鯉之滝登の観てきた!クチコミ一覧

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Blue moment

Blue moment

Theater Company 夜明け

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2025/05/29 (木) ~ 2025/06/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/05/30 (金) 14:00

 この劇『Blue Moment』の感想を公開で、UPしたつもりでしたが、非公開になっていたようなので、UPし直しました。
 感想の内容は全く非公開だった時と変わらないのですが、見ていただけると嬉しいです。
 非公開だった時と違って、今回こそはちゃんと公開にできていると思います。

 夜明け前。
かすかに揺れる潮風の中、一台の古びたバイクが静かにエンジンを鳴らす。
ハンドルを握る男の背に、そっと寄り添うように腰かけた、不思議な少年。ふたりを乗せたその影は、星々の名残をなぞるように、かつての夢の境を越えてゆくといった抽象的、観念的であり、詩的美しくどこか儚さ、淡い感じがCoRichのあらすじを読んだ感じだと感じ、あらすじの最後のところに載っていた謎の少年と50代くらいの中年男性との会話のやり取りが、非常に何処か不思議で謎めいた感じがしたので、勝手にこの作品はサンテグジュペリの『星の王子さま』に出てくる年齢不詳で砂漠のコブラに噛まれたが、例え肉体は滅びるとも、もっと観念的であり抽象的な何か、魂とも違う、確かに存在するがもっと軽くて、人間の眼には見えず、聞こえない神聖な何かとなって自分のいた星に一旦帰っていた星の王子さまがふとしたなにかの拍子で、昔に出会った飛行士の孫と今度はバイクに乗って実際に旅をしながら、飛行士の孫のアイデンティティーや自分探し、過去に対する後悔といったことと徐々に向き合わせていくと言った話かと思って、期待して観に行ったが、違った。

 バイクに乗った中年男が海辺で突っ伏して眠っていると、不思議で神秘的な好奇心が旺盛で、汚れがなく、躊躇がなく、純粋無垢で、何処か怖いもの知らずな感じの全身青い格好をした年齢不詳な少年がどこからともなく現れ、主人公の50代くらいの中年男性Kに話しかける場面から物語が始まるといった物語の始まり方的には、サンテグジュペリ作『星の王子さま』と偶然かも知れないが、良い意味で確かに似通っていた。
 だが劇が進むにつれ、主人公の50代くらいの中年男Kが青い神秘的で何処か不思議な少年を流れ的に乗せて走るが、そのバイクで走っている道は湘南の海沿いを走っているのが次第に分かってきて、その終着点として江ノ島線電鉄(通称江ノ電)にバイクごと突っ込んで自殺を図ろうとしていることが分かってきた。自殺に向けて助走をつけてバイクを最大出力で出して道路を疾走している間に、バイク後部座席に座った青い少年の人智を超えた不思議な力なのかも分からないが、走馬燈のように主人公の中年男がお腹にいた時から、生まれた直後、ただ普通に純粋で真っ直ぐで、おバカだった小学生時代、自分家の屋根裏に秘密基地を作ろうと準備を整えていたら、屋根裏からとあるカセットテープが見つかって、そのカセットテープに録音されていた音声が元で父親の不倫がばれ、両親が離婚し、その後の小学生高学年になると、何もかもから逃げたい一心でか、バスケットボールにのめり込む。
 中学になると、地元の湘南にある学校ではなかったのもあって、周りがすぐ友達ができるなか、クラスで孤立していたが、天真爛漫で優しい女の子に声をかけられ、片想いをし、下心丸出しで入った吹奏楽部。しかし、そのうち本当に音楽にのめり込み、地元のオーケストラの門戸を叩く無鉄砲さと、ひた向きで真っ直ぐで、猪突猛進だった中学時代。中学卒業式の日に後輩の女の子に告白されるも、自分が片想いしている吹奏楽部の女の子との約束の為振るが、その後前に告白した際に受験期間なのを理由に吹奏楽部の女の子に断られたが、卒業式後に映画を一緒に観に行き、もう一度告白するがものの見事に振られる。しかも吹奏楽部の春ちゃんが好きといったのは、高校生でロードバイクを嗜む何やらヤンキーめいた先輩だったというショック。
 敢え無く中学時代の淡い青春も終わりを迎え、今までの過剰な自信も消え失せ、自身をなくし、高校生になると、七三分けにして、普通になる。しかし、電車の中で出会った受験生の女の子のイヤホンから漏れてくる音楽と女の子が気になって、黙っていられなくなり、またしても情熱的に勢いで、メールを後で送ってもらうことを半ば強引に取り付ける。そういったところから彼女との関係が始まり、彼女と同じ高校に受かりたいと考え、彼女が目指す高校に一緒に受かれば自分がもっと彼女と話す時間ができるようになると思い、わざわざ今通っている高校を中退して、猛勉強して湘南の地元の自由な学風で有名だが、超難関高に何とか受かるという奇跡としか言いようが無い母親も呆れる猪突猛進ぶり。彼女と仲良くなって、だんだんお互い打ち解けてくるようになると、彼女がじつは重い持病を抱えていること、その持病は手術をすれば治るが、親が許さないこと。両親が新興宗教をしており、父親が教祖であり、自分は2世であること、結婚や恋愛も信者以外としてはいけないことなどの秘密が彼女の口から暴露される。そんなの許せないと思った主人公は彼女の両親が信者を集めて説教をする教会に踏み込んで反論しようとするが、逆に彼女と引き離され、彼女は説教壇より奥に生まれ変わるのがどうのとか、身を清めるとかいったことから、信者たちと彼女の父親によって連れて行かれる。それでも最後に彼女は主人公に力なく微笑みかけるが、それが彼女の笑顔と、彼女自身を見た最後となる。
 彼女を金も権力なく、勇気もなく無力だったことから救えなかった自分の不甲斐なさ無力感と公開に打ちひしがれて、音大目指すも、明らかに自分より優秀で裕福な家庭との圧倒的な落差を見て夢破れ、音大を中退し、知り合いがやっているという劇団に入る。
 主人公は今度は劇団内で同期の気が合い、愚痴も言い合うことができ、腹を割って気兼ねなく話せる女優と飲み友であるうちに、いつの間にか恋人同士になるが、演劇では食えいないと思った主人公が、副業としてマルチ商法に手を出し、劇団の仲間とも険悪になり、そのうち劇団の女優の彼女から別れを切り出され、振られる。
 しばらくは意気消沈しているが、仲間の励ましもあり、劇団を主宰の知り合いと1から始めるが、今度は主人公は裏方に徹する。
 30代くらいになって、劇団もだんだんと大世帯となり、主人公も劇団内で演出も任されるようになり、ある時高校で演劇をするワークショップに出向き、高校生の劇の演出をすることになったが、そのことがきっかけで、高校生で劇団の事務所を叩き劇団員になった女子高生のやる気と元気があって行動力がある女の子のことを気にかけるようになり、そのうち結婚する。
 歳はお互い離れているが好き同士で、仲睦まじく、子どもも生まれ、共働きで、大変ながらも、ささやかで幸せな時間の筈だった。しかし第2子がを身籠り、その子は主人公と彼女との子ではないことが夫に黙っていること、隠していることの罪悪感から正直に実は同じ劇団内の劇団員と不倫関係にあったことが暴露され、主人公は茫然自失となり、バイクに飛び乗って…。
 といったような壮絶で激的で、もはや取り返しのつかない、全然救いようのない過去が流れるように見えては消えていくという、サンテグジュペリの『星の王子さま』より、余程大人で、世知辛い内容であまりの救いのなさに衝撃を受けた。
 しかし、青い少年が、劇団の元高校生の妻が劇団員との不倫で宿して、堕胎した子どもで、その青い少年が最後のほうで言う「次生まれ変わって会えなくても、何度も生まれ変わることは出来るんだから、きっといつかはお父さんとその息子として会うことだって、運命の巡り合わせ的に、可能性はきっとあるよ」といった自殺した主人公の魂に言う励みの言葉が、よくよく文脈を考えて捉え直してみると、少しのお互いの救いにもなっていないのに、愕然とした。

 しかし、幻想的、詩的、観念的で、美しく淡いファンタジックな作品なのにここまで現実を突きつけ、僅かな救いさえ用意せず、観ている側をも絶望のドン底に突き落とす、笑いもほとんどない作品に愕然とさせられた。でも、実際の人生の場合、よく劇や映画で見るほど、ハッピーエンドでもなく、過激なバッドエンドでもないと思うので、ある意味現実の上手くばかりも行かないし、かと言って闇の住人に引きずり降ろさられる、連れ去られるといったこともない人生を移してるろも思えて、衝撃は大きかったが、こういう劇の終わり方もありかもと感じた。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第四期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第四期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/05/28 (水) ~ 2025/06/08 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/06/08 (日) 14:00

 今回は、片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」第33回ロングラン本公演『六道追分』第四期を観に行った。剣チームの公演で、他に龍チームの公演もあるのだが、私が観た回の次の回の公演が、第四期公演において本当の意味での千秋楽公演だったので、私は千秋楽公演ではなかったものの、千秋楽を夜の回に控えた、14:00の公演だったこともあってか、全体的に役者にも磨きがかかっており、役者がアドリブをぶっ込んでも、他の役者が即応できているといった感じで、大きなミスやケアレスミスもなく、緊張し過ぎず、程良い緊迫感も時々作り出していて、そのバランス感と言い、劇全体としても完成度の高い仕上がりになっていると感じた。
 また、第三期の章衛門役の俳優の喉が枯れていて大丈夫かと思って、劇中ところどころ劇に集中云々以前に、俳優個人の体調を心配してしまったが、今回は、少なくとも剣チームに関しては、役者全員が健康上の問題はなく、万全の状態でこの舞台に望んでいるのを見て、前回以上に集中して観ることができた。
 
 一期目から始まったロングラン本公演『六道追分』は、今回の四期目に至っても良い意味で、劇の内容も、終わらせ方も変わっていなかった。
 但し、細かい部分での所作や動き、役者のアドリブなどは一期目の時以上に柔軟に役者が対応できるようになり(但し同じ役者じゃないが)、磨きがかかっている気がした。
 
 この第四期をもって、座長の山田拓未さんがロングラン本公演『六道追分』に出演するのが最後だというのもあって、山田さん演じる鬼アザミ一味の頭領鬼アザミ清吉をいつも以上に着目して見ていたが、良い意味で今までと変わらず、お菊との茶屋での喧嘩の場面でも、威圧感があったり、居丈高というより、どこか温厚で優しくて、気さくな素顔が演技の端々に現れていて、勿論無意識に素が出ている可能性もあるが、人として共感を持てた。決してハッピーエンドとは言えない切ない結末なだけに、多少なりとも共感が得られる等身大で人間味溢れる感じの清吉に、せめてもの救いを感じた。
 そう考えると、この清吉を違う役者が演じるとまた違った清吉像が出来上がるのかもと考えると、無論山田拓未さんではない役者による清吉も1回は観ているが、もっと観てみたいし、興味深く感じた。
 また、余談だが、女優や中高生ぐらいの子どもが清吉役を演じたら、どんな化学反応が起きるのか、個人的に気になった。

 今回お菊役を演じた二宮響子さんは、二期目の龍チームの公演の際に石井陽菜さんに匹敵するか、それ以上に茶屋での清吉との喧嘩や宿屋で意地を張り合う場面において、啖呵を切ったり、威圧感、高圧感、切れた具合の凄みに尋常ならざる迫力と緊張感があり、清吉役の山田さんを圧倒しており、観ている私まで硬直する程の恐さと迫力、緊張感があった。
 良い意味で今までのお菊役以上に、存在感があり、今までお菊を演じてこられた女優さんたち以上に花魁の中でも最上位の花魁の役が似合っていた。肝の座り方、美人で艶があり、和装が似合う感じといい、二宮響子さんがお菊役として、どこか堂々とした足取りで周りを圧倒する感じといい、余りにもはまり役過ぎた。
 今まで、このロングラン本公演『六道追分』の山田拓未さんが出る公演の際、W主演のお菊役の女優さんはどこか(必ずしも身長差があるとは限らないが)山田さんと疑似親子のような関係性に見えやすい感じになっていたが、今回は対等というか、二宮さん演じるお菊に圧倒されていて、新鮮だった。
 これからも、役者が変わるごとに清吉やお菊のイメージもどんどんその役者の個性やアクの強さ、存在感などによって更新されていくのが楽しみで仕方なくなった。(勿論、他の役の役者にも要注目だが)
 今回は、七越、松山、花里の花魁役の女優さんたちが、今まで以上に存在感があり、また一期目〜今回の四期目に至るまでの中で、四期目剣チームの七越、松山、花里役を演じる女優さんたちが特に大人の色気というか艶があって、花魁役を演じる女優さん3人全員花魁衣装が似合うと言うことはなかなかないことだったので、驚愕した。
 しかも、今まで花魁役を現役の有名アイドルが演じることがあまりなかったので、剣チーム花魁花里役を有名アイドルグループの現役メンバー「アイオケ」の草凪美海さんが演じられていたことを、終演後に買った第四期のパンフレットに書かれており、意外に思った。
 但し、事前に女優さんが普段どんな活動しているかとか、別段調べず行って、劇場で観た段階だと、草凪美海さんが良い意味で大人の色気というか艶やかに見えた。花魁役が似合って見えた。そして後で、パンフレットを買って、「アイオケ」という有名グループにいるような人が、小劇場演劇に出て下さって、それも前のほうの席が舞台と距離が近いような劇場で上演されている劇に出て下さっていると言うことに感動し、感慨深くなった。

 今回の剣チームお琴役を、お琴役としては初めてのアイドルグループ「RiKKYY」の現役メンバーの長瀬友起さんが演じられていると、後でパンフレットを見て知って、どうりで劇中観た際に、お琴役にしては、あまりに可愛く、輝いて見えた訳だと、良い意味で納得がいった。

 今回の剣チーム尼さん念念役の白須慶子さんは一期目剣チーム念念役の吉田真綸さんとやや性格付けを被せてきたが、大きく違ったのは吉田さんがアイドルじみた雰囲気で、小悪魔っぽく、あざとくて憎めない感じのSキャラだとしたら、今回の白須さん演じる念念は普通に穏やかな尼さんに見えるドSというような違いがあって、面白かった。
 但し、吉田さんも、今回の白須さんもギャップ萌ということでは、不思議なことに共通していた。
 そしてどことなく蓮舫氏に似ている白須さん演じる今回の念念は、今まででかなりリアルにいそうな生真面目で、堅物で質素な感じの僧侶な雰囲気と裏腹に、馬鹿力で調子の良く、人の話を聞かなかったり、念念が説法してる時に柏餅を食べたりと食い意地も張った、でもどこか憎みきれない加藤拓也さん演じる珍念の腕を捻じりあげたり、珍念の首を、手に持っている数珠で締め上げたりと一期目剣チーム念念役の吉田さん以上の過激差ぐあいが面白く、それでいて普段清吉たちに説法する際は、何処か姉御肌な感じの温度差が面白かった。

 一期目剣チーム遣り手役を演じた太田有美佳さんは、当時は今年の誕生日がまだ来てなかったので、31歳と、この後に続く期の遣り手役の人たちの中で1番若かったのだが、今回遣り手役の剣チームの関口恵那さんは、その太田さんよりも若く、更に今年の誕生日がまだ来てないので、今は27歳とパンフレットで知って、驚いた。
 しかし、観た時点で関口さんは遣り手を演るには若すぎる感じもしたが、ドスの効いた、相手を威圧し、今まで見た遣り手の中で一見怖くて近づき難い、言葉の端々からも高圧的で、演じた本人がそう思っていたかどうかは別として、非常に命令的でパワハラ気質、ドSな感じが自然と滲み出ていて、存在感があって、改めて遣り手という役柄上最低でも30代くらいになっていないと、というイメージというか、勝手な既成概念をぶち壊してくれ、いくら若くても、年齢なんかは、演じ方次第、個性やアクの強さ、存在感の滲み出す感じ次第で、いかようにもカヴァーすることができると感じ、恐れ入った。
 また関口恵那さん演じる遣り手はどことなくしっかりしていて、自我を持ち、強く艶やかさもあって、ただの嫌な遣り手とか、守銭奴といった感じではなく、与力の徳蔵や九次といった上級役人に対しても、媚び諂うと言うでもなく、キツく、毅然と立ち居振る舞っているように見える態度が、良い意味で非常に現代的な解釈をしており、とても共感できた。
 そしてまた今回の剣チーム遣り手役の関口恵那さんが、今までの遣り手一若いと言うだけでなく、今までの遣り手一、衣装も今までと比べると目立っていたのが新鮮だった。
 それにカラコンをしているのも、良い意味で、関口さん演じる遣り手を際立たせていた。
 そして、どこか今どきのSMの女王様な感じが滲み出ていて、一期目〜四期目までの遣り手役一、今までの中では一番印象に残った。
 今まで遣り手役の人で、W主演の主役や金襴豪華で艶やかな花魁たちの役の人たちが霞みかねないほどの存在感と、遣り手役にしては地味じゃなく、どちらかというと派手な感じで、食い込んでくるのは新しみがあって良かった。
 例え、主役じゃなくても、これぐらいの存在感と、派手さは欲しいと、次の遣り手役の人にも大きな期待を抱かずにはいられなくなった。

 今回の剣チーム同心共蔵役の伊藤清之さんは、今時な爽やかで純朴で、世間知らずな雰囲気の俳優だったので、アドリブほとんど無し、小ネタも殆どなしのほぼ台本通りだとしても、屈託のない笑顔と真っ直ぐ純粋で可愛らしい顔に癒やされ、細かいことなんてどうでも良くなって、全て受け入れられる気がした。
 先輩同心章衛門役の剣チームの田中しげ美さんが共蔵役の伊藤清之さんとのやり取りで、恐らくアドリブであり、田中さんの本音でもあるんじゃないかと思える「君のその真っ直ぐで素直で汚れがない感じを見ていると、俺つい意地悪したくなっちゃうんだよねぇ」と言うような発言も面白かった。
 また、今までの章衛門役と違って、髪を後ろで束ねている感じが印象的だった。忍者や浪人といった役も似合いそうだと感じた。

四期目与力の徳蔵役の小林一誠さんは、どちらかというと良い意味で、堅い役職の人というより、遊び上手、世渡り上手で、吉原遊廓等で豪勢に遊ぶ商家の大旦那とかにいそうな雰囲気の人といった感じで、与力の徳蔵といった感じはしなかった。
 そういう意味で、優しくイケオジで、良い声をした与力の徳蔵演じる小林さんと、剣チーム与力の九次役を演じる今どき感のない、私の高校の英語の中年男性教師に似ている濃いいイケメン山西貴大さんの熱血で、猪突猛進で、無骨で生真面目で、エリート気質な性格とのまさに水と油なバディの組み合わせが新鮮で、面白かった。
 また、山西さん演じる与力?同心のトップ?の九次は、今まで演じられてきた九次の中で、その濃いい見た目に反して、闇感がある感じじゃなく、嫌な感じも色濃くさせず、ワイルドな感じもせず、熱血で生真面目でエリート気質で、どこか真っ直ぐで、猪突猛進なところが、全く違う新たな九次像を創出していて、新鮮だった。

 宿屋の女将、茶屋の女中役が今までの安定の川手ふきのさんから、今回の剣チームでは野村祥代さんが演じられていたので、どうなることかと思ったが意外と合っていた。
 図々しく、出たがりで、漫画みたいに誇張された感じで、アドリブもちょこちょこ入れ込んでくる川手さんとは違って、野村さん演じる宿屋の女将、茶屋の女中は無駄に出しゃばったり、アドリブを急にぶっ込んで来ることもないが、良い意味で、格好も含め、地味で本当にその辺にいる宿屋の女将や茶屋の女中な感じに見えた。

リア

リア

劇団うつり座

上野ストアハウス(東京都)

2025/05/28 (水) ~ 2025/06/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/05/31 (土) 17:00

 岸田理生作『リア』を観た。これはW.シェイクスピアの戯曲『リア王』を基にしながら女性の視点から捉え直した作品といったようなことがCoRichのあらすじに書かれており、一体どうやってW.シェイクスピアの『リア王』を題材にしながら、それを換骨奪胎してどんな劇が私の眼前に立ち現れてくるのだろうと、期待と不安が入り混じった感じで観に行った。

 実際に観てみると、岸田理生版では、劇中前提条件となる老王リアが幽玄の時間から歩み出てきて琵琶法師に、自分が何者であったかを聞くといったところ、老王リアには、3人姉妹でなく、2人の姉妹がいることになっていること、登場人物たちが明確な名前を持たず、現代演劇でありがちな具体性を持たない名前になっているところも含めて、物語の根幹にある部分が大きく改変されていて、それでいて観ている観客側に違和感を感じさせず、父であるリアと娘の長女との対立や葛藤に焦点を合わせて丁寧に描いていて、今においても色褪せない、謂わば家族の葛藤や対立と言ったテーマは時代を越えて、国や民族を越えて、永遠に考えさせられるものだと感じた。

 大抵の場合、最初父の老王リアが王位を退くに当たって、3人の娘の内で孝行な者に領地を与えるとの約束に、領地欲しさから父王に聞こえの良い、都合の良いことを言って父王に気に入られ、領地を与えられる。それに対して、素直な物言いをした三女は、父王に怒りのあまり追放されるといった展開になり、その後話が進行するに従って、上の娘たちが如何に薄情で、裏切り者で、嫉妬深く、謀略に長けてるかが分かる展開となり、上の娘たちが嫌な徹底した悪女として描かれがちだ。
 しかし今回の岸田理生版『リア』では、リアが王位を退くと、長女は今までの態度を急に手のひらを返したかのごとくに硬化させ、自分の時代が来たとばかりに、今まで父親に縛られ自由に身動き出来ず、封建的、閉鎖的社会に外においても家においてもがんじがらめになっていたところからようやく開放されたという感じから、父王が座っていた玉座に座り、若いうちにという感じで、闘剣で家来の男たちを戦わせて、勝った物には褒美として装飾がされた美しい剣や黄金を与えるのではなく、王宮に仕える高貴な女性や自分との性的な関係を結ぶことを褒美の代わりとするような放埒振り、さらにリア王を可愛そうな老人と吐き捨てるように言うようになる上、リア王の忠義者の老人を自分の家来に指示して両眼を潰させたり、リア王の象徴だった王冠を奪って長女が被り、元王の老人には木の枝で結わえた粗末な王冠被せ、王宮から追放した上、時々娘の顔見たさに帰ってくることも許さず、道化たちを伴って荒野を着の身着のままで彷徨わせる。さらにお金に困っても支援せず、親子の縁はこれで切れたとばかりに絶縁を宣言する。さらに心優しいが口数少なくほとんど喋らない次女も、時々元リア王だった身寄りのない老人を不憫に思って自分の家に招いたことを快く思ない長女は、いくら自分の妹とはいえ、このまま生かしておいたら、元父王リア、また私のことを快く思わない諸外国の王たちといつか結託して反乱を起こして、成功させるんじゃないかと言うような疑惑から妹の次女を、自分の忠実な家来に宮殿の中で首を絞めて殺させる。しかしそれでも飽き足りない長女は、自分の忠実な家来で、自分と性的な関係にある男を、実は密かに反乱を企ててるのではないかと疑い、寝室で情事に耽る最中、短刀で突いて殺すと言ったように、元になったW.シェイクスピアの『リア王』よりも一見救いがなく、W.シェイクスピアの『マクベス』よりも凶悪で冷徹で、残忍で非道、手段を選ばず、共感、同情の余地さえ見受けられないここまでのピカレスクぶりは、むしろ天晴と言っても良い。
 しかし当然のことながら、長女もやはり人間なのか。劇の終盤が近づくにつれ、今まで殺したり追放し、自分の周りにはイエスマンしかいなくなったが、元リア王の気狂いになった哀れで薄汚くてかつての威厳や栄光はどこへやらの弱々しい老人を自分の手で殺し、これで封建制や閉鎖的社会、父権的といったものに全て勝ち得て、全ての事柄から開放され、これからは父の幻影を見る必要もなく、今まで以上に自由に生きることができ、自身が完全に自立できたと確信するが、父を殺した後、寧ろ父や家来を殺した幻に悩まされ、今までよりももっと不安と恐怖に怯え、誰も信用出来なくなって塞ぎ込み、不眠に悩まされ、身体を壊し、徐々に精神も壊れて、気が狂っていき、気付くと長女自身も幽霊になって彷徨っているという、何処か因果応報的だが、この岸田理生版『リア』がせめてもの救いがあるとするなら、長女が死してようやっと自分が殺したリアに許されるといった展開が用意されてるところぐらいか。

 元々、シェイクスピア悲喜劇の中でも『リア王』は、コミカルだったり笑いやユーモアが極端に少なく、登場人物たち誰一人として幸せになれない、救いようがない作品だったが、岸田理生版『リア』はよりコミカルだったり、笑いやユーモアと言ったものが殆んど無く、独白も多くて、実験演劇的で、深刻で残虐で緊迫して、何処か生々しさが目立つ場面が多かったが、それこそが今を生きる私たちの現実でもあり、なかなか変わらない世の中、生き辛い世の中、未だに多様性とは言い切れないこの日本、ジェンダー問題一つとっても、女性の首相どころか、会社の部長かそれ以上のクラスで女性が殆どそういった責任ある役職に付いておらず、そもそも未だに男性と女性とで給料に格差が生じたりと言ったこともこの日本では全然解決されていない。そんな時代だからこそ、岸田理生版『リア』の長女のような、男社会の中で野心と野望で持って手段を選ばず成り上がり、しかし忠実な家来や実の妹を殺し、父を殺したことから、長女自身鋼のメンタルとは言えず、気が狂い亡くなって幽霊となるまでの過程が、ただの大悪人や、闇を抱えた異常な人物として描くのでは無く、傍から見たらそういうふうに見えつつも、その実どこか人間味が完全には消えない生身の等身大の人間、思い悩み、葛藤する複雑な感じに描いているところが、非現実的なまでに誇張して描き過ぎるよりも、リアル味があって共感できた。
 長女は、ついつい弱音を吐きそうになる自分を、自分自身で牽制し、父権的、封建制、閉鎖的なるものと孤軍奮闘し続ける姿勢が、今を生きる人たちにとって多少の励みとなるのかもしれないと感じた。

ヘンリー四世 第一部

ヘンリー四世 第一部

イエローヘルメッツ(Produced by GMBH)

ROCK JOINT GB(東京都)

2025/05/29 (木) ~ 2025/06/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/06/01 (日) 18:00

 前にも、ライブハウスで劇を観たことは1回はあったが、それは古典劇ではなく、疾走感、臨場感があって、俳優が舞台を所狭しと使って、爆音で音楽が流れる中、ロックな歌を叫んだり、台詞を叫んだりと言ったパンク精神に溢れた、良くも悪くも演劇というよりかLIVE感強めな劇だったので、ライブハウスで演るのに適していた。
 しかし、今回は普段子ども〜大人まで幅広い年代が楽しめて、肩肘張らず気軽にW.シェイクスピアの戯曲に親しむことができることを標榜して、実践している劇団イエローヘルメッツによる劇、W.シェイクスピア作『ヘンリー四世』とあって、正直ライブハウスでの公演、この組み合わせは上手くいくものなのか不安だった。
 しかし、実際に観てみると、そんな一抹の不安など、一瞬で吹き飛んだ。
 本来客席を置かないライブハウスの特性を活かして、仮設の右側、左側の座席の真ん中に花道を設け、役者が花道と舞台上とで同時に会話をするような場面もあったりして、普通の座席が固定化した小劇場ではあまり無い演出もあったりして、臨場感があって良かった。

 『ヘンリー四世』は歴史劇だが、普通どこか荘厳な部分や緊迫して息が詰まるような要素、笑える場面もありつつ、全体としては重苦しく、どこか権威的な作品になりがちな気がするが、今回は違って、勿論緊迫した場面もあるのだが、その中にさえ大酒飲みでごろつき騎士、大洞吹きだがどこか憎めない感じで演じられたフォールスタッフ、訛りすぎてるゆえ過去の武勲を誇張して話したり、あり得ない大洞を兵器でまくし立てたりするグレンダワーなど一癖も二癖もある連中が出てきたりすることで、場の空気が一気に愉快になったりと、馬鹿らしさと緊迫した場面とのバランスが非常に上手くて、観ていて飽きさせず、大いに楽しめた。

 劇中、役者は黒子のように全身無地の黒づくめの衣装で出てきて、舞台上には役者の数分の5つのパイプ椅子が置いてあるだけで、客席側にもなにもセットらしきものは見えず、至ってシンプルだった。
 ここが居酒屋なのか、王宮の中の大広間なのか、ホットスパーたちが密約を練る場所なのか、森の中なのかといったことは役者たちが喋る台詞の中でさり気なく説明されるといったことで、今どの場面が展開されているのかが、舞台セットがなくとも、人物に合った服装をしていなくても、自然と想像しやすい工夫がなされていて、大変興味深かった。

 昔新国立劇場中劇場で観た『ヘンリー四世』などと違い、フォールスタッフが大酒飲みで、女好きの追い剥ぎを糧とするごろつき騎士で、大洞吹きといったようなただの救いようのないクズとして描ききるのではなく、しかも上原奈美さんという女性の役者が演じたからかどうかは分からないが、女好きの要素を排し、ただの大酒飲みの大洞吹き、しかしどこか憎めない愛すべきキャラとして描いており、その上下世話な要素を控えめで演じていたので、こういうユニークなフォールスタッフも良いなと魅力を感じた。
 大抵ハル王子が演じられる場合、救いようがない不良な感じで描かれ、途中から、戦争場面において本領発揮といった感じで演じられがちだが、萬家江美さん演じるハル王子の場合は、前半から中盤にかけては不良というよりは親にただ反抗的な思春期のティーンエイジャーと言った形で演じていて、共感できた。但し、後半の戦争場面での心を入れ替え父親のヘンリー四世と共に戦う際、また戦場でフォールスタッフたちにあった際のやり取りがそんなにケジメを付けている感じには見えなかったので、人間味があって感情移入しやすかった。
 小山あずささん演じるヘンリー四世も、時に威厳があって権威的に振る舞いつつも、子どものことで悩んだり、英国の貴族たちとの関係で悩んで一人自室に籠もったりと、どこか非常に現代にも共通の親の悩みや部下との関わり方の悩みなどといったことはいつの時代も似たようなものかと共感しやすかった。決して、冷徹で頑固な感じで、融通が効かないだけな感じに描かれておらず、新鮮だった。

 役者5人とも女性だったが、宝塚的な型式的な型に嵌った感じじゃなく、自由闊達で、アドリブも飛んでいたりして、全員が男役を演じていたが、違和感が全く感じられなかった。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第三期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第三期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/05/14 (水) ~ 2025/05/25 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/05/24 (土) 19:00

 今回、片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」第33回ロングラン本公演『六道追分』の第三期、龍チームの千秋楽公演(第三期の全体としての千秋楽公演ではないが)を観た。
 第一期から観ているが、三期目ともなると、当然のことながら、基本的な劇の内容は変わらなず、寧ろ始まる前からどういった内容で、どういった結末なのかは容易に想像できるようになった。
 だが、一期から今回の三期に至るまで主演含めて、役者がガラッと変わるだけで、役者個々人の個性やアクの強さ、アドリブを入れてくるところや細かい小ネタ、笑いを取る部分が絶妙に違っていて、一期から三期まで一つとして同じパターン化されておらず、感心してしまった。
 一期目からのロングラン公演だったので、一期目の際は気を引き締めて、演じてたとしても、三期目ともなると同じ役者陣でやっていないとはいえ、最初でないのもあって、多少の気の抜けや台詞が思いっきり飛んだりといったことがあってもおかしくないと思ったが、実際に演じていた役者たちはそんなことはほとんど無く、プロの役者としての気概に恐れいった。

 鬼アザミ一味頭領の清吉を演じる山田拓未さんは良い意味で、一期目の時とそんなに変わっていない気がした。
 但し、手探りで観客の反応を見極めようとしながら演じていた一期目の時と違い、通常のお菊とのやり取りと一期目では吉原遊廓花魁のお菊と喧嘩する場面が声を張り上げ過ぎたところを、バランスよく演じていて、良い意味で三期目ともなると、肩の力を抜いて、緊張し過ぎず、リラックスしながら演じられているのかなと感じた。
 そして、山田さん演じる鬼アザミ一味頭領の清吉が今まで一生き生きとしていて、清吉の能天気でユニークで、飄々としていて、ちゃっかりもしていて、でも根は良い奴で、人情味溢れ、正義感が強く、仲間愛も強いといった感じに演じられていて、とても共感できる清吉像だった。
 一期目、違う役者が演じた二期目の清吉像も悪くは無かったが、ロングラン公演で、期を重ねる毎、龍、剣それぞれのチームの特性や個性もあるだろうが、よりグレードアップして、より良いものになって、作品全体の完成度も高いものになっていっているのに、感慨深く感じた。
 三期目お菊役の湯田陽花さんは、良い意味で、見た目は花魁お菊役が似合う雰囲気だが、どこか演じていると、幼い空気感が醸し出されて、山田拓未さん演じる清吉との喧嘩の場面や段々と打ち解けていく場面で、どことなく、父と思春期の娘の素直になれず、時にぶつかったりする、そういった関係性が見られて、また新たなこういうお菊像も新鮮で良いと感じた。
 三期目龍チームの吉原遊廓花魁七越役の松尾彩加さんが途中で複数回煙管を燻らせる場面は、一期目、二期目ではそんなに強調されていなかったりしたので、アドリブだと思うが、あまりにもさり気なく、また艶やかな着物も似合う、煙管を燻らせる、流し目を使うといった所作をするだけで、ここまで色気が滲み出る役者もなかなかいないと感じ、良い意味で衝撃を受けた。
 三期目龍チーム九次役の三宅礼央は、一期目の与力の九次役のように多少の妥協もせず職務遂行の為なら、犠牲も厭わず、冷徹で冷酷無比な感じでもなければ、二期目二期目の九次役のように生真面目で、仕事のためなら妥協はしないが、どこか優しさが滲み出ていた感じとも違って、真面目だが、冷徹過ぎず、優しい訳でもなく、ただ淡々と仕事をこなす中間管理職的な、良い意味で普通な感じだった。
 但し、一期目に匹敵するレベルに、九次役の三宅礼央さんがイケメンだった。
 三期目龍チーム与力の徳三役の熊坂貢児さんは、一期目のように大人で徳があるが、酒を少し飲まされただけで大げさにぐでーんと気を失う感じや、二期目のように悪酔いしてドスケベになり、清吉とは男色を思わせるような大胆な絡みを匂わせるような生々しい場面もあったりするのと違って、普通だった。常識人で、少し怖がりで、酔うと白目を剝いて倒れてしまうが、酒が回って倒れるときにしては大げさな感じとかになり過ぎず、徹底した良い意味で普通で、終始徳三の行動がリアリズムに即して演じられていて、その辺にいるおじさんな感じで、これはこれで共感しやすいと感じた。
 三期目龍チーム念念役の大須賀彩子さんは、一期目のようにアイドルじみているがドSというギャップ萌な感じでもなければ、二期目のように大人で、徳が高く、真面目で落ち着いていて、どこか可愛らしさがある中年な感じでもなく、清吉たちと一緒になってふざけたりする、ワチャワチャしていて、面白みがあって、ユニークでコミカルな感じで、今までの尼さんのイメージを大きく覆してきて、なかなか面白かった。
 三期目龍チーム同心章衛門の妻美奈子役の岩本貴子さんは一期目の若い役者や二期目の5、60代くらいのオバちゃんよりももっと年齢が言って、最低でも70代後半ぐらいはいってるんじゃないかと思われ、その岩本さんと章衛門役の西秋元喜さんによる老年夫婦の掛け合い、そして下ネタも多少混ぜてくるところが、痛くもあり、しかし大いに馬鹿馬鹿しく笑え、楽しめた。
 ただ個人的には、章衛門役の西秋元喜さんが、声がガラガラ過ぎて、体調大丈夫かなと心配になった。
 しかし、そこはプロの役者だけあって、最後まで演じ切っていて、別の意味で感動してしまった。
 三期目龍チーム遣り手役の藤田優香さんは、普段は声優としても活動しているだけあってから、声に張りがあって良く通り、客席の後ろの方にまではっきりと聞き取れて、流石だと感じた。
 また、一期目のように美人だが怖い見た目と恐怖で支配し、威圧的で近寄り難く見えて、意外と影で何気にお菊たちを気遣っているように見える感じ、二期目の中年で意地悪く、遊女たちの弱みを握って搾取し、守銭奴な感じと違って、声こそ迫力があったが、優しさがある訳でなく、かと言って遊女たちの弱みを握って搾取し、守銭奴で嫌な感じでもなく、普通な感じだったので、こういった遣り手は寧ろ妙なリアリティもあって良いと感じた。

 三期目龍チーム宿屋の女将/女中役を演じた川手ふきのさんは、今回の公演を持って六道追分に出なくなると知って、感慨深くなった。
 またこの役を違う人が演じるとどういった化学反応が生まれるのかにも、純粋に興味を抱いた。

 今回三期目龍チームの千秋楽公演というのもあってから、最初のカーテンコール、観客の拍手に答えて2、3回に渡るカーテンコールと、三期目全体の千秋楽でもないのに合わせて3回のカーテンコールとなり、会場の熱気が凄かった。
 通常では考えられない、連続カーテンコールということもあってか、役者やダンサー1人1人から、感想を話していくという異例の展開となり、その場に居合わせることができた私は、とても貴重な体験が出来たと感じた。
 但し、徳三を演じた熊坂さんの不適切発言には、役を演じていたときの印象とだいぶ違っていて、役者の素の姿が垣間見られて、発言には呆れ返って、笑えたが、もっと他の役者の素の姿も気になった。
 珍念/亡八役の西海健二郎さんが、今まで一おバカで、ヌボーとした感じで、それでいて目立ちたがり、出しゃばり、亡八では、普通な感じで、あんまり極端な感じになってなくて、役者って、やっぱり役者それぞれの個性やアクが演じる役に滲み出ると言うが、本当にその通りだと感じいってしまった。

トランス

トランス

表現ユニットえんぶる

前橋市芸術文化れんが蔵(群馬県)

2025/05/17 (土) ~ 2025/05/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/05/17 (土) 18:00

 フリーライターで解離性同一症に悩む立原雅人、その立原を患者として相手する精神科医の紅谷礼子、ゲイバーに勤め、ひょんなことから立原に付き添い、時に励ます後藤参三、この3人の再開を基軸に、解離性同一症の立原を通常生活が遅れる程度に復帰させる話かと途中まではそういうふうな感じで話が進む。
 しかし途中から、果たして立原が解離性同一症だったのか、患者は実は自身を精神科医と思っているだけの紅谷やゲイバーに勤めて、甲斐甲斐しく立原に付き添い、時に励ましていると思っている後藤なのかもしれないという疑惑が劇の終盤にかけて強くなってくる。
 そもそも3人の職業も、それぞれ本当にその職業で合っていたのかどうかさえ、あやふやになってくる。
 劇の終盤、3人それぞれのアイデンティティーが崩れ去り、確固たる自分が無くなり、妄想と真実の境界の線引きが非常に曖昧になっていくといった終わり方が、非常に現代でも通用する内容だと感じた。
 現代社会では、生き辛さや孤独を抱え、没個性化し、他人が見えづらくなって久しいこの頃、更に不穏で世知辛い世の中だからこそ、この劇は、今の人たちの精神を体現していると感じた。
 他人事でなく、今の私たち一人一人が解離性同一症か、そこまではっきりした精神病でないまでも、多かれ少なかれ、今回の劇に出てくる登場人物たちのように悩みを一人で抱え込む人が多いのではないかと感じた。

 今回の作品『トランス』は、現代演劇を代表する寺山修司や唐十郎と鈴木忠志、佐藤信、別役実や清水邦夫、岸田理生やつかこうへいといった人たちよりかは後の鴻上尚史の作品だが、良い意味で全然古びず、古典化せず、取っつきづらくなく、元の脚本を読んでなくても、大いに笑い、十分楽しむことができた。
 また、今の時代でも、時代とか関係なく刺さる話だと感じた。
 勿論、演出家の上田裕之さんの演出力、役者の演技力あってこその作品だとは思うが。
 役者の演技力や白熱した感じと静かに淡々と独白を語りだす場面との自然な使い分け、さり気なく笑える場面を導入するなど、演技力において熟練しており、目を見張るものがあった。
 
 閉鎖された精神病院の中や精神病院の屋上、アパートの中などの狭くてじめっとして、居心地の悪さや不気味さ、不穏さをも感じさせるのに、前橋市にある芸術文化れんが蔵はという空間は、劇の世界観に観客を引き込むことにおいて、普通の小劇場より適しており、空間を上手く使いこなしていると感じ、感心させられてしまった。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第二期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第二期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/04/30 (水) ~ 2025/05/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/05/09 (金) 19:00

 片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」第33回ロングラン本公演『六道追分』第二期龍チームを観た。
 前回『六道追分』を観ての、今回が2回目だったが、二期目も劇の物語の内容は全く変わっていなくて、出演している役者が大幅に入れ替わり、私が観た龍チームに至っては座長の山田拓未が珍しく出演していないということで、劇としてのまとまりなど、若手が主演で大丈夫かという一抹の不安も正直あったが、実際本編が始まってみると、勿論龍チームにとっては、明日が千秋楽公演で、5月9日(金)19:00の回が千秋楽前最後の公演ということもあるのかも知れないが、役者一同気合が入り、大きなミスや台詞を間違えたり、台詞が飛んだり、声を枯らしたりすることもほとんどなく、軽妙なアドリブで腹がよじれる程大笑いさせたりする余裕も垣間見せていて、劇全体としても一期目の役者たちに引けを取らず、完成度が高かった。主演が瀬戸啓太さんと石井陽菜さんになっても、全然良い意味で違和感を感じなかった。

 鬼アザミ一味の頭領清吉役の瀬戸啓太さんは濃くて今どき感のない俳優の高良健吾さんに少し似たイケメンで、それを活かした演出なのかどうかは分からないが、野性味溢れる粗野とか、粗暴というか短期というかで、彫物がしてある腕を着物を開けてバッと見せる演出など、鬼アザミの清吉の性格や言動が役者が変わっただけで、こうも変わるのかと感心させられてしまった。
 また瀬戸啓太さんのパッと見た感じの印象と、瀬戸さんが演じる鬼アザミの清吉の言動がフィットしていて、当て書きならぬ、その役者のイメージにフィットした性格に清吉を寄せてきていて、本当に演劇って生ものだなぁと実感させられた。

 お菊役の石井陽菜さんも、一期目のお菊役のしっかりしているが時々緩い感じとはまた違って、良い意味で意思が強い上に、気が強く、隙が無く、喧嘩する場面が笑いにならずに、迫力があって、ドスの効いた緊迫感が出るような威圧感が出ていて、演じる役者によって、役は同じだとしても、こうも役のイメージがガラッと変わるのかと驚いた。
 個人的には、こういうお菊像も全然ありだと思った。
 この後も、3期、4期というふうに続いてゆくのだろうが、大枠の作品の内容はそのままに、演じる役者によって演る役のイメージがころころとどういうふうに変わるのか、その役者の個性も反映された感じになるのか、これからもそういった小さな変化が興味があり、今から期待しかない。

 また与力の九次役の多田有我さんは、役柄的にはかなり冷酷無比で、職務遂行のためならば自分が嫌われ役になるのさえ厭わず、手段を選ばないような役のはずなのに、多田さんの見た目とフィットするかのように、所々優しさが滲み出て、冷徹に振る舞おうとするが、どこかお間抜けな感じが滲み出たりと、人間味のある感じに演じられていて、本来あまり共感できない役のはずなのに、憎み切れず、愛すべきキャラだと感じ、自然と引き込まれた。

 与力の徳蔵役の西川智宏さんはどこかX経営者のイーロン·マスクに似て、イケオジでもなんでもないただのおじさん俳優だが、男性同士の恋愛を茶化したような場面だったり、よって下ネタに走る場面が印象的で、ドキドキ感があって、大いに笑えて、楽しめた。

 尼さん?の念念役の阿達由香さんは、一期目の時の同役の役者の意外とドSでコミカルで、どこか派手でアイドル的な感じと違って、地味で中年のリアルにいそうな尼さんな感じに演じられていて、阿達さん自身の独特な地味だが達観した雰囲気と相まって、その辺に普通にいそうな尼さんの感じが出ていて良かった。
 石津雄貴さん演じる念念の弟子の珍念は、一期目の同役の役者と違って、よりふざけて、さり気なくアドリブもかましていて、今回の念念役の阿達さんが地味で中年、真面目で達観した感じなのと対象的な感じで笑いを取っていて、その全然違う組合せで、バランスが良いと感じた。

 宿で花札に興じたり、鬼アザミ一味と疑われた男女が一瞬出てくる場面で、東海Wallkerを広げたりと一期目にも増して、二期目は小ネタやアドリブが数多く散見されて、一期目との違いも楽しめて良かった。

ワトソンとスィートホームズ/皆目見当がつかない

ワトソンとスィートホームズ/皆目見当がつかない

かーんず企画

シアター711(東京都)

2025/05/02 (金) ~ 2025/05/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/05/06 (火) 16:00

 かーんず企画第13回GW特別公演【ワトソンとスィートホームズ】と【皆目見当がつかない】の2作品を交互に上演している中で、前者の作品の千秋楽公演を観劇した。
 CoRichのあらすじを読んだ感じだと、公園の片隅でゆるく暮らすホームレスの人々の生活を描く……だったはずが、新しい公園で暮らしたい人の登場で、やがて人間が向かうべき方向が露わになっていくという、タイトル除いたら、探偵小説『シャーロック・ホームズ』に出てくるワトソンもホームズも出てこないように一見えるが、『シャーロック・ホームズ』の亜流の話で、更に色々な要素を混ぜつつも、ワトソンとホームズが群像劇的な中で、さり気なく出てくるような劇かと思って、期待して観に行った。良い意味で裏切られた。
 そもそもワトソンらしき人やホームズらしき人すら出て来ない。強いて言えば、シャーロック・ホームズ帽をホームレスの中の中心的な人物が途中で被って出てくるぐらいで、別にそれが劇の伏線回収になる訳でもなく、劇自体ミステリーの要素はからっきし無かった。但し、最後まで予想出来ない展開で、絶対的と思われた価値観や存在意義が変わってしまう不条理喜劇で、大いに笑えて、面白かった。

 実際のホームレスになる人の大半は、ホームレスという何者にも縛られなくて、自由で、社会規範とも比較的無縁な路上生活に憧れてとか、人類の原点に帰ってというような考え方、在り方でと言うよりも、生活苦からそうなっていることが多く、好きでホームレスやっている人の割合は、特にこの日本においては顕著だと思う。
 なので、劇中でホームレスの人たちが、不穏な現代社会で息苦しく、心も狭く、現状に満足せず、仕事も好きになれず、一人で塞ぎ込み、孤立感が高まり、想像力も思いやりもない人たちと対比して、どこか現代社会の病理の対極にある理想的な社会という風に描いているのは、普段街中でよく路上生活者を見かけて、身近なだけに、都合よく描き過ぎていないかという違和感は、少なからず感じた。
 但し、その違和感以上に、途中で約1名除いたホームレスの人たちはホームレスになりきり、演じ切っていた、ということが劇の後半になって分かってくる。でも、例え最初の間口が不順な動機でも、途中からは本当のホームレスの生活が気に入り、いつの間にかコミュニティーに溶け込み、本当のホームレスのようになっていく人々の心の変遷、成長が丁寧に描かれていて良かった。

 劇の終わりの方でただの普通のコーヒーを飲んでいただけな筈なのに、変な動きを始めたから、最初はゾンビになる展開かと思ったら違った。何と、予想外にも、新しく入った新入りを歓迎するホームレスたちによる路上飲み会で盛り上がってきたタイミングで、次々に類人猿になっていくという不条理で、不気味で、どこか不安だが、ユニークで突飛な終わり方になっていく。
 そのホームレスたちや支援者弥生の心が綺麗に見えるが、実はホームレスが出してくれたコーヒーを飲むと見せかけて、こっそり隠して置いたり、自分がせっかく作ってきた手料理よりも、ホームレスの人たちが自分たちでゴミ箱漁って持ってきた食べ物で盛り上がっているのを見て、機嫌を損ねたりとどこか偽善者じみた令嬢までもが次々に類人猿になっていく様子に、その動き方の可笑しさに、今までと打って変わった不条理さに、馬鹿馬鹿し過ぎて大いに笑えたが、その後、類人猿への急な様変わりがある意味現代社会の人々の孤独や闇を炙り出している気がして、急にスーと背筋が凍り付くほどの恐怖を覚えた。

アルカの板

アルカの板

9-States

駅前劇場(東京都)

2025/04/25 (金) ~ 2025/04/29 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/04/27 (日) 19:00

 今回観た劇『アルカの板』のあらすじをCoRichで読んだ段階だと、旧約聖書の創世記の中に出てくる、ノアの箱舟のエピソードと、古代ギリシアの哲学者カルネアデスが出したとされる倫理学上の思考実験であるカルネアデスの板、面白いことにこの2つの話とも、人類が窮地に追い込まれ、究極の選択をしなければならないという意味では同じで、さらに2つの話とも舟が重要な要素となっている共通点があるが、この2つの話と現実的な日本の漁協組合とそれに属している九海丸の船員たちと経営者の井上柚、経営者の母井上花楓が過労で倒れたことを気に地元に戻り、九海丸の経営改革をしようとする経営者の妹の井上杏子の話が混ざって、観念的で哲学的、かなりファンタジックな作品なのかと、あらすじの抽象的、詩的表現が多々散見される事からも感じた。また、CoRichに載っていたチラシの雰囲気を見ても、非常に抽象的で幻想的で謎めいた雰囲気だった事からも確信していた。

 しかし、実際にこの『アルカの板』を観て見ると、良い意味で裏切られた。
 まぁ、確かに海難事故で漁に出たきり帰らぬ人となった九海丸経営者家族の井上家の父親の声が急に聞こえてきたりする多少の不思議はあるし、観念的で哲学的、詩的な言葉が舞台向かって右端、左端に備え付けられたモニター画面に移されたり、登場人物たちの独白も普通の劇より多い気がしなくはない。
 しかし全体としては、非常に現実的で、今の日本の漁協組合と組合から舟を貸してもらって漁をする漁師たちの切実で切羽詰まった問題と組合と漁師の絶妙に対等とは言い難い関係性、権威主義的で保守的な組合長と、それによって余計に前に進めなくなって、このままいくともろとも潰れかねない壊滅的な状況の弱小の漁師たちを束ねる九海丸経営者の井上柚とその母親で過労で倒れた井上花楓、その妹で東京から戻ってきた井上杏子を中心とした家族の絆と家族のような漁師たちとの関係性、組合長の娘の尾田レオナと杏子とのレズだけど、素直になれない関係性などが時にシリアスに、時にバカバカしく、時々笑いも交えながら描いていて、人間関係や家族のこと、今の漁業の悲惨な現状を何とか改善しようと組合長と対立しながらも変えようともがき、奮闘する話だが、その中で漁師たちを救おうと、井上杏子が提案する『ノアの箱舟計画』といったところでモチーフとして旧約聖書のノアの箱舟のエピソードを元にしつつも、漁師の救済計画といった別の形で導入されてきていて、幻想強めでは全然なかったが、非常に面白く、また感動する内容だった。
 また、この劇で井上杏子の『ノアの箱舟計画』に強力な助っ人になってくれる漁協組合副組合長の荒木康一が村を出ることが条件で、この計画が成功するという在り方は、まさにカルネアデスの板の意味と一致しており、哲学原理をこういった現実問題でさり気なく描く演出家の手腕が凄いと感じた。
 
 この劇をきっかけに、今まで以上にもっと日本の漁業の現状を正しく理解し、どうやったら物価も上がる中、漁師や農家等が将来に渡って生き残っていけるのか真剣に考えてみたいと感じた。

六道追分(ろくどうおいわけ)~第一期~

六道追分(ろくどうおいわけ)~第一期~

片肌☆倶利伽羅紋紋一座「ざ☆くりもん」

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2025/04/05 (土) ~ 2025/04/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/04/08 (火) 19:00

 片肌☆倶利伽羅紋紋一座の劇、第33回公演『六道追分』剣チームのバージョンで観た。
 片肌☆倶利伽羅紋紋一座、通称「ざ☆くりもん」というらしいが(以後くりもんと略す)、そのくりもん一座が今回は、今までありそうでなかった試み、今年の4~8月に掛けてのロングラン公演、更には、出る役者も1期、2期、3期、4期でそれぞれ違う上、2期目からは、座長(山田拓未さん)が主演しないチームで公演されることもあるということで、画期的で、斬新で、それぞれ劇の内容は一緒なものの、その期ごとに、また同じ月内でも、大きく2つのチームに分かれて役者が出ることで、アドリブや、役者の個性が違うので、公演ごと、期が変わる度に、違った印象を感じ取れるんじゃないかと感じ、その試みが面白かった。

 前回初めて観た、くりもん一座のBIG TREE THEATER(池袋グリーンシアター1大きな小劇場)での公演『冥土遊山』の際は、ファンタジーコメディ江戸時代劇ではあったものの、いまいち笑える場面も多々あったはずだが、劇場が大きかったせいもあるかも知れないが、役者との距離が遠く感じて、どこか客席と舞台の間に大きな見えない幕が下ろされて、仕切られているかの如くの距離感を感じた。
 なのでこの作品を観た時に、途中休憩が挟まったのもあって、劇の作品世界にいつの間にか引き込まれるといったようなことがなく、観ている途中度中で現実に引き戻され、大いに笑えなかった記憶がある。
 まぁ、内容が意外と悲惨で救いようが無く、シリアスな部分も結構目立っていたことも大きいかも知れないが。

 但し、今回の劇の『六道追分』では、ファンタジーでない上に、前回以上にかなり笑いに特化して、シリアス部分が無いわけではないし、どうしても、江戸の吉原遊廓を描く上で、悲惨な部分を描かず通る訳にもいかないので、そういった部分をちゃんと描きつつも、全体としては、吉原の大金盗んで逃げる鬼アザミ清吉を頭領にした盗賊たちと、流れ的に行動を共にして逃避行する羽目になる生まれも育ちも吉原遊廓花魁のお菊との凸凹コンビを中心にした、ドタバタ、時々人情なロードムービー喜劇で、旅の途中で出会う個性的でアクの強い人たちと出会いながら、さらに旅につきもののアクシデント(ゲリラ豪雨で川の水がこのままだと浸水)に見舞われたりといった、何が起こるか分からない珍道中ぶりに、腹が裂けんばかりに、普段のストレスや嫌な事が全て吹っ飛ぶほど、大笑い出来て良かった。
 それに恐らく、劇場が池袋グリーンシアター1小さいBASE THEATERでの劇ということもあって、くりもん一座の江戸情緒溢れる、馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、ドタバタ人情喜劇、笑って、最後は泣ける時代劇というコンセプトにピッタリハマると感じた。
 それに、こういう小さな劇場だからこそ、殺陣やダンスが臨場感に溢れ、音楽も含めてすぐそばに迫ってくるような錯覚に陥り、舞台と客席が非常に近いので、距離が感じられず、役者の演技を間近に観ることができるので、ちょっとした楽屋ネタやオーバーリアクションに大いに笑うことができ、劇に没入して、我を忘れることができるんじゃないかと考えた。
 大きな劇場では、大きな劇場ならではの良さや効果があるが、それ以上にこういった極小劇場ならではの良さを改めて実感した。
 それに、くりもん一座の場合、個人的には、役者やくりもん一座の世界観を狭い空間に最大限活かしきれていると感じた。
 但し、今後は大きな劇場で演る際にも、くりもん一座の江戸情緒溢れる、馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、ドタバタ人情喜劇、笑って、最後は泣ける時代劇というコンセプトを活かしきり、大いにに笑わせられるような空間造りができるようになるよう期待している。

 今回、剣チームでの念念(坊さん)役の吉田真綸さんと珍念役の馬場真佑さんとのコミカルで、坊さんたちな筈なのに、非常に現世的な感覚でのコミカルな掛け合いが面白かった。
 あと、念念役が鬼アザミ一味たちと花魁お菊に六道輪廻について詳しく、分かりやすく解説していたのが、大変勉強になった。例えば、仏教における天国や地獄、畜生道などは、実は人間誰しもの心に、大なり小なり潜んでいて、嫉妬や怒り、喜びなどといった形を取って現れる。つまり、皆が考えているような天国や地獄、畜生道といったものが極端で遠い世界、または空想の産物といったことでなく、もっと身近で、人間の感情や観念といったものと切っても切り離せない考え方だと知って、考えさせられた。
 剣チームでの遣り手役の太田有美佳さんが、遣り手役にしてはだいぶ若い人が演っていると感じて、驚いた。太田有美佳さん演じる遣り手は、見た目の怖くて、強気で、妖艶で、したたかな雰囲気で、声もドスの効いた低い声とは裏腹に、花魁や禿に対して、怖く、辛く当たってるようでいて、その実、意外と優しい一面が所々垣間見られて、悪役、憎まれ役と言い切れない、独特な味があって、憎み切れない人物造形になっていて、中々役から、役者の性格が滲み出てくるようで、印象に残った。

ぬいぐるみおじさんと夢みる鏡

ぬいぐるみおじさんと夢みる鏡

レティクル座

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2025/04/18 (金) ~ 2025/04/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/04/19 (土) 18:00

 神奈川県横浜公演を観た。横浜公演でのみ『パセリ農家の悲願2025』、『ぬいぐるみおじさんと夢見る鏡』という短編中編2本連続休憩なし上演ということで、最初の短編劇はあまりにくだらなくアホらしく、馬鹿馬鹿しくて大いに笑える作品で、2つ目の中編劇は30過ぎのおじさんに50代後半ぐらいのおじさん俳優演じるおじさんが魔法を掛け、ぬいぐるみのクマにされてしまった30代のおじさんが鏡越しに過去が見えたり、未来が見えたりするが、さらにテレポート能力も手に入るが、結局自分より大分若い女性、それも出会い喫茶なるところでマジックミラー越しに見初めた女性と付き合おうと四苦八苦するが、まぁ、案の定徹底的に上手く行かないどころか、切ないというよりも、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎて呆れ変える終わり方に納得しながらも、30代のおじさんが露骨過ぎて性もなさすぎる上に見た目もパットしないどころか終わってるおじさんと、見た目はそんなに良くはなく、小ズルそうな顔立ちをしているが、意外と汚れなく純粋なところがかえって痛い以外の何者でもない50代のおじさんとの凸凹コンビがくだらなさ過ぎて腹を抱えて大いに笑え、普段のストレスが全て吹き飛んだ。
 
 『パセリ農家の悲願』では食卓に並ぶパセリが主食と一緒に食べられないどころか、パセリだけ残されるといった現実を、パセリにも兄妹がいてといった擬人化して人格まで持たせて、考えさせる劇だが、このそもそもどうでも良いパセリはなぜ食べられないのかを延々と考えさせる馬鹿馬鹿しくて、今どきここまで内容があってないようなドタバタ喜劇で昔の軽演劇のような洒脱さもあって、なかなか面白かった。
 今、全然笑えないどころか、塞ぎ込みたくなるような未来が見えず、暗いニュースばかりが目に入り、陰惨な事件がそんなに遠くない街で起きるような時代だからこそ、ただただ笑い転げられる、大したメッセージがないが面白い劇があっても良いんじゃないかと感じた。

 『ぬいぐるみおじさんと夢見る鏡』は端的に行ってしまえば年の離れたおじさんが出会い喫茶で会った若い女性に恋をするという、まぁパパ活の関係の話だが、そもそもパパ活のおじさんと若い女性の関係において、お互いの利害関係以上に純粋な意味での恋愛など、おじさんの勝手な迷惑極まりない幻想だと思うが、TPOを気にする今どきここまで不適切にも程がある劇も中々なく、大変面白かった。
 勿論、現実問題として考えると、大抵パパ活というとおじさんと若い女性というよりも、おじさんと金欲しさの女子中学生、女子高生、女子大生といったことが多く、特に、女子中学生、女子高生とおじさんとの関係性が多く、即逮捕の案件も多いので、あってはいけないことだと思うし、そもそも女性が下に見られる構図の最たるものだとも感じる。
 だが、劇だったら、いくら勝手なおじさんの幻想の押し付けやご都合主義も良いところな内容であっても、おじさんに多少の夢を与える劇だとしてもありかなと感じた。
 『おじ〜』と言ってくる不思議な魅力があり、相手がおじさんでも、同じ人間として対等に扱ってくれる出会い喫茶で働く女性が出てきたり、ゆるキャラのお姉さんさんの弟が実はホストだったりと、こんなご都合主義や、偶然が重なったりするものかと驚き呆れつつ、ジェットコースターの如く、起承転結が激しく、目まぐるしく展開する劇、そして最後はやはり成るほどと結ばれない、キレイさっぱり断られる終わり方に清々しさすら感じた。
 実際では、こんなに都合よく話は進んでいかないだろうし、おじさんが警戒されないどころか理解して、優しく接しようとしてくる女性なんていないだろうし、おじさんの童貞も奪ってあげようなんて言うのもまともな女性でいる訳はないと思うが、ここまで絵に描いた餅の如く徹底して、おじさんにとって都合の良い世界観の劇は、あまりに現実離れし過ぎていて、誇張も多いので、あくまでこれはフィクションの世界だと思って観ることが出来、大いに楽しめた。

あゝ大津島 碧き海

あゝ大津島 碧き海

若林哲行プロデュース

座・高円寺2(東京都)

2025/04/02 (水) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/04/03 (木) 19:00

 私は、天チームの回を観た。彼らは、将来の夢や希望に満ち溢れていた。
彼女らは、合唱に打ち込み日々に生きがいを感じていた。
 昭和19年、第二次世界大戦末期。それまで仲間同士でお寺に屯し、草野球したりして楽しみ、青春を謳歌し、食糧が日増しに貴重になっていく中でよく食べ、よく喧嘩し、大いに笑いあって、寺に時々遊びに来る合唱部の少女たちと交流したりして仲良く過ごしていた。
 しかし日増しに戦況が悪化して、あちらこちらで空襲の被害が大きくなるなか、少年たちは、一人また一人と、次々に意を決して、一人だけ陸軍航空部隊、他の草野球仲間は海軍に入隊した。暫くすると、彼らに特攻要員募集要綱が届けられた。
 この特別作戦こそが「回天特別攻撃隊」ーいわゆる人間魚雷であるといった感じで、ただ純粋に野球が好きだった少年たち、歌うことが好きな合唱部の少女たちの内の一人は学徒動員で軍需工場勤務に行かされたりと、否が応でも平和な日常が壊され、戦争に参加させられていくという不合理さ、非情さが身に沁みて、感じられた。

 特別攻撃隊と言うと、どうしても空の零戦で敵機に突っ込むイメージが強かったが、しかし実際は空だけでなく海の中で敵艦に突っ込む人間魚雷も海の特攻と言えると感じ、空だけでなく、海からも沢山の将来有望な少年たちが散っていったと思うと、何とも言えない気持ちにさせられた。

 今回の劇では、回天特別攻撃隊に参加した少年たちが儚く、美しく散っていくというふうな描き方をせず、少年たちそれぞれが、恋人や家族、仲間との会話を通して、「死にたくない、生きたい」という切なる当たり前の願いと、「お国のため、天皇陛下(昭和天皇)のため、いやそれより何よりも恋人や大切な家族を守るために、日本がここで負けるわけには行かない」と言ったようなこととが常に錯綜し、思い悩み、でもなんだかんだ言っていざ特攻のために人間魚雷に登場して、発信させる直前になると、怖さや不安、生きることの渇望のほうが買ってしまうがそれでも、進まなければいけないという「生きる」という人間の生存本能を犠牲にしなければいけなかった時代を、社会を丁寧に描き切っていて、現実味があり、その少年たちが決して完璧にできていた訳ではなく、その少年たちにも青春があったことを考えさせられ、普通の少年たちだったんだと感じた。そう思うと余計に切なくて、涙が出てきた。そして、このようなことは永久にあってはならないことだし、風化させず、人が生きている限り、皆で共有し、忘れないで記憶に止め続けることが大事だと、心に深く刻み込んだ。
 そして大事なことは、特攻という行為を美化しない。また、特攻に行く青年との儚い恋愛物語にしない。そして特攻を特別視し、完璧、死をも恐れぬと言ったふうに都合良く描かない。彼らだって、絶対に最後の最後まで一人の人間として思い悩み、死への恐怖に勝てない、超人でも何でもない、今を生きる私たちと同じ人間なんだってことを念頭に置かなければ、特攻で死んでいった人たちが浮かばれないと強く感じた。
 だから、戦争が起こってはいけないし、平和や人権意識を強く胸に抱いて生きて行かないと感じた。第二次世界大戦の中の太平洋戦争下では、相互監視をし、少年までもが特攻という形で青春や将来を壊され、戦争に巻き込まれて死んでいく、こんなこと二度と繰り返してはならないし、絶対にあってはならないと感じた。
 しかし、アフリカ諸国を見れば、しょっちゅう日常茶飯事に紛争が起こり、児童労働や児童婚が起こり、アジアでも似たようなことが起こり、中東やウクライナでは戦争が続き、ヨーロッパでは保護主義やポピュリズムが台頭し、テロがそこかしこで起こり、疫病が蔓延したりと、とても平和とは程遠い状況になっている。
 そして更には、核禁止条約に批准しないどころか、増やそうとしている国だって複数出てきている。この壊滅的な状況だからこそ、私たち一人一人が第二次世界大戦の記憶、太平洋戦争の記憶、特攻隊が少年たちで編成され、本当は生きたいけれども死んで行ったこと。沖縄戦の悲惨な状況、日本が第二次大戦中に東アジアや東南アジアなどにした加害の歴史、そういったことを常に記憶として止め、関心を持ち、加害の歴史に関しては常に反省し、今生きる自分たちのやったことではないけれども、無関心にならず、真摯に向き合っていく。その上で平和を願い続けること、これが今のような不穏で先行きが読めない時代だからこそ、日本だって本当の平和とは言い難い状況になりつつあるからこそ、大事だと切に感じた。

 また劇の中で、回天が一人分故障し、損傷が激しく、直せないレベルだったことから、一人だけ生き残ってしまったことを戦争が終わってだいぶ経って、お爺さんになっても悔やみ続け、自分を仲間を裏切ったんじゃないかと責め続け、その一方で、回天が故障して自分だけ敵に突っ込めないことが分かり、内心「これで生きられる」と思ってしまった自分がいたりする。     そういったことを女性記者に最初は気難しくて、話したがらないが、記者と交流するうちに段々と打ち解けて、心を開き、話し始める。
 最後のほうでは、自分が回天特別攻撃隊で死んでいった仲間のことを戦後何十年もの間思い続け、自分が後に続けなかったことを悔やみ、少しの間でも自分が生きれることに心底安心したことに対して、自責の念に駆られていたこと、そういったかつての仲間や特攻の記憶を覚え続けてきたこと、仲間たちへの供養になるんじゃないかと言うようなことを女性記者に言われ、やっと心の重荷が軽くなるといったふうに描かれていた。
 これほど、ただ生きたいということですら、戦争時、簡単に言うのが憚られ、普通に生きることができなかったかを考えると、私たちが今を普通に生きれることのなんと尊い事かと改めて考えさせられた。
 
 また、出てくる役者が美男美女ばかりという訳ではなく、むしろそうじゃない役者が大半だったのは、その当時普通に生活する人々が巻き込まれていったことを考えると、良い意味で現実感があって、劇的な悲劇などでなく、日常の延長線上で徐々にただ普通に生きたかっただけの人たちが巻き込まれ、悲惨な最後を遂げたり、家族と離れ離れになったりしていく感じがリアルに見えてきて、その当時の状況が浮き彫りになって見えて良かった。

 但し、特攻に行く人が、恋人とと通りで別れを惜しんで、いつまでも泣き合ったり、特攻に行く兄が妹や父母と長いお別れをして、悲しんだり、主婦同士で路上で戦争への愚痴を言ったりと言ったことは、現実的には出来なかっただろうと推察する。その当時、隣組が編成させられ、壁に耳あり、障子に目ありの状況で、更には官憲も跋扈していた状況で、そんなことは思っても、口には出せず、泣くことすらできない状況だったのではと感じた。そこら辺の時代状況、社会状況に対する細かい設定は、曖昧だなと感じつつ、特攻隊員たち一人ひとりに人生があって、夢があって、思い悩みながらもただ「生きたい」と切に願っていた。彼らも私たちと同じ人間なんだと思わせてくれる描き方には共感した。

地球は僕らの手の中

地球は僕らの手の中

劇団十夢

キーノートシアター(東京都)

2025/04/06 (日) ~ 2025/04/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/04/06 (日) 13:00

 支店長になったその日に銀行強盗に入られた、不幸満載男の「ダーリン」。
そして人の不幸が何よりも大好きな妻「じゅんちゃん」。
責任を取って夫婦心中しようとするが、話は思わぬ方向へ進む。
一方、銀行強盗をした「アニキ」と「サブ」は必死に逃亡。
犯罪を犯すにはそれだけの理由があったのだ。(それだけの理由は、サブが謎の女達に噴霧状の睡眠薬を振りかけられ、意識を失っている間に組の軍資金が謎の女たちの怪盗団に組織的、計画的に盗まれたので、組のお金の分を銀行強盗で得た金で取り戻そうとなる)
更に一方、ヤクザの事務所から大金を盗んだ「るい」「ひとみ」「あい」。
3姉妹は成功の余韻に浸っていた。
更に成功の余韻に浸って盗んだ金を3姉妹3人で分配しているところに、警官隊から逃げてきたヤクザ2人が、暫くの隠れ場所として、3姉妹を脅して居座る。だが、ヤクザの「アニキ」も「サブ」もお互いにこの3姉妹の内の2人と面識があり、お互いに言えない隠し事をしており、劇の途中で明らかになる。
 さらに劇の終盤「サブ」を裏切った「アニキ」、3姉妹を裏切った長姉が車で逃げるのを、2人の姉妹とサブが車で全速力で追いかけ、3姉妹の内の末っ子の持つ車で逃げてくアニキと長姉をアニキの車に次姉が崖付近で思いっきりぶつける。そしてぶつけられたアニキの車に急に飛び出してきたのが銀行支店長の妻じゅんちゃんと言ったふうに3組が一堂に返し、3つの話が一つの物語に繋がっていく様が余りに見事で、華麗で、テンポが良すぎて、トントン拍子に話が調子良く進み、回収されて行っていて、現実はこうは上手くは行かないだろうと思いながらも、笑える場面も多かったので、大いに笑えて、その調子良く、小気味良い物語展開にスカッとして、日頃のストレスも吹き飛んだ。
 しかも3姉妹が盗んだ金も、アニキとサブが銀行強盗で盗んだ金も、最後はちゃっかり意外な物語の最初に登場した1組の夫婦に全て持っていかれるという、そんなバカな、想定外で予測不能な、不合理だが良く出来た劇展開に息を呑み、観客の予想をも良い意味で打ち壊してくれ、途中のカーチェイスや騙し合いも馬鹿馬鹿しくも笑え、ドキドキハラハラのスリル感もあって良かった。
 そんな群像喜劇が、劇が終わる頃には狐につままれた気分にさせられた。
 笑いと緊迫感と馬鹿らしさ、全然先が読めない展開の均衡が見事過ぎて、感心してしまった。
 
 また、ベタな芝居がかった演技でなく、過度に誇張しない役者たちの素に近い演技が、返って信用して、まさかこう来るかという意表をついた終わり方過ぎて、ただ、ただ、唖然とさせられた。

 銀行強盗の場面やカーチェイスの場面や山間の崖に繋がる道路の場面、3姉妹の家の場面等で、能·狂言のごとくに大道具や背景、小道具を使わず、映像さえ使わないという(一部で大金が入ったバッグ2つや明らかに玩具の拳銃、ナイフが使われるが、それを除いて)在り方に、道具や映像を殆ど使わずとも、人の言葉や演技だけで、ここまで想像力を観客に膨らまさせることが出来ることに大いに感心してしまった。もっとも、表情力豊かで個性的、アクが強くてジェスチャーゲームで優勝できるレベルの身振り手振りで今どんな状況か、何を運転しているのか、どこにいるのかなどがひと目で分かり、よくできる粒揃いの役者ばかりで、物語も理解できるしと感心してしまった。決して美男美女ばかりではないけれども、完成度が高くて、なかなか見応えがあった。
 
 やはり演劇は、見た目の良い役者やアイドル、声優から引っ張ってきて動員稼ぎにやっ気になるよりも、無理に舞台狭しと大きな舞台セットや中道具、小道具、映像を最大限使って、観客の創造力を摘むよりも、背伸びし過ぎず、地道に公演を殆ど何も使わずに表現し、作品の魅力や純粋に役者の演技力だけで評判を呼び、人が自然と埋まる、こういった在り方の劇公演のほうが、至極真っ当だと感じた。
 まぁ、その代わり見た目や人気に頼れないし、舞台セットがほぼないし、場面を説明するものもほとんど無いので、観客の想像力に託された形となるので、説明的にならず、役者がどんな状況、場所かなどを観客が思い浮かべられるよう、さり気なく身振り手振りやちょっとした会話から分かるようにしなければいけないので、大変難易度が高くて、演技力も相当求められるものなので、役者にとって相当普通は磨かないと出来ない物だとは思う。天才を除いては。そう考えると、今回の劇団は笑いを自然に取るのも含めてプロの劇団の中でも高度な今どきなかなかいないプロフェッショナルだと感心した。

狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~

狂人よ、何処へ ~俳諧亭句楽ノ生ト死~

遊戯空間

上野ストアハウス(東京都)

2025/03/19 (水) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/21 (金) 19:00

大正・昭和の歌人であり劇作家であり小説家だった吉井勇(1886-1960 )は、大女優・松井須磨子が唄い大流行させた「ゴンドラの歌」の作詞家としても知られている。「いのち短し恋せよ乙女~」という歌詞で有名なのは知っていた。
 しかし吉井勇が「句楽もの」と呼ばれる作品群があり、「俳諧亭句楽」という落語家と、その仲間たちの騒動を描いたもので、九本の戯曲のほかに「句楽の日記」「句楽の手紙」などの日記体小説もある。それらを通じて描かれているのは芸人たちのもの悲しく、そして微笑ましい生きざまが描かれた句楽ものを連作していた事は知らず、吉井勇の新たな、良い意味で意外な一面を覗けた気がして良かった。
 
 吉井勇作の俳諧亭句楽を主人公にした群像劇の句楽シリーズから九本の戯曲と複数の小説から面白い、不思議な、下らない、物悲しくも笑える話を選んでバランスよく組み合わせて一本の話にまとめられていて、時に笑えて、時に悲哀に満ちながらも、全体としてはあまりに馬鹿馬鹿しいが、それをあまりに真剣になり、何やら魂を作る機会だの、魂の病院だのと句楽は最終的に狂ったかに見えるが、意外と、もしかしたら実現不可能では無いんじゃないかと思わせてくる、妙な説得力があり、圧倒されているうちに終わっていた。
 もはや、今の時代、不穏で先行きが見えない社会の中で、魂の病院だの、魂を作る機会だの魂の墓場だのといった一見馬鹿馬鹿しいまでの話であっても、その話にほっこりさせられ、気持ちも晴れ晴れとするんだったら、それが本当に実現可能かどうかはおいといて、その発想は良いことだと感じた。

 句楽と仲間たちの基本取り留めもなく、しょうもない話が浅草喜劇のドタバタで話の筋があってないようなハチャメチャ喜劇や、エノケン映画の笑い、落語に出てくる人情的だが、涙に訴え過ぎない長屋連中の笑いといったような笑いが組み合わさったような感じで、登場人物たちもとても個性的で、癖が強くて、日々の嫌なことや、ストレスがたちどころに消えて大いに笑えて、解消できて良かった。

あのね、あの時、あの夜の音。

あのね、あの時、あの夜の音。

劇団さかさまのあさ

ひつじ座(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/20 (木) 18:00

 舞台セットや、役者の化粧やカラコンの派手派手しく、今話題で漫画原作のアニメ化、映画化もされた『押しの子』のポップでダークな世界観、Tik TokでバズったアイドルグループやInsta映えなどを狙った感じなどと雰囲気が似ていた。
 しかし劇が始まると、全然そんなことはなかった。
 記憶喪失で自分の名前すら忘れてしまった女性が、不思議な女性と出会い、その女性は自らを"アイ"と名乗り、ここは死後ではなく、死語の世界だという。記憶喪失の主人公の女性からすると、その"アイ"とはこの死語の世界で会うの初めてな気がするのだが、"アイ"の側はどうにも記憶喪失の主人公の女性と前にも会ったことがあるような素振りをみせ、どうにも馴れ馴れしく、距離感をやたら詰めてくる上に、名前が思い出せないならと勝手にナナシと名付け、良い名前と一人満足して、勝手に他の妙に個性的でアクの強い死語たちに紹介してしまう強引さだが、どこか憎めず、謎を抱えているところが鮮明に印象に残った。
 また、大抵亡くなった人や昏睡状態、認知症が酷く進行して呆けている人が主役の話の場合は死後の世界が舞台になり、死神、鬼と閻魔大王、悪魔相手に七転八倒の地獄破りが描かれたり、現世とほぼ何ら変わらない世界が描かれたり、死後において六大王に裁かれながら進んでいくドタバタ、ハチャメチャ道中が描かれたり、主人公が幽霊となって現世でやり残したことを成し遂げようと奮闘する話だったりするものだが、そのどれにも当てはまらず、記憶喪失の主人公の女性が死後ではなく死語の世界で大切なものを思い出そうと悪戦苦闘する話ということで、発想が突飛でなかなか面白かった。
 チョベリグ(チョーベリーグット)、チョベリバ(チョーベリーバッド)というかつてのギャル言葉を擬人化した上でレズカップル?というような設定にしていたり、前田という言葉が絶妙に間が抜けていて、感覚がズレているが、時々的を射たことを言う、また死語の世界における人から忘れ去られると、その言葉を消す役割の鬼も、言葉を消す際衣服を奪う地獄で言うところの奪柄婆のような、非常なようでいて心根は優しさや人情も時々垣間見られるエバ、ギャルの組み合わせ鬼々羅々の言葉を消すのを何処か楽しんでいるようなサイコパス的で、情緒どうなっているんだろうと考えさせられるような鬼も出てきたり、かと思うと主人公のナナシの記憶のカケラが擬人化し、時に主人公を追い詰め、時にナナシが記憶を思い出すのに一役買ったりと闇なのか光となるのか全く言動行動が読めない登場人物を出してみたりと、登場人物たちの細かい設定や、主人公の記憶を封印したのにはそれ相応の理由があった背景、"アイ"も悩みなんてないようでいて実はといったことを一つ一つ丁寧に描いていて、そこそこ登場人物が混在し、登場人物の誰も彼もが主張しあい、その癖主人公は影が薄い割には、非常に分かりやすく、頭に入ってきて、鮮明に物語が眼の前に立ち上がって来るようだった。
 
 ふわふわしたキャラも出てきたが、言葉を消す鬼が出てくる際、照明が暗くなり、音楽も不穏で不気味で思わず背筋が凍るような音だったりして、闇陣営と主人公側の比較的光?陣営とのコントラストがハッキリしていて、分かり易かった。
 それでありながら、"アイ"が鬼たちに囲まれた際も、絶体絶命の危機のような状況で、古い流行語や間違った言葉、悲劇のヒロインぶったりすることで深刻な場面も深刻になりすぎず、時に笑える場面になっていて、非常に劇の中での緩急の使い方が、あまりにも自然で、上手いと感じた。

 主人公のナナシが途中から記憶を少し思い出し、赤いポーチをチョベリグ、前田氏たちと危険を試みず探し回るが、冒険の途中で必ず出てくるナナシの記憶のカケラに頭を悩まされ振り回され、追い詰められるが、それは本当の自分と結果的に向き合うことになり、自分が母親であることを思い出し、遠い昔に娘を、娘と友達複数人だけで行った海辺で貝を拾っていたら大きな波に飲まれ、海難事故で娘を亡くした辛い過去を思い出し、その辛い過去から現実逃避せず、向き合い、母親である自分だけは忘れないでいようと心に決め、歩き出し、そして、実は"アイ"こそが…という衝撃の結末に向かって、後半戦はジェットコースターのように話が進み、別れが辛くて切ない終わり方に、心にグッとくるものがあった。
 

泡風呂で生まれなおす

泡風呂で生まれなおす

COLLOL

cafe MURIWUI(東京都)

2025/03/20 (木) ~ 2025/03/20 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/03/20 (木) 15:00

 上演会場が小劇場やホール、公民館等でなく、Cafe MURI URIという、まぁ正確に言えば、Cafeというよりかは演劇やダンスや舞踏、展示会、シンガーソングライターによる弾き語りLIVE等に使われるイベントスペースだということを、Cafeの公式サイトを見て分かったが(なお、現在Cafeとしては営業していないということが公式サイトに書かれていた)、それにしてもCafeで公演するということだけでも気になる。その上、田口アヤコさんという役者による一人芝居であり、朗読劇であり、現代ダンスも多少取り入れており、観ていて、良い意味で演る作品の数も4作品とそんなに少なくなく、劇の内容も盛りだくさんで、観ていてお腹いっぱいになった。
 また、ドリンク代を払って、ドリンク片手に、気軽に鑑賞でき、Cafeがアパートの屋上に面している関係もあってか、窓から気持ちの良い陽光が差し込み、店内はあんまり無駄に電気を使っていない感じが、Cafeという空間を最大限に活かしていると感じ、自然さえも劇の背景に思えてきた。
 
 最初にCoRichに載っていた劇のイメージの写真とタイトルからは良い意味で、はっきり言ってどのような内容なのかが全く想像できなかったが、その現代アートのような写真や突飛なタイトルに惹かれて観にいったら、想像していた以上によく出来ていて、感心してしまった。

 
 私は、昼の回を観た。
 昼の回の前半の中編の劇川上弘美作『aer』では、出演しているのが役者の田口アヤコさんのみなことを逆に強みにした主人公の女性が赤裸々で欲望のままに生きていたところから、自分の子どもを身籠り、産みの苦しみ、息子が大きくなり、成長し、親離れしていき、段々息子が大きくなるにつれ、殺したい衝動が肥大化していき、苦しみ、いつの間にか自分が人並みに歳を取っていき、気付けば、息子も自分と似たような性癖を持ち、自分と同じような欠点を持ち、自分と同じように恋愛して結婚し、子どもが産まれ、気付くと歳を取っていくんだろうと考えると、その循環こそが、究極の復習になるのではないかといった風に考えるようになるまでを、時にに独白的、時に私小説的、時に詩的、時に哲学的、時に感情露わにして、主人公の女性の心情を描いたり、物語がどれくらい進行してるかを表現していて、これは田口アヤコさんの個性もあるのだろうが、内容的には多少のサスペンスやサイコホラーの要素さえあれど、幻想的だったり、ファンタジックな要素なんて微塵もないのに、その独特な動きや語り口から、不思議な話だと錯覚させられてしまうから見事なものだ。

 後半では、谷川俊太郎作の詩『ぼく』、短編劇田口アヤコ作『わたしが死んだら世界が終わる』、宮沢賢治作の詩『永訣の朝』を観た。
 2つの詩は、詩が描く人物描写や風景、世界観がありありと目に浮かんでくる朗読で、非常に良かった。
 短編劇田口アヤコ作『わたしが死んだら世界が終わる』は、タイトルだけ観ていると、村上春樹さんとかと似たような世界観と思いきや、蓋を開けてみると良い意味で裏切ってくれて、中味は、銀河鉄道の夜に出てくるジョバンニの母親とカンパネルラ亡き後のジョバンニのリアルで痛々しいその後を描いていて、『ドラえもん』におけるドラえもんが居なくなった後の、のび太とのび太ママ、ジャイアンとスネ夫、しずかちゃんと出来杉の中年になった姿を描くくらいに見てはいけないパンドラの箱を開けた感が否めなかったが、そのドキドキ冷や冷や感に引き込まれた。
 高齢なジョバンニママがコロナで亡くなり、自分が亡くなった後工場で夜勤で働く息子のジョバンニが上手くやっていけるかどうか等の不安や心配から暫くの間幽霊となって家に留まると言ったことなど、妙な現実と不思議さが日常の延長線上に描かれて、話が進んでいって、なかなか興味深かった。電気、ガス、水道代等が溜まっているなどリアル過ぎて怖いぐらいに、宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』のその後を描いているとは思えないぐらい、ロマンもクソあったもんじゃない現実が突きつけられていて、感慨深かった。

 但し、前半、後半を通して、ほぼ笑える場面がなくて、極度に身体を張り詰めて、極度に集中して観ていたので、観終わった後、そんなに長時間じゃなかったはずだが、途中休憩もあったし、適度にドリンクも飲んでいたはずだが、気の張り詰め過ぎで大いに疲れた。
 

ノートルダム・ド・パリ ストレートプレイ

ノートルダム・ド・パリ ストレートプレイ

GROUP THEATRE

浅草九劇(東京都)

2025/03/05 (水) ~ 2025/03/10 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/06 (木) 18:30

 ストレートプレイ劇として、かの有名なヴィクトル·ユゴー原作の『ノートルダム·ド·パリ』を観たが、通常一般的に、休憩含め3時間超というのは、オペラやバレエ、ミュージカル、シェイクスピア劇等を除いてあまりないはず。
 しかし、ストレートプレイ劇という、あんまり歌わず、過度に動かず、セリフや独白にかなり力を入れた言うなれば役者の演技力が試される劇だったので、役者も所謂現代劇やオペラやミュージカルよりもそのハードルたるや大変なものだったと思う。
 勿論ヴィクトル·ユゴーの『ノートルダム·ド·パリ』はオペラやミュージカルとして有名で、映画化も幾度かされ、ディズニーのアニメ映画『ノートルダムの鐘』としても有名で、日本でも児童劇団によって演られる演目の中にも入るほど有名で好評だが、それより何よりも、今回の劇が3時間超な上、内容が内容なこともあり、終始緊迫した感じで、一時たりとも、気が休まらなかったが、その疲れが吹き飛ぶかと思うぐらい、当時のジプシー(ロマ)に対する尋常じゃない差別や偏見、不具者で醜いカジモドに対する尋常じゃない差別や偏見が丁寧かつ克明に、残酷に描かれていて、その当時の常識や時代背景を描くためと思われるが、差別的蔑視的用語が役者の口からとめどなく溢れており、今の時代だったらこれはヘイトスピーチになるレベルの聞くも耐えない罵詈雑言だったりが平気で飛び出てきて、その当時の一般人の感覚を視覚的にも理解することができ、時に心根は優しく実直なカジモドや色んな人を翻弄しつつ、自分では翻弄している自覚なしのエスメラルダに感情移入したりして、気付くと終わっていたので、意外と時間感覚を忘れるぐらい感情移入し、物語世界に浸っていた。

 ヴィクトル·ユゴーの『ノートルダム·ド·パリ』は世界的にも有名な作品だが、シェイクスピア劇の『ロミオとジュリエット』、『美女と野獣』を足して2で割った作品だと感じた。
 但し、『ロミオとジュリエット』では、お互いの勘違い、すれ違いにより、または早合点により自殺していき、2人が自分の命を絶ったことをきっかけに、激しく対立していた2つの一族が仲直りするという結果的には、悲劇でもあるが喜劇でもあるという結果、『美女と野獣』の場合は末娘の野獣に対する無償の愛によって、野獣の閉ざされていた心が少しずつ開いていき、結果として魔法が解け、野獣が王子の姿になるといった感じのハッピーエンドだったりする。
 それに対して、『ノートルダム·ド·パリ』は『ロミオとジュリエット』と『美女と野獣』を足して2で割った世界のはずだが、最後の最後まで一切の救いがないところに、妙な現実の残酷さ、中身がいくら清らかだとしても見た目が醜いカジモドと見た目が美しいエスメラルダだとは簡単には同じ土台に立って恋愛ができる確率は低いのかと考えると、感慨深く、現実はなんと厳しいことかと思った。
 まぁ、しかし少なくとも、現代においては、見た目や格好が醜かったり、障害や知的障害を持っていても忌み嫌われ、罵られ、嘲られ、挙げ句の果てに例えば、軽犯罪を起こすと、実際の罪より、明らかに理不尽な罪が課されたりといった露骨な事はないだろうと感じた。
 だがしかし、軽犯罪を起こすと、実際の罪より、明らかに理不尽な罪が課されたりといったことや障害や知的障害を持っていたり、自分たちと違う文化、色の民族といっただけで差別的蔑視的、侮蔑的、言動や行動に出たりといった露骨な形では出ないものの、今の時代本人に直接言うことこそあまりなくなったものの、スマホのSNSやパソコン等で匿名でいくらでも誹謗中傷があり、差別的蔑視的、侮蔑的発言が書かれていることからも、今でも品を変え形を変えて、続いていると思うと、更に某大国同士レベルでの関税を巡っての煽り合戦で、国同士の紛争や戦争がある現代世界を考えると、程度こそ違えど、いつの時代も差別や偏見ってあるものだと考えると、何とも割り切れない想いに駆られた。

『BORDER〜罪の道〜』

『BORDER〜罪の道〜』

五反田タイガー

六行会ホール(東京都)

2025/03/05 (水) ~ 2025/03/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2025/03/09 (日) 12:00

 刑務所内が舞台となる劇や映画、ドラマはよくあるが、大抵は囚人たちそれぞれの個性を描きながら、仲間を集めてチームを組んで、時にぶつかり、時に支えあいながら刑務所からの脱獄をするドタドタコメディ、シリアスな頭脳戦を駆使した脱獄劇こういったエンタメさくひんが一般的には多い。(男女どちらの刑務所を舞台としても同じく)
 若しくは、冤罪や日本の死刑制度の在り方における人権侵害の問題に真摯に取り組んだ映画におけるミニシアター系やTVでいうと独立系のTV局、小劇場演劇などで行われる社会派作品といった形で囚人たちが、または囚人が描かれることは多い。
 今回の劇では、、途中女囚たちと刑務官たち、刑務所長とのドタドタコメディや芸人の姉妹や女囚同士の笑い、ユニークで絶妙にズレているシスターやとある女囚と刑務官がレズの関係にあり、人前で公然とキスしようとする大胆な展開なども見られた。
 しかし、意外と今まで描かれていそうで、特に演劇ではあんまり描かれてこなかった殺人事件で殺された被害者の生き残った母娘の側から、囚人や死刑囚がどういったふうに見られているか、最初娘は特に死刑囚に対して憎しみ、殺意さえあったが、その感情を乗り越えて、成長していく様が描かれていてなかなか新鮮だった。
 そして、劇中に一線を越える、超えないといったこと、犯罪を犯す側と犯さない側の違い、犯罪を犯した場合、法のもとで裁かれるが、犯した人は社会に復帰するためには、再犯しないためにはどう自分を見つめ直し、反省し、2度と同じ過ちをしないように気を付ければ良いのかといったことを深く考えさせられながらも、笑えて歌って踊るエンタメ作品という要素、いくつかの要素をバランスを考えながら劇に昇華していて面白かった。
 
 但し、個人的には、死刑囚だからといって、仮にその死刑囚が連続殺人犯だとしても(まぁ、被害者家族からしたら、自分の手で殺してしまいたいぐらいだが、それでは法に触れるので、法の名のもとにでも、犯人を裁いて極刑である死刑にしたい気持ちも判らないでもない)、日本の現状制度としてある死刑が、法の名のもとに行われるのはおかしいと感じる。
 先進国では死刑が撤廃されている国も多いし、されていない国でも事実上の廃止になっている国も少なくない。
 そういったことを考えた上で、死刑制度とは国の法の名のもとに平気で公然と人が人を殺せるシステムだと考える。
 それにまた、日本で絞首刑を行う際、ボタン一つ押すだけで済ませられるということを考えても非人道性は否めない。
 また、死刑囚になる程の罪を犯した人間が死刑になることで、死を持って償うというのもどうかと思う。
 凶悪犯にだって、大抵の場合家族や親族がいる。奥さんや夫、小さい子どもがいる場合もある。法に則っていたとしても、囚人が死刑にされた場合、日本は軽犯罪でさえ、1度犯すと、就職や恋愛、結婚もままならず、軽犯罪者に家族や親族、子どもなどがいる場合、学校や職場に居づらくなり、自殺にまで追い込まれる人もいるのだから、これが死刑囚の家族や親族、子どもの場合、自殺どころか、一家心中、無理心中に発展するリスクも高くなるし、職場のパワハラ、同僚による陰口、学校での壮絶な虐めなどによって引き籠もりになるリスクも高まるだろう。子どもに八つ当たりして、虐待が頻発とかも十分考えられる。
 勿論、上記のことは、犯罪被害者家族やその子どもにも言えることだが。
 いずれにしろ、家族や親族、子どもたちの将来も壊すことになる。懲罰感情を近代的な法制化とが複雑に絡み合った死刑制度が、日本の死刑制度だと感じる。
 以上のことから、私は死刑制度には反対だ。その死刑制度があることで、凶悪犯罪が増えていないといった確証もない。むしろ、地方都市や田舎で起きる凶悪犯罪は跡を立たない。
 死刑制度の代わりに、凶悪犯には、終身刑にして、相当頑丈に出来ていて、脱獄不可能で、ほとんど光も入ってこない厳重警備な独房にいれて、本と写真、スクラップブックを持ち込むのだけはOKにして、勉強がしたいと言えば、他の囚人たちと交流させながら、刑務官がさり気なく見張って勉強をさせ、時々凶悪犯の場合は、被害者家族とも合わせつつ、長い時間をかけて自分の犯した罪に対して、徐々に反省させていく仕組みのほうが、今の死刑制度よりか、よほど健全で、人道的だと考える。
 人はすぐには反省しないかもしれないが、たとえ凶悪犯であっても、時間をかけて、カウンセリングや他の囚人たちとの運動なども含め、長い時間と人との交流をして、本を読み、しっかりと勉強すれば少しずつ罪の意識を持つようになるかもしれない。そのチャンスさえ簡単に奪ってしまうのが、死刑制度だと強く感じた。

プシュケーの蛹

プシュケーの蛹

中央大学第二演劇研究会

シアター風姿花伝(東京都)

2025/03/06 (木) ~ 2025/03/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/07 (金) 18:00

 今回の中央大学第二演劇研究会2024年度卒業公演『プシュケーの蛹』というタイトルだけ見ると、現代舞踏集団群舞公演だと思った。
 しかし、実際観た公演は良い意味で裏切られて、混沌(カオス)としていて、アンドロイドに幽霊、宇宙人、さらに街の奇人変人で超個性的でアクが強い住人が舞台狭しと主人公3人とそれぞれ出会い、それらが複雑に絡み合っていて、最後のエンディングに向かって突っ走る。泥臭く、青春で、もどかしいまでのアンドロイドとの純愛の要素も絡まり、観念的、哲学的な劇でなかなか面白くて、その独特な世界観に引き込まれた。

 小西、中山、大野の三人はトリオでお笑いコンビを組んでいるが、目指す方向性や目標、将来像が違う。劇が進むに従って、小西は研究所でアルバイトを始めると宇宙人とひょんなことから出会い、大野は昼は骨董屋で夜はBARという明らかに胡散臭くて怪しげなBARのマスターに勧められるがままに飲んだお酒の効果によってか不思議と幽霊が普通に見えるようになった。
 そして劇の最初のほうで小西、中山、大野がシェアハウスを始めたアパートの中で見つけたアンドロイドるりを造った技術者を探そうとただの優しさから捜索を始めた中山が、アンドロイドるりと一緒に過ごすうちに、59日でるりとの現在の記憶が全て消えると分かっていながらも、本気でるりに恋をしていった。
 劇の途中から、るりが実はある豪雨の日に研究所所長が運転する車に乗った家族諸とも崖から海に落ち、海難事故で所長のみ助かり、娘のるりは遺体で見つかったが、人間として生かせないと知った所長はアンドロイドとして娘のるりを蘇らせ、今の技術では永久に生かせる程の高性能なアンドロイドは無理だと断念しつつ、現在の技術ではこれが最大限といった限界レベルでアンドロイドの命を持たせるといったような、アンドロイドるりを造った研究所所長や所員たちの思惑や、過去、所長の娘や妻に対する未練や後悔が滲み出ていて、アンドロイドるりの新事実や秘密が次々に暴かれていき、驚き、感動した。
 そして、終盤アンドロイドるりに対して純粋な愛を感じるようになっていた中山は新事実や秘密を次々と知り、とうとう耐えられなくなってるりと車で逃避行する。そういった状況の時に、小西が宇宙人との交流のことや大野の幽霊の話が全然違って進行していたようで、ここに来て仲間の中山とアンドロイドるりを探そうと、街の人たちも巻込み、一致団結し、繋がってきて、大変興味深く、良い意味でこれぞ混沌(カオス)だと感じた。
 何気に宇宙人や幽霊、アンドロイドやゴーストバスターズが街の景色に溶け込み、街の人たちに紛れ込んでいるのがさも普通といった感じに描いているのが、藤子不二雄のSF(少し不思議)な感じで緩く描いているのが、ある種の究極の多様性であり、何かじんわりと不思議な暖かさを感じた。

 ただし、純愛的なのは良いが、最終的に中山だけ蛹になることで、アンドロイドるりとの出来事を覚え続け、忘れないようにしようとするのは違うと感じた。それは、観念的、哲学的な終わり方としては良いかもしれない。
 しかし、アンドロイドるりとの想い出を引きずって諦めたか思考停止しているようにしか見えない蛹になるという結末よりか個人的には、娘と妻を海難事故で失って、娘をアンドロイドとして蘇らせ、妻の幽体をアンドロイドるりに移植せんとする研究所所長がアンドロイドるりの本当の持主で、元所長の娘だとしても、アンドロイドるりを真に愛しているのならば、中山が研究所から奪還し、きつく抱きしめ、涙が止めどなく溢れると、何かの拍子にアンドロイドるりが自らの意思を持ち、記憶が停止していたのが一気に蘇る軌跡が起き、ハッピーエンドというほうが良いと感じた。

 また、今回の劇は、ファンタジーでSFで、混沌(カオス)としていて、哲学的なのは良いが、闇陣営が出てこないのが物足りなく感じた。学生演劇にしては、プロとしての才覚があり、学生演劇に特にありがちな、内輪乗りもなく、大いに笑えて、感動もでき、とても良くできているだけに、残念だった。
 起承転結もしっかりと出来ていたが、惜しいと感じたのは、やはり闇陣営が出てきて、闇陣営によるリンチ(爪を剥がす。無論本物ではない。眼を刳りとる。本物でない墓石で叩く。鞭打ち。緊縛。本物でない指を叩っ切る)により息も絶え絶えの状況に追い込まれる等、残酷な場面、瀕死の場面、今まで信頼してた筈の仲間に裏切られたり、宇宙人の仲間の宇宙タイムパトロールに追い掛け回されたりと言った、激的だったり、緩急の激しい場面を入れ込むと、より劇に振り幅があって、完成度が高まると感じ、これからも劇作家の人には、プロの劇団を立ち上げて、書き続けてほしい。期待しています。

 韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2

韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

鑑賞日2025/03/04 (火) 14:00

 大学教授であるチェ夫妻は、海外留学を控えた娘の送別会を開くために別荘を訪れる。彼らは自分たちの平穏で豊かな暮らしに満足していた。
 しかしその平穏は、娘のチェ·スンヨンが婚約者で少なくともスンヨンとは30は離れた大学非常勤講師の中年男を別荘に連れてきたことを発端にどんどんお互いに目を背けていた都合の悪い事実(不倫など)が浮き彫りになり、今までリベラルな考え方で寛容に見えた教授のチェ·ミョンガンも化けの皮が剥がれたように偏見が露呈し、妻のカン·スンオクも今まで上品で優しく見えたのが、娘の婚約者が中年男だと分かり、娘と30近くも離れていると知って忌避感が露骨に現れ、豹変して品位の欠片もなくなる。そして成り行きか、故意かは判らぬが婚約者チン·ソンピルを巡って事件が起き、現場にいた管理人家族の息子キム·ハヌルが犯人に仕立て上げられそうになるが、それをハヌルが阻止しようとしたりと、事件の責任を押し付け合うためについた嘘が嘘を呼び、お互いに保身に走り、疑い合う。
 後からパーティー(娘の送別会)に参加した管理人家族のキム·チョルス夫とチョン·エラン妻に事件のことを隠し切れず、物置部屋に置いた死体を見つけられたので死体を隠し通すことはもはや無理とチェ夫妻らが悟り、何とか真相までは突き止めさせず、責任逃れをしようとあがく様が大いに笑え、終盤でお互いに追い詰められ、今まで我慢してきたものが一気に吹き出し、パワーバランスが崩れ去り、最期に残ったのはキム·ハヌルのみという終わり方に愕然とした。
 非常に韓国社会の暗部、富裕層の偽善、欺瞞、貧困層の鬱屈した気持ちなどが劇を通して浮かび上がり、韓国社会の格差社会を嫌と言うほど震撼とさせられた。
 この作品は、ポンジュノ監督の映画『パラサイト 半地下の家族』と全体的には比較的テーマ性としてもかなり似かよっていると感じたが、ポンジュノ監督の映画以上に救いがなく、暗鬱とした気分になり、もはやキム·ハヌルに輝かしい未来が見えない終わり方に現実を突き付けられた。しかし、一部の光さえない徹底した不条理コメディサスペンス劇にある意味、清々しささえあった。
 やはり不謹慎だとは思うが、人の不幸を劇で観て、家族が崩壊し、知り合いで信頼しあえていたと思っていた管理人家族との関係性も壊れていきといった過程を観ていると、日頃のストレスや鬱憤が晴れて、気持ち良かった。

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