tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓

宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓

チェルフィッチュ

吉祥寺シアター(東京都)

2023/08/04 (金) ~ 2023/08/07 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々のチェルフィッチュ。昨冬のKAAT「掃除機」は岡田利規のだったか(やや煙に巻かれた作品)。その前は・・と記憶を手繰れば、同じくKAATでの新版「三月の5日間」(3月の五日間?)、その前か後か定かでないが、震災を契機に作られた「現在地」を映像で見た割とすぐ後、と記憶するが少ない俳優使ってトラムでやったやつ(「現在地」に通じる静かな喋りで睡魔に勝てず最後の拍手で目覚めた痛恨のやつ...近くの若者がいたく感じ入ったと感想が漏れていたが)。
その前となるとやっぱKAATで、長い題名のやつ(これはかなり昔)。あとは映像で例の「三月の..」、これは確かに中々のインパクトだった。この劇団と自分の距離感を考えると意外に観てはいる。
さて今回の作は宇宙船というシチュエーションの面白さ、そしてこのシチュエーションならあり得そうな人種国籍不問なメンバー、そして発達したAI等のアイテムが(この宇宙船の中での共通語と設定したらしい)日本語、あるいは別言語だが芝居上日本語が使われているという演劇的環境の中で存在する面白さがある。やはり、と言うか、平易な単語を使う岡田テキストにも関わらず、作者岡田利規の意図は見事にヴェールの向こうに潜む。「チェルフィッチュを観た」という感覚が残らない。
演劇表現者としての連続性が、岡田氏の場合どこにあるのか、文字やトークで表現している割に謎である。

六英花 朽葉

六英花 朽葉

あやめ十八番

座・高円寺1(東京都)

2023/08/05 (土) ~ 2023/08/09 (水)公演終了

実演鑑賞

千秋楽前日が休日になり、電車を降りる都度疾走して汗水泥で劇場に駈け込むてぇ事もなく贅沢な観劇日である。
と言っても既に大いなる勘違い。「大正」「昭和」とあるから各時代を舞台にした別の話(又は続き物)と思っていた。昼の大正バージョン、もとい大正チームが面白かったから昭和の話も見ようと高円寺で暇つぶし。しかし話は大正から昭和を跨いでたし、台本も一種類(2バージョン収録で1200円たぁあやめ十八にしては良心的)と修正の余地はあったにも関わらず思い込みとは怖いもので、金子侑加の口上に「あ、同じだ」と思いながらまだ包装は同じだが中身が違う作りだろうと期待して待ってる始末。
だが悟った瞬間、残る楽しみは「配役の違い」だけとなった訳で正直落胆を禁じ得ないのであったが、装置や楽隊の贅沢さ、その楽隊に前回同様(芝居にも絡む)こんにゃく座の座員がおり、どうやら今回の歌役者(島田大翼)は夜のチームで主要キャストを務める模様、と見るなり目を輝かせている自分なのであった(ただしそうなるとその登場までが些か退屈にもなるが)。しかし芝居を観始めた頃は俳優で芝居を選んだり別バージョンを観たくなるなんて事はまずなかったが、今やミーハーな、いや普通の芝居好きである。

ぶっちゃけこの劇団の印象というのは花組芝居(歌舞伎風エンタメ...実は見た事が無い)由来だろう口上や演劇的仕掛けでもって「落ちない」よう持ち上げ持ち上げして目標地点まで翔び切る人力飛行機の挑戦に似た時間であった。没入する時間がなく、テンションを維持して最後まで完走するという競技を見ている感覚だった。
無論観客によっては没入できるドラマなのかも知れぬが...だが観る者の没入を可能ならしめるのは隙を見せないようにする演出や演技ではなく、逆に俳優の無防備なまでの役人物への「没入」であったりするのである。・・あやめの初観劇以来、そこがずっと気になっていた。
さて今回は題材も良かったが、無理ヤリ感な「上げ上げ」が感じられず、楽隊の使用や舞台処理の演出も堂に入って僭越ながら(たまの観劇だからこそ判る)成長の跡があった。
昭和と大正で若干の演出の違いがあったが、この若干の違いは各チームの出来と不可分なように感じる所があり、気づいたらまた記してみる。

スタンダップコメディ・サマーフェス2023

スタンダップコメディ・サマーフェス2023

合同会社 清水宏

小劇場 楽園(東京都)

2023/07/18 (火) ~ 2023/07/24 (月)公演終了

実演鑑賞

実演を観られたのが二晩目、ゲストにせやろがいおじさんの回で、やっぱしスタンダップはいいな~、健全だな、と思い直した夜であった。
他の回も配信で観たく、申し込んだがプラットフォームを提供するvimeoがトラブり、どうにか「多様性ナイト」視聴はできたが、以後暫くは配信チケット販売停止とのこと。要望があるので何等らの形で配信は実現したい、と主催者の弁。気長に待ちたい。観たい!

『つやつやのやつ』と『ファンファンファンファーレ!』(再演)

『つやつやのやつ』と『ファンファンファンファーレ!』(再演)

ムシラセ

駅前劇場(東京都)

2023/07/13 (木) ~ 2023/07/18 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初観劇の劇団。二本立てであったが、話は繋がっていた。お笑い芸人モノ。芸人界隈は人情喜劇の題材としては鉄板な所がある。そう思っていた所、一瞬食傷の感が走ったが、運びが巧く、俳優もうまく、「いそうな芸人」のデフォルメが秀逸で、これがネタに終わらずドラマの要素としてしっかり組み込んでいる点が優れていた。
ただ「芸人モノ」に胸を借りた感は残り、この劇団の本領を別の形で観てみたい。

オイ!

オイ!

小松台東

ザ・スズナリ(東京都)

2023/08/03 (木) ~ 2023/08/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々の感がある小松台東(と言っても一公演見逃したくらい?)。開幕、暗がりで登場人物らが出入りし、動いている意味深な断片があり、やがて明転して六畳間ほどの座敷。オープニングのMはちょっとフォークで生ギターにメロディが「珠」をイメージさせるシンセ音(ハモニカとビブラフォンの相の子のような)で爽やかな青春物なのか「敢えて」の引っ掛けなのか・・という微妙なラインの出だしにまず満足。黒い制服を着た男ら4名。セーラー服の女子2人と私服が一人、オヤジが一人。
高校生らしさを演じる面白さ、関係性が徐々に見えてくる面白さ。表情の奥に何かが潜んでいる風情が、ちょうどいい。
彼ら高校生の頭上には「将来」という重しがのしかかっている。そんな中にも男女の出会いはあり、地方の町ならではの「地元にとどまるか都会に出るか」を巡る悩みがあり、なりたい職業と家庭の事情との葛藤がある。そうした青春期の鬱屈には青春期ならではの昇華の方法があり、不安の雲が垂れこめる未来であっても「未来」は彼らのもの。・・カラオケで熱唱する男らの歌をBGMに冒頭見せた動きとは異なるそれぞれ動き方・居方で群像を表わす。懐かしさに胸がざわつく。
人生讃歌と言って良い作品だが、個々人の実在感がこの作品世界を支えている。中でも小椋氏はモダンでは見ない、寡黙で時折言葉を選んで喋るキャラに終始説得力がある。それがラストに繋がっている。他、キャラにあった俳優面々の佇まいがオイシイ。

少女都市からの呼び声

少女都市からの呼び声

Bunkamura

THEATER MILANO-Za(東京都)

2023/07/09 (日) ~ 2023/08/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

花園神社境内での新宿梁山泊版の同演目のテントを観たばかり。劇場と俳優陣は異なるが同じ金守珍演出の舞台、どんな違いが?両方観る価値は・・・「きっとある」とは思ってみるものの、入場料はえら高。出演陣の中に桑原裕子、三宅弘城、風間杜夫らの名を見て「観たい」とチケットを取った(俳優で決める事が多くなったな..)。最終週のチケットが二週間前に取れたので席の埋まり具合が気になったが、劇場に入れば3Fサイド席(見づらい席)以外さほど空席はなく、ただし(昼公演だったせいか)98%女性だった(いやもっと上だったかも)。
俳優陣を見て食指を動かされたとは言え、すぐ忘れる自分。桑原氏、三宅氏は終演後に判った(耳に覚えのある声・・誰?)。観劇中見つけたのが松田洋治、ダチョウ倶楽部肥後、六平直政ら。が、見過ごしだろうか、風間杜夫を見ていない。風間氏がやりそうな連隊長など金氏がやってる。パンフの写真の衣裳は執刀医。あの場面に居た?カーテンコールでも見た気がしないが、サイトで特に告知などはない。もやもやが残る。
そう言えば松田洋治はかつてナウシカの少年役の声をやり、近年テントで汚れ役をやるのを見る度にそれを思い出していたが、金守珍がそれをついに芝居の中で口にしていた。(「確かあなたジブリに、出てたよね?・・アシタカ!」最も効果のありそうな所でこれを出す。流石。)

ネタバレBOX

舞台の方は劇場規模を活用し、テント版とは異なるアプローチでダイナミックな舞台となっていた。物乞い集団が冒頭登場していきなり大正琴を集団で弾くのが圧巻。スペクタクルな、憎い演出が止まらない。配役もハマっている。
大概目くらましに遭う唐十郎作品だが、この舞台でこの戯曲の構造、魅力がよく判った。とりわけ「オテナの塔」という謎のアイテムが、敗戦後の満州を彷徨う連隊の視界の中に浮かび上がる様が、劇的である。(プロジェクターでこの搭のイラストを映していたが、画として「搭」を登場させたのは初めてではないか。)
搭を目指して進軍するという彼らの存在が、ある蠱惑的なイメージを持って感覚された。敗戦=価値体系の崩壊の中、目標を失った軍人(そして日本人?)が、遥か先の「搭」なる聖地・向かうべき目標と据えて、自らを奮い立たせている状況のメタファー・・。戦後においては異形である彼らの姿(横井正一や小野田寛郎も珍品として本国に迎えられたと記憶する)は、戦後日本人の原初モデルであり、自らのアイデンティティを戦後いともたやすく捨てた大多数のエセ日本人が対置されていると(私には)見えた。
そして昏睡状態にある男「田口」がその夢の中で探し、出会う妹(昏睡状態で見た夢だとは後で分かる。それまでは過去彼が体験した出来事、とも読める)。
兄が居場所を突き止めた時、妹は明るく兄を迎え入れるが、「なぜ急にいなくなったのか」と言い募る兄に彼女は、ある重要な仕事のためにガラス工場をここに移転したのだ、と説明する。兄を気づかういたいけな妹の出来過ぎた風情が、現実離れした感を醸すが、その感じ(不安)はやがて当たる。
彼女は彼女のフィアンセと共に、自分の身体をガラス化する実験に入れ込んでいた。このエピソードがこの作品の中心となっているのだが、これが夢落ちとなるに至ってエピソードのメタファー化を余儀なくされ、オテナの搭と相まって幻想的なラストに辿り着く。
そのガラス工場のくだりの続き・・。妹のフィアンセは偏執狂な男で、ちょうど新興宗教の教祖のように女を騙して己の野望の手段とする人物の典型のよう(そして彼も彼女に依存している)。
女の方は彼に身を捧げる自分自身に陶酔し、未知なる崇高な目標が彼女を上気させている様子である。その上気の具合からフィアンセとの肉欲と不可分なのではと危惧させるある種の女性の状態を、(過去の女優もそうであったがそれ以上に)咲妃みゆが演じる。彼女は久しぶりに会った?兄の手を取って自分のヴァギナを触らせる。と、ガラスで出来ている。子どもを産めない体で良いのかと兄は言い、妹は次々と孕ませられる世の女性たちと一線を画した存在に自分はなるのだと答える。

現実の田口には妹はいない。現実では病室の前に、親族がいないためだろうか、呼び出された男(とその婚約者の女性)がおり、看護師に「あなたは田口さんの親友ですか」と訊かれ、その証拠になるかも知れない事実を伝え、親友だという事になる。
彼が田口について伝えられる事(観客も知る事)は、彼の腹を切るとそこから髪の毛が出て来た、というこの事実。これが物語の始まりを告げる。
男は、田口が自分の分身をこの世に使わそうとしているのか、と呟く。最終場面で漸く冒頭の「現実」場面に戻った時、男は田口の「妹」(具現化した田口の分身)と出会い、彼女は自分の相手として男を選ぼうとする(ちょうど亡霊が現世への未練から生者にとりつく感じ)。婚約者がいるからと距離を置こうとする男に、彼女はこの世の常識や慣習を根本から崩す言辞を繰り出し、男を揺さぶる。危機を感じた男の婚約者が、妹と対決し、吹き飛ばされるが、やがて幻に過ぎない妹は抜け殻のように消えて行く。

田口は眠りから醒め、元の鞘に戻るのではあるが、「無かったこと」にしてはならない何かを残す。即ち、引き算をしてゼロになったかに見える現実に唐十郎は演劇で抗う。幻である所の妹の姿、そのはるか向こうに見える「搭」を神々しいまでの演出で刻印する。
バナナの花は食べられる

バナナの花は食べられる

範宙遊泳

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2023/07/28 (金) ~ 2023/08/06 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

かなり以前に映像を使った妙なノリの芝居を観て以来の二度目。ご無沙汰の間に変化はあっておかしくないが、こういう戯曲を書く書き手とは思わなかった。現代風俗をがっつり織り込み、オーバー30の若者らを登場人物に紡ぐ。年寄りは若干置き去り感?だが「タクシードライバー」が古典と言える現代である。世俗と聖域の相剋は(ちょうど今読んでいる小説)「パンとサーカス」にも同じテーマを担う人物が居る。鬱屈した都市生活の中で、ある開眼に導かれ、「人のために生きる」を実践する中心人物と彼を取り巻く若者らの群像劇だが、特殊で、かつ凡庸な彼らの足跡が、凡庸故に輝く。
こいつ凄え、と思える人がクラスや、身近に居ても、いずれ彼らは世の片隅に場所を見つけて慎ましく生きて行く。形は平凡でも、彼を知る者は彼が放った光を覚えている。そんな輝かしく特殊で、しかも早晩埋もれて行く世の多くの平凡な物語の一つ。

イーハトーボの風のうた

イーハトーボの風のうた

ミルキーウェイ

ティアラこうとう 小ホール(東京都)

2023/08/01 (火) ~ 2023/08/03 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前知識ゼロの初の劇団。素朴でバランスの良いチラシ、芯がありそうな(微かな)気配、宮沢賢治・・ティアラこうとうなる施設も住吉駅も初めてで少なからず期待を高めて何とか開演前に辿り着いた。野外スポーツ施設や道路向かいの蟹江恩寵公園などの木々のエリアから、銀白の建造物が現われた時はホッとした。
小ホールには建物に向かって左側を下りて行く、ガラス戸を中に入ると正面に大会議室とあり、人がちらほらと吸い込まれていたが、そこではなく、左奥に受付が見えた。小ぢんまりしたホールだ。ステージが、狭い! それを60度位に円弧で囲む形の客席も、数十席といった所。新しい建築と思っていたがステージの板はこすれて古味を醸している。奥にグランドピアノ、その前には2メートルもない演技エリア、左右ともにはけ口がある。ピアノの脇にボンゴ等のちょっとした楽器と、イラストの付いたサイコロ型の箱(踏み台になりそうな)が2個だけ置かれたある。チラシを見ると、わずか9名の役者で、中には中々の高齢らしい顔も。
色々と予想を裏切られる中、物腰柔らかな男性が90分の上演時間を告げ、5分押しで開幕した。
懐かしい感覚が呼び起される。小学校時代に観たかも知れない、簡素な舞台、客席に語りかける表情豊かな役者顔、ピアノの伴奏・・。舞台の出自として演劇とは別の、「音楽劇」の発展の系譜がありそうだと少し前に確か書いたが、結論的には「どこでやってた人たちだろう」という興味をかきたてられる、中々まとまった完成度の高いステージだった。

最前列に座ったせいもあるが、ステージとの距離も近い。照明も明るくしており、そのため冒頭合唱に並んだ5人の年代(凡そではあるが)が視覚情報として飛び込んでくる。(この年齢の印象も終演後には些か変っていたが。)
だが、次第に芝居の世界が立ち上がり、耳に心地よい歌、音楽、簡潔でリズミカルな展開、やがて幻想の世界に入り込み、最終段では宮沢賢治の文字化された世界観が台詞で語られもした。
子どもを主たる対象に作られた演目のようであったが、最後にようやく顔を出す人間世界の矛盾のようなもの、風(自然)と人間との対立と共存といったテーマは、具体的なイシューに言及する必要はないにしても、現実のネガティブな事象にもう一歩踏み込んでも良かったのではないか・・と感じた。負の要素を乗り越えてこそ大団円は訪れる。

中盤から前のめりに見始めたが、チラシ、パンフと出演者を照合し、最後には全て把握できた(写真と現物の印象が違うので時間がかかる)。まず演出の男性(最高齢?)が冒頭から登場して「先生」そして「達二」(子ども)を演じる主人公。その後ろに黒衣裳でピアノを叩く演奏者は作曲者本人。その彼女が後半登場して演じたキャラが秀逸。透明な歌声が印象的な女性が、よく見れば脚本担当であった(グループ主宰とも最後に紹介)。演出の齢に近いと思しい女性は、低音の歌声に説得力がある、声を張らないちょっとした三部合唱が何気に聞かせる。多様な場面にそれぞれ合ったキャッチーな曲。終盤近い長尺のそれは間口10メートル奥行5メートルも無い小さな舞台の向こうに、広い世界を垣間見せた。
宮沢賢治作品を取り上げた作品を作り続けているという。
「欲を言えば・・」の話は先述したが、革新と発展が演劇(芸術?)が持つ本性だとすれば、この集団にとってどのあたりにその契機があるだろうか、と考えた。生み出された彫刻のような作品を磨き、深みのある艶を出して行く・・クラフトワークがそぐわしい世界もあるのかも知れない。が、、「演劇であってほしい」と願う私はこうした世界との折り合いをつける言葉を見つけられておらぬ。

ザ・キャラクタリスティックス/シンダー・オブ・プロメテウス

ザ・キャラクタリスティックス/シンダー・オブ・プロメテウス

お布団

アトリエ春風舎(東京都)

2023/07/18 (火) ~ 2023/07/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

少し時間が経ってつぶさに思い出せないが、一定の現実性を備えたSF=未来予想図である。ユニークなのは百年近く後の未来から、過去(近未来)へと遡って行く描き方で、サスペンスフルなスタートから私たちにより近い少し先の未来が、現実(現在)の延長として見通せる状況となっている。つまり一種の現代批評である。ちらばめられた批評性に満ちた言辞や事象は「今」に懐疑的な観客に刺さったのではないか。
俳優の演技も的確で隙がなく(時には笑わせ)重量感があった。

ネタバレBOX

上記コメントを書いて更に時間が経ったが、まだ掘り起こせる記憶を今の内に記しておく。
ぼんやりとした色彩は、墨を落としたような黒が水墨画のような濃淡を示して、舞台正面奥が観客目線では当然「聳える高さ」の実体として感覚され、それは審判者の玉座の高さのように見える(実際にそこに椅子が据えられている訳ではない)。演劇は神事に由来すると言われるのに合致して、ステージ側に神聖なるものが配されている感覚は、そこに何か具象を据えない限り観客が勝手に想定してしまうもの?
ストーリーの方はつぶさに思い出せないが、2100年代だか2200年代、あるいは2090年とかだったか、割と具体的な「時」が設定されており、今そこに立つ彼女は長い時を生きている、となっている。
いや、複数の登場人物たちの会話で語られる、いやいやナレーション(同一人物を複数でだったか、どうだったか)によってだったか、噂の、正体不明の、しかし実際に存在するらしい「それ」が、今問題になっている。それが冒頭であった。
そこは確か、何かの研究機関か、行政機関、比較的日常的に必要とされる業務を担っているそこに、「何モノか」が存在している、又は新たに配置されて来た、という風である。
その存在についての記録を紐解いたところ(手掛りは確かネーミングだった)、80年前だかにその組織だか関連の団体かに赴任した、という記録があり、謎を深める。
この芝居は凡そ4、か5場面から成り、3、4場面あたりでその存在=彼女が現役で働く人間であった頃のリアルタイムの場面となる。研究者か職員として何かに従事していた彼女は、ある業務の延長で、もしくは何らかの事情で、身体の一部のアンドロイド化に同意する事となる。か、または九死に一生を得た事故か何かでアンドロイド化せざるを得なかったか。
こうして冒頭の不気味な謎の答えらしきものの断片が提示される。
その後、彼女がどういう経緯でどうなったか、については具体的描写が無かったか抽象的表現で示唆した程度だったか、いずれにしても覚えていない。思い出せそうにない。
時を遡った21世紀中盤(私達からすると近未来)の世相が、ある仕方で描出されていたように思うが、これも思い出せない。
ただ、後半の場面では、ある種荒唐無稽なSF話が展開するが、リアリティの薄さを補って余りある「面白さ」で、釣り合いが取れていた感じは覚えている。

以上、メモ。
台本ないし映像、又はこの作品に関する文章などがあれば、それに触れてもう一度思い出してみたい作品。
ストレイト・ライン・クレイジー

ストレイト・ライン・クレイジー

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2023/07/14 (金) ~ 2023/07/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

一公演で同演目を3度観るというのは多分初。実は二回目を誤って最初観たのと同じ星組を観たがためにこれで花組を観なきゃバランス取れないし、と(こじつけて)「変化」を観たさに観劇した。
見比べは興味深い。プレビューは生硬さが却って無駄を削いだ芝居の輪郭を見せ、「おっ」と思わせたのだが、二度目は色々探り始めてか、芝居が少し「軟」に寄り、初日よりも台詞が回っていなかった(人がいた)のが残念だった。
日を置いて観た今回の花組は、熟した芝居。老舗劇場スズナリという演劇の精?が、芝居に微笑む瞬間があった。客席の拍手が程よく力強く響いていた。こういうのが正しい拍手のあり方。ダブルは必要ない。

舞踊詩劇「田園に死す」・幻夢活劇「チャイナ・ドール 上海異人娼館」

舞踊詩劇「田園に死す」・幻夢活劇「チャイナ・ドール 上海異人娼館」

吉野翼企画

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2023/06/15 (木) ~ 2023/06/21 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

書き込みを忘れていた。
面白い。絵空箱の使い方。寺山作品のモチーフが二作品に集約されてるような。チャイナドールは先日観た岸田理生の「糸地獄」に通じ、思い出せば昔初めて観た寺山ワールド「狂人教育」にも・・。
娼婦を通して、その存在性、精神性において(男に)優越する女性像。
「田園に死す」。映画は何十年前に観たか、という所だが、幻の母、故郷の面影を追い彷徨する(寺山自身の?)魂・・「身毒丸」「草迷宮」にも通じる・・。「比較」という作業が可能となる数の寺山作品を目にして、今更に感興にふける。寺山的世界観が貫徹し、吉野翼独自の自在な想像力に観客は遊ばせてもらった。演劇における「枠を破る」「遊ぶ」機能はまだ開拓地を残している。

ストレイト・ライン・クレイジー

ストレイト・ライン・クレイジー

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2023/07/14 (金) ~ 2023/07/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々に燐光群らしい切れ味の舞台を観た。
演劇との遭遇の「幸運さ」を実感していた演劇観始めの頃(感動そして衝撃を与える舞台に当たる確率がえらく高く感じたものだった)、燐光群の作品の幾つかもそれに含まれた。スズナリでは「最後の一人までが全体である」「だるまさんがころんだ」にやられたが、今回は当時を彷彿する舞台の空気感がある。ただし戯曲は坂手洋二作ではなく2005年以来燐光群が日本初演を重ねてきたデヴィッド・ヘアーの近作。「ニューヨークを作った」と言われる実在した男の人生を、彼の最も輝いた時代と、栄光に陰りが差す時代の二部構成で描く。スリリングな台詞の応酬は往時のアメリカ(1930年代)の世相が進歩を牽引する主人公(守旧派に当たる地主たちとの格闘もある)の信念に寄り添うという結果に着地したればこその躍動。辛辣さも程よい酸味である所、後半では意を尽くしての部下の批判も長年の同僚の助言も当人には届かない徒労感が宙に漂う。一人の人生はアメリカ現代史を雄弁に語らせ、時代と人とに思いを馳せる。

ネタバレBOX

時代的にはベトナム戦争前夜までで叙述は終わっているものの、大掴みの米国現代史にも見える。そして最後の最後に不意に暴かれる主人公の(殆ど無意識の仕業と思える)彼が過去為した決断の背後にある思考も、追い討ちを掛けるように彼の「変わらなさ」の弊害を傍証する。
「変化が起きている」と、主人公(大西)との長い仕事のパートナー(森尾)が言う。「間違っている」との語句を避けてはいるが、時代は「過ち」をただすことで乗り越える(日本では先人を否定しない(事によって現状を守る既得権者に否を言えない)ため、いつまでも自らは進歩できない)。
開拓地が残っていた頃までのアメリカ精神は市場を求めて外部を開拓する資本主義の原理に置き換えられる。車社会化という進歩を予見できてもその弊害を予見しなかった楽観主義の帰結も、戯曲は示唆する。
1960年代に潮目が変わり、懐疑主義が現代の基調となるが、大衆音楽を始めとする文化の爛熟は進歩と懐疑の絶妙な入会地の出現が、可能ならしめた。その後の米国史の画期は9.11と言えるのだろうが、ある意味では1960年代に首をもたげた人類の難題を巡って、今も迷走する人間の姿が作者には見えているのだろうか。
歴史上の人物ではなかったとしても、米国史を踏まえて刺激的な台詞たちで描かれた物語は現実的な問い突きつける。充実の二時間強、
ある馬の物語

ある馬の物語

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2023/06/21 (水) ~ 2023/07/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

トルストイの原作をソ連レニングラードの劇場が舞台化したのが1975年(マルク・ロゾフスキー脚色・音楽)。日本では青年座が1978年舞台化し、1983年書籍化(翻訳:桜井郁子)されているので、国内での上演はあっただろう。
今回の公演は、ロゾフスキー脚色版の新訳(堀江新二)、音楽監督に国広和毅を据えての舞台である。国広氏の名前に食指を動かされて足を運んだ。パンフのコメントでは、元の楽譜で当てていた金管(トランペット)を木管(サックス)4重奏とし、全編を彩った。白井晃演出は舞台中央にビデ足場を組み、機能性を重視して舞台を物語叙述に集約させていたのは好感が持てた。
馬と人間が登場する。馬の主役ホルストメールが成河、人間側は別所哲也。ホルストメールの運命に深く関わる馬に小西遼生、音月桂、馬丁や馬主ら人間に春海四方、大森博史、小宮孝泰、小柳友。
馬の存在が面白い。人間を最も理解する(心が繋がれる)動物と言われる馬であるが、擬人化しつつも動物性を帯びさせる。成河が演じるホルストメールは、鼻鳴らし、いななき、ギャロップをし、言葉を話す。人間が話す場面では「人間の目に映る馬」でありつつ、また動物的本能を持つ存在でありつつ、観客は彼が感情と思考を持つ存在である事を知っており、その心の動きを追う。時に彼の心はベールに包まれ、時にあらわれる。この重層性が素晴らしい。

或る女

或る女

演劇企画集団THE・ガジラ

シアター風姿花伝(東京都)

2023/06/30 (金) ~ 2023/07/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

THE・ガジラのサテライト公演だった(本公演と勘違い)。だが鐘下流を具現する身体と感性は若手が相応しいのでは・・というのがこのかん観てきた舞台での印象だったりもする。
前作が三好十郎の「殺意」でこれも奔放に生きた(と周囲が見る背徳の)女性が主人公で、ポテンシャルのリミッター超えで若い俳優が孤高の役を演じる。
前後関係と人間関係図がようやく見えてくるのが終盤、舞台に表出する大部分である女と倉地との場面、とりわけ関係を決定づける場面の作りは唸る。「女が拒んでいなかった」ある痕跡を見せ、「手籠め」にしたと翌日罵倒する彼女が、己の理性が是としない関係を自身が心底から欲している事が浮かび上がる。
原作が事実に基づく小説だとは知らなかったが、自然に根付く女という性は常に文学的テーマ。醜聞と片付けられる赤の他人のエピソードに、これ以上ない距離に迫り、変わらぬ鐘下氏の「音」(驚かし)演出で叩きつけてくる。

チョビ

チョビ

ここ風

シアター711(東京都)

2023/07/05 (水) ~ 2023/07/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ここ風初観劇。関西弁の飛び交う舞台に相応しい?人情喜劇のカテゴリーという事になるのだろうが、「よくあるパターン」を踏襲していながらどこか新鮮であった。脚本と役者の過不足ない精度、骨格がしっかりした印象。徒な涙を着地点としない(涙を排してもドラマが成立している)部分だろうか。

千里眼

千里眼

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2023/05/07 (日) ~ 2023/05/10 (水)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

ナベ源二本立ての「空に菜の花‥」はスズナリで観たがこちらは劇場観劇は諦め、一か月後の配信開始まで待った。青森で収録とのこと。総員登場しての前説。スプーンの首をスリスリしながら(懐かし)駄弁る。そして絶妙のタイミングで芝居に入る。面白い。ユニークな着眼と時代がかった台詞運びと。舞台は明治末期あたり日露戦争を終えやがて第一次大戦という文明爛熟(当時なりの)の頃。
植本純米の達者振りが猪俣俊明の佇まい、紅一点で弟思いの優しい姉キャラの山藤貴子らとうまく溶けており、渡英している主役・弟とハイカラ好みの陸軍大佐を演じた花組芝居の俳優もうまくハマって5人のアンサンブルが良い。
空間を超えた会話が、演劇の象徴的表現の常套と見せつつ題材となっている「超常」「超能力」を匂わせるのも中々憎い。人間描写から題材である超能力(陸軍でまことしやかに開発が進められたという)に入って行く。不思議なバランスで成立した幸運な舞台、という感じがあるが、時代と題材の絶妙なチョイスには他にない作者のセンスが光る。

旅立つ家族

旅立つ家族

劇団文化座

あうるすぽっと(東京都)

2023/06/27 (火) ~ 2023/07/02 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初演を観た印象と随分変わっているが、動くパネルや台を駆使した金守珍演出の躍動は健在。グレードアップしている。
主人公李仲燮(イ・ジュンソプ)の妻山本方子(現代=佐々木愛)の静かな語りから始まり、美術館の壁に掛った絵(パネル1枚に一作ずつ、プロジェクターで投影)を一枚、一枚と見て歩きながら語るのだが、視線をかけた絵が眼球のズーム機能のように拡大しやがて霧散、次の絵に目が移るとまた拡大し始め、霧散・・最後の横長の絵は左側にぐーっと伸び、他のパネルが一面の壁を作って大きく映し出す・・といった目が釘付けになる演出。そこから音楽が高まり、パネルが散ったかと思うと、荒々しい筆で書かれた牛が二頭、両手で持つ板切れを7、8名(×2組)で繋ぎ合わせたのが、角を突き合わせる鬼気迫るムーブを見せ、砕け散った後、起き上って歌われる歌は梁山泊そのものである。大貫誉の短調を基調にした音楽が、悲運の画家の物語の通奏低音となり、導く。休む間もなく働くテント芝居のアンサンブルのように文化座の俳優が黒ずくめですっくと立ち、力の限り歌う声に序盤から圧倒される。近くにいた観客は(まだ物語の端緒も語られていないのに)涙を拭っていた。
明転すれば照明一転、のどかな朝鮮の田園の中で、絵を教える林(イム)先生と生徒に混じったイ・ジュンソプ(彼を呼ぶ時はジュンソ、と言う)。日本の植民地時代、大戦が起きる前。反植民地闘争のため満州に行く、という選択もこの時代の若者にはあったらしく、ジュンソもその夢を語るが、先生は「こういう時代だからこそ、お前は絵を描くべきだ」とジュンソプに言う。
やがて日本へ絵を学びに渡る時がやって来る。そして芸術学院での学び。慣れない東京生活の中で、一人の女性と出会う。愛の物語でもあるこの作品の、この出会いの場面は印象的。そしてその中心には「絵」がある。
戦争末期、ついにジュンソプが方子を朝鮮に呼び寄せる。皮肉にもこの時が最も良き時代である。その後、波乱に富む家族とジュンソプの軌跡は中々見ていてつらいが、うまく描かれている。

ネタバレBOX

一点だけ惜しいと感じた部分。激動の時代を生きた一画家の人生に丁寧に伴走する音楽だが、終幕の音楽は低音の効いた「透き間のない」壮大なものだった。テント芝居なら、テント一枚を隔てて現実世界が広がる緊張関係から、ことさら壮大にやる、というのが成立するのだが、劇場ではもう少し、抑えたエンディングで良かった、というのが自分の感覚。これから現実に戻って行く、という観客に、エールを送るといったベクトルの方がそぐわしく思えたのである。あるいは、壮大な感じの音楽でも良いが、低音をグーっと押し出さなくて良かった。ダメ押し、という感じ。観客は十分受け取った。少なくとも自分はね。
瀬戸内の小さな蟲使い

瀬戸内の小さな蟲使い

桃尻犬

OFF OFFシアター(東京都)

2023/06/21 (水) ~ 2023/06/28 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

当日は開演時刻の19:30に駆け込むため午後から職場で諸々算段をし、「えー今日はもう行っちゃうの薄情だなぁ」と交替要員に言われぬよう、余裕も見せつつやんわり退座を告げ、自転車に乗るや全力疾走(そのためか翌朝通勤時にチェーンが切れた)、目指す電車には乗れたのだが、1分余の遅れのため乗換失敗、手を尽くすも結局下北沢駅着19時28分15秒。劇場へダッシュするも1分超、既に開演後であった。
ドア前に佇むと場内の音楽がやがて大きくなり開幕したらしい。途切れると男女の会話がボソボソと聴こえて来た。始まりが肝心な芝居だろうか・・と受付の方に開演シーンを聞けば、「ネタバレになるのですが」「私、これから観るので知りたいんですが」「(少し考えて)男女が他愛ない会話をしています」精一杯答えてくれて有難う、と言う間はなく中へ案内されると、既に「乗りづらい」会話となっている。が、シチュエーションは明白でコントが成立しそうな設定だ。以前一度だけ観た桃尻犬舞台は「具象に満ちた」セットとお話だったが、今回は過剰を排し、あるいは逆に誇張な道具で「演劇的遊戯」が勝ち、お話の方はやや綱渡りの感覚。予期せぬ二部構成など意表を突く演出、展開からの劇の収束は、やはりコント色が強かった(上演時間も短い)。
楽しみだった俳優では、先日観たゆうめい舞台で独特キャラを演じた鈴鹿氏が、今回でも煮え切らない役どころ(だけの存在なのかどうなのか..)。橋爪女史が関西弁の喋りの場面を締める。飛び道具的なてっぺい氏の飛び具合は芝居の飛び具合と相殺されたような。。
さて冒頭の欠落がカバーされたか否か、だが、じつはこの部分が感想を左右したのではないか?という後味が残ってしまった。そのあたりはネタバレにて。

ネタバレBOX

言ってしまえば、完成度の高い(安定感のある)芝居は、絵の全体に対する一部の欠落が絵の鑑賞上の大きなダメージになる事はない。凡そ想像がつくし肝心な所は味わっている。が実験度の高いそれは想像がつかない。
この話は、縦軸に危機的状況からの脱出なるか・・というストーリー(前半)と並行して一本貫く「男女の関係の帰趨」があり、横軸には「居合わせた者たち」がこの男女(特に男)を評価する目として存在し、男が実家に戻って継ぐ仕事だったらしい「蟲使い」の意味、といったものがある。
作り手としては、この男女がどうありたいと観客に感じてほしいと考えたのだろう(男に頑張ってほしいと思う、もしくはダメ男を突き放して見る、のどちらに誘導したいか)、と考える余地が残った。つまり、冒頭のやり取りの中に、主人公でもある「男」に観客の共感を繋ぎとめるフックがあったのではないか? という想像だ。
「情けない」部分しか見えてこない男は当然のようにして女から愛想を尽かされたにも関わらず、後半この男の復縁への執着を物語は追いかける。
蟲使いの術を掛けられた(男本人は誰を術に掛けたという自覚はない)前田さん(てっぺい)と遊園地の従業員(野田)が、ミニサイズにされた体で周囲の危険から逃れる後半の場面(音響で巨大な人間の足音や猫の襲撃を想像させ、笑わせる)の会話では、やがて人間の姿が何らかの虫に変ってしまう、という。これを伏線としてのオチがあるが、このオチを笑いと共に受け入れれば良いシュールな劇なのか、それとも「蟲使い」という家に伝わるよく判らん職業(ごく小さなコミュニティでの宗教的支柱のような存在)が、男にとって何であるのか(真剣に取り組もうとしているのか自分のステータスになればいいな位に考えてるのか)、女性には理解できない部分を抱え、それを伝えたくて伝え損ねた男の悲哀に何かこう人生の含蓄のようなものを重ね合わせるのが正解なのか、そうじゃないのか。男の台詞は本当に煮え切らない男である事を示しており、女はそれを正しく見抜き、見切りをつけた、と見えるのだが、芝居の作りは、もう少し男の方に寄っていると見えた。
男の主観としての「説明不足」が、ドラマとしては「いやそういう問題じゃない人格上性格上の問題でしょ」と突き放して見せる事もできれば、「男の性格が災いしたな、可哀想」と見せるも可。後者を狙ったのだとしたら、冒頭1、2分程度の会話の間にあった仕込みを自分は逃した事になるが、その線は小さいかも。
風景

風景

劇団普通

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2023/06/02 (金) ~ 2023/06/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「病室」に続き、茨城弁で通し用松亮の出る劇団普通を堪能。坂倉奈津子が意外に良い。主人公らしい由紀がダイニングのテーブル椅子に座ってハンカチをいじる冒頭の後、坂倉・母が入って来てそのハンカチの持ち主を尋ねるのを端緒に、抑えた声量と高低の殆どない方言で攻めて来る(攻めているのかもよく判らないがどうやらそうらしい)。この最小限の抑揚で相手に伝えて来る「気を使わない」コスパ感覚が「実家」感を存分に醸す。久々に帰省した娘に対しそれが地味に炸裂。そして次に登場する用松・父。「ほら。」「それ。」と最小限の音節で、妻を諫める。実家感が横溢する。
話題にされた人物が後で登場。兄は「その通り」の人。その妻に当たるアキさんは後に登場。二人も久々の帰省で実家に宿泊予定。由紀と兄は祖父の葬儀で帰省した。
下手のその場面から、上手に照明が移れば、葬儀の日の午後。畳部屋のテーブルを囲んで親戚らが集う。兄もそこに顔を出し、由紀も一瞬出るが、この場面では父の弟に当たる叔父(喪主)とその息子、父の女姉妹の娘二人とそれぞれの夫が主役。ここでも「らしさ」が横溢。親戚はある形をとるが、彼らの父母の世代が4人兄弟(以上)で、子を残した三家庭それぞれの風景の描写が為される。自分のそれとは異なるが、あり得る形態に納得感は強まる。喪主である叔父の話が暫く続く。皆敬意を払って耳を傾けている。息子と二人暮らし、叔父は商売を始めて成功しているが、不意に跡継ぎの話題になり、叔父が「後はソウタが継ぐ事になるだろうけど」と漏らした暫~く後に「俺、継がないよ」と言うくだりもあり。周囲は「まだこれからだし」「将来のことはね」等と和やかにフォローも板について一朝一夕でない親戚感も横溢。後の場面で父息子の二人の会話がある。そして人口比では半数になる姉妹とその夫らというのが、端正で一定の収入がありそうな青年を二人して捕まえてるという風景がまた、あるあるである。鄭亜美・姉は妊娠中という事もあるが独特の「大変さ」アピールで相手を繋ぎ止めゴールした感を醸し、青柳美希・妹も親戚ら個々を慮り心配を共有する似た手法?で関係構築の風あり(作者は特にそれを皮肉るのでなく極自然に形成され得る男女の関係=風景として描いている)。そして由紀の兄妹とその父母のいる下手側の風景も、年を跨いで続く。母から「子供は作らないの」と抑揚なく地味に攻め立てられる由紀。彼女は視線をいつも客席側に向け、何かを見ているが、そこにTVがあるとも窓があるとも、特に説明はない。だが、風景は蓋然性をもって描かれて行く。
時間をおいて振り返ると、母を一つの典型とする通念とは別の何かにこだわっているらしい由紀が、風景に近いその他大勢の中にありながら主体的に生きる存在として、観客に感情移入を誘うべく芝居の中に置かれている感じもある。うっすらとであるが。

ホテル・ミラクルThe Final

ホテル・ミラクルThe Final

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2023/06/08 (木) ~ 2023/06/20 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

REST versionを観劇。
正直圧倒されたのだが、劇場に入ってまず上演時間の長さ(2時間40分)、5演目、休憩(たったの)5分、そして各演目の驚くべき質の高さ。
後でチラシをよく見ればSTAY、REST両バージョンの計10作品の内訳は「ホテル・ミラクル」初回~第7回の各回から1本、プラス新作3本である(それが料金にも反映されている模様)。選りすぐっただけあってパイプ椅子での観劇時間も瞬く間に過ぎて終演時刻を迎えた。
ずっと前に観た「ホテル・ミラクル2(だったか)」の4作は荒唐無稽さが勝っていたが、今回の作品全てに通じるのは(それがあり得る話なのかどうかは置いて)リアルな質感であり、イメージにドンピシャな俳優を起用していた事も大きい。演目のバリエーションも良い。俳優皆が役の狙いを裏切らず、かつ「ラブホ」ならではの、そして予期しなかった物語が綴られていた。
体調↓の夜であったが一瞬も寝なかったのは覗き見の興奮? いや、人間模様の面白さ。キスシーンそしてBまでのシーンも登場するが心の流れに沿って自然な演技である。性愛を通じて人間の実存に迫っており、というと大袈裟だが、RESTで切り取られた時間を真剣に生きる人物たちが最後には愛おしくなっている。全てを演出し、これらの公演を企画し、劇場を運営して来られた池田氏に、労いを言いたい。

残念なのはSTAYバージョンを観られる日が無かったこと。映像化はないのかな・・。

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