ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』 公演情報 ブルーノ・シュルツ『マネキン 人形論』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
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  • 満足度★★★★★

    別に誰がどうとかいう訳じゃないけれど・・
    3日間観てきました。

    これだったら4日間観ておけばよかった。

    たぶん4日観てもまだ伝わらないことが多いと思う。

    ポーランド語の知識がほんのちょっとあって、
    シュルツのことが少しわかってるだけのつもりの自分でもそうだから、
    本当だったら1週間くらいやって毎日観ることを前提にする位の方が良いかもしれない。

    自分の演劇読解力からして3日観てまだ足りないと思うし、
    上田さんでさえ終わりの会で「観る度に発見がある」という。

    非常に酷な言い方になってしまうけれど、
    あまり接する機会のないポーランド文化のなかでも
    最もポーランドらしいと思われる作品を、
    1回観ただけで理解するのは日本人には不可能だと思う。

    舞台だけではなく、ポーランド語や文学、文化や歴史、映画についての知識も必要とされている。

    できれば今はウクライナになっている
    ポーランド東部地域についてのイメージもあった方が良い。

    1回観て、芝居の全容をなんとなく把握し、
    2回目で見にくかった字幕の内容を頭に叩き込み(台詞と合ってない部分もあるのでそれは頭の中で調整しつつ参考程度に(苦笑
    3回目でようやく諧謔、皮肉、認識の反転などの様子が見えてくる。

    たぶん3回目からが面白くなってくるし、
    役者の動きもそれぞれ変わるので、
    飽きさせない(何回も見れるように即興の余地を残しているし、
    そのために字幕と上手く合わないということもある。
    即興的な舞台は字幕と上手く合わないが、
    字幕のことばかり考えていると、
    きっちりと組みあがった舞台しかやってこないというこれもまた皮肉(苦笑

    何度見ても、最高だと思ったし、毎日観たいと思った。

    最近特に思うが、時代は逆行している。

    20世紀初頭にこそ、今現在の最先端はあると感じる。

    今あるものはそれら断片のつぎはぎでしかない。

    ポレシュとは言わないが、
    ウォルホールやバロウズのように
    すべての素材を分断してつぎはぎして自分たちの曲にのせた後は・・
    すべての始まりに手探りで帰還しなければならない・・。

    エンゲキが何をしなければならないかは、決まっているように思うのだけれど・・

    「アナクロと呼ばれることを恐れない」
    というようなことを主宰が言っていた。

  • 満足度

    なんだこりゃ
    《アンダルシアの犬》《戦艦ポチョムキン》の映像を使っているそうな。
    舞台の上に板で囲った小屋。この中で演技するのでよく見えない。
    天井から黒電話の受話器が沢山ぶらさがっていて字幕が見えない。
    直感的にわからないパフォーマンスというものの存在価値はあるとは私には言えない。
    日本で見ることができた海外の演劇では、アイルランドが傑出していたと思う。
    これが国際的な水準とはとても思えない。アナクロニズム。

  • 満足度★★★★★

    彼我の差を越えて
     ポーランド人の魂に焼きついた深い傷。それは、現代においても彼らの魂の奥底に滾るマグマである。独ソ不可侵条約後、東西を分割されたポーランドは、民族の土地を奪われ、喪失していたばかりではない。彼らは殲滅戦の対象だったのである。周知の通り、ナチ以降のドイツは、分轄領内でもユダヤ人を、ソ連は、矢張り分轄領内でポーランド人を殲滅しようとしたのだ。結果、この作品で描かれているように、人は存在し続ける為に、マネキンになった。即ち、人間が、マネキン化されたのである。言い換えれば、生きている人間は、人間としての所作を剥ぎ取られ、マネキンとして生きるしか無かったという状況を表しているように思われる。そこには、故失くして存在の根拠を奪われ、自らの土地に安住することも妨げられ、存在そのものが、アポリアと化した彼らの苦悩の歴史が読みとれよう。
     然し乍ら、演出家は、俳優が単にマネキンをマネキンとして演じることを潔しとしていない。マネキン化は、演技の死を意味するだろうからである。かれは、俳優が演じるマネキンが、人格を持つことを要求する。ここが、この演出家の優れた点である。その為に俳優達に演出家が望んだのは個々の俳優自らの方法論である。再度言うが、人格を持たない存在が、人格を持つことを要求したのである。俳優達は、これに見事に応えた。
    観ている自分は、始まる早々、役者が竹馬を履いているのではないか、と思うほど大きく見えて、彼らの力量を見せつけられた。(追記4.28)

    ネタバレBOX

     演出家は、俳優達が、役をどう解釈するかに任せるという方法を採っており、如何にもヨーロッパの自我対世界という世界認識をベースにした方法だとは思ったが、現代の日本人は、アジア的な汎主体性と欧米流の自我主体性の差異を見分けることのできる個人も増えてきているだろう。とは言っても、まだまだ、文化レベルの差異は大きいので、充分に理解したという納得感を持てる人はそこそこに留まる、歴史も歴史認識も異なる。カントールを想起させるような工夫が凝らされているので、日本の和歌の伝統にある、本歌取りなどのような輻輳化も見られる。言語の差も大きい。ポーランド語以外に、ラテン語、ドイツ語、ロシア語等も使われているので、ヨーロッパで、ヨーロッパ人に立ち混じって暮らした経験を持たない日本人には、難しい点が多々ある作品ではあろう。
     だが、彼我の差を埋める、舞台上に用いられている物にも注目したい。これらは、無機的なオブジェでは無い。様々な意味を仮託され、我々の死後も存在し続ける、不変の実体である。このことの不気味と救済のイマージュをも受け取って欲しい。そして、一つの物に仮託された複数のイマージュや意味も考えて欲しいのだ。そうすることによっても、この作品に込められた別の一面が、見えてこよう。
     今作は、我々の認識に応じて、様々な壁を越え、尚訴えかけてくる根本的なものを持つヴィヴィッドな作品である。例えば、ラストに近い所で再三登場する鳥のイマージュにも注目。何を意味するか、明らかであろう。同じ物が、別の事を意味していることもある。例を挙げれば、受話器だ。これは、鳥のイマージュ、烏のイマージュ、更には、共産党幹部の机上にいつもデンとして置かれた、電話でもある。その会話によって誰が、いつ、どんな形で粛清されたかも、当然のことながら想起させるのだ。また、今でも、米兵やイスラエル兵が、其々の占領地域で同じことをやっている、壁に書き込まれた、“ポーランド人が居ない・居る”、“ユダヤ人が居ない・居る”の表示の非人間性を暴くと同時に、「ユダヤ人が居る」と叫び、壁にその旨書き込んだ、ポーランド人を通して、絶滅の危機に立たされた人間一般についても、その想像力を働かせて観て欲しい。
     その想像力を働かせるに相応しい、濃密で深い舞台である。
  • 満足度★★★★★

    シンプルだけれど・・
    非常に示唆に富んだ作品。

    エイゼンシュタインくらいは観ておいた方が良いかも。

    きょうは初日だったけど、
    回を重ねるごとにもっと良くなるかもしれない、舞台も観客も。

    ポーランド語だけじゃなく
    最後の方はロシア語やドイツ語も入ってくる。

    そのことが余計にポーランド語を引き立てている気がした。

    アフタートークを聴いても、
    劇団のひとりひとりがポーランド語をはっきりと発音しているのが
    とても印象的だった。

    言葉を非常に愛しているように感じる。

    ポーランドの素晴らしさが詰まった舞台と言って良いと思う。

    出来たら一度観た後で予習してもう1~2回観た方が良いかも。

    自分もそうしまふ・・♨(苦笑

    土曜追記----

    アフタートークでポレシュへの反発があってようやくハッキリと分かった。

    この舞台は、きわめて「ポーランド語的」な舞台だと。

    ポレシュを写し鏡にしてようやく姿が見えてきた気がした。

    ポーランド語は学ぶ価値のある言語で、シュルツは世界で最高の作家のひとりであるという話もあった。

    自分もその話には大いに共感するところがあった。

    ドイツや日本よりは田舎かもしれないけれど、
    平原のただなかのポーランド語からは、
    ちょっとした文章のなかにも
    平坦さとは程遠い、奥深い森を思わせる迷宮のような言語の高層棟が見える。

    ゴンブロヴィッチのようなパラドキシカルな天才と、
    シュルツのように死を予感しつつ生への渇望を詠い上げる者とを、
    友情で結びつける何かがある
    (シュルツはユダヤ系だがユダヤ的というよりは遥かにポーランド的だ。
    このことだけを取ってみても、ポーランドが様々な要素を
    溶融しないままとり込める多様性をもった
    「世界的な」文化であることが読み取れると思う

    ドイツ語やロシア語や中国語なんかよりは遥かに金にならない言語だけれど、
    文化的には極めて豊かな言語であると思う(一応フランス語や英語より、とも言っておこう・・ペルシア語だと分からない気もするけど・・

    日曜もまた観てみたいな・・。

    ネタバレBOX

    メトロポリス(ラング)、ポチョムキン(エイゼンシュタイン)、アンダルシアの犬。

    あるいはヘーゲル、アインシュタイン、グルジェフなど。

    カバラにも触れられる。

    動きは、人形や舞踏や能の動きなどを取り入れたようでもある。

    亡きカントルを軸とした
    惑星系(こういう表現の仕方を見るとなんとなくグルジェフの名前が出てくるのもちょっと納得)
    の一つでもあるようだが詳しくは知らない(苦笑

    ゴーレムの名前が出てくると、
    ユダヤ人科学者が大挙して働いて盛り立てた
    ドイツ、アメリカ、ロシアなどの列強のことなのかななどと思ったりもしたり。

    中身が空だが、
    エネルギー(E=mc^2)で動く(だっけ?
    実在する殻。

    全体主義、ファシズムとは、
    最大限のガラクタ(粗悪品)に最大の価値を置く(最優先とする)
    ものだとするならば、
    政府の主張に愛国心の名の下に盲目的に従うことを美徳とする風潮は、
    ヒトラーのような明確な独裁者、偶像が存在しないだけで、
    ファシズム的と言って良いかもしれない。

    (分かりにくいけど、
    メトロポリスの市民のように盲目的に一つの流れに従って動く集団というのは
    勇敢だが容赦のないロシア兵やドイツ兵を思い出してしまう。
    軍隊的な強固な集団と言うのは、
    間違った理念に基づいて動く限りにおいては
    人間的にはガラクタの寄せ集めだということが言いたかったのではないのかな・・)

    海外の先鋭的な作品を上演する劇団は
    既に大体、反グローバリズム的な香りを発していると言っても良いかもしれない。

    この劇団は、
    そうした流れを逆に20世紀初頭までさかのぼって
    懐かしく甘いアコーディオンの響きにのせて
    表現するところが素晴らしい。

    自分が大好きな部類の舞台作品です(笑
  • 満足度★★★

    政治的なマネキン人形論
    ポーランドの劇団による3人芝居で、独特の湿っぽく暗くてグロテスクな雰囲気が印象的でした。

    原作を読んでいないので、どこからが脚色なのか分かりませんが、マネキン人形/物質/生命といった話題から次第に20世紀前半の戦争や独裁者達についての話になって行き、全体主義による人間のマネキン化という不気味なイメージが喚起されました。
    赤や黄色に変色されて奥の壁に映し出された、ブニュエル、チャップリン、エイゼンシュタインの映画が、物質/生命と、政治の2つのテーマを繋ぎ合わせていて興味深かったです。

    ガラクタを寄せ集めたかのような美術やアコーディオンで奏でられる寂しげな音楽、全体的に暗い照明がカビ臭さを感じるような古びた雰囲気を醸し出していて、逆に新鮮でした。
    「人間を演じるマネキン」を役者が演じる体裁となっていて、人形的なギクシャクとした動きで演じていたのですが、それがユーモラスに見えず、むしろ怖さを増していました。

    海外の前衛的な劇団の公演が字幕もありながら1000円で観られて、素晴らしい企画だと思います。字幕のオペレーションがかなり乱れていたのが残念でした。

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