tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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老いた蛙は海を目指す

老いた蛙は海を目指す

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2022/12/15 (木) ~ 2022/12/27 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今回も出かけた。何時から毎回観る劇団になったかな・・。主宰の東氏曰く「同じことをずっとやっている」のは確かにそうだが、ある時期から根源的不安の時代を反映してか桟敷童子の円環から逸れて、幾分変化を辿り始めた、ように自分には見えた。前作「夏至の侍」はその意味では「従来の桟敷」であったが音無美紀子(ある意味新劇的)を軸にしたアンサンブルが圧巻であった。今回は個人的には嬉しい「どん底」に肖った作品であったが、どん底が持つシニシズムと、桟敷童子のドラマツルギーとは微妙な部分で合致しなかったような。期待の方向性が分散してしまったというか。
佐藤誓の存在は前作の音無に通じ、ナチュラルが持つ強さをもって支えていた。一方豪胆な役処の青山勝(役者姿は殆ど見ていなかった)が桟敷のアングラ要素にテコ入れしていたが、私の感性ではやはり「勢い」の桟敷の唯一弱点と言えるリアリズムの要素としての佐藤誓を核に据えた作りとするか(青山氏は偏屈な脇)、または佐藤氏を思いきり脇に押しやり(変人医師くらいにして)青山勝を軸とするか、どちらかではなかったかな、と思う。その中で、常に独自に完結した世界観を作っている大手忍・板垣桃子のコンビが今回は板垣女史単独で男子二人と治安維持法違反の嫌疑で追っ手を逃れて来た労働者三人組の一人となり、難しい役どころとなった。
私としては「変化」はリアリズムの方へ、と期待する所がある。その意味では板垣桃子の志向性はその逆を行く所があり、屋台崩し的ラストを飾る彼女の動きが(勿論それは演出なのだが)私の中ではハマらず、やや残念感が残ったものである。部分にこだわり過ぎかも知れぬが。。
ともかく今回の試みは「どん底」、それも恐らく黒澤明監督によるそれ(私の好物)が参照されていそう。芝居の冒頭から何だか山本あさみが怒りっぽいな、とか、貧乏長屋の住人のキャラ分けに余念がないと感じていたらこの古典のストーリーが顔を出した。これ自体は嬉しいものであったのだが。。

In C

In C

Co.山田うん

スパイラルホール(東京都)

2022/12/28 (水) ~ 2022/12/29 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今年のKAAT公演を見逃した本作が早くも再演と二日前に知り、早速出掛けた。山田うんは「モナカ」以来二度目。「In C」(イン・シー)とはテリー・ライリーという著名な作曲家の楽曲の名で、これをダンス作品とした。楽曲はミニマル・ミュージックの範疇で、思い出されるのはダンスカンパニーのローザスがスティーブライヒの楽曲に振りを付けた「ドラミング」。これは音楽のダイナミズムを舞踊付きで味わう作品、つまり楽曲が完全に前面に出ていたが、今回は(「In C」が楽曲名である事を観る時は知らなかった事もあるが)ダンスのオリジナル作品として観た。オノサトルがアレンジして現代的な音になっていた事と山田うんの斬新な身体表現が楽曲に従属した舞踊とは一線を画していたが、間断なく徐々に変化する音楽の圧は「踊り」(ダンサー)に大きな負荷をかけると同時にそこに充満して行くエネルギーがある。
舞台は遺跡の石のパーツのような白褐色の装置、そこに同系色の奇妙な衣裳をまとったダンサーが登場、皆一様にアトムの頭のように固めた光沢の黒髪。ソロ、ユニゾン、アンサンブルの動きが絶えず脳に刺激を送って来る。身体というよりその「形」と変化が何か人間とは別の風景や現象、または視覚を超えたニュアンスとあらゆるイメージにアクセスさせる。
若干照明を落とす場面では条件反射で瞼が下がり目を開け続けるのに苦慮したが・・。山田うんの発想力とダンサーたちの再現力に脱帽する。

モダンスイマーズ『しがらみ紋次郎 ~恋する荒野路編~』上映会 生アフレコ

モダンスイマーズ『しがらみ紋次郎 ~恋する荒野路編~』上映会 生アフレコ

モダンスイマーズ

ザ・スズナリ(東京都)

2022/12/27 (火) ~ 2022/12/29 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

モダンは入場料が安い事を忘れていた。この入場料で人形劇で、映像で・・と正直大きな期待はしていなかったのだが意外な完成度であった。併演されている人形劇団ココンの監修とは言え人形、背景、これをベースに展開するシナリオもよく出来ており、映像(編集)も堂に入ったもの。生アフレコがまた徐々に慣れて来て世界に引き入れた。
上手と下手に置かれたマイクの前で主たる人物が喋り、平場でも動いて喋るが、その姿は裏方。コロナ期突入し新領域の開拓という事で始めたものの人形作成、稽古、撮影、映像編集と製作には多大なエネルギーを消耗し、中々大変であったという。費やしただけの事はあり、1時間程度の作品だが随所で魅せる。音楽が国広氏。まことに芝居に合わせて音を作る人、感服。上演(上映)は二回のみ。

ぬるま湯のあとさき(12/26.27の公演中止)

ぬるま湯のあとさき(12/26.27の公演中止)

ツケヤキバ

OFF OFFシアター(東京都)

2022/12/21 (水) ~ 2022/12/27 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

旗揚げ公演にお目にかかる事はそう多くないが、意に叶う所あらば応援したくなるのも人情。もっとも残念ながら長続きするユニットもそう多くない(演劇を続けて行ける事自体稀有で大変な事)。さてこの度はチラシに写る中心人物らしき男の風貌とユニット名の謎めきが(実力派な俳優、演出者の名が見えてもなお)高く、中味は全くの未知数で心の構え方が定まらぬ待ち時間を過ごした後幕が開いた。(劇場に着いたのも早かった。19:30開演だし。)
つけ焼き刃と卑下した訳ではなかろうが堂々たる旗揚げ公演だ。四人が喋り倒す濃い一時間半は「中年の痛い現実」を焙り出して傷口を引っ掻き合う摩擦熱の高い劇であった。役者が皆巧いが、「例の男」の特異な存在感が舞台でも謎めきを放って、少なからず独特な味を与える。役の本人性が高く、この素材を巧く使った芝居とも言えてしまえばしまえそうなニュアンスも若干漂う。勿論「劇」の充実した中味があった上での話だが終演しても残る未知数さが「今後」を待望させる(と同時に一発に終わる予感もなくはない)。ので、ぜひ第二弾、三弾と続けてほしい。
作者・深井邦彦の名はグッドディスタンスのレパートリーに登場する作者名として記憶に残るが、今回改めて調べてみると、元張ち切れパンダ劇団員であり自分はその最終出演作も観ていた(あの時のあれだったか・・)。俳優業も皆無ではないようだが退団後は劇作を続け、そうして現在に至る新人劇作家の一里塚を見た思いもある。

奇妙な果実

奇妙な果実

新宿梁山泊

シアター・アルファ東京(東京都)

2022/12/15 (木) ~ 2022/12/21 (水)公演終了

実演鑑賞

シンガーソングライター趙博が書いた作品の梁山泊公演が定番となり脚本も堂に入って来た。「百年 風の仲間たち」、その改良版、「丹下作善」(未見)、そしてコロナに入って「百年」の続編「音楽劇『風まかせ 人まかせ』」(スズナリ)、翌年「娼婦 奈津子」(スズナリ)、そして今年「奇妙な果実」(シアターアルファ東京)。元々歌詞のある曲の作り手であり、音楽ライブがそのロゴスの世界を肥大させて生まれた徒花といった作風であったのが、「風まかせ」ではコロナで危機に瀕したライブハウスのドラマを描き、「奈津子」では一人の女のドラマ(ここには在日は弁護士の出自として登場するのみ)、今作では歴史上の人物に焦点を当てたとある「ライブもやるバー」を舞台としたドラマ。バックバンドが劇伴に徹した「奈津子」が圧巻であったが、今作でのリアル場面としてのライブのリハーサル及び本番演奏は劇伴効果も存分に兼ねた。「奇妙な果実」とはビリーホリデイの歌のタイトルであった。マルコムXに絡めており、金喜老の半生に影を落とす。
恵比寿の新劇場は三度目となったが、上手、ステージ近くの席は初めて、演奏も含めてビンビン響いて来た。

カタブイ、1972

カタブイ、1972

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2022/12/15 (木) ~ 2022/12/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

沖縄がテーマ、内藤裕子作、という事で観劇必須の舞台と楽しみにしていた。
一定のスケール感が欲しいだろう「沖縄」の芝居をB1ではどうだろうか、と訝りつつ足を運んだが、劇場は使いようだ。B1には狭いイメージしかなかったのだが、さとうきび畑に面した家屋の一角がステージに据えられ、空が感じられる。そして役者の目を通して、こちら側にどこまでも広い畑が感じられた。
沖縄の団体との共催で沖縄の俳優との5人芝居で密度の濃い競演舞台になった。沖縄訛りもこなし、おじいの家にその夜集った五人が三線を鳴らし踊り歌う場面は最後の唐船ドーイ(カチャーシーをやる定番曲)まで十分に見せる。(芝居の流れの中に「音楽」を成立させる事において一目置いていたのが第27班。)
他にも特筆すべき点がこの舞台にはあったが、結論としては内藤裕子作品として自分が(勝手に)期待していた所まではもう一つ届かずであった。そう感じた理由は何かを考え中である。

どっか行け!クソたいぎい我が人生

どっか行け!クソたいぎい我が人生

ぱぷりか

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/11/24 (木) ~ 2022/12/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

静かな演劇系の一つだろうと(見てないのに)認識していたが、今回初観劇にて、思っていたより中身が詰まっていると感じた(風景描写に終わる「静かな演劇」系作家も多いが)。
占部房子演じる母が、やや「迷惑がられ」なキャラで、愛すべきキャラでもあるがスピリチュアルに依存する(ゆえに)忙しない。娘や弟、その妻という親族が彼女の能動性に対する受け手となっているが、第三者的存在として母の職場のうんと若いバイト青年がいる。家庭の事情で苦労して育った変わり種で、繊細さと豪胆さを同居させたマイペース人間。母と職場で会話をし、近々誕生日だというその日、気さくなバイト青年は母とお出かけ(デート)に付き合い、その足で自宅に連れて来る。誕生日のケーキを持って来た弟夫婦と、娘が居る。全く物怖じしないバイト青年と、親族それぞれのキャラとの接触によるリアルな化学反応が良い。母はバイト青年に運気を宿す的な腕輪を贈るが、少しスピリチュアルに傾きかけている弟の妻も「私ももらっていい?」と欲しがり、母は一瞬止まるが気前よく差し出す。バイト青年が母に対し分け隔てなく、遠慮もなく、この日は母の存在も受け入れられた良き日。だがバイト青年と娘が出くわし、カメラマンを目指して東京に行くというバイト青年の話から、娘は自分の中に興味を芽吹かせる。バイト青年がカメラの学校の関係で単発の仕事があるので近々東京に行く、という話を聴いて娘は思わず「自分も行きたい」、と言う。その後母の不調が始まり、一悶着の末、どうにか東京行きは叶うが、「母には自分が必要」という観念に囚われていた娘がそれを一枚一枚剥ぎとる過程もそこに挟まり、劇の最後には母に自分の意思を伝えるに至る。
母は別れた夫が娘を奪いに来る、という強迫観念に常に囚われ、元夫の状況を探るよう弟に依頼してもいたが、終盤、元夫は数か月前に病院へ運ばれ亡くなっていた事を知る。夫が娘を奪いに来る・・被害妄想に駆られテンパり、風水やスピリッツの雑多な知識を自分流に解釈し、誕生日に娘からもらったルビーのピアス(冒頭、娘の愛情の証を母が受け止める心温まるシーンがある)をゴミ箱に捨ててしまう。そしてそれを「こうするしかないの」とわざわざ娘に告げる母(深層心理で娘を憎んでいるといった線はなく、娘との二人暮らしの継続だけを願いとする母の「苦渋の決断」として演じている)。娘を背中からハグする場面が何度かあるが、占部は精神状態の振れ幅の大きいこの人物を双極性障害や多重人格のようには演じず、愛=依存感情の多面的な表われ方として滑らかに演じ、存在感があった。ルビーのピアスをゴミ箱に捨てたと聞いた娘は母の行為を「症状」として受け止め切れず、娘の反応を見て「まだゴミ箱に入ってるから(大丈夫)」と告げるも娘は不満を露出させ、出て行く(娘にとってここが母との関係における許容限度である事が如実に判る場面を作っている)。
共依存の母娘の関係が断ち切られる大団円は、すっかり静かになった母親が東京から戻って来た娘を迎え入れ、彼女の吐くだろう言葉をとうに分かっているようにソファに座って正面を向いている。一筋の涙が見えたと思うと暗転。美しいラストである。
福名理穂・ぱぷりかを随分前に検索して確か中国地方だった記憶。それを思い出したのは広島っぽい方言で芝居が進む。この方言の味もいい。
ハッピーエンドではあったが、ディテイルが物を言う芝居である。弟は元々姉の持つ弱さを見て育ったのだろう、障害児の兄弟姉妹を持つ子どもを「きょうだい児」と呼ぶらしいが形象にその面差しがあり、心根の優しさと同時に、姉を良く知っているからこその用心深さもある。その優しさと、彼の妻がスピリチュアルにハマる素養のある人、という取り合わせがまた「ありそう」(生涯苦労を背負うタイプの人ってのがいる)。バイト青年はその飄々とした風情が現代の達観した若者のある種の典型にも見える。どの役も好演していたが、中心となる母の存在感がやはり大きかった。

一点、未回収というか疑問が残ったのは、終盤の母親は社会性をも疑いかねない状況になるが、バイト青年も居るスーパーには出勤している日常が、欠勤続きになっているといった説明はなく、状況は変わっていないという前提で良いのだろうと思いつつ観ていた。外で働く日常は自己が暴走しない歯止めになっているはずで、その部分が気になったと言えば気になった。

〜風刺コメディ  オ・セヒョク特集〜

〜風刺コメディ オ・セヒョク特集〜

SORIFA そりふぁ

OFF OFFシアター(東京都)

2022/11/07 (月) ~ 2022/11/08 (火)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

みょんふぁ(洪明花)プロデュース(SORIFA)によるこの公演は折々に開催される韓国戯曲上演の行事とは趣きを異にして、みょんふぁ個人が入れ込んでいる若手韓国劇作家オ・セヒョクの短編を上演しようというもの。日韓演劇交流センター主催のリーディングで最近翻訳を担当する等の実績を見せていたが、今回は3作品全て翻訳し、三作品個々に演出を付け、俳優を揃えて三様のリーディング舞台を作り出した。なかなか見応えがあったが、同作家の長編を見たいと思った。

われらの狂気を生き延びる道を教えてください

われらの狂気を生き延びる道を教えてください

コンプソンズ

浅草九劇(東京都)

2022/11/10 (木) ~ 2022/11/20 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

漸く二度目の観劇となったコンプソンズは、配信映像で鑑賞。例に違わず一度の鑑賞では把握できず、何度目かのトライでスッと芝居に入れた。途中で津村知与支が出てきた(そうだったんだ)。油彩の絵具がカンバス上で(水彩と違い)融合せず、絡み合うのに似て、人物やエピソード、キーワードが絡み合いながらも個別性を維持して意表をついてひょっと顔を出す。アイドル、というキーワードが他の雑多な物と一緒にプカプカ浮かんでいる中、ラストで一人がギターで歌い始め、中々な歌を聞かせたと思えば地下アイドルコスチュームを着た二人が振付を揃えてオンステージ。検索すると「アイドル」と出てきた。
その村田寛奈、さかたりさ両名に、津村、野田慈伸、東野良平(地蔵中毒)、てっぺい右利き(喋るだけで笑わせる。芸人らしい)を客演に迎え、劇団員4名を加えた布陣だが、破茶目茶に見える展開には一応の組み立てがあるようだが、合間に気持ち良く挟み込まれるちょっとした人間洞察や世相批判、皮肉の効いた台詞が良い。現実世界であるラーメン屋のシーンに突如挿入されるのが「死の手前」を行く男(東野)のシーンで、一対一となった時相手も「死」にまつわっていて対話が成立する、という法則があるが、東野がフリーな立ち位置で遊んでいるように見えなくもなく、全てにおいて「固めない」時間がスープを煮込むようにゆっくりと、煩く忙しなく進み、正体不明。だがそれでも成行きを見てしまうフックが各所に仕込まれている。今回も大作家の小説をもじったタイトルだが、未読であるし関連があるのかどうかは不明。役者らのキャラの立ち方が人物らしさに裏打ちされているので、笑いはその「らしさ」を見せる場面で起きる。これが演劇の醍醐味である。美味しいキャラを味わうためのストーリー、あるいは言いたい言葉を籠めた台詞を言わせるための展開、演劇に必要なものは飽きさせないアトラクションと後半の盛り上がりと「それっぽい結末」だけでいい・・等と試しに言ってみたくなる芝居。

ライダース・バラッド

ライダース・バラッド

円盤ライダー

πTOKYO(東京都)

2022/12/13 (火) ~ 2022/12/22 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

関戸氏と聴いても判らなかったが空宙空地(の主宰)で思い出したのがアゴラで観た多役を二人でこなす疾走ロードムービー。名古屋~関西が主な活動の場のようだが幅広く活動、短編集上演歴はコロナ前から。今回の円盤ライダーでは、常連男優(若くは劇団員)三名にゲスト女優をそれぞれ当てた二人芝居×三編であった。
軽めのジャブから入って二本目そして三つ目と、いつしか深みに引き込んでいる。時系列に進む台詞劇であるが、密度が高く、それぞれ展開の面白さ、台詞の含蓄を味わわせる。円盤ライダー特有の「男の集合体」の過熱ぶりは見られなかったが、逆に男の単体が「女」との対面によって皮を引きはがさ冷や水を浴びた姿もまた一興。

ネタバレBOX

初めて訪れた会場は赤坂REDシアターからほど近い溜池山王寄り、外堀通りとの間に一本通る裏通りに入った所で、物々しい漆黒の車体が宵闇の中にそこら中に浮かんで些かぎょっとする。顔の無いアンタッチャブルな領域が公然と辺りを陣取っているのでこれは政府系か反社系か、と興味の目を注ぐが、見極められぬ内にその界隈に構えた店を見つけ、足を踏み入れた(赤坂と来れば政界の方かやはり)。
店内はバーカウンターのあるスペースを背中に、ステージ側に向けてランダムっぽく配置した椅子とソファは多めにカウントしても20程度、椅子の前には安定した台を据えてドリンクが置ける仕様。隅の席に座った自分の前には縦置きした大型スピーカーが台代り。相変わらず「予め少人数キャパ」でやるこの劇団に普段抱いている疑問=採算は取れているのか=がもたげる。もっとも劇場を借りて行うのとは当然異なるだろうが。スカスカの客席がさほど淋しくないのは場末のジャズのライブくらいだろうか。胆が座ってなければ中々やれない。

さて芝居である。
三つの短編は短い暗転を挟んで上演され1時間15分程であったか。短編と言っても40分もあればガッツリな芝居にもなるがこちらは30分を切るショートショートと言える作品で、短い程難しいのはリアリティを確保しながら劇的瞬間を作り出す事。設定やテーマ性の「手」を借りて成立する物や、あるいは散文詩的な台詞で観客の想像にほぼ委ねた「ブンガク的」な代物と違い、時系列で進むリアルな人物二名による会話劇としては質が高い、と思った。

まず男三人がざっくばらんな会話=前説で場を和ませ、ふっと二人が客席側に去り、残った男が佇む間に客席の背後のカーテンが半分引かれるとそこから女性が声を発して登場。「走馬燈って・・」と謎をかけるような発語。
再会を懐かしむ間もなく男は女の注文に従い「死ぬ前に思い出す二人で暮らした頃のこと」を慌てて捻りだすが、どれもこれも食べ物のこだわりの事で言い合ったりとつまらない場面である(これを男女が芝居で再現する)。男は申し訳なさげであるが、「走馬燈」から想像された如く死別の話である事がやがて明らかになる。間もなく旅立つ女の方から男を訪ねた格好であるが、その事を知った男はどうにか女を納得させようと必死になるが、滑ってしまう。この場面で女は客席側に一歩出たあたりでトップからのサスで頬の輪郭だけが浮かぶ演出が何気に絶妙で、涙しながら笑っていると客に悟らせる。男も半泣きになる。
ここで戯曲にない(台詞の説明がない)穴が気になり出す。
二人は何かの事情で別れ、久々に再会した様子であるが、女はこの男の所に戻って来て、最後の一瞬の時間を共にしようとした。だからこそ何故別れたのか、男が女を捨てたのか・・等々が気になるのである。
観客は自分が考えられる美しい背景事情を想像しても良いのだが、やはり表現の中にそれは欲しいと思った。今回は作演出関戸氏、ではなくが演出は主宰の渡部氏でこの一作目の演者。演出自らが演じる芝居の「感じ」があったな、と思ったのにはそのへんの理由かと。
ストーリーの面白さに加えて、裏筋というか奥行というか、俳優が籠める事も可能ではなかったかと想像された(それが困難であったとすれば戯曲の問題である)。・・例えばもし男から別れを切り出したならそれは愛ゆえの選択であったか、愛がない事に気づいた故か。。
芝居の冒頭から男は女の圧に負け、言われるがままに仕方なく?二人が暮らした時期の記憶をまさぐる。その中で生まれて来るのはその当時の「感情」ではないか。芝居では、女が「去る」となった時、男はまるで「今愛している女性が去って行く」かのように、引き留めようとし女の背中に声を掛けるのだが、果して男は「死んで恨まれたくなくて」気の利いた言葉をかけてやろうとしているのか、本当は後悔していると伝えたいのか・・それによって態度は異なるだろうしそのリアルな状態を見たいと思ってしまう。
ドラマとしては、たとえ愛していなかった女性との思い出であっても、逆にその事に申し訳なさを募らせるといった事でも、リアルな感情の中に真実がある。日常に戻った男が、ハードボイルドの目玉焼きを食べてみる・・人生は思ってもみない発見(小さな発見であっても)の可能性がある、と思わせてくれればドラマは成立する。
もし男が女をこよなく愛していたのだとすると、女の登場が男に及ぼすものは大きく、一度は去って行った女がそこに居る事の戸惑い、であったり、様々な感情が去来しそうだ。「それなのにこんな場面しか浮かばない」もどかしさが苦悶に近いものになったり・・そんな事を考えてしまった。

二作目は車の内と、時々外、で展開するこれも男女の物語であるが、婚約した事実の上にあぐらかいてそうな男と、本気で婚約を見直そうと(親と合う日を翌日に控えた今日)思っているらしい女との温度差が妙味である。雨の中、ビンゴで当たった「夢の国」(ディズニーランドと考えてよい)チケットの当日、土砂降りのなか高速を走る車中である。女性は小さい頃夢の国に行った時の思い出話をする。そうした気分に浸りたいのである。男は雨の中、大して行きたくもなかった夢の国に向かっている事にぶつくさ言っている。女が話す何度も反芻しただろう小さい頃の思い出話とは・・その日沢山サインをもらったスケッチブックを、あるアトラクションの最中に池に落とし、スタッフにホテル名と部屋番号を聴かれ「もしあったら届けます」と言ってくれたのだが、後で母親と部屋に戻ってみると、新しいサイン帳が置かれてあり、見ると窓が開いてカーテンが揺れていた、ピーターパンが届けてくれた!という奇蹟の話(親切にも観客が真相を想像できる情報も入れて)をわくわく口調で語る。男はこの話にも超自然現象などあり得ない事をズケズケと語り、「現実」と「夢」の対立軸がこれほど明確でありながら婚約した二人が、特段不自然でもなくそこまでは見えている。ところが、女は男の「夢の無さ」にそろそろ業を煮やしている、といった風が見え始める。しかもサービスエリアで男が所用中、掛かってきた電話の相手が「いつまでも待ってるよ」と言ったらしい会話。戯曲の(説明)不足はこの不明な相手の実体が伏せられていて、女性にとってどの程度の存在なのか・・というあたりであるが、女性が本心から迷っている事と、男がそれまでの会話の中から実はある種の危機を察知したらしい事が、一風変わったクライマックスに導く。男がトイレから戻った時、「現実主義」な男の一世一代の大芝居を打つ。即ち、手の平の上に居るらしいティンカーベルが、男を捨てないで欲しい事、パッとしないけど真面目でいいやつだから、と擁護する台詞を(男のしゃがれ声で)言う。これを聴いた女性は、ややあって、「わかった、ただし条件がある」と言い、喋り始める(その中身はマイムのみ、雨でかき消される)。
マリッジブルーをオチにした話ではなく、二人の関係を繋ぎとめるのは何か、どんな風が吹けば男女は結ばれるのか、といった含蓄がある。女が判りやすいサインを送り、男はやっと気づいてアクションを起こしただけにも見えるが、紙一重で変わる運命の不確かさと、個人の中にある確かさが感じられ、後味が良い。

最後のは、いつも円盤ライダー舞台では三枚目が熱く語るキャラで賑やかす俳優だが、空宙空地の代表の一人でもあるおぐりまさこ演じる一人の女性とフードコートの丸テーブルを挟んでの会話劇。父娘の話としては、設定自体はありがちであるがよく出来た戯曲であった。戯曲もうまいが俳優(父役)の存在感が何気に抜群(変な日本語だが)。聞き役に回る時間を含めて父という人物と一体化したリアリティが「場」を信頼できるものにし、微妙な心情の移り行きが表情の変化に見えるようであった。

円盤ライダーらしい男がうるさい群像劇を期待して出かけたが(大して観劇歴はないが)様々な演劇形態への挑戦も円盤ライダーの本義だろう。ただ今回のがコロナ下の苦肉の策であるとすれば(消去法で選んだ形だとすれば)少し寂しい。人は本来的に密になっていいし接触していい存在である・・コロナ(ウイルスによる病気でなく人間への忌避感という病気)を超えるあり方を見せてほしい。勝手ながら円盤ライダーは何故だかそんな期待をしたくなる存在である。
三人姉妹

三人姉妹

アトリエ・センターフォワード

シアターX(東京都)

2022/12/07 (水) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今公演がいつも以上に目を引いた理由は(俳優陣もさる事ながら)「自作(新作)上演でない」事にもあった。公言する如くシアターXでの上演というのもそうであるが当日は(イメージで)うっかり下北に行く所だった。
「三人姉妹」、に副題が付されており、大胆な潤色を予想したが、「三人姉妹」であった。
ただしある種の方向付けがあり、恐らくテキレジも為されているが(ラストの台詞並びは明らかに原文と違う)、一役のみ男を女優がやっている事や、主人公風情の長身俳優が脇で存在感を持っていたり、何がどうだからどうとは言えないが冒頭のイリーナ、オーリガの喋りと立ち位置から人の動線に、演出者の「意図」が行き渡っているのを感じる。
目を引くのは美術で、Xの通常のステージを作る高さ数十センチの台を両側を繰り抜く形でオーリガの家を浮かび上がらせ、奥行きを作る。最奥の両脇が出はけ口。一段下がった両側が玄関に通じる廊下となり、間もなく登場する人物が早めに姿を見せる格好になる。
台上の演技エリア(家)には前半、奥と手前の間に高さ低めの仕切りパネルが左右に置かれ、狭い中央が通り口、奥での談笑と手前の秘めたる会話の図が出来たりする。

「三人姉妹」は清水邦夫の「楽屋」のせいか一度ならず観た気でいたが(戯曲も途中まで読んだ)、東京デスロックの抽象度の高い舞台(亡国の三人姉妹)を除き、ストーリーを分かりやすく味わったのは今年アゴラで上演されたサラダボール舞台(女優三人のみで全編演じられる)が初めて。一つの趣向であったが、今回のセンターフォワード版を振り返ると、役者によって形作られる一個の「人格を持つ固有の人物」らの群像劇として(言わば普通の演劇)味わい深い劇世界を作っていた事と同時に、何がどうと言い難いがリアルさの中に儚げな風がふっと頬に当たるような、不思議な感触があった。現代を感じさせる部分もある。明白に意図的と分かる演出として、ラストが特徴的で、三人の姉妹の会話に殆ど力みがなく、自然体の風景として提示され、静かな演劇風にピリオドが打たれる。三姉妹の女優(藤堂海、安藤瞳、北澤小枝子)が良い。家をかき回す兄嫁役のみょんふぁ、イリーナに思いを寄せる兵士(を止めて工場労働者になる)役の岡田篤哉、兄役の矢内文章、等々。凋落する人間と微かな希望を描く原作を、立体化するそれぞれの人物造形にも奥行がある。

口火

口火

イサカライティング

アトリエ春風舎(東京都)

2022/12/08 (木) ~ 2022/12/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こりっちデータで見る限りだが、個人ユニットを立ち上げたり役回り様々な経歴あり、中で舞台美術経験に目が止まる。照明家とのユニットというのも興味が湧くが、中味は全くの未知数。
アトリエ春風舎は美術が映える小屋で、何本か吊された裸電球、簡素な机と椅子、床に置かれたタワー模型、床から壁へ続く光沢タイルの川、と言った具合。だが、開演よりアンテナ立ち通しになるのは耳と前頭葉で、これは聴いたことのない台詞である。
平易な言葉で語られる、物事の本質を探る思考。冒頭、「道具」を巡っての思考が始まり、その思考過程で用いた語を応用しつつ他へ広げて行く。その会話が遊戯のように、それが相応しいとある研究室の一角で交わされる。心地よい。幾つかの関係(人は三人まで)の模様が順に描写され、時系列で展開が進む線もあるが、物事を「裏側」から言い当てるトーンは芝居を通じて流れている。
丁寧に思考し、言葉を探し、選び、世界に放つ物腰そのものに、ある種の癒し、救われる感覚を覚える。その事だけをもっても現今のメインストリームへの痛快なアンチとなっている(と自分は感じた)。

ネタバレBOX

そう言えば久々に変笑いの御仁がお出ましでござった。このかん一二度程見かけていたが大きな逸脱はなかった。が今回は開幕早々、台詞の間に小さく声が漏れた。もしやと覗き込むとそこに居た。続いて「ハハ」、ややあって「ハハ」、そして最後は「ハハハハ!」と4音節の笑いをやらかした。この公演ではその後にもう一度うるさい笑いが出、後は静かになった。それにしても気分良さげである。口にタオルを当て、笑った後は申し訳なさげに周囲をチラと見るが、ちっとも悪いと思っていないし、笑う瞬間はタオルなんか当てていない。「俺を笑わせてくれるのは芝居なんだから、俺に罪はないでしょ?でも俺きっと嫌われてる。何しろ可笑しさを理解できん人が多いんだろうからな。くわばらくわばら」という態度に見える。
彼は上演団体の楽屋でも「今日は変な所で笑う客がいたな」「そうそう」と話題になるようである。笑ってほしい所で笑ってない事は確かだが、笑う=見下す行為である事は彼の書く批評でも明らかに思える。彼の知り合いの役者と終演後に歓談している所を見た事があるが、そういえばその時の会場では笑いは響いてなかったな。配慮も持ち合わせているのか、たまたまなのか、前者なら他の公演に対しても心配りして頂きたいものである。合法的な観劇妨害が目的だとは思わないが、自己顕示の疑いは濃厚。口タオルの体勢から周囲に注意された事があるか、反感を予測しての防衛手段か、どちらにせよ(周囲に対しては)「よくない」と知っての行為である。そこが許し難い。
声は場を支配する。耳は不要な音を遮断する事はできない。脳の障害で突発的に声が出てしまう人が居るが、舞台の脈絡と関係なく発される声は「ああそういう人がいるのだな」と理解すれば、遮断する事が可能だ。が、舞台上の現象に呼応した笑い声は、舞台と混然一体となる。色が付く。犬の小便ではないが色を付けたがるのは人間の支配欲の表われ。「俺はおかしくて笑ったんだ」と言いながら舞台に色を付ける。すると如何にも直前の台詞が笑える台詞であったかのように上書きされる。ここが「妨害」になる。上書きされた他の客は、「そうその通り」と思うなら問題ないが、多様な解釈があり得る台詞、まだこの芝居がどの方向へ向かうのか探る余地のある段階では、笑いは解釈を断定し、それを他に押し付ける行為になる。教え諭すつもりなら余計なお世話だ。
結局彼の「早合点」である事が多い訳なのだが彼はそこから何も学んでいない。芝居のせいにして逃げている。人より先に反応できる感性を持ち合わせている事を自他にアピールする「欲求」を最優先している。

という事で、今後は劇団側と少し交渉してみよう。いきなり「出禁」を依頼するのは難しいが、一度彼が客席に居るステージの様子を見てもらう。主催側に、あれで困っている人がいる、むべなるかな、という認識を広げてもらおう。
(以上、本人が読む事を想定して書いた。頼みますよ本当に。)
歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/11/18 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

以前戯曲を読み、ある団体の上演も観たが、(久々だったせいもあるだろうが)新しく発見した事が多く、解像度が高く奥行きがあり、かつ判りやすい舞台であった。

ネタバレBOX

国旗国歌のモンダイを扱っているが、これを押し付けるお上(教育委)と、撲滅が進んでいるがまだ残党の居る「不起立教師」(国家斉唱の時に立たずに座り拒否の意思表示をする)の正論との間で苦悶する中間管理職=校長先生を軸に、新任の音楽教師(今日これから行われる卒業式で国歌を伴奏する予定だが本人は校歌やもう一曲の方がちゃんと弾けるかを心配している)、コンタクトを落として楽譜が読めないという彼女に合った眼鏡を持っているが「君が代伴奏に協力できない」と貸すのを渋っている社会科教師、教育委の指導に従順で反抗分子撲滅の先頭に立つ英語教師、舞台となっている保健室付きの保健教員。
中間管理職の悲哀がこの作品のドラマの骨子であり、理不尽な要求でも上部の意向は自分の地位にとっては至上命令。そこで手を変え品を変え、詭弁を弄し、教育の理念をごまかし、現状を正当化し、また実は自分の過去をも否定し、業務に勤しんでいる。第三者的な保健教員を除き、皆が皆感情の起伏の激しい役どころで、要となる社会科教員を山中崇が演じ、好演であった。
彼は歌が好きで、元シャンソン歌手だったという音楽教師(キムラ緑子)と馬が合い、だからこんな事で対立したくないと嘆く。ノンポリで生活のために教員生活に希望を見ている音楽教師は戸惑うが、校長(相島一之)や英語教師(大窪人衛)とのやり取りを保健室で聴かされることになる。
校長先生が軸に見えて来る舞台であったが戯曲的には音楽教師と社会科教師が感情移入の対象で、二人の間を観る方も揺れ動く。
純朴というのが相応しいキャラ(寝ぐせを直してないし)の社会科教師は、校門前で彼が尊敬していた元教員のビラ蒔き騒動に勢いづき、また逆に校長と英語教師は火を消そうと躍起になる(校長はあくまで穏便に、英語教師は荒っぽく)。
ところが終盤、ビラの内容は校長の「過去」を暴いたものだと判る。即ち、若き日の校長は国旗国歌強制に反対する意見書を書いていた。校長はその後、全校放送のマイクを持って屋上へ上がり、自分の過去の文章の趣旨を全面否定し、真逆の主張をあれこれと述べるのだが、巷間なかなか聞かれないこれを正当化する論理を言葉にしたら結局こうなるしかない奇妙な理屈が並ぶ(見える化するとはこの事なり)。
印象的であったのは、この校長のビラが生徒の手に渡って話題になり、ノリで生徒らが不起立を決めたという、その事実を聴いた、それまで鼻息荒く立ち回っていた担任の英語教師は、絶望に歪んだ顔のままがっくりと座込む。これを見てよれよれの社会科教師が、笑い始めるのである。何に笑っているのか、と台詞を聴くと、こんなに生徒のためにと頑張っていたのに、こんな事になるなんて、泣けて仕方ない。本当は泣きたいのに、笑ってしまう。(笑いが激しくなる)頼むから、泣かせてくれ。泣きたいのに笑えてしまう。頼む!!・・この教師の泣き笑いに完全に同期してしまったのだが、ちょうど前日に観た「日本人のへそ」で歌われた奇態な日本讃歌「日本のボス」に、笑えて泣けて仕方なかったのが完全にダブった。泣ける程理不尽な日本の慣習なのに、深刻なはずなのに、笑えて仕方ない・・。
男たちの悲哀が際立ち、全く立場は違うのにどこか愛せてしまう三人。そこに自分の姿も見てしまう。
ハムレットマシーン

ハムレットマシーン

LOGOTyPEプロデュース

吉祥寺シアター(東京都)

2022/12/02 (金) ~ 2022/12/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々に観たIDIOT SAVAN、長尺ものは初めて。こういう事になるのか・・。中心的な役割を演じる俳優の「怪演」が舞台の緊張を継続して担うのだが、ハムレットという役人物が体現する感情の極点(モノローグにおいてそれは露出する)を、担い続けるという事でもある。「ハムレットマシーン」は短い戯曲で、パラパラ捲ると隠喩だらけの抽象度の高い文が並び、これはこれを料理した舞台を観るしかないな、と思った記憶がある。二時間を使い、劇的効果をもたらす瞬間が各所に配され、緩急の振れ幅が半端ないハムレット役(の役?)の喋りと、演出により飽きさせない。私はハムレットではなく○○である・・延々と繰り返されるハムレットという不死の存在の嘆き、幾度か定義し直される自分自身(最後にはロボットとなる)は、己の「あり方」を求めての彷徨にも見え、それは時代そのものになったり、矮小な個人(ハムレット)に戻ったりしているようで、いないようで。。舞踊に近い抽象的なイメージを像として焼き付ける瞬間、瞬間を辿り、中々面白い「旅」であった。

日本人のへそ

日本人のへそ

虚構の劇団

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/12/01 (木) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

解散公演にこの演目と来て「観ない」選択肢はなく、馴染みの座高円寺で観たく残席を問い合せたら既に完売(座高円寺が満席!その光景未だ見ず)、急ぎ芸劇公演を予約した。期待は裏切られず、才気の塊である所の井上ひさし戯曲処女作「日本人のへそ」の世界で俳優たちが輝いていた。

2020年5月コロナ緊急事態宣言で中止となった公演との事だが、果してこの時点で「解散」が念頭にあったのかどうか・・クレジットとしての劇団名を消し、一度切りの記念的公演にて団員参集の機会を作り、世に解き放つ「儀式」に鴻上氏が自作でなくこの演目を選んだことに感慨を覚える(同様のお方も少なくないだろう)。作者の大真面目な遊び心に応えて俳優らが縦横に動き演じる。吃音の説明から始まる導入部、劇中劇、その主人公ヘレンの半生(悲惨な生い立ちと成り上がり)、サスペンスとどんでん返し。そして何より音楽劇でもあるこの舞台は、些か置いてかれる序盤(伏線の仕込み)の停滞を破るように不意を突く「愛」の歌で真に開幕する(愛してる、の一言で男は、命を投げ出せる、たとえ裏切られても、命を差し出す事わ厭わない、と言った内容)。歌、歌が続く一幕の圧巻は休憩前に歌われる「日本のボス」、ミュージカル並みに長尺の楽曲では、ヘレンが女=商品として転売(交換)されていく過程を描き、文化人類学的な考察(贈与論、組織論)へと誘う。日本の奇態な慣習を「讃美」した(突っ込みの無いノリ突っ込み的に描いた)倒錯に、泣ける程笑った。てんぷくトリオのコントに流れるナンセンスに通じるものがあり、それが今では相対的に(現存する構造への)より的確な批判になり、相対的に凄味が増量していると推察。(これに当てた楽曲が「君の瞳に恋してる」のノリを借用しレビュー風の脚上げで周囲も盛り上げる。)
音楽担当を見ると初めての名であったが、鴻上氏の舞台に劇伴を提供してきた元バンドミュージシャン、作曲家。ストレートプレイの鴻上作品の劇伴よりは多分今回は存在が大きく、詞の世界に当てた曲風のセンスは出色であった。
その点では昨年春に観たこまつ座(まだ昨年だったか..)の同作品は、戯曲世界には圧倒されたが舞台そのものの「現在とのズレ」の感覚が今記憶の断片に残る。こまつ座ではその前にコクーンで同作を上演したがこの時の音楽担当は小曽根真、昨年のはその前のこまつ座での初演(宇野誠一郎)の音楽に戻った。若干「寒く」感じたのがストリップ小屋のストライキ場面で弁舌を振う「左翼」、そこに現れたチンピラを引き連れたヤクザ(右翼)が元同級生で一しきり再会を懐かしむ歌や回想を挟んで徐に「対決」場面に至るまでを繋ぐその演説場面が、リアル描写だと唇寒かった(そうなってやしないかと心配になった)が、今舞台では学帽に半纏の左翼には三上陽永、ヤクザには小沢道成が扮し、ちょうどいいキャラを作り申し分ない。団結して闘うことは現実的にも物語的にも何が問題なのか、という話でもあるが、、今は既にコードが敷かれているのだろう、芝居を観ていても扱いが難しい(井上氏は何もかもを戯画化しているが、それでも)。

座・高円寺の横広のステージで、またもう少し近い席で観たかった思いは一瞬過ぎったが、十分堪能した。あれこれ書いたがうまく表現できてない。スゲエ、の一言以上には。

遥かな町へ

遥かな町へ

文化庁・日本劇団協議会

シアターX(東京都)

2022/11/23 (水) ~ 2022/11/27 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像にて鑑賞。シアターXで上演というとつい1ランク上に注目し、劇場観劇は叶わなかったから配信を観た。大昔の新宿梁山泊以来久しく見なかった近童弐吉を劇団印象「瘋癲老人日記」で目にして今回二度目になるが、自分が目にしていなかっただけで役者稼業は続けていたようで(結構ニアミスで見逃していた舞台も..)。本作では近童氏のみ中原博史(現代及び中学時代)一人を演じ、他大勢は役及びコロス、またはコロスのみ(パンフにはカラスと書いてある)。主要な役として中学時代の父、母、祖母、妹、ポチ、同級生の島田、クラスのマドンナ永瀬智子、彼をライバル視する男子や漫画家志望の浜田。他のエピソードとして父が見舞いに行っていた幼馴染みの女性、父の戦友で母の許婚であった青年など。現代には妻と子ども二人がいるが、冒頭の紹介以降ラストまで登場しない。コロスたちはクラスメートを演じたり、博史の代わりを演じたりする。その時弐吉は自分を客観視する立ち位置にいる。
谷口ジローと言えば作関川夏央/絵谷口の「「坊ちゃん」の時代」が思い出されるが、今作は谷口氏が自らの故郷を舞台に時間を遡る物語。ドキュメントなタッチにほんのりフィクショナルな風合い。導入は山田太一の「異人たちとの夏」のようなリアルな感覚を引き摺りながら事態を受け入れて行く過程が良い。14歳の自分に48歳の自分が遠慮なく混じり込んで14歳を満喫しているのも新鮮で、48歳の頭脳が若い身体を動かすのだから当然だが本人の自覚なくして成績良く英語ペラペラ、スポーツも優秀、達観した言葉を吐いたりするので、本当の14歳時代には言葉すら交わさなかった永瀬さんと親しくなり、恋心を打ち明けられてあたふたしたり。過去の時間のそうした「変化」を認識する中で、彼はこの旅の無意識レベルでのきっかけであった「母」の人生、その苦労を決定付けた「父」の失踪に思い至り、父が失踪した日が近づくにつれ、父の失踪を防ぐ事が自分の旅の目的だと思い定める。そしてついにその日を迎える。全てにおいて塩梅よく仕上がったストーリーで、成熟社会となった日本の「現代」の生の課題を掬いとる着地になっている。
ただ、原作コミックが発表されたのが1998年、失われた二十数年の起点となり派遣労働の規制緩和、自殺率の上昇、日本型新自由主義によって今思えば組織防衛のために成長の契機を摘みにかかった時期で、政治を含めた社会の先行きが当てを失って彷徨い始めた頃である。今、見えてきた日本の構造的な課題は、「諦め」の深化との相殺で変化の契機になっていないが、「見える」段階に入って来たとすれば、この作品のトーンは「見えない」自分の現在地を過去に遡り、父の人生を見つめる事を通して発見しようとするファンタジーである。社会云々と書いたが最も生々しく己れの生のありかを定める父という存在(女性にとっては母、あるいはそれぞれ逆の場合、他の存在もあるかもしれない)に、気づかせる。
2010年ベルギー、仏独の製作で映画化。谷口ジロー作品は仏で評価されているらしく、それが今回の共同制作に繋がったようである。舞台処理は欧州のクリエイターらしく機能的で生演奏の音楽、効果、奏者も芝居に加わり、コロスの細やかな動き、ちょっとした憎い演出が全編に効いている。例えば博史が公園のベンチで寝ている所へクラスの永瀬智子がやって来て二人して話し込む、という場面は空からの視点で観客は見る事になるが、見事に錯覚させる。
弐吉の物語を総員で作り上げる「形」の中に演劇に対する演出家の思想を読み取るのは気が早いか。座高円寺の企画に参加しているイタリア人演出(これまで「ピノキオ」他三四作を演出)にも近い印象を持った。

ライカムで待っとく【11月27日~29日公演中止】

ライカムで待っとく【11月27日~29日公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2022/11/27 (日) ~ 2022/12/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

沖縄返還五十周年の年も終わろうとしているが、もっと大々的に全国的なアレがあっても良いところ、ちむどんでお茶を濁すのがせいぜいなのが日本の実情。
そんな中、芝居の方はと言うと・・KAATが企画した今作と、昨年の「HANA-1970、コザが燃えた日-」の他は目立った舞台は見当らないとは言え、この二作は出色であった(チョコレートケーキの「ガマ」は未見)。
初めて見る作者名であるが、若い彼に脚本を依頼した決め手は舞台の実績ではなく、ラジオドラマだという。
現実を変える術を知らない日本人は、沖縄の「犠牲」の正当化に恥しげもなく躍起になる(失礼だが)レベルの低いネット投稿者を除けば、「見ない」事でやり過ごすか、心を痛めてながらも日常に飲まれるか、重い腰を上げて何かやろうとするか、どちらにしても無力感と無縁でいられない。だから沖縄イシューは今は不人気な案件だ。
だがそういう問題にこそ演劇は力を持ちたい、誤解を恐れずに言えば理不尽な現実こそ恰好の題材ではないか・・と思う。もっともドラマに「共感」を獲得するには、観る者の根底にある共通了解、想像力に頼んだ納得を引き出さねばならない。沖縄の課題は掬い出せる泡状の状態をとうに過ぎた灰汁のように汁に溶け込んで容易に分解できない。沖縄人の中にも、反基地と騒ぐ人たちへの疎ましさを吐露し、現状を認めた上で自分の進路を決めようとする(若者ならば普通な事であるが)層もあり、社会に馴染んだ「灰汁」(悪)は基地の弊害も日常の(我慢の)範疇となる・・。
沖縄在住の若い作家はそうした現状との距離感も織り交ぜ、本土人のご機嫌を窺いながら(「共感」の部分から物語へと誘いながら)、沖縄と本土との見えない断絶のありかへと、果敢に挑む。
この戯曲とこれを書いた一人の沖縄青年、彼にこの戯曲を書かせた本企画に喝采を送る。

ネタバレBOX

田中麻衣子は新国立劇場で経験を積んで来た若手演出家だが、不器用に思える手付きが持ち味(褒め言葉になっていないが..いや褒めてはいない)。渋い出来の舞台が多いが大胆さがある。今舞台でもキャスティング(または人物造形)、処理の仕方がどうもな..とか色々あったが(作品をべた褒めしておいて演出に難癖つけるのはこき下ろしに等しいか..いやこき下ろしてるんだが)、効を奏したアイデアもあり、戯曲の世界を届けるという点において最終的には成功したと言える。
国広和毅の音楽も相変わらず「目立たず」、芝居に寄り添っていた。

厳然と存在する差別構造を可視化する事・・この事を抜きにして沖縄を描く(本土人が観るものとして)意味は殆どない、と私は思う。ただし芝居、ドラマにはそれを人間感情を伴い、共感と感動をもって伝える事の可能性がある。今作は日本の日常をぶち壊す要素が満載だが、終盤に畳みかけるそうした現実と、沖縄史の片鱗たちが「出て来ない」芝居などに意味がない・・作者もそう感じ、疎ましい現実をもう一度掘り返しながら「本土人に届けるべき物語」を紡いでくれたのではないかと想像した。
差別する側が差別を「認める」には壁がある。残念ながら日本は総体としてその度量がない。外圧でもなければ己を変えられないのが日本だ。殊に日本はアジア侵略の事実を過小評価、曖昧化(歴史評価は後世に委ねるべきだとか何とか)して来た負の実績がある。「植民地化してインフラ整備してやった恩を仇にしやがって」との韓国に対する言辞は、そのまま沖縄に対しても発されておかしくない。つまり本土と沖縄には明確な境界があり(戦前同じ日本人だと言っても植民地出身者との間に明確な差があったように)、本土側は常に正しく「恩を与える側」として自らは痛みを覚えない安全圏にいる。これこそが差別の内実。そしてその根底にはそれが「有利」だと信じている現状認識がある。なぜか日本は米軍が駐留している方が日本にとって「有利」だと考えている。その大元を探ると、官僚自体がそうだし日本会議やその背後にあって動きを生み出す主体の存在が想定される。そして「上」に行けば国政において実権を持つ者がタマを握られている可能性もある。表面上は日本が「自ら決定している」売国的な法案や決定の数々が、そのように誘導したい米国に「自ら寄り添って」通されているのでなく、実際に脅し上げられている可能性も僅かながら過ぎる。自死した赤木氏に安倍昭恵関連が疑われる文書の改竄を指示したと言う佐川氏も、「自分が指示した」との証言を置き土産に一切表に姿を見せないが、本当は誰に指示された、と証言をしたら「誰かの命はない」と脅し上げられているのかも。彼の「犠牲」に日本人の美徳を見る向きも恐らくあるんだろうが、実態は「脅されている」から「そうしている」・・そんな泥塗れな政界にいれば鋭く切り込む野党の質問にも平然としていられる。心でこう言っている・・「現実はそう甘いもんじゃない」「こっちの席に座ってみれば、自分がロボットにしかなれない事が身に沁みるだろうよ」。いやいや、ただただ怠惰なだけかも知れん。(余談が過ぎた)
蛍

第27班

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2022/12/02 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラ劇場での夏公演では生ギター弾き語りとタップダンスという劇中ライブシーンが辛うじてあったが今回は無職男が路上で弾き語る場面(音楽家志望という訳でもない)が一くさりあったのみ。第27班と言うと劇に噛んだ音楽ライブ(劇伴ではなく芝居上の必然がある)を期待してしまうのだが、マストでないのだなと認識を改めた。今作は三年前の作品の再演という事で、自負がある演目と踏んだのだが・・。
この劇団が得意とする描写が、失われた二十年で常態化した若者の生きる場のヒリヒリと血管に触れるような痛さであり、ざらつく感触の中にふと過ぎる小さく暖かな灯、といったものだが、幾つかの人間模様(時間を超えて繋がっていたり別々だったり)の点描が美しい。ただ一つの物語を構成するピースをはめて行く過程を経て、最後に出来上がる図としては不完全さが残る。人物たちを十分に描いてくれた、と感じる向きもあろうが、私としてはもう少し物語としての作り込みを(初演は見てないのだが)深めて欲しい。どのあたりが・・というのはいずれまた。

建築家とアッシリア皇帝

建築家とアッシリア皇帝

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2022/11/21 (月) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

圧巻の一言。
「トラム、二人芝居」の第二弾。アラバールをやる、というだけでも注目だ。第一弾の「毛皮のヴィーナス」はマゾッホの世界を軸にした男女の二人芝居で「異性」の必然性があったが、今作は性別から何からを超越した荒波を行く「噂には聞いていた」ぶっ飛んだ世界。それが理解できる台詞(当たり前だが)によって、また二人の男優の超人技により、そして名のみ知る生田女史の冒険心(遊び心)溢るる演出を通して現前した。時間は予想しなかったまさかの三時間超え。(長旅、という文字を書いてふと思い出したのはホドロフスキーの「エルトポ」。)
この芝居にも前作に劣らぬ内面世界への洞察、暴露(まるで内腑を掴み出すような感触)がある。病的な孤独感、マザコンそしてこれは戯曲の指定か背後にヒューン、ドカン、ボカンと近代兵器の音が(戦場のピクニックよろしく)鳴る。相は目まぐるしく変る。長い綱渡りを渡りおおせただけで喝采モノだが深い余韻がある。

夜明けの寄り鯨

夜明けの寄り鯨

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/12/01 (木) ~ 2022/12/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

横山氏らしい秀作。
劇作家ワークショップの成果第二弾という事であったが横山氏ともなるとその名だけで十分でありパンフにも特にワークショップの言及はない。

ネタバレBOX

舞台は浜辺。そこに同所を学友と訪れた二十五年前の回想シーンが交差するように織り込まれる。主人公の女性の四半世紀を経て呼び覚まされた疼きが、やがて一枚ずつベールをはぐように姿を現すが、旅先での何気ないやり取りの中の「罪」が相手の不在に行き場を失い、初めてそうするように主人公は人間に対する態度へと促される。
出来事に関わった一人一人がそれぞれの二十五年と現在を見つめるラスト、そこに居ない人との間に何があり得るのか、正解など何もないが、ある仕方で関わり続ける事への希望?を展望するように四人が立つ。そして不在の者が消えた後も立ち続ける残像を残して暗転する。

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