tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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AKUTAGAWA

AKUTAGAWA

八王子車人形西川古柳座、Yara Arts Group

座・高円寺1(東京都)

2024/08/03 (土) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

人形劇の知らない劇団へ足を延ばしてみた。
睡魔に襲わる。芥川龍之介の演目「4つの内3つ目が飛んだ。順番に羅生門、地獄変、?、河童」と思っていたが(パンプの極小文字に目を凝らしたが不掲載)、公園ページを見たら5演目。「竜」と「杜子春」の間熟睡したようである。
結果物足りなさが残ってしまったが、「車」の意味が判明。演じ手が座る縦横に稼働する台(キャスター付き)により、人形の移動の滑らかさを可能にする独自の手法だ。
座高円寺の横に広い舞台。下手側に、今回のコラボの相手だろうか、地の文と台詞を英語で喋り、舞台上部にテロップが出る。これがハードルとなり(発語から意味ニュアンスが直接に届かない)睡魔に至ったのかも。
その演じ方も独自だ。西洋演劇をあまり知らないが、ステージには和が満ちているのに劇を主導する位置に異質があり、異文化の遭遇が狙われている、と頭で理解。

いきなり本読み! in  EX THEATER ROPPONGI

いきなり本読み! in EX THEATER ROPPONGI

株式会社WARE

EX THEATER ROPPONGI(東京都)

2024/09/03 (火) ~ 2024/09/03 (火)公演終了

実演鑑賞

初EX THEATER。二階席からぐっと見下ろす格好だがよく見える。世田谷パブリックの3階席も近い距離感に思うが何故ああも遠く感じるのか。照明の具合(光度の問題)か。
感想を言うのも無粋な気がするが、書き留めておく。
使う台本で成否が決まると思われたが、今回使った台本は「ごっちん」のお話。以前「モロモロ」シリーズの端緒のような短編集成(確かKAATでの?)の一つにこれがあって、その大元は年始工場見学会(五反田)の出し物だった記憶。どうしたって後藤剛範の三つ編みカツラにスカート姿が浮かんで仕方なかったのはリーディングではイメージを助けた。名前に「たむけん」とあり、工場見学会では田村健太郎がやった役だったかも。基本子どもの残酷さ、純粋さの世界がうまく表現され、悪い大人(教師たち)と対決(ゲーム対決の様相で子どもの想像力による場面と説明するも可)、しんと心に沁みる場面もある。
今回の企画では「お前」枠というのがあったらしい。最前列中央の十数名が、該当場面に来ると順々に台詞を言う。台本上二か所「お前」登場場面がある。その枠を買った一般の観客に、岩井氏がリハを一回(ここでダメも出す)、そして本番という手順だが、本番でも途中で介入し「もっとこう」と言い直させたり鼓舞したり、指導のみならず感心したりコケたりのリアクション(「お前」たちは中々アピール度があってその生々しい、つまり生き生きした台詞にゲストも観客も楽しく反応できる)をまじえて盛り上がり面白がる時間となる。
もっとも本編も「面白がる」時間。いじられ役となる今回のゲスト、小泉今日子、小林聡美、そして伏せられていたゲスト(といっても既に公表済みであったよう)高橋文哉、板垣雄亮が、8人(以上)の役を性別年齢関係なく入れ替えてやる。のであるが、本来(自分的には、多分岩井氏的にも)ゲストのあたふた振りを面白がり、それを経ながらどうにかドラマが最後に到達、成立する事を寿ぐ趣向だったのが、ゲストらの手練れに感服する事となった。詳述したい衝動を抑えて(というかきりがない)、その事だけ記しておく。
周囲には(その会話や反応から)演劇通もいれば、滅多に劇場に来なそうな人もいたが、心から楽しむ(のが表に出まくってる)彼らの様子を見て嬉しくなる自分が居り。

野外劇 身毒丸R

野外劇 身毒丸R

吉野翼企画

西戸山野外円形劇場(東京都)

2024/08/16 (金) ~ 2024/08/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

吉野翼(たすく)企画を何時から何度観たかを忘れたが、確か生演奏の音楽がぐいぐいと劇に食い込み干渉し、寺山修司風アングラ(いや寺山作品だったかも)の暗く滾(たぎ)るようなエネルギーの充満に快感を覚えたのが最初ではなかったか。
半円形の西戸山野外劇場での本企画の舞台は二度目となるが、「身毒丸」という作品が導くものだろう、秀逸な世界であった。「継母と私」の関係だけが終始描かれる作品。父、弟、近所の人、女衒風の男や奇妙な商売の者たち、立場の者たち、コロス的に登場する「母(の候補)であり女」、動物等、妖しさにおいて中々のポテンシャルの存在が少年・身毒丸の周囲を彩る。
蜷川幸雄演出の身毒丸をずっと以前映像で観たのや、万有引力の舞台を思い出せば、目の前の「身毒丸」が視覚的にも役の発する情緒的にも、分かりやすく、相応しく思える所があった。

歩かなくても棒に当たる

歩かなくても棒に当たる

劇団アンパサンド

新宿シアタートップス(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

追加席販売でどうにかチケットにあり付けた。
3度目のアンパサンド。前に受付で買った過去作も読んで都合4作品を賞味したが、独自の世界観はまだこの先の行方を探して意外な展開の余地のある佇まいである。

ナカゴーorほりぶん(故鎌田順也作演のユニット)のエッセンスを(期せずして?)継承する作り手かも・・と前に書いた事があったが、作者安藤奎が演劇人を目指して上京後あれこれ模索の途上で、実はナカゴー公演に関わったようである(げに納得である)。
アンパサンドの劇では終末へ向かう阿鼻叫喚の時間が用意されているが、ほりぶんが正にヘトヘトになるまで感情と汗を絞り出す時間があり、それを延々とやる(観客も呼吸困難になる)展開を味わう。その中核メンバーの川上友里が今作には招かれ、一対多の構図で彼女が暴れ役である。
ほりぶんとの違いは、ほりぶんでは登場人物全員に熱があるのに対し、今作は特にそうであったが他の人物がナチュラル。後部席からでは放出する熱量をもう少し上げてほしかった。

ネタバレBOX

脚本の上では、ゴミ出しに降りてきた主婦らがあれこれあって、川上(既に死んでいるので幽霊らしい)の牙に掛かり、「ちょっとしたルール違反」に対する制裁を受けるのだが、警戒しながらも一人ずつ言葉の罠にうっかり牙に掛かり、最後に一人残る。彼女は恐れつつ「実は、実は・・」と過去の「違反」を告白する流れになるのだが、もう「あれしかない」告白内容が飛び出るのを予想していたら、期待とは異なり、言わば「心の中では川上の死を喜んだ」的な内心の罪の告白になっていた。肩すかし。これではパンチが足りない。

実はその前、ゴミ出しにうるさく毎日朝ゴミ捨て場前の椅子に座っている川上が「死んだ」経緯が語られるには、その日空き缶を分別せずに出したゴミを川上が整理する際、カランと転がった缶を追いかけて道路に出た所、滑ってトラックに轢かれた、という。
そうであれば、最後に来るオチは「あなたが死んだ原因=缶を出したのは私です」、では無かったか? 自分が憎み、また自分を殺した元凶でもあるルール違反のゴミ(空き缶)の出し主の告白に対し、どう反応するかは頗る楽しみだし、息をのむ展開になったろうに、なぜ作者はそうしなかったのか? 私は疑問だ。それこそ妙な計算を働かせて「肩すかし」を狙ったのか。それとも、川上に反応をさせづらかったのか。
私なら、こりゃ手の付けられない荒れ模様になるか、と思いきや「他のと同じ」だったとか(他の人物がそう台詞で説明してもいい)、逆に改心してしまうとか、怒りが行き過ぎて平穏になり、天上に帰って行くとか、どんな展開も受容できたのにな・・。
「惜しいな~」と感じながら劇場を後にした次第であったが、独自の世界は築かれており、もっと探求されたし。
次もきっと観るだろう。
ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

この劇団の長編作品は以前確か二作程観たが、やっぱりMrs.fictionsと言えば他団体とのオムニバス企画、劇団の「看板」である。15minutesにおいても必ず「最後がミセス」、トリを飾る。これが良い出来でなけりゃ様にならないし、他団体とのレベル差があり過ぎても良くなく、全体で一つのエンタメに仕上げる力にいつも感心しつつ不思議がっている。
今回のテーマ「ファッション」は各劇団とも絶妙な距離感(縛られなさ)があって(日本のラジオはほぼ無しとも言えるが、他のグループも角度が異なるのでその事の違和感も特になく)、HARDOFFの古着コーナーのような衣裳がズラッと掛かった長めのクローゼットが下手、上手に据えられた装置で、劇を上演するので、言わば装置がミッションを代行してる案配。
三作上演して二時間余。時間的には各劇団バラつきなく、アプローチは各様で絶妙にバラつきあり。充実感ありであった。

ネタバレBOX

泣かないで、はデートを前に何を着て行くか迷ってるJKの内面を代弁する様々な「自分の心」(乙女心、老婆心、探究心、羞恥心、等等7体)が喧しく「自分」を責め立てる。
日本のラジオはどうやら宇宙人的な存在(男女二人)が、奇妙な具合に会話をする。部屋を案内されるのだが、自分が部屋の主だと主張する3人が順次登場して混乱し、混沌に陥るがある決着に辿り着く。不条理要素大。
Mrs.fictionsはウルトラマン愛を大学時代の彼氏に植え付けられた彼女が一足先に社会人となり円谷プロに入り、「新時代のウルトラマン」を模索する企画プロジェクトのメンバーに抜擢され、その過程においても彼氏の助言を得たり、プラダとの提携を取り付けた事で進み始めた(換骨奪胎した)ウルトラマンの脚本担当に彼氏を起用したりする。歴代ウルトラマンの放送内容のみならず製作の裏事情も知り尽くしたウンチクを彼女の方が雄弁に語る後半。留年続きの彼氏が自分の中の「理想のウルトラマン」が崩され忸怩としながらも実績を上げてる彼女を止める事はできない中、突如として訪れる結末。ほろ苦さが広がる。一つの恋愛模様が、ウルトラマンとプラダを大々的に経由してシンプルに提示されるオチが流石であった。
夏の夜の夢

夏の夜の夢

劇団山の手事情社

山の手事情社アトリエ(東京都)

2024/07/27 (土) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

以前一度訪れたと思っていた住宅街のど真ん中のアトリエではなかった。池上通りに面した建物だが「音」環境は悪くなく、この劇団の舞台仕様として劇場内部も悪くない。よく見ると若手公演とあり、観劇前に少々視る構えを変えたのだったが、山の手事情社特有のエネルギー量の表出のある演技が小気味よく展開し、前のめりになった。
逆に、突出した表現力というのかキャラ提示のある中で、「一般的な演技」に留まる俳優がいて、どこかの研究生公演などではよく頑張ってる部類だろうが、この劇団ではその先に磨かれた陶器のような独自の「色」を表出する事がその向こうの目指すべき到達点として設定されているのだろうか、それともたまたま剛力な役者が集まったのか、キャラが役に嵌まったのか・・。言いたいのはその「よくやってる」はずのオーソドックスな演技者が目立ってしまったという奇妙な現象のこと。
もう一つ厳しい論評をすれば(これほど楽しんだにも関わらず・・)、後半が特にであったが、序奏から中盤までは戯曲へのある批評的なスタンスが(恐らくは演技メソッドと身体表現、演出面からの)見られたのに対し、後半のある時間はストーリー説明のみの時間になっていた気がした。戯曲を超えられていないというか、捻じ伏せきれてないというか・・かなり高いハードル設定になってるとは思うのだが、正直な感じ方であった。

(余談だが会場整理に立っていたやや年輩の役者、最近どこかで見たと思ったら唐ゼミ「少女仮面」で目にしていた。チラシを見直すと確かに所属も書かれていた。まあそんだけの話。)

潮来之音 The Whisper of the Waves

潮来之音 The Whisper of the Waves

台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター/暁劇場/本多劇場グループ

小劇場B1(東京都)

2024/08/09 (金) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

たまに見るこりっち配信番組に、何と本多劇場グループの支配人(今は二代目)が呼ばれていたのだが、その時チラッと台湾の劇場との交流に触れていたのが、こちら概要を見て漸くその時のアレだと気づいた。早速予約。
交流は枠組みでありとんな舞台が来日するのかは未知数だったが、舞踏ベースの身体表現と、詩的台詞の朗読、点描のようなシーンで構成されていた。字幕を読む必要があり、台湾語(福建語?)の意味伝達のスピードは日本語より速いらしく追いつかない事が多かったが、詩的台詞の範疇なので流れに任せて観た。
実は不眠でもあり、やはり「追いつかなかった」結果に終わった。トークで分かった事は、日本人武道家とのコラボであった事、モチーフは恐山のイタコであった事(潮来はチョウライでなく本当にイタコと読ませていたのか..)。
イメージとして波があり、その先には津波がある。失われた命に思いを及ばせる時間が、意図されているのか、どうなのか。女性二人の対話(ないしはそれぞれの独白)が、人間ドラマの断片として挿入されているが、同性愛の当事者が、観念上の障害を乗り越え、夢(具体的な展望なのか、儚い夢なのか、相手は実は死んでいるのか、不明)を語り合って終幕となる。最後の台詞は一方が「あと、、子供部屋」「子供部屋?」と返して、小さな笑い(そして同意)である。私には十分劇を閉じるに値する台詞であったが、そこに至るにはもっとドラマ要素の比重を大きくし、象徴的なシーン作りは部分的にとどめた方がよかった。国を超えた舞台製作の難しさがあるだろうが、模索を続けてほしい。

雑種 小夜の月

雑種 小夜の月

あやめ十八番

座・高円寺1(東京都)

2024/08/10 (土) ~ 2024/08/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

いきなり偉そうな言い方になるが「上手くなったなァ・・」というのが最初に漏れた感想。お盆らしく御霊もご登場遊ばすが過剰に意識させず涙腺を弄られるあざとさがなく、それはつまり「リアル」そのものに語らせている。「いい話」には目が厳しくなる自分だが、過不足がない。千葉の田舎町を舞台に凡そ三世代にわたる家族と地域の半径幾許の中の物語が紡がれる。
「雑種」とは作者の実家の団子屋を舞台に書かれたシリーズとの事だが、それだけに作者の飾らぬ筆致が印象的である。(ノリの良い演出は健在だが、空隙を埋めるような過剰さ、つまり借りて来た感がないのはそういう事なんだろう。)物語の中心は母という事にはなるが、皆に等しく眼差しが注がれ、いずれ忘れ去られ、今もひっそりと健気に暮らす者たちの群像が浮かび上がる。どこにあってもおかしくない庶民の物語。
当地を訪問するお客が日替りゲストらしい。私は知らないが花組芝居の名物役者らしく(あやめの客層でもあるのだろう)一々笑いが起きていた。
座組を支える金子侑香の立ち回り方は長女という役柄をはみ出て気丈な女将の如くなのが(主役でなくとも)滲み出るが、客席を向いた時その目力を初めて認識。
音楽(効果も)の生演奏も相変わらず質が高い。祭り囃子を奏でる下座に太鼓までは判るが演者が篠笛まで吹いていた(二人も。リード付き篠笛なんてのがあれば習得に時間は要さないかも知れないが..聞こうと思って忘れた)。

日曜日のクジラ

日曜日のクジラ

ももちの世界

雑遊(東京都)

2024/07/25 (木) ~ 2024/07/30 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

念願叶って実力派劇作家ピンク地底人3号の根城ももちの世界(固有名詞が謎満載)の舞台にようやくお目見えとなった。
新しくなった雑遊の「劇場らしい」佇まいも初めてな気がする。とある一戸建て住居の一室がステージ一杯に作り込まれ、漸くにして(つっても自分の観た数回の中では、の話だが)雑遊の名に相応しい貫禄を見せ、胸が熱くなるものがあった。
そして芝居。関西弁が基調のストレートプレイにはある種の笑いが付き物だが、本作は笑い涙を仕掛ける人情喜劇に安易に流れず、硬質でしなやかでリアルで、儚くも残酷で美しい煌めきと、熱情がある。一瞬だが巧妙に現代の剣呑な状況への憂いに触れ、また巧妙に、恋心の存在にも触る。タイトである。

芝居の初め組の舎弟らが執拗に語るヒチコック「サイコ」が最後唐突に出現したのには笑った。
実力ある俳優も注目であったが、こういう良い芝居を観ると関西弁も嫌いでなくなる。(元々嫌いな訳でもないが。)

『本棚より幾つか、』-短編演劇祭-

『本棚より幾つか、』-短編演劇祭-

楽園王

新宿眼科画廊(東京都)

2024/08/02 (金) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

日曜の夕刻一回切りの特別プログラム。二演目、すこぶる贅沢な時間であった。
プログラムA、Bの方は短編3編、20~30分程度の「短編」演劇と呼ぶに相応しい中身だがこちらはそれぞれ幾分長めの演目というだけで、相当の深みへと誘う内容となる。
実は「お国と五平」は、是非とも観たかった。ala collectionでもう7,8年前になるか・・毎回秀作を提供する可児市の劇場の企画で小山内薫「息子」との抱き合わせであった(演出:マキノノゾミ)。
この上演は自分と作品との距離(舞台との距離感も)が遠く感じられた舞台だったが、楽園王で改めて観て、完璧に「今」魅せる作品として立ち上げられ、「朗読」要素の強い楽園王流の手練れた演出によりこの作品の勘所・・とりわけ谷崎潤一郎作品としての真骨頂を味わい直す事にもなった。
もう一遍は一人芝居。激烈な告白(結婚式場での)で大いに会場も笑わせていたが、キャスティング込みで優れた出し物となっている。
(これがただ一度切りの上演とは・・)
さらに詳述したい欲求を残しつつ。

神[GOTT]

神[GOTT]

ワンツーワークス

駅前劇場(東京都)

2024/07/19 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

ワンツーと言えば古城氏のオリジナル、時々ドキュメンタリーシアター、という性格づけがいつしか海外戯曲もやる劇団となり、初が一昨年の「アプロプリエイト -ラファイエット家の父の残像」、前回の「アメリカの怒れる父」そして今回と3作を観た。今作「神」はパルテノン多摩の秋・リーディング公演の情報で興味を惹かれていた。とは言え、ワンツーの海外戯曲を二本観て来て、ある程度の想像が出来てしまう所があり、若干腰が重かったが、やはりシーラッハ作品という所で(小説でなく戯曲を書いた事に興味)背中を押されて出掛けた。

「読めてしまう」、と不遜な意見を書いたが、「アプロ・・」と「怒れる父」は劇的展開に注視を余儀なくされる戯曲で、笑いはほぼなく、赤裸々な感情吐露がある(「アプロ」では関谷美香子の母役、「怒れる父」では奥村洋治の父役が中心の役どころとなる)。その部分で、戯曲が想定する人物の「状態」に肉薄はしつつももう一歩な余地を残していた。それは所謂「劇的」の創出、そこに人物のテンションの高さ(声量や感情の強さといった)が呼応する事を優先し、緻密な意味での「人間の状態、心情」が結果的に捨象される(観客の想像に委ねる)作りが、「読める」という意味。ワンツーの芝居の安定的なクオリティと裏表の関係でもある、と推察しているが、それが海外戯曲二作に受けた印象だった。
今作。戯曲の意図を体現した、優れた舞台となっていた。
人物の感情はゼロではないが、求められるのは「主張」の信憑性に関わる感情の演技。
ネタバレすれば、「安楽死に対する医師の援助」を求める80代の男性の要求をきっかけに開催された倫理委員会による討論が、全編通しての時間だ。
法律、医療、宗教の分野から呼ばれた参考人に対し、安楽死擁護の弁護士、それとは距離を置く倫理委員会委員が尋問を行なう。討論会を仕切る委員長が観客に向かって討論の趣旨と手順、投票等について説明する。物々しい導入で、まずは申請者であるゲルトナーの証言から本論に入る。

それいゆ

それいゆ

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2024/07/25 (木) ~ 2024/07/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

少年王者舘ワールド大炸裂大満足の舞台。天野天街が得意とする昭和の典型的庶民(の子ども)イメージを基底に不思議ちゃん達が立ち回る。大詰めで一対多の長尺リフレイン台詞のくだりが感覚麻痺するまで延々と続くあの体験は他では味わえん(味わえた我が人生に感謝)。千秋楽で役者も力が入ったのか、演出からギリギリまで攻めろと指令が出たか・・と想像したのは、終演時に予定時刻をとうに回っていたからで。ここで何が起きているのかは大きな関心だ。自動機械のように繰り返されるループに「嵌った」身体が「嵌り」ながらにして(台詞も順序も変えずして)同時進行する血の通う人間の感覚がが滲み出てくる。繰り返しの都度、新たな感覚でそれをやっている事を感じながら次は、次は、とは手に汗を握って観客は観る。ライブそのものだ。
戦争、原爆のイメージがサブリミナルのように掠める。何が何だか分からない話にイメージが溢れ出る。これに浸る快楽。

第32回公演『少女仮面』

第32回公演『少女仮面』

劇団唐ゼミ☆

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2024/07/25 (木) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

唐ゼミは何年振りか。横浜公演野外のノマド演劇「木馬」の付くタイトルのヤツ(同じ場所で後にあったのは同演目だったとしたら、最初にやった方)で、禿恵のヒロイン姿を見た。多分7年近く経ってる。KAATでの「滝の白糸」ユンボを使った大団円にも禿恵が乗った。それより前、横浜石川町の公演にて「お化け煙突」。この時のヒロインはどちらだったか・・。
記憶の中ではその程度だが、もう少し遡れば、一度だけ横国でのテント公演を観ている。「ジョン・シルバー」だったか「少女都市からの呼び声」だったか、この時は間違いなく椎野女史のヒロイン姿を認めていたはずで、狭い濃緑のテントの入り口近くで汗だくで観た。十数年前の事。
唐ゼミと共にあった主演女優、とは勿論認知していたが、今回は「少女仮面」で春日野八千代をやる椎野女史の姿をはっきりと、しっかりと見た。唐十郎作品の勘所を美味しく、味わうように作り上げる唐ゼミの精神もはっきりと感じつつ観た。
役者がよくやっている。ドガドガの丸山正吾はじめ振り切れた演技を皆がやり切っていて小気味よい。
春日野八千代は宝塚ガールの代名詞でもある戦前の女優(男役)として知られ、作者は役名に実物そのままの名前を使っている。
年を重ねた女優の悲哀と、華麗な身捌きに宿る誇り高き精神が、崇高にそびえる。その役どころをやれるのはやはり、特権的肉体という事になるのだろうか。戯曲は「物語を見せる」舞台にも出来るが、唐の精神を受け継ぐ中野敦史は、俳優を見せる舞台とする。
喫茶「肉体」を訪れる春日野ファンで女優志望の16歳と手ほどきをしてるらしい老婆のテンポ良いやり取り(老婆は倉品厚子がコケティッシュに演じて「アングラ行けるじゃん」と感心)、ボーイ達のタップと踊りと店主の理不尽に耐える姿、水道の蛇口を吸いにやってくる背広姿(この意味不明男はつくづく芝居に妖しさを与えてる)、腹話術の男と人形が店の者の嗜虐的態度で転倒していく様、それらをひとしきり見せた後、「もうすぐ風呂だ」という春日野本人(椎野)が、客席上段から初めて姿を現わす。背筋を伸ばして一歩、一歩と超スローに歩いて登場する間、舞台上の全員が「あ」という顔をしてそれを見つめるストップモーションが、長い。そして歩きが、遅い。何しろ遅い。そして長い。ギリギリを狙っているが、バックに流れるのメリー・ホプキンの「悲き天使」が終わると二度目が又掛かる。笑ってしまうが、ヅカガールの男役の身のこなしがこれを成立させてる様に感じ入って笑いがこぼれるのだ。
劇の最終段階、甘粕大尉が現われ「ここは満州」と言い、内地からファンが彼女の「肉体」を持ってやってくるくだりになると、狂気がまじり、戦争の暗い影が人物たちに陰影を与え始める。
堂々たる舞台。久々に観に行って良かった。

らんぼうものめ

らんぼうものめ

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2024/07/20 (土) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

公演詳細を直前に確かめ、気まぐれに予定化して観に行った。
ステージ手前のかぶりつきにフラットなスペースがあり、子供たちを座らせている。

始まりは二親と田舎の転居先に着いた娘(小学生らしい)が、ぐずっている風景。私物を入れた段ボールを玄関から部屋に運ぶのを嫌がり、「捨てていい」と言って母を困らせている。「本当に捨てていいの?」「捨てちゃうよ」と・・。
新たな土地で暮らす、という事自体を自分の持ち物と一緒くたに拒否しているよう。地団駄を踏む娘の駄々コネや、掃除機を掛ける母親が寝転ぶ娘の足を邪険に突いたり、が子どもに受けている。大人も見ていて笑いが漏れる。

が、話は「異界への旅」へと移行して行く。この異界が、あまり居心地の良い世界でなかったのだが、子どもたちはどう感じていた事だろう。「演劇を観る楽しみ」とは別物を味わっていたのではないかな。
「子ども向け」とか「親子で楽しむ」といった看板で客寄せする出し物にずっと思っている鉄則だが、大人が楽しめなきゃ子どもも面白くない。(勿論大人の「演劇リテラシー」も一様でないだろうが。)

異形の者たちの衣裳・着ぐるみは結構本格的な物(「DUNE」を思い出した)だったが、演技の方に艶めかしさが感じられないのが私にはキツかった(日常的な気安い感じの喋り方・・なぜ?)。
異形の世界を描くには、ルールが明快であるか、もしくは感覚的に納得させる何か、が必要だが、もう一つには、「迷い込んだ異界から戻る」とか「母を連れ戻す」といった課題(使命)が明確である事も必要に思う。
この課題の部分では、作者は「異界の旅を楽しむ」行程を欲張ったのではないか。異形の者たちとの時間を重ねるにつれ、去り難くなる娘、という事なのだが、異形の者たちが「大人」の設定なのが私は失敗だったのではないかと。「子ども」ならばそのキャラが持つ願望、欲求が明快で、娘にとって彼がどういう存在か(心優しい味方か、面倒臭いが何かの時は役に立ってくれる人か、一方的に好いてくれるが大して役に立たない人か、つっけんどんだが頼りになる人か・・等など)が明確になったのではないか。
話は「太陽の神」がいなくなったためその代りを勤める存在として母がさらわれた。その母を追って異界に迷い込み、母とは再会し、異形の者と母との時間を過ごす。「偽物の父」(異界に本物は来れないかららしい)とも過ごした後、元の太陽の神が戻って来て、母と娘が去る日が来る。皆と別れを惜しみ、偽父とも別れる(ここで涙するのだが、偽父ならもっとドライに別れて良いのでは、、等と心の中でツッコミが..)。劇中、幾つかのアトラクションが用意されてあるが、やはり大切なのは本筋、ストーリーだった気がする。

元の世界に戻った時、少し怖いオチがある。父と娘が日常のやり取りを取り戻しているが、遠くで「おーい、おーい、こっちだよー」と呼ぶ声が聞こえる。見れば奥の中央に巨大な「顔がついてる」太陽が浮かんでいる。どうやらそこから声がするのだが、二人には聞こえない。さっき娘と母が手を取り合って異界から抜け出てきたはずだが、二人は「母がいない」事を意に介していない。
客電が点いた後、二つ前の列の男の子が、「悲しいお話だったね」と呟いていた。子供たちは自分たちを楽しませてくれようとした大人達に、礼儀正しく、行儀良く、敬意を示していた。「今時の若者」に感じる行儀の良さは、傾向はさらに進んでいるのでは・・と予感した次第。
そんな事を感じると、演劇はどんな効果を子供たちの前に発揮したいだろうかと考える。今回のステージで言えば、大人たち自身が「子どものように」楽しむ姿を見せる事ができたか・・そこかなと思う。世代の近い若い俳優たちと過ごせて楽しかったかも。子供たちに感想を聴いてみたい。(距離感のある感想になってしまった。)

群論序説『ALICE IN WONDERLAND-不思議の國のアリス-』

群論序説『ALICE IN WONDERLAND-不思議の國のアリス-』

PSYCHOSIS

ザムザ阿佐谷(東京都)

2024/07/12 (金) ~ 2024/07/17 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

「不思議の国のアリス」を戦前日本に設定を変えて翻案した話をベースに、数学者にして革命家だったガロアを絡めて、緻密に織り上げた脚本である。
耽美な世界を作っていた。客演に申大樹の姿が。貴族紳士風なビビッドな役どころに嵌まり、キャスティングの妙という所もあるが、私的には何より耽美的で哀切さや混沌の世界観に包み込む楽曲が良かった。凡そ三つ程の相の異なる楽曲(歌付きのもあり)がドラマの風景に変化と情趣を色濃く与えていた。
ザムザ阿佐谷の舞台をやはり縦に高く使い、動的にもダイナミックで躍動感がある。装置や小道具で「不思議の国」感を醸し、人物たちのキャラも寺山修司世界に通じてシュールを体現。高取英戯曲は三本目。

カズオ

カズオ

世田谷シルク

アトリエ春風舎(東京都)

2024/07/13 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の世田谷シルク。とくと見せてもらった。永井愛の本作は今回初めて耳にしたが初期の作品のよう。二人芝居に書かれた脚本ではなく、二人が入れ替わり立ち替わり登場し、秀逸な演技を繰り出す。その様が気持ち良いが、体調により睡魔が邪魔してストーリー把握はおぼつかなかった(視覚情報が薄くなるのを二人は人物を十二分にカリカチュアしてくれてはいたのだが)。楽しい芝居である事は分かったのでリピートできたならもう一度観に行ったと思う。
一つ、核となっているのは「カズオ」という存在が、登場人物ら(女性)にとって恋慕と依存の対象であり、女性の悲哀、滑稽さを自虐的に描いた作のようであった。金だけ貢いで捨てられた事に気づかない女・・等。。
戯曲は書籍として出版されており、どこかで入手できる可能性はある。読みたし。

氷は溶けるのか、解けるのか

氷は溶けるのか、解けるのか

演劇プロデュース『螺旋階段』

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2024/07/26 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

見応えあり。点描式に展開を伝え、くどい説明に走らず、最後には素朴かつ強い人間ドラマの構図を残す。1時間20~30分。他の書き手ならもう一つ二つ書き加えておきたくなりそうな所、ストイックに終わらせた。点描のイメージは周囲が闇に説ける劇場空間、照明のワークによる所も。
神奈川を拠点に精力的に活動する『螺旋階段』主宰による作演舞台を先般観た所だが、舞台の色をガラッと変え、クオリティを維持して実現していた。今日で終わってしまうが地元の方は是非目にして頂きたい。そして今後も注目である。

ネタバレBOX

突っ込み所、というか、疑問を残す部分はある。子どもが生まれて以降殺伐とした夫婦生活(夜の、でなく)が描かれ、ある時など毛虫のように夫を嫌い、酒に頼る妻がグラスに入った氷を亭主の顔にぶつけるシーンもある。子どもが生まれた後、子育てが不得意な妻が「求められる水準」に至れない事に、なのか、子どもへの愛情そのものが持てない、のか、それは夫との関係に起因するのか、と来て、しばしば特徴的に切り取られる妻の両親との関係(娘に対し何かと話を持ちかけ、干渉する)がどう妻に、夫婦に、影響しているのか、に疑問が移る。その答えは、作者なりに持っているのかいないのか、という所で、少なくとも「芝居的には」それを説明する必要は無いと判断されている事を感じるものの、気になる。夫婦が仲睦まじく新居での生活を始めた頃、賃貸でなく持ち家の方が良い、将来的にも、と両親は自分らの援助を申し出て、移ったばかりの新居から転居する事となる。(この両親は、訪ねた夫を拒絶する終盤の場面以外には、「夫婦に」ではなく常に「娘に」話をし、夫婦の選択を変えさせる、というやり方をする。)
妻が両親の説得に(その場面では娘は殆ど反応をしない描写になっているが)応じ、笑顔で夫を説得するのだが、不仲になった時点でこれをなじる材料にする。妻が夕食を作らないので夫は夕食をコンビニで買って来たが、これ見よがしにと妻は切れ、少しは自分で子育てをやってみなさいよと言い、「俺は毎日仕事を」にかぶせて自分のお陰で生活が出来てると言いたいわけ?と絡み、この家を買えたのは私の両親のお陰でしょ、と突きつける。そして顔も見たくない、と奥へ引っ込んで行く。
理不尽な主張、言ってもいない非難を言ったと相手を悪者にして自分の非を認める事ができない妻と、夫の関係とは、元々愛のない結婚だったのか?といった憶測が生まれる余地がなくはない。そして一度実家に戻った娘に対し、両親は「あなたには子育ては向いてない」「あの結婚には反対だった」と娘をもディスる言葉さえ吐く(毒親だったのか..)。そうした両親には、経済的には感謝しながらも反発を抱える部分が妻にもあって、これは親離れ(子離れも)が出来なかった家族の病理が「正常な夫」を襲ったという話なのか、それともそこに描かれていない夫の「子育てへの無頓着」というよくあるケースを土台にした話なのか、そのあたりは判然としない。
だが、ストーリーは進み、夫婦喧嘩を嫌った5歳の息子は夜家を飛び出し、工事現場にもぐり込んで穴にはまって溺死する、という展開があり、芝居ではその工事を担った土建業者(亡くなった親方の遺志を継いで新たに会社を立ち上げた)とその関係者の人間模様が、片側で描かれている。
冷め切った夫婦と、建設業者に繋がる面々とが、不幸な事故で接点を持つが、ドラマの焦点は、土建会社で働く従業員の「友達」が夜中酔っ払って工事現場の看板を蹴り倒したと聞いたその妹が、子を亡くした夫を頻繁に訪ねて行く、という奇行の方に移って行き、じつは自分も子どもを(お腹の中で)亡くした心の傷を持つ妹が、衝動的に相手に入り込んで行く様が最終的には感動をもたらす。
従って夫婦関係の「実際」はカッコに括る事が許される。のではあるが、夫婦の再生への希望を捨てていない事を最後に妹らに告げる夫が、叶わない希望にすがっている(過去にしがみついている)のか、実現不可能な事でもないのか、は重要だ。
芝居は娘(妻)側の揺れも切り取っており、可能性をほのめかすが、それは親との決別を意味するのか・・。子育てから解放されたがためにその葛藤が焦点となる事はないが、逆にその過去の傷を夫婦が顔を合わせる度に触り合うこととなる以上、どちらかが(あるいは両方が)自らの非を改める、という形でしか再出発はあり得ないのではないかと想像される。そこでこの夫婦関係にあった問題の本質が何だったのか、が気になって来るのだ。もちろん、そこには「あらゆるケース」が代入できる、という事で良いのかも知れないが。
そうした事から、作家としては「もう一つ二つ書き加えたくなるのではないか」、と想像してしまった。私てきには、あの無責任な親たちに復讐したっていい。皆それぞれ精一杯やってるのだから無碍に扱わなくとも、、とは普通の反応だろうが、今の日本を思うと、決別すべき事とは決別する、という姿を見たい願望はある。
木のこと The TREE

木のこと The TREE

東京文化会館

東京文化会館 小ホール(東京都)

2024/07/12 (金) ~ 2024/07/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ペヤンヌ・まきの近作で音楽劇。と聴いた時はタイトルの「木」の意味に思い至らなかった。作者自身が住む阿佐ヶ谷の住宅地を貫通する道路建設計画を知り、ブス会で舞台化、一昨年末上演した「The VOICE」に印象的に語られる高木が、今回東京文化会館小ホールのステージに意匠を凝らしてそびえている。主人公(南果歩)に絡む二人の存在(男性)が、劇と同じくだりを(老婆役とかで)再現する箇所で、あの劇に出演した二人だと気づいた。他に踊り子(女性)が一人(これが後半、物語性と比喩性に富んだ踊りをガッツリ披露する場面がある)、そして上手側にピアノ、ギター、コントラバス他の演奏者(イケメン)三人が、存在、音楽ともに舞台に溶けている。
70分程度の小さなステージの中に、劇では言葉でしか伝えられなかったものが詰まっている。人の思いそして木自身の眼差しが、音楽、踊り、賑やかな三人の遊びのような動きの中に花開くように広がる。これを言葉に約めて言えば、「今ここに存在するものを愛すること」だろうか。阿佐ヶ谷の片隅に、神宮の森にひっそり立つ彼ら(木)に思いを馳せる、玉のごとく愛らしく、大切にしたい世界。
会場はほぼ埋まり、会館の会員だろうか、タイトルを見てだろうか、子どもを連れた親も結構いた。幻想的な世界ばかりでなく、木を切られようとする「現実」に声を上げる場面がある。「抗議の声」自体が政治的な響きを帯びてしまう今であるが、この場面の声は、心にまっすぐに届く声だった。こっそり涙を拭っていた客は、当事者に近い人だろうか。子どもたちの心に、何か種が撒かれたならいいな、と願う自分であった。

この問題がきっかけで杉並区政に関心の領域を伸ばしたペヤンヌ女史が撮ったドキュメント映画を観たいと思っているが、都内、横浜と巡演する間に追いかけてはいたが観られず。いつか観たい。またブス会の過去作の映画化もされていて、見逃した芝居だったのでこれも観たい。

スタンダップコメディ・サマーフェス2024

スタンダップコメディ・サマーフェス2024

合同会社 清水宏

小劇場 楽園(東京都)

2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

スタンダップコメディに一言申すなど無粋の一言だが、一言だけ。
さすが。すげえ。一人でやってるだけでリスペクトだが、自分という存在を素材に物語を紡ぐ芸。
大拍手。

百こ鬼び夜と行く・改

百こ鬼び夜と行く・改

仮想定規

中野スタジオあくとれ(東京都)

2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ期を挟んだ数年前に観た時の印象が蘇ったが、異形の登場人物らが今回は「お寺(神社だったか)の裏の池に住むヒキガエルを媒介して覗かれる妖怪らの世界。そこへ迷い込んだ最近この村に転居してきた男の目撃する「戦い」が、一体何を象徴するのか、が着目点だ。1枚のクレームを記した紙が、始まり。そこには「蛙の鳴き声がうるさいのでどうかしてくれ」という趣旨が書かれている。町内会の意見箱へに入っていたのを、町内会長さんが男に見せに来る。町内会へ強引に加入させられ、おまけに「君、頼むよ」とその紙を渡される。仕方なく夜の池を訪れ、鳴り渡る蛙の大合唱に向かって「おーい、少し黙ってくれ」と、手段無し。そこに口のきけるヒキガエルが現われる。頭の上に草を乗っけると姿が見え喋る事もできる、という設定。後に登場する怪物らも男の前に存在を顕わにするが、5人ばかりの彼らは鬼滅の刃の剣士「柱」っぽく独特のキャラがある。

さてこのクレームは、現代のクレーム文化の隆盛(精神文化のある種の劣化)を象徴し、街に置かれた「自由に弾けるピアノ」の撤去を要求する人たちの存在を思い出す。うるさいから止めさせろ、というのは一見「権利の主張」ではあるが、子どもの声がうるさいから公園を撤廃した町でも議論が起きたように、難しい問題をはらむ。で、これは芸術に対するクレーム(愛知トリエンナーレが好例)にも通じ、「不快」との付き合い方、公共空間の確保、そこで優先されるべき事、等の社会的コンセンサス、もっと言えば社会のエートスを育む視点が問われる大きな問題だ。
蛙の声がうるさいからどうにかしろ、という投書を、妖怪たちは「あいつの仕業だ」と当たりを付け、やがて主のようなその存在(青木詩織)が登場する。ここが私には不満だったのである。一つには、人間界に巣食う望ましからざる精神性の根源を擬人化した存在として、つまり人間と重なる存在として異様に登場してほしかったのだが、妖怪的存在の仕業である事と、それが人間に対してどう影響するのか、という肝心な部分(私にとっては)が曖昧になり、異形の世界の中での出来事になってしまった。夜の内にそれらは解決し、人間界に平穏が訪れる・・・果してそうか。クレームは人間の劣化という症状であり、そこに病理があり機序があるので、そこにメスが入る事と、妖怪界での「戦い」が重なって見えたかった。
(演出面では、妖怪たちの前に突如現われたその存在は、ミザンス(立ち位置)的に同じ側に居るように視覚的に判断されてしまい、混乱した。対決図を見せるなら、主を上手側、これに対峙する妖怪たちは下手側、といった風に、「何かに対峙し、これを解決せねばならない」という風に見えたかった。主役の立ち位置として中央に立ってしまう事を優先したのは正しい判断なのか、というあたりで「?」が沸いて来てしまった。結局の所、彼らが何と戦い、何に勝ったのか、忘れてしまった。
が、冒頭からの自分の期待からはズレて行ったのが残念だったが、中々見モノな場面、笑える場面、奇想天外な場面展開はジェットコースター式エンタメといった所。役者の汗が(肉眼ではなく)見えた。

あくとれを前に訪れたのは恐らく20年前頃。芝居をちらほらと見始めた頃で、知人が出ていた芝居を観に行った、とだけ覚えている。というかその事を思い出した。
その時も中野駅からの単純な道のりを探しつつ歩いた感覚が蘇り、近づくにつれ足が速まる自分がいる。あれは何の芝居だったっけな・・記憶も記録も辿れず、思い出せずに終わりそうだ。どうでも良い話だが。

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