kikiの観てきた!クチコミ一覧

261-280件 / 426件中
penalty killing

penalty killing

風琴工房

シアタートラム(東京都)

2017/07/14 (金) ~ 2017/07/23 (日)公演終了

満足度★★★★

2015年2月に上演された『PENALTY KILLING』の再演……というより、文字通りリミックス版といった方がいいだろう。

初演のザ・スズナリからシアタートラムに場所を移し、キャストも何人か入れ替えた……だけでなく、構成や台詞などもあちこち変わっていた。

舞台は、北関東の山中にある屋内アイスホッケー場。シアタートラムがアイスホッケーのリンクになる。ザ・スズナリのときの驚きと凝縮された空間も印象的だったが、今回は周囲の雰囲気も含めいっそうリアルなリンクが劇場中央に立ち現れていた。

そのステージの上で、実在する日本唯一のプロアイスホッケーチーム「日光アイスバックス」をモデルに、経営難による廃部の危機や地元のファンとの交流を交えつつ、プレーヤー一人ひとりの抱える想いを描き出していく。

スター選手の引退試合と、そこへ至るまでの日々を描きながら、試合の場面で一人ひとりにスポットライトをあて、その日、氷上立つまでの彼らの人生をモノローグを中心に見せる構成がまず面白い。

熱い舞台と書いたが、熱いのは勝ち敗けを競う熱狂だけじゃない。

その一瞬、その一打に込められた彼らの人生が、静かに熱い。

客席にもリピーターが多く、スポーツ観戦のように応援するチームのカラーを身につけたり、試合前の選手入場では拍手や鳴り物が観客席から響きわたったりもする。

構成の巧みさと敵チームも含めた多彩なキャストの持ち味が生きた魅力的な舞台だった。

一人ひとりの人生だけでなく、チームメイトに向けるライバル心も信頼も、もどかしさや照れ臭さも繊細に描かれて物語に深みを与える。

他の舞台で何度も拝見している役者さんたちが、いつもとは違うアスリートの顔で、ステージ……いや氷上に立つ。

その姿がいっそうスポーツ観戦に似た熱狂をもたらしていた。

スロウハイツの神様

スロウハイツの神様

演劇集団キャラメルボックス

サンシャイン劇場(東京都)

2017/07/05 (水) ~ 2017/07/16 (日)公演終了

満足度★★★★

人気作家に突然襲いかかったある出来事が、彼の人生に重くのしかかる。彼の愛読者が殺人ゲームを実行し多くの人を死なせてしまったという事件と、それに対しての彼のコメントが非難を呼んでしまったこと。

そんな彼が再びペンを手にすることができたのは、ある少女のおかげだった……。

10年後、物語の舞台はスロウハイツと名付けられたアパートに移る。

脚本家 赤羽環が所有することとなった建物をアパートに改築して、アーティストの卵たちに破格の条件で部屋を提供しているのだ。

スロウハイツで暮らす個性的な人々の少し不器用な優しさと、人と人との温かい繋がり。そして彼らの表現への情熱とこだわり。

ここに住む若いアーティストたちがそれぞれ魅力的だが、上下二巻の小説を約2時間の舞台にしたため、小説家 チヨダ・コーキと脚本家 赤羽環の関係を中心に描かれている。

環の人生も平穏なものではなかった。生きていくことは苦労も多いけれど、でも、素敵なことだってたくさんある。

たとえば、神様のように崇拝しているあの人が、人知れず彼女のことを見守っていてくれた。あの人にとっても、彼女は大切な人だった。

長年秘めてきた互いへの思い。

環の妹が語った姉妹のかつての出来事を、コーキの側から繰り返す場面が好きだ。さっき見えていたいくつもの景色が鮮やかに色を変えていく。

新たに塗り重ねられるのは、愛情という名の色合いだ。自分の作品を信じることで、自分を支えてくれた少女への。

互いに相手を幸せにしたいと、ただ純粋に思う。そういう関係が丁寧に描かれていて胸がキュンとなる。

ここで描かれる細やかな優しさはとてもこの劇団らしいという気がした。

スロウハイツの個性的な住人たちが織り成すじんわりと温かい物語。

プールサイドの砂とうた

プールサイドの砂とうた

くちびるの会

調布市せんがわ劇場(東京都)

2017/07/16 (日) ~ 2017/07/16 (日)公演終了

満足度★★★★

ある夏の日の出来事が少年の心に残した影。

男子高校生2人の会話から始まった物語は、過去の事件を巡って記憶と会話を重ね、時間を遡りつつ進んでいく。

小学校のプールで起きた事故。欺瞞。そして小さな真実。

家族、教師、友人、それぞれの立場や想いをかいくぐり、あの日何があったか思い出すことで少女のことを自分の中にとどめようとする。

少女の歌声が鮮やかによみがえる。

繊細に積み上げられた場面を彩る郷愁。夏の匂いの記憶が、この物語を自分にとってもどこか懐かしいものに感じさせた。

そでふりあうも

そでふりあうも

ブラシュカ

シアターブラッツ(東京都)

2017/07/12 (水) ~ 2017/07/17 (月)公演終了

満足度★★★★

舞台上には、白一色の美術や小物たち。

東京に憧れつつ、家族や恋人との制約の中、地元で働き事故で亡くなった姉と、東京で姉の夢だったパティシエの修業をする妹。

繊細な会話と緻密な構成による短い場面の積み重ねが時間の経過と人の想いを浮き上がらせる。

姉の同級生だった青年はシェフとしての腕を上げ、ミュージシャンを目指す若者は着実にヒットを生み出していき、映像作家のタマゴは作品が賞を取ったりもする。若者たちが夢に向かってもがく様子もやや甘やかに描かれていく。

それぞれの暮らしの中で繰り返される出逢いと別れ。

取り戻せない想いを割り切れないまま抱えていく人々の姿が胸にしみた。

家族百景

家族百景

七味の一味

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2017/07/14 (金) ~ 2017/07/17 (月)公演終了

満足度★★★★

『かかづらふ』
最初は、母の介護をする娘として七味さんが登場する。どうやら痴呆症であるらしい母親を施設に送り出すまでの朝の風景だ。母を起こし、着替えさせ、食事をさせ……。

気がつくとまた同じこと光景が繰り広げられる。繰り返される会話と行動。しかしそれが少しずつ歪んでいく。困窮していく暮らし。母の病状。追い詰められていく彼女。

そして……。

悲劇的な結末のあと時間が巻き戻され、しかし今度は母親の側から同じ場面が綴られていく。もう一方のパートが描かれることで、娘が追い詰められていった訳も理解できてくる。

ときに自分自身を失い、ときに取り戻し、痴呆の進行とともに母親の苦しみが深まっていく。

身につまされる重い題材、印象的な構成、そしてそれを体当たりで演じる七味さんの気迫。

観終わってすぐには言葉も出ない、しばしただ余韻を噛みしめるような、そういう作品だった。

『家族百景』
こちらは打って変わって大人数の舞台だ。

家族の思い出が詰まった家が、明日取り壊される。すでに独立して別々に暮らしている子どもたち孫たちも、今夜はこの家に集まって名残を惜しんでいる。

そんな中、古い写真が出てきたのをきっかけに、思い出話が始まって……。

祖母と祖父の出会いから語られる家族の歴史は、破天荒なエピソードも挟みつつ、それぞれの想いを丁寧に綴っていく。場面によって演じる人変わりつつ、その役柄以外の時も皆が舞台を見守っている。

誇張された破天荒なエピソードもあれば、じんわりと優しい思い出もある。

現在の家族の形も絡めつつ、家族のそれぞれのお互いへの想いが細やかに描かれていた。

期待を裏切らないクォリティの2本立て。身につまされる重い題材を印象的な構成で描く『かかづらふ』と家族の歴史を破天荒な笑いと細やかな愛情で綴った『家族百景』。

どちらも家族の物語であったが、2本の印象がこんなに違うなんて予想外だった。どちらを先に観るかで印象も変わってくるだろう。

何より一方を演じ、もう一方を演出する七味さんのエネルギーに驚かされた。

子午線の祀り

子午線の祀り

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2017/07/01 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

開演時間。半円形のステージを取り囲む客席の間を通って、黒衣の人々がゆっくりと舞台に向かっていく。舞台に灯る小さな火を目指すように。

プロローグで語られる星の運行。『平家物語』に題材をとり、天の視点で観る叙事詩劇と言われる作品である。

一の谷の合戦で義経におわれた知盛は民部の船に助けられる。

船まで知盛を乗せてきた愛馬が、陸へ向かって泳いで行く。敵軍に渡すよりいっそ射殺してしまおうとする民部を知盛が止める。以前の自分なら、止めるどころか自ら弓を手にしていたはず、なのになぜ、と自問する知盛の胸の内。

源平合戦のダイナミックな展開は『平家物語』から引いた語りによるけれど、それについての心理描写はきわめて現代的だ。

登場人物の大半は『平家物語』に登場する人物だが、影身という舞姫はそうではない。主人公である知盛に従い、生と死を超えて彼を見守る。また、知盛以上に敵方である源義経についての場面も多く、それぞれの側からこの戦いの攻防が描かれていく。

この舞台の特徴としてよく言われるとおり、『平家物語』を下敷きにした「語り」や「群読」による日本語の響きの美しさを堪能する。同時に、語られる言葉には意味だけでなく身体性が加わっていくのも興味深い。

そうやって語る人びとの中には伝統芸能の担い手もいれば新劇系や小劇場出身の俳優さんもいて、それぞれの持ち味を生かしつつ、この世界観を支えていく。

シンプルでありながら場面によって姿を変える美術も印象的であった。

そうして描かれるのは、「運命」というより「天の運行」あるいは「歴史の流れ」のようなどうしようもないものに流されていく人びとの悲劇。それは単純な喜怒哀楽を超えて、名付けようのない透明な感情を引き起こしていく。

この上演をずっと楽しみにしていた。そして、その甲斐があったと思える舞台であった。

その人を知らず

その人を知らず

劇団東演

あうるすぽっと(東京都)

2017/06/29 (木) ~ 2017/07/10 (月)公演終了

満足度★★★★

観始めてから、途中でしまった!と思った。

友吉があんなことをした、と皆が言う。周囲から責められ家族までもが弾圧されるような、いったい何を彼がやったのか。それが途中までははっきりと語られない。何の予備知識も入れずに観ればよかった。彼が何をしたのか(いや、しなかったのか)を知らないまま、それを考えながら観られたらよかった。

だが、そんなことを思っていたのはわずかなあいだだった。

その時代の息苦しさそのものが、友吉への、そして友吉の家族への迫害となって具現化する。

新劇系の5つの劇団が協力しての上演とあって、キャストの層も厚い。多彩な登場人物をそれぞれ説得力のある演技で描き出していく。

共産主義者も右翼の国士も友吉に洗礼を施した牧師も、それぞれの迷いや矛盾が描かれる中で、友吉の頑ななまでの無垢が痛ましく輝いていた。

それはキリスト者としての行動だったのか。あるいは、彼の観ていたエス様は、彼だけのためのものであったのかもしれない。

戦争中から戦後にかけて揺れ動く人々の中で、彼の無垢だけが揺らがない。

……いや。そうとは言い切れない場面もあったか?

戦後の苦しい生活の中で、彼は自らの信念に疑問を抱くようにも見えたのだけれど。

タイトルは聖書の中のペテロの言葉から取られたもののようだ。

しかし、ラストで繰り返される「そんな奴は知らない」という言葉は、ペテロの場合とは異なり、彼をかばうため、彼が妹と大切な女性を無事に連れ帰るためにつかれたウソだったのに。

そんな時でさえ、バカ正直に応えることしかできない。

前半の、歯を喰いしばりながら観るような緊張感と、後半のある種の喪失感と。

殺すなかれ。

その戒律を守ることだけをどこまでも貫こうとした ある男の物語。

約70年前に書かれた戯曲が、もしかしたらこれからの我々にとってもっとも切実な課題を浮き上がらせているのかもしれない。

大帝の葬送

大帝の葬送

ロデオ★座★ヘヴン

王子小劇場(東京都)

2017/06/28 (水) ~ 2017/07/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

会議劇であった。

いや、正確にはなんと呼ぶのかわからない。そういえば、先に引用した公式サイトの紹介文には「論争劇」と書かれている。要は、『十二人の怒れる男』や『ナイゲン』のような、ある議論や論争を物語の中心に置いた芝居の系譜に属するものなのだ、と終盤になってから気がついた。

昭和63年の秋から平成元年の早春にかけて、昭和天皇の崩御と現在の天皇陛下の即位にまつわる人々の葛藤を描く。

舞台中に散らばったたくさんの紙片と2つのテーブル、そしていくつかの椅子。部屋の片隅に置かれたテレビ。

三方を客席に囲まれた空間は、宮内庁の一室となって、そこに出入りする人々のやり取りがそのまま物語となる。

固有名詞や正式な役職名などをほとんど廃し、「事務の人」や「奥の方」などその人の属性を表すわかりやすい役名で呼び合う。

ある意味歴史の大きな転換期であるけれど、遠い昔というわけではなく現在と地続きと言ってもいい時代である。

劇中で使われる電話を見て(いくら宮内庁でも、オフィスではもう黒電話でなくビジネスフォンを使っていたのじゃないかしら?)などと思ったりしたのは、当時自分もすでに勤め人だったからだ。

葬送の様子をテレビで観て記憶している方も多いだろう。

しかも、形は違えど近くまた元号が変わる予定だったりもする。

そういう意味も含めて面白い題材であった。

だがそれ以上に、それぞれの役割で呼ばれる登場人物たちが、それぞれ輪郭のはっきりしたキャラクターと、シンパシーを感じさせる人間味を持って描かれていたことが印象的であった。

対立したり相手に苛立ったりもしながら、伝統も法律もないがしろにせず、そして何より人の心に沿うかたちで時代の転換となる式典を執り行うために妥協できる点を求め、解決法や抜け道を捜し、とことんまで話し合う。

その様子が、どんなエンターテイメントより面白くて、あまりにもありふれた言い方だが、人間がいる、と思った。

ブリッジ

ブリッジ

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/06/14 (水) ~ 2017/06/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

サンプルの10周年記念公演にしてサンプルの解散公演。

奇妙な新興宗教の集会を模しつつ、教祖と使徒たちの生い立ちと遍歴と崩壊(と未来!?)が綴られていく。

半円形に並べられた観客席。そこに座る我々は、ある新興宗教のイベントへの参加者として設定されている。マイクを持って話す男が、客席に声をかけたりする。

ある男の腸内細菌が、高度な意識を持っていて彼に呼びかけてくる。人類が生き延びるためには、裏返らなくてはならない、と。

さまざまな歪みを抱えた男女が、彼によって救われ、信徒として彼と日々を共にする。その人々が順に自らの来し方を語っていく。

彼等はすべてを分け合い共有する。腸内細菌も性的な営みも。

それから彼らの旅について語られる。遍歴の間に起こるマジックリアリズム風の出来事は、いわゆる劇中劇として信徒たちによって、演じられたものだ。

それが終わった時、ステージに上がり込んできた1人の男は、反社会的な事件を起こして世間の非難を浴びた人物だった。彼の起こした事件によって、教会全体も社会の非難を浴び、団体存続の危機に陥ったという。なるほど、それゆえの遍歴なのだ。

奇妙な味の文学的な物語を、荒唐無稽なディテールと個性的なキャストが支えた。そして、そういう枠組みを逸脱するエンディング。

観終わった後、あのポスターが何を示していたのかようやく気がついた。面白かった……というより、じんわりと侵食されるような奇妙な感慨を抱えて劇場をあとにした。

「電車は血で走る」「無休電車」(本日6/24 14時電車・19時無休電車 当日券ございます)

「電車は血で走る」「無休電車」(本日6/24 14時電車・19時無休電車 当日券ございます)

劇団鹿殺し

本多劇場(東京都)

2017/06/02 (金) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

『電車は血で走る』
リビングを走る鉄道模型。ヒゲの駅長さんは亡き娘を偲ぶ母の姿なのだとあとから気づいて、胸に込み上げる感情があった。

そんな、物語の始まり。

少年のような少女は、電車を降りる。懐かしい風景。その駅で降りれば、あの人の住む街。電車は走る、血を乗せて。

初めて観る自分でさえ、舞台の上はどこか懐かしい空気に満たされている。少女は訪れる。懐かしい人たちのもとを。

実家の工務店で働きながら芝居を続けるタケと、幼なじみでやはりその工務店に勤め、ともに芝居を続けるヒロ。馬鹿馬鹿しくも確かに輝いていたあの日々はすでに遠く、それでも彼らはまだ夢の途中なのだ。

劇団新感線みたいな派手な歌舞伎ロック調のいでたちで、『蒲田行進曲』などをパクりつつロック・ファックを散りばめて演じる劇団 宝塚奇人歌劇団。主宰のタケは、工務店社長だった父の死を契機に、劇団を解散しようとするが……。

郷愁と馬鹿馬鹿しさと夢を追い続けるかどうか葛藤する三十路の青春と。

チョビさんの歌声が過去と今をつなぎ、電車役の楽隊が後悔と希望を奏でる。

観終わって何日か経っても、買ってきたリハーサル音源集を聴きつつ、あの場面やこの場面を思い返す。

劇団の代表作と呼ばれているのが納得できる渾身の舞台だった。

『無休電車』
先に観た『電車は血で走る』と同様、彼らの自叙伝的な意味もある物語を、音楽とノスタルジーと夢を追い続ける意志で綴った熱い舞台。

亡き友も去っていった仲間も、現実の困難やしがらみも、すべて抱えたまま、彼らは東京を目指す。

電車は走り続ける。

彼らもまた休むことなく進み続ける。迷ったり怒ったり、泣いたりしながら。

観に行った日は東京公演の千秋楽であった。

エンディングを迎え、鳴り止まない拍手に三たび登場したキャスト陣にスタンディングオベーション。振り向いたら会場中が立ち上がってた。

舞台上のキャストの想いと客席の想いが重なる。いい公演だった、としみじみ思った。

郵便屋さんちょっと2017 P.S. I Love You

郵便屋さんちょっと2017 P.S. I Love You

劇団扉座

紀伊國屋ホール(東京都)

2017/06/21 (水) ~ 2017/06/25 (日)公演終了

満足度★★★★

当日パンフレットに掲載された幻冬社 社長 見城徹さんの文章の中に、「つかこうへいへの強烈なオマージュであると同時に、タイトルと設定だけを借りた横内謙介の独壇場」というフレーズがあった。この芝居について、これ以上的確な形容はないかもしれない。

タイトルになっている『郵便屋さんちょっと』という戯曲を、初演を観た後に近くの図書館で借りて読んだ。なるほどモチーフとして描かれている部分はあるけれど扉座版のキャラクターもストーリーもほぼオリジナルだった。ただし、その短編が収録されていた戯曲集の他の作品からもいくつかモチーフを盛り込みつつ、つかこうへい氏の芝居のエッセンスをみっしりと詰め込んでいる。

時事ネタも下ネタも差別用語も社会批判もコンプレックスも自己顕示欲もオマージュもパロディも、すべてがつまるところそこに生身の人間がいる、ということに集約されていく。

クライマックスひとつ手前くらいの場面で、突然拍手が起こった。歌でもダンスでも見得でもない、ある人の長い台詞の終わりだった。

ああ、そういうことだよな、と思った。劇中で届けられるたくさんの手紙の代わりに、たくさんの言葉を客席で受け取ったのだ。

そして、つかこうへいさんのテイストやテンポや反骨精神やイロケなどを細やかに再現しつつ、これはまぎれもない扉座の芝居だった。

登場する方々それぞれの「ニン」に合う見せ場や台詞があって、特に私は今回ある場面で泣いた。中原三千代さんが、郵便局長の浮気相手となり子どもを産んだときの経緯が語られる場面だ。

つか芝居にこだわるでもなく、三千代さんらしい細やかさと強さの感じられる場面で、素直に言葉にできない大切な想いが、それでも娘に伝わるように語られる様子が胸に迫った。

劇団員をよく知る座長が書いて演出した舞台なればこそだ。キャストの活かし方だけでなく、つかさん調の長台詞の随所に扉座らしさが感じられた。

たくさんの花で埋もれそうなロビーには、扉座関連の舞台でお見かけした役者さんの姿も大勢見受けられた。着替えを終えたキャスト陣もロビーに姿を現して賑わう様子が祝祭めいて輝いていた。

評価とか理論とは流行とかそういうことは私にはわからない。ただ、こういう芝居が観たかったんだよ、と観終わって思った。

愛死に

愛死に

FUKAIPRODUCE羽衣

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

通路を駆け抜けるひと組のカップル。無人の劇場に忍び込んだらしい。金目のものを探すはずが、はしゃいでセットのパルコニーに上がってみたりしている。

セットがゆっくりと傾き、舞台の上に倒れる。大きなセットの起こした風が客席を吹き抜ける。

そして、舞台の上で何かが動き出す。

棺桶から起き上がる男。むかしラブレターを書いたことのある少女に、ずっと時が経った今ふたたび書いた手紙を朗読している。それは、投函されない手紙。次々と棺桶から男が起き上がり、舞台上を歩き回りながら同じ手紙を輪唱のように読み続ける。

棺桶から女が起き上がる。窓の外を眺める。昔、手紙をくれた男について語り始める。棺桶から次々と女が起き上がり、舞台上を歩き回りながら輪唱のように女の言葉を繰り返す。

黒づくめの男と女が、舞台上を歩き回りながら言葉を紡ぎ、次第にそれはメロデイになる。

そういう情景。

あるいはいく組もの男女が登場し、それぞれに描かれる愛の形。

音楽と言葉。ほの暗いステージの上の黒衣の男女。劇場に忍び込んだカップルは、からっぽの劇場の客席で、目を閉じて彼らのステージをみつめる。

列車を降りて、知らない町を歩き、夕陽にそまる海岸に、腰を下ろす。

愛という言葉に、死という言葉がこれほど近いなんて。

物語というよりかつて観た幻影のような。

若いカップルは、手を取りあって劇場から去っていく。彼らの人生はここからまた始まるのかもしれない。

ミズウミ

ミズウミ

日本のラジオ

ギャラリーしあん(東京都)

2017/06/14 (水) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

昨年観た『ハーバート』や『ヒゲンジツノオウコク』同様、クトゥルフという架空の神話を題材にした作品だ。

舞台となっている田瓶市も他の劇団が創作した架空の都市だが、パンフレット内の用語解説に参考文献として『田瓶市市政50周年記念特別広報紙』などと挙げてあるのも面白い……などという説明は野暮かもしれない。

ちなみに、田瓶市は市としてはさほど規模の大きくない自治体であろう、と50周年記念として発行されたのが記念誌でなく記念紙であるあたりから想像してみたりする。

クトゥルフやインスマスやダゴンなどの単語に聞き覚えがある程度で、ほとんど知識のない自分でも、物語を見る上では支障なかったし、舞台のヒンヤリとした緊張感や物語の面白さは充分感じることができた。

物語の面白さ、と言ったが、それはなんていうか、脚本の緻密さはもちろんのこと、キャストのそれぞれのハマり具合(何人かはこの芝居中は魚顔に見えたり)、細やかに設定された登場人物像やそれに応じた語り口、近い将来年号が変わることになった昨今の状況、庭や観客の後方も含めた会場の使い方(おかげですっかり物語の中に取り込まれたように感じられた)、そして『ヒゲンジツノオウコク』との関わりなど、様々な方向から組み上げられた面白さであった。

それでも、やはりクトゥルフについての知識があればより楽しめただろうと思うと、次回までに(!?)読んでおきたい気持ちになった。

過去と現実の関わり。人ならざる女たちに心をとらわれた男たちの切ない想い。大きく開けた女の口の奥に見えたであろう深いミズウミ。

不思議でヒンヤリと怖くて、そして愛しい。そういう舞台であった。

眠れぬ夜のホンキートンクブルース 第三章~覚醒~

眠れぬ夜のホンキートンクブルース 第三章~覚醒~

水木英昭プロデュース

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2017/06/02 (金) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★

あいかわらず波乱万丈なホストクラブ ホンキートンクに新たなピンチが到来?

しゅうくりー夢主宰の松田環さんの脚本で横井伸明さん御出演ということで、笑いと涙とそしてたっぷりの愛情が込められた物語に環さんらしさを感じたり、横井さんのピンクのスーツに度肝を抜かれたり、しゅうくりー夢ファン的にもいろいろ楽しい舞台となっていた。

若手ホスト役の方々も魅力的だけれど、伝説のホスト政秀役の津田英佑さんを始め、主宰の水木さんや客演の横井さんなど、オトナの魅力も満載だった。

日高市長役の山田邦子さんや翔役の鈴木拡樹さんが映像でご出演されたりしたのも楽しかった。

何が本当で何が偽りか。どんでん返しの連続とさまざまな仕掛けもたっぷりで、ハラハラしたり笑ったりしつつ、観終わると気持ちが温かくなって元気が出る、そんな水プロらしいサービス精神に溢れた舞台だった。

「疲れた女性を癒す」というホンキートンクのモットーと政秀を中心にした彼らの歌声に聞き惚れて、気持ちよく劇場を後にした。

祖国は我らのために

祖国は我らのために

マコンドープロデュース

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/05/18 (木) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

ロシア革命を題材に……というより、ロシア革命そのものを真正面から描いた骨太な物語である。タイトルになっている『祖国は我らのために』は、ソビエト連邦時代の国歌の題名とのこと。

血の日曜日事件から始まって、2月革命、そして10月革命へと、歴史の教科書の中の単なる言葉だったものが、目前で人間の営みとなり、時代の大きなうねりが平凡な庶民の視点で描かれていく。

工場で働くニコライ(須貝 英)らは、厳しさを増す労働と少ない報酬に危機感をつのらせていた。このままでは暮らしていけない。そういう切実な訴えから始まる物語の前半は、ニコライの妹 イリーナ(加藤理恵)ら女性たちの働く工場や弟アレクセイ(永嶋柊吾)の所属する軍隊なども含め、市井の人々を中心に動いていく。

前半では特に、イリーナたちの働く工場から自然発生的に始まったムーブメントが革命になるまでのダイナミックな描写が圧巻であった。

全体に、台詞も動きも熱量を強調する演出である。久しぶりに帰ってきた弟を囲む家族の会話さえ、舞台の対角線上を足早に行き交いつつ声高に交わされる。出演されている方々にとっては、たいへんな舞台だったかもしれない。

2月革命の後も暮らしはよくならない。民衆のささやかな希望は、権力に群がる者たちに踏みにじられたままなのだ。

革命の中のある種の高揚から、しだいにきな臭い雰囲気が漂い始める。女たちの働く工場で革命の指導者的役割を担っていたマリア(小林春世)が、捕らえられていく。仲間をかばうために悪態をつく彼女の毅然とした様子とそれを知って彼女を見送る仲間たちの姿が印象に残る。

革命家たちの動きが活発になっていく。そういえば、ボリシェヴィキやメンシェヴィキなどという言葉を聞いたのは、高校の歴史の授業以来何十年ぶりかもしれない。そしてとうとうあの男が動き出す。井上裕朗演じるレーニン。彼の怜悧な情熱が、後半の物語を引き締めていった。

庶民の中から始まった革命は、彼らの思惑を超え、国家を大きく動かしていく。数多くの犠牲のもとに。

ラストで、舞台上の人々を降りしきる雨が濡らしていった。革命後の時代を予想させるかのように感じられた。『祖国は我らのために』というタイトルが、どこか皮肉に聞こえるラストであった。

エンドルフィン

エンドルフィン

モノモース

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/05/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

一台のスマートフォン。そこに録音された音声を男が再生する。どうやらある会議の席上のようだ。

聴こえてくる声の主は、ゴミの島に捨てられた少年。「旧・希望の島」あるいは「絶望の島」と呼ばれるそこは、合法非合法の廃棄物におおわれた場所であった。

捨てられ、傷つき、飢えた少年の生きるための戦いが始まる。

スマートフォンに残された彼の声は、過酷な生と痛みをありありと描き出していく。

語られる出来事は無惨だけれど、舞台上での描き方はむしろ抑制が効いている。血糊が飛び散ったりしないし、たくさんの布が重なり合う美術はどこか寓話めいているし、照明も音響もむやみに感情を煽るものではない。

なのに、少年の言葉はあまりにも生々しく響いてくる。

会議室でその声を聴く人々の冷めた会話。聴かせる男の目的と作為。それらのざわつく肌触りと、少年の発する言葉のギャップにも揺さぶられる。

観ているうちに、ある場面で突然気分が悪くなった。目の前が暗くなり冷や汗が吹き出す。

精神の緊張がこんなにストレートに身体の反応を呼び覚ますなんて、自分にとっては初めてのことだった。

舞台上で起きている出来事そのものより、劇中の彼の孤独が、そして予想される行為のもたらす痛みが胸を締めつける。

席を立つ……という選択肢が一瞬頭をよぎったが、続きが恐ろしいのと同じくらいその先が気になって立ち上がることもできない。

彼の語る記憶は、過酷さを増しつつ、ひとつの出逢いを境にその性質を変えていく。

ニイナという少女。目の見えない彼女を、少年は守ろうとする。

それまでの彼の生と、彼女と出会ってからの日々は、まったく別のものとなっていた。

もう、孤独ではない。

少年を呼ぶ彼女の声、共に生きようとする彼女の意志、彼女の弾くピアノの音。

飢餓も痛みも耐えられる。彼女さえここにいてくれたら。

もっと惨い展開はいくらも考え得るだろう。けれどそういう道を選ばなかった少年の、想像を絶する痛みの向こうにある種の甘やかな想いがある。それを愛と呼ぶにはあまりに切実すぎるけれど。

わずか85分の中に、切り取られ鮮やかに浮かび上がるひとつの生命。ひとつの世界。言葉にできない確かなものを受け取った気がした。

誰がために壁はある

誰がために壁はある

曲がり角ランデブー

新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

女性2人の魅力的なダンスから、物語は始まった。

客を送り出した風俗嬢が控え室で次の客を待とうとしているとき、後輩の女の子が助けを求めてくる。壁の向こうの人と恋に落ちて、店の金を持って逃げようとしているらしい。

壁によって西東に分断された近未来の日本……という設定について、劇中ではあまり説明はなくて、観客は物語の中でしだいに様子をつかんでいくこととなる。

『めごとの天使たちは』では、壁のある世界を背景にした古典的な「許されざる恋人たち」の物語を、2人の女性によるチャーミングな会話劇として描いていく。逃げ出そうとしているすみれの無邪気な一途さと、彼女の話を聴く姐御肌のれいかの男前な魅力が、観る者を物語に引き込んでいった。

続く『誰がために壁はある』では、不条理劇めいた会話を牽引する奇妙な男と、広場に来た男の語る恋の顛末が、「壁」に閉ざされた閉鎖的な社会の終焉と結びついていく。男1を演じる古市さんの飛び道具めいたキャラクターと台詞に圧倒された。

先の2つの短編は2人芝居だったが、3作目の『惑い人は還る』では、遠く宇宙を旅する少女と地球で待つ父親が、それぞれのかたわらにいる女性(型のアンドロイド)と交わす会話で進む2人芝居×2のような3人芝居であった。

宇宙を隔てた父と娘の孤独や迷いに手を差し伸べる、死んだ(妻=母)の姿と記憶を持ったアンドロイドの慈しみと、終盤で希望を語る少女のキラキラとした表情が、これまでの物語に登場したすべての壁を乗り越えていくチカラを持つように感じられた。

壁をテーマに描かれた3つの愛の物語はゆるくつながりながらそれぞれ綺麗に着地し、そして気がつけばまたつながってひとつの物語となっていた。笑いも多めの軽妙な会話とその奥の切なさを魅力的なキャスト陣が立体化して、小さな劇場に見えない壁と宇宙が立ち現れるように感じられた。

ミュージカル 人間の条件

ミュージカル 人間の条件

劇作家女子会。

座・高円寺1(東京都)

2017/05/18 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

ホモ・ミームスと名付けられ、宇宙人とか人モドキなどと呼ばれる人間によく似た別の生き物と人間が共存する社会が舞台である。……と言ってもSFではない。

ホモ・ミームスと人間が暮らす社会という背景を共有しながら、4人の作家がそれぞれ異なるシチュエーションで綴っていく。……けれど短編集でもオムニバスでもない。
4人の作家が描く4つの主人公と彼・彼女を取り巻く状況が平行し、ところどころ重なりながら進んでいく物語は、タイトル通り人間であることの意味を直球で問う骨太な寓話となっていた。

見た目では区別がつかない。本人でさえ自分が人間なのかホモ・ミームスなのかわからない。死んだ時に初めて何者であったか確認できる、というその仕掛けは残酷でもあるだろう。

深刻なアイデンティティの問題であり、差別の問題であり、宗教の問題であり、医療の問題でもあり、教育の、福祉の、そして男女の問題でもあった。

若き外科医 西本の勤務する病院では、ホモ・ミームスを治療していたため運ばれてきた人間の子どもを治療できず、子どもは死んでしまった。人間を優先すべきだという抗議が殺到し騒ぎが起こるが病院は反対に、いつでも人間とホモ・ミームスを同等に治療する、と言い始め……。

突然の事故で亡くなった恋人が、溶けて消えてしまったという。人間ではなくホモ・ミームスだった。それでも愛していたことや喪失感に変わりはなくて、でも、宇宙人とつきあっていた、と言われることにやや複雑な感情もあって……。

居場所のない少女たちの援助交際……いや、売春グループ。彼女たちと親しい男はホモ・ミームスであると自称している。学校でのいじめられて宇宙人と呼ばれていた仲間の一人が飛び降り自殺をし、大地と激突した瞬間溶けて消えてしまった。残された少女たちは……。

発達障害で仕事も続かない。自分は人間だろうか、そうではないのだろうか、と悩む女が、
ある日自分を受け入れてくれる場所を見つける。それは、ある宗教団体だった。そこで彼女は自信と強さを身につけようとするが……。

そういう4つの流れが、少しずつ関わりあい、ひとつのテーマを浮き彫りにしていく。書き手の違いによってややテイストを変えながら、4つの状況はどれも興味深い。なるほど、「劇作家女子会。」なのだと思った。彼女たちの書いた戯曲の面白さがまずは前提にある。

ストーリー自体に加えて、シンプルなセットの中でさまざまな場面を演じる工夫や休憩前後の遊び心を感じさせる仕掛けなども含め、観ていていろいろと楽しい舞台であった。

演出は赤澤ムックさんで、4つの物語の多彩な登場人物や場面を生かす手腕も見どころだ。重い題材に真っ正面にぶつかる部分もトリッキーな遊びの部分をも含め、戯曲を活かしたバランスのよさが感じられた。

加えて、ストレートプレイではなくミュージカルだ。

歌もダンスも予想以上にたっぷりあり、クォリティも一定以上で見応えがあった。特に、ヘルス嬢チームのダンスや2幕はじめのパレードのパワフルさが印象に残った。

音楽も生で、舞台の奥でバンドが演奏する様子も観ることができた。

キャストの人数も多く、それぞれに熱のこもった演技を見せてくれていっそう引き込まれた。

こうやって作品が立ち上がるまで、ずいぶん時間がかかっただろうなぁ、と観終わってから思う。

できれば、流れを把握した上でもう一度観たい作品であった。

不謹慎な家/佐藤さんは殴れない

不謹慎な家/佐藤さんは殴れない

MCR

OFF OFFシアター(東京都)

2017/05/12 (金) ~ 2017/05/17 (水)公演終了

満足度★★★★

『不謹慎な家』を拝見。

えっ、何これ?なんでこんなに可笑しいの?と思いつつ観ていた。まあ、この劇団の作品はおおむねそんな感じかもしれない。

恋人が人を殺して捕まった。みのりは彼を待つと言う。昔からみのりを想っている濱津は、彼女の論理に圧倒され、彼女の感情に翻弄れつつ、彼女を見守っている。

夫や恋人が刑事事件の犯人として刑務所にいるという境遇を同じくする女たちが集まって一緒に暮らすことになる。一人では揺らいでしまうかもしれない「待つ」行為は、客観的には共感を得難いことなのかもしれない。たとえばみのりの恋人に殺された人の遺族にしたら、犯人が早く自由になって欲しい、という彼女の想いは不謹慎なものなのだろう。

そんな中、みのりが一人の男を連れてくる。新しい恋人ではないし、浮気でもない、待ってることに変わりない、とみのりは言うが、男の側はそうは思っていない。彼はかつて刑務所に入っていて恋人に去られたことがあり、「君は待てないと思う」と言い切る。

待っている女たちもそれぞれの事情や複雑な想いを抱えている。その家にいるのはつらいけれど、彼女の抱えているものを理解してくれそうもにあ世の中にひとりで向かっていくのはもっと恐ろしい。

題材はそうとう深刻だし、展開だって明るいばかりじゃないし、そもそも登場人物がメンドくさいヤツばっかりだ。でも、破天荒な登場人物の破天荒な言動に翻弄され、呆れつつやっぱり笑ってしまう。

笑ってるうちに、行き場のない想いが積み重なって、ジンワリとあたたかい何かが胸を満たす。不安や孤独をアクの強い笑いで彩りつつ、彼らの見せる切実さが観客の胸を打つ。そして彼らがとても愛しくなる。この、じんわり愛しい感じが、MCRの魅力なのだろう、と思った。

インテリぶる世界

インテリぶる世界

箱庭円舞曲

ザ・スズナリ(東京都)

2017/05/10 (水) ~ 2017/05/17 (水)公演終了

満足度★★★★

ガレージのような場所で、女が取材している。

その場所は、かつて人気を博したアーティスト集団「深八幡朱理子」の活動拠点だった。彼らのファンだったその女は、どうやら彼らの活動を再開させたいらしいが、リーダーだった男が今は自分一人でその名を引き継いでいる、という。

女が取材している「現在」と「深八幡朱理子」が活動していた「過去」が絡まりあうように物語は進む。

描かれる「過去」は、それほど遠い時代ではない。パソコンや携帯端末もあるが、まだインターネットが普及し始めたばかりのころだ。いまとは異なる当時の状況が懐かしく思えたりする。

観ているうちに、取材する女の語る「深八幡朱理子」の印象と、実際に描かれる「深八幡朱理子」のギャップ。

仲間の名前から1文字ずつ取ってグループ名にし、先生に無理矢理書かせた看板を無断でサイトに掲載し、パズルゲームの数学的な解法を示した式を、もっともらしいムーブメントにしたてあげる。

にじみでる、ある種の子どもっぽさと自己顕示欲。

グループのメンバーにも温度差や意識の差がある。加えてそこに人間関係や恋愛模様もある。

それが特に強く感じられたのは、先生との議論の場面だ。ひとりは先生とある程度同じ土俵で議論している。先生が若者をあおり、若者は先生を糾弾しつつ、それぞれの間に共感があり、一定の問題意識を共有し、客席にいてもその高揚感が伝わってくる。その傍らで、同じグループのメンバーのある者は憧れめいた視線を送り、ある者は疎外感と焦燥をあらわにする。

そういう人間関係等に頓着せず独自のスタンスでアートを探求している者もあれば、サークル活動めいた感覚で加わっていた男は堅実に就職しようとしたりする。

そこに、リーダーの家族が加わる。活動の場所が生活圏と隣接しているため、彼らの活動や人間関係に無関係ではいられない。今と過去。家族の変貌と喪失。

現在の場面では、彼らに執着して取材を続ける女の苛立ちやひとりでグループ名を引き継いでいるリーダーの模索、当時と変わらずマイペースにアートを探求し続けている男、そして現在の家族たちの様子が、そのガレージで描かれる。

そして、父。すでに亡くなったその人のある行動が、割り切れなさに似た余韻を残す。遠慮がちに応援していたように見えたその人は、彼らに対して、いや息子に対して何を求めていたのか。

生と死とパフォーマンス。

喪服。中毒。首吊り。飛び降り。死を想起させるモチーフが散りばめられつつ、それでも彼らは生きていくのだろうと思った。

個性的なキャスト陣が繰り広げる絶妙なやり取りが、共感とは異なるレベルで妙に身につまされる舞台であった。

このページのQRコードです。

拡大