ピーター・ブルックの魔笛 公演情報 ピーター・ブルックの魔笛」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-18件 / 18件中
  • 満足度★★★★★

    うふふふふ
    進行役の二人が長い竹を両腕に持って、それをあちこちに突き立てることによって「場」が変化していく。

    特に『魔笛』という作品はいろんなヒトがいろんな場所でいろんな状況のもとに動いていくのでブルックのようなミニマルな形式で演出する場合はどうなるのかとても興味があったのだけれど、この「竹方式」はすごく面白かった。

    かつての『カルメン』の時は(見てるってことでそれなりの歳であることがロコツにわかるな)もっとオペラちっくにそれぞれのアリアが処理されていて、ある意味原作に忠実につくられていたという記憶がある。

    でも今回は何と言うか、とてもピュアな「エロス」に焦点が当てられていたような感じ。「愛」があり、それは難関を越えて結ばれて、豊かな子孫に継がれていって、そしてそれは万世共通に行われるべきまさに「生命」の営みなのだという理念が、とても柔らかな美しいトーンで語られていたような気がする。

    というか、ピーター・ブルックの作品を見た後はいつもこういう気分になったなぁ…ということを思い出しながら考えていたから、よけいにそう思うのかもしれないけれど。

  • 観てきた
    3/23

  • 面白くない、んだけど〜
    <承前>
    以前、伊藤靖朗さんがピーター・ブルックを熱く語っておられたので
    興味を持ち、観に行くことにした。
    私はピーター・ブルックの演劇を観たことがなかったのだ。

    <感想>

    面白くない
    何が言いたいのか?
    言いたいことは強く出ていない
    なぜそうなったのか、は、なくて、あらすじ …ダイジェスト

    主張しない 声をはりあげない 歌い上げない 響かせすぎない

    それなのに
    面白く感じなかったけど、眠くならなかった。
    むしろ全開で観ていた。
    疲れない、丁度良く、帰れる。

    転換がない。ズムーズ過ぎて、転換じゃない。
    ずっと歌っている。うまく繋がっている。
    ピアノと歌と演技のコンビネーションが巧みすぎるのかも。
    流れていく。

    この作品は心を沈静化させる作用はあるが、
    私に面白いと感じさせることがない。
    消極的な魅力。

    友愛 美徳 愛 そういう言葉が浮かんだ。
    ヒーローとラスボスという対立関係があるように窺えるのだけど、
    実は誰も争っていない。
    行ってみたら、敵じゃない。とか。
    でも、
    演出家の考えてたことはそういうことなの?

    『魔笛』では、何を描きたかったのか見えない。

    ただ、演出は完璧だ。

    演出は隅々までを支えて、制御し、行き渡り、
    空間は満たされている。
    あそこ空いちゃってるよ~ってところがない。
    人やものの配置が緻密。
    神の手が舞台をコントロールする。

    ここまで完璧に出来て、初めて批評されるに足る作品なのだ、と感じた。
    至らないものなどない、という状態が、板の上に広げられていた。

  • 満足度★★★

    ピーター・ブルックの舞台を見たっ。
    舞台にひきつけられたか、興味を持って見続けたか、十分な感動を得たか。といわれるとそうではない。
    まぁ、普通に演劇鑑賞をたのしんだ。というところかな。ピーター・ブルックの舞台を見たっ。というところだよね。

    気軽なオペラは、ほんとそのとおりだなぁと思った。

    ネタバレBOX

    カラードの置き方とか、脚本解釈とか、諸演出とか、とても考え抜かれて、洗練されているのだと思う。

    けど、言葉も違うしね。わからなかった。

    字幕の位置が高くて、字幕と舞台面での演技が切り離されるのが、残念だった。もうちょっと低くて一望できるとよかったのだけど。
    まぁ、そうすると、他の席からだと見切れが発生するとかなんだろうね。

    中盤、夜の女王が歌うところは良かった。
    あの曲、大学演劇部の時に、テント芝居で電子城Ⅱをやって、つかわれた曲だったんだよね。その先輩の選曲が好きで、記憶に残っている曲だったけど、この曲だったんだ。的な感動もあり。

  • 満足度★★★

    気軽に楽しめるオペラ
    セットは竹の棒がいくつもあるだけ。
    シンプルなセットを組み替えながら場面はいくつもに変わる。
    出演者の数もシンプルに、話もシンプルに?

    笑いどころもしっかりあり、「オペラって難しいんじゃないの?」と思っている初心者も楽しめたのではないかと思う。
    何も考えず、登場人物たちの生き方に身を委ねるだけでいい。

    登場人物たちの行動原理に不明な点はいくつかあったが、それも考える必要はないと思えてくる。

  • 満足度★★★★★

    ブルック版「魔笛」を堪能
    スッキリした中にズシーンと来るものもあるという、出色の舞台。老境のピーター・ブルックの、削り上げられ静謐なまでに磨き上げられた舞台を堪能した。
    1973年に日生劇場でピーター・ブルック演出の「真夏の夜の夢」を観てからほぼ40年後に、それと対極にあるようなこの舞台を九州で観られたことは、ほんとに幸せだ。

    詳細は、演劇感想サイト「福岡演劇の今」に書いています。
    http://f-e-now.ciao.jp/20120401.html

  • 満足度★★★★

    身近なオペラ
    思ったよりもフレンドリーな感じな演劇(オペラなの?)で
    楽しく見れた、小難しかったらどうしよーと思っていたので。
    パパゲーノはほんとに楽しかった。
    ピーターブルックが親の年代というのに驚く。
    心地よいドイツ語にうとうとしてしまったのが不覚。

  • 満足度★★★★

    オカンの呪縛。
    派手な装飾が排除されたことで、夜の女王にパワーが無い。
    その普通さがしみじみと

    ああ。母親ってこうやって娘に自分の価値観という呪いをかけるよねぇ。

    って思えて、とっても面白かった。
    あちこちで、いっぱい笑いました。

    パパゲーノは最後、死ぬって思い込んでたからハッピーで安心した。
    なぜに死ぬと思い込んでいたのだろう。
    なぞだ。

    ネタバレBOX

    筋書きを気知らない「字幕もの」は、2階席の最前列がおすすめ。
    舞台と字幕と丸ごと目に入るから。
  • 満足度★★★★

    ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱぱげーの
     誤解を招くことを承知の上で、あえて書くなら、ピーター・ブルックには、アマデウス・モーツァルトが全く分かっていない。
     しかし、モーツァルトが皆目分からないと知っているのは、他ならぬブルック自身なのである。彼の非凡は、まさしく「無知の知」によって支えられている。
     ブルックが『魔笛』の演出に当たって、確信していたのは、「理解不能でも、面白いものは面白いのだ」というこの一点にあって、だからこそ、オリジナルの『魔笛』を自由に解体し、他作品からの引用も行い、再構築することが出来たのだ。
     言い換えるなら、オリジナルの持つ「強さ」を信頼しているからこそ、ちょっとやそっとの改作で、モーツァルトの面白さが損なわれるはずがないという「敬意」の表れである。
     そのおかげで、今回の『魔笛』は実に軽妙である。軽妙であるがゆえに、かえって観客はそこに何かの「意味」を深読みしたがるものだろうが、そういう客をこそ、ブルックは「退廃観客」と呼んで嫌悪していた。難しく考えることはない。パパゲーノとパパゲーナが「ぱぱぱぱ」と愛の交歓をし合っているのを聞いて、そこに何かコリクツをひねくり出そうとしたところで無駄だろう。われわれはそこで大笑いしておればよいのである。

    ネタバレBOX

     ブルックにはモーツァルトが分からないと書いたが、もちろん、現代人で、モーツァルトが分かる人間なんているはずがない。
     モーツァルトの遺作である『魔笛』について、昔からマコトシヤカに語られ続けている都市伝説として、「モーツァルトは『魔笛』でフリーメイソンの秘密の儀式をバラしたために暗殺された」というものがある。フリーメイソンがカルト的な集団だと認識されるようになったのはモーツァルトの死後なので、もちろんそれはただの伝説に過ぎないが、後世、そのように喧伝されるようになったのは、当時のオペラの殆どが、「実在人物をモデルにしたパロディ」だったことに起因している。
     当時の観客たちには、夜の女王が誰であるか、ザラストロが誰なのかは一目瞭然であったろう。だから大いに受けたのだ。モデルにされた当人たちは苦虫をつぶしていたことだろうが。

     時が経ち、国も違えば、モーツァルトが仕掛けたそんな最初の「仕掛け」は全く分からなくなる。モーツァルトの意図が正確にはどうであったか、現代人には分からないと書いたのはその意味でだ。
     では、その物語は死んでしまうのかというと、そうはならない。その時代のみの特殊性を放棄した後、作品が再生される時には、新たな価値が付与されるのが常だ。よく引用される例としては、風刺文学の『ガリバー旅行記』が、現在ではファンタジーとして受容されていることが挙げられる。
     『魔笛』もまた、現在ではファンタジーの一つとして再演され続けているが、オリジナルのままの上演は、オペラとしての性格上、どうしても現代のスピード感覚に付いていけない面は残っている。元ネタの意味が分かるならともかく、オリジナル3時間の舞台は、オペラファンであっても、現代人にはいささかキツい。

     ブルックは、結果的に物語を1時間半に短縮した。
     フリーメイソンを彷彿とさせる儀式的な部分はまず殆ど省いている。しかし、主要人物までは、いくら元ネタが分からなくなっているからと言って、省いてしまえるものではない。
     しかし、ブルックは、脇キャラを除いて、主要人物たちに改変を施す意志はなかった。タミーノはタミーノとして、パミーナはパミーナとして、男と女を入れ変えたりとか、全員を男にするとかあるいは女にするとか、モーツァルトから離れるとか、一般的に「大胆」と言われるような改変は一切行ってはいない。
     どんなに「解体」し「再構成」しても、『魔笛』は『魔笛』のままだったのである。

     パロディの本質を知っている人間には、その理由がなぜなのか、お分かりだろう。パロディは、たとえオリジナルを知らなくとも、“なぜか面白い”ものなのだ。それは、優れたパロディには、オリジナルに対する徹底的な観察が行われていることが常だからである。当時の「文化」に対する、辛辣な批評が行われているからである。そしてその「批評性」は、それだけで独自の価値を生み出す。優れた批評文が、たとえその対象である作品を知らなくとも、面白く読めるのと同じだ。
     また、「古びたパロディ」は、その元ネタが分からないために、逆にシュールな面白さすら生まれてくる場合もある。実はブルックが「眼を付けた」のは。まさしくこの点にあった。

     またまた識者の神経を逆なでするようなことをあえて口にするが、『魔笛』のオリジナルを観て聞いて、その筋に納得している人間が本当にいるのだろうか。「分かった気になっている」人間が、意外と少なくないのではないか。
     そもそもザラストロと夜の女王が憎しみ会う必要があったのかとか、試練とか儀式とか意味あるのかとか、パパゲーノ、お前は何のためにいるとか、突っ込みだしたらキリがない。
     それを何とかリクツを付けて現代人はむりやり解釈しようとするが、本来それはあまり意味のあることではない。物語上の数々の齟齬は、元ネタとなった昔話に、「現実のモデル」を当てはめたために生じたものが殆どだからだ。
     先日、いわき総合高校の舞台で、『ファイナルファンタジー』の設定にむりやり実際の原発事故のキャラクターたちを当てはめていたが、まあ、あんな感じだ(あの舞台も、百年経って上演されたら意味不明な喜劇になることだろう)。

     ブルックの「再構築」は、そういった「よく分かんないが何か意味がありそうだ」という部分を「拡大」させていった点にある。
     即ち、ブルックが目指したものは、徹底的な「ナンセンス」なのだ。だから観客はいったんは混乱させられるが、そのうちに「何だかへんてこだが妙に可笑しい」気分にさせられるのである。
     中には「退廃観客」で、「分かんないものを脳内で補完する」手合いもいるだろうが、まあ勝手にしなさい、といったところであろう。

     もう物語は出だしから分からない。
     蛇に襲われたタミーノを、パパゲーノが「自分が助けた」と嘘をつくのだが、オリジナルでは彼の嘘を見破るのは夜の女王の侍女たちだ。ところが、その蛇と侍女たちを、ブルック版では黒人俳優が一人で演じているのだから、やられて床に倒れた蛇がいきなり立ち上がって、パパゲーノを嘘つき呼ばわりするのだ。
     この黒人俳優(もう一人いて、計二人)は、主要キャラクター以外の役を殆ど全て演じることになる。夜の女王とザラストロとの和解も、タミーノとパミーナの試練と恋の成就も、パパゲーノとパパゲーナの邂逅も、全ては黒人たちの「計らい」による。時には黒子的な行動すら取る彼らは、果たして物語を混乱させるためにいるのか収束させるためにいるのか、どちらとも判別がつかない。しかし、先述した通り、オリジナル自体、キャラクターたちの行動原理には不可解なものが多いのだ。
     オリジナルでは明確ではなかった物語を転がしていくトリックスターの働きを、この黒人俳優二人が担うことで、混乱は無理やり終焉を迎えることになる(役名も「俳優」だ!)。さながら、シャラントン精神病院患者たちの混乱を収束させたマルキ・ド・サドのように。

     今回のブルック演出の最大の特徴が、舞台美術とその活用にあることは論を俟たない。林立する竹のスティックのみ、オペラにありがちな豪奢なセットは全く用いられていないが、これを「シンプル」とだけ言ったのでは説明にならない。このシンプルさは舞台空間を平行横移動にのみ限定する目的でなされたものだ。
     舞台はそもそも、奥行きも含めて横の空間にのみ広がりを持っていた。現代の演出家、舞台美術家は、懸命になってそれを縦の方向に変化させようとしてきた。舞台上に山を作り、階段を作り、地下室を作り、窓から外に飛び出し、時には俳優は観客席の上空を飛びさえした。
     そんなことまでしなければ、演劇は、観客の想像を喚起することが出来ないのか、というのがブルックの謂いだ(もっともブルックがこれまで「縦の演出」を全く試みたことがなかったわけではない)。
     竹は全て、「天」を指している。時にはそれは黒人俳優たちによって横向きにされたりなぎ倒されたりするが、基本的には縦の向きのまま、森や門や壁を表現する。そしてそれは全て「横移動」によって行われる。その間をキャストが行ったり来たりするだけで、「演劇」は成立するのだ。

     そうして出来上がったのは、小味の効いた、ナンセンスな「軽演劇」である。そしてそれは、オリジナルの『魔笛』が持っていた楽しさを、再現したものになっているはずである。

     どうしても、この舞台を「小難しく」解釈したい人に。
     たまに日本語の台詞で、パパゲーノのが「オカアサン!」と叫んだり、舞台から降りて、お客さんをナンパしようとしていたが、ああいうベタなギャグって、「大衆演劇」の定番でしょ?
     今回のブルック演出は、日本で言えば「浅草軽演劇」である。森繁久彌なのである。全編、その精神で貫かれてるところが楽しさの所以なのである。
  • 歌が弱い
    ネット上で随分感想が出ている通り、歌唱がパワー不足。きちんとしたオペラを観たことがない私でもはっきり思いました。なんだかなあと思い、無料配布にしては随分豪華なパンフレットのキャスト一覧を見たら、私が観た楽日は主要キャストはパパゲーノ以外全て、埼玉公演のみの出演とのこと。要するに、一軍メンバーではないということでしょうか。これではきちんとこの作品を観たことにならないのでは・・・。
    オペラの敷居を下げて、観客にドラマを優しく手渡そうという意図は伝わってきました。オペラ「魔笛」との関係性の中でこの作品は評価されるべきなのでしょう。

  • 満足度★★★★

    喉に刺さった「あれっ?」っという小骨が、あっても…
    そこはピーター・ブルックだ、っていうことにしておこう。

    オペラ入門編……というわけではなく
    オペラ・マニア向け……というわけでもない。

    オペラっていうキーワードからの接近はどうかな、と思ってしまっている。

    ネタバレBOX

    つまり、これってどう観たらいいんだろうか、とフト思った。
    確かに『魔笛』を上手い具合に90分という時間にまとめて、ストーリーとしてはよくわかる。
    何より、まったく退屈させない。
    ユーモアたっぷりだし。

    だけど、オペラとして観るとどうなのかなという気持ちが少しある。
    いや、オペラと銘打ってはないの…かな?
    「ピーター・ブルックの」とは銘打ってある。
    「ピーター・ブルックの」ってのは、ミソだなぁ。

    そういうのですぐに思い出すのは、「川越シェフのキムチ」とかそんな感じのものだ。
    まあ、キムチは横に置いておいて、ピーター・ブルックという人については、演劇素人の私には「凄い人みたい」程度のことしか知らない。
    だけど、昨年は、SPACで『WHY WHY』を観た。

    それは、大昔観た『マルキ・ド・サド演出〜略〜と暗殺』という映画にビックリした想い出があるからで、その舞台は観てみたいと思ったからにほかならない。
    浮き足だって、調子に乗って静岡まで出かけてしまった。

    で、前置きが長すぎたのだが、「どう観るか」なのだ。
    もちろん「どう観るか」なんていうのは、本来バカな話で、「観たまんま」でいいのではあるのだが。

    実際観たものは、とても若々しくって、軽やか。
    90分はあっという間。
    客いじりっぽい演出もあり、笑いも起きて楽しいものだった。
    それは間違いない。

    しかし、オペラという狭い枠から覗いていると、「歌」が気になってしまうのだ。
    もう少しなんとかならなかったのか、という印象だ。

    さいたま芸術劇場の大ホールというのは、思っていたよりも小さく(『ハムレット』行ったけど、全体を見たのは初めて)、生の歌声が気持ちよかったのだが、オペラのもの凄さというものがなかった。

    いや、もの凄くなくていい。
    オーケストラじゃなくたって、ピアノだって十分ではある。

    だけど、例えば、夜の女王が歌う、ソプラノを活かした高音のパートの、「あれっ?」感は、ちょっと腰が砕けてしまった。
    オペラファンでもないし、ましてやマニアでもないのだが、歌声のあの感じに「あれっ?」と思った人は多かったのではないだろうか(その日だけのことかもしれないのだが、そうだとしても、それはない)。

    と、書いたが、そうでもなかったようなので、多くの観客は、いわゆる「演劇」の延長としての、「歌のシーン」として観たのかもしれない。
    というより、あるがままを受け入れた…とか。

    オペラに比べて歌がどうこう、ということではなく、そういう視点から観ればまた違った景色が見えるのは確かだと思うからだ。

    結局、とても歯切れの悪い書き方をしているのは、そこんところが、喉に刺さった小骨のようで、どうもすっきりしてこない。

    オペラをカジュアルにして、自分の手中に軽く納めてしまった、ピーター・ブルックという人は凄いな、と思う半面、多くの人が知っているモーツアルトの『魔笛』だから、その歌はやっばり比べてしまうのは当然で、そこでの「あれっ?」は、やっぱり気になってしまう。

    『WHY WHY』でもそうだったが、オペラまでこんなに、シンプルしてしまうのは、なんてカッコいいのだろうと思う。
    自信というか、余裕を感じてしまう。

    なにはともあれ、結局のところ、さいたまに行っただけの価値はあったし、なによりピーター・ブルックという、ブランドに弱くなってる私(実はよく知らないけど、前観た『WHY WHY』が面白かったし、『マルキ・ド・サド演出〜略〜と暗殺』で驚いた)としては、星は甘くならざるを得ない。「あれっ?」という小骨があったとしても…だ。


    そうそう、あのラスト、本来は大団円で、めでたしめでたしのシーンがあるはずなのだけど、あえてそれを「並ぶだけ」にして見せた、演出も好きではある。
    観客側の、変な間を、ひょっとしたらピーター・ブルックは、幕の後ろでほくそ笑んでいるんじゃないかと思ったりしているからだ。

    あ、あともうひとつ。「魔笛」が、マギー司郎の手品ぐらいの感じで、タミーノの手の中でずっと浮いているっていうのも、おちゃめな感じでよかった。

    ピーター・ブルック、また来たらまた観るだろうな。
  • 満足度★★★★★

    シンプルな空間から
    ピーターブルックのシンプルな舞台セットの中で魔笛が行なわれるということで、期待して観に行きました。舞台上にはほぼ竹と布だけであり、それによって生まれる空白部分を観客側が想像することが出来るのというのがとても素晴らしく観ていて飽きなかったと思う。ピーターブルックの作品を生で見たことが無かったので今回観れてとても良かったです。ただ重厚なオペラ作品として期待をして観てしまうと肩すかしを食らうかもしれません。自分は学生券3000円で観ることが出来たので文句は無いですが、定価で観たらまたちょっと違った感想になるのかなとも思います。
    勉強になりました。ありがとうございます。

  • 満足度★★★★

    魔法の笛は浮いたよね?
    オペラの『魔笛』を観たことがないので(オペラ自体ない)比べられないけれど、演劇として楽しんできました。13年前に観た『The Man Who』ほど衝撃も感動もなかったけれど(笑)ピアノの生演奏があたたかく、なかなかチャーミングな舞台でした。ストーリーを知って観たら違う感想になったかもしれませんが・・。
     
    でも・・あのクォリティが彼らの本当なのかな?とも思うのです。日本語の台詞を入れるサービスもあったけれど、ちょっぴり気になりました。(日本のみのキャストが数人いたという・・)

    ネタバレBOX

    竹の演出は、思っていたよりさりげなく、バラバラ感が・・。『春琴』の竹棒のほうが凄かったです。
  • 満足度★★★★

    簡素で軽やか
    通常はオーケストラ伴奏で、セットの入れ替えも要求される、2時間半~3時間かかる作品を必要最低限な要素だけを残してコンパクトな形態に構成し直していて、「オペラ」ではなく「ジングシュピール(歌芝居)」と題された通りの、演劇的要素の強い演出で、楽しい公演でした。

    序曲は序奏部だけでアレグロの主部は飛ばしてすぐに第1場に入り、その後もサクサクと物語が進み、アリアの後も拍手をする間を取らず次の台詞を被せて行くスピーディーな展開が爽快でした。
    物語の展開のきっかけとなる、3人の侍女や3人の天使は登場せず、2人の俳優がそれらの役を担うことによって、メインキャラクター達の関係性に焦点を当てていました。

    最近のオペラ演出にありがちな、時代設定を現代に置き換えて社会的なメッセージを訴えるようなこともせず、ある意味とてもオーソドックスな演出でしたが、色々と遊び心が感じられて、新鮮でフレンドリーな雰囲気がありました。竹と布と控え目な照明だけで十分に独自の世界観が立ち上がっていて素晴らしかったです。

    ピアノ1台の伴奏にすることで歌手の表現や息遣いに沿った、自由なテンポ感が生じ、躍動感のある音楽になっていました。冒頭の和音からして原曲のオーケストラの重厚な響きとは対照的なふわっとした響きで、印象的でした。途中にモーツァルトのピアノソナタが引用されていたのも自然で効果的でした。
    歌手達は少々物足りなさを感じる時もありましたが、いわゆるオペラの気張った感じではなく、親しみを感じる雰囲気がありました。

    ブルックさんの演出を観るのは今回初めてで、本やネットで知った情報から非常に革新的なものが観られるのではと期待し過ぎてしまい、原作に忠実な演出(特にパパゲーノ絡みで普通のオペラ公演でも定番のネタが多かった気がします)に拍子抜けしてしまったところはありましたが、変に色々盛り込まずにシンプルに徹することから生まれる美しさが魅力的でした。

    大掛りにしなくても充実したオペラ上演が可能であることを示したこの作品を観て、日本では別世界になっている、小演劇系の演出家とオペラ団体がもっと交流して、新鮮なオペラ公演を行って欲しいと思いました。

  • 満足度★★★

    「ピーター・ブルックの魔笛」
    オペラと思うと貧弱で、演劇と思うと退屈で。何を目指した作品だったのかな。歌は片手間でいいから(聴き惚れるほどは上手くないので)、豊潤な沈黙が欲しかった。パパゲーノは可愛いらしかった。

  • 満足度★★★★★

    創造できる楽しさ
    シンプルな舞台であれだけの世界をみせてくれるとは!!余計なものが何もないから想像できる楽しさも味わえる。翻訳字幕も邪魔にならに素敵な位置に掲げられていて訳もシンプルでよかった。なにより楽器はピアノ1台。あとは声(歌)と言う楽器が魔笛の世界を盛り上げていく。モ-ツァルト…。素晴らしい空間を楽しめたことに幸せを感じました。ただ、チケット代ケチってA席にしたのが悔やまれます(笑)

  • 満足度★★★★★

    素晴らしかった!
    物語があり、
    美しく、
    楽しい。

    抽象的な舞台装置から
    具体的なシーンを観客に見させる力、
    俳優陣の動きの美しさ。
    嗚呼、
    自分は今まで如何に
    ピーター・ブルックの舞台も見ずに
    猿真似をしてきたことか。

    この時代で演劇に携わる者として
    ピーター・ブルック氏の作品を見ることができて
    本当に良かった!
    これは語り草になりますよー。

  • 満足度★★★★★

    当日券
    とれたので。

    チケットのために駅から走ったのは久々だなぁ・・(苦笑
    補助席でも何の問題もなく観れてよかった。

    ピーター・ブルックは、軽やかで素敵です。
    ゴテゴテしてない舞台美術もモーツァルトの音楽にぴったりと合っていて、
    自分にはかえって良かったようにも思いました。

    ・・まるで、即興のライブでも見てるみたいな軽やかなリズムのなかで、
    自分も気軽にリズムを取ったり、面白い仕草に吹き出したりしながら、
    気付けば、あっという間の90分でした。

    ちょっとした舞台に比べても少し高め(といってもオペラとしてはそれほどでもないのかな)
    だと、観客もそれなりに重みのある方が観た気になるのかもしれないけれど、
    自分はこれくらい軽やかなほうが好きだなぁ・・(笑

    まぁ、わりと文学好きだと、モーツァルトというと、聴いていると、つい
    「疾走するモーツァルト」(高橋英夫)だとか、
    小林秀雄先生の文章のいくつかが
    すぐ頭に浮かんでしまったりするのだけれど(苦笑
    この舞台はとてもシンプルでありながら、
    ひと目でそのセンスの良さが感じられて、
    洒脱で瑞々しい作品に仕上がっていて
    (洗練というのはこういうことを言うのだな)、
    観ている間もすっかりその身についた羽のような軽やかさのリズムに夢中になって、
    ほかの誰かの音楽の文章を思い出す暇もなかった(笑

    ピーター・ブルックなどというと、
    マハーバータラ10時間などがよく話題になったりするけれど、
    こうした90分の軽やかな作品のなかにこそ、
    趣味の良さが凝縮されている気もして、
    その素晴らしさを再認識したりもするのでした。

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