Hedda 公演情報 Hedda」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
1-10件 / 10件中
  • 満足度★★★

    好き嫌い、わかれますね
    役者は上手い。脚本はあまり、好きじゃない。

  • 満足度★★★★

    無題828(13-267)
    14:00 の回(雨)「13:30受付、開場、14:00開演、15:45終演」看板あり。
    対面式(入って右、椅子2列、左3列)、入口横にガラス張りの喫煙ルーム、両客席前に黄色い誘導用ブロックが1本ずつ。奥にピアノ、木製机(開演時にはプチプチ?で覆われている)椅子。舞台、キャリーケース、消臭剤?、お客様通路用にグレーのシート、カラー(赤)コーン。排水溝2ケ所。14:02前説(アナウンス、105分)、14:06開演〜15:46終演。イプセン…きっとダメだろうと思いながらも「RUR」からで3作目。前半、とっつきにくかったのが、後半、意外と面白くなってきました。終演後(安直ですが)、ネット検索し斜め読み、19世紀後半、異国…心情、登場人物たちの言動、など実感は0、でも(別の演出だとどうなるかな)気になる作品。ライターの発火、微かなBGM、薄暗い室内、IPod、リボルバー。

  • 満足度★★★★

    静寂が支配する空間
    砂地さんの醸し出す静寂と緊張感の中で繰り広げられるドラマ。
    観劇後、分厚い本を一気に読んだような達成感と充実感で満たされました。
    演出役者音…すべてが一体となってる舞台です。

  • 満足度★★★★

    空間演出の妙
    微細な音や光を駆使し、小物や役者の立ち位置を計算した空間演出が素晴らしかった。

    レーヴボルグ役:田中壮太郎さん、エルヴステッド夫人役:小瀧万梨子さんがよかった。

    ネタバレBOX

    演劇集団 砂地を拝見するのは二回目。(以前観たのはオリジナル作品『貯水池』)
    オリジナル作品の時も、今作もとても近い作品の印象を持った。

    微細な音や光を駆使し、小道具や役者の立ち位置などを計算した空間演出も素晴らしい。

    事象それ自体をただ舞台で演じればよいというだけではなく、
    そこにある空間、「間(ま)」のようなものをこそ作り出そうという演出に惹きつけられた。その演出によって、とても緊張感のある舞台が屹立していた。

    ただ、建築的な空間把握は凄いと思ったが、
    人と人との関係性の距離感が、その物理的距離感と有機的に繋がって見えてくるというところまでは行っていなかった気がする。
    (と言っても、そこまでの空間把握がなされた舞台を私は観たことがないから、単に理想を口にしているに過ぎず、「欲を言えば、、、」というだけだけれど。)

    また、どこまで演出したことなのか、たまたまそう私に見えただけかわからないが、
    主人公のヘッダとその夫テスマンよりも、レーヴボルグとエルヴステッド夫人の方が魅力的に感じた。

    そのためか、作品の問いかけている意味が、とても複雑に感じた。

    だが、これは、私にとっては半々で、
    一方で、多義的な解釈ができる作品になっていると思える反面、
    結局、何が問いかけたいのかよくわからないという印象の薄さにも繋がった。

    また、この作品が初演された1891年頃の設定のような演出部分もありながら、現代的な小道具が出てきたり、
    西欧の設定かと思いきや、床にあぐらをかくなど日本的な演出がなされたりという部分も、違和感を感じた。過去と現代を、そして西欧と日本を重ね合わせているのかもしれないが、何か中途半端な印象。

    私が感じた作品の印象の薄さと、中途半端に感じるという部分は同根から生じているように思う。

    今、この社会状況の中で、
    イプセンの『ヘッダ・ガブラー』を上演することで、
    この演出家は、観客に何を問いかけようとしているのか、
    それが私には伝わらなかった。

    それが伝われば、問いが明瞭になることによって、作品の強度は勿論、その解釈も、更に開かれたものになっただろうと思う。
  • 満足度★★★★

    問題提起なのだ
     安易に批評されることを拒む作品である。先ず始めに、それが近代的或いは近代の病弊を描いたなどと評されることを拒むであろう。そも、近代とは何か? 機械化、科学技術が進み、労働による増産が拡大すると共に工場労働者として要求される読み書きなどの教育が普及した結果一挙に、大衆の知的レベルが底上げされ、識字率の高まりと共に権利意識が当然のものとなりつつあった時代、団結することを覚え、革命主体となろうとしていた時代、それ迄、一部の権力者のみが享受し得た精神の果実に大衆の黒い手が延びた時代。それが近代というものであっただろう。

    ネタバレBOX

     では、其処で生活する者達は、その激動を如何に捉え、また如何に生きたのか? それは、各々の階層によって頗る異なったものになったハズである。この作品の原作者は、「人形の家」の作者、H.イプセンである。イプセンはこの作品に於いてノラとは異なる女性像を描いている。その階層は中流階級の上というレヴェル。夫は、研究者で博士、大学教授の内定を貰っている。友人は、矢張り、天才研究者であったり、法曹関係者であったり、と典型的なインテリ階層である。彼らの回りの女性も高学歴で博士クラスの研究の助手を務めるという手合。何れも社会的には名誉ある地位を占めているとみて良い。即ち、今迄の体制にあっても時代精神の理論的中核を為してきた保守の中枢であり、時代の激動期にあっては革命理論を編み出す中心階層でもあるのである。つまり変革の理論をも紡ぎ出す人材を輩出するインテリ階層である。それだけに時代精神の鬩ぎ合いも辛辣且つ時代の奥底を穿ったものたらざるを得ない。全体としてこの作品のトーンが暗いのは、このような事情からであろう。
     さて、現代にイプセンのヘッダを蘇らそうとした創作者達の試みは成功したといえるだろうか? そもそも、成功し得る見込みがあったのだろうか? 答えは否である。近代の問い掛けた問題群そのものが、現在も未解決だからであり、それは、我らの生活の中に更に深く、隠微に浸透中だからである。現代、イプセンが蘇ったとしたら、どういうことを言ったであろうか?
     ところで、表現することの意味は、問題提起することを含む。その意味では大切な問題提起である。
  • 満足度★★

    みんなのコメントを読んで
    初めて理解できる事がたくさんありました。しかし、観劇中は全く楽しめませんでした。
    本当に、申し訳ないですが、個人的な独断と偏見で星を2にさせて頂きます。
    好き嫌いがはっきりとわかれると思います。私はダメな方でした。

    ちなみに、役者はみんな上手いです。

  • 満足度★★★★

    これは・・・・・
    当時の社会というか、女の在り方というものを理解していないとよくわからない作品ですね。上流の女は社会で働かないという大きな蓋がある中で、自分の力を持て余している女が陥る蟻地獄といったところでしょうか。もうね、な~んて嫌な女、とあきれますが、でも後味も限りなく悪い。こんな結末にしかなりようのない時代、というものを俳優さんたちは違和感無くうまく引き出していたと思います。

  • 満足度★★★★★

    現代版『ヘッダ・ガブラー』
    あのセット。あの幕開け。劇団砂地らしさを観た。正直言えば、彼等のオリジナル作品に感じた衝撃とは少し違う。けれども、既存の名戯曲への挑戦の意味は感じ取れた。「好き」「嫌い」の意見が分かれる作品だろう。それはつまり、チャレンジしたことの証明であり、一石を投じているということ。ライターの火花が、スマホの写メ、音楽機器(ipod?)などの導入などは、斬新であり、現代風演出の象徴と言える。最大の冒険はあのブース。これまで観た多くの『ヘッダ・ガブラー』では、奥の間であり、目にすることはなかった。それが「籠」という存在として見える場所に。レーヴボルグの視線が、かつてのヘッダとの関係を語る場面で、ヘッダとブースを交互に捉える。グッと関係性が浮かび上がる。初日らしい緊張感が漂う中、レーヴボルグ役の田中壮太郎さんの登場で、物語が立ち上がり、動き出すのを感じた。これまで幾つかの『ヘッダ・ガブラー』を観たが、今回、初めて感じたり気づいたりしたことが幾つもある。それが演出家の解釈力か、見えなかった部分を見させる演出力なのだろう。特筆すべきは、テアの存在の大きさだ。これまでは、誰かに依存する弱い女性と捉えていた。今回のテア役、小瀧万梨子さんに脱帽。わたしが観劇に足を運ぶきっかけとなった『奇跡の人』初演のアニー・サリバン役の大竹しのぶさんを観た時の衝撃に匹敵する。小瀧さんが醸し出す、危うさや、揺るがない軸や、そこに立つことの覚悟に、目が離せない。生涯、この女優さんの演技を追い続けることを、固く決心した。

  • 満足度★★★★

    ”上から目線”のヘッダ・ガブラー
    “自由”とは“自分の意思決定に他人が影響しないこと”かもしれない。
    誰かの意のままになるくらいなら、銃で頭を撃ち抜く方がマシなのだ、
    ヘッダにとっては。
    自由で繊細な照明と意表をつくセットが秀逸。
    時折幽かに聞こえるBGMに思わず耳を澄ませてしまう。
    ヘッダの身勝手な強い視線が印象的。

    ネタバレBOX

    舞台スペースを挟んで客席が向かいあうように作られている。
    舞台奥にピアノ、その向かいには透明な喫煙室が設けられていて
    喫煙室の中に入ると、外の音は遮断されて聞こえない設定になっている。
    旅行用の大きなスーツケースがひとつ置かれている。
    床に2カ所ほど格子のはまった四角い穴があって、中に照明器具が見える。

    多くのライバルを蹴落としてヘッダ(小山あずさ)と結婚したテスマン(稲葉能敬)。
    新婚旅行から帰って来た二人の会話からは早くも温度差が見てとれる。
    教授職を期待して結婚を決め、優越感に浸るハイテンションな学者テスマン、
    明らかにそんな彼に、そして彼を夫に選んだ自分にもイラついているヘッダ。
    そこへヘッダのかつての恋人レーヴボルグ(田中壮太郎)がやって来る。
    天才肌で自堕落な生活をおくっていたレーヴボルグは、
    今や著書が大人気でテスマンを凌ぐかのような勢い。
    彼の仕事を支えたのはヘッダの友人エルヴステッド夫人(小瀧万梨子)だ。
    世渡り上手でヘッダに下心を抱くブラック判事(岸田研二)もやって来る。

    “いいやつ”だが凡庸な男を夫に選んだヘッダが
    すっかり変わったレーヴボルグと話す場面、喫煙室にいる人々とは
    “見えるけど聞こえない”状況で互いをけん制しつつ距離ができる。
    時折喫煙室に目をやりながら緊迫したやりとりを交わすヘッダとレーヴボルグ。
    やがて彼が酔って落としてしまった大切な原稿を
    あろうことかテスマンが拾って来たところから一気に事態が転がり出す。
    預かった原稿を喫煙室で燃やすヘッダは、素知らぬ顔でレーヴボルグを迎える。
    そして絶望的になっている彼に、父の形見の拳銃を渡すのだ。
    もう、これで死ぬしかないわねと言わんばかりに。
    ヘッダの思惑通りレーヴボルグの死が伝えられる。
    だがその死に方は彼女が予想していたものではなかった…。

    無機質な舞台に現代的な衣装(ヘッダはニーハイブーツにミニドレスだ)、
    透明な喫煙室と最小限に抑えた照明が効いている。
    ヘッダがカチカチと点けたり消したりするライターの火花や
    床下から天井に向けられた照明、懐中電灯の灯り等が暗闇の中で際立つ。
    たぶん原作では隣室なのだろうが、それを透明な喫煙室にしたことで
    内と外との人間関係にハラハラするような緊張感が生まれた。

    時代や価値観は大きく異なるが、ヘッダを突き動かしたのは普遍的な理由、
    つまりは“女の嫉妬”ではなかったか。
    かつて棄てた男が立ち直ったのは支える女がいたからだ。
    その女は昔自分がいじめていた、大したことない女で
    今またその女が、自分の夫と、失くした原稿を再生しようと盛り上がっている。
    そして何よりレーヴボルグは、あの拳銃で”自殺”したのではなく
    別の女に撃たれて死んだのだという衝撃の事実。
    ブラック判事が、“拳銃の出どころを秘密にしてやるから言うことを聞け”
    と言ってくるのもむかつく。

    “人生全て上から目線”だったヘッダ・ガブラーが
    自分のこめかみに拳銃を撃ち込んだ理由は、案外素朴な感情だったのかもしれない。
    それはヘッダにとって何としても認めがたいものだったのだろう。
    ヘッダが、すれ違いざまエルヴステッド夫人の髪の毛をむんずとつかむ場面、
    高貴な家の出だろうが何だろうが、“コンチクショウ”はあるんだよ、
    学生時代からの力関係を思い知らせてやる!という迫力がすごい。
    だがそのヘッダは、レーヴボルグが最期に会った1人の女に完璧敗北を喫するのだ。

    レーヴボルグを演じた田中壮太郎さん、立ち直ったけどどこか危うい男の
    コンプレックスと色気の混じった表情がとても良かった。

    何だか現代の“婚活”を思わせるような、女の選択が興味深い。
    それにしても“強い”って生きにくいものだなあ。
  • 満足度★★★★

    イプセンの原作は未読
    薄暗い中で繰り広げられる「できる」役者の攻防。
    面白くはあったけど、プラットホーム状のセットの意味や、今なんで「これ」なんだろう?ってのはあんまピンと来なかったかも。

    小瀧さん、ガチで顔から出血してたように見えたけど、大丈夫だったのかな・・・?

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