非常の階段 公演情報 非常の階段」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-20件 / 24件中
  • 満足度★★★★★

    健在
    あの群舞が健在で嬉しくなる。物語はダークな世界を取り上げているが、社会の闇を抉りつつ、家族の愛情を浮き彫りにする。初日から千秋楽に向け、いやむしろその先に向かって進化し続けるアマヤドリの舞台。劇団の姿勢を改めて実感した。

  • 満足度★★★★★

    前作に続き
    前作に続き観劇。感激?
    人の心にぐわぐわと迫ってくる台詞たち。どうしても見返したくて、帰りに台本を買って帰ってしまいました。
    棒がたくさん立っていて、机といすがあるような不思議な造りをした舞台。
    太宰の「斜陽」をモチーフとしていると言っていたので、読むとより楽しめるのかも。
    次回公演時にDVD買ってしまいそうだなあ。

  • 満足度★★★★★

    マチネ観ました
    すごく良かったです。作風も好みでした。尺の長さを全く感じさせない劇だったと思います。詳しくはネタバレにて

    ネタバレBOX

    カッコいい不良が大好きなので、そういう人たちが沢山出てきて嬉しかったです。犯罪、自殺、そこに絡む悪と自由について考えさせられました。大庭ナイトは結局は木下ナオトであって、大庭にもナイトにもなれないところに切なさを感じました。彼の抱える問題は特殊なようでありながら、多くの人間が持っている悩みなのだろうなと思いました。小角さんの次女役がいつもの小角さんとちょっと違う雰囲気で好きでした。大庭家、好きですがどうも三女が浮いていたように感じます。要因はよくわかりませんが…… 父親に対して長ゼるところは注目しましたが、他の場面ではなじめてない気がしました。終盤のナイトが追い詰められていくところは心に迫るものがありました。メタネタには単純に驚きましたが、メタって基本は苦手なのですが、今回は張り詰めていた神経を緩めてくれた気がして、尺の長さを感じなかった要因の一つかなとも思います。全体的に尺への工夫は見られたと思います、まあ、あんまり尺の話ばかりするのは好きじゃないのですがね…… 全体的に本当に好きな劇でした。1回でお腹いっぱいになってしまって二度目以降は見ませんでしたが、本当に良かったです。
  • 満足度★★★★

    広田戯曲としては異色?
    様々な出自の面々で構成された詐欺集団がその1人のメンバー宅に居候することで織り成される物語。
    広田戯曲では珍しく基本設定の「架空度」が低く、まさにイマの日本の物語、特徴的なムーブメントを封印した(?)こともあり、リアリティがある。
    広田さんは執筆にあたり詐欺グループのルポルタージュやドキュメンタリーで研究されたとのことで、それぞれのバックグラウンドや言い分の説得力たるや…。
    そんな「グループ」と「家族」の対比を鮮やかに見せておいての「5日目」の前の空間構成が見事。
    場を終えた役者が舞台上の各地に動きを止めてとどまるのはあたかも「これで駒は出揃いました、ここからは収束に向かいます」と宣言するようでアクセントとして印象深い。

    あと、終盤のタイトルと密接に関わる展開になったあたりの語り口(台詞回しから「カット割」的なもの、物語の流れまで含む)は、いかにも広田作品、という感じだったなぁ。
    もちろんそこだけではなくモノローグの入れ方とかそういうものもそうなんだが。

    さすがに「長さを感じない」とはならないが、冗長などという単語とは無縁、内容相応の上演時間に思えた。

    ネタバレBOX

    序盤で使った「サプライズパーティー」を終盤で活かすのも巧み。
    さらに、このシリーズでは封印したのか?と思わせた特徴的なムーブメントを終盤で炸裂させるのも、死と生の対比と言おうか生命の躍動と言おうか締めくくりに最適。
    広田さん、ホントにそのあたりを意識されなかったんですかぁ?(笑)
  • 満足度★★★★★

    人間…孤独か孤立か
    脚本・演出・演技という芝居の主要な項目について満足する内容であった。
    まず、脚本は集団犯罪を描きながら、実は一人間の犯行の動機・実行に至る経過、犯罪を肯定する屁理屈(社会が悪いと問題をすりかえる)を上手く人間の懊悩と絡めて描く。そして犯罪集団に身を置きながら、段々と自分を見失い孤立するという矛盾と狂気がうまく表現されていた。
    舞台もパイプを繋ぎ合わせ家屋の外観を模した衝立、中央に盆をセットし、家族・仲間という角の無い関係を象徴しているかのようであった。それらの脚本・演出に応えるかのような迫真の演技は見応えがあった。
    上演後、作・演出・主宰 広田淳一氏のアフタートークがあったが、その中で気になることが…。

    ネタバレBOX

    広田氏の談では、太宰治の「斜陽」をモチ-フにしたと言っていたと思うが、自分はどちらかというと「人間失格」のイメージを持った。”恥多き生涯を送った”こと、家族の中でも孤独感を味わい、悪の仲間への逃避が生んだ悲劇。孤独には耐えられるが、孤立は受け入れ難いとは或る冒険家の談話。大勢の人に囲まれているが、心は素直になれない、解放できなければ苦しいだけだろう。そのもがいた挙句、自死の選択を…。その過程が痛いほどわかる苦悩、丁寧な状況説明は秀逸である。

    今後の公演にも期待しております。
  • 満足度★★★★

    吉祥寺シアター。
    やはりアマヤドリは吉祥寺シアターが良く似合います。暗く美しい照明は劇団が描き出す人間や人生そのものに思えて、日常を、未来を前方向だけにスポットを当てて生きている自分に警鐘を鳴らされているようにさえ感じます。それにしても、いつも切ない。役者さん達の透明感・・・どんなに人間を深く抉っても漂う透明感。私にはやっぱり難解で、思考をフル回転させないと置いていかれてしまいそうになりますが、舞台から浮かび上がる透明感、その俯瞰が心地よくて客席に向かうのかななんて今回感じました。ちなみに客演のレベッカちゃん、いつも素朴で可愛らしい印象ですが(思えば中学生役しか見たことがなかった、、)今回、物凄くきれいでした。びっくりした!あとあと、やっぱりアマヤドリの乱舞は素敵です*

  • 女性と孤独に溺れる姿はもうない
    団名を変えてからここにきてしっかり作風が、というか取り扱うテーマをシフトしたように感じます。
    そして、これからも変えていくための下地であるように。

    ロクな死に方、の作品ファンとしてはちょっと寂しい。けど、これからもっと大きなものを相手にしていくのだろう。

  • 満足度★★★

    かっこよかったよ
    スタイリッシュっていうんですかね。舞台もシンプルでかっこいい。でも長かった。

    ネタバレBOX

    あの人、最後、どうして死んじゃったんですかね?ごめんなさい。そういうことすら理解できてなくて。

    みなさん演技すごく上手だと思うんだけど、なんとなく退屈を感じちゃうのはなぜなんでしょう?みなさん頑張ってるのにな。型にはまった感じがあれなのかも。なんかひどいこと書いてますね。すいません。
  • 満足度★★★★★

    社会・集団・組織・家族・非家族・イデオロギー・経済システム
    演劇として、非常に完成度の高い作品だと思った。
    観ながら直感的に思ったことを、あえてクローズ・アップして、誤読のように感想を書いてみた。


    ……感想は、マルクスの経済発展段階説から始まったりする。


    (一気に書いたらとんでもない長文になってしまった。過去最長ではないか。文章や論点に破綻がありそうだが、できればあまり突っ込まないでほしい・笑)

    ネタバレBOX

    マルクスの経済発展段階説によると、資本主義のあとには共産主義がやってくるという。
    特に60〜70年代には、それを信じていた知識人(学生も)たちが世界中にいた。
    彼らはそれを目指そうとした。
    そして、今、それを信じている人は、ほんの一握りではないだろうか。

    なんてことをこの作品を観て思った。

    その理由は、「企業」「家族」という2つの集団の対比があり、その中の詐欺師集団が、カンパニーを名乗っていることと、彼らのブラック経済が、ひょっとしたら日本経済へのプラスになるのではないか、と思ってインタビューをしている政府機関らしき人々があったこと、さらに平等というキーワードなどからだ。

    そうした「社会体制」「経済システム」という見方でこの作品を観ていく(ほんの少しイデオロギーも)。
    たぶん、かなり視点がずれた「誤読」であるとは思うのだけど。

    大庭家という「家族」がある。
    そして、「詐欺グループS」という「非家族」の集団(組織)がある。
    いずれも「人」の集まり。

    「家庭」と「企業」と簡単に言い換えてもいい。
    2つの「集団」、2つの「組織」。

    そして、その中間に、1人の登場人物「ナイト」がいる。
    Sに属していながら、大庭家の一員でもある。
    Sでは新人、大庭家とは血のつながった家族ではない。

    経済活動を行う「組織(企業)」、つまりフォーマル・グループが成立するには「目的」が必要だ。
    詐欺グループの目的は明確。人(主に老人)を騙し、金を得る。
    対して、人が血縁などでつながる「組織(家庭)」、つまりインフォーマル・グループには「目的」は必要ない。

    そして、「組織」の成員たちのモチベーションを維持するものも異なる。
    企業組織でモチベーションを高め、維持するための、組織への忠誠心の源泉は「お金」ではない。自己実現なのである。もちろんその前には、マズローの欲求5段階説ではないが、「集団に属したい」と思う「社会的欲求」や、「他者から認められたい」という「尊厳欲求」がある。
    ナイトにとっては、Sという詐欺グループに属すことで満たされ、さらに組織のリーダー格2人に、プレイヤーとして認められることで自己実現への道しるべさえ見えてくる。したがって、ナイトの忠誠心、Sという「企業組織」への帰属意識は高まっていくのだ。

    家族組織への帰属意識を維持するものも「お金」ではない。言ってしまえば「愛」であり、「慣れ(習慣)」ではないか。
    一緒に暮らすことでの「確認」から相互間で得られるものだ。
    ナイトは、自分が大庭家の本当の子どもではない、ということの負い目がある。
    しかし、同時に「家族」としての「甘え」もある。

    この2つの「組織(集団)」で揺れ動くナイトが、現代社会の動揺の象徴ではなのではないか。
    ざっくり言ってしまえば。
    この際、「善」「悪」なんていうことはここでは関係ない。

    まあ、テーマが「悪」なのだから、「悪」についても少し考えてみる。
    マルクスは、プロレタリアは資本家に搾取されている、と言った。
    これは「悪」なのか? マルクスは「悪」と考えた。
    搾取することが「悪」ならば、「資本主義」は「悪」である。
    だからこそ、「資本主義社会」の次には「共産主義社会」が来ると論じた。

    この作品では、経済活動をしている「カンパニー」は、「詐欺」グループだ。
    つまり、通常のルールから言えば、「悪」なのである。
    ということは、(私の考えるところの)資本主義を詐欺グループに象徴させているのは、マルクスと同様に「悪」であるとしているのだろう。
    これは偶然ではないだろう。「自由(経済)」による「格差」「不平等」の結果生まれた詐欺集団なのだから。
    それを政府(らしき機関)が取り込もうとも考えている、というのも象徴的だ。
    老人がため込んだお金を市中に回すことで、「不均衡」を是正しようと考えているという点では、大義名分としての詐欺グループと考えが一致している。

    市場では、個人が自己の利益を追求し、自由に任せておけば「見えざる手」により、適切な資源配分が達成されるとアダム・スミスは言った。しかし、実際は、富は高きところから低きへは流れず、「経済的格差」が生まれてくる。その「格差」は結果、経済の「格差」だけに留まらない。
    かと言って、すべてが平等である共産主義には進めない。理由は後で述べる。
    したがって、Sにいる彼らは、彼らの(勝手な)理論によって、富を再配分している。

    劇中では、政府機関もそれに目をつけてアプローチしている。
    市場経済だけでなく、ブラック経済にも介入し、コントロールしようとしているのか、と考えるとなかなか面白い視点だと思う。
    新自由主義だの、ケインズだのといった、ところについても考えると面白いのかもしれないが、この作品からは大きく外れるのでこれはここでやめておく。

    さて、先に「共産主義には進めない」と書いたが、その理由はこうである。
    すなわち、全人民にとって、自由と平等がある、共産主義社会というものが成立するには、(諸説があるが)すべての成員が「善人」でなくてはならないと言う。
    そりゃ無理だ、思う。
    「悪」は悪いものだが、「善人」もツラいというところか。
    なので、この作品のテーマである「悪と自由」というものは、それにドンピシャなのではないかと思ったのだ。

    そもそもマルクスが「階級闘争不可避」と言っていたが、資本家とプロレタリアとの「階級闘争」はなくなってしまった。
    生産性の向上により、その階層(階級)が消滅してしまったのだから。

    ドラッカーの著書に『ポスト資本主義』という興味深いタイトルの書籍がある。
    その中で、資本家は知識労働者に、プロレタリアはサービス労働者になった、とあった。
    なので階級闘争はなくなってしまったと。

    しかし、「格差」はある。
    「資本主義」だから、「ある」。
    自由経済だから「ある」。

    劇中でも盛んに「平等」という言葉が使われていた。
    その意味するところは、「格差」なのだが、使われ方としては、自己の正当化である。
    つまり、「なぜ、人を騙す仕事をしているか」の回答でもある。
    自分を守るための理由としては、大きなくくりのほうが聞こえがいい。「平等」とかね。
    実は「カンパニー」にいる彼らは、やはり「自由な」資本主義の中にいるわけで、プロレタリアではない。

    では、経済システムはどこへ向かうのか?
    先の著書でドラッカーは、「知識」がキーワードであるとしていた。
    しかし、「格差」の中で、それを得、活用できるのかという疑問がある。
    先にも書いたとおり、「経済格差」は「経済」に留まらないのだ。連鎖していく。

    そこで経済的組織が向かうのが、大庭家で示された「家族(的)な組織」ではないか。
    かつて「日本的経営」として言われていた終身雇用、年功賃金などは、社員を「家族」のように扱い、できるだけ長く会社にコミットメントしてほしいと願っていた。
    しかし、経済の低迷、バブル崩壊以降、それが続けられなくなってしまった。
    ところが、ここへ来て、やはり「人」だ。企業を支えるのは「人」だということで「人本経営」なる言葉も出てきた。

    劇中では、大庭家は、ナイトを迎えてくれた。
    ナイトは知らなかったのだが、家族として籍まで入れてくれていたのだ。
    とても喜ばしいことなのだが、ナイトにとってはそこは、「もう戻れない場所」であった。

    生きるために周囲に合わせて、自分の感情を出さずにいたことが、思い出をなくしてしまっていたということに気づくのだ。
    「思い出は感情と結び付く」という、当たり前のことに気が付いてしまった。
    当たり前のことだから、本人への衝撃も大きい。

    「人は何のために生きているのか」と大上段に振りかざすことをしなくても、「足りないモノ」に気が付いて、それが絶望的に補うことができないということに気が付いてしまえば、「生きる意欲」「ソウル」もなくなってしまう。

    『非常の階段』では、イデオロギーとしても社会・経済システムとしても、限界が来ている現代をSと大庭家、そして、その間にいるナイトによって表しているのではないか、と思ったのだ。
    途中に差し込まれる「素」を演じる役者の姿は、まさに「それ」を示していると受け取った。

    自由主義・資本主義の先にマルクス主義・共産主義はありそうもなく、「知識だ」と言われながらも途方に暮れて、でも、最後はやっぱり「人」なのだ、と言えるのではないか。

    その意味において、ナイトの姉・千鶴が、ナイトが最初にいた詐欺グループのリーダー・大谷に「ナイトに会え!」と強く迫るシーンは、とても意味深い。
    いわば、作品の中の光明だ。
    大谷は、ナイトを(方便としてだが)「必要だ」と言った人であり、千鶴は「家族」の代表だ。
    2つの「組織(グループ)」が「ナイト」でつながり、ナイトが生きるための第一歩であるからだ。
    やっぱり「人」でないと、「人」は助けられない、「人」は生きることができない。
    資本主義の先には「人」がいる。

    最後の群舞(私が勝手に「ひょっとこフォーメーション」と名付けた群舞)は、やはり「人」の流れに見えた。久しぶりの群舞、とてもよかった。

    詐欺グループのリーダー・大谷を演じた倉田大輔さんが、中盤からリーダー的素養を全開し、グイグイとやってくるところ、頭も良さげなところが上手いと思った。
    大庭家の父を演じた宮崎雄真さんも、詐欺グループとは違う、大庭家の空気を生み出しているようで良かった。
    ナイトを演じた渡邉圭介さんもいいし、姉・千鶴を演じた笠井里美さんもあいかわらず上手い。

    「家庭」である「大庭家」は、家長としての男親がいて、子どもたちはナイトを除くと女性ばかりである。対する「S」は、リーダーが男性で、女性も1人いるものの、男性社会である。
    この対比、あえて、だと思うのだが、実は、作の広田さんの無意識から出たものではないか、なんて思ったりしている。
  • アマヤドリ的。
    アマヤドリ観劇3度目、その中ではベスト。
    過去観劇は『月の剥がれる』『うれしい悲鳴』。前者は掴み所がなく、後者は進行する事態は判るが言いたい事(劇作りの動機)が掴めず入り込めない、という印象だったが、今回は「芝居を観た」という気分で劇場を後にした。それは喩えるなら、冷たい壁の裂け目から人間の「温度」が感知され、舞台に立つ役者はアンドロイドではなかったのだという、そんな感触から来ている。
    この「抑制感」は果たして狙いなのか、他の要因によるやむを得ない結果なのか、という所で評価も変わってくるが、、基調としては「不要な判りづらさ」がそこはかとなく感じられるため、否定的な印象が3作を通じた正直な所である。ただしテキスト(台詞)を通して論じようとしているテーマそのものは重要であり、社会批評の姿勢を貫く作り手は応援したいのも正直な思いだ。
    最後まで見れた、それを可能にした要因は一つには「アマヤドリ的」アプローチを知っていたので、「誘眠攻撃」を回避できたこと(場面転換後の台詞のやり取りが前のそれとどう関連するのか長い間判らないと、これは強力な「誘眠」効果を発する。今回も実は若干眠ってしまった)、そして今回の芝居のシリーズ「悪と自由」(この文言は観劇中忘れていたが)が念頭にあり、芝居全体をそこに集約されるべきものとして、一歩引いた所で観ることができたこと、これによって芝居として理解が出来た事がまずは土台である。
    その上で「芝居を観た」後味を得られた一番の理由は、役者の感情表現に私の感情腺を振動させる部分があったこと、役者が「抑制」の中にある感じが覆うアマヤドリの舞台の中で、そこから跳ね上がる瞬間が少し観れた事、これが大きかったと思う。

    ネタバレBOX

    その具体箇所は、終盤に展開する独白ベースの2つのシーン。「自分が無い」事に悩み、それを解決しようとして何も変わっていない事に気づいた青年「ナイト」の絶望の独白。この芝居はある犯罪集団を中心に展開するのだが、そのメンバーの一人であるナイトは少年時代からハチャメチャをやってきた(行動の欠落感を免除された)はずの来歴の持ち主なのだが、実は、と独白する。彼は周囲に合わせて生きているに過ぎず、そんな自分が嫌で、気を遣わずに済む連中とつるむようになったのに、やっぱり人を中心に考える自分、「評価」「承認」を望んでいる自分がおり、その欲求は満たされる事がない。いつも周りを気にして過ごしてきた人間には「思い出」というものがない。本当の自分を生きていれば、悲しかったり楽しかったり、そんな思い出の一つや二つ持ってるはずだが自分にはそれがない・・そんな状態から抜けられない無間地獄の闇を見た彼は、自殺する。
    この独白は私自身の二十代の頃の心の叫びを殆どなぞっていた。そういう自分からすると「自殺」に至った本当の原因は、彼の語った言葉の中にはなく、別種の要因が働いていると思うがそれはともかく、この告白には現代を生きる人間の一側面が表現されていると感じる。
    もう一つの場面は、彼の自殺(救急搬送で現在は重体)を受けて、犯罪集団が元世話になった詐欺師の元締との間にかつて体の関係を持った女性(ナイトの実家同然の親戚の家庭の長女)が、ただ遊ばれただけだったのね、で終ったはずの彼の元にある決意を胸に乗り込んで行く。
    詳述はせぬが、元締の存在、犯罪集団の存在は、この芝居では既定の事実として置かれ、後に「解説者」によって社会における資産の不均衡状態の是正に大型詐欺犯罪は貢献している、として肯定的意見が述べられたりする。格差を放置しているという意味で「悪」である社会システムから必然的に若年貧困層が生み落とされ、必然的に「金儲け」のための詐欺犯罪(ビジネス)が生まれるとの見方は、ある面私たちの実感に即している。
    が一方で「人を騙す」行為が一人の人間の中で正当化される過程で、様々なものを振り落として行くだろう事が、詐欺師の元締の「全て満たされた」かのうような環境で無気力化した姿に仄めかされる。その一局面がたまたま出会って一夜をともにし、捨てられた長女が未練がましく彼に取り入ろうとして交わされる、虚しく痛々しいやり取りだったりする。
    で、このやり取りを伏線として、終盤のその場面で彼女は恋愛素人?らしく、ナイトも以前一緒に働いていた同士だったボスの前に再び、敗北者の恥を打ち捨てて身をさらす。「ナイトに会っに行ってほしい」。億劫そうに渋る若き詐欺師に、彼女が食い下がる。このやり取りは見物である。再現したい欲求は抑える事にする。
    「悪」と「自由」の自由の語義は多様であるしどの意味合いだとしても結構である。言葉に集約させて行く作業、言葉が機能する土壌を再び掘り起こす作業は貴重だと思うが、抽象度の高い言葉や論理に収斂させる事がゴールである演劇はつまらない。論理や言葉にならないものが演劇という手段で豊かに表現される、それが私にとって演劇が贅沢な体験であるための条件だ。その端緒にしたい観劇だった。という所で長い感想を閉じます。長文失礼。
  • 乗り切れず
    群舞の美しさや、盛り上がりのパワーは最近のアマヤドリ作品で一番良かったと思います。他方、ところどころ説明過多で冗長なのは相変わらず。言わずもがな、も芝居の魅力のうちと思うのですが。視覚聴覚に対して大変論理的なのですが、客に対する余白が少ないのがいつも気になります。作風と言ってしまえば、それまでなのですが。

  • 満足度★★★★★

    非常の階段
    すでに2回観たけれど、鳥肌が立つ。終盤に押し寄せる波が凄い。ラストの群舞もさすがです。欲を言えばもっと観たかったかなとも思う。家族については緩やかな崩壊とまでは言わないけれど、瓦解というか別離なのかも。時が経てば、状況が変われば、離れなきゃいけないことがある。詐欺という行為にしても違う側面から描き、思想についても押し付けがましくなく、ヒリヒリと伝わってくる。照明の具合がとても良い。もっと演出の意図を知りたい部分があるけれど、これは好きな作品です。

  • 満足度★★★

    もう、いいかい?
    チラシにも書かれているこの言葉の意味が  結局わかりませんでした。。
    役者さんの熱演は素晴らしいものでしたが、  演出方法に ?? と思う場面が いくつかあり、  全体的には イマイチでした。

    ネタバレBOX

    吉祥寺シアターの広さを 生かし切れてない。
    とても気になったのが、 途中に 演技ではなく、 普通に客席に向かって話しかけてくるシーン。。   わけわからん。。  せっかく芝居に入り込んでたのに、 なんなんだ??   最後の群舞は どういう意味があるのか?
    なんだかしっくりこない芝居だったが、 役者さんの熱演は素晴らしかった!
    とくに ナイトを演じた 渡邊圭介さん くるくるした大きな目が印象的です。
    3.4 点。
  • 満足度★★★★

    迫力がありました
    細かいことはよくわかりませんが、
    見て良かったです。
    役者の熱演やさまざまな主張、舞台演出、など
    とてもレベルが高く驚きました。
    話はずっしりと重たい感じでした。

    笑いはあまりありませんが、
    おもしろかったです。

  • 無題1253(14-292)
    19:30の回(曇)。19:10会場着、受付(全席指定)、19:15/19:30前説(アナウンス、135分)、間があき19:35開演〜22:03終演。パイプとパネルで幾何模様に仕切られた舞台、上手手前、板を円形に組んだ1段高いウッドデッキ風の居室、下手、木製のテーブルと椅子。

    (結社、家族、公務員)/(芝居、客席に向けての芝居、ダンス)という構成がしっくりこないままの長丁場。

    ネタバレBOX

    雑記(まったくもって個人的なところで)

    ダンスはダンス公演を観に行っているので劇中展開されてもたいていはピンとこない(これは他の劇団でも同じ)ので物語を追おうとする意識が続かないのでした。

    客席への語りかけは、先日観た一人芝居では構成上必要だと思いましたが、本作ではどういう意図だったのかわからなかったので意識が素に戻ってしまいました。

    2組の抗争劇(声が大きい方の勝ち)&お役人(無難なまとめ役)という取り合わせに新味が感じられませんでした(どこまで行っても表面的…参考文献として挙げられたもののうち【ノンフィクション】ものは数冊読んでいた。他に石井光太さんの著作なども)。

    首をつる理由がわかりませんでした…物語の消失点はそこだったのだろうか…
  • 満足度★★★★★

    なんか今回のアマヤドリ、
    入れちゃいけないスイッチが割りとナチュラル~に全開になってたような。
    「わたしたちがいま生きている“ここ”という場所」についてあくまで真摯に切り取って見せるという行為っつーのが、実はここまで「観客に対してケンカを売ってる」ような行為であったのか、という昂揚感に包まれる二時間半。

    とにかくまあ、さっぱりと美味しいくせに喉に小骨引っかかりまくりな上、胃ももたれてくるようなまったく消化に優しくない芝居。
    二時間半の長尺も全く気にならず、息が苦しくなってくるほどにギッシギシに軋んじゃってる感、なんかめっちょ気持ちよかった。

    ここ最近のアマヤドリ作品の中でもキャラクター一人ひとりの「生々しさ」とか「リアルさ」(あ、この言葉すごく使いづらい・・・^^;)みたいなのがヴィヴィッドだった気が。
    全体が「あー、いかにも広田淳一っぽい切り口だなあ」っていう圧に満ちてる中で、同時にちゃんと一人ひとりが登場人物として自分の言葉を持ってる感というか。
    (そこら辺、今回劇団員以外の俳優が多い公演にもかかわらず、いつもはこの規模のアマヤドリ公演だとちょいちょい感じちゃう「アマヤドリのステージに慣れてない感」「広田淳一のセリフを言い慣れてない感」みたいなのがほとんどなかったのも手伝ってなのか)

    役者の上手さについてはもうこの劇団のポテンシャル考えたら特に書くことも・・・と思ったけど、やっぱりどの役者もみんな前に観た時より確実に「惹きこんでくる」パワーが上がってたような。特に糸山さん辺りは見るたびに「おもしろく」なってる印象が。
    アンサンブル、たたずまいのキレ味には「もう最後の乱舞シーンなくてもダンスとして成立しちゃってるよなあ」って感じてしまうほどに、ホント、身体の存在としての「強さ」があるなあ、と。
    そういう演者の説得力があってこそ、劇中で2回ほどある、あのトリッキーな「仕掛け」が実にエグ~く、観劇後じわじわ効いてくるようになってたんだよなあ、って思ったり。

    この作品、是非とももう一回リピートしたい!・・・けどスケジュール的に難しいのは悲しいところ。
    もう一度観ていろいろなパーツをちゃんと組み立てたときに見えてくるものを知りたいし、論理的にクリアに作られてるようで、どんなに考えても解釈しきれないような混沌がわざと仕込まれてたような気もするし。
    再演される際は(されるよね!?)そこら辺もちゃんとしっかり注意して観ようかなと。

  • 満足度★★★★★

    初見でした。良かったです。
    とにかく役者さんがみんな上手いですね。
    熱演でした。公演時間が長くなっていますが、良い時間を過ごしたと感じます。
    内容が濃いし、いろいろと詰まっています。だからこそこの舞台を鑑賞して楽しいと感じますが、あとでこのテーマに関して自分で悩むことや、この舞台によって私の「悪と自由」観が変えられるということはない。後味とか余韻というのはあまり無いと思った。余韻好きの自分としては「余韻が欲しい」と言ってしまいます。
    しかし最後まで気のこもった舞台でした。
    時々そこはちょっと冗長なのではないかと思うところが有りましたが、そういう時々の感覚も、自分と違う人が作ったものを見ている感覚として好きなので、私にとっては問題なしでした。
    力を注いで試そうという、常にチャレンジしている人たちの心意気を感じた気がします。ありがとうございました。これからも見に行きたいです。

  • 満足度★★★★★

    やっぱり良いわ!
    情報量が多すぎて,まだ全て消化できたとは言い難いけど・・・やっぱ良いわ~この芝居。フリーパスで何度も観たいとこだけど,吉祥寺は遠いのよね^^;でも,なんとか都合をつけてもう一度行こうかしらん。そんな気持ちになってしまう,観る価値のある芝居でした。オススメです。

  • 満足度★★★★

    公演中なので
    全文ネタバレに書きます

    ネタバレBOX

    第一弾は、個人の悪と自由の物語だったが、第二弾の今作はスケールが拡がった感覚。個人ではなく社会組織(家族)が描かれている。自由が故に生まれる社会の歪(悪)。ストーリーの構造は分かりやすいものの、個別事象は深くてわからないこと多数。

    広田淳一は自由の反対は平等だと言う。自由社会のルールである法律は公平ではない。公平は相対的で、参加者全てがOKなら公平だが、これが大きな人間社会において公平の実現などあり得ない。難しい…自由社会の課題である不平等。

    構成者の多数の支持が得られれば悪は悪でなくなる。劇中、富の流動性を担保するにはオレオレ詐欺も決して社会悪ではないと言う。自由とは、悪とは。考えさせられる。本当に宿題が多くてよく出来ている。

    相変わらず舞台美術が洗練されている。影を演出するライティングには毎回痺れるが今作もカッコ良かった。最後には群舞もあり。第一弾のガッツリ会話劇も良かったが、なんとなく踊ってこそアマヤドリという感覚を満たしてくれた。

    今作は何んと言っても、主演を務めた渡邉圭介の好演が光った。”弱さ”を演じてのハマり具合が抜群。空気読んで自分を見失う。生きていけない。継続できない。生きている意味が分からない。という心の叫びが素晴らしかった。「非常の階段」は「非情の階段」だった。

    劇中に突然、出演者の素のトークらしき場面が挿入されるのだが、アレは一体どういったいどういった意図なのだろうか。正直言って必要ないと感じた。ラストの結構良いところで挿入されたため、気がそがれた。あれが無ければもっと心が騒ついたと思う。
  • 満足度★★★★

    ダンスに持っていかれた
    やはり話が冗長に感じてしまった。
    もっとすっきりした方が良いのでは。
    「うれしいー」では、すっきりとした構成で、だれる事無く一気に最後まで観ることが出来た。
    結果、三回観たが(DVDも購入済)、本作は見どころ多数につき勿体ない。

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