わが闘争 公演情報 ハツビロコウ「わが闘争」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    鐘下辰男の台詞劇。
    のっけから喧嘩腰で始まる会話は、「事件」後、雨音響く村のとある場所で、喪服の事件関係者と刑事二人によるもの。男ばかりの中に女の喪服が一人混じり、奥にはこの場面には関わらないスウェット姿の青年、後に判る「犯人」に当たる青年がぼうっと立っている。 「喧嘩」は刑事のほうが嗾(けしか)けているが、この態度が「正解」である事が一人ずつ露見して行くというドラマの運びだ。 にしても、喧嘩言葉のドスの利き具合が半端ない。この場面にあるどす黒い快感は、鋭利な言葉の応酬が互いに拮抗している所から来る。
     「津山事件」にどの程度依拠しているかは不明。オリジナルとして観た。かつて村人が信じる宗教(神道系?)を司る辰巳家が、新興勢力に敗退した三、四代前の過去を、事件の背景に据えている。新興勢力とは企業であり、雇用創出する土建業が利権と結びついて「力」を持って行くといった光景は、きっと日本の近代史上津々浦々に数多見られた事だろう。 この村でも「神」は周縁に追いやられ、ある時点で辛うじて保っていた村における象徴的権威まで奪われた。 この因縁にケリを付ける事を使命とする「信者」(青年)が、殺しの加害者となり、殺された女はたまたま青年の描く「ストーリー」上に位置づけられ、被害女性となった。女の日頃の「素行」もあってか、犯人を一方的な悪だとは他の者たちも考えていないらしい。ここに集った被害女性の夫、実兄、加害青年の姉(被害者兄の妻)、三人の「関わり」が次第に浮かび上がる。展開ごとに、事実はその前の認識を覆し、納得できる「全容」に結実して行く、文字通りのサスペンスだ。
     この戯曲の強烈な特徴は「過去の因縁」を、現在に影響を及ぼし得る(及ぼす資格のある)要因として刻みつけようとする意志である。戯曲は刑事に、逃走中の犯人が「死」に追いやられる可能性を憂える台詞を言わせている。青年が殺してしまった女性を、でなく、彼をこの物語の悲しいヒーローと見ているのだ。
     辰巳家の末裔である姉弟は親を早くに亡くし、母代りの姉は弟に辰巳家の末裔としての誇りを説き、弟は純真な「信者」となる。一方姉は敵方の家の長男に嫁いだ。相手は容姿端麗な姉に十代の頃から惚れていたが、終盤の姉の台詞は結婚承諾が両家の因縁への自分なりの決意である事を仄めかす。が、彼を本当に好きになった、とも言う。彼女の異性に対する本心は被害女性の夫にあり、相思相愛であったらしい事等も仄めかされ、関係は入り組んでいるが、いかにも小さな村の狭い人間関係を示している。物語のテーマの核心はやはり、犯人と宗教との関係、宗教側が近代に領土侵犯された歴史にあると思われる(これを単なる<味付け>に用いるには重すぎ、晦渋だ)。 
     犯罪には社会が一目おくべき示唆を含むことがある、と思う。ある価値観の浸透が、多くの「負」を帯びたものである場合、「負」は何か別の形をとってでも噴出しない訳に行かない・・と教える。テロに対する見方も違ってくるだろう。・・そんな事を考える。
     まァ作品解釈はともかく、俳優の佇まいに見惚れた舞台であった。

    ネタバレBOX

    テーマをめぐって追記。
    辰巳家の没落は、端から見れば、単に権力関係が変わって一方が隆興し、一方が凋落しただけの事だ。ただ、信仰に支えられた秩序と貨幣経済による秩序(合理主義?)の本質的な対立は洋の東西をまたいで根深い問題だ。
    自由主義経済が放任主義では立ち行かないのは周知の事実だが(これに反駁する新自由主義なるものもあるが)、弊害を来たした時、市場原理に代わる決定原理を、どこに求めるかという問題が浮上する。まず、「民主主義」というシステムが挙る事だろうが、全ての案件を有権者による投票で決める事はできないから、限界がある訳である。選ばれた政治家が政治決定を行なう(代行する)際、決定の根拠としての思想がなければならない。何に価値をおくか、倫理的機能をどこに求めるか、という時に人類が長年にわたって蓄積した宗教的価値体系、慣習のご登場となる訳である。
     かつて社会主義陣営がとった政治システムは、統制経済であったため、自由競争が阻害され、人員配置も「競争」によらず人脈や自己利益誘導という原理で決定し、歪な官僚制が発達してしまった云々といった弊害が指摘された。ソ連の科学技術の発達は、ある意味で「米国との競争」が成したもので、やっぱり競争原理な訳である。で、東側が敗北したのは世界が「競争原理」で動いていたため、競争原理を排した陣営が当然の如く敗北した、という事である。高福祉を実現している北欧などを見ると(あまり詳しくはないが)貿易黒字や国内総生産などで一定の経済面の実績を上げている(「競争」にも対応している)。かつての東欧は対外的な(経済的)勝利を、他の問題に優先できず、その原因は恐らくソ連の覇権の影響と思われる。
     「競争原理」があらゆる技術を発達させている事は間違いなく、それが国力・企業力となって「支配」関係を生み出す。この事はある種の「自然現象」だ。これを正当化しているのは「科学・技術の進歩」だろう。 では、「科学・技術の進歩」じたいを相対化する価値観、例えば宗教がそこにあったとしたら、どうだろうか。市場経済や、ある種の競争原理は、当然に主張していた正当性を、この宗教の前では失うのだ。 そして、こうした宗教を見出し、あるいは生み出す契機と考えられる状況が、はっきり見られるのも事実。構造的経済格差がそれだ。
     辰巳家の青年は、「宗教」に立つ地点から、たまたま敵への復讐に至ってしまったのかも知れないが、強力に働いていたのは「没落」という状況であったのかも知れない。(宗教は文字どおり彼の生の「拠り所」となった・・)

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    2016/03/06 02:36

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