすることから直接的な意味合いでは舞台そのものでもあって、本作の支柱として素晴らしい役割を果たしていたと感じました。演劇における忘れられない風景というものは人それぞれにあると思うのですが、本作においてはおそらく多くの人がこのオブジェをセットで思い出すのではないかと感じました。 「自由に、開いて、場作りを進める」。そんなトレモロの新章、早坂さんの挑戦を今後も楽しみにしています。

河野桃子

満足度★★★★

原作を読んだときの苦悩とバカバカしさが、演じることによって厚みを持った人間としてより深く面白みを感じました。

ネタバレBOX

冒頭の転換。薄い膜のむこうに俳優たちの身体が見えている。その生々しさののち、デフォルメしたコミカルな演技・振る舞いが、人々のフィクション性を高めていきます。とくにポローニヤスを演じるたむらみずほさん、クローヂヤスを演じる太田宏さんの、緩急幅の広さが、シェイクスピア『ハムレット』を下敷きにした太宰治のレーゼドラマ『新ハムレット』の舞台上演という幾層もの構造を演劇的な立体にし、ガーツルード(川田小百合さん)やハムレット(松井壮大さん)の抑えた熱も生々しい。オフィリヤ(瀬戸ゆりかさん)とレヤチーズ(清水いつ鹿さん)のシーンはストレートでありながら言外のやりとりも楽しかったです。
また、語りの男(黒澤多生さん)が登場することでメタフィクションとして成立し、かつ、男以外の個々の役柄に太宰が投影されているように見えてくる…軽やかながらひとつひとつ積み上げていく確実性を見ました。

抽象的な舞台美術と演出により、演者の目線が変化していく様子により、広くはないアゴラ劇場の空間が伸び縮みしていく。

後半の展開は太宰独自のもので、おそらく当時の世相も反映されているでしょう。戯曲を丁寧に読み込み立体的かつ躍動感を持って上演する力強い安定感を感じました。

關智子

満足度★★★

 太宰治の小説『新ハムレット』を舞台化した本作は、小劇場でありながら大掛かりで完成度の高い舞台美術と照明、そして俳優の演技に魅了される作品となっていた。

ネタバレBOX

『新ハムレット』は(小説の冒頭に太宰の言葉で説明されており、それは上演作品の冒頭でも読まれていたが)元々戯曲として描かれたのではなく、しかもシェイクスピアの『ハムレット』とは展開も結末もかなり違っている。したがって、戯曲としてというよりは太宰の小説として楽しむテキストであるが、トレモロはそのことについて明らかに自覚的であった。というのも、俳優は大振りな演技でもって太宰の書いたセリフを演じており、その文体を存分に聞かせるものとなっていたからである。太宰を連想させる人物が舞台上を徘徊していることからも、観客に太宰を常に意識させる造りになっていることは明白である。
特筆すべきは舞台美術と照明、衣装の美しさである。昭和モダンの雰囲気を醸しつつも完全な昭和時代のリアリズムにはせず、ファンタジーとの折衷的世界が展開されていた。こまばアゴラ劇場は決して広い空間ではないが、実際よりもかなり広いように感じられたことから空間演出の秀逸さが窺えた。
他方で、なぜ『新ハムレット』を取り上げたのか、という点についてはわからないままだったのが残念だった。すなわち、『ハムレット』でもなく太宰の他のテキストでもなく、なぜ太宰の『新ハムレット』だったのかを観客に納得させるだけのテーマが見えて来なかったのである。確かに太宰の文体は面白いのだが、それは読んでもわかることである。太宰自体が小説であるという点を強調している以上、この点についての演劇側の解釈や応答はそれなりのものでないと説得力がない。空間演出や俳優の演技が豪華であっただけに、もったいない上演だったと言わざるを得ない。

深沢祐一

満足度★★★★

「開戦間際の風景」

 太宰治が太平洋戦争開戦間際の1941年7月に発表した初の書き下ろし小説であり、レーゼドラマである。

ネタバレBOX

 中盤までの大筋はほとんどシェイクスピアの『ハムレット』通りであるが細部が異なる。デンマーク国王のクローヂヤス(太田宏)は先王亡きあと間もなく王妃のガーツルード(川田小百合)と結婚した。そのことを受け王子ハムレット(松井壮大)は義理の父と実母に心の距離ができてしまう。侍従長のポローニヤス(たむらみずほ)の息子レヤチーズ(清水いつ鹿)のように遊学へ出かけることもできず、ポローニヤスの娘で恋人のオフィリヤ(瀬戸ゆりか)との関係もぎくしゃくしている。親友のホレーショー(大間知賢哉)から先王の幽霊が出るという噂を聞いたハムレットは、クローヂヤスに疑念を向ける。

 本作の特異な趣向は、序盤に登場する男(黒澤多生)がナレーターのような役回りで作品を進行している点である。男は原作にある「はしがき」を読み上げて作品解説を加え、作中描かれている内容を要約し観客に伝えてくれる。男が初登場時の人物の名前や役柄を読み上げたとき、ティンカの音とともに和洋折衷の衣装を身にまとった人物に光が指し、顔を上げる演出が『忠臣蔵』の「大序」のようで面白い。このように物語の語り部として作者つまり太宰自身を舞台に上げたことでメタフィクションとしての趣が強くなっている。木製の足場で組まれた舞台機構を回転させながらその近辺で物語が進行するというのもこの傾向に拍車をかけた。上演するには長すぎる部分を男の語りで端的に済ませたことで観やすくなったという利点があり、作品が書かれた1941年の時代状況を踏まえたうえで鑑賞するという意識もまた持ちやすくなった。

 また、たむらみずほ演じるポローニヤスの存在も本作の興味深い趣向である。作中ではハムレットにけしかけ王殺しの劇中劇に加わり、怒りを買ったクローヂヤスに思いの丈を述べたあと殺されてしまうという役回りである。これだけだとただの悲劇の登場人物だが、侍従長というよりは田舎侍のような風体、ガニ股でコミカルな動きでこの役を演じたことで、あたかも道化のようにももう一人の狂言まわしのようにも見えて面白い。

 幕切れは戦争が始まりレヤチーズの乗った船が沈んだ知らせを聞き、自傷行為に走るハムレットのもとへガーツルードの入水自殺の報が入るという、太宰独自のものである。中盤まで登場していた語りの男はいつの間にか消えて、太宰そのひとが投影されているかのようなハムレットの嘆きが耳に残る。開戦と同時に訪れるカオスは作品が書かれた時代、そして現代と二重写しになっていて見応えがあった。

松岡大貴

満足度★★★

戦時下の知的遊戯

ネタバレBOX

太宰治によるシェイクスピアの翻案をさらに舞台化した本作は、『ハムレット』の持つ悲劇性や普遍的な青年期の絶望といった部分は鳴りを潜めて、キャラクターの造型や物語の変更部分からなるメロドラマ部分が前に出ているように感じる。そのある種の滑稽さは太宰が(あるいは本公演が)狙った部分であろうが、その通俗性はシェイクスピア作品自身が持っている部分であることからその射程の広さを改めて感じるところでもある。「レーゼドラマ」というジャンルは現代において一般的でないだろうが、なるほど「ハムレット」に象徴的な独白部分は対話の中で包括され、戯曲が場面を提示する聞き手を観客と想定するならはレーゼドラマを舞台化すると話し手が聞き手に語る事を読み手が目撃する形になるのかと、そもそも構造上の違いも興味深く感じた。もちろんそうでない劇文学も多数あるわけだが。「新ハムレット」は一見太宰による知的遊戯とも思うのだが、これが1941年軍靴の足音がする中で書かれたと聞くと、その矮小さや、滑稽さこそが必要であったのかもしれないと想像する。であればそれは現代どのように表現するべきだろうか。

本公演について別の視点からは、この一つの作品を複数年に渡り複数会場にて上演していることは、制作的観点から評価されるべきだろう。曰く新作至上主義との批判も受け得る小劇場演劇において、当然一つの作品に長く取り組むことはカンパニーとしても体力を使うことだろう。旧来の劇団とは違い、プロデュースユニット隆盛の現在ではなおさらで、複数の地域を横断し、複数の劇場やフェスティバルを用いて作品を創作・制作する一つのプロジェクトとしても興味深いものであった。

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