二十一時、宝来館
On7
オメガ東京(東京都)
2024/06/26 (水) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
地方の女性の後期青春劇スケッチである。時折、新劇団の作者としても名を見るようになった作者なので見物に行った。
高知県の片田舎の地方のつぶれそうになった宴会ホテルで三十代後半の高校クラス会が開かれている。たばこも据える休憩室が舞台だが、いまはたばこ受難期だから、もちろんタバコは吸えない。使えなくなったたばこの灰皿が一人の登場人物で、あとは三人の同級生。いつまでも高校気分のままなんとなく都会と行き来している女、地元で子持ちになった女。達観している地元のクリーニング屋になった情報通の女。灰皿が擬人化しているところがミソでコメディタッチである。1時間。
まずまずの出来だが、大きな発見もなく器用にまとまっている感じで、まだこの作家よくわからない。筆者は舞台となった高知の片田舎は若いころの仕事の関係で、ちょっと知っている。六十年前は、もっと奔放な人物がたくさんいて仰天したものだが、今は、都会も地方もあまり変わらないな、とちょっと寂しい気分でもあった
疎開中に獅子文六がこの地と山一つ越えたところを舞台に書いた南国滑稽譚とか大番の世界は、そのころは現実だったのだから。
余談で言うと、この新しい小劇場、折りたたみいすは仕方がないとはいえ、あまりにも小さすぎる。中学校の生徒までのようなイスでは、夏場隣席の人の肌にも触れてトラブルが起きないか、と思ってしまう。
地の塩、海の根
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了
実演鑑賞
身近な社会問題を早速取り上げて、芝居で現実を考える、あるいは現実が芝居を変える、と言う作品を発表してきた坂手洋二の新作は、湯気の出るホットナ戦争がテーマである。
舞台は地政学的には遠い南ロシアのウクライナ。日本人には日常、実感がない国が舞台だが、相手のロシアは、明治以降さまざまな国際関係がある。劇中、ロスケと言っても年齢が上の我々には、その蔑称の意味も、感じも、今の流行りの言葉でいえば共有できるところがあるが、ウクライナの方は、ふつうは、どこ?である。さらに、ウクライナとロシアの中世以来のくんずほずれつの関係となると、劇中、随分かみ砕いて説明されるがニュアンスまではベテランの名手・坂手の手を借りてもほとんど伝わらない。作者は、地の塩という現地作家のロシア語の本を翻訳するという話を軸に、本に書かれた鉄道の踏切警手の庶民の生涯と、現地の演劇祭に招かれた日本の劇団員が話を聞くというメタシアターのかたちをとっているが、その複雑さは想像できても実感のとっかかりがない。一番は国境の国土の争いが、長年の民族、宗教と絡んでいることで、日本ではせいぜい韓国・漢民族との海という明確な国境があっての上での軋轢があるくらいだが、中東に近いスラブ民族圏では争いの基の要因についてもよくわからない。
今上演するには時節をえた狙いとはと言えるが、日本的に解釈しても仕方のない話なので、難しい素材だったなぁ、という感じしか残らない。
そこで結構つまずくので、芝居の中身を味あう余裕がなかった。2時間半。
雨とベンツと国道と私
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/06/08 (土) ~ 2024/06/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
モダンスイマーズ25周年作品。コロナでしばらく劇団作品は見ていなかったが(ここ五年の間に二作だという)「現代新劇」とでも名付けたくなる作風は健在である。
「デンキ島」はあまり素材になってこなかった沿岸離島の青春期から成人期の若者を描いて新鮮だったし、バブル崩壊後の若者を中心に地方の家族を舞台にした庶民劇「まほろば」は、現代新劇の路線でよかった。最近は、劇団外の大手興行会社からの注文で得意とは見えないファンタジー系もある。どれもそつなくこなしているうちに、いまや女優との噂がスポーツ新聞の記事になる中堅の地位を固めている。周囲に同じような作風の劇作家がいそうで、いない。そこが重宝される由縁だ。無理をしないで、期待に応えている。
今回の舞台は、地方(群馬)で撮影される地元の自主映画の撮影現場である。パワハラで仕事がなくなって、やっと地方の自主映画を名前を変えて監督することになった監督(小椋毅)が慣れないニコヤカ・ムードで仕事を進めている。
自主映画は、地元出身のそろそろ30歳代も終わりかけの元女優(小林さやか)が良人を亡くし、その思い出を映画にしたい、と見つけてきた監督以下の映画の制作陣で撮影が進んでいる。撮影現場でのお手伝いにと、かつて東京で女優志願時代の同年代の友人(山中志歩)を呼ぶ。舞台はグレイの単色のノーセットで、物語はナレーションも芝居と並行しながらこの部外者の視点で語られていく。テンポよく次々に過去・現在のシーンが展開する。
表向きのテーマは映画製作の場でのパワハラになっている。
撮影現場のトラブルはよくある話のレベルだが、東京でだらだらと生きてきた女優志願時代の友人が現場に入ってきて、ドラマは面白く動き出す。友人は監督がかつて一緒の撮影現場で出会ったパワハラ監督だと見破る。監督が乗っている古いベンツに見覚えがあったのだ。この友人の沈滞の20年そのもののような(名前も五味栞、愛称ゴミチャンである。つまらないようだがこういうところ上手いのである)視点も面白いが、それにもまして、外れていることに本人が気づかずに集団に平然とついていく現代人の多くの滑稽さを演技でも体現しているゴミを演じた山中志歩はこの公演随一の殊勲者だろう。パワハラの話はそれなりに出来てはいるが、話よりも、作者はそれを担う人物たち、パワハラを捨てきれない監督やカメラマン、地方の市民ミュージカル出演を誇りに俳優気取りの地方人(古川憲太郎)成り行き任せの若い助監督、などなどの人々を巧みに描いている。沈滞の20年はナニも経済や政治の沈滞だけでなく誰もが安易に手にした無気力無責任で生きられる生活が生んだのではないか、と言っている。ラストは映画の撮影で、相手役の若い男優が雨の中の空漠とした国道を走り出すところで終わっている。ここでダメ押しの台詞をつけていないところにもこの作者の年輪を感じる。
この劇団はいつも男性の俳優しかいなかったが、25年の間にほとんど顔ぶれも変わっていない。そういう人付き合いの濃いところが作風にも出てきたように思う。今回は小品だが、いつも面白く見せてしまう劇作家というのは数少ない。1時間50分。自由席3千円で満席。
地の面
JACROW
新宿シアタートップス(東京都)
2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナの間この劇団を見る機会がなかったが、その間に作者は随分上手くなった。
経済社会や政治社会を直接舞台にとってそこでドラマを作るのは、現代人を描くには良い着想だと思っていたが、経済構造や政治構造がドラマとしてリアルに描区のは難しい。つい、なじみのある人情話に落としてしまいがちだった。
今回は、不動産業界を舞台にした土地売買詐欺事件を素材に、不動産会社の人間模様である。
そういえば、アメリカの芝居で「グレン・ガレイ・グレン・ロス」という不動産業界舞台の犯罪がらみの芝居があった、と思いだした。舞台の米日の国情の差も面白い。あちらはセールスマン同士の個人の業績競争、こちらは不動産会社の中の出世競争のグループの話になっている。「グレン・ガレイ」はリアルな舞台展開だが、「地の面」は、かなり様式的で、ダンスも取り入れ、ステージングも抽象的で、詐欺事件の話をテンポよく織り込んでいる。会長社長以下の会社組織は従業員何千人という会社としては戯画的になっているし、詐欺師たちを、その場にいながら姿を見せない存在としているのも、事件の子供だましみたいなところと似合って成功している。荒技のところもあるが、面白く展開できたのは、作者が腕を上げたから、である。
出演者は中年の男ばかり9人。小劇場で知られた顔が多いが、今回は名古屋小劇場の重鎮が二人参加している。休憩なしの二時間。ほぼ満席、珍しく若い三十代以下の男性客が多く
こういう実社会エンタメの作品の路線はこの小屋の売り物になるかも知れない。男性客が多いと言うことをまず、買わなくては。
白き山
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
久し振りの「新作」と銘打ったチョコレートケーキの公演。高い世評の上に歌人の頂点に立っていた歌人・斎藤茂吉(緖方晋)の敗戦後半年の疎開生活を素材にした力作である。
戦時中、戦争賛美の歌を作って戦争協力したとして、立場が反転した茂吉の日々が、焼け出されて同居していた長男(浅井伸治)、のちに北杜夫となる次男(西尾友樹)、アララギ派の門弟で秘書役を務めていた山口茂吉(岡本篤)、身の回りの世話をしていた現地の農婦夫の守谷みや(柿丸美智恵)との生活を通して描かれていく。
国家が非常時にあるときの芸術家(個人)のあり方というのはチョコレートケーキが何度もテーマにしてきた問題で、今回も主筋はこのテーマに沿って芸術作品と作者の関係が描かれているが、そのテーマの周囲に、渦中にある芸術家の葛藤や、芸術家の家族のドラマ、
父子の関係とか、人が生きていく上で「故郷」が果たす役割、とか人間が生活の中で出会う大小さまざまなドラマを張り巡らせて、単なる歴史秘話ではなく、価値転換の今の時代に必要な現代劇となっている。
フィクションと断ってはあるが、登場人物たちのキャラクターを見せるそれぞれの日々の生活のエピソードの拾い方が非常に上手い。よくある頑固親父もののパターンも生かしながら、生き生きしたリアリテイを失わない。娯楽劇にもなっている。
主演の斎藤茂吉を演じる緖方晋が、一月前に急遽登場することになった代役とは思えない熱演でドラマを引っ張っていく。関西の小劇場の俳優だが、三年前のペニノの「笑顔の砦」の初老の漁船の船長が。斎藤茂吉とは対照的な第一次産業に生きる男を演じて絶品だった。代役で賞というのはあまりないが、それに値する出来である。チョコレートケーキの中軸の三人。それぞれのドラマの中での役割を演じきって快演だ。よく客演する農婦の柿丸美智恵は、若い頃は都会に女中奉公に出て短歌を知っていた、という面白い役柄を、型にはまらない柔らかな表現で演じてよかった。
疎開先の部屋を囲んでホリゾントには山頂に白い雪の連なる故郷の山が描かれている。最後にその美術が生きることになるが、それは見てのお楽しみにしておこう。本も役者も揃った今年の収穫に挙げられる舞台である。早い機会に、池袋の東芸の地下とか、トラムなどで再演をみたいものだ。補助席も出て満席。
野がも
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2024/06/07 (金) ~ 2024/06/21 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ドロドロの昼メロのような話である。イプセンの作品が書かれた1880年代で、その時代にはまだ世間のスキャンダルが演劇の素材にはなっていなかった。離婚、妻の家出、妻の不倫、婚外子、相続問題などなど、(まだ上流階級が主だったとは言え)一般市民のトラブルを素材にして舞台の上の人間の真実を描いて「近代劇の父」と言われている。
今回の俳優座の上演は「築地小劇場百周年記念上演と角書きれているように、日本でも新劇が始まった頃から数多く上演されている。随分昔に見た記憶では、暗い室内会話劇で人生の真実の発見と言うよりは、暴露ものという感じだった。五幕の舞台は殆ど主人公の家の中、「野鴨」というのは家で飼っていた家鴨である。長いという記憶もあったが、今回は、全体を二幕にまとめて、時間経過を音響効果の音と、並行してシーンを進めるという処理で、複雑な人間関係のドラマがどんどん進む。このテキストレジの旨さが第一だろう。
俳優たちが上手い。俳優座でいつも感じるのだが、端役まで、なぜそこにいるかが解る。ドラマの世界を支配する財産家(加藤佳男)のお手伝い(清水直子)で、お手つきとなって、かつての共同経営者の息子(斉藤淳)に下げ渡しになって、今は一人娘(釜木美穂・新人)をもうけ、財産家が与えてくれる捨て金で写真の店を妻がやりくって暮らし、本人は発明の夢にすがって生きている。親に反発して山の中の鉱山で労働者の待遇改善に努めている財産家の息子(塩山誠司)が戻ってきて、かつて親しい友人であった息子同士がそのパーテイ出会うところから舞台は開く。
このパーティのウラの近代社会の生んだ歪んだ人間模様が次々と暴かれていくドラマである。筋はよくわかる。俳優も的確に演じていて、清水直子など、まぁ、むちゃくちゃに上手い、よく客演で呼ばれるのも頷ける。再婚をもくろんでいる財産家の妻となる女(安藤みどり)も、カモを飼っている一人娘も、ベテランから新人まで、揃って上手い。しかし、いまは市井では見つけにくくなった日陰の身で暮らす子供たちを巡る葛藤にリアリティを出す演技はかなり難しく(コミカルな選を狙ったのは冒険だった)苦労しているが上滑りしてしまうのは時節柄やむを得ない。この俳優たちの大健闘が第二。
イプセン劇をいま、その原作に忠実に生かすとしたら、良い出来だった、と言うことになるだろう。しかし、巧妙に組まれた物語は終わってみれば古めかしいし、俳優たちの旨さも、一昔前に、役者の揃った時代の新派の舞台を見るようである。
そこをいささか知っているものには現代新派も悪くないと楽しめるが、結局は日活映画を支えた新劇団黄金期の俳優たちとおなじ役割を果たすだけになってしまうのではないか、とも思う。築地百年、劇場消滅の時期である。そうなると、これはまさにリアルな俳優座が支えた新劇そのもののドラマと言うことになってしまう。時代の転換点を感じさせる舞台でも会った。zそれはどうなんだろう。15分の休憩を挟んで1時間25分と1時間の二幕。稽古場劇場は老人客で満席。
消しゴム山
チェルフィッチュ
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/06/07 (金) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
新しい世界に劇場で出会うことは稀である。「消しゴム」はコロナ以前、2019年の、初演のテキストをほとんど変えていない。というが、激動のあったここ数年を踏まえても、その中身はしっかり現代を描ききり、未来にまで目を向けている。
作品のスケールが大きい。大きなテーマを、演劇の世界に新たな形で着地させようと試みている。五年前の再演ながら、全く古びてはいず、本年随一の問題作であることは間違いない。
舞台には、さまざまな造形物がおもちゃ箱を拡げたように散っている。これが金氏徹平のものグラフィーで、一つ一つ、具体的なモノ(例えば、洗濯機とか椅子とか滑り台とか)を示してはいないが、そういう身近にある人間が作ったものを巧みに表現していて、そこにスクリーンでの表現も加え、視覚的効果を発揮している。舞台は、その道具たちを俳優六人の俳優たちが、日常われわれがモノを使うように移動させながら進行する。開演前から、コンクリートミキサーの回転音がずっと響いていてこれが音響効果になっている。音楽はない。。
二時間の舞台は三部に分かれていて。それぞれにテーマがある。要約すれば、一部はものと人間の関係、二部は拡がった社会(宇宙も含め)の中で人間が他者とどう関わるか、三部は言葉の力、とでも言ったら良いのだろうか、その周囲に現在の世界的な環境問題、移民問題なども、投影しながら現在の世界の有り様を描いていく。一部は、壊れた自宅の洗濯機を直す、と言う解りやすいストーリーがあるが、三部は現代詩の朗読みたいなところもあり、そこはダレる。終わりに近くなるとダレるというのは「ゴドー」みたいだが、前半がわかり良いだけに工夫があった方が良いと思った。つまらない決め打ちの締めよりはいいが。
いずれも岡田利基が今までにも舞台にして見せたことがあるテーマだが、「消しゴム山」では、総合的に一つの世界にしてみようと糸が見えた。世界巡演でもよく理解されたようである。
現代社会が転換期を迎えているように、演劇も又転換期を迎えているのはここ10年ほどの舞台を見ているとよく感じられる。この作品はそういう転換期を象徴する作品になり得る舞台だと思った。それをどのように受け取っていくかは、同時代人の役割である。世田パブは老若男女よい比率の観客でほぼ満席だった。
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短編作品集『3℃の飯より君が好き』
劇団印象-indian elephant-
北とぴあ ペガサスホール(東京都)
2024/06/05 (水) ~ 2024/06/09 (日)公演終了
実演鑑賞
昨年「犬と独裁者」という面白い作品を下北沢の小劇場で上演した劇団の公演なので、はじめての北区の公共劇場へ出かけた。
舞台の方は試演会みたいなもので、短編に作。1時間半ほどの公演だったが、中身以外に感じることも多い公演だった。
まず。印象という劇団はもう二十年もやっているそうで、昨年の世界劇作家裏面史は、あまり知られていない作者(ソ連のブルガーノフ。(近かじかどこかで作品上演があるというチラシを見た)の公私の生活をない交ぜにしていて、シバイになっていた。今回も期待して観にいったのである。しかし、上演は過去の作品も改変も含めて短編二本。全くつまらない、と言うわけではないが、俳優もプロではないだろう。ことに前半の半ば朗読会のような上演で初化粧する女子中学生のドラマは、高校演劇コンクールならともかく、一般公開で観客に見せるには、ブルガーノフ以上に客を狭めてしまう。そこが解っているのか?
タイトルになっている「三℃の飯より君が好き」は同棲男女二人の某日スケッチ。今の女性優勢、少子化時代の若者風俗が面白かったが、シバイ作りに無理がある。ことに氷の妊娠、勃起のくだりは前後と異質のファンタジーなのだが、出入りに全く工夫がしていない(アイデアとしてはこの場面白いところだが)ので、はぐらかされてしまう。前後のリアルに裏打ちされたところは結構うまく出来ているのに、多分、それだけだと横山もどきの掌編になってしまうと、入れたのだろうが、練りが横山に比べると、全然足りない。
公演を北とぴあという北区の地域文化センターのような場所の15階の一室で公演していて、チラシによるとこの区にも文化事業支援があって、この公演にも助成金が出ている。それでこの公演か、と納得した。しかし60席くらいのスペースで7割くらいの、主に義理の客らしい客相手にこういう公演をやることが区役所の文化行政としてどうなのか、演劇をどう考えているのか(児童向け公演など開発しているようではあるが)聞いてみたいところである。その安易な取組みが如実に表れたのが、このホールである。ホールと言うにはあまりにも便宜的な、稽古場といった場所で、天井は低く、舞台は平土間のママ、照明バトンは頭上に迫り、照明は漏れ放題、場内音声の処理のしようもない、
試演会ならこれで良い。しかし、普通の小劇場劇団の中の上の料金を取って興行としてみせるには、区役所も劇団も少し考えた方が良い。
ライカムで待っとく
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2024/05/24 (金) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
コロナ禍の22年に上演され、評判は良かった(23年の岸田戯曲賞候補になっている。このときは加藤拓也)が、時節柄、横浜までは・・と見逃した。落着いたところでさっそく再演は、公共劇場とは思えないKAATらしい腰の軽さで、長塚圭史、芸術監督の役目をよく果たしている。
作者は、沖縄のまだ三十歳代の若い劇作家・兼島拓也、演出は、最近劇団でもプロダクションでも起用され、映画も監督出来る、こちらも若い田中麻衣子。キャストは小劇場の座組み。
いかにも、よくある沖縄舞台の「ヘイワ・ドラマ」の構えだが、敵役をあれこれ見つけて懲悪ドラマにするレベルを超えた優れた現代劇になっている。久し振りに若者が劇の中心でしっかり世の中を見据えて、舞台の先頭に立っている。
(物語)雑誌記者の浅野(中山祐一郎)は、上司に命じられて、60年前の沖縄で起きた米兵殺傷事件について調べることになったのだが、実はその容疑者が自分の妻の祖父・佐久本だったことを知る。事件の現場は元米軍本部のあったところで、いまは「ライカム」と呼ばれてスーパーマーケットになっているとか、住民の生活の実態とか、現地のタクシーの運転手(佐久本宝)の案内で調査を進め記事を書くうち、浅野は次第に沖縄の過去と現在が渾然となったドラマの世界にいざなわれていく。国境や地域文明の端にある辺境に生きる者が背負わざるを得ない「沖縄の物語」がそこにはある。その物語は自他がつくる「決まり」によって成立するが、時に自分自身も飲み込まれていってしまう現実がある。その場の政治や行政や、さらにはそこに住む人々の思いや、よそ者の観察だけでそれと抗うのはむつかしい。
だが、人々はそこで生きてきた。生きていく。
そこからがうまいのだが、それは、一つの地域の事情ではなく、今世界を見渡せば、どこにでもある話だ。そこで生きる勇気を持ち次の物語を作ることが希望になる。
素材は沖縄問題でよく選ばれる基地問題にまつわる物語だが、問題の捉え方が、新しく、しかも演劇的なところがこれまでの加害者・被害者のキャンペーン作品とはっきり一線を画している。本も演出も、ちょっと乱暴なところがあるのだが、あまり小さなところにこだわらず(こだわっても行き届かなかったのかも知れないが)ぐいぐい押していって若々しい。古めかしい人情ドラマでケリをつけるところからはっきり決別を宣言して、戦後長くこの国に居座っているいじけた精神を批判している。単に沖縄問題を超えて、現代日本に課せられたドラマになっていて見事である。ドラマの作りが普遍的で大きい。この若い作者、台詞が上手い。沖縄ものでなくても書けることは間違いなさそうだ。
ヒルなのに老若男女よく交ざった観客で満席。
オットーと呼ばれる日本人
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2024/05/17 (金) ~ 2024/05/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
木下順二の代表作である。3時間40分となれば今の民藝では夜公演は一回しか出来ない。珍しく、ほぼ満席、しかもいつもの老人ホームのお迎え待ち客ではなく、中年の客も、いつもは全くいない若い観客もいる。民藝の衰退は夜公演をあっさり諦めたところから始まったのではないか、という感じすらする。
尾崎秀実伝だ。上海で、記者として世界の鼓動を感じながら活動している尾﨑がゾルゲと交流を深める一幕。帰国して疑われながらも、先見の明で近衛内閣の内閣参与となるが次第に追われるようになる二幕、捉えられ、回心を促されるが自己の主張を貫く拘置所拘留中の三幕。
日本が列国帝国主義に遅れまいと国民を全体主義に押し込めていった軍閥時代の1930年から45年までの時代。コミュニズムにこの国の突破口を求めて、ソ連の情報機関に接触した才気ある日本人の物語である。この戯曲は62年に劇団民藝で初演、66年、2000年と再演され、その後、2008年に新国立で鵜山仁・演出で上演されている。
見ていると、思い出す台詞もあるから多分、66年あたりの公演を見たのだろう、それから五十年たっているが、ホンは実にあの手この手で、困難な時代に生きた「日本人」を「妥当な」「人間的」スタンスで活写している。全く古びていない。この長丁場をダレさせない、
これが今回公演の第一の驚きである。日本近代劇の代表作の名に恥じない名作であると改めて思った。
第二は、尾﨑を演じた神俊政の快演である。ろくに調べもしないで行ったので、最初は岡本健一が客演しているのかと思った。周囲の民藝の俳優からは浮出さねばならない役だが、その任をガラでも、演技でもその役割を見事に果たしている。
ほとんどこの二点につきる公演だが、一方では、改めて言うのは申し訳ないが、演出が古すぎる。今は同じような素材でチョコレートケーキなどが次々と新脚本で昭和を舞台の史劇の舞台を作っているのだから、時に新派風に見得を切って見せたりされると鼻白む。テキストは、まだ大きくはいじれないだろうから、これだけでも、よく整理したと思う(ほとんどいじっていないのではないか?)。しかし、現実に60年はたっているのだから、先人の舞台をコピーして伝統とすることから決別しないと観客がついていかない。リアリズムの解釈はいいとして、説明的な台詞や演技指定などは現代的に演出しないと戯曲を時代に取り残すことになってしまう。折角のラブシーンで繰り返される単調さには呆れるほどだ。生活も様式に埋もれているし、台詞にも日常性がもっと必要だ。演劇は時代とともに変わる。生身の人間がやるのだからその時代を生きた人ともにあるのはやむを得ない。いつまでも伝統と称して怠けるのは演劇への冒涜である。例えば、音楽。まるで昔の二流の松竹映画みたいな劇伴は舞台の品格を下げている。クレジットに作曲者の名を出すことも控えるような音楽は使うな!
民藝の倉庫に入れておいて、半世紀に一度虫干しするのでは勿体ない戯曲だ。是非、優秀な若い人の手で、テキストレジして、せめて3時間以内で見せきれる真の新演出による上演があることを期待している。
デカローグ5・6
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/05/18 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
デカローグ十話の中盤5と6の公演を見ても、最初に感じたこの企画への疑問は消えない。このシリーズの原作は旧ソ連崩壊時に、僅かに連帯を生んだポーランドのテレビのシリーズドラマである。
この中盤の二話は原作者もこのテレビシリーズの中心的作品としてきたという。テレビにとって視聴者の地域性は重要であり、この作品でも大いに意識されている。
他国のテレビ作品から感銘を受けることは、テレビを見ていれば経験するとおり、なくはないが、それはほとんどが二次的な感銘である。演劇のように、言葉も肉体も地域に生きる人間たちで作るもので、この地域を越える翻訳作業で成功することは、僅かな古典的な作品を除くと極めて少ない。演劇作品からテレビを作ることは成功することもあるが、逆は非常に難しい。
ことに非常に地域性の強いポーランドの近過去の作品をあえて多額の公金をかけて国立劇場が上演する理由か解らない。
偶然、私は80年代に、東ヨーロッパの旧社会主義衛星国家の幾つかと壁の崩壊前と直後の時期に仕事のためしばしば往復した。80年代にはそれらの地域は、社会的に崩壊の寸前であり、人々はほとんど自らの社会にいろいろな意味で絶望し投げやりになっていた。それは日々の希望があるとか、ないとかのレベル(例えば、現在の日本の困った状況などと比べものにならないレベル)を超えていた。そういう絶望社会に生きた人間たちのドラマを、どう化粧しても、現代の日本人のドラマとして表現できない。
5と6がメインテーマだという作者の言葉はそういう背景があってこそ生きる言葉で、それが我が国で現在頻発している気まぐれ殺人や、思春期に引き寄せて現代世界の共通性である、と理解するのはあまりにも浅薄、無分別だと思う。
今回の公演は、動機のない殺人劇、青春期の異性への関心、というところに絞ってまとめているが、5は、ただおどろおどろしいだけ、6は若干コミカルな味付けもして青春劇になっているがよくある思春期劇で、原作とは遠く離れた世界が描かれている。企画の発想の安易さの見るも無惨な結末である。あまり手に入りやすくはないが、観客がこの作品を翻案理解するためには、まず、映画作品を日本語字幕で見てみることが第一歩だろう。
(原作が理解されなければ、5でも6でも僅かに描かれている宗教の場面の重要な役割や、脇の人物たちの重要性(裁判官になる若い学生や、下宿のおばさん)が理解できないだろう)
ただ、いつもの主催公演は半分も入らないこの劇場の公演が、公演開始後すぐだったとは言え、今回は老人主体だが、7割近く入っていた。このような作品でもシリーズとなれば、役者に華が欲しい。
物語ほどうまくはいかない物語
wag.
小劇場 楽園(東京都)
2024/05/18 (土) ~ 2024/05/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
物語作家の自虐コメディなのだが、むしろ環境から見た家族コメディになっている。
やっと編集者(森崎健康)に「かまってもらえる」ようになった三十歳ほどの女性本の作者(井上夏美)が主人公である。編集者にデビュー後初の作品を読ませなければならない時期になっていて、できあがった作品を父親(秋葉陽司)の手を借りて、完成するが読ませてみるとまるでダメ。ここから、姉や、同時出発の仲間のフーゾク体験を生かして伸びてきた作者(石川まつみ)が絡んで、あれこれと喜劇的展開になる。
父が家を出ていてが一年ほど前に戻ってきて、娘と共作するようになる、とか、父と編集者がラグビーの共通趣味があるとか、スジの展開では、編集者が最後に職場を変えることになるとか、父親ががんになって余命が少ないとか、最初にスジ売りした肝心の作家としてはどうなるんだ(生き方)という主筋を外した(うまく絡めていない)エピソードが多く、賑やかだが雑然としていてとっちらかっている。
もっと上手く転がして、最後は三十歳を迎える「今を生きる」女の哀感も面白くドラマにして欲しい。とにかくテーマを絞ることが肝心で、人物もエピソードも無駄が多い。(逆にそれがないと転がらない、としているところも見えある。そういう人の良さは演劇ではいけない)。
旧作をいじっている時期ではない。同世代では、少し上の横山拓也はこの時期を上手く乗り切って大劇場もこなせるようになった。経験は何より大事な時期だから乱作と言われてもいい、経験を積むことを期待している。新国立の「12月」やトップスのEPOCKMANの「漸近線」はなかなか良かった。ヴァンダインもなかなか素敵な冒険だった。しっかり頑張れ!
A Bright New Boise
spacenoid
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2024/05/10 (金) ~ 2024/05/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
アメリカは広大な国だから当然と言えば当然だが、普通アメリカ演劇と思っている、アーサー・ミラーやテネシー・ウイリアムス、さらにはオン、オフのブロードウエイとは全く色合いの違う演劇もたくさんある。時々そういう演劇も上演されるようになって多民族国家の実相も知るところとなったが、こういう世界に住んでいない日本人には掴みにくい。宗教一つをとってもそうで、欧米人と少し親しくなって宗教の話になると、途端に、宗教に対する日本人の寛容度の廣さに唖然とされたりする。
今でもアメリカは変わらないなぁ、と全くイメージの沸かないボイジーという田舎町のドラマを見た。
ところで、10年前のまだ湯気の出ている新作を見せてくれたのは良いのだが、この上演の意図がわからない。今朗読劇が流行っているからと言って、何組ものチームでやってみせるのはどういうつもりなのか、単に役者も演出も、責任逃れなのかと思う。2.5では客寄せによくこういう何チームも組んで上演する公演があるが、これは、観客に、この作品は作こういうものですと、と見せて欲しい「演劇」作品だ。
また、朗読を、態々、その本読みリハーサルで見せる、というのも訳がわからない。チームによって狙いを明らかにしてくれないと見方も定めようがない。これだけ動きも見せるのなら、ではト書きはどうなんだ、と問いただしたくなる。戯曲にどう向き合っているのか、全く解らない。翻訳も、単調で今は上手い人もたくさんいるので、こういう、ちょっと言葉は悪いが、棒訳では役者が満足しなかったのではないか。それもアメリカ演劇の姿かとも思うが、やっぱり台詞だけしか見せないのなら、アメリカ語とはいえ、もっと言葉に丁寧に取り組んで欲しい。
この企画は公共劇場(KAAT)でなければ通らないものだろう。公共だから、客は入らなくても良いだろう。しかし、何人かの出演者の親衛隊を入れても、このホールで三割も入っていないのには主宰者側の取組みにも問題がある。こういう特殊な作品を特殊な座組と演出でやるなら、その意味と解説をもっと主宰者側がやるべきだろう。配役表もない、席ビラもない。劇場側の主宰者の意図説明もなし、つまり、何にもなしで、経歴不明の新人演出家を送り出すのは無責任だろう。こういういい加減なところは新国立劇場を真似て欲しくないものだ。
リンカク
下北澤姉妹社
ザ・スズナリ(東京都)
2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
スズナリお似合いの80年代懐かし小劇場の舞台である。
劇団の「下北沢姉妹」の表記のいまならシモキタだろう。主宰者は当時、青年座の一点美女の娘役であった西山水木、演出は懐かしの離風霊船(劇団名だぞ!リブレセンと読む。)の伊東由美子。舞台は当時はやった舞台なしの構成舞台スタイル。物語は唐十郎ばりの謎の母子、父子関係に日々の生計のつながるレストランの経営の師匠、弟子関係、今時はどこをとっても、畏れながらと、訴え出られそうな関係で、主人公の女性が生きていくドラマが演じられる。筋立てにはあまりこだわらず、女性ならではの視点からの印象スケッチもあり、当時はやった舞踏も取り入れられていて、いまのチェルフィッチュ風なシーンもある。あれこれ取り入れられ消化されているが、今の人たちはもうこの手は使わない。
西山も伊東もそろそろ70歳が見えてくる頃ではないか、人生でも舞台でも苦労したなぁ、という実感がしみじみと感じられる舞台である。つかとか鴻上とか如月とか、一世を風靡した人たちを支えた、時流に僅かに乗り損ね、生きそびれた人たちを優しく包むような舞台であった。1時間50分。
SHAKES2024~それは夢、だが人生という永劫の物語
『SHAKES2024』製作委員会
俳優座劇場(東京都)
2024/05/15 (水) ~ 2024/05/19 (日)公演終了
実演鑑賞
日本でのシェクスピアの受容も幅広くなったもので、これは2.5ディメンションである。
2.5の世界も多彩になって業界内では、単一の興行主体が公演の責任を持つのではなく、映画のように持ち合いの製作委員会方式による製作もあるようだ。受付で、とは言っても責任幹事社はあるだろう?どこ?と聞いてみたが、受付はそれ以上のことは知らなかった。3D-Deluxの砲はもう十五年以上のキャリアのある2.5の演劇集団、
UNiFYの方は男性の男性ヴォーカル10名。まだキャリアは短い。いずれも初見である。
歌、踊り、アクション、驚き、笑い、涙をシェイクした舞台というのが売り文句。そこにに、今回はシェイクスピアの言葉をトーリのストーリの展開に取り入れている。欲張ったものだが、それが出来るところが2.5で、夢を持つ若者たちがシェイクスピアランドという遊園地のアトラクションの主役になり、それが、イギリスにも売れ、世界的なスターになるという大筋を売り文句通りにやってみせる。とにかく一瀉千里で役者も観客も忙しいが、段取りだけは初日なのに、ほぼ、ぼろも出さずにやりきったのは、スタフも役者もこういう舞台になれてきているということだろう。客席が若い女性客の固定客ばかりで8千円から1万1千円は、ショーの参加費という感じだ。ここから先は大変だろうが、あまり演劇に迫ろうという気もなさそうだった。ファン席は満席だったがこれで四組もチームを作って大阪、名古屋もやるという。興行としては成立しているのだろう。
ハムレットQ1
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2024/05/11 (土) ~ 2024/06/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何度も見ている「ハムレット」である。この公演はQ1とタイトルが打たれているように最初の刊行版による公演と言うことで、短いといわれているが、どうしてどうして、休憩20分を入れるとちゃんと3時間ある。同じ時期に埼玉芸術劇場でも柿沢直人の従来の「悲劇・ハムレット」の伝統的作りのハムレットも上演されているが、こちらは新しい現代風に趣向を凝らした意欲作という。
うーん、なるほど。テキストのあれこれは、専門家にはいろいろ議論があるかも知れないが、一般観客として客席の感想である。
まず言っておかなければならないのは、いろいろあるが、つまらなくはない。ということである。今までのハムレットを見てきた方もいわゆる見たことのある名シーンは全部ある。それに、帰宅後もパンフレットを買っていようものなら、帰宅後それで又3時間はたっぷり楽しめる問題作である。
総合的には言いにくい作品なので問題点を次々に行く。
第一は、ハムレットを吉田羊が演じるということである。以前この劇場でジュリアス・シーザーを吉田のブルータスを始め全員女性キャストで森演出でやったことがある。そのときは感じなかった違和感がある。これは吉田のよしあしでは全くなく、ハムレットの役そのものを、ある種、普遍的人間とみて、性差関係なし、としている舞台作りの違和感である。今回は旅役者が全員女性だったり、フォーティンブラスも女性である。全員女性のジュリアスシーザーとは違う性差が表面煮立ってしまう。これはさまざまなところに反映してきてこの舞台を特徴付けることになっているが、それが観客にとってどうか?ということである。
テキストが違う点では,オフェリアとガートルードはどうだろうか。ともに女性役の芯になるこの芝居の見どころになる役だが、可憐に演じられるオフェリアはこれほど「尼寺へ行け!」をハムレットに連呼される(例えば河合の新訳版では六回しか言われていないこの台詞を、数えたわけではないが、見た感じ20回くらい言われている)上演は初めてだろうし、ガートルードは女性でなければという役と思うが、母性も庶民性も芝居も上手いのに王妃という肝心の役柄の一面が薄い。実は良人殺しはやりたくなかったんだという今回の解釈はそれなりに納得できるが、それが広岡のガラに会っているかというとそこは疑問である。(広岡、健闘である)飯豊はあまり藝歴を知らないが、現代的で乾いた感じだ。とても木の上で歌を歌っていて落下して溺死するという感じではない。この役をそれでまとめるとどうなのだろう。(こちらはミレー(J/エヴァリット)の川に浮かぶオフェーリアの画が頭に入っている。それではないというこの役の解釈はいくつも見ているが、飯豊は現代的で姿は人間として美しい普遍があるが、女性がやる以上もっと、性的魅力が出ても森解釈には違わないと網がどうだろう)要は、ジェンダーばやりなので打ち込んでみたと言うことかも知れないが、その意味がよく観客に伝わっていない。
他の配役についても、理由を聞いてみたいところはある。冒頭、城を守る城兵たちが、鉄砲を持っているというのは俄に近代的だが、それが一貫しているわけではない。あらわれる亡霊は、ドラマの中に役としても存在させたママなのだから、他の俳優たちの背広にネクタイ同様、劇を落ち着かなくさせていると思う。しっくり落ちていない違和感がある。
ロゼ・ギルのコンビが完全に道化役になっているのはどうか。これでは、ハムレットの旅そのものが道化になってしまう恐れがある。(最も芝居の進行には道化の方が面白いかも知れない。Q1では原文がそうなっているのだろうか)
終り(五幕)になるとあとを急いでいる感じで、いくら現代版でも最後の圧しが足りないと思った。場内決闘の場は舞台の上の人数も少なく、(必要ないと言えばそうかも知れないが)段取りめいて、大詰めの芝居らしい詰めの盛り上がりが乏しい。)
美術は名手・堀尾で、下手に向かって荒れ地が次第に斜傾の三角に積み上げられているだけの一杯セットで全幕を通す。ここには美術家の強い意志が見えるが、舞台の上の役者たちはセットの冷徹が徹底していないので、そこここに違和感がある。
劇中、歌が多用されていて国王暗殺の旅芝居はほとんどサーカスというか、ミュージカルである。この場の美術は突然空気が変わって面白い趣向であるが、浮いた感じも残る。
場割は、二幕構成で劇中劇の前で休憩20分、前後に1時間20分づつ、結局3時間で長い。いつもの上演とほとんど変わらない。
・・・といろいろあるが、言いたくなるほど面白くはある。一番の問題は、総体的に見ると、大きく変わった現代的なハムレットなのだが、一つ一つの新しい演出がどこは収斂していくのか、戯曲が収斂していくのを求める作品であるだけに、そこがよくわからない、というより、観客に感じ取れないところが一番の問題だと思う。
先のこの劇場の「桜の園」は新しい上に、その収斂の方向ははっきり解ったのでこれはゴメンと言えたが、これはそこがよくわからない。
『雲を掴む』東京公演
渡辺源四郎商店
ザ・スズナリ(東京都)
2024/05/08 (水) ~ 2024/05/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
キャストを見ると、燐光群と花組芝居の混成チームというちょっと意外な劇団の組合わせである。劇場の席ビラもないので、知り合いで作ったのか、その辺の小劇場独特の座組はよくわからない。チラシ宣伝ビラを見ても、なんの話しか解らなかったが、始まってみるとベテラン起用の意味はよくわかった。
話は、第二次大戦前夜にドイツとイギリスを平和的につなごうとした英独米のグループがいて、当時の国王も噛んでいる。その国王はアメリカ人のシンプソン夫人との王冠を捨てた恋で知られた事件の当事者で、結局英独協調はものにならず二次大戦につながっていく。舞台はその歴史的経緯を国王と、シンプソン夫人を軸に当時の首相、後継の国王、さらにはヒットラーも出てきて、近代史のおさらいみたいになっていく。
この実話は既に虚実取り混ぜ膨大な数の本も出ているが、舞台はとにかく複雑な現代史の一コマをまとめているだけで、格別の新説もない。個人的に気に入っている同じ背景を扱ったカズオ・イシグロの「日の名残り」のように一つの事件とか場所に焦点を合わせてドラマにしているわけでもないので、作品意図がつかめず、焦れてくる。時に思わせぶりなところもあるが、そこだけの展開である。これは平田オリザ派の悪い癖で、仲間だけは目配せして解っているつもりでも観客には伝わらない。せめて国王やシンプソン夫人、閣僚などはそれなりの重みが必要とかり出されたのが、両劇団のベテラン起用だと納得した。それにしても、男性役はヒトラーを除き、全員白のタキシードだが、対するシンプソン夫人は、ガラも芝居も衣装も、もっとキャラが強く出ていなければこの話は面白くもなんともない。ただの特権階級情話である。タイトル通り、雲を掴むような芝居だった。1時間37分。
歌舞伎町大歌舞伎
松竹株式会社、Bunkamura、TST エンタテイメント
THEATER MILANO-Za(東京都)
2024/05/03 (金) ~ 2024/05/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
やはり、演目よりも、劇場と、座組や興行の新しさの方に目が行ってしまう。
こけら落としでエヴァンゲリオンを見て以来、劇場開場一周年。この間にここでは新宿の繁華街のど真ん中で客がきそうで、さらにコクーン風にとんがった出し物が次々に上演された。唐十郎、新感線、2・5に近い原作もの、渋めの人気の音楽ライブ、ショーなど、さまざまな現在のエンタメが目まぐるしく次々と掛けてきた。それだけ松竹も文化村も手探りが必要だった難しい劇場の開館だったのだろう。今回は歌舞伎である。コクーンの意外の大成功の体験もある。場所の名前からも本命の登場だろうと見物に行った。
劇場へ入ると、中は同じなのに、雰囲気が違う。数本ののぼりをロビーに立てただけでそうなったわけではないが、芝居小屋になっている。人気の勘九郎の一門で若者に人気の七之助も出ている。あとは虎之介に鶴松。
演目は歌舞伎舞踊二つに、落語種の新作歌舞伎、世話物である。人気者がそれぞれ務めるが、それほど難しいものでもないし、長くもない。演目のバランスも良くて、最初の正札付は十五分ながら古典である。あまり通でない観客にもよくわかる客鎮め、そのあとの流星は座頭の勘九郎が後半二十分ばかり独演する。うまいもので軽々とやってみせるところ、さすが働き盛りの勘九郎。あとの芝居は落語種の新作で、七之助と虎之介。播磨屋次代を担う人気花形だが、こういう世話物をやるにはまだ堅い。落語だから手練れの方が楽しめる。ちょっとだけ付き合う勘九郎が出てくるとたちまち舞台が締まって客席も大喜びになる。そういうところにも歌舞伎の伝統演劇の面白さが見える。
私の人生では見ることができなかった戦前の小芝居はこんな風だったのではないかと勝手に想像する。東京の町に十ばかりあった芝居小屋。こんな座組を市民は楽しんでいたのではないだろうか。昭和の終わり頃、梅沢富美男が兄とともに一座を組んで十条の篠原演芸場に出ていた時分の芝居小屋の楽しさ(もちろん、演劇のコンセプトは違うが)に通じる観客層の広い芝居の公演である。意外なことに、この中身に応じるように、客席が結構だった。中老年客は多いが若者もいて、ちゃんと楽しく客席でお弁当も召し上がるが、柝が入ると芝居見物の体勢になる。声をかける人はいなかった(これがあると良いなぁと思った)が、拍手も変ところでしないし、皆心得ているのだ。追い出しの前に出演者が全員並ぶのは、いまどき仕方がないが、止められれば止めた方が歌舞伎らしい。今は知らないが、昭和の頃は歌舞伎会館の喫茶に、歌舞伎座の舞台を早く上がった役者がお茶を飲んだりしていたものだ。まぁそれはいまはライブ系で流行っている風景と思うが、こうして次第に劇場が新宿の町に溶け込んでいけば、大成功だろう、客席八百ほど、上の階は四階席まで。上がってみなかったがそこまで老若の客が来るようになるまでの辛抱。入場料1万円までに抑えられ理想的なのだが。
アラビアンナイト
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2024/05/04 (土) ~ 2024/05/18 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
子供の日の祝日企画に見えるが、どうして、どうして、大人の寓話である。おなじみのアリババやシンドバットのほか三話、二時間四十五分の大作だが全く飽きない。
感想は大きくは二つあって、コロナ以後、しきりに流行った朗読劇と称するお手抜き公演
と一線を画する舞台になっていること。究極の地味に徹した公演(そこがいわゆる朗読劇と同じ)なのに、俳優をノーセットのアトリエの中を自在に動かし、音楽(国広和毅、最近良い舞台が多い)で官能的な舞台を作っていること。ことに多様なリズム(拍手や床をたたくなど)を使って芝居をダレさせていないところが秀逸。
二つ。テキストレジの巧妙さ。テキストは20年前にすでに文学座が公演しているイギリスの現場演出家の作ったホンで、実際の舞台向きに出来ている。それをどれだけアレンジしているかは知らないが、テキストレジが巧みで三時間近い長丁場なのに、子供向きにという意識もあってか、ダレ場がない。大人向きでもある。俳優たちはあまり知名度の高い俳優は出ていないが、皆、きっかけを落とさないように懸命にやっていながら楽しそうだ。これは物語を演劇にした朗読劇の進化形である。
演出・五戸真理枝は、昨年大きな賞を連続受賞したが、今年のパルコの太宰治はニンにあっていなかったのかも知れない。文学座の女性演出家たちは。舞台の上に演劇だけの世界を作っていくのが、皆上手い。中でも五戸は、得意の領域にハマると手が込んでいて良い舞台を作る。これで恢復して、これからもいい舞台を見せてほしいものだ。
S高原から
青年団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2024/04/05 (金) ~ 2024/04/22 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アゴラ劇場での最後の青年団公演である。満席の入場待ちの人々が階下のロビーに張り出された劇場のセット図面や台本などをスマホで撮影しているいかにも送別公演らしい賑やかさである。といっても観客数は百名足らずだから十分もあれば始末できる。そこが、良くも悪くも、平田オリザという劇作家の存在理由であった。
サヨナラ公演四公演から「S高原から」を見た。見ている内に過去に見ていたことを思いだした。初演が91年暮れ。せいぜい三十年余前だが、部分は思い出すが人物のキャラやプロットはほとんど忘れている。今回の再演はほとんど手を入れていない(例えば、台詞に頻出する「風立ちぬ」の解釈論は,その後のジブリ映画のタイトルに使われて人口に膾炙したが、初演通り、それがなかった時代で上演している)。新しい現在のキャストもかつての公演をなぞっている感じがする。サヨナラ公演だからそれもアリだろう。それで解ることもある。
平田オリザは,80年代までに演劇界を席巻したエネルギッシュに新しい世界を作る新しい演劇に対抗して出てきた。当時、唐、つか、鈴木忠志、太田省吾らの先行世代,蜷川、佐藤信、野田秀樹らの続く世代、一見おとなしく見える井上ひさしや串田和美ですら、今思えば十分に破壊力があリ戦闘的だった。その疾風怒濤の中から平田オリザはこの小さな駒場の小劇場を足場に出てきた。平田オリザは当時,日常生活の台詞、演技の上にドラマを見る「静かな演劇」として、ジャーナリスチックにもてはやされる時期もあったが、致命傷は大きな観客を集められる作品に向かうことがなかったことである。青年団はこの小さなアゴラから数多くの後継劇団を生み出したが、身近な日常の生活を基板として、それに甘えて仲間褒めで満足している劇団群で、既製劇団に対抗できる力がなかった。アゴラの閉館は静かな演劇衰退による閉館ではないと明らかになっているが、時代の流れは変わっている。現在は、最近見た舞台では,た組の加藤拓也やエポックマンの小沢道成などには、平田オリザの日常の上にドラマを構築する現代劇を受け継いでいることがうかがえる。
今「S高原から」を見ると、昔の流行り物を見る哀感も感じるが、演劇はこのようにして時代を超えていくものでもある。