実演鑑賞
満足度★★★★★
ハートフル「昼メロ的ネオ愛憎劇」の先にある寄り添いの形
ネタバレBOX
誰の子かわからない1人の赤ん坊をめぐる、3人の母親と2人の父親の物語。赤ん坊を模したスピーカーは、その物体感と無機物な重量をもって、物語の重心を揺さぶっていく。ミステリーあり、コメディあり、家族愛あり、スリラーもあり、ホラーありの自由自在な脚本構成は圧巻。ノンジャンルを漂うこの質感はウンゲツィーファならではの持ち味。
最初は「赤ん坊は誰の子か」に焦点が当たっていたはずが、過保護な親に苦悩する男と、次男としての生き方を迫られる男の、実存の辛さ・耐えがたさの問題へと霧散するようにシフト。台詞を多重に解釈できるよう丁寧に手渡す俳優らの演技により、彼らの過去の物語が急に鮮やかに立ち上がってくる。どこまでも家族の話であるので、自分の親との関係に思いを馳せたり、友人に聞いた話を思い出したりと、観客ひとりひとりに立ち現れる情景があっただろう。それを客席に座り左右に感じながら共有できるという、孤独を慰めてくれる演劇特有の一体感が確かにあった。
演劇の見立てが多用され、ときにそれを逆手に取ってメタ演劇的に笑いを取りに行くシーンがあり(「あれは破天荒な夢だった」と振り返るところなど)、ふふふとこっそり笑えるラインに確実に乗せてくる脚本の巧みさが際立つ。これを成立させる俳優の演技の抜け感、場に揺蕩い続ける胆力がすごい。
舞台美術ならびに照明音響のスタッフワークも素晴らしかった。劇場に入る前のアプローチ部分から世界観を作り込み、空間を大きく使うと同時に細部にはこの後の展開に温かく違和を残す美術、子守歌の場面で浮かぶ星やハートのモチーフ、ここぞで一回だけ使う完全暗転、スピーカーの細やかな音量調整の妙など、各所スタッフワークの連携の光る公演であった。
(以下、ゆるいつぶやき)
「昼メロ的ネオ愛憎劇」とフライヤーにありドキドキしていたのですが、私の知っている昼ドラより、ちゃんとみんな誠実に相手に向き合って生きていて、いい人が多く、愛があってよかったと思いました。中学生当時、ちょうど大流行していた『牡丹と薔薇』(東海テレビ制作)を学校が休みの日に観て「みんな欲望に正直で怖すぎ!!」となり両親を信用できなくなったことがあります(多感な頃って何でも自分の家族に結び付けて疑心暗鬼になるってことありますよね)。そんな思い出もふいに過りました。観劇体験として興味深かったです。
実演鑑賞
満足度★★★★
近戦争状態の現代を緊密に繋ぐ、虚実入り混じる戦争劇
ネタバレBOX
アトリエhacoのこけら落とし公演として行われた本作は、虚実入り混じる戦争劇。戦後、敗戦を認められない陸軍将校たちが国体護持を全国に伝えるため、反乱軍となって通信施設に押し入る。通信施設で交換手、通信技師として働いていた彼女たちは反乱に巻き込まれていく。という大筋の中に、本作を戸惑いながら稽古を重ね作っていく劇団員の悲喜交々のエピソードが劇中劇として挿入される。
このような虚実の混ぜ方は作劇法として確立しているが、劇団内の内輪ノリに終始してしまい見づらいことも多い。劇団UZも現実部分のテンポ感にもう少し緩急があるといいと思ったが、虚実の混ぜ方が多様かつ滑らかで、第二次世界大戦、現代に今まさに起きている戦争、また仮想空間内での近戦争状態(SNS内でのレイシズム、ナチュラルに日常に入り込んでくる優生思想、過激で過剰なインフルエンサー)の往還がとても緊密に描かれていた。愛媛の丘の上での上演を鑑賞するという私にとっての非日常相まって、終演後に眩しい日が差し込む様子に「みな、今を選んで生きていくのだ」とはっとさせられた。
正確に思い出せず恐縮なのだが、「自分がどうでもいいと思ってる時間の使い方が、まさに今の自分を形作っていく」という趣旨の台詞が印象的だった。忙しなく生活していると、ちょっとした休みについだらだらと動画やSNSを見てしまうことがあるが、そうした時間が知らぬ間に戦争の片棒を担ぐことがある。劇場はそんな自分を離れて、どうでもよくない時間を意識的に過ごす場であり、それを改めて思い直す鑑賞後感だった。
劇場前の(野外)ロビーにコーヒーやカレーを提供するキッチンカーが招かれ、開演前・開園後にのんびり過ごす来場者の姿を見て、こんなふうに身体を他者に開いて時間を共有するのが劇場の役割だったのだ、と改めて思い、にんまり嬉しい気持ちになった。
(以下、ゆるいつぶやき)
東京の小劇場だと、劇団主宰がプロデューサー(助成金獲得とキャスティング)と演出(だけではなく作劇責任)のすべてを兼ねている場合が多く、力が一点集中しやすいために、人間関係が難しかったり主宰を長期に渡り続けていくのに疲弊したりするのだが、『牧神の星』では主宰を思い切りなじる俳優の描写がクリアに描かれており、地方で活動する劇団はその意味では力の分散が上手く、いい意味で持ちつ持たれつなのだと、虚構入り混じる演目を見ながら思いました。その張り巡らされた個々の人間関係への眼差しが今回の演目を下支えをしているように感じました。責任がうまく分散していて、体力のある劇団っていいなあ。
実演鑑賞
満足度★★★★
「個性を味わい尽くす」という体験
ネタバレBOX
稽古は1日、当日集まったメンバーで即興演劇を行う企画。台詞は概ね入っているが、ときどきプロンプターとなった主宰が登場し進行をサポート。会場全体でトラブルを楽しむという構造が斬新で、演劇の可笑しみが存分に引き出された上演だった。戯曲はオムニバス形式でモノローグを中心に組み立てられており、なし崩し的にぐだぐだにならないように工夫されている。その分、俳優の責任は重く、声の響きやミザンスはある程度指定があるとはいえ、その場の応用力で組み立てていかねばならない集中力の必要な過酷な上演である。
トラブル発生時、また上記のような緊張感と極度の集中の中では、役というよりは、俳優個人の個性や特性が前に出やすい。声のよさや所作の個性が端々に瑞々しく感じられ、まさに俳優を見る上演として合目的的に構成されていた点、とても興味深かった。無論、俳優だけでなく、スタッフワークの個性も滲む。俳優より目立っていた灯りを操るダンサーのような動きの照明担当や、劇中音楽の選定、主宰の前説と全て資源が限られた中でDIYでやっているからこその味わい深さがあり終始チャーミングであった。
(以下、ゆるいつぶやき)
全編、動画写真撮影OKなのには驚いた。1回きりの上演だからこそ、ネタバレも何もないのである。コロナ過以後、演劇のアーカイブ化がぐっと進んだが、今回のような会場全体の空気感やカメラに映りにくい微細な面白さをアーカイブしづらい演劇もある。隣席の方々がみんなお気に入りのシーンをアップで撮影しているのを見て、各々のスマートフォンで記録を撮り、各々で保存しているというのは演劇のライブ性の新しい保存・共有方法であるように思えた。監督気分で主体的に作品を楽しもうとする姿勢を促せるのもいいですね。
実演鑑賞
満足度★★★
罪の意識から「潔癖」を問い直す
ネタバレBOX
外科医の青髭、GHQの影、九州大学生体解剖事件。それぞれのテーマがとぐろを巻いて舞台上で蠢くような臨場感あふれる作劇であった。白い砂を降らせ、舞台面を水浸しにし、客電が意味ありげに明滅する中で、音圧の強い音楽とリフレインを多用する戯曲の言葉が客席の身体的な緊張を高めていた。戦時下で「死んでいいとされる命はあるのか」と激しく問い続ける3人の俳優の説得力のある身体は、挑戦的な本テーマを扱う表現の骨子となっていた。
強い身体の説得力を持つ一方で、モノローグを多用し客席とのインタラクションが少ない構成上、作劇としては第四の壁を強く意識させられる劇構造ではあった。場面転換に差し挟まれる3人の老婆のシーンは、舞台を客観視して離れようとする観客を繋ぎとめる手として有効に作用していたものの、抽象的な台詞で綴られるシーンが続くがゆえの浮遊感がうまく客席側の姿勢と接続している個所とそうでない個所があったように思う。いっそ完全に台詞を排して、ダンス作品として上演できるのではないかと夢想した。
(以下、ゆるいつぶやき)
「戦時下のような特殊環境で命の処遇を決めるとき、そこには白黒つけられないダイナミズムが働いている。しかし、人としての正義を失ってはいけない」というメッセ―ジは圧倒的に正しい。ただ、個人的に、演劇は正しさを描くのがあまり得意でないメディウムなのではないかと思っている。それは、正しさを描くにはあまりに演劇が遠回りをしたがる性格ゆえなのだが、今回の演目に関してもその難しさを感じた。青髭に名前があり、背景が描かれ、娘との結婚に際した葛藤が描かれていれば正義が色付いてみえたのかもしれない。登場人物の個別具体性を極力排したのは台詞を減らしたいという演出目的上あえてであったと思うが、演劇という媒体で正しさを語るバランス感覚について考える上演だった。
実演鑑賞
満足度★★★★
ひとつの家族をめぐる結婚譚
ネタバレBOX
4人の俳優の間に揺蕩う台詞の隙間を縫って、濃密に展開される家族会話劇。実は本当の親子なのに互いに知ってか知らずか、という設定自体は王道ではあるのだが、大阪弁の薫と璃の少しだけ踏み込みすぎる親切心とのバランスで、シリアスになりすぎず、最後まで落ち着いて物語の行方を追うことができた。戯曲展開、情報量のコントロールが巧みであり、観客を最後まで惹きこみ引っ張る骨太な上演であった。
親子の間のわかりあえなさが切ない。「せめてここまでは分かり合えると思っていたのに」と期待したラインを超えて、相手のことが理解できなくなるときにどうしようもない寂しさを感じるのだと思った。どこまでも嫌知らずする父親にとうとう拒否する力もなくなって途方に暮れ、諦めるシーンの切なさは、誰もが似たシーンをかつて経験したことがあるからこそ、客席に深いため息が漏れていた。「相手の嫌がることを強行するな」は当たり前に思えるけれど、大抵の場合、それらは「自分がやらないでいることがストレスフルで落ち着かない」という事象の裏返しであり、父親はいつも最後は自分自身の方が大事であり、父親の気持ちが優先されるべきだというメッセージを発し続けている。このどうしようもない袋小路に、ギターは無力なのだ。
観劇中、取り留めなく過去の家族の思い出が想起される(観客として、一見本編とは全く関係のないシーンが脳裏に浮かぶのはいい上演だと思っている)。集中しているが、意識はどこかに彷徨うような緊張感の上演であった。完全暗転にせず、青光だけを残して逆光の中でゆるやかにシーン展開する照明演出は見事で、家族は嫌でも続き、縁は簡単に切れず、時空も歪まない、すべてが地続きでありそこで生き続けていくのだというしんどさを、身体感覚として舞台と客席一同に共有できていたように思う。登場人物が少なく、集中しやすい会話劇なので、小劇場演劇をあまり観たことない知人・友人も誘いやすい演目だと思った。
(以下、ゆるいつぶやき)
家族を扱う作品の難しさに、多様化しすぎた家族像を背景に共感ポイントを作りにくい点があげられ、作家自身が書きあぐねているのではと、現代作品を観ていると特に感じることがある。『なんかの味』では『秋刀魚の味』を下敷きにしたという公演前情報もあり、関係性が事前にある程度予測できた点がよかったように思う。離婚、離別、死別、虐待、介護など少なからず辛い記憶と結び付きがちな家族の課題について、過度に一般化せず、「それはさすがにないやろ」と突っ込んでしまいそうなくらい離れたところから徐々にフィクションの力を借りて深部に潜っていく作り方が、観客として見ている一個人として心理的に楽であった。
実演鑑賞
満足度★★★
疾走感と混乱の中でかぐや姫の罪を問う
ネタバレBOX
冒頭シーンから一貫して、膨大なセリフ量とハイスピードな展開に圧倒される。独自の美学で演出された、自分たちをかぐや姫の血族であると信じて疑わない片田舎の家族の物語である。洗脳される息子と死んだと見せかけて洗脳を解こうとする母。主人公を父と呼ぶ得体のしれない女。錯綜する家族模様の中、「かぐや姫の原罪とはなにか、地球で罰を受けていたのはなぜか」を課題設定し直す後半から物語はさらにスピード感を増す。権力、富、愛情の権化となり主人公ノゾムを追い詰める母親、社会的な孤立、そこから流れるようにつながる首相暗殺事件のイメージにも結着するように見えたラストシーンの戸惑いの感情の共有は、物語全体の疾走感との落差によって効果を増しており、他に類を見ない鑑賞後感であった。
イマジナリーフレンドとして舞台に散りばめられた人形や、ミニキッチンの演出など舞台美術と俳優との間の強固な信頼関係が見て取れた。膨大なきっかけがある作品の中でスタッフワークが光る。
原作となる竹取物語のイメージ上でのコラージュ(宇宙、竹、道化など)と、物語の骨子(夫選び、月への帰還、原罪など)の借用が明確に言及されずに混在しているので、見ている側としては今描かれているのがどちらのレイヤーにある表象かの判別がつかず混乱しやすい。その混乱をも逆手にとってラストシーンに繋げてほしいという期待があった。またジムノペディなどの有名曲を使う場合、観客側に想像力の引き攣れが起きる。音楽、効果音の使い方に既視感がある点を演出時にどのように考えたかは気になった。
(以下、ゆるいつぶやき)
竹取物語での最も大きな謎である、「かぐや姫の犯した罪とは何なのか」について、「血族の原罪」として作中で扱おうとしていた点、意欲作であったと思う。改めて竹取物語を見返してみると、貴族男性どころか帝でさえ寄せ付けない常識破りの自由さを持ち、気が強く頭の回転が速く、他者の思いのままにならない「おもしれー女」であることがわかる。ノゾムの祖母はそんな自由な女性で、それを孫であり、部屋に引きこもって人形と遊ぶのが好きな内向的なノゾムがある種の憧れを持って追いかけるという構図なのが、物語で描かれない時間の奥行を感じさせた。
実演鑑賞
満足度★★★★
メタフィクションを上演する俳優と戯曲の信頼関係とは
ネタバレBOX
演劇のメタフィクション性を扱った本作。軽妙な台詞回しと程よく力の抜けたギャグ、俳優の必死さと対をなすどこか手作り感ある美術が「これは難しいことをやろうとしているぞ」と観客が入れ子構造とその反転に気付く中盤からさらに効いてくる。決してチープではないのに、手の届くところにいてくれる頼りがいに寄せて、すっと劇世界に誘い込む手腕が見事。初めて演劇を観る人をも取り残さないだろう。ポジションが発表される登板シーンから、余力を一切残さない「全員演劇」の疾走感は清々しい。客席から笑い声が飛ぶ。それを追い風に一気に共犯関係に持ち込むだけの劇団の強い引力が感じられた。
こんにち博士の浮遊感のある演技が気になる。最初からひとりだけ劇世界の外側にいるような存在感を放っており、今回のテーマであるメタフィクションの演出に大いに貢献していたように感じた。美術のセンスがとてもいい。ブラウン管の無機質さ、ふわふわのマストドン達、食事の匂い、プールやお湯の湿度、それらの質感の多様さが複雑に絡み合って情景を作り出しており「観客も呑気に客席には座らせない、あなたの想像力にもフルで働いてもらう」という気概を感じた。
若く体力のある劇団ながら、勢いだけで押さず、きちんと丁寧に稽古を重ねて作られたことが客席にも伝わり好感が高い。一方、虚実が入り混じるというメタフィクションを扱うときに、演出脚本俳優が諸共「役に入れ込みすぎた」という理由で冷静さを欠くという筋書きなのが、エモーショナルさが過剰な気がして、形式と内容がちぐはぐな印象を拭い切れなかった。例えばもっと物理的に睡眠不足である、上演への不安が高じて、あるいは役の整合性が取れないなどのサブの動機があればすんなり納得できたのかもしれない。『マッチ売りの少女』が虚構の世界に行く際に、夢見るだけでは足りず極限まで空腹であることが必要なように、身体感覚に訴える何かしらの説得力がもう少しあれば観てみたかった。
(以下、ゆるいつぶやき)
上演における俳優の権力は客席が想定するより実は強大です。演出家はみな、俳優が上演中に突然「はい!これは全部嘘です!おもしろくないです!ここで演劇やめます!」と言い出す悪夢を見たことがあると思います。俳優にはその力があり、舞台上で台詞を喋ってくれているのは単に今時点での信頼関係と口約束の話であり、次の瞬間には霧散してしまう儚さと隣り合わせ。波のある人間が集って芸術をやる以上、毎日上演が想定通りに行われること自体が、ほんとうに綱渡りの軌跡です。ですから、今回のワオのように倒れて上演中止になり、虚実が入り混じり、表裏が曖昧になった世界に漂うような感覚は、演劇に携わる人がみな感じたことがあるのではないでしょうか。現実世界の中なのに「なにいまの発言、台詞っぽくて気持ち悪い」と咄嗟に思って口を噤むような、その覚束ない奇妙さと真実味に迫ろうとした今回の挑戦はとても眩しかったです。そんな今日、OpenAI「GPT-4.5」がチューリングテストに合格したというニュース。すぐ隣に「本物っぽい」と「嘘っぽい」が並ぶ今を我々はどう泳ぎ切るのかに思いを馳せました。
実演鑑賞
満足度★★★★
悲しき日本円への投資の先に労働者の未来はあるのか
ネタバレBOX
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を下敷きに、現代日本の投資の在り方に疑義を唱える本作。ギャラリー南製作所の無機質なコンクリートの床と、地方にある保管倉庫内の情景が重なる。生演奏の音響が空間に響く中、奇妙でありふれた家族の視線が交差していく。開演の前には詩の朗読があり、観客は会場に足を踏み入れた瞬間から劇世界との関係性を主体的に作っていくことを求められる。ガレージを開けて車に乗り込み走り去る演出やユニゾンのダンス、劇中の異化など、演出面での山場の作り方も巧妙であった。
岸本昌也さん演じる良夫ちゃんの過剰に力んだ背中に、チェーホフ作品のコミカルさが宿っていて印象的。対象の定まらない、独り言ともつかない台詞が中空に次々と舞う。それを一向に拾わずに漂わせたまま演技を続ける様子には、独特な様式美があった。台詞の行先から半端なタイミングで目を離す演技は、俳優にかかる負荷も高いように思うが集中切らさず一貫していた点は特筆に値する。
日経平均価格に連動するチケット価格の設定を含む鑑賞デザイン、おすそわけチケット、事前のSNS広報にも力をいれており、制作面が盤石かつ革新的な点は評価されるべきである。戯曲・演出面では、テーマの着眼点は秀逸ながら、今一歩作品として踏み込めていない未消化の感覚が拭えなかった。終始、優等生的なひとつの正解としての現代版チェーホフを見せている。例えば『ワーニャ伯父さん』ではワーニャは死ねずに生を耐え続ける絶望を抱えるわけだが、それはアーストロフの存在が彼の実存に大きく影を落とすからである。本作の良夫ちゃんに対してそこまでの絶望を抱かせる必然性を描けているだろうか。地方の葡萄農家とはいえ外部との接触はあり、それによる人間関係の密度の薄まりを放置してはいないだろうか。投資をめぐる問題を多角的に取材した上で取捨選択の上、もう一度この家族に戻ってきてほしい。体制批判をするなら躊躇せずにやり抜いてほしい。チェーホフと完全に相似で捉えられないからこそ、もう一歩踏み込んだドラマトゥルギーに期待したい。
(以下、ゆるいつぶやき)
「投資をするにはまずは種金を集めましょう」と専業投資家は簡単に言いますけど、私だって増やせる理屈はわかってるんだ、まずは口座に100万円振り込んでくださいよという気持ちになりますよね。新NISAが始まって「投資の機会はみな平等」と論点ずらされてますが、当たり前ながら投資はスタート地点で資本を多く持っている資本家の一人勝ちです。労働者のための投資なんてない。そこにきて貿易摩擦不安からの米国株大暴落。手放そうとすれば「握力が足りない」と揶揄される。「一体どうしろと?」と心で叫ぶ多くの市民を代弁してくれたような気がします。そして現実はもっと邪悪で、悪い投資家は情報弱者(高齢者など)から容赦なくお金をむしり取ります。怖いです。
実演鑑賞
満足度★★★★
人類は種の弱さと個体の弱さの両方を背負えるか
ネタバレBOX
繰り返し強調される「メモリー」、親には徹底して敬語を使う子どもたち、歪な感情が見え隠れする兄妹、なぜかいつも店主のいない空っぽの喫茶店。言いようのない不気味さがたちこめる。客席から見えている上演と聞こえている台詞の意味内容の乖離の演出がコトリ会議の利き手であるが、本作は劇中劇のツバメのパペットがそれらの乖離を有機的に繋ぎ、一層多面的かつ力強く鑑賞者の想像力を組み換えていたのではないだろうか。隣の人は笑っているのに、私は笑えない(その逆も然り)状況が生み出されている客席には鑑賞の緊張感があった。
「山生水」を演じる花屋敷鴨さんの、狂気を目にたたえた母親の演技が印象に残った。台詞を発する少し前に感情が少しだけ先走り、かつそれを飲み込んで揺らぐあの表情は、表出する感情は穏やかだが振る舞いに違和を生じさせる母親である山生水の人格を的確に捉えた演技だったように感じた。
戦禍を生き延びる強い身体を手に入れたたヒューマンツバメが、命を賭して集めるのがポイントカードなのが皮肉。不死の身体の快楽は生殖にも自己実現にもない。「寂しい」「置いて行かれたくない」という人間の根源的な個体としての弱さに対して、ヒューマンツバメは記憶を消すことで抗い続ける。空を飛ぶツバメにとって最も遠い存在が、死んだ母が跡形なく消えていった地面なのだとしたら、既に戦闘機を手に入れた人間にとって最も遠い存在はどこにあるのだろうか。とりとめなく去来する家族という他者の記憶が、最も触れられず遠い存在なのだと感じた。
客席の高さと客席数、客電照明の暗さ、舞台面との近さの問題だと思うのだが、第四の壁が強く意識されてしまった点は少し残念に感じた。戦禍の日常に触れているからこそ、SFとはいえ、身体感覚として客席と滑らかに地続きであってほしかったと思う。
(以下、ゆるいつぶやき)
コトリ会議の上演には、ヨルゴス・ランティモス監督の作品を想起させる喜劇性を感じます。作画や画作りがどうなったっておかしいのに、そのおかしさが明確に言語化できないまま、揺蕩うままに時間が過ぎてしまう。気付いた時には引き返せない。没入と突き放しのバランス感覚が見事だなと思います。
実演鑑賞
満足度★★★★
「不在=そこにないもの」への眼差しは外から見えるのか
ネタバレBOX
本作を観て、当事者演劇はやはり鑑賞者に安定したポジションを渡してはくれないのだと思い知った。本作には、それぞれに「ちぃちゃん」と異なる関係性を結び、それぞれ独自の当事者性を持つ登場人物が描かれているが、そのどの役柄も自分と同じ立場から「ちぃちゃん」の死を眺めてはくれない。観客は不在の「ちぃちゃん」を想像し、そこに自身の当事者性を投影する。それは中学校時代に途中で突然学校に来なくなったあの子かもしれないし、学校帰りに声をかけてくれたあの子かもしれない。それは決して誰にも見えない架空の関係性であり、本作はそういった記憶への意図しない漂流を押し進めてくる上演のパワーがあった。
「ちぃちゃん」を演じる結城真央さんの演技が印象的。所作や発言が唐突だったり、人との身体距離が妙に近かったり、プリーツを気にせず座ったり、その振る舞いが虐待サバイバーだからという説得力を持ってしても意識化されていないと演じられない小さな動作のひとつひとつが、たしかに記憶に「ちぃちゃん」がいたという実体を描き出している。不在への眼差しを観客と同一にするために、キーとなる演技を冗長な部分なくクリアに表現されており好感を持った。
全編通して小気味のいいギャグや歌のシーンが、本作の緩急をつけ、群像劇の終局に向けて集中線を引いている。それゆえに、俳優の演技の中での発話の滑舌と集中の持続力が気になった。この人数が出てくる劇構造上仕方ない部分ではあるが力みすぎた説明台詞が多い点と合わせて、今後の作品創作に期待したい。
(以下、ゆるいつぶやき)
ちょうど同時期に藤野知明監督のドキュンメンター長編『どうすればよかったか?』を鑑賞し、当事者が記憶を記述し表出することの圧倒的な力強さと、例えばこれをもって「やはり当事者に勝る表現はないのだ」と主張する根拠に使われてしまうと嫌だなという気持ちが交錯しました。当事者にしかできないことがあるのと同様、当事者以外だからこそできることもあるからです。本作の乙倉は映画監督を目指していますが、まさに当事者とは遠いところから「ちぃちゃん」を追いかけようとしており、劇中では何度も拒否されます。もし私が乙倉の友人だったら「そのへんで一旦やめといたら。それはあなたもつらいでしょ」と声を掛けるかもしれない。乙倉の理解されなさに気付いてケアしてくれる人が登場人物にいてくれたらな、とぼんやり考えたりしました。