舞台芸術まつり!2022春

サファリ・P

サファリ・P(京都府)

作品タイトル「透き間

平均合計点:23.2
大川智史
河野桃子
鈴木理映子
關智子
深沢祐一

大川智史

満足度★★★★

 京都・東京の二都市ツアー公演でしたが、私は東京・東京芸術劇場のシアターイーストで鑑賞しました。

 チラシのメインビジュアルがとてもカッコよく、自分の中でのサファリ・Pのスタイリッシュなイメージと合致し、宣伝美術としての完成度や効果は高いと感じました。素敵なチラシは観劇への期待度や楽しみを高めてくれるので、気分がアガります。

 また、開演前に読んだ人も読み損ねた人も、いずれにせよ多くの方が感じたのではないかと想像しますが、当日パンフレットの充実度と(本作の鑑賞体験における)重要度は、特筆に値するものだと思いました。フェスティバルなどでは、無料のパンフにも外部の方の寄稿があることは珍しくないですが、インディペンデントのカンパニーとして無料パンフでここまで手厚くカバーすることには、カンパニーの矜持を感じました。

ネタバレBOX

 開演直後、非常に暗い中で、蝶のように死者の手が舞うシーンはとてもワクワクしました。冒頭の10分間くらいは本当に密度が高い舞台空間が構築されていて、アーティストとしての美学が徹底されているサファリ・Pならではだと思いました。その密度が全編を通して維持されなかったように感じたことが、個人的には少し残念に思いましたが、それだけ難しいチャレンジをしていることも感じました。

 全体で60分少々の上演時間のうち、抽象的と思えるシーンが多かったですが、それらのシーンでしっかりと情報や情景を伝えてくるあたりに、演出家と出演者、そしてスタッフ陣が共通した世界観をイメージできているのだろうと感じました。東京芸術劇場 シアターイーストの空間に果敢に挑んだ演出と、そしてそれに十二分に応えたスタッフワークに、総合芸術としての舞台の魅力を改めて感じることができました。

 アルバニア北部に500年以上前からある独自の掟「カヌン」と、その中で定められた「ジャクマリャ(血の確執)」という、殺害者に復讐するという義務。それを下敷きに、掟に支配された百年単位の歳月が積み重なり、喪われた者たちの声が多層的に響く。

 その作品において、実際に発話された言葉は非常に限定的でした。なぜそれらの言葉が発せられ、そしてなぜそのように発せられたのだろうかと、今も思い出しては考えています。

河野桃子

満足度★★★

 観劇前の第一印象は「難しい企画だな」というものでした。アルバニアの実際にあった“復讐の掟”を題材にした小説『砕かれた四月』と、コソボ紛争経験者との対話と、作者の祖父という個人的な要素をひとつの作品で同時に登場させようというのですから。現実に存在する他者の痛みと作り手個人の痛みを作品において繋げれば、「相手の痛みを奪っていないか」「芸術のもとに搾取していないか」という問いかけがうまれます。この時に、いかに題材となる他者を尊重し誠実であるか、あるいは自分の物語として最後まで覚悟を持ち切って創作を走り切るか……。いずれにしろ素朴ではいられない、と私は思っています。

 というところで観始めた今作ですが……

ネタバレBOX

 せりふのほぼないフィジカルな表現のため、上演からはそれらがなんの要素から立ち上がったものかは明言されません。当日パンフレットの<場面構成>を読むと、基本的には『砕かれた四月』を踏襲しているよう。そうした表現と構成の選択は、上演にあたって非常に良かったと思います。観客の想像力によって、ある地域のある大きな流れのなかに存在する問いが、徐々に私たち多くの人間が抱えているはずの課題や、(おそらくはからずも)現代の社会情勢と重なっていく。後半、妻(佐々木ヤス子さん)が、ほかの人びとに飲み込まれるような動きの時は胸が苦しくなりました。せりふを極力廃したことも功を奏していました。

 冒頭、舞台上に敷かれた台の隙間から出てくる手が非常に美しかったです。一気に引き込まれました。その後の台の下での動きなど、シンプルながら分断と連なりを感じさせる空間の使い方も興味深かったです。ただ後半につれ、私の作品背景(アルバニア等)への無知さゆえかもしれませんが、なぜこの場面でその身体表現をもちいたのかわからなくなるシーンも、正直ありました。

 当日パンフレットが上演に深く触れ、あまりにも充実していたため(作成、本当にお疲れ様です…!!)、その存在に気づかず受け取りそびれた人が数名いたようなのはもったいないなと感じました。コロナ禍において、たとえば手渡しできないなど劇場のルールなどもあるのかなと思うのですが、もうすこし目に付く形で当日パンフレットをもらう/もらわないの選択ができるといいなと思います。

 20世紀初頭のアルバニア地域での価値観や文化背景について、私は深く知りません。そこに生きた登場人物たちにとって、慣習や起こる出来事はどういう意味を持っていたのか……。作品に入り込むほどに、その地で実際に命を奪われた/奪った人々・遺された人々の思いを想像しきれないということに直面します。最初に「痛み」について書きましたが、「痛み」「傷」「暴力」などは背景が変われば、当人にとって意味や正当性が変わる可能性があるものだということをあらためて忘れないようにしようと思いました。

鈴木理映子

満足度★★★

 アルバニアの作家、イスマイル・カダレの『砕かれた四月』を原作とする舞台。
現代に生き続ける「暴力」の源泉に迫る題材選び、取材も踏まえた台本づくり、さらに「舞台化」とはどういうことかを真摯に考え、形にした、非常に意欲的で洗練された公演でした。

 慣習によって運命づけられた「復讐の連鎖」が支配するアルバニアの高地。
都市部から新婚旅行にやってきた「妻」は、復讐を果たしたことで復讐される身となった「歩く人」に強く惹かれ、彼が運命から逃れ出られるよう奔走します。

 運命の守り人のような老人の住う荒屋、逃れてきた男たちが集う塔、そこに横たわる寝たきりの負傷者、都市に生きる知識人、死んでも蘇る兵士たち……生と死、暴力、因習をめぐる象徴的な要素が交錯する物語は、16個の小舞台とその間を走る隙き間、そこに生きる俳優/踊り手の身体に託されます。そこでは、隙き間から現れる死者の手をはじめ、山地を歩くこと、走ること、情を交わすこと……のどれもが、死に向かう身体でさえ、生々しい生の営みとして表現されていた、されようとしていたと思います。

 シンプルに刈り込まれ洗練された台詞や舞台装置に忠実に世界観を立ち上げることはもちろん、俳優の身体がそこからいかに逸脱し、より豊かなイメージを放つかも表現としては期待された舞台だったと思いますが、やや端正な組み立てにとどまった感もありました。(台本を読むと、その豊穣さ、色っぽさは十分残され、生かされているとも感じましたが)テキストと空間、身体の関係性について、あるいは抽象と具象、俯瞰と没入のバランスなど、いっそう探求可能な作品でもあったと思います。

 当日パンフレットの解説が丁寧、かつ深い思考を呼ぶものでした。
背景、文脈を踏まえていた方が、味わい深い作品だと思いますので、こうした事前情報は大事ですし、さらにプレトークなどがあってもよかったのかなと感じました。

關智子

満足度★★★★

 演劇という芸術を通じて、作者および観客が(物理的・心理的に)距離のあるテーマといかに関係性を結べるかという実験を行った意欲作である。

ネタバレBOX

 アルバニアのイスマイル・カダレ『砕かれた四月』を下敷きに、復讐が社会的制度として存在する世界をいかに理解し得るか(あるいはし得ないか)を、ダンスと演劇を混在させたスタイルで考察している。溝と高さを巧く利用した舞台は、ダンサーの身体を様々なものに見せており、また舞台奥に天井からぶら下がったオブジェも含め、個々の要素が観客の想像力を刺激していた。出演者たちのダンス、ムーブメントは、ドラマ的に(すなわち『砕かれた四月』のストーリーに沿って)解釈することも、あるいはそこからズラして読むことも可能なものとして展開されており、そのように行き来する観客の思考は、作者が『砕かれた四月』を読解する思考と恐らく重なっているのだろう。舞台芸術を通じて読解の作業を共有している感覚が楽しかった。

 しかし、応募書類に書かれていた作品創造の意図、目的がはっきりしていただけに、本作品が果たしてその目的に到達できていたかはやや疑問が残る。テクストと祖父の存在が有機的に結びついていたかも含め、自身と物理的、歴史的、心理的距離のある出来事を関連づける手つきとして、今回のやり方が有効であったとは必ずしも言えないのではないだろうか。巧く重なる瞬間もなく、かといって完全に客観視できるほど離れることもない、中途半端な位置付けになってしまっていたと言わざるを得なかった。

深沢祐一

満足度★★★★

強靭な身体が問う血讐の是非

ネタバレBOX

 透き間風が吹く北の山岳地帯で一組の夫婦が陰鬱な空気に満ちた高地をさまよっている。この地域は血族が殺害された場合その一族の男性が復讐をしなければならない血讐(古代国家の形成過程で出現した復讐制度)が生きている。かき分ける草木やすれ違う馬にはまるで生気がない。

 1980年に発表されたアルバニアの作家イスマエル・カルダの小説『砕かれた四月』をもとに、上演台本・演出の山口茜が自身の生い立ちを反映させて劇化、2021年のプロトタイプ公演を経たうえでの上演である。

 外からこの地域に入ってきた夫妻の考え方は対照的である。妻(佐々木ヤス子)は当初この土地に関心を抱いていなかったが、偶然見かけた歩く人(達矢)に強く惹かれる。歩く人は殺人を犯しており、今度は自分が狙われる番になってしまった。妻は高地の住人である老いた人(高杉征司)に歩く人を助けてほしいと懇願するが、血讐の伝統を盾に頑と拒絶されてしまう。復讐の連鎖をなんとかして止めたいと考えた妻は、歩く人を探して村の塔へと向かう。そこには血讐から身を隠す人々が集っているのだ。

 いっぽう夫(大柴拓磨)は作家であり、この地域の血讐に強い関心を抱いている。いなくなった妻を探そうとするが、血讐を止めることはできないという態度である。むしろ「止めようとすることで反動が起き、私の小説が面白くなる可能性はある」と観察者としての立場を貫き通している。やがて妻と夫は別々に、戦争で負傷した寝たきりの人(芦谷康介)と出会い、そこから大きく物語が動いていくーー部外者である夫婦と血讐にとらわれる高地の人々の交流から、復讐の連鎖がなにを引き起こすかが浮かび上がっていく。

 本作第一の魅力は山口の紡ぎ出した言葉と出演者の強靭な身体の調和である。上演台本はもともとかなりの長編だったそうだが、刈り込んで凝縮させたそうだ(3月11日夜公演後に実施されたアフタートークより)。結果台詞から状況説明が省かれ暗喩に満ち噛み砕くことはなかなか困難であったが、その分言葉の密度が詰まっており味読する愉しみがあった。出演者たちは先に記した本役以外にも馬や草木、高地の人間などを複数役兼ね、マイムや激しいダンスシーンをこなすなど、さまざまな役割を演じ分けていかなければならない。ときには客席の前から姿を消して台詞を音読したり、ギリシャ悲劇のコロスのようにして群読するような場面もある。しかし発話しているときと動いているときのつなぎ方や切り替え方に違和感がなく、すっと物語の世界へいざなう手腕は大したものだと感心した。難解な台詞を演じ手たちが肚に落とし込んだうえで発していたのがよく分かった。

 演技スペースは東京芸術劇場シアターイーストの本舞台を取り払い、正方形の小舞台を16個ほぼ等間隔に配置したもので、高地の高低差を表したものと見受けた(舞台美術:夏目雅也)。出演者たちは床を四方八方歩き回り小舞台に上って演じるだけでなく、床を這った状態で客席から見える位置にまで脚や手を挙げたりして、草木や動物、死体(のように見える物体)を表現していて目まぐるしい。民間伝承や地縁といった土俗的な内容を、多彩な音楽やソリッドな照明で造形する、この対照的なアプローチの調和が耽美的と感じた。この感覚は小説『砕かれた四月』にはない視点だと私は思う。

 印象に残る場面は多いが、中盤で舞台上手から下手まで一列に並んで髪の毛をかきむしりながら怒号を上げ死者を嘆く人々の列や、冒頭と終盤で「人を殺した男に会いました」と告げる人と対峙する異形の怪物を4人の演者が重なり合いながら表現した場面が特に忘れがたい。

 いっぽうでこれだけ多彩な内容を1時間に凝縮させるにはあまりに惜しいと感じたことも事実である。観賞に際し極度の集中を要したことに加え、馴染み深いとは言い難い題材に作者個人の体験が反映されたという作品の成立ちに対し、敷居の高さや距離感を抱く観客もいたであろうことは想像できる。『砕かれた四月』の映画化である『ビハインド・ザ・サン』のような翻案をしてほしいとまでは言わないが、状況設定や台詞をもう少し具体的にしたほうがより作品に奥行きが出るのではと感じた。

 そして私が最後までわからなかったことは、血讐を止めたいと奔走する妻の行動である。彼女の選択が歩く人に救いをもたらしたのかは明示されず、彼女自身も血讐の連鎖のなかに飲み込まれてしまったような印象を受けた。ややもすれば近代主義者のエゴのようにも取れる彼女の行動について賛否は分かれることだろう。そして本編の終幕が何を意図しているのか私はまだ考えあぐねている。

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