旗森が投票した舞台芸術アワード!

2023年度 1-10位と総評
桜姫東文章

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桜姫東文章

木ノ下歌舞伎

実演鑑賞

本年屈指の話題作の登場である。
木ノ下歌舞伎が岡田利基で桜姫をやる。どうなることか、と芝居ファンは固唾をのむ。
これまでの芝居狂の方々の「見てきた」のように、意外にオーソドックス。いつものようにほぼ満席の劇場だが、いつもはあまり見ない若い男女が多い、これは成河、石橋静河のファンだろうが、こう言う芝居の出来る役者のファンと言うだけあって、場内皆固唾をのんでいるジワが、開幕から続く。こう言う小屋の緊張感は、なかなか味わえない。若い人たちにとっては単に「モノメズラシサ」かもしれないが、モノメズラシサは芝居の出発点だ。
総評から言えば、一番は、この役者二人の大出来が一番だろう。最初の出会いで、成河が桜姫に惹かれてふっと立ち上がるところ、様式化されていない現代演劇の美しさ。最後の桜姫、清玄二人だけになって、ここだけはチェルフィッチュ風の見せ場になるが、振り付けも良いが、二人の役者としての切れも良く素晴らしい幕切れになっている。
演出がメタシアター仕掛けになっていて、それぞれに数役を兼ねる他の役者も全員舞台に出ずっぱり、下座は電子楽器一本で始終音が出ていてこの演者(荒木優光?)も出ずっぱりで、生身と役を往復して大健闘ある。軍助の谷山智宏,変ななまめかしさを見せるお十の安部萌。普通の芝居と全然違う間の作りがうまく、俳優の現実の肉体と役を、距離を持ちながらも往復する意味が、よくわかるように演じられている。たいしたものだ。
本は木ノ下が補綴したものを、岡田が上演台本にしたようだが、とにかく南北の原作に従ってちゃんと七幕まである。大歌舞伎でも見たことのない場があるが、物語はどんどん進む。桜姫は、今は南北の代表作のように言われているが、初演以後はほぼ百年お蔵に入っていたという難物。昭和になってからの復活も、孝夫・玉三郎の京都南座の大当たりまではさして受けていたわけではない。要するに話に「実は」が多すぎて、時代劇というハンディもあって、見物はついて行けないのだ。ここ四十年の名作である。
岡田利基は、その難しさを、チェルフィッチュガ開発した「今から何々をやりまーす」と宣言してから演じるという「三月の五日間」の手法で解決した。舞台中央に縦型のスライド映写のスクリーンがあって、シーンが始まる前に次のシーンの登場人物とあらすじが投影される。そこから周囲に控えた俳優が舞台でその場を演じるのだが、この流れが非常にうまくいった。木ノ下歌舞伎で、よく、始まる前に芝居の予告編と称して、全編の登場人物と見せ場を見せてしまう、という手を使っているが、これがこの複雑怪奇な演目によく似合って
成功している。これを見ていると、ホントは、場の設定だけ出来れば、スジはどうでもいいのではないかとさえ思えてくる。しかも、この上演に関してだけ言えば、このメタシアターの作りともに合っているのだ。期せずして、古典から現代への見事な通路になっている。
岡田利基はパンフでも今作は、古典を現代に翻訳しただけ、といっている。あまり解釈批判を避けて、と言ってもいるが、本人も言うとおり、それは避けられないから、いろいろな意見が出てくるだろう。コクーン歌舞伎の時だってその批評では大げんかがあった。今回は、周到な出来だから、あまり大きな論争は起きそうにはないが、やはり、これは現代の若い世代のトップスター的な演劇人が、難物の古典に取り組んだ成果の一つとして財産にしていきたいものだ。
と書いたところで夕刊が来たので、開いてみたら朝日新聞の夕刊にこの劇評が出ている。全くとんちんかんな劇評で、見てもいない初演時の俳優の心境を元にこの芝居の原点にし、俳優を共演者すべてをなぎ倒す者をよしとし、相対主義が役者の演技をも解体すると断じ、全体を虚無的な芝居ごっこであると結んでいる。他にも短文の中にワケのわからんことを権威に寄りかかって得意そうに言いつのっている!木ノ下も岡田もこの筆者よりは年下だろうが遠慮することはない、反論するなり、からかうなり、言ってやらないとこの貴重なトライアルが無駄なものになってしまう。馬鹿につける薬はないと笑って許すんじゃないよ!

Don't freak out

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Don't freak out

ナイロン100℃

実演鑑賞

劇団初めて三十年、先に「しびれ雲」いまこの「D!ont freak out」。同じ昭和戦前期ものをそれぞれ好きな先行作品の本歌取りをしながら、自分の長い付き合いの俳優たちと作るのは作者冥利に尽きることだろう。Conglaturation!!
松永玲子 村岡希美の二人に捧げたような作品だが、二人から引き出すものは引き出し、しびれ雲とは真反対のホラーである。それでいながら、ともに芝居見物の楽しさを十分味合わせてくれる。スズナリでは見たことがないようなマッピングや照明、道具操作の技術を尽くして、昭和期なら松沢病院、といった感じの脳病院院長一家の不気味な安逸を、松永・村岡の奇妙にメイクした女中二人の目で追っていく(二人、快演)。つじつまが合っているような、合っていないようなストーリー展開もステージ技術で見せられてしまう。
「女中たち」のようでもあるし、狂人幽閉の話もどこかで見た(イプセンの幽霊?)ような気がするが思い出せない。客席一杯に客を入れているが二百までは行かないだろう。このキャスト・スタッフで普通にやれば赤字である。チケットも8千円を割る。こういうスズナリという劇場に配慮できるところもKERAの偉いところである。補助席も出ていて手に入りそうだから、一見をおすすめする快作である。意外に短くて2時間20分。


いつぞやは【8月27日公演中止】

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いつぞやは【8月27日公演中止】

シス・カンパニー

実演鑑賞

新しい演劇がくっきりと姿を見せた。
これまでさまざまな形で、書かれ上演されてきた加藤拓也の現代劇の今の時点での集大成のような作品である。今の時代を表現しようとするに演劇が、さまざまな面で自在に具体化されて、舞台に上がっている。うまい。面白い。涙を流さないで感動できる。
描かれるのは「今の」社会の中軸であるべきアラサーの人々の「今の」心情や生活などであるが、そこから今を生きるすべての人々の心情に広がっていくところがすごい。
主人公は小さな劇団の主宰者らしき作家(橋本淳)で、ふらりと訪ねてきた昔の仲間(平原テツ)から、自分のことを芝居に書いてくれとせがまれる。実は彼は大腸がんのステージ4で、余命宣言を受けている。
以後芝居のスジは、この仲間の青森への帰郷とそこでの生活が点綴されていくわけだが、同世代の仲間たちが男女関係や家族をつくり、仕事を進めていく中で、それとさりげなく(と見えるように)関わりながら生涯を終えるまで、なのであるが、そこが、今までの難病ものと全く違う。平原テツの快演もあるが、そこには、すべて命ある人間が必ず通っていく道、そこに人間の喜怒哀楽すべてある、とクールに(しかし冷笑的ではなく)提示されている。野田の本には必ず最後に大逆転があり、ケラには必ずフィナーレで芝居の中の人生を納得させられるが、この舞台は現代の小さな世界を素材にして、現代の姿を、ジェンダー問題から老親問題、就職問題まで幅広く自然なカタチで取り込みながらくっきりと描ききっている。
日本の現代劇のレベルを示す作品である。
数年前からこの作者と付き合ってきたシスカンパニーの見識もたいしたモノだ。パンフレットが500円だが、内容充実。これだけでもシスを評価できる。こちらも十分面白い。
1時間45分。満席。半立ち見席も混んでいるが、チケット代の安さも魅力である。

十二月八日

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十二月八日

青☆組

実演鑑賞

朗読劇の成功例である。
朗読はどうしても演劇の迫力に及ばない。そこをどうすれば対抗できるか、をよく考えてある。
まずは、企画がいい。
太宰治のこの短編を見つけてきたことが第一。背中から手を伸ばして人の心をつかみそうな太宰の言葉のうまさをちょっとあざといくらいに巧みに編集している。80分。
次に素材。朗読される内容に、現実にはいまは存在しない世界へ観客のイメージを飛ばす力がある。素材が今の現実を打つ力がある。しかも開戦月の十二月の公演。
12月八日のこの日は、もう私は物心はついていたから、記憶にある。太宰の文章の力はその記憶へ帰っていかせるだけの力を持っている。大きな嘆息とともに、あぁ嫌な時代だったなぁ、と思うし、国民が集団幻想に踊らされるとどんな悲劇が待っているかは、今の人の多くは知ろうともしないが、私の世代はその解釈は人それぞれとしても、生身の骨身に染みて知っている。朗読という形式はそこへ素直に帰っていかせる回路として、演劇よりも力がある。
朗読劇では、このような半分立ち芝居を混ぜた形で便宜的に処理することが多いが、この公演には必然性がある。音楽(歌)も同様。この朗読「劇」にとって、余計なものを周到に省いて独自の世界を作ろうとしている。一段高く平台を重ね、白布を覆った舞台と、周囲の椅子だけ舞台表現に手を抜いていない。時に象徴的にフリーズショットになるところも、あざといくらい決まっている。
難をいえば、選択した原文部分はこれはこれでまとまっているが、今の人にわかりやすいおセンチなエピソードでまとめすぎているところだろうか。太宰を掘ればもう少し苦いところも出てくるはずである。
俳優はみな柄をうまく生かされていて、この吉田小夏という作演出は初めて見たが、なかなかのタマである。五十隻くらいか、満席。

海戦2023

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海戦2023

理性的な変人たち

実演鑑賞

珍しい企画の上演なので、梅雨の合間の炎天下、西武池袋線に乗って富士見台のビル地下室まで出かけた。異色の点。まず、百年前の築地小劇場初期のオール男性の役の作品を全員女性の俳優で上演する。その女性俳優は、すべて、東京芸術大学で、演劇、音楽、絵画、映像、デザイン、伝統芸能などを学んだ卒業生。だが、現在俳優(演劇)専業者はいない。演出だけは文学座の中堅の生田みゆき、ここのところ良い演出作品が続いている演出のプロ。彼女も芸大大学院の卒業生。グループの名前が「理性的な変人たち」第三回の公演である。
いまも、芸大は日本国中から芸術の抜きん出た才能のある若者が集まる学園であることは誰も否定しないだろう。その若者グループが芸術分野の垣根を越えて演劇をやる。うーむ、なんか面白そう。
「海戦」はもう築地の初演を見た者は生きていないが、記録はある。初演はきっと、第一次大戦時の戦争ヒロイズムに彩られた戦艦の砲塔内の砲手たちの戦場リアリズム劇だったのだろう。今このテキストを選んだのは、いま戦争が世界各地で起こり、日本も無縁ではなくなった時勢に合わせたのだろう。一方、戦闘員(兵)が全員男子だった頃に書かれた本を、現代日本の女性がやる。思い切ったトンガリようだ。これが「理性的な変人たち」の企画か?
劇場のアルネ543は舞台を中に正面と下手に80ほどの客席があるL型の劇場である。ほぼ正方形の狭い舞台を工事現場の金属骨組みで囲んで戦艦の砲塔。囲まれた中は骨組みの間から透けてみえるつくり。四角の窓らしき者がぶら下がっていて、ここから海上や敵情が見える。長い筒で砲を示したり、軍服は着ていないが白い実験室の服を着ていて、それを脱ぎ捨てると戦死したことになる。衣装・小道具を含め現代演劇の小劇場の美術だが、センス良くまとまっていて、さすが芸大の俊英たちの舞台である。
戯曲は戦艦の砲塔の砲手五人の戦闘開始の前夜から、どうやら引き分けに終わったと見える戦闘の終わりまで。それぞれ普通の社会の思い出やら、家族やら、今の砲塔の中の友情とか、このあたりは百年前の本だから、今となればありきたりで、今回は多分大幅にテキストレジして、現代の小劇場作品に仕上げている。幕開き、戦闘前の眠れない夜にちょっと歌ったりする曲が、難しそうなメロディなのに、軽々と歌ったり、見慣れない楽器をちょっといじって聞き慣れないが良い劇伴にするところなど、ここは音楽専攻の芸大生の腕前である。演出は狭い空間に芝居とダンスと混ぜたような複雑な動きと台詞を俳優たちに要求しているが、これも難なくこなしている。台詞も、あまり表現に難しい言葉は少ないが、うまいものだ。リーダー格の砲兵を演じるなど俳優としても十分通用する。
新しい小劇場の上演としても、ユニークなタカラズカとしても、立派にサマになっているのだが、この公演を女性だけでやった意味はよく伝わってこない。ジェンダーをテーマにしているのはうかがえるが、性差をなくせ!というのか、意識するな!というのか、もっと女性の地位を上げろ!といっているのか解らない。それは性差が最もよくわかるセックスのシーンに現われていて、セックスが話題になると、途端にみな男役として役を演じてしまう。
芸大の俊英たちの意味も、表面的にはよく見とれるが、積極的な座組に生きていない。
レパートリーも今までを知らないからなんとも言えないが、いかにも表面的な「海戦」を選んだのは「理性的な変人」とは思えない。もと身近にこのテーマに明確に迫れる作品。例えば、昨年生田が演出した「建築家とアッシリア皇帝」(アラバール)とか、芸術をネタにするなら三好十郎の「炎の人」とかやってみたらどうだろう。
と、書いてもみるが、才能の氾濫を見るのは、良かれ悪しかれ楽しいもので、是非頑張ってほしいものである。



会場で、テキストの築地とこの公演の訂正箇所対照表を200円で売ったいる。ちょっと甘く見て、言い訳なんか聞きたくない、徒かってこなかったが、ちょっと残念。それがあるともっと別のことが書けたかも知れない。

入管収容所

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入管収容所

TRASHMASTERS

実演鑑賞

ここまでの「見てきた」を見ても殆ど★5。かえって疑わしいところだが、見てみると最近のトラッシュマスターズとしても抜群の出来。昔日の社会派の面目躍如。今までのコメントに加えることはほとんどないが、作劇的には、登場人物の位置を巧みに配置して一方的なプロパガンダ劇にしかった技術的な冴え。客演を要所に配して、台詞がよく聞こえる俳優で内容の肝心なところを押さえたこと。事実を列挙したかに見えるドキュメンタリー的展開、いずれも成功して2時間45分の超尺をダレずに客席も呑まれていた。
以下は芝居の内容とは全く関係ないが、この劇場の運営がこの芝居の内容そっくりだった。この劇場は入り口が裏通りに回ってから夜公演になると全く足下が良くない。下町の道不案内もある。うっかり曲がり角を間違えて二分遅刻。すると、劇場の入り口は鍵をかけて誰もいない。やはり遅れてきた人もいて表も裏も開口部を探すがわからない。やっと裏の出口から出てきた関係者らしい人に、塀越しに事情を話すと、表に回ってくださいの一点張り。そうこうするうちに表に回っていて遅刻組の同士が関係者を見つけてやっと入場できた。入ってみれば、プロローグでタイトルが出るまでに数分あったから、七時ジャストには門を閉めて鍵をかけてしまったんだね。
七時快演と書いてありますから、それに遅れる人は入らなくても良いのが建前です。劇団はそんな客はフォローしません、
といえば、それも正論だが、観客は不特定多数だ。違法入国者ではないわけで、それぞれに理由があって遅刻している。現に遅れてきた客がその後もあって合計5名。普通それくらいは遅刻者がいるのは当たり前で、それをシャットアウトして定刻以後は入り口に係員が一人もいないというのは、いかがかと思う。またこの劇場は周囲が暗く劇場なんかありそうもないところに入り口がある。その上暗い。公園なので、管理規則があって明かりがつけられない野かもしれない。それでは公的施設とではない。
これでよく、入り口をシャットアウトしたこの劇団の人たちが黙っていると、不思議だった。この芝居でも指摘しているが、この国は上も下もどうかしてしまっている。タモリに新しい戦前と言われてうろたえているが、タモリと違って本当に戦前を知っている私は全くそうだと思う。これを取り返すのは大変だよ、お上の言うとおり、マスクを外す外さないなんて言っていると、たちまち防空壕なんか作らされるよ。

モモンバのくくり罠

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モモンバのくくり罠

iaku

実演鑑賞

久し振りのiaku公演である。自分も、周囲も納得し、生きたいように生きる、というのは現代に生きる人々の究極の幸福の理想だろう。だがそれを実際にやってみると、・・・というのが今回のテーマである。この作者らしい巧みなテーマ設定で、広い年代にアピールできる。ある意味では平凡なテーマなので、設定は飛んでいる。山中に独居して狩猟を生業とする夫婦(枝元萌・永滝元太郎)と娘(祷キララ)一家の物語、一夜半の一幕物である。(二場で1時間45分)
1年前から山中の生活に耐えられなくなった娘が、山の下で生業を持っている夫のもとから戻ってくる。山の下にも生活の拠点を持つ夫は新しくバーを開こうとして女性(橋爪未萌里)を雇おうとしている。山の上ではかつて妻を狩猟事故に巻き込んでしまった仲間の猟師(緒方晋)が、なにかと妻の面倒を見ている。今日は、動物園勤務で体験学習にきている猟師仲間の息子(八頭司悠友)もいる。普通の生活人には全くなじみのない生活設定なのに、今生きる人の、生きる悩みに正面から答えていてiakuらしい舞台になった。
ここでは、動物愛護、自然愛護、人生や職業選択の自由は、すべての登場人物が守ろうとしている原則なのだが、それが上手くいかない。こういうドラマではよく、そういう社会を囲む外の事情(國の条例とか、地域の習慣とか)や、セックスによる人間関係がドラマを動かすことになるのだが、この作品は見事にそこを切っている。
横山拓也の芝居作りの旨さはこの作品でも遺憾なく現われている。一つだけ例を挙げれば、娘(祷)が帰ってくる理由を明かすところ。笑いも交えながら、現代社会で本来の人間性に基づいて生きる難しさを見ることになる。小劇場にジワがたつ。
コロナの下で、スケールが小さくても大小のテーマをこなす横山拓也には注文殺到していると思う。今年も何本も見たし、中にはどうかと思う作品もなくはなかった。しかしこういう乱作の時期は劇作家が大きくなる過程で必ず超えなければならない尹壁でもある。今年はこの作品一本でも良い。あえて言えば、少し会劇劇になりすぎたところか。



同盟通信

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同盟通信

劇団青年座

実演鑑賞

昨年夏には、第二次大戦下の日本の戦争を舞台にした6作を集中再演して好評だったチョコレートケーキの作者・古川健の新作。昭和12年に国策通信社として戦時下で戦勝協力した同盟通信社で働いた人々の群像劇である。
私より一歳若い同盟通信はわずか十年でその役目を終えて舞台から退場するが、戦時の外国との情報関係を、担わされた悲喜劇的存在でもあった。
戦後80年にもなれば、この当時のいきさつはよく知られていて、この舞台で新たに知った情報は今となってはない。しかし、現在、世の中がきな臭くなり、それに引き換え国の舵を取るべき政治家も官僚もなすすべはなく、国民は無関心を装って個人のスキャンダルにうつつを抜かさざるを得ないという、往事(国際関係はまるで音痴、国内では阿部定、似たようなことが世間の話題である)と同じことを繰り返しているのを見ると、この芝居を今見る値打ちはある。役者が、人間として事件に対面する再現の迫力は強い。
舞台は2時間10分だが、同盟通信社に禄を食むべくそこで登場する社員たちの創立から解散までの足跡が実に要領よく、要点を外さず、情に溺れることなく、描かれている。俳優たちの役割はほとんど史実再現の台詞役ではあるが、見ていると、東洋の島国が人材も乏しく、追い詰められていく身を切られるような現実が惻々と迫ってくる。同時代を数百万人の犠牲者にならずに生き延びた者にとってはつらい芝居である。批評は止めて、観客席を見ると、ほぼ130人ほどの劇場は7割は70才以上の主に男性客。しかし、それに混じって二、三十人の二十才代の若い観客もいる。考えれば作者も明らかに戦後生まれである。もう同時代感覚で一夜芝居を書き切れる劇作家はいなくなった。
それが、演劇と歴史の運命ではあるが、それでも、この国の変わらぬ事実は、俳優の肉体を借りて実感として知っておいた方が良い。

犬と独裁者

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犬と独裁者

劇団印象-indian elephant-

実演鑑賞

初めて見る劇団だが、もう20年もやっているという。記念公演だ。主催者の鈴木アツトのカンパニーのようで公演数が少ないから見る機会がなかったのか、目立たないようにやってきたのか。作者にこれだけの力量があるなら、もっと注目されるチャンスはあっただろうにとも思う。
スターリン独裁下のソ連の劇作家・ブルガーコフの話である。鈴木アツトは時代の罠に落ち込んだ芸術家の評伝劇をいくつか書いていて、これもその一作だ。芸術家の伝記というのは数々ある名作を引くまでもなく、演劇向きの材料だ。
ソビエトの社旗主義国家という構想は今も人類の忘れがたい夢の一つで、ソ連の夢の後引きになったウクライナ戦争が泥沼化している現在、時宜を得た良い企画である。
物語は、グルジア出身のスターリンが青年時代には現地語で詩を書いていたことを梃子にしている。あの愛に満ちた詩を愛した青年が、社会主義の理想に触れて、なぜ、世紀の殺戮者になったのか。スターリンは、自分の詩を封印してしまう。
舞台では、頭角を顕しはじめたブルガーノフにスターリンの評伝劇を書くようにとモスクワ芸術座から記念公演のために注文が来る。スターリンの詩人性と、脇目も振らず全体主義国家構想への邁進したスターリンが、劇作家の中では融合していかない。作家自身の身辺の前妻と現在の妻との葛藤、飼い犬と劇作家の関係、モスクワ芸術座の見事なまでの忖度ぶりと変節が、巧みな劇作術の中で展開していく。この実話性は一部は聞いたような記憶もあるが、そこはどうでも良い。今の時代につながる現代の芸術家の当面する現代の病癖をドラマにしている。ほどよい前衛性もあって、忘れ去られている後期ソ連時代に現在の後期アメリカ資本主義が重なってくる。知的な構成で、変なキャンペーン性などまるでないところも見事である。戯曲はうまいものだ。
しかし、この作品を生かすには、表面に立つ、演出・演技が戯曲に遠く遙かに及ばない。それでも、一応満席になっていたのはひとえに戯曲の力である。そのほかの点は一つ一つ悪口を言うのは止めるが、この本を、文学座のアトリエで今、旬の女性演出家の手で見られなかったのは残念というしかない。30歳代の若い作家たちはかつての新劇の運動性とは無縁である。劇団運営も演出も得意ではないだろう。この惨憺たる俳優陣にもどう言えば良いか解らなかったのではないだろうか。戯曲を他者に渡すという共同作業が出来るオープンな場を積極的に作ることがこれからの日本演劇の課題だろう。



我ら宇宙の塵

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我ら宇宙の塵

EPOCH MAN〈エポックマン〉

実演鑑賞

お盆の時期にふさわしい小洒落たファンタジー(メルヘン)である。手が込んでいて、大人もませた子供も楽しめる仕上がりだ。
初めて見る劇団を選ぶときの選択手段に出演者、というのがある。今回はまだ五回目の公演というのにこれだけの顔ぶれが付き合っている。きっと幕内では評判の新人の作・演出なのだろうと観にいった。これが当たり。
いかにも、今風の作らしく登場人物たちは、今風の生活の中で、どこかなじめず、環境からか、自分からか、いつのまにか脱落していった人たちである。夫を事故で亡くし、十歳くらいの息子(小沢が操るパペット)としっかり生きたい池谷のぶえ。自立して生きることに自信はあるが周囲は自他共に信用しない異議他夏葉。発達障害から回復して社会生活が順調にいっていると信じている渡辺りょう。社会から脱落して自分のプラネタリウムを運営しているギタロー。この取り合わせが絶妙で、それぞれのキャラ付けも、台詞もメルヘンにふさわしい。新人らしからぬうまさで今日日あちこちで聞こえる会話が舞台に上げられている。
池谷の人間関係を拡げていく中で、現実からメルヘンへの道筋を作っていく。迷子になった息子をさがすところから、野中のプラネタリウムで星座に対面するところまでの物語の作り方もうまい。子供に母が聞かせた「おとーさんは星座になったの」と言うことを入り口に展開するプラネタリウムの後半は、大胆に採用したプロジェクションマッピングの巧みな技術もあって、小劇場を超えたファンタジー世界が現われる。
注文をつければ物語が甘いのではないかと言うことになるだろうが、夏場にこれだけ行き届いた作品を見せてくれれば、次に大いに期待する、ということになる。しばらく現われなかった加藤拓也の、年は若くないライバルが現われた。
ほじょせきもでて満席。

総評

コロナからの回復期だった。大きな公演の「笑いの大学」「金夢島」「兎波を走る」「ある馬の物語」は除いて今回は小劇場作品だけから選んだ。それぞれに面白かったが、ケラが参戦し、常連の古川、横山、加藤拓也、木下歌舞伎はやはり強い。そうなると、これから出てくる人たちはうんと頑張らなくては我々観客の眼にも触れないことになってしまう。奮戦努力して楽しませてもらいたいものだが、生田みゆき、鈴木アットなど次が楽しみな人、どうなるかわからないが、これから数は打たないと生き残りがむつかしい(そういう世界なのだ)吉田小夏など、完全復調の世界でいい顔、かなぐり捨てて走ってもらいたいものだ。コロナでふるい落とされる人たちは馬脚を現すことになってしまっているのだから。

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