舞台芸術まつり!2023春

タテヨコ企画

タテヨコ企画(東京都)

作品タイトル「橋の上で

平均合計点:20.2
丘田ミイ子
關智子
園田喬し
深沢祐一
松岡大貴

丘田ミイ子

満足度★★★

 一人のジャーナリストが20年前に事故として処理された少女の死亡事件の再検証に踏み込むというストーリー。

 単なる「事故死」として片付けられたかつての事件を現在の角度から紐解く記者側のパートと、追憶のような手触りで当時の様子を再現する当事者側のパートを行き来する形で次第に真相が詳らかになっていきます。俳優は複数の役を演じ、時系列は交錯するも整理され、導線が敷かれた演出や俳優の技量、照明や美術の効果も手伝って、混乱することなく観ることができました。

ネタバレBOX

 実際に起きてしまった事件を題材に、児童虐待や家庭内暴力やいじめ、シングルマザーの貧困や孤立といった緊喫に取り上げるべき現代の社会問題を個人のみのストーリーに終始させないところに本作の覚悟と意義、社会に対する姿勢を感じました。(暴力的描写があるということに関しては、世相を鑑みて事前にアナウンスがあった方がいいとは思いつつ…)

 権力からの圧力や揺れるジャーナリズム、社会の仕組みそのものの歪みを知らしめるような物語展開や演出が印象的だったことの一方で、主人公のこれまでの歩みに関するシーンがやや駆け足のダイジェスト風に見えた節や、記者たちがなぜその事件にこだわるのか、という部分がもう一歩深く描かれてほしいという気持ちもありました。そのことによって、事件やその背景にある社会がより鮮明に再検証されるのではないかとも思います。
 当日パンフレットに作家の青木柳葉魚さんのこんな言葉がありました。

 「当たり前のように一人一人に名前がある。誰かが何らかの思いを胸に名前をつけた。今、隣に座っている誰かにも名前があって、その名前をつけた人がいる。そう考えると隣の誰もが少しだけ特別な存在に感じる。誰もが名前のある人間だ。一人一人が」

 劇中でもこういった「個人の姿を見落とさず描きたい」という思いそのものには触れることができたのですが、それだけにもう少し景色として登場人物の表情を見てみたかったと思います。例えば、主人公・藤井あかりの一番好きな食べ物や好きな色を知りたい、記者の能瀬の記者ではない横顔を見てみたい、とそんなことを思いました。「社会問題を個人的問題に回収しないこと」と「個人が背負う日々や思いを描くこと」の両立は劇作の上で非常に難しいことだとは思いつつ、作家の思いの丈と力量に期待を込めて記させていただいた次第です。

 実際に起きた事件を下敷きにしていることもあり、血肉の通ったセリフやそれを腹の底に落とした上で絞り出すように体現する俳優陣の姿に心を揺すぶられる瞬間があっただけに、笑いを誘うシーンや歌詞の世界観の強い劇伴の多用はやや蛇足に感じる面もあったのですが、それも裏を返せば、俳優の技量含めエンタメに振らずとも十分成立しうる作品であった、という演劇そのものの強度の一つの証のようにも思います。

 制作面においてすごく有難いと感じたのは、安価での託児サービスデーがあったこと。「この題材だからこそ託児は手の届くものでなくてはならない」といった本作におけるカンパニーの一貫した哲学や思いに触れたような気がしました。子育て中の観客にとって、観劇はハードルが高く、社会や他者へ繋がる一つの窓口でもあるはずの劇場はまだまだ気軽に訪れられる場所ではありません。そんな中で、観劇アクセシビリティ向上の取り組みが作品そのものとしっかりと手を繋いでいたことは舞台芸術全体にとっても大きな意義を持っていると感じましたし、そのことによって、演劇が世の中へと発信するものは舞台上にのみあるものではない、ということを改めて知らされたような思いです。

關智子

満足度

 実際に起きた事件をモデルに取り上げ、その背景となる社会問題を炙り出す、真摯な姿勢が伺えた作品である。同時に、その挑戦の困難さが課題となってしまっていた。

ネタバレBOX

 まず、実際に起きた事件を取り上げ参考資料を詳細に検証し作成するという、正面から向かい合う姿勢は真摯であったことは評価できるだろう。いじめ、DVとその連鎖、母子家庭の貧困など、現代社会において喫緊の課題となっているいくつかのテーマが複雑に絡み合っており、起きてしまった事件をその複雑な背景を含め断罪することの困難さはよく伝わってきた。

 他方で、被害者の取り扱いにやや問題が見られる。シングルマザーの藤井あかりは2件の殺人事件を起こしている(とされる)。今回焦点が当てられるのは彼女の娘の殺害についてであり、その後起きた娘の同級生の殺害については、藤井の挙動不審さを際立たせるためのエピソードとしてしか取り上げられない。加害者の挙動は社会と家庭における複数の問題に根ざすものであるとする本作は、その2件目の被害者に「寄り添う」ものとなっているとは言い難い。作中で実際に、加害者擁護とならないよう、被害者のことを常に最優先で考えるよう、という指示が、主人公である記者の能瀬美音に対して言われているだけに、本作自体がそれを達成できていたかは疑問だと言わざるを得ない。もしも「橋の上で」の出来事が作品の最後で描かれるようなものであるならば、2件目の殺人はいかに解釈されるのか。その点が看過されたまま終わってしまっただけに、中途半端かつ説得力のある結論だったとは言い難い。

 また、本作が演劇である必要性が今ひとつ伝わってこなかったのも残念だった。モデルとなった事件についての記事や文献等を当たってみたが、それらを読むのと本作を見るのとでは実は印象が変わらない。また、白い箱が新聞社のデスクになったり橋の欄干になったりするのは演劇的だったが、よく見る舞台装置であるし、むしろ登場人物が多いシーン(例えば冒頭の、新聞社で記者全員が議論するシーンなど)では箱が邪魔に感じられた。俳優たちの演技はリアリズムに則ったものであるため、むしろ映像向きのテーマと構成だったのではないかと思われる。

 重ねて言うが、作品が事件を軽んじているわけではないし、その姿勢は終始真面目であった。俳優の演技は観客に訴えるものがあったし、だからこそ見ているのがつらいシーンもあった(DVやいじめ等についてはトリガーワーニングがあった方が良いだろう)。それだけに、本作の足りない点が目立ってしまったのがもったいなかった。

園田喬し

満足度★★

 実際に起きてしまった痛ましい児童殺害事件を下敷きにしており、観客の注目度も高い一作だと思います。該当事件に関する知識の有無で作品の評価が変わる上演ではなく、全ての観客へ丁寧に情報を伝えようとする意思を感じました。その意味で、いま舞台上で起きている事柄を、観客が受け取りやすい状況と言えるでしょう。ただ、僕個人は、今作で過去の実在事件を取り上げた創作上の意図を明確に感じ取れず、少しモヤモヤした気持ちになりました。実際の事件を取り上げることで「これは他人事ではない」という凄みを増幅させる効果はありました。そこから更に、一歩、二歩、三歩、踏み込むことで、物語は劇的に広がりを見せると思います。(←勿論高いハードルであることは承知していますが、期待を込めて)。

深沢祐一

満足度★★★★

 世間の耳目を集めた事件を総括し未来を見据える討論劇

 新型コロナウイルスの流行前から日本社会が直面してきた諸問題について、少し先の3年後の時点から先取りして観客に提起する意欲作である。

ネタバレBOX

 2026年3月、地方新聞「北部新聞社」生活文化部の若手記者・能瀬美音(いまい彩乃)は、20年前に発生し全国的な注目を集めた「藤平町児童殺人事件」についての企画を提出する。デスクの宍倉勝雄(今村裕次郎)はくらしのニュース向きではないと取り合おうとしないが、偶然部を訪れ当時社会部で宍倉と一緒にこの事件を取材し苦い思い出を持つフリージャーナリストの潟上一穂(舘智子)の後押しを受け、能勢は事件のあらましと企画の意図を同僚たちに披露していく。

 2006年4月、33歳のシングルマザー藤井あかり(リサリーサ)は9歳の娘雫を橋の上で見失う。懸命の捜索もむなしく、翌日川の下流で雫の遺体が発見される。母の真由美(仲坪由紀子)や友人の山本直子(ミレナ)に支えられながらなんとか正気を保とうとしていたあかりだが、雫の事件後の行動について情報を募るビラを撒いたことを刑事に咎められ、地域住民からも奇異な目で見られてしまう。翌月に今度は藤井家と同じ団地に住み雫の友人でもあった7歳の男児・里村尊の遺体が見つかり、尊の両親は尊の失踪後の不可解な行動からあかりが犯人ではないかと疑念を抱くようになる。やがてこの事件は全国から注目を集め藤井家はマスコミの餌食となってしまう。

 男児殺害事件から3週間後に警察から任意同行を求められたあかりは長時間の取り調べのなかで尊の殺害を認め逮捕される。その後の裁判では検察側と弁護側双方による事件の検証やあかりの精神鑑定が行われ、その過程で明らかになるあかりのこれまでの来し方に我々観客は目を奪われる。学校でのいじめや父親の虐待と母親へのDV、予期せぬ妊娠と出産、奔放な男性遍歴、次第に錯乱していく精神状態、そして起こった悲劇……若手ジャーナリストが20年前に起きた事件を総括するなかで、シングルマザーの家庭が置かれた過酷な境遇や社会的包摂の欠如、マスメディアや警察、司法の問題など現代社会の諸問題をあぶり出していく。 

 本作は実際の事件に着想を得、関連文献にあたり劇化した労作である。虐待やDVの描写が含まれているため事前のアナウンスはあったほうがよかったようには思うが、2時間近く飽きさせずグイグイ引っ張っていく作・演出の青木柳葉魚の手腕は大したものである。ジャーナリストの議論劇として始まり、事件推理や裁判劇、そしてある女性の悲劇など、さまざまなジャンルに分類できそうな内容がひとつにまとまっていて感心した。

 俳優たちは自分の持ち役以外にもマスコミや地域住民、警察や教師など何役かを兼ね、舞台の上に複数の時系列を交錯させ厚みを持たせることに成功していた。特に恵まれない環境のなか奮闘する芯の強さと精神的な脆さを併せ持つあかりを演じたリサリーサや、ベテランジャーナリストと朴訥な精神鑑定医を演じ分けた舘智子の達者さ、能勢に他所の縄張りを踏み荒らすような企画を出す奴と難癖をつけた社会部デスクや、警察発表に楯突いたマスコミに癇癪を起こす副署長、女性的な仕草で藤井家を噂する地域住民などを演じ分けた西山竜一の幅の広さが印象に残っている。初日の客席を埋めた男性を中心とした熱心なファンが、俳優の芝居に積極的に反応していた様子も忘れがたい。

 また俳優自身がコの字型の白い木製の台を移動させ、あるときは事件現場の橋、あるときは新聞社のデスクに見立ててといった展開もうまい(舞台美術=濱崎賢二)。シンプルだがアクティブな空間設計で、大きな空間とは言い難い小劇場B1が実に広々と見えた。

 他方で2006年と26年の二つの時系列の結末に置かれている最大の問い――「子どもたちの悲劇はなぜ起きてしまったのか?」「はたして能瀬の企画は採用されるのか?」――の答え、つまり物語の行きつく先がある程度予測できるため、スリリングな展開に至るまでにはならなかった点は残念であった。2006年のパートは実際の事件を元にしているため難しいのかもしれないが、ただ再現ドラマを見ているように感じてしまった。また2026年のパートは物分りがいい記者ばかりでなく能瀬の企画を強く否定する人物を造形するなどして能瀬が奮闘する様子をより緊密に描いてほしいと感じた。くわえて藤井家の複雑さやマスメディアの功罪を描くことに成功していたものの、警察や司法制度は一面的な描かれ方であったため図式的になってしまった点は残念に感じた。

 熱意が実りデジタル版の企画として採用が決まると、能瀬は夜を徹して記事の執筆に勤しむ。潟上から当時の取材ノートを託され奮起した能瀬は、ふと仕事場に差した月明かりを見つめ、それを服役中のあかりがどこか別の場所から見つめる、という場面で幕が下りる。終盤までの熱気が嘘のような静かなエンディングは少し物足りない。欲を言えば能瀬とあかりが相まみえる様子を見てみたいと感じた。

松岡大貴

満足度★★★

 実際に起きた連続児童殺害事件を背景に描いた社会派劇。

ネタバレBOX

 2006年に起きた秋田児童連続殺害事件を背景に、登場人物や社名等をフィクションに置き換えている。舞台を事件から20年が経った地元メディアに設定し、事件当時の回想や登場人物の過去を語ると同時にシーンとしても舞台上で見せていく。

 リサリーサ演じる藤井あかりは、殺人事件の犯人とされる役の朴訥さと儚さを好演していた。舞台美術と照明も印象的で、出演者による場面転換のスムーズさとも合わさって、転換の多い本公演の各シーンを観客が理解する助けとなっていたように思う。美術・照明はこのテーマでいてリアリズムに依らず、幻想的な雰囲気を構築していたのも成功していたように思う。

 脚本については疑問を感じた。物語の軸となる地方メディアや加害者については多面的に描いていた一方で、警察や裁判所など、特に警察については無能で高圧的で人間味のないキャラクターになってしまっていた。意図的にそう描いたのだろう。そこに作者の現場の警察制度や司法制度に対する主張が見て取れると解釈しても良いが、“体制側”もまた一人一人の総体である以上、踏み込んで描いて欲しかった。もう一点、加害者の精神疾患の描き方について。加害者が家族や社会に抑圧され、精神的に追い詰められていく様子は丁寧に描かれており、同情する観客も多いであろう。しかし、こと殺人事件においてはその精神疾患がかなり大きな要因として描かれているように感じた。その点を強調する必要があったのかは今でも疑問に思っている。精神疾患と重大犯罪を結びつけて論じるのは、実際の事件を元にしていたとしても、むしろ実際の事件を題材としていたからこそ、より慎重に扱うべきであったのではないかと今でも考えている。

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