
鶴かもしれない
EPOCH MAN〈エポックマン〉
明大前KID AILACK ART HALL 5F ギャラリー(東京都)
2014/05/22 (木) ~ 2014/05/26 (月)公演終了
満足度★★★★
つるかも
自身の体(姿態・容貌・声等等)の持つ表現力、影響力、効果のほどを探り来ったところの自己評価を基盤に、出せるものを出し、使えるものを使い、音、照明、小道具を駆使して笑いも織り込みながら作りこんだ一つの劇世界。 55分。

どんてん
東京タンバリン
小劇場B1(東京都)
2016/01/21 (木) ~ 2016/01/25 (月)公演終了
満足度★★★
現場仕事にゃ松本哲也なり?
小松台東「想いはブーン」を観たせいか、作業服姿のイメージがかぶって見えた・・という感想を第一に挙げるのも何だが・・、キャラ分担が明瞭な他の役者とは対照的に、彼だけは自のまま、ただ台詞を喋っているような印象。演技の問題?当て書きの精度の問題?ラストをみて、そうなるにはそうである必要があったのかも知れぬな、とも思ったが、「死」が不都合を洗い流したのみという話も・・。
初めて観た「鉄の纏足」と「しなやかに踊りましょう」「あの人」との創造的密度の「落差」(私はそう感じた)に驚き、一本通るものがどこにあるのか、良く言えば多彩さ、なれども私には遠くなっていた劇団。しかし今回たまたま時間と場所のタイミングで観劇したところ、不安を覆して(「鉄の纏足」のインパクトには及ばずだが)、それなりに作りこまれた劇世界を味わった。
しかし、やっぱりこの劇団のコンセプトは何なのか・・というのは残った。芝居というものは完璧ではなく、無理・矛盾、足らなさがあるもので、恐らくはあそこを目指していたのだろうと、推定しながら舞台は受け止めている事が多い。問題はその「あそこ」の在りかで、この劇団はまだよく掴み切れないというのが正直な所。
ムーブというのか、全体でコンビネーションダンス(名称は適当)をやるのはこのユニットの特徴のようで、例えば建築現場の足場材を置き換える動きも組み込んで場面転換を行っていたが、こうした特技もドラマ本体との関係で劇的にもなれば空疎にもなる。今回は悪くはなかったが、私としてはリアルなストレートプレイでビル建築現場を選ぶなら、その作業内容が(ある程度は調査された感じはあったが)もっと緻密であって良い。
もっともそこをリアルにするとラストの展開は起こりづらくなるかも知れない。しかしそうであったとしても、何がしか理由を考え、筋が通らねばならない。 リアルさを追求すればそれはそれとして一つの強さを持つと思う。なぜそこに作り手はコミットするのか、という自問に向き合う事になろう。
「死」がテーマではあるが、その死をどう受け止めるかは、どういう死に方をしたのかが、厳密である事が重要で、あるいは知り得ない部分があるとすれば「知り得ない」現実に人物らは直面する、という事も重要である。
一箇所、「おっ」と目を開いたのは、足場板という30㎝×2~4mの長い板を演技エリアの四角の周囲に組まれた通り道に乗ったり外されたりしているものが、中ほどにある60~80㎝四方位の恐らくコンパネで作った箱型の枠に渡す場面があった。片方は鉄パイプで組まれた足場で頑丈だが、片方はその1~2㎝位の厚さのコンパネに、ギリギリかかる程度に置く。
ちょっとズレれば足場板は1メートル下の床に叩きつけられ、乗っていた者は少なからず負傷するだろう。ところが、その形のままムーブが始まり、何人も人が通っていた。なぜああしたのか。四角の枠の中に後で人が飛び込む場面があり、邪魔にならないためにそうしたのか、それとも、足場という場所の危険さを身をもって知らしめる視覚的効果を狙ったのか、・・、あの「危なさ」は何がしかの効果を持ち、よく試みたものだと思った。にしては、さほどアピールされないのも憾みだが。
繰り言になるが、「想いは・・」の緻密な作りと比較されてしまうのが、作業服の松本氏を起用した事の必然の成り行き。(必ずしも「想いは・・が「現場」を描き切れているわけでなくドラマの構成や人間を捉える角度の問題だったりするのだろうと思うけれども)もう少し、肉薄したい。

明日から来た男
個人企画集団*ガマ発動期
ザ・スズナリ(東京都)
2016/02/03 (水) ~ 2016/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
初☆<ガマ発>観劇★ハツ日の巻(汗)
書道に喩えるなら、(舞台なので・・)デカイ白紙にデカイ筆で、例えばデカイ円をかくという一発勝負。墨の軌跡を挑戦者の背中越しに手に「汗」を握りながら目で、感性で追っている・・似ているなァ観劇というものはそれに、と思った次第。 今作は佃氏の不条理劇だがとても血の通った劇になっていた。 涙に落として良いのか・・?と思う部分もあったが、劇にとってそれは大事なことだ、ということであったのだろうか、そうかな。そうかも知れない。墨の書き出しは上々。円弧が左へ膨らみ、下辺を辿っていよいよ難関、右上へ向かうラインで、そこまでに引っ張った線の形を踏まえて最上の「締め方」で墨を置き終えねばならない。結論から言えば、終盤は、伏線の網をよく手繰り揚げたものだが、墨が切れたか、そのスピードではカーブを曲がり切れなかった感はあった。そこまでの引きは私的には抜群で、シュールさにほくそ笑み、スピード感に踊り、総員出そろった場面には激わくわくした。・・冒頭は「城」のKよろしく、宿命づけられたかのような彷徨い方でその時間を彷徨い、やがて辿り着いた教室でのドラマが後半を占める。どういう原理で成り立つ「教室」なのか、判らない滞空時間も、大丈夫、不条理劇だから・・・子供というものはどこでも屈託ないものでもあり。外敵から襲撃されるシーンが秀逸、ツボだった。 願わくはあの敵との何らかのケリを付けるというのが、私的には理想のラストであったが・・ それでもあのシーンを生み出した事に拍手である。
味のある出演陣の、中でも野々村のん・伊東由美子・牛水里美ら女優の存在感、というか、地味ながらの貢献に目が行った。
奇態で涼しげで熱く、温かでもある、程よいバランスの取れた芝居だと思う。(まぁ好みという事か)
ただ初日は台詞の危うさ、それによってか揺れが見えた気がした。(リピートできず残念。。)

THE GAME OF POLYAMORY LIFE
趣向
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2016/01/21 (木) ~ 2016/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
書きそびれた感想を。
polyは複数を表し(ポリリズム等)その逆はmono(単数)。polyamoryとは一対一の関係でなく複数の人間が親密でオープンな関係を持つ、その可能性についての考え方、あり方の事らしい。以前観た映画「ウェディング・バンケット」は、ある同性愛カップルの一方の青年の父が未婚の息子を心配して本国(中国)からやってくる事になり、たまたま見知った女性に急遽「偽装婚約」を頼み込む事から三角関係が発生し、儒教の国の住人である厳格な父の泰然とした風情と、ドタバタと口論を繰り返す三人とが対照をなすコメディだった。興味深いのは最初は呆れていた女性が、二人の関係が成立する内的な必然性、即ち二人の人間性を知り、惹かれて行く点だ。今思えば、ほのぼのした後味は、polyamoryな関係を仄めかすものだった。
多様性を拓く契機を同性愛者が与えるのは芝居のほうも然りで、主人公の女性は夫に恋人(男性の)が出来た事により、その違和感を超克する道を選ぶ事になる。そして今や関係の中心に彼女がいる。人物らの心理の真偽を観客は注視する事になる。全てをオープンに語る彼ら。二人になった時の会話で今いない他方への思いを語る。関係にとって重要なのは「内面」であって制度内での役割ではない、という究極の理念がそこにある。内面を隠さないのは、全ては肯定されるべきだ、との前提に基づく。そして、安定したかにみえた関係にも変化・揺らぎが生じて行く。にも関わらずそれらを肯定し祝福する関係が、果たして成立するのか・・・ 作家の想定上の実験は舞台上で、どうだったのか。 決定的な(芝居としての)破綻が見えなかった事をもって、これは成功と言うべきではないかと思う。 揶揄するとするなら、この芝居のような状況は容姿の美しい彼らによる「美」の独占欲のなせる形であって(美醜への生理的反応は人間に組み込まれたもの)、殆どの人には無縁な話かも知れない。

元禄港歌-千年の恋の森-
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2016/01/07 (木) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
蜷川演出、三作目。
全体に判りやすさの中に何がしかの趣向を持ち込む演出家、との以前持った印象を思い出した。客席の通路を出ハケに使い、盲目の二人のみとなった女連れ(猿ノ助と宮沢りえ)の道行き、両名とも目を瞑って・・という演出かと一瞬思いきや目を見開く方。表情を見せたかったためだろう。そうした効果や、プロセミアムの枠を覆い隠す程の、椿の緑は故・朝倉摂の美術、故・猪俣公章の音楽、故・美空ひばりの歌・・。もちろん亡き秋元松代の戯曲は、ギリシャ悲劇張りに、大舞台に見合う物語を紡いでいた。興味深い作家の上演はまだ二作目。蜷川氏の発掘(又は復刻)仕事に今後も期待。

馬鹿とは、
多摩美術大学映像演劇学科3年表現ⅡAコース
多摩美術大学 上野毛キャンパス 演劇スタジオ(東京都)
2016/01/31 (日) ~ 2016/02/02 (火)公演終了
未熟な作品から透かし見る
終演後に手にしたパンフをめくると演出の「言葉」が書かれてある。多摩美では間もなく廃科になるというその科で、「自分らで劇を作る」という難題に向かうに徒手空拳、己らを「馬鹿」と蔑む他術ない開き直りから、この舞台は作られている・・・その裏ストーリーを合せ含めて観るというのが、(作り手的にも)正しい見方である所の舞台作品を観た、のだと思う。
1時間20分、ストーリー自体があっちにぶつかりこちらで転けしながらどうにかこうにか、「ラスト」と呼ぶべき地点にたどり着く。 ドラマの鉄則もそこここで破られ、逆効果な差別言動や、「転向」を易々と遂げる人物たちや、観客が唯一拠り所にできる主人公の「視点」もほとほと脆弱な体たらく。それを(やむなく)踏み台として中盤以降の「劇的昂揚」を演出するも、ニアミスな選曲が続くなか俳優は場面の意味を掴み切れぬままただエネルギーを放出しながら彷徨い、こうして「劇作り」の悲壮なドキュメントが進行して終わる。
・・この全てを「映像」と捉えるなら、つまり製作着手から始まった彼らの「物語」に触れたという事なら、ある種の感慨も湧く。 物事はどう転ぶか判らないとも。 が・・ 演劇を学ぶ学生の成果発表はそれとしてきちんと受け止めたい。この地点を踏みしめこの先へ、踏み出して行って欲しい。

黒蜥蜴
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2016/01/16 (土) ~ 2016/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
三島作エンタテインメント
SPACによるこのタイトルが初めての「黒蜥蜴」観劇。昨年にも美輪明宏版が演られているが、SPACが選んだ演目として興味を開かれた。三島由紀夫のきめ細かな脚本と台詞は「文学調」との先入観を退け、昭和の東京を舞台のサスペンスとして面白い。とは言っても三島である。黒蜥蜴ののっけの長台詞に彼の美に対する思想がしっかり書き込まれているし、気の利いた台詞と構成に無駄がない。 中で黒蜥蜴は「人」として特異な存在だが、対峙する一方の探偵明智小五郎も彼女に「同期」し得るものを秘めている(それが二人の結びつきを形作る)。この点がドラマにおいて二人の(探偵と盗賊の)対立に加えて、「ある種の真実」を共有する二人と、それを理解し得ない俗社会との対立という、もう一つの軸を引き込んでおり、最後には後者が前面に浮かび上る。
江戸川乱歩の世界を思わせる闇色を基調にした舞台上で、達者な俳優が縦横に躍動する怪しさ満載のヤバい三島作エンタテインメント。

夫婦
ハイバイ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2016/01/24 (日) ~ 2016/02/04 (木)公演終了
満足度★★★★
「て」の裏ドラマ的ドラマ
胸苦しいドメスティックな(殊に父をめぐる)逸話は、数年前同じ芸劇で見た「て」に通じ、作者の体験が色濃く投影されている、とみえる(人物名からして岩井である)。トーンや作りは「て」とは全く異なるが・・。家庭の中で「躓き」を授かったクチである自分には、ど真ん中を突いて来る話なのだが他の人はどうなのだろう・・と思いつつ毎回岩井ワールドを観ている。
「夫婦」のタイトルが徐々に的確に思えてくる「母」の浮上の仕方は、「岩井」の目線が憎悪の的としての父から、彼に寄り沿った母へと移行する変化を表しており、それ自体肯定されるべき「夫婦」という所に収斂されているのを感じる。その意味では最後には温かい風の吹く芝居だが、「父も人間なり」と安直な理解をアピールする事はなく、ただ嵐の後の安堵を呼吸し、遠くに「赦し」を射程とするか、しないか・・少なくともすぐにそれは訪れない感じではある。・・というのは自分の今の心の投影かも知れないが。
子供時代の兄(平原)と妹(鄭)との三人と、父の「戦い」は凄まじい。だが子供というのは親への抵抗を「歯向かう」形では遂行できない。年を重ねたある時「岩井」は父に怒りをぶつける事で溜飲を下げているが、受け止める側の父との言葉の交換は通り一遍では行かず、「世界」の不条理は解消されぬまま心の中にしまい込まれ、時の過ぎゆく中で熟成されるのか、消化されるのか・・。余韻が背中に残る。

書く女
ニ兎社
世田谷パブリックシアター(東京都)
2016/01/21 (木) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
樋口一葉が動いている。
永井愛作/二兎社公演舞台の再演。初演は未見。演劇人永井愛は「あの名演をもう一度」的再演はやらなそうな人だ。何がしかチャレンジのしどころあっての、今回は黒木華というキャスティングがそれなのか判らないが、いずれにせよ洗練された舞台だった。生ピアノの演奏/音楽のクオリティが高い。深みがあって繊細で、僅かな色彩の違い(即ち人の心理のひだ)も逃さず捉え、並走しているライブ感がある。俳優は全てうまい。こまやかな笑い、動線や転換のスムーズさなど演出の力量も十全という感じ。
自分は樋口文学は「にごりえ」を読んだか‥という程度だが、独特の筆の進め方が印象的で、誰にも真似できない樋口オリジナル、可憐で大胆、「天然」なイメージがあり、それが今回の役にもそこはかとなく窺えた。「天然」即ち己の持てるものをさらけ出して生きる人、とするなら彼女は生を燃焼させた人で、舞台上にはその赤裸裸な姿があった。
後年、文壇からの批評・批判の的となるが、ある宿敵(批評家)の挑発的な質問に堂々と答える傑物ぶり、さらにその彼を友のように対する地点に一葉は立つ。成長と変化が、黒木華の身体を通した一葉に起こって行く。母と妹とのコンビネーションが絶妙。
日清戦争へ向かう時代の世相を描写する台詞や、一葉の師匠がこぼす「朝鮮」の話など、さらりとながら、人が「時代」と無縁には生きられない証左として織り込まれているのはさすが。 とは言え‘メッセージ性’を求める向きには薄味であったかも知れない。だがどこかしら味わいある舞台だった。

タンバリン
劇団 go to
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/01/29 (金) ~ 2016/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
九州戯曲賞
四人の演技、照明音響のみで見事に「世界」が立ち上がる。50㎝ばかり上げ底の床がやや広めのリングに見える、だけが工夫と言えば工夫と言える素舞台で。何より脚本が力強い。種の欲求、美醜、欠片と全体‥といった壮大な思想から卑近な日常に潜む虚無感にも鋭く目を向けながら、多少無理のある女性4人のボクシンググループ(?)のコミカルで/テンポの良い/スポーティなお話は立派に大団円を迎えるのであった。

ファニー・ピープル
シンクロ少女
ザ・スズナリ(東京都)
2016/01/13 (水) ~ 2016/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
2ndシンクロ観劇atスズナリ
力作、という表現が正確かは置いて、この語を当てたい。 発展途上の印象は拭えず、戯曲の隙も見えるし役者の(役づくりの)力量差も見えてしまう(もう一歩という箇所が・・、台詞のモンダイも・・)。んでもって、お話のほうは毒の擦り込みが効かない内に救い上げ、ドラマ的な山を作る意図が見えたり、思うに「苦悩」の掘り下げが足らない(としたら作家としてはもう一歩‥)のであるが、なぜか「悪くない。」、肯定評価をしたいと感じる自分がいた。
だとしたらこの「不足感」は、完成形に接近しているために却って欠陥が浮き上がってしまう、あれか。
好感触の理由は、「いま出せる全て」をやった、出し切ったという作り手の気迫のせいか、単純に使われた楽曲(時宜を得ていたぞなもし)にヤラレたからか。。 「惜しい」と感じたのは事実。この「惜しい」は「応援」の意味合いが大きく、芝居は何かに迫っている、そこをもっと掘り起こしてほしいという願いがセットである。
だから「あそこも、あそこも」と色々と「難点」も挙げたくなる(それで補完しようとする)のだろう。
しかし、それでは何に引き寄せられたのか・・? 多分、<人間をつかまえようとしている>作家の視線に、だろう。
初日をみた。でもって楽日もみる、というプチ贅沢を一度やってみたいものだ。(やれないので、願望吐露)

街と飛行船
劇団昴
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/01/09 (土) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
明るい別役実相談室
別役実フェスの発起人でもある鵜山仁の「初別役作品演出」舞台は目玉の一つ。 当フェスティバルで観た幾つかの舞台とは一味違うこちらは、照明ともども「明るい」「見通せる」日常感覚を基調としながら、「不条理」な事実をこの劇世界においては通用しているものとして人物らが納得している部分といない部分の境界線の引き方が、少し違っているという感じだった。
これまで観た「壊れた風景」「あの子はだあれ、だれでしょね」「うしろの正面だあれ」は、ひと回り小さな劇場で「闇」から浮かび上ったような小世界があり、比較的少人数で精緻に作られた「作品」のイメージだった。今回のは少し広めの箱で人数も多いのに加え、小室等の素直な楽曲が効いていて、「切ないけれどそれなりに大団円を迎える」健全なお話になっている。であるのに、飛行船とか架空の町の存在は不気味に影を落としている。裏の裏をかいている感じもある。
戯曲の捉え方として果たして正解かどうか・・ しかし小室等が初演かそれに近い(鵜山氏が関わった)公演に楽曲を提供しており、内一曲は初演のものらしいというのは意外だ(他は作曲者本人も忘れていて再現できなかったようだ・・ポストトークにて)。
70年代の日本の音楽界はフォークの層は厚く広く、電子音の活用もされたり、フォークと聞けばアレというイメージからは想像しもしない世界がある事を最近知ったが、この舞台での音楽も基調は分かりやすい和音とメロディを持った楽曲ながら、ある種の「濁り」もあって曰く言い難い色に芝居を染めていた。 不条理感のある音ならもっと明瞭な舞台にもなったと思うが、不思議な融合を見た気がした。 楽曲のゆえか最後は「感動」しさえする。
ヒッピー風の男女のゆったりした歌から始まり、この「飛行船の浮かぶ町」に迷い込んだ男とともに「旅」をする2時間40分。そして最後も歌で「大団円」。やはり音楽に尽きるように思う。

演劇研修所第9期生修了公演『嚙みついた娘』
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
噛みついていた。
1936年初演の作品という。
最近は新国立主催公演より研修所公演の方が面白いと感じる事が多い。 今回が修了公演との事で、前回の「血の婚礼」で演じた俳優たちを思い出しながら観劇。あと一回は観て送り出したかった・・などと勝手な思いを抱きつつ。 今作は、前回母役で印象に残った岡崎さつきが着物姿で女主人を演じる「冨田家」に、八幡みゆき演じる十歳の少女ステが女中として雇われた日から、「富豪」の家中の虚飾と不実の光景を目にした挙句、「噛みつく」時までを描く。 当家の父母と令息令嬢、その婚約先の両親や新聞記者、二人の女中と書生、ピアノ教師、そしてステを紹介した施設の女性が見事にキャラ分けされ、どの役作りも勘所を外さず芝居のアンサンブルは気持ち良いものがあった。 秀逸は主役ステの形象で、聞けば家は貧しく悲惨だが明るくあっけらかんとした、おぼこ娘を好演(怪演)。
舞台は大きな正方形の台上にあり、頂点を結んだ線で仕切られた一方が食堂、他方はさらに二分割して娘の居室と女中部屋。回転舞台で転換時はゆっくりと回り、ただし高さはなく背後も見通せる。大振りな仕掛けは栗山演出っぽいが、「家庭内」劇の軽妙さは損なわず、ステの無垢な歩行のイメージに当てたようなピアノ曲(古典だが曲名判らず)と相性もピッタリだ。
終盤、転換ではなく舞台がゆっくりと回って家の中の様相を見せる。この効果は昨年のペニノ「地獄谷温泉 無明の宿」に等しい。
戯曲の時代的な限界は所々感じたが、現代の上演に耐える仕上がりに持って行けたと思う。ぐっと引きつけ、身につまされる箇所もあり、何より最後まで目が離せなかった。
・・とは言いつつ、難点をネタバレに。

『かもめ』
演劇ユニットnoyR
Livingood Cafe 高円寺 (東京都杉並区高円寺北2-36-10)(東京都)
2015/12/19 (土) ~ 2015/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★
借景と飛び道具
俳優三人による変則的「かもめ」。上演70分程度。会場は高円寺駅から徒歩5分程の宅地エリアにあるカフェ(バー?)の中。路地から段差もなく地続きのフロアへ、入ると手前側に客席、椅子を借り集めたような格好で20人程度か。受付を済ませて覗くと暖色系のランプが吊るされたやや薄暗い内部、正面奥にカウンターがあり、背後にボトルの列が見える。セットではなく、店内のふだんの状態そのままらしい。ユニットnoyrは座高円寺の劇場創造アカデミーを出た3人が作り、今回は樋口ミユを演出として、小野寺ずる(□字ック)を客演に招いた。 開演前から喪服の女優がバーのママよろしく佇み、背の高いウェイター姿の男性が店員風情で掃除をしたりしている。店内がリアルに飲食店なため、二人の存在も借景の「景色」に含まれて見える。佇む女性はユニットの1人、男もアカデミー出身者のようで、残る一人が・・と上手をみると、パーテーションの隙間っぽい引っ込みに垂れた布の下から、ベージュの衣裳と素足がプラプラと揺れている。出番を待つスポーツ選手か。開演すると彼女が飛び出て「小野寺ずるのオンステージ」の様相は、noyr版(樋口ミユ版?)「かもめ」を大きく支配する。マイクを持って歌ったり、演技も持ちネタの披露といった案配で笑いを誘う。役者というより芸人である。
テキストは当然ながら大胆に構成され、チラシには「喪服のマーシャの視点」とあったが、先程の黒服のバーのママ然たる女性がマーシャで、客待ちの風情で本を読んだり、目の前で展開する人生模様をバーのママ然と眺めたりする、という舞台上の構図があって、ベージュ色の男女が「かもめ」の男女各2役(男はトレープレフとトリゴーリン、女はニーナとアルカージナ)を演じる。役の変化は男女ともかぶり物のみ。 「かもめ」は痛い話である。主な筋は、モスクワから離れたある地方の地主風情(=召使いを雇える階級)の息子トレープレフが文学に熱を上げ、近々帰郷する母アルカージナ(女優)のために自分の作品を地元のニーナという若い女性を舞台に立たせて披露しようとしている、そこへ母は、愛人のトリゴーリンを連れてやってくる、彼は売れ始めた作家で、当然トレープレフにとってはニーナを奪われかねない宿敵登場な訳だが、元々トリゴーリンの読者でもあったニーナは彼にぞっこん、モスクワ帰還の間際に自分も同行したいと申し出る。そして後半、ニーナのその後の噂などが交わされるが、実は彼女は既に帰郷しており、傷ついた彼女の訪問を受けたトレープレフは、あれこれあって最終的に自殺という結末に至る。かもめはニーナの暗喩で、始め死んだカモメが凶兆として登場するが、この作品が輝きを放っているのはこのニーナの(かもめにイメージを重ねられる)描写だろう。周囲の人物との対比で、そこが浮き上がってくる。
この対比すべき両人物を演じた小野寺ずるだが、真面目に批評するのも無粋と思われそうだが・・ その時点での役の「核」を捉えて凝縮し、カリカチュアして表現する。このカリカチュアの加速具合がレーサー並に激しく、そこが見モノとなっている。しかし役の表現そのものはギアを入れ過ぎて若干ブレが生じ、芝居を作る上では精度が落ちる部分があった。「歌」の挿入はそれ自体が芝居の上ではズレを呼び込んでいるが、そのズレた分を回収して本筋に戻る所がうまく行っていたかどうか。また、泣く場面が長く単調で、「泣く」という行為は表現としてカリカチュアしづらいものだったのか、と想像した。
「飛び道具」としての小野寺氏の活用の是非は、彼女の演技の「加速」のエンタメ性を優先し過ぎて「本体」に収まり切れなかった、「小野寺」流を使うならより微調整が必要であった、という風に思う。
テキストに戻れば、最後にマーシャが初めて「芝居」の台詞を語るが、ニーナの台詞だったように思う。最後に「観察者」であったバーのママ=マーシャ?にニーナの心を代弁させる意図だと解せば、理解できなくもないが特段そうする必要もないように思った。ただ、「かもめ」のお話の抄訳としては、判りやすく見れたし役の心情もよく伝わってきた。がやはり何かが惜しい。

暴れ馬/レモネード/コーキーと共に
ナカゴー
ムーブ町屋・ハイビジョンルーム(東京都)
2016/01/09 (土) ~ 2016/01/12 (火)公演終了
満足度★★★★
ナカゴー的。をまた観にいった。
ナカゴー独自の世界があり、これは少し癖になりかねない、とは思う。黒幕を上下に設置して出入りは上下のみ、というムーブ町屋の毎度のセッティング。五反田団の脱力芝居の妙味と、こちらは「絶叫」とか汗涙鼻水はあるが、通じるものがある。
短編3つだが、アメリカ人の役が配され、竜巻があって銃もあるからアメリカが一応舞台のようだ。奇怪な演技をする人達。台詞を食われると、つい笑っている兄貴がいた。おいおい。でもそれしきでは芝居が壊れない、「お芝居」だという事を重々、重々々々判ってお互い観て、演じている空間で、一体何を中心軸にここは回っているのだろう・・・考えてみるのも面白そうだが今はツボにはまった幾つかの役者の動きを思い出して反芻する事にする。

アマルガム手帖+
リクウズルーム
こまばアゴラ劇場(東京都)
2016/01/08 (金) ~ 2016/01/13 (水)公演終了
満足度★★★★
未開発な感覚(数式の事だが)
この作り手についての事前知識ゼロで観劇。このスタートの差が恐らく開演後間もなくから聞こえる客席の笑いの感覚の落差となり、私としては不親切な作りという事になるのだが、「製作の文脈」を踏まえて観たとしたら腑に落ちるものだろうか、と推察した(あくまで推察だが)。
個々の場面に書かれた台詞は面白い。 演じ手のそれぞれが持つ持ちキャラ、性質を有効活用した面が、舞台の面白さにも繋がってはいるが主体はテキスト、台詞だと感じる。
この言語が難しい、というのは特にブライアリー・ロングが繰り出す長い長い台詞の抽象性・比喩性?が高く、その中に「数式」が出て来る。彼女は母国語訛りの強い日本語なので、「何を言ってるのか」判るように、との意味もあろうが、台詞中の数式は映写される。そこで、この数式を追うことになる。 高校までに学んだ数学を、意外に懐かしく思い出し、含意を汲み取る事もできようかと、目をこらして見るが、判らなかった。数式の中に漢字の単語が入ったりもする。単語と単語を分子と分母にして、別の分数とイコールで結んだり、奇妙な世界に入って行くが、その「数式」が文学的表現として、「数・記号」を全く無視して遊んでいるのか、ある程度論理的に考えられたものなのか、判別が付かない。それで、判読するのはやめてしまった。
言語というものの「論理」の側面は、数学を含めた「法則性と解のある世界」に帰属している。しかし私は自分の言語能力の「論理」の脆弱さを痛感しており、舞台を見ながらそんな痛い気分を思い出したりという事も。
そんな事でこの舞台の「数式」の導入についての評価は、何も出来ない。
ただ、言語とそれを使う身体の「関係」(についての固定観念)が相対化される様相が、ダンサーや西尾氏ほかの起用と実演を通して感じられたので、日常言語がそれとかけ離れた代物によって相対化されている様相として、「数式」の事を受け止めた。
終盤で二人の男女が言葉を交わす場面は美しい。「言語」が、二人の身体(感情)についての情報伝達手段として、実は適さない代物にも関わらず(それしき無いので?)駆使して「心」を探り合い確かめ合う、そんな時間。
・・が実はそれは理想化された「私」で、彼女と対になっている女性(タカハシカナコ)が現実の「私」、という構図だと知ると、何やら多義的である。

優子の夢はいつ開く
パイランド
【閉館】SPACE 雑遊(東京都)
2015/12/23 (水) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
チャーミングな毒気
内田春菊の世界(自分も昔漫画を読んだ)を久々に思い出した。演劇のテキストに置き換わっても内田印の香を放っている。かつ、space雑遊で体感したどの芝居とも違う独特な空間--チラシのイメージを立体化した?--の快い肌触りに浸った。
)冒頭、突如挿入されるミュージカル風の下手ウマな独唱で主人公優子(専業主婦)の住む「小宇宙」が描写され、劇が始まる。古き米国TVホームドラマ風なパッケージがセット(お金持ちの設定)共々提示された感。 鼠の出没の疑いについての言及以後、外部(の人々)の「侵入」に対する無防備さとギリギリの防御の按配がスリリングで、「ある種の侵入(性的な)」を許してもなお主観的には防御戦の延長にあるという内田印ならでは感も一瞥しつつ、始まりは安定した「箱」に見えた家庭(夫と息子がいる)の骨組みも揺らぎ、この「揺らぎ」をも背景としながら、優子が何と対決しているのかよく分からないまま、それでもあたふたと戦う現場に引き込まれている。
最後にはオチがある(伏線もしっかりある)が、ここに収斂させるには解釈の幅が狭まり、人物の持つ存在感に委ねる余地のある演劇では(漫画等と違って)、「落ち切る」必要はない気がした(・・仄めかすだけで暴露しなくていい)。
が、そこまでの狂気じみた展開はかなりの毒気を持っているのに、そうした日常があり得る話に見え、軽やかに見れてしまう、そういう世界が出現するのを見る快感は否めない。
役者は皆が皆芝居が達者であったが、優子を演じた女優の「天然」具合のハマり方は当て書きか?と目を引くものがあった。
演出ペーター・ゲスナー氏の守備範囲の広さ(変幻自在さ?)もインパクト有り。

珈琲法要
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/12/31 (木) ~ 2016/01/06 (水)公演終了
満足度★★★★
元旦早々
大晦日公演の観劇は体力無く、断念。年明けてアゴラへ参ると、閑散としているかと思いきや意外に席は埋まっていた。
本作、この再演で初めて拝見。これまで見た青年団リンク・ホエイの舞台や劇団野の上(作者の山田百次主宰)の舞台とは一つ、趣き、というより深まり具合?の違う芝居になっていて、ほのぼの・のほほん・ほんわか といった雰囲気を思わせる題名(ひーとかほーが入ってるし・・)を引っぺ返すと軽い麦でなく(麦も美味いけど)、ずっしりとお米だった。
三人によるシンプルな芝居。だが語られる事柄の重さ・広がりが、津軽弁の飄けた会話の中から徐々に立ち上がってくる。
最後に近い場面、女の口からぽそりと投げられる台詞は、効く。

ガーデン~空の海、風の国~
オフィス3〇〇
ザ・スズナリ(東京都)
2015/12/16 (水) ~ 2015/12/29 (火)公演終了
満足度★★★★
作り続ける主体
劇団3○○/オフィス3○○はもとより、渡辺えり(子)作品の舞台じたいが初。漸く体験できた。
80年代~小劇場演劇の賑わいの一翼であったとの説明が、納得のできるスズナリ公演の千秋楽観劇、何かと趣き深いものがあだった。 前作「天使猫」を戯曲で読んだが、確信に満ちたト書き、にも関わらず複雑でよく解らず、「これは見なきゃ判らない」と思っていた所、なじみのスズナリが会場という事で、チケットを購入。
駅への道中、自転車のチェーンが外れ途方に暮れたかけたが、強引にペダルを回すとカツーン!と嵌り、開演ギリギリに駆け込める電車に駆け込んだ。
着いてみると外に人が並んでおり(当日券目当てか)、自由席の残席は下手の端の前方、鮨詰めだ。楽日、何と15分押しで開演。だが会場の空気は好意的。客層は意外に若い人が多い(周りは10代後半~20台前半風情)。「渡辺えり」ファンというのが居るんだろうな・・と推察。
舞台+客席はオーソドックスな組み方で、正面奥は目いっぱいタッパを使って二階部分の壁が見え、下部は奥から人の出入りが出来る。左右の壁も何らかの境界として機能し(それを示すようにコンクリートの隙間に生えたような植物が何箇所か植わって照明が当たっている)、三方の壁に囲まれた一つの「ガーデン」が形作られ、空間として程よく詰まった心地よさがある(箱庭的)。 夢か現か、幻か、謎めいて来た時点で、この舞台が人の想念の世界としても成立するような雰囲気が控えめながら仕込まれていると判る。(美術=伊藤雅子・・3○○とは初仕事のようだ)。
舞台の中嶋朋子は三度目、毎度堅実な演技と、謎めくと華やぐ風貌でハマり役。驚きは主宰渡辺氏自身の出張り具合、が、終演後の挨拶によれば今回は氏の還暦記念という事で出番の多いこの作品を選んだのだとか。俳優としてもやり手であった。他の俳優も「出来る」役者たちばかり。「塾生たち」として最後に(千秋楽につき)紹介されていた人達も結構いたが、舞台上で遜色なく(出番は少ないが)動いていた。
渡辺氏が戯曲や演劇について語る時の理屈の勝った印象が、舞台ではどこへやらで、この世界あっての渡辺えりなのだな・・と認識を改める。
お話はファンジー。冒頭の幻想的なシーンから、突如原始人三人組が登場するが、この三人(渡辺含む)のやり取りが秀逸で、氏がよく口にしそうな持論の片鱗も見えて「らしい」。彼らは「進化」を目指しているが、「なぜそうするのか」判らない。人間の歴史の、あるいはこの芝居の「要請」でやっているのだと半分判っている、という人格を演じ(コントに近いが)、要はメタシアター的な存在たる事を表明(狂言回し?)。この原始人らの行動が人間のゴテゴテした感情のモチベーションを持つとすれば、どこからか迷い込んだ中嶋演じる女は逆に無意識裏に何かに操られている雰囲気で存在する。シリアスな語りをここから広げ、一方ダイナミックな展開の大技を素朴で豪胆な原始人界隈が正当化する、という具合に行き来しながら舞台はヒートアップして行く。
細かな物語の進行は覚えていない(まず覚えられないと思う)。何やら事態が逼迫して来ると、何らかの「解」を得ようとあがき、想定がなされ、行動し、邪魔が入り、あれこれあって何らかの解決を見る、となるが、このかんの渡辺、中嶋の二役の転換(早替え)も見ものであるし、全体として流れるような進み方そのものが、「予定された事柄」であるかのような後味にも繋がる。技量を要求する芝居であり、主宰が舞台に当然に求めてきたこれがレベルなのだろうと思われた。
後でアフターイベントやトークのゲスト布陣を見ると、渡辺えりでなければ、という豪華さだったが、千秋楽での渡辺氏の思いの溢るる挨拶は、それをもって替えたいサービス精神の発露であったかと。
書き手・演出家としての渡辺えりは自らの方法論をとうに確立しており、これをこれからもやり続けて行くのだろう・・そんな想像をさせられるが、「現在」に機能する演劇を生み出す素地があると感じさせる溌剌さも同時にあった。
遅れ馳せであるが今後の仕事にも注目したい。

ライン(国境)の向こう【ご来場ありがとうございました!次回は秋!!】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2015/12/17 (木) ~ 2015/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
異種混合が如実であったが成否は如何。
俳優名をみれば大いに期待される陣容、いつもの劇チョコより売れが早く、焦って先のスケジュールを予測し、予約した。個人的な話やや顰蹙を買う結果になったが、その甲斐あってほしいと期待も高まる。
チョコレートケーキ「らしさ」は題材、脚本にみられたが、舞台上の「世界」は異種のものが同居し、混じり切れない感じが残った。物語の大筋は語り切れているが、劇チョコ単独の公演で遂げられる完成度とは、やや離れてしまった。「それ」を求めていた客には不足感も残っただろうと想像される。
その一因は、脚本にもある。今回は架空の過去(第二次大戦後の日本分断)が描かれていて、やや朝鮮半島のケースが下敷きになっているが、パロディ的要素も含まれている事もあり、喜劇タッチがそこここにある。これが劇チョコらしくなく、バンダ・ラ・コンチャ的、だったのかも知れない。「リアル」の視点からすると、私としては戸田恵子の演技の質が気になった。最大の見せ場ではきっちり見せ、さすがと感心はしたものの、演技の定型を繰り出すニュアンスがあり、地味でもそこに「存在」しているという様子を感じたいところ、声のトーンで壊されてしまう。粋な農家のおばちゃん的キャラを決めてかかって、「中身」の息づかいが(席が遠かったせいも?)残念ながら感じられなかった。深刻な面は深刻に・・客が引こうが良いではないか、というか引かないよ。その程度で。何をコメディっぽく「上げて行こう!」とかやってんの?と、例によって読み過ぎかも知れないが、ちょっと気になったな~というのは否めない。
以上は「劇チョコ本公演なら・・」という期待からの評価。
「物語」はなかなか面白い。(・・と言っても私としてはやはり役者の立ち方と不可分に語れないが) 内戦の波が届かないような奥地にある、「北日本」と「南日本」の境界に近い場所。互いに農民である親戚同士の家族が、それぞれ北と南に国籍上は属しているが実質上、以前と変化なく暮らしている。行き来は自由である。そこに、外部の者が二人だけいる。南と北に属する軍人、「でもしか」兵士というのが居るとすれば彼らのような、といった様子でもある。・・だがこの平穏な村にも「分断」の事実の帰結として、変化が訪れる。対立、関係の変容、そこに兵士達も絡んで、ラストへと流れ込む。 農民たちの土地へのこだわり、素朴さ、単純な家族愛、それを疎ましがりつつ自分自身の人生を探る子供たち、軍人というものの本質、本分。語るべき要素がしっかりこめられている戯曲だ。
惜しいのは、セットがもう一つ平板で、「土」を感じたい所、板の上を歩く音が興ざめになる。それもあってか、農民たちの「百姓」らしい土っぽさがいまいち感じられず、何かもったいなさが残る。 タッパがある劇場で、高さを感じたかったが、昔のセットのように杉の木立か何かを配するとか、緑、茶、あるいは夜の空の群青とか、視覚的な美しさも、農村にはあるという所を見せてほしかった。・・私は贅沢を言いすぎだろうか。