舞台芸術まつり!2024春

カリンカ

カリンカ(東京都)

作品タイトル「エアスイミング

平均合計点:20.8
丘田ミイ子
河野桃子
關智子
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★★

初の海外戯曲上演となったカリンカ第4回公演。
『エアスイミング』は「触法精神障害者」として不当に収監された女性二人の会話を、実話を基に描いたシャーロット・ジョーンズによるイギリス戯曲。戯曲に見出す現代との接続点、2人芝居というミニマルかつ壮大な心のたたかいを、物語の登場人物たちに流れる緊迫や狂気へと繋げ、二人きりの言葉と身体の力を以って独特の磁場を生み出していたように思います。

私は本作をいわば“忘れてはならない女性史の一部”である、と感じました。 しかしながら、その日本での上演、とりわけ小劇場で取り上げる団体は少ないように感じ、私自身にとっても本作が初めてのきっかけとなりました。海外戯曲の知識が乏しいこともあり、日本における上演の歴史や経緯について詳しくお伝えはできないのですが、「どうしてもっと上演されてこなかったんだろう?」と思うほど、現代において重要な戯曲であると感じました。

喫緊に向き合わねばならない女性を巡る諸問題と直結する本作を、小劇場のプロデュース公演として選択されたことは非常に有意義なことだと思います。戯曲のチョイス、CoRich舞台芸術まつり!2024春への応募文章、上演の全てが「今、この戯曲を自分たちで上演しなければ」という信念に基づき手を繋ぎ合っていて、同じく30代を生きる一人の女性として感銘を受けました。自身の現在地から見つめる世相、それに対する戸惑いと怒り。そして、覚悟。現代社会に生きる女性としてのシンパシーとエンパシーのいずれをも上演を以て応答する、果敢な挑戦心に満ちた作品でした。

応募文章には【多方面の方から「今後若い頃よりも役や現場が少なくなってくる」と言われる事が増えました。実際それは構造的な問題もあるし、さまざまな問題をはらんでいると思いますが、ひとつ30歳という節目において、俳優自身が自ら創作の場を作れるということを、今後もカリンカでの活動を通して、モデルケースとして提示していきたいです】という言葉がありましたが、まさに、30歳を迎えることによってかけられたネガティブな声を、演劇を以っておつりがくるまでに返上するような、これまでのキャリアや歩みが二人それぞれの唯一無二の厚みとなったお芝居であったと思います。俳優個人はもちろん、「カリンカ」というカンパニーが今後さらに発展していくための布石として、充分に力強い作品であったと感じます。

ネタバレBOX

堀越涼さんによる舞台空間の使い方や演出も洗練されていて、とりわけカーテンを使用した演出ではその透け感が現実と虚構のあわいを表しているようでもありました。色のない透明の椅子や真っ白なワンピース、水槽の中の魚も登場人物たちの心象風景のように感じ、効果的に昨日していたように思います。

バスルームの掃除の時だけ、拘束を解かれて言葉を交わせる二人。互いと交わす会話を支えにそこで生き続けた果てしなさが、俳優が2時間その役を全うする果てしなさと重なって、彼女たちもまた芝居をするように、いや、することで、あのバスルームで生き抜いてきたのだ、と思わされました。劇場を後にして、眩しいお昼の光に目を細めながら、心の底からこの外の光を、世界をその目で見ることを渇望した彼女たちに見せたかったと痛感しました。

収容された年やその後の時間の流れを知らせる役割をも持つキーパーソンであるドリス・デイ。その代表曲『ケ・セラ・セラ』が聞こえ始めた時のショッキングさは忘れられません。「なるようになる」という歌に包まれながら「決してなるようにはならなかった、なれなかった女性たち」がそこにはいて、セリフと歌詞と風景が淡い光の中で錯綜していく。唯一の救いは、水槽の中にいたのが本物の魚であったことでした。あの舞台上に周囲の視線や状況をいとわず、ただただ生き、泳ぎ続ける生命があったこと。彼女たちが夢にも見た自分たちの姿がそこにはあったのだと思います。

最後に、本作はCoRich舞台芸術まつり!2024春の最終選考対象作品であり、審査員の一人であった私が本審査において出演者のお二人を演技賞に推薦したことをここにも記しておきたいと思います。詳細は審査ページに掲載されていますが、「精神の崩壊」という難解な心理的局面をそれぞれの身体性を以て貫いた橘花梨さんと小口ふみかさんに心より激励を申し上げます。

河野桃子

満足度★★★★

数か月経ってもなお、俳優の細やかな仕草を思い出します。
強く左右に引かれた口もと。遠くの宙を見つめる目じり。バスタブに置かれた指先の緊張。
役者が今そこにいる熱気を思い出します。
今作の感想に、熱演、という言葉をいくつも目にしました。熱演、を辞書で引くと「熱意をもって演じること」というように書いてあります。けれどその言葉以上に「心身ともに熱気を浴びた!」と感じる客席でした。それはもちろん出演者ふたりの俳優としての熱量、どんなシーンも保ち続けられた演じるテンションの高さがあります。なにより俳優ふたりの相互の影響。片方が発し、片方が受け止め、また発する。互いに打ち響き合い、大きなうねりを作っていく。ふたり芝居の醍醐味を感じました。 また、二面舞台でほかの観客や角度を意識してしまう空間の影響や、演出のリズム感もあったように思います。演出の堀越涼さん(あやめ十八番)ならではの音やリズムが、俳優の熱量を促進しているように感じました。

これらの融合により、この座組でのみうまれた『エアスイミング』の舞台空間でした。

ネタバレBOX

もともと戯曲としては複数の解釈があります。入り乱れる2つの世界。それらがいったい何を意味するのか。台詞のスピードとリズム感により、すべてが虚構のように聞こえてくることもあれば、場面やふたりの関係性の変化がわかりにくい部分もありました。
また、本作は1920年代イギリスが舞台であり、設定は実話に基づいています。当時の規範を逸脱したとされ「異常者」と呼ばれ収監されたふたりの女性。変化し続け議論され続けるジェンダーや社会規範の在り方、その表現について、現代の視点で読み解くのは難しいため、当時の背景がなにかしらの方法で示されていたなら、より作品と観客の距離が縮まったのではないかとも思います。

關智子

満足度★★★

カリンカ『エアスイミング』は、女性が社会的に囚われている「規範」の窮屈さ、それによる抑圧を見事に具現化した作品になっていた。

ネタバレBOX

シャーロット・ジョーンズによる『エアスイミング』は、1920年代のイギリスを舞台に、「精神異常」という烙印を押された女性2人が、病棟で夢を見ながら生きていく話である。2人が互いをケアしながら、傍目から見れば絶望のどん底で夢を見る様は可憐である。小口ふみかと橘花梨による熱量の高い演技は、最初はお互いに警戒していたがやがて強い絆で結ばれていくシスターフッドを見事に表現していた。
堀越涼による演出は、2人が囚われている病院そしてそれが象徴する堅牢な社会的規範の狭さを観客にも感じさせるものだった。劇場となった小劇場楽園ともよく調和しており、殺風景な病院の浴室が幻想的な夢の世界へと変化する様は見事だった。
他方で、テキストに見られる解放感が今ひとつ感じられなかったのは残念だった。狭い空間でそれを描くのは至難の業であるが、本作品はそれがなくては片手落ちになってしまう。また、夢の世界を本当にただの妄想とするのか、それとも潜在的な未来の姿とするのか、解釈が分かれるところではあるが、そのいずれであるのかを観客にもっとわかりやすく伝えても良かったのではないだろうか。
男女格差や女性の抑圧が問題となっている現代日本社会において『エアスイミング』を取り上げたという点において、その問題意識の持ち方や社会に対する感度の高さが評価に値する。他方で、その問題やテキストの掘り下げはやや不満が残るものとなり、惜しい作品となっていたと言わざるを得ない。

深沢祐一

満足度★★★

「排除された女性たちが突きつけること」

 出演者の熱演と戯曲の強いメッセージが胸を突く1997年イギリス初演の二人芝居である。

ネタバレBOX

 物語は1924年、イギリスの収容施設の場面から始まる。21歳のペルセポネー・ベイカー(橘花梨)は、2年前から収容されているドーラ・キットソン(小口ふみか)とともに風呂掃除をしている。ペルセポネーは上流階級の出身のようで、自分を「魔女」と呼び医師の診断のもと施設へと送り込んだ父親に連絡を取ろうとするものの、外界から閉ざされたこの場では叶わない。対するドーラは歴戦の女性兵士の名を挙げながらテキパキと掃除をしている。二人はそう遠くない時期にここを出ることを望んでいる点では一致しているが、性格は噛み合わないようだ。

 照明が変わると幾分明るい雰囲気になり第2幕となる。今度はポルフ(橘花梨・二役)が男に襲われたと嘆きながらドルフ(小口ふみか・二役)に泣きつく場面に変わる。ウィッグをかぶりアメリカの俳優で歌手のドリス・デイに憧れているポルフは陽気に「ケ・セラ・セラ」を口ずさみ、その様子をドルフは本を読みながら静かに見守る。

 この二つの幕が交互に続きながら、じょじょにこの4人の登場人物とその関係性が明らかになっていく。ペルセポネーは30歳も年長の既婚男性と恋に落ち子どもをもうけていた。兵士に憧れ葉巻が好きなドーラは男性的と非難されていた。女性の人権が認められていなかった時代に逸脱行動をとったと見做された二人は、反目し合いながら身の上話をするなどして少しずつ距離を縮め、日々の掃除に精を出し、ときに一緒に踊ったりする。ポルフとドルフの幕はより自由で軽やかに、好きな映画や食事の話に花を咲かせる。ここは押し込められたペルセポネーとドーラの想像世界のようにも、晴れて自由になったあとの他愛のやり取りのようにも見えてくる。先の見えない物語を見守る観客に突きつけられるのは、現在にも通じる人権問題への痛烈な批判である。

 本作第一の見どころは俳優の演技合戦と二役の演じ分けである。橘花梨のペルセポネーは、当初『欲望という名の電車』のブランチよろしく浮世離れした様子でドーラに文句ばかり並べていたが、本来は芯が強く包容力のある人物として造形されていた。ポルフを演じたときは屈託のない少女に変化しており俳優としての幅の広さを示していた。小口ふみかは巧みな台詞回しと軽い身のこなしでドーラを演じており、じつはその闊達さが強がりであり少しずつ精気を失っていく過程をうまく表現していた。特に終盤、あまりにも長い収容生活のため時間感覚がなくなり、絶望した気持ちをペルセポネーにぶつけるほどに錯乱していく様子が忘れがたい。二役ドルフも安定していたが、もっと変化が感じられてもよかったように思う。

 私が観たのが初日ゆえか当初は二人とも芝居が固く、自分の台詞を淀みなく発することに集中しており相手の台詞を受けた変化に乏しい印象を受けた。ちいさな劇場であるし収容施設の設定であるならば、もう少し声の大きさを落としてもよかったように思う。しかし中盤を越えたあたりからまばらであった客席の反応が少しずつ静かな熱狂となり、カーテンコールでは喝采となった。印象に残る場面は多いが、中盤と終盤で収容所を抜け出すことを夢見ながら息のあった身振り手振りで空中を掻く「エアスイミング」の場面が忘れがたい。

 楽園の劇場機構の大きな特徴である二面の客席を利用した空間設計もうまい(舞台美術:平山正太郎)。舞台を観るうえで自然と他方の客席の様子と視線が目に入るわけだが、それがまるで公権力によって排除された二人のあがきへの「まなざし」を可視化しているように感じられた。中央に置かれたバスタブと横に置かれた二脚の透明な椅子というシンプルな一杯飾りながら、照明変化や電灯、演技空間を囲む円形のカーテンレールを用いて、ややもするとふさぎがちになりそうな空間に細やかな彩りを与えていた。ただこの趣の妙が収容施設の設定と合致するかは好みが分かれる点とも思う。

 次節において私は現代では不適切な表現を使用しているが、差別を助長してはおらず論じるで必要と考えているためあえて記載していることをあらかじめ断っておく。

 作中では排除された女性たちが周囲から「精神薄弱」と呼称されたという言及がある。上演台本が底本としているであろう幻戯書房刊の小川公代訳と、サミュエル・フレンチ社刊の原書を参照すると、これは原文のmoral imbecileの邦訳である。パンフレットには「原作への尊厳を計らい時流による台詞の改変を行わ」なかったと付記されているが、上演前のアナウンスもあってしかるべきではなかっただろうか。くわえてトランスセクシュアルの揶揄や露骨に性的な表現が使用されていた点への注意喚起もなかった。細やかな配慮が不可欠であろう本作の上演にあたっては必要な対応であったと思われるため残念に感じている。本国初演からすでに27年経たうえでの上演であることを念頭に、この間起きた社会通念の変化を反映し、歴史的事象を扱っている前提を共有したうえでの上演が求められたのではないか。

 物語は50年収容されたペルセポネーとドーラが解放される第16幕で終わる。声が低くなりゆっくりとした喋り方になった曲がった背中を見ていて、私はこの二人が背負わざるを得なかったものに改めて思いを馳せ強く拳を握っていた。 

松岡大貴

満足度★★★

世界に閉じ込めらているのは誰なのか

ネタバレBOX

「一九二〇年代イギリス、精神異常の烙印を押され、収容施設に収監された二人の女」と公演のあらすじにある。実際に場面の説明はこれで事足りる。この場面を数十年に渡り演じ続けていることにる。しかし想像力と2人のやり取りによって、場面は幾重にも変化していく。人と人との間にあるやり取りのことを演劇と呼ぶのなら、まさに演劇によって生き抜いた2人の物語と呼ぶことが出来るだろう。
物理的に、精神的に、制度によって、規範によって、無関心によって、幾重にも隔離された2人の物語は、今の現実とそうは違わないだろう。小口ふみか、橘花梨はその悲しみ、混乱、悲劇とそれでも人が信じたい何かを表現出来ていたと思う。2人の演じたものは狂気や狂乱ではなく、2人の人間であったと思う。

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