フランケンシュタインー現代のプロメテウス 公演情報 「フランケンシュタインー現代のプロメテウス」の観てきた!クチコミ一覧

★ 満足度の平均 ★ ★ ★ ★ ★ 4.0
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  • 満足度★★★★★

     板を囲む客席は、「を反時計回りに90度回転させたように設えられ、上演中の光源は総て、ほやの付いたランプであるから、仄暗く嫌でも想像力を高める。演技は、どの役者の演技も熱演、船を囲んだ氷山の崩れる音? か、時折轟く凄まじい轟音は、観客の身体をも震わせる。(華5つ☆)

    ネタバレBOX

     先ず注目すべきは、ヴィクター・フランケンシュタインも怪物も女性が演じていることだろう。怪物が、己のアイデンティティーについて深く悩む中でヴィクターとの約束に至ったのは、己の相似物の創造であった。即ち同類の他者の創造である。Rimbaudではないが、凡そ存在を意識する存在が、自己の存在を正当化できるのは、他者に因って己が誰々であると認識される限りに於いてである。Je est un autre.なのである。Rimbaudは、天才であったから、通常Jeに対する繋合動詞êtreはsuisでなければならない所をわざと三人称単数のestと表現することで客観性を表しているのである。
     アイデンティティー問題は、何度も出てくるが本質は以上の点にあろう。だが、今作の呈示する問題はこればかりではない。アイデンティティーの揺らぎは、現代人の殆ど総てが抱えている問題であろうが、この揺らぎ故に現れ、各自の存在感を脅かすもの・ことこそ問題なのである。それを効果的に描く為にこそ、ヴィクターも怪物も女性が演じているのだとしたら?
     ここには、LGBTやジェンダーという極めて現代的な知の問題が提起されていると言えよう。アホな保守党議員などには想像も及ばないような微妙で本質的な問題が提起されているのである。
     他にギリシャデルポイのアポロン神殿に刻まれているという格言γνῶθι σεαυτόν(汝自身を知れ)やデカルトのCogito ergo sum.(われ思う故に我あり)などの科白も出てくるのは、今作が単なるゴシックホラーではなく、優れて人間的且つ普遍的なテーマに貫かれた作品であることを表している。メアリー・シェリーが原作を書いたきっかけが、例えバイロンに誘われ詩人のシェリー(後の夫)らと共にレマン湖畔で過ごした際に提案された怪奇譚創作の提案だったにしてもである。
     原作では、怪物は極めて知的であり、その知力によって、人間の未来をも昏いものとするに足る存在なのが、今作でも踏襲されている。このことは、現代の科学で制御できない技術が齎す危険を訴えると共に、作られた怪物が実は名づけようもない即ち社会の構成単位としては認知されていない何らかの存在でしかないという深く哲学的な問題を提起している。その存在が、極めて人間に似ていることからくる本質的問いは、人間の鏡としてである。従って、怪物がフランケンシュタインを名乗るのは偶然ではない。そして彼に関わる総ての人々を殺害してゆくことも。怪物は、己のアイデンティファイしようのない「存在」の非社会性を創造者・フランケンシュタインに体現させることによって、彼を己の鏡へと逆転させたのである。ラスト、怪物は冒険家から、フランケンシュタインの実験ノートを手渡される。怪物が彼の遺体と共に去ったということは、怪物がフランケンシュタインを生き返らせる可能性をも示唆していると言えよう。このことは、善悪の彼岸に於いて知の追及が為されるであろうこと、それが知を持つ生き物の業(カルマ)であること、そして新たに齎された知は、それが完全に制御されない限り、常に総ての生命を滅亡に導きかねない両刃の剣であるという事実も。だから、我々は思い出しておく必要があろう。デルポイの神殿に刻まれたもう一つの格言”度を越すなかれ”を。

  • 満足度★★★

    鑑賞日2018/06/07 (木)

    7日夜の初日舞台(130分)を拝見。

    ネタバレBOX

    怪物との経緯を北極探検家のウォルトン等に語る「ヴィクター・フランケンシュタイン」と称する金髪の男こそが、実は「クリーチャー(怪物)」本人であったことを除けば、概ね、原作をトレースした作品。

    「氷山に囲まれた探検船艦内での閉そく感、さらには、当時の欧州中心社会における非欧州人が感じた息苦しさ、を観客に体感させるための」意図的演出なのか? 会場内の冷房を抑えた蒸し暑い空気の中で、長時間の観劇を強いられた不快感は、あくまで個人的な事情として、満足度の評価には加味せずに、感想を述べれば

    初日故か、熱演とはいえ、多くの役者にセリフの噛みが目立っていたこと

    「北極探検船に氷山がぶつかる音」を様々な場面での効果音に多用するも、その大仰な・時代がかった演出に、途中から飽きが来たこと

    の2点から、昨年の『ドグラ・マグラ』で抱いたのと同様の感銘を期待していた者としては、大きな肩透かしを喰らわされた気分だった。

    隣席の聡明そうな青年のように、目をつむり、安穏に時を過ごしていた方が、あるいは正解だったかもしれない2時間強。

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